大略篇第二十七(11)

By | 2016年1月13日
五十一
公行子(こうこうし)が燕国に行こうとするとき、途中で曾元(そうげん)と遇ったので、公行子は彼に「燕国の君主は、どんな人であるか?」と聞いた。曾元は答えた、「志が低いですね。志が低い者は、ものごとを軽んじます。ものごとを軽んずる者は、他人の助けを求めようとしません。いやしくも人の助けを求めようとしない者が、なんで賢者を登用することに思いを馳せるでしょうか?」と。

楊注は、公行子は『孟子』に表れる斉の大夫と言う(離婁章句下、二十八)。そして曾元は、孔子の弟子曾参(そうしん、曾子)の子と言う。しかし、公行子が『孟子』の登場人物と同一人物であるならば、それは孟子の同時代人であり、曾参の子とは時代が合いそうにない。あるいはここの曾元とは、曾参の一族の別人物なのであろうか。

五十二
氐(てい)・羌(きょう)の者たちは、捕虜となっても縛り上げられる痛みを気にすることなく、死後に火葬とされないことを憂慮する。彼ら蛮族はこのようにささいな利益を気にかけて大きな害を気にしないのであるが、それと同様に、ささいな利益が得られるだけで国家を衰亡させる大害があるようなことをあえて行う者たちは、どうして利害得失を知る知者といえるだろうか。いま、針を失って一日中探して見つからなかった者がいるとする。この者が他日にようやくこれを見つけたならば、それは目の視力が増したから見つかったのであろうか?そうではなくて、もっと目をこらして注意深く探した結果であろう。心と思慮との関係もまた同じであって、心のはたらきが自然に増すことなどありえないのであって、ただただ思慮を注意深く重ねることによってよき知を得ることができるのだ。

氐・羌は中華世界の西方、チベット高原付近に居住する民である。中華世界からは西戎(せいじゅう)と言われて、蛮族視されていた。増注は『列子』を引用して、秦国の西方に住んだ儀渠(ぎきょ)という国の民が火葬を行う習俗を持っていたことを指摘する。古代の中華世界は土葬していたので、この章のような荀子の発言となった。しかしこのような発言は、エスノセントリズム(自民族中心主義)として批判されなければならない。彼らにとって火葬されることは宗教的文化的に極めて重要なことであったはずであり、荀子が言うような秋毫(しゅうごう。ささいなこと)なことでは決してなかったはずである。

五十三
義と利の二つは、人がともに本来有しているものである。たとえ聖王の堯・舜といえども、人民が利を欲することを取り除くことはできない。そうではなくて、人民が利を欲する心が義を欲する心より上回らないように制御して治めたのであった。逆に悪王の桀・紂といえども、人民が義を欲することを取り除くことはできない。そうではなくて、人民が義を欲する心が利を欲する心より上回らないように仕向けたので世が乱れたのであった。ゆえに、義が利に勝つことが治世であり、利が義に勝つことが乱世である。人の上に立つ者が利を重んずれば、すなわち利が義に勝ってしまう。ゆえに天子は、貨財が多い少ないといったことを口に出すことをしない。その下の諸侯は、利益があるか害があるかといったことを口にしない。その下の大夫は、得があるか損失があるかといったことを口にしない。その下の士は、貨財の取引商売などを行わない。国を有する君主は、牛や羊を育てたりしない。いったん君主に仕えることを決めた家臣は、鶏や豚を育てたりしない。上卿は、家屋の修繕といったことは行わない。大夫は、農場の耕作といったことは行わない。そもそも士より上の朝廷人は、すべて利を恥じて人民と家業を争ったりしないのであり、貨財を人々に分け与えることを楽しんでこれを蓄蔵することを恥じるのである。このゆえに人民も貨財に窮乏することなく、貧しき者でさえ手に職を得て生計を立てることができるのだ。

論語里仁篇の「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」の語を、荀子の言葉で発展させた章というべきであろう。

五十四
文王は四国を誅伐しただけであった。その後を継いだ武王は、二者を誅伐しただけであった。その後を継いだ成王の摂政となった周公の時代になって天下平定の業は完成し、成王およびさらに次代の康王(こうおう)の時代には、とうとう誅伐は行われなかった。

仲尼篇の句とほぼ同じ。仲尼篇では「成康」を「成王」に作る。四国・二者の解釈については、仲尼篇を参照。

五十五
国庫に貨財を積んでそれが足りないことを恥じ、人民の任務を重視して任務に耐えられない者を処罰することは、人民の中に悪事がわき起こる原因であり、よって刑罰が多く行われる原因である。

《読み下し》
公行子の燕に之(ゆ)くや、曾元(そうげん)に塗(みち)に遇いて曰く、燕君は何如(いかん)、と。曾元曰く、志卑(ひく)し。志卑き者は物を輕んじ、物を輕んずる者は助を求めず。苟(いやし)くも助を求めざれば、何ぞ能く擧(あ)げん、と。

氐(てい)・羌(きょう)の虜となるや、其の係壘(けいるい)を憂えず、其の焚せられざるを憂うなり。夫(か)の秋毫(しゅうごう)を利して、害國家を靡(び)す(注1)、然も且つ之を爲すは、幾(あ)に計を知ると爲さん。今夫れ箴(はり)を亡う者、終日之を求めて得ず、其の之を得るは、目の明を益すに非ざるなり、眸(ぽう)して(注2)之を見ればなり。心の慮に於けるも亦然り。

義と利とは、人の兩(ふた)つながら有する所なり。堯・舜と雖も、民の利を欲するを去ること能わず。然り而して能く其の利を欲するをして、其の義を好むに克たざらしむるなり。桀・紂と雖も、亦民の義を好むを去ること能わず。然り而して能く其の義を好むをして、其の利を欲するに勝たざらしむるなり。故に義の利に勝つ者を治世と爲し、利の義に克つ者を亂世と爲す。上(かみ)義を重んずれば則ち義利に克ち、上利を重んずれば則ち利義に克つ。故に天子は多少を言わず、諸侯は利害を言わず、大夫は得喪を言わず、士は貨財を通ぜず。國を有つの君は、牛羊を息せず、質(し)を錯(お)く(注3)の臣は、雞豚(けいとん)を息せず、冢卿(ちょうけい)(注4)は幣(へい)を脩めず(注5)、大夫は場園を爲(おさ)めず、士從(よ)り以上は、皆利を羞(は)じて民と業を爭わず、分施を樂みて積藏を恥ず。然(こ)の故に(注6)民も財に困(くる)しまず、貧窶(ひんく)なる者も其の手を竄(い)るる所有り(注7)

文王四を誅し、武王二を誅し、周公業を卒(お)え、成・康に至りては、則案(すなわち)誅する無きのみ。

多く財を積みて、有ること無きを羞じ、民の任を重んじて能(た)えざるを誅す。此れ邪行の起る所以にして、刑罰の多き所以なり。


(注1)増注は、「靡は靡弊」と言う。靡弊とは、国力がおとろえること。
(注2)楊注は、「眸は眸(ひとみ)を以て之を審かに視る」と言う。
(注3)楊注は、「錯は置なり、質は読んで贄となす」と言う。贄(し)を錯(お)くとは、礼で君主に仕えるときに家臣が捧げ物を持参することを指す。よって、君主に家臣として仕えること。
(注4)楊注は、冢卿は上卿と言う。最上級の家臣。
(注5)楊注は、財幣を脩めて之を販息せざるを言う、と注する。すなわち、商売をしないという意に取る。集解の兪樾は『韓詩外伝』では本章の文を「冢卿は幣施を脩めず」に作ることを引いて、「幣」は「弊」の誤りであり、また「施」はまさに「杝」に作るべきであって「杝」は後世の「籬」字である、と言う。すなわち本章の「幣を脩めず」は『外伝』の「幣施を脩めず」の一字脱落であり、『外伝』の「幣施を脩めず」は「弊杝(籬)を脩めず」と読むべきである、と考証する。ならば、弊籬は破れた籬(まがき)のことであって、家屋の垣根が壊れたものを修繕するようなことはしない、という意味となるだろう。兪樾説を採用しておく。
(注6)集解の王念孫は、「然故はなお是故のごときなり」と言う。これに従い、「このゆえに」と読み下す。
(注7)集解の王先謙は、「其の手を竄るる所有りとは、なお手を措く所有るを言うがごときなり」と注する。手に就ける何らかの職があることを指す。

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