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解蔽篇第二十一(2)

かつて、人君において心が蔽われた者といえば、夏の桀(けつ)と殷の紂(ちゅう)であった。桀は末喜(ばつき)と斯觀(しかん)(注1)に心を蔽われてしまい、忠臣の關龍逢(かんりゅうほう)(注1)の価値を知ることができなかった。自らの心を惑わして、行いは乱れることとなった。紂は妲己(だつき)(注2)と飛廉(ひれん)(注3)に心を蔽われてしまい、賢人の微子啓(びしけい)(注4)の価値を知ることができなかった。これも自らの心を惑わして、行いは乱れることとなった。それゆえに群臣は忠勤を棄てて私事に走り、人民はこれを怨んでそしり、上の徭役をなすことを怠り、賢良の者は朝廷を辞官して野に隠れてしまった。これが、桀・紂が中華の九州(注5)の支配を失って、己の宗廟の国を滅亡させてしまった原因であった。すなわち桀は亭山(ていざん)に追われてそこで死に、紂は周の武王軍の赤旗に首をさらされることとなった。だが桀・紂は、自分が心が覆われていることに、とうとう最後まで気づくことがなかった。周囲の人もまた、そのことを諌めることがなかった。これが、心が蔽われ塞がれることのわざわいである。いっぽう湯王は桀を反面教師として、己の心をしっかりと正しく守って、慎んで心を治めた。これによって伊尹(いいん)(注6)を長年よく用い、自らは統治の正道を失わなかった。これが、湯王が夏王朝に代わって中華の九州を受け継いだ理由であった。また文王は紂を反面教師として、己の心をしっかりと正しく守って、慎んで心を治めた。これによって呂望(ろぼう)(注7)を長年よく用い、自らは統治の正道を失わなかった。これが、文王が殷王朝に代わって中華の九州を受け継いだ理由であった(注8)。こうして天下を受け継いだ者には、遠方から珍奇な産物が貢物としてどんどん運ばれてくる。ゆえに目には美色の極みを楽しみ、耳には美声の極みを楽しみ、口には美味の極みを楽しみ、身体は快適の極みである宮殿を楽しみ、名声は美称の極みを受け取り、生きている間は天下がこれを称えて歌い、死去したならば四海は悲しんで哭(な)くのである。これが、至盛(しせい)すなわち隆盛の極みというものである。詩には、この言葉がある。:

鳳凰、み空に舞い飛べり
その翼(つばさ)、竽(う)の型に似て
その声は、簫(しょう)の音(ね)に似て
ながむるみかど、こころたのしむ
(逸詩。原詩は伝わらない)

これが、心蔽われない王者の楽しみである。

かつて、人臣において心が蔽われた者といえば、唐鞅(とうおう)(注9)と奚齊(けいせい)(注10)であった。唐鞅は権力を欲することに心を蔽われてしまい、賢宰相の載子(たいし)(注11)を放逐してしまった。奚齊は国主となる欲に蔽われて、賢太子の申生(しんせい)(注10)を罪に追いやってしまった。結局、唐鞅は宋国で死刑となり、奚齊は晋国で暗殺されてしまった。だが両者とも、自分が心が覆われていることに、とうとう最後まで気づくことがなかった。これが、心が蔽われ塞がれることのわざわいである。ゆえに、下劣な貪欲、主君への謀反、権力争い、こういったことを行う者が己を危険に陥れ、己に恥辱を受け、己を滅亡させる結末とならなかったことは、古今にいまだかって存在したことがない。いっぽう鮑叔(ほうしゅく)・甯戚(ねいせき)・隰朋(しつぽう)(注12)は、その仁知が蔽われることがなかった。ゆえによく管仲を支持して、名利と福禄を管仲と分かち合ったのであった。また召公(しょうこう)(注13)と呂望もまた、その仁知が蔽われることがなかった。ゆえによく周公を支持して、名利と福禄を周公と分かち合ったのであった。言い伝えにはこの言葉がある、「賢人を知ることを、明察と言う。賢人を輔佐することを。有能と言う。これにひたすらに勉めるならば、必ずや福に永らえるであろう」と。これが、心蔽われない福なのである。

かつて、諸国を遊説徒食する者で心が蔽われた者といえば、邪説を立てる諸子百家の輩であった。すなわち墨子は実用主義に心が蔽われて、礼義の文飾が国家にいかに必要であるかを知らない。宋子(注14)は寡欲主義に心が蔽われて、生産して財貨を増やせば諸問題は解決するということを知らない。慎子(注14)は法家思想に心が蔽われて、賢人が国家にいかに必要であるかを知らない。申子(注14)は権勢の術に心が蔽われて、知者が国家にいかに必要であるかを知らない。恵子(注14)は詭弁術に心が蔽われて、言葉の奥にある実体が不変であることを知らない。荘子は天の無為自然に心が蔽われて、人間の成し遂げる力がいかに素晴らしいかを知らない。よって、墨子のように実用主義だけの視点をもってこれが正道だ、と言うことは、目先の便利さを追っているだけなのだ。宋子のように寡欲主義だけの視点をもってこれが正道だ、と言うことは、己の寡欲に自己満足する道を追っているだけなのだ。慎子のように法だけの視点をもってこれが正道だ、と言うことは、システムの統御術を追っているだけなのだ。申子のように権勢の術だけの視点をもってこれが正道だ、と言うことは、国家の能率を追っているだけなのだ。恵子のように詭弁術だけの視点をもってこれが正道だ、と言うことは、ひたすら空論を追っているだけなのだ。荘子のように天の無為自然だけの視点をもってこれが正道だ、と言うことは、放任して傍観する道を追っているだけなのだ。これらの考えは、いずれも真の正道のごく一部を語っているにすぎない。しかし真の正道というものは、常に恒常不変の実体を持ちながら、しかも全ての変化を言い尽くすものでなければならない。上の諸子百家たちのように真の正道のごく一部を語っているにすぎないものでは、万物を言い尽くすにはぜんぜん足りない。だがこのような偏った知識しか持たない者は、真の正道の一部だけは確かに見ているのであるが、(真の正道の全体図を分かっていないから、)その一部ですら完全な理解に届いていない。それで、不十分な理解なのにこれで十分だと切り上げて、後は文辞で飾り立てるのである。心中は不完全な理解ゆえに混乱に陥っていて、外に対しては人を惑わす説を撒き散らすのである。このような知識を人の上に立つ者が持てば、下の者の心まで蔽ってしまうだろう。また下にある者がこのような知識にかぶれるならば、上に立つ者の心を蔽ってしまうだろう。ただ孔子だけが仁知であり、心が蔽われないのである。ゆえに雑多な学術(注15)を学びながらも、ついに上達してわが国の文明を建てたいにしえの先王たちの原理を習得するに到ったのである。孔子の後を慕う儒家だけが、普遍的な真の正道を理解できるのであり、儒家の道を徹底的に究めることによって、流布しているもろもろの諸説に惑わされずに済むのである。ゆえに孔子の徳は周公に等しく、孔子の名声は禹・湯・文・武の聖王たちに並ぶのである。これが、心が蔽われない福なのである。


(注1)末喜は桀の妃。桀はその美色を寵愛して、政治を怠るようになったという。斯觀を楊注は未詳であり、けだし桀の佞臣であろうと言う。關龍逢は、桀を諌めたが用いられず捕らえて殺されたという。
(注2)妲己は紂の妃。紂もまたその美色を寵愛して、政治を怠るようになったという。このように桀と紂はほとんど同型のエピソードによって悪評が作られており、そのどちらか、あるいは両方ともにフィクションが大きく入っていることを印象させる。
(注3)飛廉は息子の悪来(あくらい、おらい)と共に紂に仕え、飛廉は足の速さで、悪来は怪力で仕えたという。『史記』秦本紀によると、武王が紂を討ったとき、悪来も殺した。しかしそのとき飛廉(史記では蜚廉)は北方に使いに行っており、死を免れた。飛廉は西方の秦の地を領有しており、秦国の祖先である。
(注4)微子啓は紂の庶兄で、紂を諌めて聞かれず野に下った。武王が紂を討った後にこれに仕え、殷の祭祀を継いで宋国の創始者となった。
(注5)原文「九牧之地」。いにしえの聖王の禹は、中華を九州に分けたという。それぞれに「牧」すなわち知事を置いたので、九牧と言う。
(注6)伊尹は湯王に仕えた賢人。『孟子』萬章章句上、七参照。
(注7)呂望は太公望呂尚のこと。文王・武王の軍師であり、斉国の開祖。
(注8)正確には、殷を亡ぼして周王朝を建国したのは、文王の後を継いだ武王である。
(注9)楊注は、唐鞅は宋の康王の臣という。唐鞅の名は『呂氏春秋』『論衡』に宋王の臣としてあらわれる。ところが『史記』の系譜に康王の名はあらわれない。宋国で王を名乗ったのは滅亡時の君主であった宋王偃(えん)だけである。下の注11で記した載子の考証から見れば、唐鞅は宋王偃、あるいはその前の君主であった剔成(てきせい)の時代の悪臣だったのであろう。康王というおくり名は、宋王偃が剔成に遡って王号を贈ったか、あるいは宋王偃の死後に宋の遺臣がおくり名を付けたか、どちらかである可能性がある。
(注10)奚齊は、晋の献公とその寵妃である驪姫(りき)との間の公子。献公の太子は申生であったが、奚齊に後を継がせたい驪姫の讒言に会って自殺した。奚齊は父の献公が死去したとき、その喪中に家臣によって殺された。献公の後はその別の子の恵公が継ぎ、その死後は献公のまた別の子である文公が継いだ。文公は斉の桓公に次ぐ覇者となり、両者あわせて「斉桓・晋文」と呼ばれて覇者の代表格とされる。以上が『史記』晋世家に書かれた経緯であり、申生を死に追いやったのはまだ若年であった奚齊の罪というよりは、その母の驪姫の罪である。
(注11)載子について楊注は、『孟子』滕文公章句下、六に出てくる戴不勝(たいふしょう)、および『韓非子』内儲説上下篇にある戴驩(たいかん)の二候補を挙げ、その時代に拠ればまさに戴驩たるべし、と言う。
(注12)鮑叔は桓公の傳(ふ。教育係)。管仲の親友であり、鮑叔は桓公の家臣となり管仲は桓公と斉の候位を争った公子糾の家臣となった。両者の抗争は桓公の勝利となって、管仲は罪を受けて捕らえられた。桓公は鮑叔を自らの宰相に上げようとしたが、鮑叔は管仲こそ天下を取らせる人材である、とあえて桓公に勧めた。桓公はこれを容れて管仲は罪を許され、以降桓公の下で宰相に昇った。甯戚・隰朋は桓公の大夫。宰相となった管仲の下で、よく働いたという。
(注13)召公は周の同族で、燕国の開祖。武王の後を継いだ成王の時代、周公は国の東半分を、召公は国の西半分を統治した。
(注14)宋子は宋鈃(そうけい)。正論篇(7)以下を参照。慎子は慎到(しんとう)。申子は申不害。両者は王制篇(1)のコメントを参照。恵子は恵施(けいし)。荘子の友人で、詭弁家。『荘子』に何度か現れて荘子と論争する。
(注15)原文「亂術」。増注の久保愛は、「下学上達の意」と言う。「下学上達」は、『論語』憲問篇にある。雑多なことを学んで、しだいに高級な原理の理解に達すること。孔子が常の師を持たず多芸であったことは、『論語』子罕篇で達巷党の人が「大なるかな孔子、博く学びて、名を成す所なし」と評価したエピソードや、同じ子罕篇で呉の大宰が「夫子は聖者か、何ぞ其れ多能なる」と言ったエピソードにも表れている。
《原文・読み下し》
昔人君の蔽わるる者は、夏の桀・殷の紂是れなり。桀は末喜(ばつき)・斯觀(しかん)に蔽われて、關龍逢(かんりゅうほう)を知らず、以て其の心を惑わして、其の行を亂る。紂は妲己(だつき)・飛廉(ひれん)に蔽われて、微子啓(びしけい)を知らず、以て其の心を惑わして,其の行を亂る。故に羣臣は忠を去りて私を事とし、百姓は怨非(えんぴ)して用せず、賢良は退處(たいしょ)して隱逃(いんとう)す。此れ其の九牧(きゅうぼく)の地を喪いて、宗廟の國を虛しくする所以なり。桀は亭山(ていざん)(注16)に死し、紂は赤旆(せきはい)に縣る。身先ず知らず、人又之を諫むること莫し。此れ蔽塞の禍なり。成湯は夏桀に監(かんが)み、故に其の心に主として愼んで之を治(おさ)む。是を以て能く長く伊尹(いいん)を用いて、身は道を失わず。此れ其の夏王に代わりて九有を受くる所以なり。文王は殷紂に監み、故に其の心に主として愼んで之を治む。是を以て能く長く呂望を用いて、身は道を失わず。此れ其の殷王に代わりて九牧を受くる所以なり。遠方其の珍を致さざること莫し。故に目は備色を視、耳は備聲を聽き、口は備味を食い、形は備宮に居り、名は備號(びごう)を受け、生きては則ち天下歌い、死しては則ち四海哭(こく)す。夫れ是を之れ至盛と謂う。詩に曰く、鳳凰秋秋、其の翼干(う)(注17)の若く、其の聲簫(しょう)の若し、鳳有り凰有り、帝の心を樂ましむ、とは、此れ蔽われざるの福なり。
昔人臣の蔽わるる者は、唐鞅(とうおう)・奚齊(けいせい)是れなり。唐鞅は權を欲するに蔽われて載子(たいし)を逐い、奚齊は國を欲するに蔽われて申生(しんせい)を罪す。唐鞅は宋に戮(りく)せられ、奚齊は晉に戮せらる。賢相を逐いて孝兄を罪し、身刑戮(けいりく)と爲る。然り而(しこう)して知らず、此れ蔽塞の禍なり。故に貪鄙(たんぴ)・背叛・爭權を以て危辱・滅亡せざる者は、古(いにしえ)自(よ)り今に及ぶまで、未だ嘗て之有らざるなり。鮑叔(ほうしゅく)・甯戚(ねいせき)・隰朋(しつぽう)は仁知にして且つ蔽われず、故に能く管仲を持して、名利・福祿は管仲と齊(ひと)し。召公(しょうこう)・呂望(りょぼう)は仁知にして且つ蔽われず、故に能く周公を持して名利・福祿は周公と齊し。傳に曰く、賢を知るを之れ明と謂い、賢を輔(たす)くるを之れ能と謂う、之を勉め之を强(つと)むれば、其の福必ず長し、とは、此を之れ謂うなり。此れ蔽われざるの福なり。
昔賓孟(ひんもう)(注18)の蔽わるる者は、亂家是れなり。墨子は用に蔽われて、文を知らず。宋子は欲に蔽われて、得を知らず。愼子は法に蔽われて、賢を知らず。申子(しんし)は埶(せい)に蔽われて、知を知らず。惠子(けいし)は辭に蔽われて、實を知らず。莊子は天に蔽われて、人を知らず。故に用に由りて之を道と謂うは、利を盡(つく)すのみなり。俗(よく)(注19)に由りて之を道と謂うは、嗛(きょう)を盡すのみなり。法に由りて之を道と謂うは、數(すう)を盡すのみなり。埶に由りて之を道と謂うは、便を盡すのみなり。辭に由りて之を道と謂うは、論を盡すのみなり。天に由りて之を道と謂うは、因を盡すのみなり。此の數具の者は、皆道の一隅なり。夫(か)の道なる者は、常を體して而(しか)も變を盡す、一隅以て之を舉ぐるに足らず。曲知の人は、道の一隅を觀るも、猶お未だ之を能く識らざるがごときなり。故に以て足れりと為して之を飾り、內は以て自ら亂り、外は以て人を惑わす。上は以て下を蔽い、下は以て上を蔽う。此れ蔽塞の禍なり。孔子は仁知にして且つ蔽われず。故に亂術(らんじゅつ)を學んで以て先王を爲(おさ)むるに足る者なり。一家のみ周道を得、舉げて之を用う。成積に蔽われざればなり。故に德は周公と齊しく、名は三王と並ぶ。此れ蔽われざるの福なり。


(注16)集解の王念孫は楊注の或説を是として「亭山」は「鬲山」である、と言う。しかし増注の久保愛は『竹書紀年』に「殷湯二十年夏桀卒亭山」とあることを引いて、亭山は誤りでない、と言う。久保説を支持する。
(注17)この詩は逸詩であって、現行の『詩経』にない。「干」について楊注は「楯」なり、と言う。猪飼補注は、「干」は「竽」に作るべし、と言う。逸詩であり他に参照するべき注釈がないので、最も古い楊注は尊重されるべきである。しかしながら、「竽」すなわち笙(しょう)の一種で「鳥翼に象る」笛である、と解釈する猪飼説は非常に説得力がある。よって、あえて猪飼説を取る。
(注18)「賓孟」を楊注は周景王の佞臣と言うが、集解の兪樾は人名ではなく、「孟」は「萌」となすべしと言い、「賓萌」は戦国時に諸侯の国を往来する遊士のこと、と言う。これに従う。
(注19)「俗」は明らかに「欲」である。

蔽われた心を持った君主、家臣、思想家たちを挙げる。最後に諸子百家をすべて蔽われた心の持ち主として批判して、ただ一人孔子だけを蔽われなかった思想家として激賞する。荀子は儒家だからこのように言うのであるが、「孔子がどうして蔽われない思想家なのか?」と問えば、荀子は「孔子は、いにしえの先王の道を説いたからだ」と答えるであろう。では、「いにしえの先王の道は、どうして蔽われない思想家だけが見出すことができるのか?」と問えば、荀子は「それが中華世界を統治できる唯一の道であり、歴史上この道を理解した者だけが統治に成功したからだ」と答えるであろう。その道とは、これまでにも検討したように、礼法に基づく法治官僚国家である。だがそれは歴史的に言えばおそらく正しくなく、王を頂点とした官僚国家は、中国では荀子の時代の戦国時代になってはじめて現れたはずである。戦国時代に入る前の春秋時代より以前の中華世界は、むしろ部族国家の範疇に入っていたと思われる。部族国家とは、君主と家臣の貴族たちが対等の同族として仲間意識を持って運営される国家である。部族国家において君主は絶対的な権力者ではなく、潜在的には同族間の第一人者として祖先神の祭祀を行うにすぎない。そのために、君主の宗教的な権威が衰えた春秋時代は、下克上が頻発したのであった。その下克上が収束して専制君主と官僚との支配―被支配の絶対的上下関係が現れたのは、戦国時代のことであった。

荀子の主張が歴史的には正しくなかったとしても、荀子の時代に中華を統一する国家を構想する場合ならば、荀子の案がやはり妥当であった。それは、荀子の構想する中華帝国が彼の生きた時代の直後に始皇帝によって開始され、以降二千年間中華世界で維持され続けたことが例証する。法治官僚国家が現実として最も妥当な統治法であることは、認めてもよい。しかし、人間の社会はそれだけでよいのだろうか。さきの柄谷行人氏の用語を再度用いるならば、「略取―再分配」の垂直的な交換様式だけに、人間は依存してよいのだろうか?人間同士の水平的な「互酬」の交換様式について、荀子は重視するところが少ない。むしろ孟子のほうが、君子が個人として他人にどのような善をなすべきか、というテーマに正面から取り組んでいて、水平的な「互酬」の交換様式のあり方を示唆する面を多く持っている。

解蔽篇第二十一(3)

聖人は、心を治める術の困難を知り、心が蔽われて塞がれることのわざわいを直視する。ゆえにその心は、欲にも憎悪にも傾かず、始まりの時点でも終わりの時点でも変化することなく、身近なものでも疎遠なものでも差をつけずに観察し、豊富な知識を持っている対象でもあまり知識のない対象でも同様に観察し、昔の出来事でも今起こっている出来事でも同一のものとして観察し、万物をあわせ連ねて、その中庸点に立って、はかりで計るように比較考量するのである。この明知あるゆえに、万物がどんなに多様であっても、聖人の判断は蔽われず、その倫理基準は乱れることはない。では、何をもって量る基準とするのか。それは、正道によってである。ゆえに、聖人の心は必ず正道を知っている。もし心が正道を知らなければ、心は正道を不可として非道を可としてしまうだろう。およそ人というものは、自分の望むとおりに行おうとするものであり、自分が嫌いだと思うものは守ろうとせず、自分が好きだと思うものは禁じようとしない。いま正道を嫌う心をもって人を招いたならば、結果は必ず正道から外れた人間だけが馳せ参じて、正道に沿った人間はやって来ないだろう。正道を嫌う心をもって正道から外れた人間といっしょに正道に沿った人間を論じるのは、これは乱の本である。こんな状態で、どんな正しい知見が得られるというだろうか?むしろ心が正道を知って、しかるのちに正道を良しと認めることができる。正道を良しと認めることができて、しかるのちに身をもって正道を守り、非道を禁ずることができる。正道を良しとする心をもって人を招いたならば、正道に沿った人間が馳せ参じて、正道から外れた人間はやって来ないだろう。正道を良しとする心をもって正道に沿った人間といっしょに正道から外れた人間を論じるのは、治の肝要である。いま自分に知識が足りないことなどは、憂うに値しない。治の肝要は、まずは正道を知るところにあるのだ。(正道を知れば、正道に沿った人材はおのずから集まるのである。)

では、人は何によって正道を知ることができるのだろうか?それは、心である。では、心はどうやって正道を知るのであろうか?それは、「虚壱(きょいつ)にして静(せい)」によってである。心は、常に概念によって満たされている。しかしながら、心にはいわゆる「虚」がある。心は、常に相反する多様な考えをごたまぜに抱えている。しかしながら、心にはいわゆる「一(壱)」がある。心は、常に動いている。しかしながら、心にはいわゆる「静」がある。人は、この世に生まれると知覚を持つ。知覚は、記憶を作る。記憶は、心中を満たす概念である。しかしながらそこにいわゆる「虚」があるというのは、すでに持っている記憶された概念にこれから受け取ろうとする新しい情報を乱させないようにするのである。この既存の記憶に捉われない心の状態を、「虚」というのである。心は、生まれると知力を持つ。知力は、ものごとの差異を区別する。差異によって二つに区別された対象を、心は同時に知覚する。差異あるものを同時に知覚するのは、相反する概念を同時に見て迷ってしまうことである。しかしながらそこにいわゆる「一(壱)」があるというのは、片方の概念によってもう片方の概念を乱させないようにするのである。この対立する概念が整理された心の状態を、「一(壱)」というのである。心は、寝ているときは夢を見る。これを怠けさせれば、勝手気ままにさまよってしまう。これを働かせれば、一つのことをどんどん行う。ゆえに、心は常に動いているのである。しかしながらそこにいわゆる「静」があるというのは、夜中の夢や昼間の雑多な出来事に己の知を乱させないようにするのである。この雑音に惑わされない確かな知を、「静」というのである。もしここにいまだに正道を得られず正道を求めようと渇望している者がいたら、「虚壱にして静」の方法を告げるがよい。正道に従う者は、心が「虚」ならば新しい情報がすぽすぽと入ってくる。正道に専念する者は、心が「壱」ならば迷わずやり遂げることができる。正道は何かと考えを巡らす者は、心が「静」ならば雑念なく正道を洞察することができる。正道を知って明察をはたらかせ、正道を知って正しく行動できる者は、正道を身に付けた者ということができるだろう。「虚壱にして静」を達成できた者は、「大清明(だいせいめい)」の者と言うべきである。大清明の者は、万物をことごとく形として認識することができて、認識した対象をことごとく定義して論じることができて、論じたものをことごとく世界内の正しい位置に配置することができる。こうして部屋の中にいながらにして四海を見ることができ、現在にいながらにして久遠の過去を論じることができ、万物をざっと観察してその特性を知り、天下の治乱興亡の軌跡を通観して治乱の法則に通じる。この大知識をもって、天地を経営して万物を利用し、大いなる道理により裁断することによって、宇宙全体は手の平の上にあるかのようにこれを統御できるのである。その知は、広大ではないか。広すぎて、果ては誰にも分からない。その徳は、高明ではないか。高すぎて、誰にも真似できない。その知は、潤沢ではないか。豊かすぎて、誰も理解し尽くせない。その明は、日月のようではないか。偉大にして、天下四方を満たす。これが、大人(たいじん)(注1)の心である。ここまでの心であれば、蔽われることなどありはしない。


(注1)大人(たいじん)は、孟子では完成された君子、といった意味合いで用いられる。荀子のここでの「大人」も、同様の用法であろう。
《原文・読み下し》
聖人は心術の患を知り、蔽塞の禍を見る。故に欲と無く惡(お)と無く、始と無く終と無く、近と無く遠と無く、博と無く淺と無く、古と無く今と無く、萬物を兼陳(けんちん)して、中に衡を縣く。是れ故に衆異も相蔽(おお)いて以て其の倫を亂ることを得ざるなり。何をか衡と謂う。曰く、道なり。故に心は以て道を知らざる可からず、心(こころ)道を知らざれば、則ち道を不可として非道を可とす。人孰(たれ)か恣(し)を得んと欲して、其の不可とする所を守り、以て其の可とする所を禁ぜんや。其の道を不可とするの心を以て人を取れば、則ち必ず不道人(ふどうじん)に合して、道人(どうじん)に[知]合せず(注2)。其の道を不可とするの心を以て不道人と道人を論ずるは、亂の本なり。夫れ何を以て知ならんや。曰く、心(こころ)道を知りて然る後に道を可とし、道を可として然る後に能く道を守り、以て非道を禁ず。其の道を可とするの心を以て人を取れば、則ち道人に合して、不道の人に合せず。其の道を可とするの心を以て道人と非道を論ずるは、治の要なり。何ぞ知ならざるを患(うれ)えんや。故に治の要は道を知るに在り。
人は何を以て道を知るや。曰く、心をもってす。心は何を以て知るや。曰く、虛壹(きょいつ)にして靜なるをもってす。心未だ嘗て臧(ぞう)せずんばあらざるなり、然り而(しこう)して所謂(いわゆる)虛(きょ)有り。心未だ嘗て滿(もん)(注3)ならずんばあらざるなり、然り而して所謂一(いつ)有り。心未だ嘗て動かずんばあらざるなり、然り而して所謂靜(せい)有り。人は生じて知有り、知ありて志有り、志なる者は臧なり、然り而して所謂虛有り。已(すで)に臧する所を以て將(まさ)に受けんとする所を害せず、之を虛と謂う。心生じて知有り、知ありて異有り、異なる者は同時に之を兼知す。同時に之を兼知するは兩なり、然り而して所謂一有り。夫の一を以て此の一を害せず、之を壹と謂う。心臥(ふ)すれば則ち夢み、偷(とう)すれば則ち自ら行き、之を使えば則ち謀る。故に心は未だ嘗て動かずんばあらず、然り而して所謂靜有り。夢劇(むげき)を以て知を亂らざる、之を靜と謂う。未だ道を得ずして道を求むる者は、之に虛壹にして靜なるを謂(つ)ぐ(注4)。[之を作(おこな)えば則ち](注5)將(は)た道に須(したが)う(注6)者は、之れ虛なれば則ち人(い)り(注7)、將た道を事とする者は之れ壹なれば則ち盡(つく)し、將た道を思わん者は靜なれば則ち察す。道を知りて察し、道を知りて行うは、道を體する者なり。虛壹にして靜なる、之を大清明(だいせいめい)と謂う。萬物は形して見(あら)われざること莫く、見われて論あらざること莫く、論ありて位を失うこと莫し。室に坐して四海を見、今に處にして久遠を論じ、萬物を疏觀(そかん)して其の情を知り、治亂を參稽(さんけい)して其の度に通じ、天地を經緯(けいい)して萬物を材官(さいかん)し、大理を制割して宇宙裏(か)す(注8)。恢恢(かいかい)にして廣廣(こうこう)、孰(たれ)か其の極を知らん、睪睪(こうこう)にして廣廣(こうこう)(注9)、孰か其の德を知らん、涫涫(かんかん)にして紛紛(ふんぷん)、孰か其の形(けい)(注10)を知らん。日月に明參(めいさん)し、大は八極に滿つ。是を之れ大人と謂う。夫れ惡(いずく)んぞ蔽わるること有らんや。


(注2)集解の兪樾は、「知」字は衍と言う。
(注3)楊注は、「滿」は「兩」なり、と言う。新釈の藤井専英氏は、「滿」は「懣」に通ずると言う。ごたごたしている貌。藤井説に従う。
(注4)新釈の藤井専英氏は、「謂」は「つげる」である、と謂う。これに従う。
(注5)原文「作之則」。楊注は、この義未詳にしてあるいは恐らく脱誤あるのみ、と言う。前後に何らかの文が脱誤していると思われる。新釈の藤井専英氏はとりあえず後の文とつなげて読み、漢文大系は衍字とみなして全く読まない。金谷治氏は荻生徂徠説を取り、「則」を「のり」と読んで前の文につなげ、「之が則(のり)と作(な)さしむ」と読んでいる。論者各説の開きが大きいので、訳ではあえて読み飛ばすことにする。
(注6)漢文大系は「須」を須用といい、「もちいる」と訓じる。新釈の藤井専英氏は金谷治氏を引いて、「須」は「順」であると言う。したがう。金谷・藤井説に従う。
(注7)増注は、「人」は「入」に作るべしと言う。
(注8)楊注は「裏」は「理」たるべし、と言う。増注は、「裏」は恐らく「裹(か)」の誤りと言う。楊注ならば整理する、という意となり、増注ならばつつみこむ、という意となるだろう。増注を取る。
(注9)集解の顧千里は、「廣廣」が上文に重なっているので、後の「廣廣」は「曠曠」と読む、と言う。あきらか。
(注10)集解の顧千里は、「形」は韻を踏まず、疑うは「則」に作るべしと言う。すなわち「恢恢廣廣」以下の文は韻文形式となっていて、「極」「徳」「極」で押韻されているので、「形」では韻が合わず「則」ならば韻が合う、ということである。しかし三聯目の韻をあえて外したかもしれないので、原文のままにしておく。

解蔽篇は、ここから聖人が蔽われない正しい認識を持つために心を制御する方法が、延々と語られていく。すべて議論は連続しているのであるが、非常に長大なために適宜区切って読んでいくことにしたい。増注の久保愛が言うように、孟子の文は「夷」すなわち大雑把であり、荀子の文は「奇」すなわち怪説である(増注序)。我々日本人の漢文への接し方は、論語とか孟子とか老子とか孫子とか、簡潔な格言の書を愛好する。その短い語句の言外の意味を大いにふくらませて補い、味わい尽くすというやり方である。いっぽう西洋の書物への接し方は対照的で、マルクスとかヘーゲルとかM.ヴェーバーとかフロイトとか、長大な論文を意味深い内容を持つと尊重して大汗をかいて読み込もうとする。だが『荀子』のような漢文でありながら長大な論文は、日本人のあまり愛好するところではない。

荀子の言う「虚壱(きょいつ)にして静(せい)」は、朱子学の居敬窮理(きょけいきゅうり)の説と何と似ていることか。しかし両者ともに心の中で正道を抽象した結論は、歴史的中華世界にしか通用しない倫理なのである。M.ヴェーバーは『社会科学および社会政策の認識の「客観性」』において、倫理的な価値観は文化において多様であることを認める。その対照例として、ヨーロッパと中国を取り上げる。

ヨーロッパ人の倫理的な訓えにたいしては、中国人が「服従」しないことがあるし、またかれはその理想そのものとその理想からうまれる具体的な評価のしかたをこばむことができるし、またたしかにそれをこばむことが多いであろう。
(出口勇三訳)


ヴェーバーは、それを認めた上で、社会科学において客観的であることとは、ある政策を政府が実施したらそれが社会に与える影響は量的・質的にこのようなものである、という因果関係の法則を抽出し、それを示すところにあると言う。言い換えれば規範的(normative)な価値観を問題にするのではなく、実証的(positive)な因果関係を検討するのが客観的な社会科学である、と言う。「社会諸科学の領域で方法的に正しい科学的な証明がおこなわれて、もしそれがその目的を達成したと主張されるのであれば、それは、中国人がみても、正しいと承認をあたえるものでなければならない。」(出口訳)

だから、荀子や朱子学の真理獲得法の意義は、歴史的中国社会において価値観を確定する、という点にあったが、時代と文化を異にする社会においても通用する保障はない。実際、荀子や朱子学が正道として抽象した原理は、二十一世紀の世界において正道とはいえない。この解蔽篇における荀子の正道を得る思索の試みの意義は、彼の時代において統一中華帝国の構想を明示する、という実践的意義があったことに限られる。

解蔽篇第二十一(4)

この心というものは、身体の統制者にして、理性判断(注1)の主体である。心は自ら命令を出すのであって、心の外部から命令を受けることをせずにそれを行う。すなわち心が自らの意志で禁止し、自らの意志で活用し、自らの意志で手放し、自らの意志で獲得し、自らの意志で行き、自らの意志で止まる。ゆえに、口は強要すれば黙らせたりしゃべらせたりすることもできる。身体は強要すれば屈ませたり立たせたりすることもできる。しかしながら、心は強要して意思を変えさせたりはできないのである。心がよいと判断すればこれを受け、心がだめだと判断すればこれを退けるのである。ゆえに、このような言葉がある、「心の中というものは完全に自由な選択をする状態であって、先天的にこれを禁止するようなものはない。心は、自らの力で必ず全てのものを写し取って見る。なので、写し取られた外部の対象は雑駁である。しかしながら、心がそれらを選択する作用を窮めれば、認識が二つにぶれることはなくなる」と。『詩経』に、この言葉がある。:

巻耳(けんじ)采(と)り采(と)る
傾筐(てかご)に満たぬ
賢者はおらぬか、朝位に付けたし
周の朝位は、賢者がおらぬ
(周南、巻耳より)

傾筐(てかご)を満たすこと自体は、たやすいことだ。巻耳(けんじ)(注2)を得ることも、たやすいことだ。しかそれらのことは、周の朝位を思うことと併行してできないのだ。ゆえに、「心があちこちに分裂していては、知は得られない。心が偏った考えに蔽われていては、正しい取捨選択ができない。心が二つのことにぶれていては、疑惑してしまう」と言うのである。この言葉をよく噛み締めて明晰に内省するならば、外界の万物をことごとく同時に正しく認識できるのである(注3)。その正しい認識に従って己の身がなすべきことをとことんまで尽くせば、美しい完成を見ることができるだろう。同類に分類されるべき諸物は、その共通概念が二つにぶれなようにしなければならない(注4)。ゆえに、知者は唯一の正解なる判断を選択して、心を統一するのである。農夫は農業については詳しいが、治田(ちでん)などの農政官僚(注5)になることはできない。商人は市場については詳しいが、治市などの市場政策を行う官僚(注5)になることはできない。工人は器物制作について詳しいが、工師などの工民管理政策を行う官僚となることはできない。これら三者は、個別の物に詳しいにすぎない。しかしこれら三つの技能を持たずとも、農政・市場政策・工民管理政策の三官を治めることができる人間がいる。それは、統治の正道に詳しいから可能なのである。物に詳しい人間は、個別の物を物として処理するにとどまる。しかし統治の正道に詳しい人間は、全ての物を物として統括できる。ゆえに君子は正道に心を統一させることによって、万物を明晰に内省して明察できるのである。正しい意志をもって明察に論ずるならば、万物に対して正しい位置づけを与える明知が得られる。むかし、舜帝が天下を統治したやり方は、いちいち事務の詳細を配下に告げることをしなかった。しかしながら、天下の万物は見事に制御されたのであった。

心を統一することがまだ不安定であれば、心中の意志は大いに充実していたとしても(注6)、その中は多様に入り乱れていていつ崩れるか分からない。しかし心をよく養って安定させることができたならば、心中の意志は大いに充実していながら(注6)、そのことに気づくことすらない不動心の境地に至るのである。経典(注7)にこの言葉がある、「人の心は不安定であるが、正道に従った心は安定する」と。安定・不安定の境目は、ただ明察の君子となって後に知ることができるのである。ゆえに、人の心はたとえるならば水盤に張られた水のようなものである。静かに置いて動かすことがなければ、不純物は下に沈んで上澄みだけが上に留まる。これならば、鬚(ひげ)や眉(まゆ)の毛も写すことができるし、肌の目も写すことができる。しかしここに一陣の微風が通り過ぎれば、下の不純物が動いて上澄みが上で乱れ、大きな物体の姿すら写すことができなくなるであろう。心もまた、このようなものである。ゆえに、心を理性によって導き、清明な意志によってこれを養い、物に対する歪んだ見方で心を傾けることをしなければ、是非を定めることが可能となるし、疑問を裁決することが可能となる。だがほんの小さな物ですら心を乱したならば、その効果はたちまち現れて端正であった外形は変化してしまい、心中は傾いてしまい、心はおおまかな事すら裁決できなくなってしまうだろう。だからこの世に書を好む者は多いが、倉頡(そうけつ)(注8)だけが有名である。倉頡は、心を統一することができたからである。この世に農事を好む者は多いが、后稷(こうしょく)(注9)だけが有名である。后稷は、心を統一することができたからである。この世に音楽を好む者は多いが、夔(き)(注10)だけが有名である。夔は、心を統一することができたからである。この世に義を好む者は多いが、舜だけが有名である。舜は、心を統一することができたからである。倕(すい)は弓作りに、浮游(ふゆう)は矢作りに、羿(げい)は射術に詳しかった。奚仲(けいちゅう)は車制の制定に、乗杜(じょうと)は馬車作りに、造父(ぞうほ)は御者術に詳しかった(注11)。このようにいにしえから現代に至るまで、二つのことを追ってそれに詳しくなった者などは、いないのである。曾子(そうし)(注12)はこう言った、「合唱のための指揮棒を見て、『これはネズミ叩きに使える』などと考えるような輩とは、私はともに合唱の修練をすることはお断りだ!」と。とある洞窟の中に隠棲していた人間があった。その名を、觙(きゅう)と言った。この者は、透視術の達人であり、このためによく想念することを好んだ。だが彼は耳と目に欲望を誘発するものを見聞きしてしまうと、想念が破れてしまった。また蚊や虻(あぶ)の羽音が聞こえると、精神が集中できなかった。なので彼は見るもの聞くものの欲望から遠ざかり、蚊や虻からも遠ざかって、静かに黙考すればその術は冴え渡った。では、仁を思うことがこの觙のようであれば、心が安定しているといえるだろうか?いや、そうではないだろう。孟子は、妻の無礼を見て、これを離縁しようとした(注13)。これは、礼を守ることによく努力したとはいえるだろう。しかしながら、これでは觙のようによく思考した者には及ばない。有子(注14)は、眠気を退散させようとして手の平を焼いた。これは、よく忍耐したとはいえるだろう。しかしながら、これでは觙のように思考を愛する者には及ばない。その觙ですら、見るもの聞くものの欲望から遠ざかり、蚊や虻からも遠ざかるようでは、まだまだ不安定であって、心の安定には及ばない。心を安定させた者は、「至人」と言うべきである。至人になれば、心を努力することはいらず、心に忍耐することもいらず、心が不安定であることもない。ゆえに、濁明なる者は、外に向けて派手にしかし不安定に輝くが、清明なる者は、内に向けて静かにかつ確かに輝くのである。聖人は己の持てる欲を自制したりせずほしいままに行い、己の持てる情を自制したりせず快くさせて、なおかつ万事をこの世の理によって制御できるのである。聖人は心を努力することはいらず、心に忍耐することもいらず、心が不安定であることもない。ゆえに、仁者が正道を行うときには、意図して努めずあるがままに成就する(注15)。聖人が正道を行うときには、あえて努力せずとも自然体で成就する(注15)。仁者の思慮は恭しく、聖人の思考は楽しさに満ちている。これが、心を治める道なのである。


(注1)原文「神妙」。荀子は「神妙」の語を人間の持てる認知力・判断力の素晴らしさ、といった意味に用いる。議兵篇(3)では「神妙」をそのままにして訳さなかったが、ここではあえて意訳する。
(注2)巻耳は、「みみなぐさ」と訓じる。ナデシコ科の草で、ハコベの類と言う。
(注3)以上の議論より、荀子は人間の認識とは”tabula rasa”に書き込まれた感覚を心中の理性で取捨選択することによって成立する、という視点をもっていることが分かる。その心中の理性が無意識によって支配されている、といったフロイトら精神分析論の議論、人間の認識はその人間が置かれた時代と文化の特殊性に制約されている、といったレヴィ=ストロースやミシェル・フーコーら構造主義者の議論、あるいは言語が先にあって心は言語の範囲内でしか語ることができない、といった言語哲学の議論、これら現代哲学の議論と荀子の議論は、当然ながらすれ違うことになる。
(注4)原文「類不可兩也」。訳したようなことを言っていると思われるが、新釈の藤井専英氏が言うように、このあたりにはおそらく脱誤がある。ここまで精密に人間の認識を説いている荀子が、「同類は共通概念が二つにぶれてはならない」という点についてこんな説明不足の語句で終わらせることは、ちょっと考え難い。
(注5)原文「田師」。農政官僚のことだが、王制篇(5)の官職表と照らし合わせて例を追加して訳した。次の「市師」も同じ。
(注6)原文「榮」。増注は未知未詳、恐らくは栄華の身に在るを知らず、と言う。新釈は「栄」を安・利と同概念と言い、正理平治をもたらすことと言う。どの説を取っても釈然としないが、とりあえず「栄」は心中の意志が充実していることと取った。
(注7)原文「道経」。集解の郝懿行は、ここより下の格言が『偽古文尚書』大禹謨篇にもあるが、『偽古文尚書』は晋代の梅頤(ばいさく)の偽書であるので、梅頤は『荀子』のここから取って捏造したのであろう、と言っている。この格言がどのような経典から引用されたのかはもはや不明であるが、儒家において用いられていた格言集があったのであろう。
(注8)倉頡(そうけつ)は五帝の最初である黄帝の史官で、はじめて文字を作ったと伝えられる。
(注9)后稷(こうしょく)は、堯舜の下で農事によく勉めたという。周王朝の祖。
(注10)夔(き)は、舜帝の下で音楽をつかさどったという。
(注11)倕(すい)は舜帝の臣、浮游(ふゆう)は未詳、羿(げい)は伝説の弓矢の名人。奚仲(けいちゅう)は禹の臣。楊注は、奚仲は改制をしただけである、と言う。乗杜(じょうと)は諸説あり。造父(ぞうほ)は伝説の御者術の名人。
(注12)曾子は曾参(そうしん)。孔子の弟子で儒家の魯学派の祖。
(注13)『韓詩外伝』に、「孟子の妻が独りでいたときに、足を投げ出して座っていた。それを孟子は、部屋に入って見た。孟子は、母親に妻の無礼を告げて、これを離縁しようと請うた。母親はこれを止めた。孟子はここに至って自責して、妻を去らせなかった」という趣旨のエピソードがある。
(注14)有子は有若(ゆうじゃく)。孔子の弟子。孟子は有若のことを宰我・子貢と並ぶ智者と評価している。孟子公孫丑章句上、二参照。
(注15)原文「無為」「無強」。老荘思想のような解釈とならないように、意訳した。
《原文・読み下し》
心なる者は形の君にして、神明の主なり。令を出して令を受くる所無く、自(みずか)ら禁じ、自ら使い、自ら奪(うしな)い(注16)、自ら取り、自ら行き、自ら止まるなり。故に口は劫(せま)りて墨云(ぼくうん)せしむ可く、形は劫りて詘申(くつしん)せしむ可きも、心は劫りて意を易(か)えしむ可からず。之を是(ぜ)とすれば則ち受け、之を非とすれば則ち辭す。故に曰く、心の容は、其の擇(えら)ぶや禁無く、必ず自ら見る、其の物たるや雜博なるも、其の情(せい)(注17)を之れ至(きわ)むれば貳(じ)せず、と。詩に云う、卷耳(けんじ)を采り采る、傾筐(けいきょう)に盈(み)たず、嗟(ああ)我が懷(おも)う、彼の周行に寘(お)かる、と。傾筐は滿たし易きなり、卷耳は得易きなり、然り而(しこう)して以て周行に貳す可からず。故に曰く、心枝すれば則ち知ること無く、傾けば則ち精(くわ)しからず、貳すれば則ち疑惑す、と。以て之を贊稽(さんけい)すれば、萬物兼ね知る可きなり。身其の故(こと)を盡(つく)せば則ち美なり。類は兩(りょう)なる可からず、故に知者は一を擇(えら)びて壹(いつ)にす。農は田に精しくして、以て田師(でんし)爲(た)る可からず。賈(こ)は市に精しくして、以て賈師(こし)爲る可からず。工は器に精しくして、以て器師(きし)爲る可からず。物に精しき者なり。(注18)人有り、此の三技(さんぎ)を能くせずして、三官を治めしむ可し。曰く、道に精しき者なり。物に精しき者は物を物とするに以(や)め(注19)ども、道に精しき者は物を物とするを兼ぬ。故に君子は道に壹(いつ)にして、以て物を贊稽(さんけい)す。道に壹なれば則ち正しく、物を贊稽すれば則ち察なり。正志を以て察論を行えば、則ち萬物官す。昔者(むかし)舜の天下を治むるや、事を以て詔(つ)げずして萬物成る。
一に處(しょ)して之れ危(き)なれば、其の榮は滿側(もんしょく)(注20)し、一を養いて之れ微にして、榮なるも而(しか)も未だ知らず。故に道經(どうけい)に曰く、人心之れ危く、道心之れ微(び)なりと。危微(きび)の幾(き)は、惟(た)だ明君子にして而(しこう)して後に能く之を知る。故に人心は譬(たと)へば槃水(ばんすい)の如し。正錯(せいそ)して動かすこと勿ければ、則ち湛濁(ちんだく)(注21)下に在りて、清明上に在り。則ち以て鬒眉(しゅび)を見て理(り)(注22)を察するに足る。微風之を過ぐれば、湛濁下に動き、清明上に亂る。則ち以て大形の正を得可からざるなり。心も亦是(かく)の如し。故に之を導くに理を以てし、之を養うに清を以てし、物之を傾くること莫くんば、則ち以て是非を定め嫌疑を決するに足る。小物(しょうぶつ)之を引けば、則ち其の正(せい)外に易わり、其の心(こころ)內に傾けば、則ち以て庶理(そり)を決するに足らず。故に書を好む者は衆(おお)し。而(しこう)して倉頡(そうけつ)のみ獨り傳わる者は、壹(いつ)なればなり。稼を好む者は衆し、而して后稷(こうしょく)のみ獨り傳わる者は、壹なればなり。樂(がく)を好む者は衆し、而して夔(き)のみ獨り傳わる者は、壹なればなり。義を好む者は衆し、而して舜のみ獨り傳わる者は、壹なればなり。倕(すい)は弓を作り、浮游(ふゆう)は矢を作り、羿(げい)は射に精し。奚仲(けいちゅう)は車を作り、乘杜(じょうと)は乘馬を作りて、造父(ぞうほ)は御に精し。古(いにしえ)自(よ)り今に及ぶまで、未だ嘗て兩にして能く精しき者有らざるなり。曾子曰く、其の庭(てい)(注23)を以て鼠を搏(う)つ可きを是(み)れば(注24)、惡(いずく)んぞ能く我と與(とも)に歌わん、と。空石(くうせき)の中に人有り、其の名を觙(きゅう)と曰(い)う。其の人と爲りや、射(せき)(注25)を善くして以て好んで思う。耳目の欲接すれば、則ち其の思を敗り、蚊虻(ぶんぼう)の聲聞(きこ)ゆれば、則ち其の精を挫く。是を以て耳目の欲を闢(さ)けて、蚊虻の聲を遠ざけ、閑居・靜思すれば則ち通ず。仁を思うこと是(かく)の若くんば、微と謂う可きか。孟子は敗(はい)を惡(にく)みて妻を出す、能く自から强(つと)むと謂う可きも、今だ思うに及ばざるなり(注26)。有子は臥(が)を惡みて掌(てのひら)を焠(や)く、能く自から忍ぶと謂う可きも、未だ好むに及ばざるなり。耳目の欲を闢(さ)け、[可謂能自强矣、未及思也]蚊虻(ぶんぼう)の聲[聞則挫其精]を遠ざくるは(注27)、危と謂う可くして、未だ微と謂う可からざるなり。夫れ微なる者は、至人なり。至人なれば、何をか强(つと)め、何をか忍び、何をか危ならんや。故に濁明は外に景(えい)し、清明は內に景す。聖人は其の欲を縱(ほしいまま)にし、其の情を兼(こころよ)くし(注28)、而(しこう)して焉(これ)制する者は理なり。夫れ何をか强め、何をか忍び、何をか危ならんや。故に仁者の道を行うや、無為なり。聖人の道を行うや、無强なり。仁者の思や恭しく、聖者の思や樂し。此れ心を治むるの道なり。


(注16)新釈の藤井専英氏は「奪」は「取」の反対語でなければならず、「落・失」の意と言う。これに従う。
(注17)集解の王先謙は、「情」は「精」の借字である、と言う。
(注18)原文「精於物者也」。原文では次文の「道に精しき者なり(精於道者也)」の下にある。集解の盧文弨は、「精於物者也」は前の文の後に置くべし、と言う。兪樾は、原文の並べ方のままで疑うは「精於物者也」の前に「非」字があるべしと言う。新釈・金谷治氏は盧文弨に従っている。ここは盧文弨に従って移す。なお漢文大系は原文のままで「道に精しければ、物に精しき者なり」と読み下している。
(注19)新釈の藤井専英氏は、「以」は「已」に通じる、と言う。「やむ・ただそれのみ」。
(注20)新釈の藤井専英氏は、「満」は「懣」に通じ、「側」は中正を失う意、と言う。
(注21)楊注は、「湛」は「沈」と読む、と言う。
(注22)ここでは、きめ細かなもの、という意味。楊注は皮膚の文理、と言う。
(注23)楊注・集解の盧文弨はそのまま庭のことと解する。しかし新釈の藤井専英氏は高享を引いて、庭は「くさかんむりに庭」の字であろう、と言う。「てい」と読み、歌う時に調子をとる棒の意。これが最も明快なので、これに従う。なお、この字はCJK統合漢字拡張Aにもない。
(注24)増注は「是」は「諟」と通じると言う。「みる」。
(注25)集解の兪樾は、「射」は疑うは射策(せきさく)・射覆(せきふく)のことと言う。物を伏せてその中身を当てる術。いわゆる透視術。これに従う。
(注26)猪飼補注に従い、下の文からここに移す。注27参照。
(注27)原文「闢耳目之欲、可謂能自强矣、未及思也、蚊虻之聲、聞則挫其精、可謂危矣、未可謂微也」。この箇所は文に混乱があり、論者は錯簡を疑う。猪飼補注は「未及思也」を上のアンダーラインに移し、「可謂能自强矣」「聞則挫其精」を衍とみなし、「蚊虻之聲」の上に「而遠」を補う。一応は、これに従っておく。
(注28)増注は、疑わくは「兼」は「慊」に作るべし、と言う。こころよい。

さきの箇所からの、続きである。正しい知見を得るために精神を集中して雑念を除け、という荀子の教えは、独特のものではない。朱子学がまさにそうであるし、ギリシャ以来の西洋哲学でも、多く語られてきたところである。だが、荀子にとって正しい知見を得ることの目的は、ギリシャ哲学のように純粋な学問に奉仕するためではない。朱子学のように人間として倫理的完成を目ざすことは、「勧学篇」の議論のように荀子にとってももとより目指すところである。しかし、荀子にはもっと実際的な目的がある。それは、上は聖人として国家を統合する明察の指導者となることであり、下は官僚として行政を執るパワーエリートとなることである。国家を運営する官僚は、農民・商人・工人が職業に特化した個別の知識しか持たないのに対して、これらを統括する総合的な知識を持たなければならない、と荀子は考えるからである。「富国篇」の議論にあったように、人間は国家の権力に従い、その与える秩序の中に服しない限り、己の生存と富を確保することができない。そのように荀子は考えるので、国家の支配者である君主と官僚の役目は、社会全体の福祉の増大のためにその知識をもって運営するところにある。よって国家の君主ですら官僚の頂点にある役職にすぎず、その地位にある者は最高の知徳を要求するのであった。そのことは、「正論篇」で見たところである。

だから、ここでの荀子の議論は、為政者に向けた心得であると考えなければならない。荀子はこの解蔽篇で、為政者に対して、国家を運営するためには被統治者を統括するための明察な知識を持て、と言うのである。これを官僚の傲慢とみなすか、あるいは国家運営の局地に立つ官僚はそれだけの能力と気概がなくてはならない、と捉えるか。現代の者は、よく考えなければならないだろう。

解蔽篇第二十一(5)

およそ諸物を観察するときにおいて、疑いがあって内部の心が定まっていないならば、外部の諸物が明確に見えることがない。自分の思慮が明確でないならば、是非を定めることがまだできる状態とならないのである。暗闇の道を行く者は、転がっている岩を見て虎が臥せっていると間違い、立っている木々を見て誰かが自分の側にいると間違える。それは、暗闇がそれらの明晰さを蔽っているからである。酔っ払った者は、百歩(135m)の幅もある大きな溝を、あたかも半歩程度の小さな溝であるかのように飛び越えようとする。またうつむいて都市の城門をくぐり抜けようとして、あたかも家の小さな戸を出るかのように考える。これらは、酒が理性(注1)を狂わせているのである。手の指で目を蔽って視る者は、一つのものを二つあると勘違いする(注2)。耳を掩(おお)って聴く者は、何も音が鳴っていないのに大きな音が鳴ったと勘違いする。これらは、状況が人間の感覚器官を乱しているからである。ゆえに、山の上から牛を見下ろすと羊のように小さく見えるが、羊を追い求める者は山を下りていったりしない。それは、距離の遠さが実際の大きさを狂わせている(ことを常識者は認識しているからである)。また山の下から山の木を見上げれば、十仞(15.75m)の長さの木が箸の短さにすら見えるが、箸を追い求める者は山に登って木を折り取ろうとはしない。それは、標高の高さが実際の長さを狂わせている(ことを常識者は認識しているからである)。水面が動いてそこに映った姿が乱れたならば、人はその乱れて映った姿によって美醜を定めようとしない。それは、水の状態が実際の姿を狂わせている(ことを常識者は認識しているからである)。盲人が空を仰ぎ見て「星が見えない」と言ったとしても、人はその言葉によって空に星があるかないかを論じたりはしない。それは、盲人の目がつぶれている(ことを常識者は認識しているからである)。しかしここに人がいて、これらのような疑わしい観察をもって物の実際を定めようとするならば、この者は世の愚者というものであろう。この愚者は物の実際を定めようとするとき、疑わしい観察によって疑問を裁決しようとするのである。このような裁決が当たる道理は全くない。裁決が当たらないならば、過ちを行わないはずもない。夏口(かこう)の地の南に、涓蜀梁(けんだくりょう)(注3)という者がいた。その人となりは、愚かでものごとをひどく恐れた。月の明るい夜に歩いていて、うつむいて自分の影を見た。彼はそれを幽霊がうずくまっている(注4)と勘違いし、あわてて上を向いたら自分の髪を見て化物が立っていると勘違いし、影から逃げようと走って、自分の家にたどり着いた頃には失神して死亡したという。哀れではないか。およそ人が「幽霊がいる!」と思うときは、必ず何かの妄念に捉われているときであるか、疑心暗鬼に陥っているときにそれを見定めるのだ。こういう時にこそ、人は有るものを無いとみなし、逆に無いものを有るとみなすのでる。それなのに、人はこのときすでに有るものを無いと決め付け、また無いものを有ると決め付けてしまい、心が逃れられない。湿気で体が病んで痺(ひ。リューマチ)になったので(注5)、病気治しのまじないとして太鼓を打って悪霊退散を願ったとしても、太鼓が破れて供え物の豚の出費をしたが結局のところ病気が治る幸福は来ない。このような迷信を信じる輩は、涓蜀梁と同じ夏口の南に住んでいなくとも、その蔽われた判断力に何らの変わりはない(注6)


(注1)原文「神」。これも前回にならって、「理性」と意訳する。
(注2)このことは、人間の脳の統覚作用によって起こることがない。荀子のこのたとえは、上手とはいえない。
(注3)楊注は、何代の人か未詳と言う。
(注4)原文「伏鬼」。漢文で「鬼(き)」は死者の霊魂のことであり、日本的に訳せば幽霊である。日本語の「鬼(おに)」と区別しなければならない。
(注5)痺(ひ。リューマチ)は湿気によって起こる、と考えられていたという。
(注6)荀子が幽霊や化物の存在を認めていたかどうかは、なんとも言えない。天論篇においても、「妖怪」が実在するかのような言い方もしている。しかしながら、祈りやまじないに不幸を払いのける神通力があるという信仰に対しては、荀子はこれを断固として退ける。荀子は人間が自然に働きかけて幸福を得る道だけを信じるからである。天論篇を参照。
《原文・読み下し》
凡そ物を觀るに、疑有りて中心定まらざれば、則ち外物清ならず。吾が慮清ならざれば、則ち未だ然否を定む可からざるなり。冥冥にして行く者は、寢石(しんせき)を見て以て伏虎(ふくこ)と爲し、植林を見て以て後人(こうじん)(注7)と爲すなり。冥冥其の明を蔽えばなり。醉者(すいしゃ)は百步の溝を越えて、以て蹞步(きほ)の澮(かい)と爲し、俯して城門を出ずれば、以て小の閨(けい)と爲すなり。酒其の神(しん)を亂ればなり。目を厭(おお)いて視る者は、一を視て兩と爲し、耳を掩(おお)いて聽く者は、漠漠(ばくばく)を聽きて以て哅哅(きょうきょう)と爲す。埶(せい)其の官を亂ればなり。故に山上從(よ)り牛を望む者は羊の若し、而(しか)れども羊を求むる者は下りて牽(ひ)かざるは、遠(えん)其の大を蔽へばなり。山下從(よ)り木を望む者は、十仞(じゅうじん)の木も箸の若し、而れども箸を求むる者は上りて折らざるは、高(こう)其の長を蔽えばなり。水動きて景(かげ)搖(うご)げば、人は以て美惡を定めざるは、水埶(すいせい)玄(げん)なればなり。瞽者(こしゃ)仰ぎ視て星を見ずというも、人以て有無を定めざるは、用精(もくせい)(注8)惑えばなり。焉(ここ)に人有りて、此の時を以て物を定むるは、則ち世の愚者なり。彼の愚者の物を定むるや、疑を以て疑を決す。決必ず當(あた)らず。夫れ苟(いやし)くも當(あた)らずんば、安(いずく)んぞ能く過つこと無からんや。夏首(かしゅ)の南に人有り、涓蜀梁(けんだくりょう)と曰う。其の人と爲りや、愚にして善く畏る。明月にして宵行(しょうこう)し、俯して其の影を見て、以て伏鬼と爲す。卬(あお)ぎで其の髮を視て、以て立魅(りつみ)と爲す。背きて走り、其の家に至る比(ころおい)、氣を失いて死す。豈(あ)に哀しからずや。凡そ人の鬼有りとするや、必ず其の感忽(かんこつ)の間、疑玄(ぎげん)の時を以て之を正(さだ)む(注9)。此れ人の有を無として無を有とする所以の時なり。而(しこう)して已(すで)に(注10)以て事を正(さだ)む(注8)。故に溼(しつ)に傷(いた)められて、鼓を擊(う)ち痺(ひ)を鼓するも(注11)、則ち必ず鼓を敝(やぶ)りて豚を喪うの費有りて、而(しか)も未だ疾を俞(い)やすの福有らざるなり。故に夏首の南に在らざると雖も、則ち以て異なること無し。


(注7)新釈の藤井専英氏は于省吾の説を引いて「後」は「厚」で多の意、と言う。これに従えば、多数の人の群れと間違う、という解釈となろう。集解の兪樾は「後人」は「立人」であろう、と言う。猪飼補注は、「林」は「木」たるべしと言い、また「後」は「候」に作るべしと言う。「後」については、兪樾の説とも繋げることができる猪飼補注を取りたい。
(注8)猪飼補注は、「用」は「目」の誤り、「精」は「睛」に通じる、と言う。つまり、目の瞳。これに従う。
(注9)増注は荻生徂徠を引いて、「正」は「定」と訓ずと言う。これに従う。
(注10)集解本に拠る漢文大系は、本文で「已」字を用いている。影宋台州本に拠る新釈は本文が「己」字であり、注でここは難解な句であり「己」は「已」なのかもしれぬ、と付け加えている。漢文大系に従って「已」字として解釈する。
(注11)原文「故傷於溼、而擊鼓鼓痺」。ここは新釈の藤井専英氏に従って字を補填せずに読み下した。漢文大系は王念孫の疑義を採用して、「故に溼(しつ)に傷(いた)められて痺(ひ)し痺して鼓を擊(う)ち豚を烹(に)れば」と作るべし、と注する。アンダーラインは王念孫の補填するところ。藤井説では、「鼓痺」の「鼓」を用言とみなして、「(痺の病気を)太鼓を打って退散させる」の意に解釈する。確かに原文のままでは文字不足の感が否めないが、藤井説の解釈で読めないわけではないので、これを採用することにしたい。

さらに続けて、人間の感覚的認識は理性による反省を欠くと間違うことがある、ということを例を挙げて説明する。荀子の論述は、論理の飛躍が少ない。漢文においては、稀有な例である。解蔽篇は、人間の認識が蔽われて誤ることが極めて多いことを説明し、君子はそれを避けて正しい認識を得るために心を「虚静にして壱」の状態に置かなければならない、と言う。次回の結論では、世の中に詭弁が横行していることを批判して、君子は詭弁を排斥し、正しい認識を行い、王者の制を採用して天下国家を正しく指導しなければならない、と結論する。その是非はさておき、その論議は尽くされている。同じ中国で千年以上後に議論を行った朱子や王陽明と比べてみても、荀子の論述はより着実に段階を追ってより西洋的であるという印象を私は受ける。荀子は、国家を指導する君子は世界に対する完全な認識を持つ義務があり、かつ認識を持つことが可能である、ということを論証するために、この解蔽篇および続く正名篇を捧げているのである。西洋哲学に置き換えたならば、「国家の統治者はイデアを認識することが必要で、なおかつ可能である」というテーマを論じている。私には古代西洋思想を追う力はないが、荀子よりやや前の時代に活動したプラトン・アリストテレスの国家論と比較することは、きっと有益なことであろう。荀子の論述は、孔子や孟子の短く多義的な解釈を許すスローガンとは、読み方を変えなければならない。

解蔽篇第二十一(6)

およそ人間の本性(注1)を知ることによって、諸物の理(ことわり)を知ることができる。だが人間の本性を知ることができることが分かって、これによって諸物の理を知ろうとするも、これに到達する目標を正しく設定しなければ、歳月を経てついに死没に至るまでついに諸物の理解には到達できないであろう。諸物の理を探求する方法は今どき数多く提出されているが、そのどれを採用しても万物の変化を全て理解することはできない。なので、このような邪説を学んだところで、愚者と同一である。邪説を学んで身は老い子は独り立ちしても、まだ愚者と同然の地点にいるばかりで、まだその説を棄てるべきことに気づかない。こんな輩を、妄人(ぼうじん)と呼ぶ。ゆえに、学問というものは、もとより学んで到達する目標がある。その目標とは何か?それは、至足(しいそく)すなわち完全なる満足の状態である。ではどのような状態が、至足なのであろうか?それは、「聖」の境地である。聖なる者は、人の倫理を極めることができる。いっぽう王なる者は、国家の制度を極めることができる。聖と王の二つを極める者は、天下の頂点に立つことができる(注2)。ゆえに、学ぶ者は、聖と王の二つを極めた者、すなわち聖王をもって師となさなければならない。つまり、聖王の作った制度をもって法となし、その法に則って法の大綱と法判断を求め(注3)、これを通じて聖王を真似て習うのである。これに相対して学ぶ努力をするものは、士(注4)である。これに似て近づく者は、君子(注4)である。これを完全に理解できる者は、聖人(注4)である。ゆえに、知があっても聖王の法を熟慮することがなければ、知をもて物を掠め取る者となるだろう。勇気があっても聖王の法を心中に持たなければ、勇気をもて世を損なう賊となるだろう。熟察する知能があっても聖王の法に従った区分を取らないならば、熟察する知能をもて物を簒(うば)う者となるだろう。多能であっても聖王の法に則って己を脩めなければ、多能をもていたずらに身を蕩尽するばかりの役立たずとなるだろう。能弁であっても聖王の法に従って弁論しなければ、能弁をもてむだ話を行うばかりの者となるだろう。言い伝えにはこうある、「天下に二つのことがある。非には是を察し、是には非を察す」と。この言葉の意味は、王制に合致するものと王制に合致しないものを選り分けよ、ということである。だが天下には、王制をもって正道とみなさない者がいる。しかし王制を取らずして、どうやって正と不正を定めることができるだろうか?その者が是と非を分けることもできず、正と不正を分けることもできず、治乱の原因を論ずることもできず、人道を治めることもできないならば、その者が何かやっているとしてもそれは人に何の益もなく、何もやらなかったとしても人に何の損もないだろう。単に怪しげな説を学び、奇怪な弁論を操り、邪説同士で互いに乱れ争っているばかりである。悪賢くて口がうまく、厚顔にして恥を知らず、正義を持たずに恣意のままで傲慢に振る舞い、能弁をいたずらに操って利に近づき、謙遜というものを好まず、礼節を敬わず、互いが互いを陥れることを好む。これらは、乱世姦人の説である。しかも、天下の説をなす者の多くがこれに当たるのである。言い伝えにこうある、「言葉の分析を明察とみなし、多言することを弁論とみなすことは、君子の恥じるところである。博聞強記であっても王制に合わない者は、君子の賤しむところである。」と。まさにこの言葉は、天下の邪説をなす者たちのことである。このような邪説を習得しても、聖王の正道を成すための益とならない。このような邪説を求めても、聖王の正道を得るための益とならない。このような邪説を思念しても、聖王の正道に近づくための益とならない。ならばこれらの邪説を遠ざけて棄ててしまい、自分の妨げとならないようにして、一瞬たりともこれに心中を毒させないようにして、過去に学んだ邪説の蓄積など惜しむことをせず、邪説を棄てることによって今後のことを不安がるようなこともせず、心残りなどすっぱりと捨てて、聖王の正道もて時に応じて動き、物が迫ったら応じ、事が起こったら語るのだ。こうすれば、何が治をもたらし何が乱をもたらすか、いずれが可でいずれが否であるか、これらのことは心中に明々白々となるであろう。

秘密にすれば政治はうまく行き、秘密が漏れたら政治は崩れる、という説があるが、明君ならばそのようなことは決してない。明確に表明すれば政治はうまく行き、隠せば政治は崩れる、という説があるが、暗君ならばそのようなことは決してない。(明君が明確に表明すれば政治はうまく行く、というのが正解である。)ゆえに、人に君たる者が秘密主義を取るならば、讒言をなす者は近づき、直言をなす者は退き、小人が近づいて君子は遠ざかるのである。詩に、この言葉がある。:

墨(やみ)を明るいと嘘つけば、
狐や狸がやってくる
(逸詩。原詩は伝わらない)

まさに、讒言をなす狐や狸どもの格好の餌場となるのである。しかし人に君たる者が明確に表明するならば、直言をなすものがやって来て、讒言をなす者は遠ざかり、君子が近づいて小人は遠ざかるのである。『詩経』に、この言葉がある。:

明明(めいめい)と下にあらば
赫赫(かくかく)と上にあり
(大雅、大明より)

この言葉は、上の君主が明確に表明するならば、下の人民が教化されるという意味である(注5)


(注1)原文「性」。ここでは性悪篇のような「人間は欲望が本性である」といった意味ではなくて、解蔽篇のここまでの叙述で展開された、人間の認識は外物を感覚として全て受け止めるのであって、これを理性によって統制しなければ認識がぶれて混乱した思考に陥るが、理性を正しく用いれば全ての認識を正しく整理して迷うことがなくなる、という(荀子の考える)人間の認識構造のことを言っている。
(注2)聖なる者(=聖人)は、知能を人間倫理の側面にあてはめる。王なる者(=王者)は、知能を国家制度の側面にあてはめる。聖と王の二つを極める者(=聖・王)は、ゆえに人間秩序の頂点にあってその知能を社会にあてはめることができる、という論理である。聖人が王とならなければならない、という正論篇の議論と同一である。
(注3)原文読み下し「其の法に法(のっと)りて以て其の統類を求め」。「統類」を楊注は法の大綱、と言う。まず、聖王が定めた絶対正義の法がある。その後に習う官僚たちは、その法に則って行政を執らなければならない。「統」は法の大綱と言うべきであり、「類」はその大綱に従った判断と言うべきである。「類」については勧学篇(4)の注1、および王制篇(1)の注2を参照。
(注4)「士」の通常の意味は、下級の宮廷人のことである。ここでは士・君子・聖人を法の理解度に比例した官僚秩序の位置づけとして用いている。現代的に言い換えれば「士」はノンキャリアの実務官僚、君子はキャリアの政策官僚、聖人はその頂点にある国家元首であろう。
(注5)この解釈は、荀子の断章取義である。つまり、荀子は詩の原義から離れてこのフレーズを引用している。『大明』における原義は、「下」は天命を受けた王であり、「上」は天帝のことである。
《原文・読み下し》
凡そ人の性を知るを以てして、以て物の理を知る可きなり。以て人の性を知る可きを以てして、以て物の理を知る可きことを求めて、之に疑止(ぎょうし)する(注6)所無ければ、則ち沒世(ぼっせ)・窮年して徧(あまね)きこと能わず。其の理に貫(なら)う(注7)所以は、億萬已(なり)(注8)と雖も,以て萬物の變に浹(あまね)くするに足らず、愚者と一の若(ごと)し。學んで身を老し子を長じて、而(しか)も愚者と一の若く、猶お錯(お)くことを知らず、夫れ是を之れ妄人(ぼうじん)と謂う。故に學なる者は、固(もと)より學んで之に止まるなり。惡(いずく)にか之れ止まる。曰く、諸(こ)れ至足(しいそく)に止まる。曷(なに)をか至足と謂う。曰く、聖なり。聖なる者は、倫を盡(つく)す者にして、王なる者は、制を盡す者なり。兩(ふた)つながら盡す者は、以て天下の極爲(た)るに足る。故に學ぶ者は聖王を以て師と爲し、案(すなわ)ち聖王の制を以て法と爲し、其の法に法(のっと)りて以て其の統類を求め、以て務めて其の人に象效(しょうこう)す。是(これ)に嚮(むか)いて務むるは士なり、是に類して幾(ちかづ)くは君子なり。之を知るは聖人なり。故に知有りて以て是を慮するに非ざれば、則ち之を懼(かく)(注9)と謂う。勇有りて以て是を持するに非ざれば、則ち之を賊と謂う。察孰(さつじゅく)にして以て是を分つに非ざれば、則ち之を篡(さん)と謂う。多能にして以て是を脩[蕩](注10)(おさ)むるに非ざれば、則ち之を知(とう)(注10)と謂う。辯利(べんり)にして以て是を言うに非ざれば、則ち之を詍(せつ)と謂う。傳に曰く、天下に二有り、非には是を察し、是には非を察す、と。王制に合すると王制に合せざることとを謂うなり。天下是れを以て隆正と爲さざること有るなり。然り而(しこう)して猶お能く是非を分ち曲直を治むる者有らんや。若(も)し夫れ是非を分つに非ず、曲直を治むるに非ず、治亂を辨ずるに非ず、人道を治むるに非ざれば、之を能くすと雖も人に益無く、能くせざるも人に損無し。案(すなわ)ち直(ただ)に將(は)た怪說を治め、奇辭(きじ)を玩(もてあそ)び、以て相撓滑(どうこつ)するのみ。案ち强鉗(きょうけん)にして利口、厚顏にして詬(はじ)を忍び、正無くして恣睢(しき)、妄辨(ぼうべん)にして利に幾(ちか)づき、辭讓(じじょう)を好まず、禮節を敬せずして、好んで相推擠(すいせい)す。此れ亂世姦人の說にして、則ち天下の說を治むる者、方(まさ)に多く然り。傳に曰く、辭を析(せき)して察と爲し、物を言いて辨と爲すは、君子之を賤しむ。博聞・强志にして、王制に合せざるは、君子之を賤しむ、とは、此を之れ謂うなり。之を爲すも成すに益無く、之を求むるも得るに益無く、之を憂戚(ゆうせき)するも幾(ちか)づくに益為し。則ち廣焉(こうえん)(注11)として能く之を弃(す)てて、以て自から妨げず、少頃(しばらく)も之を胸中に干(おか)さしめず(注12)、往(おう)を慕わず、來(らい)を閔(うれ)えず、邑憐(ゆうりん)(注13)の心無く、時に當りて動き(注14)、物至りて應じ、事起りて辨ず。治亂・可否は、昭然として明(あきら)かなり。
周にして成り、泄(せつ)(注15)にして敗るるは、明君之れ有ること無きなり。宣にして成り、隱にして敗るるは、闇君之有ること無きなり。故に人に君たる者は、周なれば則ち讒言(ざんげん)至りて、直言反(かえ)り、小人邇(ちか)づきて、君子遠ざかる。詩に曰く、墨以て明と爲せば、狐狸而(そ)れ蒼たり(注16)、とは、此れ上幽にして下險なるを言う。人に君たる者は宣なれば、則ち直言至りて、讒言反り、君子邇づきて、小人遠ざかる。詩に曰く、明明として下に在り、赫赫(かくかく)として上に在り、とは、此れ上明(めい)にして下化(か)するを言うなり。


(注6)集解の兪樾は、「疑」は「定(ぎょう)」と訓じ、「定」は「止」と同義、と言う。「疑止(ぎょうし)」で、「とどまる」。
(注7)楊注は「貫」は「習」なり、と言う。ならう。
(注8)原文「雖億萬已」。「已」を荻生徂徠は「矣」と通じる、と言う。集解の兪樾は「已」はなお「終」のごとし、と言い、これに従うならば「已(つい)に」と読んで下の文の冒頭に付けるべきである。なお新釈の藤井専英氏は兪樾と同じく下の文に繋げながら「已」を「とどまる」と読んで「以て萬物の變に浹くするに足らざるに已(とど)まれば」となす解釈も例示しておられる。ここでは、徂徠説に従う。
(注9)ここから続く五つの文は難解で、解釈が一定しない。ともかく知能の悪用を戒めた文であることは確かである。「懼」について猪飼補注は、疑うは「悪」たるべし、と言う。集解の王引之は、「攫」となすべしと言う。とりあえず王引之説を採用しておく。さらう、かすめとる。
(注10)荻生徂徠は「脩蕩」の「蕩」を衍と言い、「知」を「蕩」の誤り、と言う。猪飼補注は「知」は疑うは「矯」字の欠画であると言う。「矯」は詐偽の意。集解の王引之は「知」は智故すなわち陰険な巧智のことであると言い、この用法の例として荀子非十二子篇を挙げる。いずれの説も明快ではないが、徂徠説が「蕩」字の位置を替えるだけの最も簡単な解釈である。なので、あえて徂徠説を取ることにしたい。
(注11)楊注は、「広」は「曠」と言う。「曠焉」で、とおい。
(注12)増注は、「干」は「犯」の意と言う。おかす。
(注13)楊注の或説は、「邑」は「悒」と同じで「憐」は「吝」と読む、と言う。「悒吝(ゆうりん)」で、惜しんで心がふさがること。
(注14)原文「當時則動」。増注は「則」はなお「而」のごとしと言う。これに従い読み下す。
(注15)「泄」を漢文大系は「えい」と訓じ、新釈は「せつ」と訓じる。漢文大系は「泄泄(えいえい)」の語に近づけた訓と思われる。泄泄は、多弁であること。新釈は「泄」字の単独の読みを採用していると思われる。いずれも「漏泄(ろうせつ)」すなわち漏れることの意に取っている。訓は新釈に従う。
(注16)逸詩である。楊注は「墨」を蔽塞、蒼を狐狸の色と言う。集解の盧文弨は「墨」を幽暗の意と言う。増注は、「墨」を「嘿」と同じと言う。猪飼補注は、「蒼」は「茂」なりと言う。藤原栗所は、「蒼」を「蹌」とみなす。「蹌」は、はしるの意。逸詩なので明確な判定ができないが、漢文大系・新釈に従って「墨」は盧文弨に従い、「蒼」は藤原栗所に従う。

最後に、誤って智を用いる諸子百家たちを批判して解蔽篇は終わる。末尾だけ多少異なる論調であり、正論篇冒頭の説と同じ趣旨の文章が置かれている。この篇を記録した弟子が、補遺として付け加えたのかもしれない。荀子の諸子百家への批判は、孟子のそれが農家・墨家・縦横家らへの個別的な攻撃に終始しているのに対して、全ての邪説をひっくるめて、それらの知識はしょせん不完全な知識でしかない、真の知識は王制に則ることによってのみ得られる、と総括的に批判することで、読む者にその論点が分かりやすく、よってその問題点も頭に入りやすい。しかし『論語』や『孟子』は断章の連続であって、多義的な解釈を許す。それがこの両書の面白さであり、長く愛好されてきた理由である。だが荀子は、現代語訳で読んだほうがよい。論旨が明確であり、荀子が目指す法治官僚国家の理想の現代的意義と問題点が浮かび上がってくるであろう。荀子の思想は、古代西洋思想と比較することにも耐えられると私は思う。論語の言葉などは西洋の言語に訳したときには「酋長のつぶやき」でしかなく、ロゴスを縦横に駆使する古代西洋思想と同じ土俵で戦うことは困難である。

続いて、正名篇に移りたい。孔子の「名正しからざれば則ち言順(したが)わず、言順わざれば則ち事成らず」(論語、子路篇)という政策の荀子的解釈が、ここで開示される。それは、現代的用語で言えば、言論統制である。

【次は、「正名篇第二十二」を読みます。】

正論篇第十八(1)

世俗の説をなす者は、「君主の道は、秘密主義がよい」と言う。だがこれは、まちがっている。君主とは、明白に声を出して人民を導く存在である。また人の上に立つ者とは、下にある者の規範である。人民は、君主の声を聞いて応じ、規範を見て動こうとするものである。そこで君主が声を出さなくなったら、人民は応じることはなくなり、規範が隠れていては下にある者は動くことがなくなるであろう。応ぜず動かずでは、上と下が相助け合うこともできないであろう。このようであっては、上の者がいないことと同じである。これ以上に不都合なことはない。ゆえに、人の上に立つ者は、下にある者の大本なのである。上が明白に政治を行えば、下はよく治まるであろう。上が誠実に政治を行えば、下は真面目となるであろう。上が公正に政治を行えば、下は素直となるであろう。よく治まれば人民を斉一にしやすく、真面目ならば人民を使役しやすく、素直ならば人民の心を知りやすい。斉一にしやすければ国は強くなり、使役しやすければ国の功績はあがり、心を知りやすければ国の空気は明るくなるであろう。これが、よい治世の起こる源というものである。しかし上が秘密主義であれば下は疑い迷うようになり、上が陰険な政治を行えば下もまた隠れて詐術を行うようになり、上が不公正な政治を行えば下もまた私党を組むであろう。疑い迷えば人民を斉一にし難くなり、隠れて詐術を行うようになれば人民を使役し難くなり、私党を組むようになれば人民の心は知りがたくなる。斉一にし難ければ国は弱くなり、使役し難ければ国の功績はあがらず、心を知り難ければ国の空気は明るさが消えるであろう。これが、乱世の起こる源というものである。ゆえに、君主の道は明白であることがよく、不明瞭であることはよいことがない。そしてはっきりと声に出すことがよく、秘密主義はよいことがない。君主の道が明白ならば下の者は安心するが、君主の道が不明瞭ならば下の者は危ぶむであろう。下の者が安心すれば彼らは上の者を尊ぶが、下の者が危ぶめば上の者を軽んずることになるだろう。上の者の意向が知りやすければ、下の者は上に親近感を持つが、上の者の意向が知り難ければ、下の者は上をただ恐れるであろう。下の者が上に親近感を持てば、上の者は安泰である。だが下の者が上を恐れるならば、上の者は危険である。よって君主の道は下の者の心を知り難いことより悪いことはなく、下の者が上を恐れることより危険なことはない。言い伝えに、「主君を憎む者が多いと、危険である」とある。また『書経』に、「よく明徳を明らかにする」(周書、康誥より)とある。また『詩経』に、「明明として下に君臨する」(大雅、大明より)とある。このように、わが国の先王たちは政治を明々白々に行ったのであった。どうして政治を秘密にする必要があるだろうか?
《原文・読み下し》
世俗の說を爲す者曰く、主道は周に利なり(注1)、と。是れ然らず。主なる者は民の唱なり、上なる者は下の儀なり。彼將に唱に聽きて應じ、儀を視て動かんとす、唱默すれば則ち民應ずること無きなり、儀隱なれば則ち下動くこと無きなり。應ぜす動かざれば、則ち上下以て相有(ま)つこと(注2)無きなり。是(かく)の若くなれば、則ち上無きと同じきなり。不祥焉(これ)より大なるは莫し。故に上なる者は下の本なり。上宣明なれば、則ち下治辨なり。上端誠なれば、則ち下愿愨(げんかく)なり。上公正なれば、則ち下易直(いちょく)なり。治辨なれば則ち一にし易く、愿愨なれば則ち使い易く、易直なれば則ち知り易し。一にし易ければ則ち強く、使い易ければ則ち功あり、知り易ければ則ち明なり。是れ治の由りて生ずる所なり。上周密なれば、則ち下疑玄(ぎげん)す。上幽險なれば、則ち下漸詐(せんさ)(注3)す。上偏曲なれば、則ち下比周す。疑玄なれば則ち一にし難く、漸詐なれば則ち使い難く、比周なれば則ち知り難し。一にし難ければ則ち強ならず、使い難ければ則ち功あらず、知り難ければ則ち明ならず。是れ亂の由りて作(お)こる所なり。故に主道は明に利にして幽に利ならず、宣に利にして周に利ならず。故に主道明なれば則ち下安んじ、主道幽なれば則ち下危ぶむ。故に下安んずれば則ち上を貴び、下危ぶめば則ち上を賤しむ。故に上知り易ければ、則ち下上を親しみ、上知り難ければ、則ち下上を畏る。下上を親しめば則ち上安んじ、下上を畏るれば則ち上危し。故に主道は知り難きより惡しきは莫く、下をして己を畏れしむるより危きは莫し。傳に曰く、之を惡(にく)む者衆(おお)ければ則ち危し、と。書に曰く、克(よ)く明德を明かにす、と。詩に曰く、明明として下に在り、と。故に先王は之を明にす。豈に特(ただ)に之を玄にする耳(のみ)ならんや。


(注1)楊注は、「周は密なり」と言う。秘密にすること。
(注2)集解の王先謙は、「有」字を「胥」にするべしと言う。「まつ」。
(注3)増注および集解の郝懿行は、「漸」字は「潜」と読むべしと言う。「漸詐」で、深く隠れてあざむきだます様を言う。

【この篇は、「天論篇第十七」の後に読んでいます。】

正論篇は、「世俗の説」に対する荀子の反論を連ねた形式を取っている。『孟子』でいえば萬章章句に当たる。一論ごとに独立した内容となっているので、それぞれで区切って読んでいきたい。

本篇冒頭のこの節について、増注の久保愛は「当時、法家が隆行していた。その弊害は、行き過ぎた秘密主義にあった。ゆえに荀子はこれについて弁論したのだ。そうでなければ、『周易』に『君主が秘密を守らなければ家臣を失う』とあるように、秘密そのものが不可と言いたいはずがない。」という主旨の注を打っている。これに猪飼彦博は「申不害・韓非子の道は、人君が下の人間にその意図を察知させないところにあった。荀子が弁論しているのは、これについてである。『周易』にいう『君主が秘密を守らなければ家臣を失う』というのは国家の機密事項についてだけのことである。」という主旨の補注を加えている。ともかく、正論篇の最初の反論は、法家思想に対してである。

法家思想の秘密主義を理解するためには、やはり『韓非子』がよい。その「主道篇」は明確に老子思想に依拠した統治術を展開している。そこでは、君主は家臣に対して決して本心を見せてはならないと提議されている。なぜならば、家臣が君主の本心を知ったならば、そこに付け込んで君主の耳に心地よいであろう歪んだ政策を提案するからである。君主はただ心を虚ろにして、家臣が政策を提案してくるのを静かに待つ。ひとたび提案すればそれを必ず記録して、成功したときの褒賞と失敗したときの処罰をルールによって示す。こうすれば君主が何をせずとも、家臣は公約どおりの実績を挙げるために必死に働くことになり、君主の主観によって歪むことのない実績を国家が受け取ることになるであろう。これが、「主道篇」などで韓非子が描いたシナリオであった。そこでの君主はもはや人間とはいえず、むしろSF世界のコンピューターが人間の誰にも感情を持たずに支配しているような国家である。あるいはもう少し現実的な政体を考えるならば、国王が「君臨すれども統治せず」として政治に関心を持たない立憲君主制に近いと言えるだろうか。

『史記』秦始皇本紀を読むと、始皇帝は治世の間この『韓非子』の君主像にいたく傾倒したようである。すなわち、始皇帝の動きが家臣の誰にも気づかれないように、都の近辺にある宮殿を復道(ふくどう)・甬道(ようどう)という両側を壁に守られた道路で繋いだ。そうして皇帝が行幸する場所を秘密にして、その場所を漏らした者は死罪としたと書かれている。史記はこうすることで始皇帝は真人(しんじん)、すなわち老荘思想における仙人的存在になろうとしたと記録している。だがこうして始皇帝が側近を誰も接近できなくさせたことによって、彼の動向を知る者は奴隷である宦官の趙高しかいなくなった。そのため始皇帝が巡幸先で急死したとき、その遺言を趙高はやすやすと捏造できた。始皇帝が意図していた後継者の扶蘇は偽りの詔勅によって死罪となり、趙高の傀儡にすぎない胡亥が二世皇帝となって、まもなく秦の滅亡につながった。それは、始皇帝の韓非子思想への過度の傾倒が起こした自業自得というべきであった。

このように韓非子思想を採用した始皇帝の統治は最後に茶番となって終わったのであるが、韓非子が主張した政治思想そのものは一笑に付すべきものではない。それは、為政者の主観的な好悪が政治に影響を及ぼすことの弊害を、指摘しているのである。『韓非子』の孤憤篇などで情熱的に訴えられているように、絶対君主は権力を持つがゆえに取り入って利権を貪ろうとする家臣が常にまとわり付き、そして君主は家臣に騙されて主観的に善事だと思い込まされた政策を行う。実際にはそれは私益のための政策であって国を弱体化させるのに、君主は気づかない。韓非子は戦国時代の諸国がそのような状態であったがゆえに、君主は主観を働かせるな、むしろ法によってルールを示し、家臣が褒賞と処罰によって働かずにはいられないように追い込むほうが国の利益なのである、と主張したところである。

韓非子の法家思想と、荀子の儒家思想とは、だからどちらが絶対的に正しいと白黒を付けるべき問題ではないだろう。統治される人間たちをより信じるならば、荀子のように公明正大な政治を選ぶべきであろう。しかし統治される人間たちのモラルが低下している状態であるならば、韓非子の道を取って隠密の政治も時にはやむをえないだろう。この両者の対立点は、21世紀の現在においても続いている、いつの世もホットであり続ける政治のテーマであろう。

正論篇第十八(2)

世俗の説をなす者は、「桀(けつ)・紂(ちゅう)は天下を持つ王であったがこれを家臣の湯(とう)・武(ぶ)が簒奪した」と言う。だがこれは、まちがっている。「桀・紂がかつて天下人の地位にあった」と言うのは正しいが、「桀・紂が確実に天下人の地位を確保していた」と言うのは正しくない。また「桀・紂が天下の中にあった」と言うのは正しいが、「天下が桀・紂の手の中にあった」と言うのは正しくない。いにしえの時代、天子には千の官職があり、その下の諸侯には百の官職があった。千の官職を通じて法令が中国全土で行われるとき、この者を「王」と呼ぶ。百の官職を通じて法令が領地内で行われ、国が安泰とまではいかなくても改易・滅亡に至らなければ、この者を「君」と呼ぶ。桀・紂は聖王であった禹(う)・湯の末裔であり、天下を持つ王家の後継者であり、勢威ある地位に立つ、天下の宗室であった。しかしその地位にありながら無能かつ不公正であれば、内には人民がこれを憎み、外には諸侯がこれに背き、近くにある王の直轄領ですら一つにまとまらず、遠くにある諸侯はこれの言うことを聞かず、はなはだしきは蜂起して王の直轄領を侵略し攻撃してくる。このようなありさまであれば、まだ滅亡していない段階であっても、私は桀・紂のような王はすでに天下を失っている、と言わざるをえない。聖王であった禹・湯はすでに没し、その威勢ある地位を受け継ぎながら無能であって、天下の人心をつなぎとめることができない。ならば、「天下に君主がいない」と言うべきである。このとき臣下の諸侯の中で、徳が明らかであって勢威を強める者がいたならば、海内の人民はこれが代わって指導者となることを願わずにはいられない。それなのに桀・紂のような暴虐の国主がひとりわがまま放題の悪政を続けているならば、これだけを誅伐して桀・紂の下にいる罪なき人民を傷つけることはしない。なので、暴虐の国主を誅伐することは、もはや君主でも何でもなくて丸裸になったただの一人の男を討つようなものなのである(注1)。このようであるならば、すなわち湯・武のような者こそがよく天下を治める天下人だ、と言うことができる。よく天下を治める者を、「王」と呼ぶ。湯・武は、天下を奪い取ったのではない。彼らは正道を修め、正義を行い、天下共通の利益を進め、天下共通の害悪を除き、結果天下の人心が彼らに帰したのであった。また桀・紂は、天下を自ら放棄したのではない。禹・湯の徳に反し、礼義の区分を乱し、禽獣(けだもの)のような行いをした。彼らは凶事を重ね、邪悪の限りを尽くし、結果天下がこれらを見捨てたのである。天下の人心が帰する者を、「王」と呼ぶ。天下が見捨てる者を、「亡」と呼ぶ。ゆえに桀・紂は天下をすでに持っておらず、湯・武は天下の王を弑逆(しいぎゃく)したのではない。そのことは、これで明らかであろう。

湯・武は人民の父母であった。桀・紂は人民の怨賊であった。いま、世俗の説をなす者は、桀・紂を君主と言って湯・武を君主の弑逆者だとみなす。それは、人民の父母を批判して人民の怨賊を指導者であると言っているようなものだ。これは、最悪の事態ではないか。天下がまとまる中心をもって君主と言いたいのであれば、天下が桀・紂にまとまったことなど一度もなかった。ならば湯・武が君主の弑逆者であるという論理は、天下にこれまで一度も起こらなかったことになるだろう。世俗の説は、単に湯・武を批判したいだけなのだ。ゆえに、天子の位にはふさわしい人物だけを充てなければならないのである。天下を担う者の責任は、きわめて重い。きわめて強力な人物でなければ、これをよく担えない(至強)。天下は、きわめて広い。きわめて聡明な人物でなければ、これをよく裁けない(至弁)。天下の人民は、きわめて多い。きわめて英知ある人物でなければ、これをよく和することはできない(至明)。この至強・至弁・至明の三至は、聖人でなければこれを尽くすことはできないのである。ゆえに、聖人でなければ天下の王となることはできないのである。聖人は自らに正道を備え持ち、人間の美の完成した存在である。だからこそ、天下の諸事を正しく計ってその均衡を保つ秤(はかり)となることができるのである。しかし桀・紂はきわめて陰険な智謀を持ち、きわめて暗黒な意志を持ち、きわめて淫乱な行為を行う。彼らに親しい者でもこれを疎んじ、賢明な者でもこれを賤しみ、人民もまたこれを怨んだ。聖王である禹・湯の末裔であったにもかかわらず、仲間は一人もおらず、比干(ひかん)の胸を割いて殺し、箕子(きし)を幽閉し、ついに己は死んで国は滅び、天下の大恥となり、後世の者が悪の代表を考えるときには必ず思い出されることとなった(注2)。これは、己の妻子すら保てない道である。ゆえに、最も賢明なる者は、四海を保つのである。湯・武がこれに当たる。最も愚かな者は、己の妻子すら保てない。桀・紂がこれに当たる。いま、世俗の説をなす者は、桀・紂は天下を持っていて湯・武はその家臣であった、と言うが、これほどひどい誤りはない。これをたとえるならば、傴巫(うふ)・跛覡(はげき)(注3)ごときの者が自分を過大評価して、己を智者であると思い込んでいるようなものである。ゆえに、人は一国程度ならば奪い取ることもありえるが、天下全てを奪い取ることは決してできない。人は一国程度ならば盗み取ることもありえるが、天下全てを盗み取ることは決してできない。「奪うことで一国を保つことはできるが、奪うことで天下を保つことはできない。盗むことで一国を得ることはできるが、盗むことで天下を得ることはできない」(注4)というが、これはどういう意味であろうか。それは、一国は小さな器である。小人でも保つことは可能であり、小道でも得ることは可能であり、小力でも維持することは可能である。だが天下は大きな器である。小人では保つことはできず、小道では得ることはできず、小力では維持することはできない。一国ぐらいならば小人によっても保つことは可能であるが、それでもこれが滅亡しないで続けられるという保障はない。しかし天下は至大であって、聖人でなければこれを保つことはできないのである。


(注1)原文読み下し「暴國の君を誅すること、獨夫を誅するが若し」。孟子梁惠王章句下、八にも「一夫紂を誅す」という言葉があり、ここでの荀子の議論の下敷きとなっている。
(注2)これら紂王の悪行については、議兵篇第十五(5)注8を参照。
(注3)傴巫・跛覡(擊)は王制篇(5)の官職表にもある。せむしの祈り女とびっこの祈り男のこと。賤職である。
(注4)孟子盡心章句下、十三を想起させる。
《原文・読み下し》
世俗の說を爲す者曰く、桀・紂は天下を有す、湯・武は篡(さん)して之を奪うと。是れ然らず。桀・紂を以て常(かつ)て(注5)天下(注6)の籍を有すと爲すは則ち然り、親(みずか)ら天下(注6)の籍を有すとするは則ち然らず(注7)(猪飼補注に従い補填)桀・紂天下に在りと謂うは則ち然り(注8)、天下桀・紂に在りと謂うは則ち然らず。古(いにしえ)は天子に千官あり、諸侯に百官あり。是の千官を以て、令諸夏の國に行わる、之を王と謂う。是の百官を以て、令境內に行われ、國安からずと雖も、廢易・遂亡(ついぼう)に至らず、之を君と謂う。聖王の子なり、天下を有するの後なり、埶籍(せいせき)の在る所なり、天下の宗室なり。然り而(しこう)して不材・不中なれば、內は則ち百姓之を疾(にく)み、外は則ち諸侯之に叛き、近くは境內一ならず、遙(とお)くは諸侯聽かず、令境內に行われず、甚だしき者は諸侯之を侵削し、之を攻伐す。是(かく)の若くなれば、則ち未だ亡びずと雖も、吾は之を天下無しと謂う。聖王沒して、埶籍を有する者、罷(ひ)にして以て天下を縣くるに足らず。天下君無きとき、諸侯能く德明かに威積つむもの有れば、海內の民、得て以て君師と爲すを願わざること莫し。然り而して暴國獨(ひと)り侈(し)なれば、安(すなわ)ち能く之を誅す。必ず無罪の民を傷害せず、暴國の君を誅すること、獨夫を誅するが若し。是の若くなれば、則ち能く天下を用うと謂う可し。能く天下を用うる、之を王と謂う。湯・武は天下を取るに非ざるなり。其の道を脩め、其の義を行い、天下の同利を興し、天下の同害を除きて、天下之に歸すなり。桀・紂は天下を去るに非ざるなり。禹・湯の德に反して、禮義の分を亂り、禽獸の行あり、其の凶を積みて、其の惡を全くして、天下之を去るなり。天下之に歸する、之を王と謂い、天下之を去る、之を亡と謂う。故に桀・紂は天下無くして、湯・武は君を弒(しい)せずとは、此に由りて之を效(あきら)かにするなり。
湯・武は、民の父母なり。桀・紂は、民の怨賊なり。今世俗の說を爲す者、桀・紂を以て君と爲して、湯・武を以て弒すと爲す。然らば則ち是れ民の父母を誅して、民の怨賊を師とするなり、不祥焉(これ)より大なるは莫し。天下の合するを以て君と爲せば、則ち天下未だ嘗て桀・紂に合せざるなり。然らば則ち湯・武を以て弒すと爲すは、則ち天下未だ嘗て說有らざるなり、直(ただ)に之を墮(そし)るのみ。故に天子は唯其の人をす。天下なる者は至重なり、至强に非ざれば之に能く任ずること莫し、至大なり、至辨(しべん)に非ざれば之を能く分つこと莫し、至衆なり、至明に非ざれば之を能く和すること莫し。此の三至なる者は、聖人に非ざれば之を能く盡すこと莫し。故に聖人に非ざれば之に能く王たること莫し。聖人は道を備え美を全くする者なり、是れ天下を縣くるの權稱(けんしょう)なり。桀・紂なる者は、其の知慮至險(しけん)なり、其の至意(注9)至闇(しあん)なり、其の行[之]爲(こうい)(注10)至亂なり。親しき者は之を疏(うと)んじ、賢き者は之を賤しみ、生民は之を怨む。禹・湯の後なるに、一人の與(よ)を得ず。比干を刳(こ)し、箕子を囚え、身死して國亡び、天下の大僇(たいりく)と爲り、後世の惡を言う者必ず稽(かんが)う。是れ妻子を容れざるの數(すう)なり(注11)。故に至賢は四海を疇(たも)つ、湯・武是なり。至罷(しひ)は妻子を容れず、桀・紂是なり。今世俗の說を爲す者、桀・紂を以て天下を有して湯・武を臣とすと爲す。豈(あ)に過つこと甚だしからずや。之を譬(たと)うるに、是れ猶お傴巫(うふ)・跛匡(はげき)(注12)の大いに自ら以て知有りと爲すがこときなり。故に以て人の國を奪うこと有る可く,以て人の天下を奪うこと有る可からず。以て國を竊(ぬす)むこと有る可く、以て天下を竊むこと有る可からざるなり。[可以]奪(だつ)[之者](注13)は以て國を有す可くして、以て天下を有す可からず、竊(せつ)は以て國を得可くして、以て天下を得可からずとは、是れ何ぞや。曰く、國は小具なり、小人を以て有す可きなり、小道を以て得可きなり、小力を以て持す可きなり。天下なる者は大具なり、小人を以て有す可らざるなり、小道を以て得可からざるなり、小力を以て持す可からざるなり。國なる者は小人以て之を有す可し、然り而して未だ必ずしも亡びずんばあらざるなり。天下なる者は至大なり、聖人に非ざれば之を能く有すること莫し。


(注5)増注および集解の盧文弨は「常」は「嘗」とするべし、と言う。
(注6)集解の王先謙は儒效篇のフレーズに合わせて「天下」を「天子」とするべし、と言う。しかし「天下」のままでも意味は通るので、変えない。
(注7)原文「親有天下之籍則不然」。集解の王引之は「不」字を除くべし、と言う。つまり「天下の地位を確かに保っていたとは言える。」と読むべきということになる。漢文大系は、これを採用している。しかし新釈の藤井専英氏はこれを取らず、原文のままに置いている。藤井説に従う。
(注8)アンダーラインは、猪飼補注の推測を仮に採用したもので、原文にはない。猪飼補注は、劉辰翁が「別本ではこの文の上に八字の空白がある」と言っていることを引用し、「謂桀紂在天下則然(桀・紂天下に在りと謂うは則ち然り)」があったのではないか、と言う。確かにここは対句が崩れているので、欠落があったように思われる。
(注9)楊注は、「至意」は「志意」たるべしと言う。
(注10)増注・集解の王引之は、「之」字を衍字と言う。
(注11)増注・集解の王念孫は、「數」はなお「道」のごとし、と言う。
(注12)増注は王制篇で「跛擊(はげき)」となっていることを引いて、ここでは「匡」は「覡」となすべし、と言う。
(注13)集解の王念孫は、「可以」はあるべからず、と言う。猪飼補注は下のフレーズを見れば「可以」「之者」四字が衍字のようである、と言う。猪飼補注に従う。

つづいては、いわゆる「湯武放伐論」に対する荀子の見解である。荀子に先立って孟子は、夏王朝最後の王である桀(けつ)を湯王が武力で討伐し、その湯王が開いた殷王朝最後の王である紂(ちゅう)を武王がこれも武力で討伐して周王朝を打ち立てたことを正当化する。

斉の宣王が質問した。
斉宣王「殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を討伐したというのは、本当にあったことなんですか?」
孟子「本当にあったと伝えられています。」
斉宣王「武王はももともと紂王の家臣でした。臣がその君主を殺してもよいのですか?」
孟子「仁をだめにする者、この者を名付けて「賊」。義をだめにする者、この者を名付けて「残」。残賊の者は、ただの一人の男です。紂とかいうただの一人の男を武王が誅殺したとは聞いていますが、臣が君主を殺したとは聞いていません。」
(『孟子』梁惠王章句下、八


上のくだりで斉の宣王が孟子に疑義を投げかけているように、湯・武の放伐を正当化する孟子の論は、君主にとってはなはだ都合が悪い主張である。よって後の荀子の時代においても、ここで「世俗の説」があったのである。「桀・紂が天下を保っていたのを湯・武が簒奪した」という主張は、たとえ悪政を行う君主であっても君主は君主であって家臣がこれを討伐する権利などあってはならない、という君主権絶対化の意図をもって行われている。荀子は儒家であって、孟子とはその人間観と統治論において意見を違えているが、孟子の王道政治論と民本思想については荀子もまた継承している。ゆえに人民の敵である君主はもはや君主の資格がなく討伐してもよい、という湯武放伐論もまたここで正当化するのである。ただ湯武放伐論は孟子にとって最重要のテーマの一つであるが、荀子においてはそれほど積極的に言及されることはない。孟子にとっては不仁不義の君主を批判することが思想家としての大きな目的であったが、荀子にとっては来るべき統一中華国家の礼法システムの叙述が最大の主眼点だからである。

荀子はここで湯武放伐論を正当化する作業を行うのであるが、少しわかりづらい議論を行う。湯・武が君主である桀・紂を討ったのではなく、湯・武が放伐を行う時点ですでに天下の支配権は桀・紂から離れて湯・武に移っていて、ゆえに討たれた桀・紂はすでに君主ではないのでセーフ、ということを論じる。荀子の意図はいったい何であるのかといえば、正義の人が悪の君主を討って交替した、という分かりやすいストーリーに待ったをかけているのである。これでは、政権の交替がただの私闘に矮小化されるおそれがある。そうではなくて、君主の地位は人民の支持を受けた公的な立場であって、その立場は職務にふさわしい人間が就くのである、桀・紂は彼らの王朝の先行する王たちに比べて君主としての職務に完全に外れた行いをしたので君主の資格を失ったのだ、というのが荀子の言いたいことである。荀子は、君主の地位を徹底的に公的な職務として捉えているのである。

孟子もまた、君主の立場が公的なものでであるという考えに到達していた。しかし、孟子はそれを天の意志とみなした。

萬章が孟子に問うた。
萬章「堯(ぎょう)は舜に天下を譲渡したというのは、本当にあったのでしょうか。」
孟子「違う。天子は天下を他人に譲渡できない。」
萬章「だとしたら、舜が天下を保有したのは、誰によって与えられたのですか?」
孟子「天が与えたのだ。」
萬章「天が与えたのだとしたら、天がいろいろと語って命令したのですか?」
孟子「違う。天は何も言わない。人の行動とその結果によって天命を示唆するだけだ。」
萬章「『人の行動とその結果によって天命を示唆する』とは、どういうことですか?」
孟子「つまり、天子は人を天に推薦することはできる。だが天を動かして天下を誰かに与えさせることはできない。諸侯は人を天子に推薦することはできる。だが天子を動かして諸侯の地位を誰かに与えさせることはできない。大夫(上級家老)は人を諸侯に推薦することはできる。だが諸侯を動かして大夫の地位を誰かに与えさせることはできない。(これが道理だ。)昔、堯は舜を天に推薦した。天がこれを受けたので、舜を人民の前に出したところ、人民はこれを受けた。『天は何も言わない。人の行動とその結果によって天命を示唆するだけだ』と言うのは、だからこういうことだ。」
萬章「あえて質問します。『天に推薦して、天がこれを受けたので、人民の前に出したところ、人民はこれを受けた』とは、どういうことですか?」
孟子「推薦した者に祭りを担当させたところ、神々がこれを受けた。『天がこれを受けた』とはこういうことだ。天が受けた者に政治を担当させたところ、治世の効果が現れて百姓が安んじた。『人民はこれを受けた』とはこういうことだ。天が天子の位を与えて、人が天子の位を与えた。だから『天子は天下を他人に譲渡できない』と言ったのだ。舜は堯の摂政を二十八年間もうけたまわった。人の力だけでできたことではない。天の意志だ。堯が崩御し、三年の喪が終わって、舜は堯の子丹朱(たんしゅ)を敬して自らは河南の地に退去した。だが天下の諸侯で朝廷にはせ参じようとする者は、丹朱に行かずに舜に行った。訴えようとする者は、やはり丹朱に行かずに舜に行った。称える歌を歌う者は、やはり丹朱を称えずに舜を称えた。だから『天の意志だ』と言ったのだ。ここまであったので、舜は中原の地に向って天子に即位した。これがもし丹朱の宮殿にいすわって丹朱に譲位を迫ったのならば、これはただの簒奪だ。天が与えたのではない。
(『孟子』萬章章句上、五


孟子は、天の意志は迂回して人民の支持に反映され、ゆえに君主が人民に支持されることが天の意志である、という形で己の民本主義と君主の正当性を結合させた。荀子は孟子の議論から天を抜き取り、単純に君主としての職務にふさわしい人物が人民の支持する君主である、とストレートに論じたのである。荀子の湯武放伐論は、儒家の民本思想を孟子よりもさらに明確化させた結果、君主の地位は国家の公的な職務であって職務にふさわしい人物が選ばれる、という考えに立って行われる。

ここでの荀子の湯武放伐論は、正論篇のこの後で出てくる堯舜禅譲論、つまりいにしえの聖王である堯帝が、その君主の地位を家臣である舜帝に譲ったという伝説についての荀子の見解とセットになっている。後で出てくるが、荀子は堯帝が舜帝に君主の位を譲った、という説を「世俗の説」として否定し、堯帝のような聖王の地位は個人の意思で禅譲できるものではない、という論を立てる。そこで荀子はここの湯武放伐論よりもさらに奇怪な説を立てるのであるが、言いたいことは君主の役職は国家における公的な職務であり、君主の交替はこれを私物として譲渡するようなものであってはならない、というものである。荀子はここでの湯武放伐論において、湯・武が個人の意志で桀・紂を伐ったのではなく、その背後には人民の意志があって、すでに桀・紂から君主の地位を剥奪して湯・武に交替させていたのだ、という論を立てる。これらの論は、君主の地位を民本思想に基づき徹底的に公的な立場として考える、荀子の君主観が背後にあるわけである。

孟子は、君主の地位の正当性において、天を介入させた。孟子は、同じ萬章章句で舜帝を継いだ禹(う)から世襲王朝が始ったことを合理化するために、禹の死後に息子の啓(けい)のもとに人民の支持が集まったことを言う(萬章章句上、六)。そうして堯帝が舜帝に禅譲したときも禹から世襲王朝が始ったときも、その時に人民の支持があったのだから天命として正統なのだ、と説明した。こうして孟子は君主の地位が人民の支持を受けた公的なものである、という視点を持ちながらも、天命論によって天子の地位を神秘化してしまった。しかしながら、荀子は君主の地位が公的な役職であり、それ以上でもそれ以下でもない、という合理的な君主観を明確に打ち出したのであった。もし荀子の君主観をそのまま展開させたならば、必ず天皇機関説のように君主の地位は行政上の役職であって神聖さはない、という議論とならずにはいられない。おそらく荀子はそのように考えていたはずであるが、後世の儒教は天命を受けた皇室が天子として代々人民に君臨する、という天命論によって君主の地位を神聖化することとなってしまった。

ちなみに、湯武放伐論は江戸時代日本の儒者たちにとって、つまづきの石となった。日本でも王朝の交替は、認められるべきか否か。幕末を除けば大方の主流の儒者は、当時の実質的な支配者である徳川政権にこれを当てはめて、幕府政権の交替を日本における王朝の交替として考えていたと思われる。すなわち、徳川政権が善政を行う限りは支配権を持つことが許される、という考えが大方のオーソドックスであった。徳川吉宗に建策を出した荻生徂徠や、松平定信に同じく建策を出した中井竹山(なかいちくざん)ら各時代の著名な儒者たちは、徳川政権の支配を肯定した上で善政を執るように進言したのであった。頼山陽(らいさんよう)のベストセラーとなった日本通史『日本外史』は、全篇の末尾で天下に泰平をもたらした徳川政権を称えて終わっている。

しかしながら、日本には天皇家という、中国にはないつまづきの石があった。ラジカルな儒者がいったん天皇家のことをどう考えるか、と問うたときに、日本ではいまだ王朝の交替は起こっておらず、徳川将軍といっても京都の天皇の一家臣にすぎない、これが政治を専らにするのはおかしい、という思想が生まれたのであった。その最も早い例が、山崎闇斎(やまざきあんさい)門下の尊皇論者である浅見絅斎(あさみけいさい、1652~1712)であった。絅斎は、湯武放伐論は日本で妥当させてはならず、むしろ武王の父である文王が紂王に幽閉されながらも主君を怨まなかったことを正統な思想とみなした。すなわちこれを日本に当てはめれば、日本では天皇家が革命されず続いているのであるから日本人はこれを必ず君主として仰がなければならない、という主張であった。絅斎の著作『靖献遺言』は、それが執筆された時代(貞享四年、1687)の時点では日本儒学にほとんど影響を持たなかったが、幕末に至って山本七平氏の言葉を借りれば「志士たちの聖書(バイブル)」(山本七平『現人神の創作者たち』)としてもてはやされるようになった。その背景には、徳川光圀の『大日本史』の編纂に始まった水戸学が江戸時代後期の日本儒学において勢いを得て、尊皇思想が日本人の考えの中で台頭するようになったことがあった。『大日本史』の編纂には、かつて絅斎の弟子であった三宅観瀾(みやけかんらん)も参加していた。ついに幕末に至って、西洋列強の侵略に直面した国難が起こったときに尊皇思想は攘夷思想と結合して「尊皇攘夷」のスローガンが世論を沸騰させたことは、すでに周知のことであろう。

京都錦小路通、大丸百貨店の裏にある浅見絅斎邸跡の碑。絅斎は自らの尊皇思想に基づいて、徳川政権に仕えることを拒否した。そのため大名からの仕官の誘いを断って、生涯在野の儒者のまま過ごした。

京都錦小路通、大丸百貨店の裏にある浅見絅斎邸跡の碑。絅斎は自らの尊皇思想に基づいて、徳川政権に仕えることを拒否した。そのため大名からの仕官の誘いを断って、生涯在野の儒者のまま過ごした。

日本では、実質的支配者であった徳川政権を革命により打ち倒したことは一見すると湯武放伐論に当てはまりそうなのであるが、その革命の思想的根拠が天皇に政権を復帰させる、という「維新」であったところが儒学の影響を受けた周辺諸国に比べてユニークな経過であった。オリジナルの湯武放伐論においては孟子も荀子も、人望を集めて力を得た革命者が古い体制を打ち倒すであろう、というシナリオである。しかし日本では古来からの神聖な権威を持つ天皇が担ぎ出されて、古い徳川政権を追い払った。この天皇をシンボルとして担ぎ出して覇権を取る経過は、中国の歴史においては、春秋時代の斉の桓公と管仲が力を失った周王を担いで覇者となった「尊王攘夷」の経過になぞらえることができるだろう。よって、中国の歴史でも絶無であったわけではない。ただし、春秋時代の覇者の取った権力掌握のあり方はその後の中国の歴史では続くことなく、孟子や荀子の王朝交代の原理だけに一本化されることとなった。なので春秋時代の「尊王攘夷」は日本の思想状況に奇妙なまでにあてはまり、統一王朝時代以降の中国の状況にはかえってあてはまらない、という逆転現象が起こることとなった。

正論篇第十八(3)

世俗の説をなす者は、「いにしえの統治がゆきとどいた黄金時代には、体刑はなくて象徴刑しかなかった。墨(いれずみ)の刑は、頭に黒い頭巾をかぶせて辱める刑であった。劓(はなそぎ)の刑は、黒く染めた纓(かんむりのひも)を付けて辱める刑であった。去勢の刑は、青白色の膝掛けを付けさせて辱める刑であった。剕(あしきり)の刑は、麻の靴をはかせて辱める刑であった。死刑は、赤い襟なしの上着を着せて辱める刑であった。いにしえの統治がゆきとどいた黄金時代は、このように刑罰すら穏やかであったのだ」と言う。だがこれは、まちがっている。この者が想定しているような治世であれば、人はもとより犯罪など犯すことすらなかったはずではないか?つまり体刑はおろか、象徴刑すら用いる必要がなかったであろう。しかし何らかの理由で人が犯罪を犯すことに至ったとき、単にその刑罰を軽くするのであれば、殺人犯は死なずに済むし、傷害犯は刑罰を受けずに済むこととなるだろう。重大な犯罪を犯しながら刑罰が軽すぎたならば、賢明でもない一般人は、犯罪者を憎む理由がなくなってしまう。ならば、これ以上にないカオスが起きることは必至ではないか。およそ人を刑する基本は、暴を禁じて悪を憎み、かつそれらを未然に抑止するところにある。なのに殺人犯が死刑とならず、傷害犯が罰せられないというのか。それは、暴に恵んでやって賊に寛大であるというのであって、悪を憎むこととは違う。ゆえに、象徴刑などというものは、いにしえの統治がゆきとどいた黄金時代に起こったのではない。それは、ただいまの乱世に始ったごく近年の現象なのである。いにしえの時代は、そうではなかった。爵位の序列、有司の官職、褒賞と刑罰、これらは全て功績と犯罪への応報として作られた。成し遂げた善事と悪事に応じて、これらの賞罰が比例して与えられたのであった。その一つでも比例が破られると、乱の始まりとなる。徳は位に応じず、能力は官職に応じず、褒賞は功績に応じず、刑罰は犯罪に応じない。これは、最悪の事態ではないか。昔、武王は殷を討って紂(ちゅう)(注1)を誅殺し、その首をはねてこれを自軍の赤旗に掲げた。このように、暴虐な者を成敗して強暴な者を誅するのは、統治のもっとも盛んな時代のしるしなのである。殺人犯は死に、傷害犯は刑罰を受ける法は、わが国の歴史上の王(注2)たちが常に変わらず保っていたものであり、いつから始ったのかすら分からないほど人類普遍の法なのである。刑罰が犯罪に比例していれば、よく治まるであろう。しかし刑罰が犯罪に比例しなければ、カオスとなるであろう。ゆえに治世においては刑罰はかえって厳格なのであり、逆に乱世においては刑罰はいいかげんで軽くなる。治世において犯罪を犯す罪はきわめて重く、乱世においては犯罪を犯す罪はきわめて軽くなる。『書経』に、この言葉がある。:

刑罰とは、時代によって重かったり軽かったりする。
(周書、呂刑篇)

この言葉の意味は、治世と乱世のことを言っているのである。


(注1)武王と紂については、正論篇(2)参照。
(注2)原文「百王」。天論篇(3)注3と同じ。
《原文・読み下し》
世俗の說を爲す者曰く、治古は肉刑無くして、象刑(しょうけい)有り、墨(ぼく)は黥(ぼう)(注3)し、(増注に従い補填)劓(ぎ)は慅嬰(そうえい)し(注4)、共(きゅう)(注5)は艾畢(がいひつ)し、菲(ひ)(注6)は對屨(ほうく)(注7)し、殺は赭衣(しゃい)して純(じゅん)せず、治古は是(かく)の如しと。是れ然らず。以て治と爲さんか、則ち人は固(もと)より罪に觸(ふ)るること莫かるべし。獨り肉刑を用いざるのみに非ず、亦象刑を用いざらん。以て人或(あるい)は罪に觸るるも、而(しか)も直(ただ)其の刑を輕くすと爲さんか、然れば則ち是れ人を殺す者も死せず、人を傷つくる者も刑せられざるなり。罪至重にして而も刑至輕なれば、庸人(ようじん)は惡(にく)むことを知らず、亂焉(これ)より大なるは莫し。凡そ人を刑するの本は、暴を禁じ惡を惡み、且つ其の未(み)を懲らすなり。人を殺す者死せずして、人を傷つくる者刑せられず、是を暴を惠みて賊を寛にすると言う、惡を惡むに非ざるなり。故に象刑は殆(ほと)んど治古に生ずるに非ず、並(まさ)に(注8)亂今(らんこん)に起こるなり。治古は然らず。凡そ爵列・官職・賞慶・刑罰は、皆報なり、類を以て相從う者なり。一物稱(しょう)を失するは、亂の端(はじめ)なり。夫(か)の德は位に稱(かな)わず、能は官に稱わず、賞は功に當らず、罰は罪に當らざるは、不祥焉より大なるは莫し。昔者(むかし)武王有商(ゆうしょう)を伐ちて、紂(ちゅう)を誅し、其の首を斷ちて、之を赤旆(せきはい)に縣く。夫(そ)れ暴を征し悍(かん)を誅するは、治の盛(さかん)なり。人を殺す者は死し、人を傷つくる者は刑せらる、是れ百王の同じき所なり、未だ其の由來する所を知る者有らざるなり。刑罪に稱えば則ち治まり、罪に稱わざれば則ち亂る。故に治には則ち刑重く、亂には則ち刑輕し。治に犯すの罪は固より重く、亂に犯すの罪は固より輕きなり。書に曰く、刑罰は世にて輕く世にて重し、とは、此を之れ謂うなり。


(注3)楊注は、「黥」は「幪」たるべし、と言う。頭に黒い頭巾をかぶせる刑。なお漢文大系では「幪」字にくさかんむりのない別体を用いているが、CJK統合漢字拡張Aにもないので代用する。
(注4)楊注は「慅嬰」は「澡纓」たるべしと言い、あるいは『慎子』を引いて「草纓」とも読む、と言う。増注はまず古屋鬲の説を引いて、上に「劓」字があるべしと言い、それならば『慎子』では「草纓」とあるのと符号する、と言う。増注に従って補い、「劓(はなそぎ)の刑は、黒く染めた纓(かんむりのひも)を付けて辱める刑であった」と解する。
(注5)増注は荻生徂徠を引き、「共」は「宮」の誤りと言う。去勢の刑。
(注6)増注は荻生徂徠を引き、「菲」は「剕」の誤りと言う。足切りの刑。
(注7)楊注は「對屨」は「䋽屨」であるべしと言う。麻製の靴。「䋽」字はCJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注8)増注は「並」は「方」に通じると言う。

つぎは、刑罰論である。世俗の説が言いたいことは、明確である。いにしえの堯・舜のような聖代は重い刑なしでよく治まっていた。ひるがえって今の時代は末世なので重い刑罰があるのだ、という、過去を賛美して現代を批判する意図がある。荀子は、それに反論する。むしろよく治まる時代こそ刑罰は重く、今の時代は末世だから刑罰はでたらめで軽いのだ、と。ここには、人間は秩序なしでは利己心に従って争い奪うことを行うばかりであり、ゆえに人間は生命の安全と経済的繁栄を得るために君主の権力にあえて従いその秩序の下に入るのだ、という荀子の社会契約説がある。富国篇を参照していただきたい。

しかし儒家の主流な考えは徳治主義であり、刑罰よりも教化によって人間を善導するべきだ、という。

之を道(みちび)くに政を以てし、之を齊(ととの)うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。之を道くに德を以てし、之を齊うるに禮を以てすれば、恥の有りて且つ格(いた)る。
(論語、為政篇)


この孔子の言葉は、教科書に引用されるほどに著名である。「政によって指導し刑罰によって規制すると、人民は刑罰さえかからないなら何をしようと恥とは思わない。道徳によって指導し、礼によって規制すると、人民は恥をかいてはいけないと考えて、自然に治まる。」と孔子は言ったという。

葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾が党に躬(み)を直(なお)くする者あり、その父、羊を攘(ぬす)みて、子これを証(あら)わせり、孔子曰わく、吾が党の直き者は是に異なり、父は子の為に隠し、子は父のために隠す、直きこと其の中(うち)に在り。
(同、子路篇)


葉公が、羊を盗んだ父の罪を訴えた子のことを孔子に言った。それに対して孔子は、我々の仲間うちで正直な者とは、むしろ父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠す。正直とはその中にあるのだ、と反論した。

これら孔子の言葉と比較したら、荀子の厳罰を肯定する主張は儒家にあるまじき邪道であるかのように見える。しかしながら、荀子とて君主の教化を否定しているわけではないことは、これまでの各篇で明らかなことだ。荀子は、刑罰が軽いほうがよく治まる、という考えを拒否して、より現実的な主張を行っただけのことである。

世俗の説と荀子の説と、どちらが正しいだろうか?少なくとも上の言葉を言った孔子は、魯国の大司寇(だいしこう)つまり司法長官に就任したとき、権力を以て大夫の少正卯(しょうせいぼう)を誅殺し、大貴族で権勢をもっぱらにしていた三桓氏の居城を破壊して、その力を削減しようとした。その過程で、季孫氏の居城の費(ひ)を破壊しようとしたとき公山不狃(こうざんふちゅう)と叔孫輒(しゅくそんちょう)が謀反の兵に出たが、孔子はこれを武力を用いて鎮圧した(『史記』孔子世家)。孔子とて政治を執った時期には、徳だけで統治を行ったわけではなかったのである。孔子は、政治家でもあった。通常は倫理家だけの側面だけ取り上げて理想化するが、荀子はおそらく孔子の現実的な政策も見ていたことであろう。

正論篇第十八(4)

世俗の説をなす者は、「湯王・武王は禁令・法令を行き渡らせることができなかった」と言う。それはどういう意味かといえば、「楚国と越国は、両王の時代に中華の天子の制度に従っていなかったからだ」と言う。だがこれは、まちがっている。湯・武は天下において最も禁令・法令を実行することができた君主であった。湯王は亳(はく)に居を構え、武王は鄗(こう)に居を構えて(注1)、それぞれは百里(40km)四方の土地にすぎなかったが、そこから天下を統一して諸侯を家臣とすることに成功し、天下を通行するもろもろの人民たちはことごとく湯・武を畏れ、服従し、感化され、従順となったのであった。なのにどうして、楚国・越国だけがその制度に従わなかいことがあっただろうか?そもそも王者の制度というものは、その支配する土地の形勢を見て用いる用具を決め、地理的な遠さを測って国家への貢献に差別を設けるものであった。それは、全ての土地で一律なものでは決してなかった。よって魯人には榶(とう)(注2)を、衛人には柯(か)(注2)を、斉人には一革(いっかく)(注2)を納めさせた。このように土地の形勢が異なっている諸侯に対しては、納めさせる用具や装具を必ず異にしたのであった。ゆえに中華諸国は礼制の内容を同一にして服属させたが、南蛮・東夷・西戎・北狄の非中華諸族は同じく服属するものの礼制の内容は異なるものとしたのであった。すなわち都に近い封内は甸服(でんぷく)(注3)の制を与え、その外にある封外は侯服(こうふく)(注4)の制を与え、中華の領域内にある諸侯領である侯衛は賓服(ひんぷく)(注5)の制を与え、蛮族であっても中華に隣接していて教化を与える蠻夷は要服(ようふく)(注6)の制を与え、さらにその外にあって教化の行き渡らない戎狄は荒服(こうふく)(注7)の制を与えた。甸服の民は、天子の父と祖父を日々祭る「祭」にて貢物を上げる義務を持つ。侯服の民は、天子の祖先を月毎に祭る「祀」にて貢物を上げる義務を持つ。賓服の諸侯は、季節毎の祭りである「享」にて貢物を上げる義務を持つ。要服の蛮族は、一年毎に貢物を上げる「貢」の義務を持つ。荒服の蛮族は、天子の代替わりのときに来朝する「終王」の義務を持つ。これら毎日の「祭」・毎月の「祀」・季節毎の「享」・一年毎の「貢」・天子の代替わり毎の「終王」の制度は、土地の形勢を見て用いる用具を決め、地理的な遠さを測って国家への貢献に差別を設けるものであった。これぞ、王者の制度であったのだ。楚国・越国は天子の都から遠く、「享」・「貢」・「終王」の範疇に入っていた。これを「祭」や「祀」の範疇の地方といっしょくたにして、同様の制度に従えと言うのであろうか?それは、何でも同じ規準をあてはめるだけで区別を知らぬ稚拙な説(注8)というものである。このような者は溝の中に転び落ちた乞食のような無知浅慮の輩であり、王者の制度を語る資格はない。ことわざに、「浅い者とはともに深いことを測ることはできず、愚かな者とはともに知をはたらかせることはできず、井戸の中の鼃(がまがえる)には東の大海の楽しみを語る価値がない」というが、まさにこのような愚説を立てる輩を言うのである。


(注1)富国篇では「薄」「滈」の字であらわれる。いずれも史書に見える殷・周王朝初期の都。
(注2)榶、柯、一革ともに楊注は未詳と言う。何らかの器の類を指しているはずである。
(注3)楊注の引く『書経』禹貢篇に従うと、首都から五百里(200Km)四方は封内であり、天子のための治田を耕す服属を行う。
(注4)上に同じく、封内の外五百里は天子のために斥候の職を行う服属を行う。
(注5)上に同じく、封外の外には侯圻(こうき)・甸圻(でんき)・男圻(だんき)・采圻(さいき)・衛圻(えいき)の五圻(ごき)があり、そこまでが中華の範囲内である。五圻を合わせて二千五百里(1,000Km)。ここの諸侯は天子に来朝する服属を行う。
(注6)楊注は、さらにその外五百里は「蠻服」、さらにその外五百里は「夷服」であると言う。孔安国によると、ここは文教をもって拘束する必要があると言う。
(注7)楊注は、それぞれ五百里ずつ外が「戎狄」であると言う。ここは中華九州の外であり風俗を戎狄と同じくする、荒涼の地である。
(注8)原文「規磨之說」。規はコンパス。規磨を楊注は、コンパスが磨滅すれば円が書けなくなると言い、差錯の説のことと言う。集解の郝懿行は少し違った解釈を取り、「磨」は「摩」たるべしと言い、規摩は規画揣摩、すなわちコンパスで円を書くように単一の規格で推測することであり、単一の規格を全ての例に当てはめるのは必ずしも当たるとはいえない、という意味。郝懿行に近づけて訳す。
《原文・読み下し》
世俗の說を爲す者曰く、湯・武は禁令すること能わず、と。是れ何ぞや。曰く、楚・越は制を受けざればなり、と。是れ然らず。湯・武は至って天下の善く禁令する者なり。湯は亳(はく)に居り、武王は鄗(こう)に居る。皆百里の地なるも、天下一と爲り、諸侯臣と爲り、通達の屬、振動・從服して以て之に化順(かじゅん)せざること莫し、曷爲(なんすれ)ぞ楚・越のみ獨り制を受けざらんや。彼の王者の制や、形埶(けいせい)を視て械用(かいよう)を制し、遠近を稱(はか)りて貢獻を等す、豈に必ずしも齊(ひと)しくせんや。故に魯人は榶(とう)を以てし、衛人は柯(か)を用(もつ)てし、齊人は一革(いっかく)を用てす。土地・刑埶同じからざる者は、械用・備飾異ならざる可からざるなり。故に諸夏の國は服を同じくし儀を同じくす。蠻夷(ばんい)・戎狄(じゅうてき)の國は服を同じくし制を同じくせず。封內は甸服(でんぷく)し、封外は侯服(こうふく)し、侯衛は賓服(ひんぷく)し、蠻夷は要服(ようふく)し、戎狄は荒服(こうふく)す。甸服する者は祭(さい)し、侯服する者は祀(し)し、賓服する者は享(きょう)し、要服する者は貢(こう)し、荒服する者は終王(しゅうおう)す。日に祭し、月に祀し、時に享し、歲に貢し、終に王す。夫(そ)れ是を之れ形埶を視て械用を制し、遠近を稱りて貢獻を等すと謂う。是れ王者の至(せい)(注9)なり。彼の楚・越なる者は、且(また)時享・歲貢・終王の屬なり。必ず之を日祭・月祀の屬に齊しくし、然る後制を受くと曰わんか。是れ規磨(きま)(注10)の說なり。溝中の瘠(せき)は、則ち未だ與(とも)に王者の制に及ぶに足らざるなり(注11)。語に曰く、淺は與(とも)に深を測るに足らず、愚は與に智を謀るに足らず、坎井(かんせい)の鼃(あ)は、與に東海の樂(たのしみ)を語る可らず、とは、此を之れ謂うなり。


(注9)楊注は、「至」は「志」たるべしと言う。増注・集解の王念孫は、「至」は「制」たるべしと言う。増注・王念孫に従う。
(注10)集解の郝懿行は「規磨」は「規摩」たるべし、と言う。上の注8参照。
(注11)集解の兪樾は、「溝中の瘠(せき)は、則ち未だ與(とも)に王者の制に及ぶに足らざるなり」の句は「坎井(かんせい)の鼃(あ)は、與に東海の樂(たのしみ)を語る可らず」の後にあるべき、と言う。その意図は、移すことによって先行する「淺」と「愚」に対応させる句が完成するからである。一理はあるが、取らない。

つぎは、湯王・武王の時代に南方の楚国や越国が従っていたのかどうか、についての論である。荀子の反論は、いわゆる中華思想である。中華の天子は世界の支配者であり、周辺諸国は天子からの距離の近さに応じて服属の度合いがだんだん薄くなるが、それでも天子の支配下にある、という考えである。これが傲慢な思想であることは疑いを得ないが、中華世界が日本と異なるところは、日本は周囲を海に囲まれていて自然境界が明確であったが、中華世界は地続きであって自然境界が明確でなく、よって中華世界の安定を得るためには周辺諸国を何らかの形で懐柔する必要があった。その手段が、朝貢貿易であった。それは前にも申したように、中華帝国の贈与戦略であった。つまり、周辺諸国に中華世界の財貨を供給して、交換に中華皇帝への形式的な服属を得るトレード関係で国際関係の安定を得ようとする戦略であった。

ここで世俗の説は、楚国や越国は湯王・武王の時代に天子の支配下にいなかった、だから聖王の支配は世界全体には行き渡らない限定的なものであった、と言いたいのである。荀子はこれに対して、『書経』禹貢篇のごとき古文献にある「服」の制度を用いて反論する。「服」とは服従、服属のことであり、中華世界の服属の秩序である。中華の天子から距離が離れるに従って、服属の程度が軽くなる。だがこれもまた中華の秩序であるから、遠方の楚国や越国もまたその距離に応じた「服」の秩序に参加していたのだ、というのが荀子の反論である。後の中華帝国は、二千年もの間この秩序観を保ち続けて、しかもそれが許されたというのは大したものであった。だがそれは中華帝国の皇帝の徳に周辺諸国が服属した、というものではなくて、単に中華帝国と交易することが周辺諸国にとって大きなメリットがあったからにすぎない。荀子のような儒家は中華世界と周辺諸国との関係を政治的な支配服従関係と考えるが、実際の両者のつながりは、経済的な交易関係であったはずである。

遠く殷周時代にさかのぼっても、財貨の交易は南方諸国と盛んに行われていたことであろう。漢字で財貨を表す文字には、「貝」へんが付く。「貝」へんのもともとの意味は、子安貝であった。子安貝は、南方の海で取れる。これを黄河流域に展開していた初期の中華世界は輸入して、宝物として珍重していた。おそらくこれを通貨として用いていたのではなく、権勢を示すための贈答品が主な使用目的であったことだろう。なので、漢字で財貨を表す文字には「貝」へんが付くのである。この対価として古い時代の中華世界が南方諸国に輸出していたのは、おそらく青銅製品であっただろう。

殷周時代の南方諸国に、中華世界の天子が政治的支配を及ぼしていたわけはなかろう。だが、政治的支配がなくとも交易によって継続的な関係にあったはずである。もとより遠方の族長の使節が中華の天子に参賀することはあったであろうが、それは交易を主目的とした儀礼的な通交であって、後世の朝貢貿易と同じく本質は周辺諸国との交易関係にすぎなかったのではなかっただろうか。荀子のような儒家は、経済的ネットワーク圏のことを政治的支配圏と取り違えているのである。そんな中華思想であっても、かつての中華世界は古い時代には青銅製品と絹糸、後の時代には絹織物・茶・磁器・書籍・銅貨といった、周辺諸国が容易に生産できない優秀な財貨を提供することによって、秩序を維持することができたのであった。

正論篇第十八(5)

世俗の説をなす者は、「堯帝は舜帝に禅譲した」と言う。だがこれは、まちがっている。そもそも天子というものは、その勢位は尊いことこのうえもなく、天下に敵はいない。なのに、いったいその最高の勢位を誰に譲ることができるだろうか。天子の道徳は完全に備わっていて、その智恵はきわめて明らかであり、南面して天下の訴えを聞き、人民のたぐいは震え畏れて服従し、教化され従順とならない者とていない。天下には、隠れた士も残された善人もいなくなるほど残らず登用される。天子に同調するものは正しいが、天子と意見を異にするものは不正である。それほどまでの完全無欠の君主が、なんで譲位する必要があるだろうか?

説をなす者は、「死後に天下を譲渡したのだ」と言う。だがこれも、まちがっている。聖王が上に立てば、臣下の徳を考査してこれの位階序列を定め、臣下の能力を考量してこれの官職を与え、全ての人民にそれぞれの仕事を割り振って各自が相応の地位を得るように仕向け、義によって利を制することができない劣った者も、学習によって利己的な本性を矯正することができない劣った者も(注1)、ひっくるめて己の人民として君臨するのである。その聖王が死没して、残された天下に聖人がいなければ、(天下は分裂するのみであって、)もとより天下を譲渡することなどできはしない。だが残された天下に先君の子で聖人の資質を持った者がいるならば、朝廷は百官の位を替えることもなく、国家は制度を改めることもなく、天下はなにごともなかったかのように安心して以前と異なったことは何もなく次代の聖王に引き継がれることであろう(注2)。いわば堯帝の後に堯帝が継承するのであるから、何の変化も起こるはずがない。しかし残された天下に先君の子で聖人の資質を持った者がおらず、三公(さんこう)(注3)に聖人の資質を持った者がいれば、天下がここに赴いて帰することは、いわば聖王の死後の混乱から復帰して再度奮起するようなものである。やはり天下はなにごともなかったかのように安心して、次代の聖王に引き継がれることであろう。これもまた堯帝の後に堯帝が継承するようなものであるから、何の変化も起こるはずがない。ただ、朝廷の人事が交替して国家の制度が変わるので、多少の困難はあるだろう。ゆえに、天子が存命中は天下の礼義は斉一となり、国内は従順を極めてよく治まり、臣下の徳を論考して位階を定めるまでである。だがこれが死去すれば、天下の君主に任ずるに足る者が、必然的に後を継ぐのである。ここに礼義の本分は尽きているのであって、なんで禅譲という行為が必要であろうか?(民心が帰趨するところが、後継の君主となるのである。)

説をなす者は、「老衰したから天下を譲渡したのだ」とも言う。だがこれも、まちがっている。血気や筋力は、確かに衰えるかもしれない。しかしながら知慮や分別は決して衰えることはない。また、「老いた君主は、その任務の労苦に耐えられないので休むことを望むのだ」とも言う。しかしこれは、仕事をなすことを恐れ厭う者の議論である。天子というものは、その権勢は最も重く、その肉体は最も安楽で、その心は最も楽しく、その意志は決して曲げられることはなく、その肉体は労苦をなさず、尊いことこの上もない存在である。服装は五采(ごさい。赤青黄白黒)の彩りにその間色を交えた装束を着け、これに刺繍して文様を重ね、珠玉を飾り加える。飲食は大牢(たいろう。牛・羊・豚の肉)を重ね食して珍味を備え、料理の味と香りはこのうえもなく、楽隊の演奏付きで膳を勧めて皋(おおつづみ)を打って食事し、雍(よう)の音楽とともに膳をかまどに下げ、膳を運ぶ係は百人が西房(せいぼう。回廊の西)に待機するのである。君主の御座所には帳(とばり)を下ろして屏風を立て、衝立(ついたて)を背にして座り、諸侯は君主のいます堂の下で小走りに走って君命を受ける(注4)。宮中の内門を出れば巫覡(ふげき。祈り男と祈り女)が健康を祈り、都門を出るときには大宗伯(たいそうはく)と大祝(たいしゅく)が道中の祝賀を祈り、大路(たいろ。天子の乗車)に乗って越席(かつせき。蒲のむしろ)を敷いて安楽に過ごし、横には睪(たく)と芷(し。いずれも香草)を置いて鼻を安らげ、前には錯衡(さくこう。乗車の手すりのことと思われる)があって目を安らげ、和鸞(からん。車に付いた鈴)の音が鳴り、徐行するときは武象(ぶしょう。武も象も、古楽の曲名)の調子に合わせ、快走するときには韶護(しょうかく。韶も護も、古楽の曲名)の調子に合わせ、これらの音声で耳を安らげる。三公は天子の車の軶(やく。くびき)と納(どう。うちたずな)を捧げ持ち、諸侯のある者は車輪を護衛し、またある者は車の両側をはさんで護衛し、大侯(たいこう)が列に加わり、大夫(たいふ)がその後に続き、小侯(しょうこう)・元士(げんし)がこれに続き、庶士は武装して天子の車が通る道の両側を守り、庶民は天子を畏れて身を隠し、あえてこれを見る者はいない。このように天子は居るときには神妙そのものであり、動くときは天帝のように豪勢である。老いた体を保持して衰えを養うのに、これ以上よいものはあるだろうか?君主は、老いたから休むのではない。もちろん休むことはするが、このように安楽で快適に休むのだ。ゆえに、「諸侯は老衰するが、天子は老衰しない。国を譲ることはあるが、天下を譲ることはない。それは、古今通用の法則である」と言うのである。あの「堯舜は禅譲した」という説は、虚言にすぎない。これは浅薄な者の伝聞にすぎず、固陋な者の説にすぎない。このような説を言う者は、順逆の理を知らず、小大の差を知らず、至高のものと至高にあらざるものの差を知らない者であって、天下の大理に及ぶ者からは程遠いのである。


(注1)原文読み下し「僞(い)を以て性を飾ること能わざれば」。性悪篇における性悪説を下敷きにしている。人間の本性は利己的であり、偽(い)によって本性を矯正しなければ善人とはなれない。
(注2)いうまでもなく、禹→啓の継承を想定している。孟子萬章章句上、六参照。
(注3)三公は周代の官職で、太師(たいし)・太傅(たいふ)・太保(たいほ)のこと。あわせて師傅(しふ)と言う。楊注は、「三公は宰相なり」と言う。要は天子の最側近にして、臣下の最高位の者。
(注4)原文「趨走」。古代宮廷の礼において、家臣は君主の前では小走りで動かなければならない。屈従の演出である。
《原文・読み下し》
世俗の說を爲す者曰く、堯・舜は擅讓(ぜんじょう)すと。是れ然らず。天子なる者は、埶位(せいい)至尊にして、天下に敵無し、夫れ有(また)誰と與(とも)に讓らん。道德は純備し、智惠は甚だ明かに、南面して天下を聽き、生民の屬、震動・從服して以て之に化順せざること莫く、天下に隱士無く遺善無く、焉(これ)に同する者は是(ぜ)にして、焉に異なる者は非なり、夫れ有(また)惡(いずく)んぞ天下を擅(ゆず)らん。曰く、死して之を擅ると。是れ又然らず。聖王上に在れば、德を圖(はか)りて次を定め、能を量りて官を授く、皆民をして其の事を載(おこな)いて(注5)各(おのおの)其の宜しきを得しめ、義を以て利を制すること能わず、僞(い)を以て性を飾ること能わざれば、則ち兼ねて以て民と爲す。聖王已に沒し、天下聖無ければ、則ち固(もと)より以て天下を擅るに足ること莫し。天下に聖にして(集解・兪樾に従い補填)後子(こうし)(注6)に在る者有らば、則ち天下離れず、朝は位を易えず、國は制を更(あらため)ず、天下厭然(えんぜん)(注7)として、鄉(さき)と以て異なること無きなり。堯を以て堯に繼ぐ、夫れ又何の變ずることか之れ有らん。聖、後子に在らずして三公に在れば、則ち天下如(ゆ)き(注8)歸すること、猶お復(ふく)して之を振うがごとし。天下厭然(えんぜん)(注7)として、鄉(さき)と以て異なること無きなり。堯を以て堯にぐ、夫れ又何の變ずることか之れ有らん。唯(ただ)其れ朝を徙(うつ)し制を改むるを難しと爲すのみ。故に天子生ずれば則ち天下隆を一にし、順を致して治め、德を論じて次を定め、死すれば則ち能く天下に任ずる者必ず之を有す。夫の禮義の分盡(つく)せり、擅讓惡(いずく)んぞ用いんや。曰く、老衰して擅ると。是れ又然らず。血氣・筋力は則ち衰うること有り、夫の智慮・取舍(しゅしゃ)の若きは則ち衰うること無し。曰く、老者は其の勞に堪えずして休す、と。是れ又事を畏る者の議なり。天子なる者は埶(せい)は至重にして形は至佚(しいつ)、心は至愉(しゆ)にして志は詘(くつ)する所無し、形は勞を爲さず、尊は無上なり。衣被(いひ)は則ち五采を服して、間色を雜(まじ)え、文繡を重ね、之に加飾するに珠玉を以てす。食飲は則ち大牢(たいろう)を重ねて珍怪を備え、臭味を期(きわ)め(注9)、曼(まん)して(注10)饋(き)し、睪(こう)を代(う)ちて(注11)食し、五祀(ごし)に雍(よう)して徹(てつ)す、薦(せん)を執る者は百餘人、西房(せいぼう)に侍す。居れば則ち張容(ちょうよう)(注12)を設け、依(い)(注13)を負いて坐り、諸侯は堂下に趨走(すうそう)す。戶を出でて巫覡(ふげき)事有り、門を出でて宗祀(そうしゅく)(注14)事有り、大路に乘じ[趨](注15)越席(かつせき)して以て安を養う、側に睪芷(たくし)を載(いだ)きて以て鼻を養う、前に錯衡(さくこう)有りて以て目を養う、和鸞(からん)の聲ありて、步(ほ)は武象(ぶしょう)に中(あた)り、騶(すう)(注16)は韶護(しょうかく)に中りて以て耳を養う、三公は軶(やく)を奉じて納(どう)を持し、諸侯は輪を持し、輿(よ)を挾み、馬を先(みちび)き、大侯は後に編し、大夫は之に次ぎ、小侯・元士は之に次ぐ。庶士は介して道を夾(はさ)み、庶人は隱竄(いんざん)して、敢て望視すること莫し。居は大神の如く、動は天帝の如し。老を持し衰(すい)を養うこと、猶お是より善き者有りや。老なる者は休すとするに不(あら)ざるなり(注17)。休するも猶お安樂・恬愉(てんゆ)是(かく)の如くなる者有らんや。故に曰く、諸侯は老有れども、天子は老無し、國を擅ること有れども、天下を擅ること無きは、古今一なり、と。夫の堯・舜は擅讓すと曰うは、是れ虛言なり。是れ淺者の傳(でん)、陋者(ろうじゃ)の說なり。逆順の理、小大・至不至(しふし)の變を知らざる者なり、未だ與(とも)に天下の大理に及ぶ可からざる者なり。


(注5)増注は、「載」はなお「行」のごとし、と言う。
(注6)原文「天下有聖而在後者」。このまま読めば、「天下聖にして後に在る者有らば」となる。集解の兪樾は、後ろの三公のくだりと同じく「後」の下に「子」字があるべし、と言う。兪樾に従って「子」字を補っておく。
(注7)猪飼補注は「如」は「往」なり、と言う。
(注8)楊注は「厭然」を順服の貌と言う。この場合は「ゆうぜん」と読む。新釈の藤井専英氏は儒效篇に合わせてこれを「えんぜん」と読み、平静安楽の貌と見る。藤井説を取る。
(注9)楊注は、「期」は「綦」たるべし、と言う。きわめる。
(注10)増注は、「曼」は「縵」と読むべし、と言う。縵楽は雑声の楽を和すもの、つまりさまざまな楽器がアンサンブルを奏でること。
(注11)原文「代睪」。集解の劉台拱は、「代睪」は「伐皋」たるべしと言う。「皋」は古字で「鼛」と通じる。「おおつづみをたたく」。
(注12)増注は「張」は「帳」に通ず、と言い、楊注の郭璞説は「容」は牀頭の小曲屏風と言う。幔幕と屏風。
(注13)楊注は「依」は「扆」と同じ、と言う。戸や窓の間に立てる衝立(ついたて)。
(注14)楊注は、「祀」は「祝」たるべし、と言う。「宗祝」で大宗伯と大祝、祭礼を行い、福祥を祈る官。
(注15)漢文大系は増注本に従って「趨」字を削る。新釈の藤井専英氏は「越席」の上に用言が欲しいが、「趨」の意が考え付かないので一応衍字として解釈する、と言う。
(注16)楊注は、「騶」は「趨」たるべし、と言う。
(注17)前の文の終わりから原文を書くと、「猶有善於是者與、不老者休也」。読み方には諸説ある。(1)楊注の或説、増注、集解の王念孫は、「不」を衍字とする。金谷治氏はこれに従っている。《これ以上よいものはあるだろうか?老人もまた休息するのであるが、、》(2)集解の郝懿行は、「不老」は「不衰老」である、と言う。《これ以上よいものはあるだろうか?聖人は決して老衰しない。それでも休息するのであるが、、》(3)集解の兪樾は「不」字は「否」の誤りであり、前の文に続けるべしと言う。それならば「不」を「與」の上に出して「者不與、不老者、、、」となるであろう。漢文体系はこれに従っている。《これ以上よいものはあるか否か?老人もまた休息するのであるが、、》(4)新釈の藤井専英氏は、「不」は「非」であると解する。藤井説がもっとも明快であるので、訳はこれに従う。

ついで、堯舜禅譲説への荀子の反論である。伝えられるところによると、堯帝は後継者を探していたところ舜を庶民から見出した。堯帝はその徳を試すために、まずこれに自らの二人の娘と九人の皇子を仕えさせた。舜はこれらをよく感化することができたので、堯帝は登用して二十八年間摂政をさせた。二十八年の後に、堯帝は崩御した。三年の喪の後に人民は堯帝の皇子の丹朱(たんしゅ)を慕わず、舜を帝位に推戴した。舜はこれを受け、帝位に即位したという。この一連のストーリーは、『孟子』萬章章句において詳細に述べられている。孟子は舜帝が後を継いだのは堯帝が崩御した後に人民が堯帝の息子を選ばず舜帝を選んだからだと言い、天子は後継者を天に推薦することはできるが自ら天下を譲渡することはできず、天の意志は人民が選択する意志に反映されるのだ、と言う(正論篇(2)の引用を参照)。孟子は同様の論理をもって禹(う)の死後に息子の啓(けい)が人民の支持を得て即位したことを挙げて、聖王の後を家臣が継ぐか子孫が継ぐかは人民の支持によって分かれるだけであり、両者の優劣はない、と説明した。

ここでの荀子の説明は孟子の説明を受け継いで、それに付け加えて堯帝が老衰したから舜帝に帝位を禅譲した、という説をも却下しようという狙いがある。さきに検討したように、荀子は孟子からさらに進んで、天の意志を抜き取ってしまう。残るのは、人民の意志だけである。天子の地位は国家の最高官職として、その最高責任者の職務にふさわしい人物だけが就くことができる。現代的な用語を用いるならば、天子の地位は即位時に人民の附託を受けて就任しているのであり、これを個人の意志で譲渡することはできない、と荀子は言いたいのである。

そのために、聖人の死後に聖人がいなければ、もはや天下の統一はおしまい、とまで言ってしまうことになった。聖人の子孫が聖人であることは滅多にないはずだから、天下の統一を終わらせないためには他の聖人を生前のうちに三公にまで上せておかなければならない、という結論に達するより他はない。孟子は禹から啓への継承が人民の意志であった、ということを盾にして、ちゃっかり禹→啓から始る夏王朝を肯定してしまった(萬章章句上、六)。孟子は、殷のような王朝は「長い間統治していたならば、いきなり衰えたりはしないものだ」(公孫丑章句上、一)と言って、長期的に続いた王朝はそれまでの積み重ねがあるから多少の危機があっても世襲は続くのだ、と言った。このように孟子は仁義の人が君主であるべきだ、と一方で主張しながらも、世襲王朝に対して妥協的な意見を述べた。しかしながら、荀子は孟子のように聖王でなくても遺風で続く、というようなあいまいな態度を取らない。荀子は、聖人の君主の後は聖人でなければ天下に支持されない、と言い切り、孟子と違って世襲王朝を続ける道を封殺するのである。

ただ、中華世界には聖人を選挙で選ぶ、という制度がない。そのために、後半の荀子の説明は現代の我々が読むとなんともグロテスクかつ滑稽なものとなっている。聖人は至れり尽せりの贅沢な暮らしを許されるのだから、たとえ老衰しても心労することはないから統治力は衰えないのだ、などと言う。こんな言葉は、まるで信用できない。荀子の言うようないわば無菌状態に置かれた君主が、なんで国家の重大事を採決できるだろうか。老衰しても知力や分別が衰えない、という点もまた大いに疑問である。荀子の論で言えば君主の代替わりは死没しかありえないのであるから、耄碌した聖人が上に立っていることの弊害を、どうして想定しないのか。「麒麟も老ゆれば駑馬にも劣る」という格言を、どうして無視するのか。ここで荀子は完全な詭弁に陥っていて、説得力はゼロである。どうして、このような無理な説明をするのだろうか?

荀子は、堯帝・舜帝をモデルケースとして、現行の君主は必ず自らの後継となる聖人を天下から見つけ出して三公の位に上げ、死後に天下を継がせなければならない、と言う理想をここで言おうとしているのだと私は考える。聖人が後に聖人を選び、その聖人がまた聖人を選ぶ、、、を続けるならば、継続して聖人の治世が続いて天下は安泰となるだろう。荀子にとっては、選挙による君主の選任は想定の外であった。よって、君主は聖人が聖人を代々選ぶことによって継続的に法治官僚国家が安定して運営されることを期待していたはずである。荀子の法治官僚国家は、君主の世襲を想定せず、トップが天下の中から次の有能な者を選抜して交替していく、選挙を伴わない首長交替制を理想としていると思われる。これもまた、孟子よりもさらに先鋭化した荀子の民本主義の帰結であった。

だが聖人は衰えるのではないか?という問題はどうするのか。これを技術的にクリアできる制度を作るならば、理念としては統一中華国家は継続して聖人が治めることができるだろう。荀子はおそらく、最高位には君臨すれども統治せず、下の宰相を信認する君主を置き、その宰相は血筋にこだわらず有能な者を抜擢して政治を執らせるシステムを想定していたと思われる。堯帝が舜に二十八年間政治を執らせたように、である。王制篇の官職表では、最高位の君主(官職表では天王)は実質上統治は行わず、近代的用語で言えば「君臨すれども統治せず」のシンボル的君主である。実際の職務は、宰相(官職表では冢宰)以下が行うのである。選挙による首長選定を想定しない限り、荀子としては聖人が聖人を継承して統治するシステムはこのようであったのだろう。最高君主はシンボル的存在で統治は行わず、宰相以下の官僚は礼法に基づいて能率的な統治を行う。荀子は彊国篇で秦国の能率的な官僚制を絶賛していたが、彼の想定していた法治官僚国家はこのようなものであったと私は思うところである。

もっとも、私個人としては、荀子のシステムが古代中国において最も先鋭的な案であったことは認めるが、これを現代の世界において推奨する気はない。それはすでにある法治官僚国家の現実であり、あえて推奨するようなものではないからである。