正論篇第十八(3)

By | 2015年5月11日
世俗の説をなす者は、「いにしえの統治がゆきとどいた黄金時代には、体刑はなくて象徴刑しかなかった。墨(いれずみ)の刑は、頭に黒い頭巾をかぶせて辱める刑であった。劓(はなそぎ)の刑は、黒く染めた纓(かんむりのひも)を付けて辱める刑であった。去勢の刑は、青白色の膝掛けを付けさせて辱める刑であった。剕(あしきり)の刑は、麻の靴をはかせて辱める刑であった。死刑は、赤い襟なしの上着を着せて辱める刑であった。いにしえの統治がゆきとどいた黄金時代は、このように刑罰すら穏やかであったのだ」と言う。だがこれは、まちがっている。この者が想定しているような治世であれば、人はもとより犯罪など犯すことすらなかったはずではないか?つまり体刑はおろか、象徴刑すら用いる必要がなかったであろう。しかし何らかの理由で人が犯罪を犯すことに至ったとき、単にその刑罰を軽くするのであれば、殺人犯は死なずに済むし、傷害犯は刑罰を受けずに済むこととなるだろう。重大な犯罪を犯しながら刑罰が軽すぎたならば、賢明でもない一般人は、犯罪者を憎む理由がなくなってしまう。ならば、これ以上にないカオスが起きることは必至ではないか。およそ人を刑する基本は、暴を禁じて悪を憎み、かつそれらを未然に抑止するところにある。なのに殺人犯が死刑とならず、傷害犯が罰せられないというのか。それは、暴に恵んでやって賊に寛大であるというのであって、悪を憎むこととは違う。ゆえに、象徴刑などというものは、いにしえの統治がゆきとどいた黄金時代に起こったのではない。それは、ただいまの乱世に始ったごく近年の現象なのである。いにしえの時代は、そうではなかった。爵位の序列、有司の官職、褒賞と刑罰、これらは全て功績と犯罪への応報として作られた。成し遂げた善事と悪事に応じて、これらの賞罰が比例して与えられたのであった。その一つでも比例が破られると、乱の始まりとなる。徳は位に応じず、能力は官職に応じず、褒賞は功績に応じず、刑罰は犯罪に応じない。これは、最悪の事態ではないか。昔、武王は殷を討って紂(ちゅう)(注1)を誅殺し、その首をはねてこれを自軍の赤旗に掲げた。このように、暴虐な者を成敗して強暴な者を誅するのは、統治のもっとも盛んな時代のしるしなのである。殺人犯は死に、傷害犯は刑罰を受ける法は、わが国の歴史上の王(注2)たちが常に変わらず保っていたものであり、いつから始ったのかすら分からないほど人類普遍の法なのである。刑罰が犯罪に比例していれば、よく治まるであろう。しかし刑罰が犯罪に比例しなければ、カオスとなるであろう。ゆえに治世においては刑罰はかえって厳格なのであり、逆に乱世においては刑罰はいいかげんで軽くなる。治世において犯罪を犯す罪はきわめて重く、乱世においては犯罪を犯す罪はきわめて軽くなる。『書経』に、この言葉がある。:

刑罰とは、時代によって重かったり軽かったりする。
(周書、呂刑篇)

この言葉の意味は、治世と乱世のことを言っているのである。


(注1)武王と紂については、正論篇(2)参照。
(注2)原文「百王」。天論篇(3)注3と同じ。
《原文・読み下し》
世俗の說を爲す者曰く、治古は肉刑無くして、象刑(しょうけい)有り、墨(ぼく)は黥(ぼう)(注3)し、(増注に従い補填)劓(ぎ)は慅嬰(そうえい)し(注4)、共(きゅう)(注5)は艾畢(がいひつ)し、菲(ひ)(注6)は對屨(ほうく)(注7)し、殺は赭衣(しゃい)して純(じゅん)せず、治古は是(かく)の如しと。是れ然らず。以て治と爲さんか、則ち人は固(もと)より罪に觸(ふ)るること莫かるべし。獨り肉刑を用いざるのみに非ず、亦象刑を用いざらん。以て人或(あるい)は罪に觸るるも、而(しか)も直(ただ)其の刑を輕くすと爲さんか、然れば則ち是れ人を殺す者も死せず、人を傷つくる者も刑せられざるなり。罪至重にして而も刑至輕なれば、庸人(ようじん)は惡(にく)むことを知らず、亂焉(これ)より大なるは莫し。凡そ人を刑するの本は、暴を禁じ惡を惡み、且つ其の未(み)を懲らすなり。人を殺す者死せずして、人を傷つくる者刑せられず、是を暴を惠みて賊を寛にすると言う、惡を惡むに非ざるなり。故に象刑は殆(ほと)んど治古に生ずるに非ず、並(まさ)に(注8)亂今(らんこん)に起こるなり。治古は然らず。凡そ爵列・官職・賞慶・刑罰は、皆報なり、類を以て相從う者なり。一物稱(しょう)を失するは、亂の端(はじめ)なり。夫(か)の德は位に稱(かな)わず、能は官に稱わず、賞は功に當らず、罰は罪に當らざるは、不祥焉より大なるは莫し。昔者(むかし)武王有商(ゆうしょう)を伐ちて、紂(ちゅう)を誅し、其の首を斷ちて、之を赤旆(せきはい)に縣く。夫(そ)れ暴を征し悍(かん)を誅するは、治の盛(さかん)なり。人を殺す者は死し、人を傷つくる者は刑せらる、是れ百王の同じき所なり、未だ其の由來する所を知る者有らざるなり。刑罪に稱えば則ち治まり、罪に稱わざれば則ち亂る。故に治には則ち刑重く、亂には則ち刑輕し。治に犯すの罪は固より重く、亂に犯すの罪は固より輕きなり。書に曰く、刑罰は世にて輕く世にて重し、とは、此を之れ謂うなり。


(注3)楊注は、「黥」は「幪」たるべし、と言う。頭に黒い頭巾をかぶせる刑。なお漢文大系では「幪」字にくさかんむりのない別体を用いているが、CJK統合漢字拡張Aにもないので代用する。
(注4)楊注は「慅嬰」は「澡纓」たるべしと言い、あるいは『慎子』を引いて「草纓」とも読む、と言う。増注はまず古屋鬲の説を引いて、上に「劓」字があるべしと言い、それならば『慎子』では「草纓」とあるのと符号する、と言う。増注に従って補い、「劓(はなそぎ)の刑は、黒く染めた纓(かんむりのひも)を付けて辱める刑であった」と解する。
(注5)増注は荻生徂徠を引き、「共」は「宮」の誤りと言う。去勢の刑。
(注6)増注は荻生徂徠を引き、「菲」は「剕」の誤りと言う。足切りの刑。
(注7)楊注は「對屨」は「䋽屨」であるべしと言う。麻製の靴。「䋽」字はCJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注8)増注は「並」は「方」に通じると言う。

つぎは、刑罰論である。世俗の説が言いたいことは、明確である。いにしえの堯・舜のような聖代は重い刑なしでよく治まっていた。ひるがえって今の時代は末世なので重い刑罰があるのだ、という、過去を賛美して現代を批判する意図がある。荀子は、それに反論する。むしろよく治まる時代こそ刑罰は重く、今の時代は末世だから刑罰はでたらめで軽いのだ、と。ここには、人間は秩序なしでは利己心に従って争い奪うことを行うばかりであり、ゆえに人間は生命の安全と経済的繁栄を得るために君主の権力にあえて従いその秩序の下に入るのだ、という荀子の社会契約説がある。富国篇を参照していただきたい。

しかし儒家の主流な考えは徳治主義であり、刑罰よりも教化によって人間を善導するべきだ、という。

之を道(みちび)くに政を以てし、之を齊(ととの)うるに刑を以てすれば、民免れて恥ずること無し。之を道くに德を以てし、之を齊うるに禮を以てすれば、恥の有りて且つ格(いた)る。
(論語、為政篇)


この孔子の言葉は、教科書に引用されるほどに著名である。「政によって指導し刑罰によって規制すると、人民は刑罰さえかからないなら何をしようと恥とは思わない。道徳によって指導し、礼によって規制すると、人民は恥をかいてはいけないと考えて、自然に治まる。」と孔子は言ったという。

葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾が党に躬(み)を直(なお)くする者あり、その父、羊を攘(ぬす)みて、子これを証(あら)わせり、孔子曰わく、吾が党の直き者は是に異なり、父は子の為に隠し、子は父のために隠す、直きこと其の中(うち)に在り。
(同、子路篇)


葉公が、羊を盗んだ父の罪を訴えた子のことを孔子に言った。それに対して孔子は、我々の仲間うちで正直な者とは、むしろ父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠す。正直とはその中にあるのだ、と反論した。

これら孔子の言葉と比較したら、荀子の厳罰を肯定する主張は儒家にあるまじき邪道であるかのように見える。しかしながら、荀子とて君主の教化を否定しているわけではないことは、これまでの各篇で明らかなことだ。荀子は、刑罰が軽いほうがよく治まる、という考えを拒否して、より現実的な主張を行っただけのことである。

世俗の説と荀子の説と、どちらが正しいだろうか?少なくとも上の言葉を言った孔子は、魯国の大司寇(だいしこう)つまり司法長官に就任したとき、権力を以て大夫の少正卯(しょうせいぼう)を誅殺し、大貴族で権勢をもっぱらにしていた三桓氏の居城を破壊して、その力を削減しようとした。その過程で、季孫氏の居城の費(ひ)を破壊しようとしたとき公山不狃(こうざんふちゅう)と叔孫輒(しゅくそんちょう)が謀反の兵に出たが、孔子はこれを武力を用いて鎮圧した(『史記』孔子世家)。孔子とて政治を執った時期には、徳だけで統治を行ったわけではなかったのである。孔子は、政治家でもあった。通常は倫理家だけの側面だけ取り上げて理想化するが、荀子はおそらく孔子の現実的な政策も見ていたことであろう。

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