解蔽篇第二十一(5)

By | 2015年5月22日
およそ諸物を観察するときにおいて、疑いがあって内部の心が定まっていないならば、外部の諸物が明確に見えることがない。自分の思慮が明確でないならば、是非を定めることがまだできる状態とならないのである。暗闇の道を行く者は、転がっている岩を見て虎が臥せっていると間違い、立っている木々を見て誰かが自分の側にいると間違える。それは、暗闇がそれらの明晰さを蔽っているからである。酔っ払った者は、百歩(135m)の幅もある大きな溝を、あたかも半歩程度の小さな溝であるかのように飛び越えようとする。またうつむいて都市の城門をくぐり抜けようとして、あたかも家の小さな戸を出るかのように考える。これらは、酒が理性(注1)を狂わせているのである。手の指で目を蔽って視る者は、一つのものを二つあると勘違いする(注2)。耳を掩(おお)って聴く者は、何も音が鳴っていないのに大きな音が鳴ったと勘違いする。これらは、状況が人間の感覚器官を乱しているからである。ゆえに、山の上から牛を見下ろすと羊のように小さく見えるが、羊を追い求める者は山を下りていったりしない。それは、距離の遠さが実際の大きさを狂わせている(ことを常識者は認識しているからである)。また山の下から山の木を見上げれば、十仞(15.75m)の長さの木が箸の短さにすら見えるが、箸を追い求める者は山に登って木を折り取ろうとはしない。それは、標高の高さが実際の長さを狂わせている(ことを常識者は認識しているからである)。水面が動いてそこに映った姿が乱れたならば、人はその乱れて映った姿によって美醜を定めようとしない。それは、水の状態が実際の姿を狂わせている(ことを常識者は認識しているからである)。盲人が空を仰ぎ見て「星が見えない」と言ったとしても、人はその言葉によって空に星があるかないかを論じたりはしない。それは、盲人の目がつぶれている(ことを常識者は認識しているからである)。しかしここに人がいて、これらのような疑わしい観察をもって物の実際を定めようとするならば、この者は世の愚者というものであろう。この愚者は物の実際を定めようとするとき、疑わしい観察によって疑問を裁決しようとするのである。このような裁決が当たる道理は全くない。裁決が当たらないならば、過ちを行わないはずもない。夏口(かこう)の地の南に、涓蜀梁(けんだくりょう)(注3)という者がいた。その人となりは、愚かでものごとをひどく恐れた。月の明るい夜に歩いていて、うつむいて自分の影を見た。彼はそれを幽霊がうずくまっている(注4)と勘違いし、あわてて上を向いたら自分の髪を見て化物が立っていると勘違いし、影から逃げようと走って、自分の家にたどり着いた頃には失神して死亡したという。哀れではないか。およそ人が「幽霊がいる!」と思うときは、必ず何かの妄念に捉われているときであるか、疑心暗鬼に陥っているときにそれを見定めるのだ。こういう時にこそ、人は有るものを無いとみなし、逆に無いものを有るとみなすのでる。それなのに、人はこのときすでに有るものを無いと決め付け、また無いものを有ると決め付けてしまい、心が逃れられない。湿気で体が病んで痺(ひ。リューマチ)になったので(注5)、病気治しのまじないとして太鼓を打って悪霊退散を願ったとしても、太鼓が破れて供え物の豚の出費をしたが結局のところ病気が治る幸福は来ない。このような迷信を信じる輩は、涓蜀梁と同じ夏口の南に住んでいなくとも、その蔽われた判断力に何らの変わりはない(注6)


(注1)原文「神」。これも前回にならって、「理性」と意訳する。
(注2)このことは、人間の脳の統覚作用によって起こることがない。荀子のこのたとえは、上手とはいえない。
(注3)楊注は、何代の人か未詳と言う。
(注4)原文「伏鬼」。漢文で「鬼(き)」は死者の霊魂のことであり、日本的に訳せば幽霊である。日本語の「鬼(おに)」と区別しなければならない。
(注5)痺(ひ。リューマチ)は湿気によって起こる、と考えられていたという。
(注6)荀子が幽霊や化物の存在を認めていたかどうかは、なんとも言えない。天論篇においても、「妖怪」が実在するかのような言い方もしている。しかしながら、祈りやまじないに不幸を払いのける神通力があるという信仰に対しては、荀子はこれを断固として退ける。荀子は人間が自然に働きかけて幸福を得る道だけを信じるからである。天論篇を参照。
《原文・読み下し》
凡そ物を觀るに、疑有りて中心定まらざれば、則ち外物清ならず。吾が慮清ならざれば、則ち未だ然否を定む可からざるなり。冥冥にして行く者は、寢石(しんせき)を見て以て伏虎(ふくこ)と爲し、植林を見て以て後人(こうじん)(注7)と爲すなり。冥冥其の明を蔽えばなり。醉者(すいしゃ)は百步の溝を越えて、以て蹞步(きほ)の澮(かい)と爲し、俯して城門を出ずれば、以て小の閨(けい)と爲すなり。酒其の神(しん)を亂ればなり。目を厭(おお)いて視る者は、一を視て兩と爲し、耳を掩(おお)いて聽く者は、漠漠(ばくばく)を聽きて以て哅哅(きょうきょう)と爲す。埶(せい)其の官を亂ればなり。故に山上從(よ)り牛を望む者は羊の若し、而(しか)れども羊を求むる者は下りて牽(ひ)かざるは、遠(えん)其の大を蔽へばなり。山下從(よ)り木を望む者は、十仞(じゅうじん)の木も箸の若し、而れども箸を求むる者は上りて折らざるは、高(こう)其の長を蔽えばなり。水動きて景(かげ)搖(うご)げば、人は以て美惡を定めざるは、水埶(すいせい)玄(げん)なればなり。瞽者(こしゃ)仰ぎ視て星を見ずというも、人以て有無を定めざるは、用精(もくせい)(注8)惑えばなり。焉(ここ)に人有りて、此の時を以て物を定むるは、則ち世の愚者なり。彼の愚者の物を定むるや、疑を以て疑を決す。決必ず當(あた)らず。夫れ苟(いやし)くも當(あた)らずんば、安(いずく)んぞ能く過つこと無からんや。夏首(かしゅ)の南に人有り、涓蜀梁(けんだくりょう)と曰う。其の人と爲りや、愚にして善く畏る。明月にして宵行(しょうこう)し、俯して其の影を見て、以て伏鬼と爲す。卬(あお)ぎで其の髮を視て、以て立魅(りつみ)と爲す。背きて走り、其の家に至る比(ころおい)、氣を失いて死す。豈(あ)に哀しからずや。凡そ人の鬼有りとするや、必ず其の感忽(かんこつ)の間、疑玄(ぎげん)の時を以て之を正(さだ)む(注9)。此れ人の有を無として無を有とする所以の時なり。而(しこう)して已(すで)に(注10)以て事を正(さだ)む(注8)。故に溼(しつ)に傷(いた)められて、鼓を擊(う)ち痺(ひ)を鼓するも(注11)、則ち必ず鼓を敝(やぶ)りて豚を喪うの費有りて、而(しか)も未だ疾を俞(い)やすの福有らざるなり。故に夏首の南に在らざると雖も、則ち以て異なること無し。


(注7)新釈の藤井専英氏は于省吾の説を引いて「後」は「厚」で多の意、と言う。これに従えば、多数の人の群れと間違う、という解釈となろう。集解の兪樾は「後人」は「立人」であろう、と言う。猪飼補注は、「林」は「木」たるべしと言い、また「後」は「候」に作るべしと言う。「後」については、兪樾の説とも繋げることができる猪飼補注を取りたい。
(注8)猪飼補注は、「用」は「目」の誤り、「精」は「睛」に通じる、と言う。つまり、目の瞳。これに従う。
(注9)増注は荻生徂徠を引いて、「正」は「定」と訓ずと言う。これに従う。
(注10)集解本に拠る漢文大系は、本文で「已」字を用いている。影宋台州本に拠る新釈は本文が「己」字であり、注でここは難解な句であり「己」は「已」なのかもしれぬ、と付け加えている。漢文大系に従って「已」字として解釈する。
(注11)原文「故傷於溼、而擊鼓鼓痺」。ここは新釈の藤井専英氏に従って字を補填せずに読み下した。漢文大系は王念孫の疑義を採用して、「故に溼(しつ)に傷(いた)められて痺(ひ)し痺して鼓を擊(う)ち豚を烹(に)れば」と作るべし、と注する。アンダーラインは王念孫の補填するところ。藤井説では、「鼓痺」の「鼓」を用言とみなして、「(痺の病気を)太鼓を打って退散させる」の意に解釈する。確かに原文のままでは文字不足の感が否めないが、藤井説の解釈で読めないわけではないので、これを採用することにしたい。

さらに続けて、人間の感覚的認識は理性による反省を欠くと間違うことがある、ということを例を挙げて説明する。荀子の論述は、論理の飛躍が少ない。漢文においては、稀有な例である。解蔽篇は、人間の認識が蔽われて誤ることが極めて多いことを説明し、君子はそれを避けて正しい認識を得るために心を「虚静にして壱」の状態に置かなければならない、と言う。次回の結論では、世の中に詭弁が横行していることを批判して、君子は詭弁を排斥し、正しい認識を行い、王者の制を採用して天下国家を正しく指導しなければならない、と結論する。その是非はさておき、その論議は尽くされている。同じ中国で千年以上後に議論を行った朱子や王陽明と比べてみても、荀子の論述はより着実に段階を追ってより西洋的であるという印象を私は受ける。荀子は、国家を指導する君子は世界に対する完全な認識を持つ義務があり、かつ認識を持つことが可能である、ということを論証するために、この解蔽篇および続く正名篇を捧げているのである。西洋哲学に置き換えたならば、「国家の統治者はイデアを認識することが必要で、なおかつ可能である」というテーマを論じている。私には古代西洋思想を追う力はないが、荀子よりやや前の時代に活動したプラトン・アリストテレスの国家論と比較することは、きっと有益なことであろう。荀子の論述は、孔子や孟子の短く多義的な解釈を許すスローガンとは、読み方を変えなければならない。

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