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不苟篇第三(5)

通士(つうし)という者がいて、公士(こうし)という者がいて、直士(ちょくし)という者がいて、愨士(かくし)という者がいて、そして小人という者がいる。上はよく君主を尊び、下はよく人民を愛し、物が来たならばこれに対応し、事が起こったならばこれを処理する。これが事物の処理によく通じた士、すなわち通士というべき者である。下の者と徒党を組んで上の者に情報を覆い隠すことをせず、上の者と同調して下の者を苦しめたりせず、争いがあればこれを中立の立場で仲裁し、私情を挟んで判断を曲げない。これが公正な士、すなわち公士というべき者である。己の長じたところを上の者が知らなくてもそれで君主を恨むことなく、己の足りないところが上の者に気づかれていなくてもそれにかまけて褒賞を掠め取ったりせず、己の長所も短所も飾らず表に出し、己の実情をもって尽力する。これが廉直な士、すなわち直士というべき者である。常日ごろから言葉に信を置き、常日頃から行動を慎み、世間の凡俗に従うことを畏れて控えるが、己の独善独行をはなはだしくやりすぎない。これが謹直な士、すなわち愨士というべき者である。だが言葉に常の信がなく、行動に常の貞節がなく、ただ利のあるところに尻尾をふることしかしない。これが小人というべき者である。

公正は、明知を生じる。偏狭は、暗愚を生じる。謹直は、仕事を前に通じさせる。詐りの行為(注1)は、仕事を閉塞させる。心中が誠に仁義であるならば、外部に精妙なはたらきを生じさせる(注2)。言葉が誇大であるならば、外部を困惑させる。君たちは、これら六つのことが生じることを、心に慎まなければならない。これこそが聖王の禹(う)と悪王の桀(けつ)を分けるところなのである。

「欲しい・嫌い・得るべき・捨てるべき」を量る基準について。欲しいものを見たときには、必ずそれを得る前後の過程において嫌うべきものがどれぐらい身に降りかかるか、を熟考しなさい。利益になるものを見たときには、必ずそれを用いる前後の過程において害となるべきものがどれぐらい発生するか、を熟考しなさい。そういった熟考の後に両者を量り、詳しく検討して、それから後に「欲しい・嫌い・得るべき・捨てるべき」を判断しなさい。このようにすれば、常に失敗はないであろう。およそ人のわざわいは、偏りにある。欲しいものを見て、それに伴う嫌うべきものを熟考しない。利益になるものを見て、それに伴う害となるべきものを顧みない。このような一方的な判断では、動けば必ず失敗し、行えば必ず恥をかくだろう。これは、偏りが起こすわざわいなのである。

他人が嫌うものは、自分もまた嫌うものなのである。富貴の者に逆らってこれを軽んじ、貧賤の者を必死に労わって安んじようと試みる。だがこれは、仁の人の「情」に従うものではないであろう(注3)。むしろ、姦悪の者が乱世において虚名を盗もうとする企みと見なければならない。これほどに陰険な企みが、あるだろうか?古語に、「名を盗むは財貨を盗むより悪い」とある。田仲(でんちゅう)と史鰌(ししゅう)(注4)は、したがって盗賊より悪い。


(注1)原文「詐偽」。「さぎ」ではなくて「さい」と読まなければならない。荀子において「偽(い)」は人為的行為の意を指すからである。正名篇・性悪篇を参照。ただし、性悪篇(6)注18のように、「偽」字が悪い行為の意で用いられている用法もある。ここでの「詐偽」の「偽」もまた悪い行為の意で用いられているのであって、「詐」字と実質上同義と取られても致し方ない。ここもまた性悪篇と同様に、「偽」字の使用を肯定的な意味で徹底しない『荀子』編集者の不注意と言える。
(注2)原文読み下し「誠信は神を生じ」。ここでの「誠」・「神」は、さきの不苟篇(4)中段の議論を受けた用語であると解釈できる。
(注3)原文読み下し「是れ仁人の情に非ざるなり」。「情」は正名篇の定義に従えば、「性の好惡・喜怒・哀樂、之を情と謂う」。すなわち「情」とは人間の生物的本能である「性」から発する衝動のことである。仁の人でも人間の「性」は同じなのであるから、富貴を嫌い貧賤を喜ぶ「情」を発するはずがない。ここでは田仲・史鰌を批判するのが目的であるから、このような叙述となっているのである。集解の兪樾は「仁」を衍字と解しているが、ここは「仁人」でよい。
(注4)田仲は非十二子篇では陳仲で表れる。陳仲・史鰌への荀子の批判については、非十二子篇を参照。
《原文・読み下し》
通士なる者有り、公士なる者有り、直士なる者有り、愨士(かくし)なる者有り、小人なる者有り。上は則ち能く君を尊び、下は則ち能く民を愛し、物至りて應じ、事起りて辨(べん)ず(注5)、是(かく)の若くんば則ち通士と謂う可し。下に比して以て上を闇(くら)まさず、上に同して以て下を疾(や)ましめず、爭を中に分ち、私を以て之を害せず、是の若くんば則ち公士と謂う可し。身の長なる所、上知らずと雖も、以て君を悖(うら)まず、身の短なる所、上知らずと雖も、以て賞を取らず、長短飾らず、情を以て自ら竭(つく)す、是の若くんば則ち直士と謂う可し。庸言(ようげん)は必ず之を信にし、庸行(ようこう)は必ず之を愼み、流俗に法(のっと)らんことを畏るるも、而(しか)も敢て其の獨する所を以て甚(はなはだ)しく(注6)せず、是の若くんば則ち愨士と謂う可し。言に常信無く、行に常貞無く、唯(ただ)利の在る所、傾かざる所無し、是の若くんば則ち小人と謂う可し。
公は明を生じ、偏は闇を生じ、端愨(たんかく)は通を生じ、詐僞(さい)は塞を生じ、誠信は神(しん)を生じ、夸誕(かたん)は惑を生ず。此の六生(りくせい)なる者は、君子之を愼む。而して禹・桀の分るる所以なり。
欲惡取舍(よくおしゅしゃ)の權。其の欲す可きを見ては、則ち必ず前後其の惡(にく)む可き者を慮(おもんぱか)り、其の利す可きを見ては、則ち必ず前後其の害とす可き者を慮り、而して兼ねて之を權(はか)り、孰(くわ)しく之を計り、然る後に其の欲惡取舍を定む。是の如くんば則ち常に失陷せず。凡そ人の患は、之を偏傷(へんしょう)すればなり。其の欲す可きを見ては、則ち其の惡む可き者を慮らず、其の利する可きを見ては、則ち其の害とす可き者を顧みず。是を以て動けば則ち必ず陷(おちい)り、爲せば則ち必ず辱しめらる、是れ偏傷の患なり。
人の惡む所の者は、吾も亦之を惡む。夫(か)の富貴なる者は、則ち類(さから)いて(注7)之を傲り、夫の貧賤なる者は、則ち求(つと)めて之を柔(やす)んず。是れ仁人の情に非ざるなり、是れ姦人の將(まさ)に以て名を晻世(あんせい)に盜まんとする者なり、險なること焉(これ)より大なるは莫し。故(こ)に曰く、名を盜むは貨を盜むに如かず、と。田仲(でんちゅう)・史鰌(ししゅう)は盜に如かざるなり。


(注5)集解の王念孫は、「事起れば能く之を治むるを謂い、事疑い有りて能く之を辨ずるを謂うに非ず」と言う。ここでの「辨(弁)」は、事物について弁論する意味ではなくて事物を処理する意味である。
(注6)集解の王念孫は、「甚」字の隷書と「是」字の隷書が相似しているゆえに「是」字があやまって「甚」字となったと言い、この「甚」は「是」となすべし、と言う。金谷治氏はこの王念孫説を取る。だが「是」をはなはだしい、の意と取っても差し支えないであろう。よって、字を改めないことにする。ただし読み下しについて漢文大系・新釈ともに「甚(じん)せず」とするが、ここはあえて読み下しを変えることにした。
(注7)増注は古屋鬲を引いて「類」は「率」なり、と言う。おおむね。新釈は孫詒譲の「類は戻なり」を引いて、「もとる、さからう」と解する。新釈に従う。

訳の最初の段について。ここでの「士」は、ほぼ「君子」と同義として用いられている。荀子の通常の用語法では、「士」は通常「君子」・「聖人」より下の存在とみなされて、礼法を学びこれを守るが「君子」ほど礼法に通じない者と位置付けられる。国家の組織においては「君子」が高級官僚であって「士」が実務官僚であると言えるだろう。しかし「士」は「小人」とは明らかに区別されている。「小人」は、統治される人民のことを指す。荀子の国家は身分秩序を礼義に従って厳格に階層化するが、その階層は固定化されるべきでなく、能力に応じて昇格降格されるべきであると考える。「賢明な者、有能な者は、身分を問わず昇進させる。怠け者、無能者は、猶予期間を与えずに罷免する」(王制篇)。荀子の国家において「聖人」「君子」「士」「小人」は能力差に応じた身分格差なのであって、「小人」といえども上の階層に上昇する道は開かれていて、「君子」「士」が「小人」に転落することもまた開かれているのである。

最後の段の論述は田仲(陳仲)・史鰌を攻撃するのが主目的であって、荀子の用語の定義に従って批判が行われているのであるが、そのために一見すると異様な批判に見えてしまう。非十二子篇および性悪篇の叙述と併せて読まなければ、荀子の批判の意味が分からない。荀子の用いる「性」「情」「偽(い)」の用語は漢文や現代語の用法から離れた意味として定義されているので、読む者に時として誤解を招くことになる。

脩身篇第二(1)

善を見れば襟を正して、自らもかくありたいものだと必ず反省しなさい。不善を見れば気持ちが沈んで、自らにも同じ不善があるのではないかと必ず反省しなさい。己が善であれば、これを固く守って、好んで善を続けて行うことを必ずしなさい。己が不善であれば、懼れ謹んで己の不善な部分を必ず憎みなさい。ゆえに、我の過ちを批判して向き合う者は我が師であり、我の善を認めて付き合う者は我が友であり、だが我にへつらいおもねる者は我が賊なのである。だから君たち(注1)は師を尊んで友と親しみ、へつらいおもねる賊を心底から憎まなければならない。善を好んで飽くことなく、諌めを受けてよく自戒すれば、たとえ進もうと思っていなかったとしても、どうして進まずにいられるだろうか。だが小人はこれに反する。自分が無茶苦茶であることが悪いのに、他人が自分を批判することに我慢がならない。自分は愚かなことを極めているのに、他人が自分のことを賢明だと評価することを望む。心は虎か狼のようであり、行いは禽獣(ケダモノ)のようであり、それでもなお他人が自分のことを賊とみなすことに我慢がならず、自分にへつらいおもねる者にだけ親しみ、自分を諌めて争ってくれる者を疎んじ、己を正し己を修めることをあざ笑い、誠心誠意行動することを賊と罵る。これでは、たとえ滅亡したくないと思っていたとしても、どうして滅亡せずにいられるだろうか。『詩経』に、この言葉がある。:

考えもなく、是となし非となす
朝廷の様、孔(はなは)だ哀し
臧(よ)き謀(はかりごと)に、具(とも)に違いて
臧(よ)からぬ謀(はかりごと)に、具に依りて通す
(小雅、小旻より)

このような小人は、まことに多い。君たちは、多勢に負けず常に正しくあれ。

常に善であるために取るべき基準について。これに則って気(注2)を治めて生命を養えば、彭祖(ほうそ)(注3)よりも長生きできるかもしれないし、これに則って身を修めて名を挙げたならば、聖王の堯・禹にすら並び立つことができるかもしれない(注4)。順調な時期にあっても正しくあり、逆境の時期にあってもやはり正しくあるために取るべき基準。それこそが、礼義なのである。およそ血気・志意・知慮を用いるときに、礼義に従えば己をよく治めて前に進むことができるだろう。しかし礼義に従わなければ己は正道から外れて乱れ、気が弛んで怠惰に陥ってしまうだろう。飲食の事、衣服の事、居処動静の動作の事、これらすべてを礼義に従わせれば、ことごとく調和してうまく調節できるだろう。しかし礼義に従わせなければ、ことごとくぎくしゃくと衝突してわざわいに陥るだろう。顔に出る容貌、身体に出る態度、動くときの進退、素早く走るときの動作、これらすべてを礼義に従わせれば、ことごとく優雅となるだろう。しかし礼義に従わせなければ、傲慢で僻んで歪んだ態度となり、つまらない凡人と変わらない野卑に陥ってしまうだろう。ゆえに、人は礼義がなければよく生きることはできず、事業は礼義がなければ成功することはできず、国家もまた礼義がなければ安泰となることはできないのである(注5)。『詩経』に、この言葉がある。:

礼儀、卒(ことごと)くに度あり
笑うも語るも、卒く礼儀のとおり
(小雅、楚茨より)

この古語は、まことに正しい。


(注1)原文「君子」。勧学篇に続いて、この修身篇もまた荀子の学ぶ者への呼びかけの言葉である。そう考えて、勧学篇と同じく「君たち」と意訳することにした。
(注2)「気」について、修身篇はかなり詳しく述べている。もちろん、後世の朱子学が言う理気二元論の気概念を指しているわけではない。孟子と同じく「気」は宇宙と体内に充満するエネルギーの源のような存在であり、これをコントロールできれば心身の学習が向上するもの、と考えていたのであろう。
(注3)堯帝の臣で、伝説の長寿者。古書でしばしば長寿の代表として言及される。
(注4)しかし荀子は性悪篇で禹のような聖人になることは可能性としては誰でもあるが、現実性としては誰にもない、と言っている。ここで荀子が伝説の長寿者の彭祖と堯・禹を挙げたのは、ともに非現実的に高い目標である。学ぶ者は堯・禹を目指してこれに倣うべきだが、学んで本当に堯・禹のような聖人になれる可能性は絶望的なまでに遠い。まさに「學は沒するに至りて而(しこう)して後に止む」(勧学篇)なのである。
(注5)荀子にとって礼義(礼)は個人道徳に留まらず、国家に必須の統治ルールを指す。王制篇以下の統治論において、荀子の礼による統治思想は展開される。
《原文・読み下し》
善を見れば、脩然(しゅうぜん)として必ず以て自ら存(かえり)み(注6)、不善を見れば、愀然(しゅうぜん)として必ず以て自ら省みるなり。善身に在れば、介然(かいぜん)として必ず以て自ら好み、不善身に在れば、菑然(しぜん)(注7)として必ず以て自ら惡(にく)むなり。故に我を非として當る者は、吾が師なり。我を是として當る者は、吾が友なり。我に諂諛(てんゆ)する者は、吾が賊なり。故に君子は師を隆(とうと)びて友に親しみ、以て致(きわ)めて其の賊を惡(にく)む。善を好んで厭(あ)くこと無く、諫を受けて能く誡(いまし)む。進むこと無からんと欲すと雖も得んや。小人は是に反す。亂を致して人の己を非とするを惡み、不肖を致めて人の己を賢とせんことを欲し、心は虎狼の如く、行は禽獸の如くして、又人の己を賊とするを惡み、諂諛する者をば親しみ、諫爭する者をば疏(うと)んじ、脩正なるならば笑うべしと爲し(注8)、至忠をば賊と爲す。滅亡すること無からんと欲すと雖も得んや。詩に曰く、潝潝(きゅうきゅう)訿訿(しし)として、亦孔(はなは)だ之れ哀し、謀の其れ臧(よ)きには、則ち具(とも)に是れ違い、謀の臧からざるには、則ち具に是れ依る、とは、此を之れ謂うなり。
扁善(へんぜん)(注9)の度。以て氣を治め生を養えば、則ち彭祖(ほうそ)を後にし、以て身を脩めて自ら名(なあ)ぐれば、則ち堯・禹に配す。通に時(お)るに宜しく、以て窮に處(お)るに利なれば、禮信(まこと)に是なり。凡そ血氣・志意・知慮を用いるに、禮に由れば則ち治通し、禮に由らざれば則ち勃亂(ぼつらん)・提僈(ていまん)す。食飲・衣服、居處(きょしょ)・動靜、禮に由れば則ち和節し、禮に由らざれば則ち觸陷(しょくかん)して疾(やまい)を生ず。容貌・態度、進退・趨行(すうこう)、禮に由れば則ち雅なるも、禮に由らざれば則ち夷固(いこ)・僻違(へきい)にして、庸衆(ようしゅう)にして野なり。故に人は禮無ければ則ち生きず、事は禮無ければ則ち成らず、國家も禮無ければ則ち寧ならず。詩に曰く、禮儀卒(ことごと)く度あり、笑語卒く獲(う)、とは、此を之れ謂うなり。


(注6)集解の王念孫は、「存」字を「察」の意に取る。増注は論語(里仁篇)の「賢を見れば齊(ひと)しきを思う」の意、と言う。
(注7)「菑然」の意は、楊注・郝懿行・荻生徂徠で解釈が分かれる。新釈は于省吾の懼るる貌の説を引く。新釈を取る。
(注8)原文「爲笑」。増注は荻生徂徠を引いて、笑具となす、と言う。
(注9)「扁」字について。楊注は「扁」を「辨」と読んで弁別の意、と言う。王念孫は「徧」と読んで徧善は往きて善ならざる所無きなり、と言う。王念孫を取る。

脩身篇は、勧学篇に続いて君子が身を修める道を説いた文章である。時として名句が挟まれるのは、名文家である荀子にふさわしい。

勧学篇で部分的に述べられた礼に従うことの重要性が、この脩身篇では強調される。荀子にとっての礼とは君子個人を修養するための規則であると同時に、国家を統治するための規則である。孟子ではその両者のリンケージがはっきりと示されていないが、荀子は君子とは国家を礼法によって統治する官僚であるということを明確に述べる。すなわち君子は官僚としてその行動が人民の模範となり、また礼法の運用者として人民を統御する役割を果たすのである。それが、法治官僚国家を上から指導する官僚の理想像であり、荀子は法治官僚国家による統治を平和な時代をもたらす最終結論とみなした。荀子の法治官僚国家が本当に理想なのか否かは、荀子が遺した主張を受けて今の時代の我々が判断しなければいけないだろう。

脩身篇第二(2)

人を先導して善を行うことを、「教」と言う。他人と善なることについて協調することを、「順」と言う。人を先導して不善を行うことを、「諂(てん)」と言う。他人と不善なることについて協調することを、「諛(ゆ)」と言う。是を是と判断して非を非と判断することを、「智」と言う。非を是と判断して是を非と判断することを、「愚」と言う。良き人を中傷することを、「讒(ざん)」と言う。良き人に危害を加えることを、「賊」という。是を是と言葉で言い非を非と言葉で言うことを、「直」と言う。財貨を盗むことを、「盗」と言う。行いを隠すことを、「詐」と言う。言動を変えることを、「誕(たん)」と言う。進むことと留まることに決まった道がないことを、「無常」と言う。利にしがみついて義を捨てることを、「至賊」と言う。多く聞くことを、「博」と言う。少なく聞くことを、「浅」と言う。多く見ることを、「閑(かん)」と言う。少なく見ることを、「陋(ろう)」と言う。物事をなかなか進めずだらけているのを、「偍(てい)」と言う。すぐに忘れやすいのを、「漏(ろう)」と言う。手数が少なくてよく整理されているのを、「治」と言う。手数が多くて混乱しているのを、「秏(ぼう)」と言う。

気を治めて心を養う術について。血気が強く盛んに過ぎる人間ならば、調和の気をもってこれを柔らげるのがよい。知慮が深すぎて複雑な人間ならば、平明で温良な気をもってこれの心中を一つにまとめあげるのがよい。胆力勇猛で乱暴に過ぎる人間ならば、正道に従わせて従順な気をもってこれを補うのがよい。敏捷に過ぎて軽率な人間ならば、立ち居振る舞いに節度を教えるのがよい。心が狭隘で小さ過ぎる人間ならば、広大な気をもって心を広げさせるのがよい。卑屈に過ぎて己の利しか見えない人間ならば、高い志を持たせてこれの心を持ち上げるのがよい。凡庸に過ぎて愚鈍散漫な人間ならば、これを師と友人に導かせて劣悪に堕ちさせないようにするのがよい。怠慢で無頓着な人間ならば、己の行く末の災厄を明らかに示してやって猛省させるのがよい。正直で堅苦し過ぎる人間ならば、礼楽(れいがく)の文化を身に合せさせて人間的な余裕を与えるのがよい。結局のところ、およそ気を治めて心を養う術には、礼義に依るよりも効果が速やかであるものはなく、よき師を得るよりも肝要なことはなく、師に就いて礼義を学ぶことを心から喜んで、己の心を学ぶことに統一させることよりも、最も詳しく習得できる道はない(注1)。これが、気を治めて心を養う術である。

己の志意がよく修まれば、富者や貴人を羨むことはなくなるだろう。己の道義が重ければ、王や諸侯ですら軽く見なすことができるだろう。それは、心中によく内省するならば、外物を軽く感じるようになるからである。言い伝えに、「君子は外物を使役するが、小人は外物の奴隷となる」と言うのは、このことなのである。たとえ身体が労苦する事業であっても、その事業を行うことによって心中が安楽であるならば、これを行うのである。またたとえ利益が少ない事業であっても、その事業は義が多いものであるならば、これを行うのである。乱れた悪君に仕えて出世するよりは、窮地に陥った小国の善君によく仕えるほうがよい。ゆえに、良き農夫は洪水旱魃の危害があるからといって耕作をやめることはなく、良き商人は売り損をしたり在庫を抱える危険があるからといって商売をやめることはない。そして君たち士君子は、貧窮の苦難があるからといって、正道を進むことを怠らないであろう。

身体の動作は恭敬で心の中は忠信であり、心身を統御する術は礼義を採用して心中の情は仁愛であるならば、天下を歩き回って果ては蛮族の地まで踏み入ったとしても、他人に貴ばれないことはないであろう。骨の折れることは率先して引き受け、楽しいことはすすんで他人に譲り、誠実にして真面目であり、己の義務を堅く守って職責に詳しくあれば、天下を歩き回って果ては蛮族の地まで踏み入ったとしても、他人から信任されないことはないであろう。だが身体の動作は横柄で心の中は偏執にして詐りがあり、心身を統御する術は礼義から外れて心中の情は粗雑で汚れているならば、天下を歩き回って遠くまで達したとしても、他人に蔑まれないことはないであろう。骨の折れることはなまけて逃れ、楽しいことは直ちに飛びついて遠慮することがなく、僻み偏って正直でなく、仕事は自分でノルマを課してそれ以上は力を尽くそうとせず、努力を惜しむ。このようであるならば、天下を歩き回って遠くまで達したとしても、他人から見捨てられないことはないであろう。

歩くときに手を拱(こまね)いて小走りで進むのは、ぬかるみにはまることを避けるためにそうするのではない。歩くときに首を伏せて進むのは、物に当たることを避けるためにそうするのではなかい。人と対面したときにまず自分から目を伏せるのは、相手が恐ろしくて直視できないからそうするのではない。こうするのは、士たるものが自発的に己の身を修めて、郷里の一般人たちから無礼の批判を受けないためなのである。


(注1)原文読み下し「好を一にするより神なるは莫し」。荀子は「神」の字を神(かみ)の意に用いることはなく、智の働きが精妙なことを指す。
《原文・読み下し》
善を以て人に先(さきだ)つ者は、之を敎と謂い、善を以て人に和する者は、之を順と謂い、不善を以て人に先(さきだ)つ者は、之を諂(てん)(注2)と謂い、不善を以て人に和する者は、之を諛(ゆ)と謂う。是を是とし非を非とするは、之を智と謂い、是を非とし非を是とするは、之を愚と謂う。良を傷つくるを讒(ざん)と謂い、良を害するを賊と曰い、是を是と謂い非を非と謂うを直と曰う。貨を竊(ぬす)むを盜と曰い、行を匿(かく)すを詐と曰い、言を易うるを誕(たん)と曰う。趣舍定まり無き、之を無常と謂い、利を保ち義を弃(す)つる、之を至賊と謂う。多聞を博(はく)と曰い、少聞を淺(せん)と曰い、多見を閑(かん)と曰い、少見を陋(ろう)と曰う。進み難きを偍(てい)と曰い、忘れ易きを漏(ろう)と曰い、少なれども理(おさ)まるを治と曰い、多なれども亂るるを秏(ぼう)と曰う。
治氣養心(ちきようしん)の術。血氣剛强(けっきごうきょう)なれば、則ち之を柔(やわら)ぐるに調和を以てし、知慮漸深(ちりょせんしん)(注3)なれば、則ち之を一にするに易良(いりょう)を以てし、勇膽猛戾(ゆうたんもうれい)なれば、則ち之を輔(たす)くるに道順(どうじゅん)を以てし、齊給便利(せいきゅうべんり)なれば、則ち之を節するに動止を以てし、狹隘褊小(きょうあいへんしょう)なれば、則ち之を廓(ひろ)むるに廣大を以てし、卑溼[重遲](注4)貪利(ひしつたんり)なれば、則ち之を抗(あ)ぐるに高志を以てし、庸衆駑散(ようしゅうどさん)なれば、則ち之を刦(とど)むるに師友を以てし、怠慢僄弃(たいまんひょうき)なれば、則ち之を炤(あきら)かにするに禍災を以てし、愚款端愨(ぐかんたんかく)なれば、則ち之を合するに禮樂を以てす。[通之以思索。](注5)凡そ治氣養心の術は、禮に由るより徑(すみや)かなるは莫く、得師を得るより要なるは莫く、好を一にするより神なるは莫し。夫れ是を之れ治氣養心の術と謂うなり。
志意脩まれば則ち富貴に驕り、道義重ければ則ち王公を輕んず。內に省みれば則ち外物輕ければなり。傳に曰く、君子は物を役し、小人は物に役せらる、とは、此を之れ謂うなり。身勞するも心安ければ之を爲し、利少きも義多ければ之を爲す。亂君に事(つか)えて通ずるは、窮君に事えて順なるに如かず。故に良農は水旱(すいかん)の爲に耕さずんばあらず、良賈(りょうこ)は折閱(せつえつ)の爲に市せずんばあらず、士君子は貧窮の爲に道に怠ることあらざるなり。
體(たい)恭敬にして心(こころ)忠信、術(じゅつ)禮義にして情(じょう)愛人(あいじん)(注6)ならば、天下に橫行し、四夷を困(きわ)むと雖も、人貴ばざること莫し。勞苦の事は則ち先を爭い、饒樂(じょうらく)の事は則ち能く讓り、端愨(たんかく)・誠信にして、拘守(こうしゅ)して詳(つまびら)かにせば、天下に橫行して、四夷を困むと雖も、人任ぜざること莫し。體倨固(きょこ)にして心執詐(しゅうさ)、術順墨(せきぼく)(注7)にして精(じょう)(注8)雜汙(ざつお)ならば、天下に橫行し、四方に達すと雖も、人賤まざること莫し。勞苦の事は則ち偷儒(とうだ)・轉脫(てんだつ)、饒樂の事は則ち佞兌(ねいえい)にして曲ならず、辟違(へきい)にして愨(かく)ならず、程役(ていえき)にして錄(ろく)せざれば(注9)、天下に橫行し、雖四方に達すと雖も、人弃(す)てざること莫し。
行きて供冀(きょうよく)(注10)なるは、漬淖(しどう)なるに非ざるなり。行きて項(うなじ)を俯す(注11)は、擊戾(げきれい)に非ざるなり。偶視(ぐうし)して先(ま)ず俯すは、恐懼なるに非ざるなり。然るは夫(か)の士獨(ひと)り其の身を脩めて、以て罪を比俗(注12)の人に得ざらんと欲すればなり。


(注2)楊注は、「諂」は佞言を以て之を陥(おとしいれ)る、と言う。集解の王念孫は楊注を非として、人を導くに不善を以てす、と言う。新釈の藤井専英氏は、楊注に従って「諂」をカン、と読ませている。楊注、王念孫説のいずれとも決し難いので、読み方は通例のとおりとしておく。
(注3)増注、郝懿行、王念孫はともに「漸」は「潜」であると言う。「潜深」で知慮が過剰に深いこと。
(注4)『韓詩外伝』は漢代初期の韓嬰の著作で、『荀子』と重なる引用が多くある。ここの文もまた引用されているひとつであるが、「重遲(じゅうち)」の二字がない。なので、猪飼補注はけだし衍、と言う。新釈の藤井氏は「重遲」はもと卑溼の傍注であったものが本文に纔入(さんにゅう)したと見るのが妥当であろう、と言ってこれを削る。藤井説に従う。
(注5)楊注は、「通之以思索(之に通ずるに思索を以てす)」の部分についての注がない。集解の兪樾は、「血氣剛强」以下の八句は文法が皆同じであり、ひとり「通之以思索」のみが一律でなく、『韓詩外伝』の引用にも「通之以思索」がない。よってまさに衍文となすべし、と言う。新釈は、あえてこれを読んでいる。ここは兪樾に従い、衍文とみなしておく。
(注6)集解の王引之は、「人」は読んで「仁」となす、と言う。
(注7)楊注は、「順墨」はまさに「愼墨」たるべし、と言う。つまり、慎到(しんとう。王制篇のコメント参照)・墨子(ぼくし。富国篇参照)の説のようにかたよった方法を用いる、という解釈である。増注・集解の盧文弨ともにこれに賛同する。しかし新釈の藤井氏はこれに反対して、「順墨」を「瘠墨(せきぼく)」の誤りと言う。「瘠墨」は礼義風習をわきまえない行動動作をさす。藤井説を取りたい。
(注8)楊注は「精」はまさに「情」となすべし、と言う。
(注9)増注はまず「程役」について荻生徂徠を引いて「程を立てて役に就き、敢て力を盡(つく)さざるを謂う」と言う。自分でノルマを立てて、それ以上の仕事をやり尽くさないこと。「錄」については久保愛じしんの説として「拘錄」であり勉強の意、と言う。久保愛の言う「勉強」は日本語の意味であり、現代中国語での強制の意味ではない。
(注10)楊注は、「冀」はまさに「翼」となすべし、と言う。王先謙は、釈名にて「供は拱なり」とあり、また釈詁にて「翼は敬なり」とあり、論語郷党篇の「趨り進むには翼如たり」を引く。供翼で、手を拱いて小走りで進む様が恭敬である姿。
(注11)原文「行而俯項」。宋本は「項」が「頃」である。楊注ほか各注釈者はこれを「項」と読み替えて注している。しかし新釈の藤井氏は「頃」は傾に通じゆがみ傾くこと、と注して「頃」を「項」に読み替える通行本を妥当ではない、と言う。ここは一応多数説に従っておく。
(注12)猪飼補注は、「比俗はなお里俗のごときなり」と言う。『周官(周礼)』では、五家を「比」となし五比を「里」となす。

上の訳の最初の部分は、単語の意味の定義を行っているとも解釈できる。だが正名篇の冒頭の定義のように議論に前提を与えるための厳密な定義というわけではなく、日常的に用いられる用語の意味を明確に解説しようとする意図であると思われる。荀子は、門人に対して議論を行うときに単語の意味を明確にして用いることを求めていたのであろう。ここに収録されたのは、荀子学派が用いた用語辞典の一部なのかもしれない。

治気養心の術は、孟子も「浩然の気」をコントロールして不動心を得る術について論じている(公孫丑章句上、二)。しかし孟子の議論は難解で、いったいどうすれば「浩然の気」をコントロールできると言いたいのかを理解することが難しい。いっぽう荀子の治気養心の術は、その方法がはっきりしている。よき師に従って礼義・音楽をきっちり学び、身体に礼義を完全に備えた君子となる。それに尽きるだろう。

脩身篇第二(3)

かの駿馬を繋いだ馬車は一日で千里を走ることができるが、駄馬を繋いだ馬車であっても十日間走らせ続けたならば千里を走ることができるろう。いったい君たちは、無窮を極めて無極を追いかけようとするのであるか?もしそうするならば、骨が折れて筋が絶たれるまで走り続けたとしても、一生涯かけても目標に到達することはできないだろう。そうではなくて、最終的に止まるべき目標があるならば、その目標が千里の彼方であったとしても、ゆっくり進んだり速く進んだり、先に進んだり後れて進んだり、自分のペースに合せて進んだならば、必ず到達できるはずだろう。正道を歩んで学ぶ者たちは、無窮を極めて無極を追いかけるのであるか、それとも最終的に止まるべき目標を持つのだろうか?言うまでもなく、後者なのである。あの堅白同異(けんぱくどうい)(注1)とか有厚無厚(ゆうこうむこう)(注2)とかの弁論は、なるほど実に頭のよい明晰な弁論を行う。しかしながら、君子たるものそのような弁論を行うことはしない。なぜならば、君子は止まるべき目標を持って学ぶ者だからであって、果てのない空論は行わないのである。また人によっては、奇怪で壮大な行動をあえて取る者がいる。そのような行動は、なるほど常人にはなかなかできはしない。しかしながら、君子たるものそのような行動を行うことはしない。なぜならば、君子は止まるべき目標を持って学ぶ者だからであって、目標の見えない行動は行わないのである。ゆえに、学問では「遅(ま)つ」ということが言われるのである。学問では、すでに目標が彼方に止まっていて、学ぶ者を待っている。学ぶ者は進んで、その目標に到達することを目指すのである。ゆっくり進んだり速く進んだり、先に進んだり後れて進んだり、自分のペースに合せて進んだならば、必ず到達できるはずだろう。ゆえに、休まずに足を前に出して進むならば、たとえびっこの鼈(すっぽん)であっても千里を踏破できるのであり、休まずに土を盛り上げていけば、高くそびえる丘や山ですら造成することができるのであり、河川の水源をせき止めて用水の口を開き、水の流れを着々と変えていけば、黄河や長江ですらやがては涸らしてしまうことになるであろう。だが六頭立ての見事な馬車であっても、進んだり退いたり右に行ったり左に行ったりを繰り返すばかりであれば、なにほども進むことができないであろう。人間の生得の才能などは、結局のところびっこの鼈と六頭立ての馬車との速度ほど違いはなかろう。しかし鼈は千里を進み、六頭立ての馬車はこれを成し得ない。それは他でもない、目標を設定してそれに向けて進むか否かの差あるのみなのだ。

いくら近い道でも、行かなければ到達はできない。いくら小さな事業でも、実施しなければ完成はしない。その人となりが怠け者で何も努力しない日を多く過ごしていれば、しょせんは短い道しか踏破することはできず、大きな目標に到達することなどとてもできはしないだろう。


(注1)堅白(けんぱく)は、名家の公孫龍(こうそんりゅう)の代表的な詭弁。劉向校讎叙録注9を参照。同異(どうい)は、『荘子』に見える小同異・大同異の説。カテゴリーを変えれば同異の相が異なる、という弁論のこと。(例として、生物というカテゴリーで見れば人間と動物と植物は大同であり、物質というカテゴリーで見れば鉱物まで大同である。)
(注2)有厚無厚は、『荘子』に「無厚は積む可からず、其の大は千里」とある。厚さゼロの平面はいくら積んでも厚さが出ず、これを広げれば無限の面積を占めることができる。ゆえに無厚は厚の極である、という弁論。これだけではただの詭弁であるが、西洋の幾何学は「平面は厚さを持たない」と定義する。西洋の幾何学にとって抽象的な定義は厳密な学問の基礎であって、詭弁ではない。
《原文・読み下し》
夫(か)の驥(き)は一日にして千里なるも、駑馬も十駕(じゅうが)すれば、則ち亦之に及ぶ。將(まさ)に以て無窮を窮め、無極を逐わんとするか。其れ骨を折り筋を絕つも、終身以て相及ぶ可らざるなり。將に之に止まる所有らんとすれば、則ち千里遠しと雖も、亦或は遲く或は速く、或は先に或は後に、胡為(なんす)れぞ其れ以て相及ぶ可からざらんや。識らず道を步む者は、將に以て無窮を窮め無極を逐わんとするか。意(そもそも)亦之に止まる所有らんか。夫(か)の堅白同異(けんぱくどうい)、有厚無厚(ゆうこうむこう)の察は、察ならざるに非ざるなり、然り而(しこう)して君子辨ぜざるは、之に止まればなり。倚魁(きかい)の行は、難からざるに非ざるなり、然り而して君子行わざるは、之に止まればなり。故に學に遲(ま)つと曰う(注3)。彼止まりて我を待ち、我行(ゆ)きて之に就かば、則ち亦或は遲く或は速く、或は先に或は後に、胡為れぞ其れ以て同じく至る可からざらんや。故に蹞步(きほ)して休まざれば、跛鼈(はべつ)も千里、累土して輟(や)まざれば、丘山も崇成す。其の源を厭(ふさ)ぎて、其の瀆(とう)を開けば、江河も竭(つく)さしむ可し。一進一退、一左一右なれば、六驥(りくき)も致さず。彼の人の才性の相縣するや、豈に跛鼈と六驥の足との若くならんや。然り而して跛鼈は之を致し、六驥は致さざるは、是れ他の故無し、或は之を爲し、或は爲さざるのみ。
道は邇(ちか)しと雖も、行かざれば至らず、事は小さしと雖も、爲さざれば成らず。其の人と爲りや、暇日多き者は、其の出入(しゅつにゅう)(注4)遠からず。


(注3)原文「故學曰遲」。集解の王念孫は、「學曰」は疑うは「學者」に作るべきであり、筆写した者が「者」の上半分を脱落させて「曰」にしたのではないか、と言う。増注は桃井源蔵を引いて、ここは「故曰學遲」とするべきであって「學遲」は古語であり解蔽篇の「故曰心容(故に曰く、心の容)」と文法が合致する、という説を示している。
(注4)増注、集解の郝懿行、王念孫はいずれも「出入」は「出人」に作るべし、と言う。つまり「人に出(い)ずる」と読んで、他人から遠く抜きん出ることができないの意に取る。しかしこの文は「邇」の対義語で「遠」が使われているはずであり、「遠」はすなおに道の距離と取ったほうがよいのではないだろうか。なので楊注の「出入は道路の至る所を謂う」を取って、「道の出口までの距離が大して遠くにならない」の意味に取りたい。なお集解の藤井専英氏は、「出入(しゅつにゅう)」を出所進退の行動動作の意に取る。

荀子の門に学ぶ君子たちには、学ぶ目的がある。それは、礼義を身に付けて凡人を指導するエリートとなり、国家の政策に関与する官僚となることである。荀子の礼義の中には法律知識もまた含まれているのであり、荀子の言う聖人が制定する制度とは、宮廷礼儀や音楽といった文化知識と、法律や行政判断の知識と、その両者をひっくるめたトータルな文化制度、すなわち「礼楽刑政(れいがくけいせい)」なのである。そう考えたとき、荀子の勧める学問の内容は明確となるであろう。荀子は中華世界を統一した法治官僚国家が作られることを理想と考え、学ぶ君子たちにはその統一帝国を上手に運営して恒久な平和をもたらすエリート官僚となることを望む。荀子の思想の中に純粋な学問のための学問を求めることは、間違いであると私は思う。荀子の想定している学問は、現実社会の運営に直結したものである。

脩身篇第二(4)

礼法(注1)を好み、これを実施する人。これは士であって、君子への入門である(注2)。志を篤くして、礼法を身にしっかりと据え付ける人。これは君子であって、君たちがなすべき道である。明察敏捷であって、その智がいかなるときにも尽きることがない人(注3)。これは聖人であって、君たちの最終的な目標である。人というものは、礼法がなければ進む道を迷ってしまうだろう。だがたとえ礼法を参照したとしても、礼法の上っ面の条文だけでなくてその中にある本義精神を理解していなかったら、確信を持った判断を行うことができないだろう。礼法に依拠して、しかも礼法に基づく適切な法判断(注4)を深く理解してこそ、しかる後に万事に信頼のおける温和な為政者となることができるのである。

礼とは、身体を正すもとである。師とは、その礼義を正すもとである。礼がなければ、何によって身体を正すことができるだろうか?師に教わらなければ、どうやって学んだ礼が正しいか否かを知ることができるだろうか?礼に「かくあるべし」と決められていて、そのとおりに行うことができるのは、情(注5)が礼によって矯正されて安定しているゆえである。師が「こうしなさい」と言って、そのとおりに行うことができるのは、自らの知が師と一体化しているゆえである。情が完全に礼に安定し、知が師と並ぶようであるならば、もはや聖人の段階にあると言ってよいであろう。ゆえに、礼を批判する者は、礼法を否定する者なのである。師を批判する者は、師を否定する者なのである。師と礼法を受け入れることなしに自分で選び取った原理で行動することを好む者は、これをたとえるならば、盲人が色彩を議論し、聾者が音声を議論するようなものであって、でたらめ以外に何一つできはしないだろう(注6)。ゆえに学ぶこととは、礼に則ることでなければならない。そしてしかるべき師とは、己の身をもって規範を示し、自らその規範の中に安定することを貴ぶ存在であり、これに従うことが正しく学ぶことなのである。『詩経』に、この言葉がある。:

識らず知らずに
天の則(のり)に順うべし
(大雅、皇矣)

君たちは、師に就いて礼を学び、この境地を目指さなければならない。

正直で年長者によく従う者であれば、良き年少者と呼ぶべきである。その上に好学で謙虚かつ明敏であるならば、同年代で対等の者はあってもこれより抜きん出た者はありえない。よって、このような子は君子として扱うべきだ。だが怠惰で仕事を嫌がり、潔さも恥も知らずに飲み食いを好むばかりであるならば、悪しき年少者と呼ぶべきである。その上にわがままで怒りやすく不従順で、陰険で攻撃的で年長者に従わない者であるならば、これは不肖の年少者と呼ぶべきであって、法に触れて刑を受けても、自業自得である。人が老年の者を老年の者として尊重すれば、やがてより若い大人たちもまたこの者に集うであろう。困窮している者をその困窮から救い出すならば、やがてより裕福な暮らしをしている者たちものまたこの者に集うであろう。善行を見せびらかすに隠れて行い、報酬を得ることなしに施しを行うならば、やがて賢者も愚者も併せてこの者の下に一つとなるであろう。人はこの三つの善行を行うならば、大きな過失を行ったとしても、天はその過失の報いを徹底して与えることはないのではないだろうか(注7)

君たちは、利を求めるときには大まかでなければならない。だが害から身を遠ざけるときには、素早くなければならない。非礼の恥を避けるときには、気を配って慎重に行動しなければならない。だが道理を行うときには、勇敢にこれを行わなければならない。

君たちは、貧窮であったとしても志は広く、富貴であったとしても身体は恭しくなければならない(注8)。安楽しているときでも血気をゆるめることなく、労苦して疲れているときでも容貌はだらけることなくあらねばならない。やむなく怒るときでも相手から奪いすぎることをせず、大いに喜ぶときでも相手に与えすぎることをしないように、心得なければならない。君子が貧窮しても志が広いのは、仁を貴び人を愛する豊かな心があるからだ。富貴であっても身体が恭しいのは、己の権勢を殺いで相手にへりくだるからだ。安楽していても血気をゆるめることがないのは、日常から人間の道理に従って生活しているからだ。労苦して疲れていても容貌がだらけないのは、礼義を好んで乱れないことを旨としているからだ。怒るときでも相手から奪いすぎず、喜ぶときでも相手に与えすぎないのは、己の中で法が私情を抑えて勝ることに成功しているからだ。『書経』に、この言葉がある。:

私的な好みを行うなかれ、王の正道に従うべし。
私的な憎しみを行うなかれ、王の正道に従うべし。
(「洪範」より)

この言葉こそ、君たち君子が公義をもって私欲に勝つべき原理を指し示しているのである。


(注1)原文「法」。荀子は国家の法を重視するが、それは礼楽との併用を想定したものであり、法家思想のように法の力だけを国家の必須とみなすことには組しない。士や君子は、礼義と法の両者を学ぶべきである。なので、「礼法」と訳した。
(注2)ここから後のくだりは、解蔽篇(6)注4や非相篇(5)注2と同じく士・君子・聖人の三者を下級官僚・上級官僚・君主と想定した叙述であると考えられる。この脩身篇の訳では、「君子」の語を学ぶ者への呼びかけとして「君たち」と訳すことにしている。その方針に沿って意訳した。
(注3)非相篇で、士・君子の弁論は事前の熟慮が必要であるが、聖人の弁論は事前の熟慮を必要としないと言う。荀子は、聖人の智を常人の士・君子よりも突出した段階に想定している。学ぶ君子たちにとって聖人は目標であるが、現実にはほとんど到達できない目標である。
(注4)原文「類」。「類」字は荀子において頻繁に表れる。法の明文にない事項についての法判断のこと。勧学篇(4)注1参照。
(注5)「情」は正名篇の定義に従えば、「性」から派生する理性判断を通さない衝動のことである。これを礼に従わせる、ということは、とりもなおさず性悪篇の「偽(い)」を通じて善となる議論と同一である。
(注6)師に従わない独学が無意味であることは、勧学篇も同じく述べるところである。
(注7)荀子は天が人間の行動に報いて幸不幸をもたらす、とは考えない。天論篇参照。なのでここの荀子の言葉は、天の意志は不可知であるが少なくとも陰徳を積んだ人間は周囲の他人から支持されるだろうから、過失があっても窮地に陥らないだろう、という意味であろう。荀子は性悪説を自己の社会理論として打ち立てるが、現実の人間への信頼は強い。彼の弟子の韓非子は、人間の利己性について師よりもずっとシニカルである。
(注8)論語学而篇「子貢曰く、貧しうして諂うこと無く、富みて驕る無きは何如。子の曰わく、可なり。未だ貧しうして楽しみ、富みて礼を好む者には若かず」を想起させる。
《原文・読み下し》
法を好んで行うは士なり。志を篤くして體するは君子なり。齊明にして竭(つ)きざるは聖人なり。人法無ければ則ち倀倀然(ちょうちょうぜん)たり、法有りて其の義を志(し)ること無ければ、則ち渠渠然(きょきょぜん)たり。法に依りて又深く其の類を深くして、然る後に溫溫然(おんおんぜん)たり。
禮なる者は身を正す所以なり、師なる者は禮を正す所以なり。禮無くんば何を以てか身を正さん、師無くんば吾安(いずく)んぞ禮の是爲(た)るを知らんや。禮然(しか)くして而(しこう)して然くするは、則ち是れ情(じょう)禮に安んずるなり、師云(うん)して而して云するは、則ち是れ知(ち)師の若くなるなり。情は禮に安んじて、知は師の若くなれば、則ち是れ聖人なり。故に禮を非とするは是れ法を無みするなり、師を非とするは是れ師を無みするなり。師法を是とせずして自ら用うるを好むは、之を譬(たと)うるに是れ猶お盲を以て色を辨じ、聾(ろう)を以て聲を辨ずるがごとく、亂妄を舍(お)きて爲すこと無きなり。故に學なる者は禮に法(のっと)るなり。夫(か)の師は身を以て正儀と爲して、自ら安んずるを貴ぶ者なり。詩に曰く、識らず知らず、帝の則(のり)に順(したが)う、とは、此を之れ謂うなり。
端愨(たんかく)・順弟(じゅんてい)なれば、則ち善少者と謂う可し。加うるに好學・遜敏(そんびん)なれば、則ち鈞(ひとしき)有りて上無く、以て君子者と爲す可し。偷儒(とうだ)事を憚り、廉恥無くして飲食を嗜まば、則ち惡少者と謂う可し。加うるに愓悍(とうかん)にして順ならず、險賊(けんぞく)にして弟(てい)ならざれば、則ち不詳(ふしょう)(注9)少者と謂う可く、刑戮(けいりく)に陷ると雖も可なり。老を老として壯者焉(これ)に歸(き)し、窮(きゅう)(注10)を窮せしめずして通者焉に積(あつ)まり、冥冥に行い無報に施して、賢・不肖焉に一なり。人此の三行有らば、大過有りと雖も、天其れ遂げざるか。
君子の利を求むるや略、其の害に遠ざかるや早(そう)、其の辱を避くるや懼(く)、其の道理を行うや勇。
君子は貧窮なるも志廣く、富貴なるも體恭しく、安燕するも血氣惰(おこた)らず、勞勌(ろうけん)するも容貌枯(こ)(注11)ならず、怒るも過奪せず、喜ぶも過予せず。君子の貧窮なるも志廣きは、仁を隆べばなり。富貴なるも體恭しきは、埶(せい)を殺げばなり。安燕するも血氣惰らざるは、理に柬(えら)べばなり(注12)。勞勌するも容貌枯(こ)(注11)ならざるは、交(ぶん)(注13)を好めばなり。怒るも過奪せず、喜ぶも過予せざるは、法(ほう)私に勝てばなり。書に曰く、好(このみ)を作(な)すこと有ること無く、王の道に遵(したが)う、惡(にくみ)を作すこと有ること無く、王の路に遵う、と。此れ君子の能く公義を以て私欲に勝つを言うなり。


(注9)楊注は、「詳」はまさに「祥」となすべし、と言う。
(注10)「窮」について楊注は鰥寡窮匱(かんかきゅうき)、すなわち独り者や窮乏者のことと言う。集解の兪樾は不肖の人、すなわち愚者の意とみなす。どちらでも構わず、むしろどちらの意も含んでいると考えてよいと思われる。上の訳では楊注を取っておく。
(注11)集解の王念孫は、「枯」は読んで「楛」となす、と言う。ぞんざい、そまつなこと。
(注12)「柬(かん)」を楊注は「簡」と同じ、と言う。えらぶ。増注は方苞を引いて、「柬」は「檢」と同じく義理に検束さるるを謂う、と言う。楊注に従う。
(注13)集解の王念孫は「交」は「文」となすべし、と言う。新釈の藤井専英氏は「交」字を変えてまで説くには及ばない、と言い、「交を好む」を社会活動をする人間関係を妥当にすること、と言う。藤井説の言いたいことは分かるのであるが、荀子の他箇所での叙述から浮いている解釈だと私は思う。なので、王念孫説に従い「文」の誤りとみなしたい。

礼法篇は、こうして君子の心得を説いて終わる。ここでの君子は、まったく国家の官僚である。荀子の時代の知識人は全て国家に採用されて官僚となることが期待されていたので、当然といえば当然のことであった。

末尾で「公義」が「私欲」に対立する概念として提出されている。孟子も荀子も同じく孔子の後に続いて儒家を継承した思想家であったが、孟子は「公」と「私」との境界線がどうしてもあいまいになりがちである。それは、身近な親兄弟たちに対する親愛が人間として最初にあって、その延長線上に一般人に対する仁愛を広げるのが正しい仁の人である、という孟子の倫理学上の構成から必然的に導かれる(いわゆる「差別愛」)。孟子が称える聖王の舜帝は、不仁不義の愚者である父親の瞽瞍(こそう)と義弟の象(しょう)とを、君主の座に就いてからも最大限に優遇するのである(『孟子』萬章章句上の一連の議論を参照)。孟子の主張は、いくら自分より親類を尊重する行為なのであるから私欲ではない、と弁明したところで、それが身内びいきの論理であるという謗りを免れない。

それに比べて荀子は、後の臣道篇において家臣の国家への「忠」をとりわけ強調する。荀子は、官僚は親類家族との絆を脇に置いて国家に優先的に奉仕する公僕でなければならない、という官僚の倫理を、孟子よりも鮮明に打ち出すのである。それは、国家よりも一族を優先する部族社会であった春秋時代の空気を続く戦国時代中期においてもまだ継承していた孟子の思想と、戦国時代末期となって、特に秦国などにおいて専制国家と官僚制がすでに高度な発達を終えていた時期に議論を行った荀子の思想との、時代背景の差であったと言うこともできるだろう。

非十二子篇第六(1)

今の世になって、邪説・姦言をもっともらしく飾り立てて、これによって天下を撹乱し、人をいつわりあざむき、大につけ小につけ無茶苦茶な行為を行い、こうして天下が混乱して是非と治乱の根拠を分からなくさせてしまった犯罪的論者どもが現れた。以下に、その者どもを列挙する。

人間の性と情をほしいままに解放し(注1)、勝手な行動をするところに開き直り、禽獣(ケダモノ)のような行いをなすことによって礼義の文理に合致することも治世の道理を知ることもできず、にもかかわらず、自説のために根拠を用意して、それを主張するためには理屈を通すことができて、こうして愚かな大衆をあざむき惑わすことに成功する者。これが、它囂(たごう)と魏牟(ぎぼう)(注2)である。

人間の性と情を耐え忍んで(注3)、世を離れて己の道を独り極め、ただひたすら世間の他人と異なっていることで己を高い存在とみなし、それゆえに大衆をまとめ上げて統治の区分秩序を明らかにすることもできず、にもかかわらず、自説のために根拠を用意して、それを主張するためには理屈を通すことができて、こうして愚かな大衆をあざむき惑わすことに成功する者。これが、陳仲(ちんちゅう)(注4)と史鰌(ししゅう)(注5)である。

天下を一つにまとめて国家を建てるための基準である礼義を知らず、仕事の効果を尊重して倹約を推奨するが、働きに応じて身分秩序を区別する原理を軽視して、よって身分を区別することができず君臣の格差を作ることができず、にもかかわらず、自説のために根拠を用意して、それを主張するためには理屈を通すことができて、こうして愚かな大衆をあざむき惑わすことに成功する者。これが、墨翟(ぼくてき)(注6)と宋鈃(そうけい)である。

法の重要性を言いながらも実際にはその法がなく、礼を修めることを蔑んでただ恣意的な法を作ることを勧めるばかりであり、上においては君主の意向を聴いて法となし、下においては民の俗習から法を取り出し、常にこの二つを根拠にして法を紡ぎ出すが、それを詳しく調べてみると、結局あまりに非現実的な法ばかりであって地に足が付いた規則とはいいがたい。にもかかわらず、自説のために根拠を用意して、それを主張するためには理屈を通すことができて、こうして愚かな大衆をあざむき惑わすことに成功する者。これが、慎到(しんとう)と田駢(でんべん)(注7)である。

先王の言葉に則らず、礼義を肯定せず、好んで怪しい説を究め、奇怪な言辞をもてあそび、言辞の分析はきわめて明察であるにもかかわらずそこには仁愛の心がいささかもなく、弁舌はきわめて立つにもかかわらず実用性はなにもなく、いろいろな弁論を行いながら有用な内容は少なく、よって統治の綱紀とすることはとてもできず、にもかかわらず、自説のために根拠を用意して、それを主張するためには理屈を通すことができて、こうして愚かな大衆をあざむき惑わすことに成功する者。これが、恵施(けいし)と鄧析(とうせき)(注8)である。


(注1)荀子は性悪説を取るので、人間の生物学的本能である「性」と「情」に秩序破壊的なネガティブな意味しか与えない。性悪篇の議論を参照。
(注2)它囂(たごう)は楊注に未詳と言う。魏牟(ぎぼう)は楊注に「牟は魏公子にして、中山に封ぜらる。漢書芸文志の道家に公子牟四篇有り」と言う。漢書の記録を読む限り、魏牟は道家に属する思想家であり、荘子・列子・公孫龍の思想と近いものであったと思われる。
(注3)荀子にとって「性」と「情」は生物学的本能であって、人間にとって天与のものである。よってこれを個人で耐え忍ぶことに意味はなく、礼法によって秩序立てて制御する政策だけが有効である。富国篇における墨子への批判および正論篇における宋鈃(そうけい)への批判を参照。
(注4)陳仲(または田仲)は陳仲子として、『孟子』滕文公章句下、十および盡心章句上、三十四に現れる。陳仲子は、孟子の当時に清廉の士として評価されていた思想家であった。荀子が陳仲を批判するところは、陳仲は情性を独りで耐え忍ぶことに終始して、その思想に社会を制御する法を持たないところにある。
(注5)史鰌子魚(ししゅう・しぎょ)は、春秋時代に衛の大夫として衛の霊公に仕えた。『論語』衛霊公篇で「直なるかな史魚、邦道有るときも矢の如く、邦道無きときも矢の如し」とある。荀子は孔子が直であると称えた史鰌を、陳仲と並んで個人の廉直さに留まる者としてここで攻撃したことになる。
(注6)墨子のこと。翟は名。墨はおそらく本姓ではなく、通称であると思われる。
(注7)慎到・田駢はともに斉の稷下先生の一として史記荀卿列伝に見える。慎到は「勢」説の信奉者で、法家思想の祖の一となった。田駢は黄老の術を学んだ、とある。
(注8)ともに、著名な詭弁家。不苟篇(1)注2および注3参照。
《原文・読み下し》
今の世に假(いた)りて、邪說を飾り、姦言を文(かざ)り、以て天下を梟亂(きょうらん)し(注9)、矞宇嵬瑣(きつうかいさ)(注10)、天下をして混然として、是非・治亂の存する所を知らざらしむる者、人有り。
情性を縱(ほしいまま)にし、恣睢(しき)に安んじ、禽獸のごとく行い、以て文に合し治に通ずるに足らず、然り而(しこう)して其の之を持するや故(こ)有り、其之を言うや理を成し、以て愚衆を欺惑するに足るは、是れ它囂(たごう)・魏牟(ぎぼう)なり。情性を忍んで、綦谿利跂(きけいりき)(注11)、苟(いやし)くも人に分異(ぶんい)なるを以て高しと爲し、以て大衆を合し、大分を明(あきら)かにするに足らず、然り而して其の之を持するや故有り、其の之を言うや理を成し、以て愚衆を欺惑するに足るは、是れ陳仲(ちんちゅう)・史鰌(ししゅう)なり。天下を壹(いつ)にし、國家を建つるの權稱(けんしょう)を知らず、功用を上(たっと)び、儉約を大として、差等を僈(まん)にし、曾(すなわ)ち以て辨異(べんい)を容れ、君臣を縣するに足らず、然り而して其の之を持するや故有り、其の之を言うや理を成し、以て愚衆を欺惑するに足るは、是れ墨翟(ぼくてき)・宋鈃(そうけい)なり。法を尚(たっと)びて法無く、脩を下として作を好み、上は則ち聽を上に取り、下は則ち從を俗に取る、終日言いて文典を成すも、反紃(はんじゅん)して之を察すれば(注12)、則ち倜然(てきぜん)として歸宿(きしゅく)する所無く、以て國を經し分を定む可からず、然り而して其の之を持するや故有り、其の之を言うや理を成し、以て愚衆を欺惑するに足るは、是れ慎到(しんとう)・田駢(でんべん)なり。先王に法(のっと)らず、禮義を是とせず、而(しこう)して好んで怪說を治め、琦辭(きじ)を玩(もてあそ)び、甚だ察にして而(しか)も惠(けい)ならず(注13)、辯にして而も用無く、事多くして而も功寡(すくな)く、以て治の綱紀と爲す可らず、然り而して其の之を持するや故有り、其の之を言うや理を成し、以て愚衆を欺惑するに足るは、是れ惠施(けいし)・鄧析(とうせき)なり。


(注9)宋本はこの後に「欺惑愚衆」の四字がある。底本としている漢文大系は、元刻および王念孫説に基づいてこれを削る。
(注10)「矞宇」を郝懿行は大言炎炎なりと言い、兪樾は譎訏でありなお譎詭のごとし、と言う。兪樾説に従い、いつわりあざむく意と取る。「嵬瑣」の「嵬」を楊注は狂険の行をなす、と言い、「瑣」を同じく楊注は姦細の行をなす、と言う。大につけ小につけ無茶苦茶な行いをすること。
(注11)「綦谿」を増注の久保愛は「極蹊」と解して、狭い路を極めて以て己の道を爲す貌、と言う。「利跂」について楊注は「利」は「離」と同じ、と言い、これを受け集解の郝懿行は「利跂」について「世を離れ独立す」と言う。久保愛・郝懿行の両説を併せて、「綦谿利跂」を世を離れて己の道を独り極めること、と解する。
(注12)原文「反紃察之」。「紃」を楊注は「循」と同じ、と言う。底本の漢文大系は、元刻を是とする王引之の説に従う王先謙集解本に準拠して「反」字を採用する。「反紃(はんじゅん)」は、繰り返し調べること。宋本は「反」字を「及」字に作る。宋本にもし従うならば、「之を紃察(じゅんさつ)するに及べば」と読み下すであろう。この場合「紃察(じゅんさつ)」は、正し調べる意と取ることができる。
(注13)集解の王念孫は「恵」を「急」となすべし、と言う。天論篇「無用の辯、不急の察」、性悪篇「析速・粹孰なるも急ならず」。新釈の藤井専英氏は「恵」字を変えず、これを「慧」の意、あるいは仁愛の道と取る。仁愛の道の意として、訳すことにする。

【この篇は、「非相篇第五」の後に読んでいます。】

非十二子篇は、荀子の異端批判の総まとめを行った篇となっている。荀子の時代に影響力があった十二人の思想家を挙げて、これを批判する。だがこの非十二子篇における批判の言葉はそれぞれ短い文章であり、より詳細な批判は下に掲げた他の各篇で行われている(太字の篇は個別の学説への体系的な批判が置かれている篇である)。

  • 不苟篇:恵施・鄧析への批判[(1)]。陳仲・史鰌を、名を盗む者として批判する。
  • 富国篇:墨子の非楽・節用説への体系的批判[(3)]。
  • 天論篇:慎到・老子・墨子・宋鈃への批判[(3)]。
  • 正論篇:法家思想への批判[(1)]。宋鈃の人間寡欲説への体系的批判[(7), (8)]。
  • 解蔽篇:墨子・宋鈃・慎到・申不害・恵施・荘子への批判[(2)]。
  • 礼論篇:節葬を唱える墨家思想への体系的批判。
  • 楽論篇:非楽を唱える墨家思想への批判。
  • 正名篇:墨子・宋鈃・恵施への批判。名家思想への批判もある[(4)]。
  • 性悪篇:孟子の性善説への体系的批判[(2), (4)]。

この非十二子篇では老子・荘子が挙げられていないが、上のように荀子は彼らもまた他の篇において批判しているところである。おそらく上の十人の思想家の中で、その書が散逸して思想内容が不明である它囂(たごう)と魏牟(ぎぼう)は、道家の中でも荘子の思想に近い自由思想家だったのではないだろうか。

最初に、十人を批判した文章を訳した。これらの思想家については、後の篇の批判と併せて読めば大方はその批判点を理解することができる。陳仲(田仲、陳仲子)については、『孟子』が荀子よりも詳しく批判しているので、そちらを読んだほうが理解しやすい。

問題は、十二人の最後で批判される、同じ儒家の子思と孟子である。荀子は、彼らの「五行」の説を批判している。通説では、これは孟子の「五倫」説を批判したのだ、ということにされている。しかしながら、私には各研究家の意見がどうも腑に落ちない。荀子は、もっと別の点で子思・孟子学派を批判していたのではないだろうか?と疑問に思うところである。子思・孟子学派とは、孔子の弟子である曾参(そうしん)(あるいは別の孔子の弟子である有若(ゆうじゃく)もまた含まれるかもしれない)を始原とする、儒家の魯学派のことである。次回に述べることはただの憶測であって、明確な根拠があるわけではない。

非十二子篇第六(2)

大方は先王の正道に則ってはいるが、それを統一している原理を理解しておらず、見てくれはゆったりと構えながらその内心の性質は激烈で志は誇大であり、見聞はまことに雑にして広く、いにしえの歴史を考察して自説を打ち出し、「五行(ごこう)」(注1)と名付けている。だがその説はきわめて歪んで偏っていて、正しい名称の分類を行っておらず、深遠なことを言いながら明確な説明を欠き、難解なことを言って明解さがない。それゆえに自らの言辞を装飾してこれを恭しく担ぎ上げ、これこそ我らに先行する君子(注2)が言いたかったことである、などと吹聴する。子思(しし)(注3)がこれを提唱し、孟軻(もうか)(注4)がこれに唱和した。世俗の暗愚な儒者どもは大きな声で議論するが、どの説が過ちであるかを判断できない。よって連中は子思・孟軻の説を認めてこれを伝承し、仲尼(ちゅうじ)と子游(しゆう)(注5)は子思・孟軻のおかげで後世に重んじられることとなったのだ、と信じるのである。これが子思・孟軻の罪である。

いまもしここに人がいて、天下を治める方略を総合的に述べ、言葉と行動を一致させ、法の大綱と法判断(注6)を統一し、こうすることによって天下の英傑を集め、これらにいにしえの正道を語り、至順なることを教えたならば、部屋の中(注7)で敷物の上に座っていながらにして聖王の礼義法制が天下全てに普及して、天下泰平の風俗が勢いよく立ち起こることであろう。もはや六つの邪説などは入り込む余地すらなく、十二人の異端どもは近づくことすらできなくなるだろう。錐を立てる土地すら持っていないのに王公も名声を争うことができず、大夫程度の位階であっても一人の君主も手元に置き続けることができず、その名声は諸侯を凌駕して、諸侯は競ってこれを家臣とすることを願わずにはいられない。これが、仲尼・子弓(しきゅう)(注8)であり、彼らは権勢を得ることができなかった聖人なのである。天下を統一し、万物を差配し、人民を養い、天下の万民に利益をもたらし、天下を通行するもろもろの人民たちをすべて服従させ、六つの邪説はたちどころに消え去り、十二人の異端どもも教化されて正道に帰る。これが、舜・禹(注9)であり、彼らは権勢を得た聖人なのである。いまの時代、仁人は何を努めるべきであるか。上を仰ぐときには舜・禹の礼法の制度にならい、下を見れば仲尼・子弓の礼義の大義にならい、これを通じて十二人の異端どもの邪説を終わらせる努力をしなければならない。これを行うならば天下の害は除かれて、仁人の仕事はついに完成し、聖王の功績は天下にはっきりと記されることであろう。


(注1)荀子がここで「五行」として子思・孟子の何の説を指して言ったのかは、議論のあるところである。下のコメントおよび追記を参照。
(注2)原文「先君子」。つまり孔子のこと。
(注3)孔伋子思(こうきゅう・しし)。姓は孔、名は伋、字(あざな)は子思。孔子の孫で、孔子死後の儒家の中心人物の一人。孟子は子思の門人に学んだという。四書の一である『中庸』の作者と伝えられるが、異論もある。
(注4)孟子の姓は孟で、名は軻である。よって孟軻は孟子の本名。
(注5)仲尼は孔子の字(あざな)、子游は孔子の弟子である言偃(げんえん)の字である。だが荀子が孔子と並んで称える人物は、ここ以外の箇所ではすべて子弓である。なのになぜここだけ、子游を挙げているのか?子弓と子游との関係は?久保愛・郭嵩燾は、この子游は子弓の誤りと言う。あるいは別の説では、子游=子弓であると考える。私は、子游=子弓説は取り難いと考えるので、ここは子弓の誤りであるという久保愛・郭嵩燾の説に賛同したい。非相篇(1)コメントの考証を参照。
(注6)原文「統類」。解蔽篇(6)注3に合わせた訳とした。
(注7)原文「奧窔之閒」。「奥」の原義は室の西南隅、「窔」は室の東南隅。その間という意味なので、部屋の中のこと。
(注8)詳細不明。非相篇(1)コメントの考証を参照。
(注9)このあたり、孟子ならば堯・舜と言うはずであるところを、荀子は舜・禹と言い換える。荀子は、性悪篇などにおいても禹を模範的聖人として称揚している。荀子は『書経』禹貢篇に見られる九州・服制を制定した禹の功績を、高く評価していると思われる。もとより『書経』における禹の行政制度は史実とは言えず、後世の伝説にすぎない。
《原文・読み下し》
略(ほぼ)先王に法(のっと)りて其の統を知らず、猶然(ゆうぜん)として(注10)材劇にして志は大、聞見雜博、往舊を案じて說を造(な)し、之を五行と謂い、甚だ僻違にして類無く、幽隱にして說無く、閉約にして解無し。案(すなわ)ち其の辭を飾りて、之を祇敬(しけい)して曰く、此れ眞(まさ)に先君子の言なり、と。子思之を唱え、孟軻之に和す。世俗の溝猶瞀儒(こうゆうぼうじゅ)(注11)、嚾嚾然(かんかんぜん)として其の非なる所を知らざるなり。遂に受けて之を傳え、以て仲尼(ちゅうじ)・子游(しゆう)茲(これ)が爲めに後世に厚(おも)んぜらると爲す、是れ則ち子思・孟軻の罪なり。
若し夫れ方略を總(す)べ、言行を齊(ひと)しくし、統類を壹(いつ)にし、天下の英傑を羣(ぐん)し、之に告ぐるに大古を以てし、之に敎うるに至順を以てせば、奧窔(おうよう)の閒(かん)、簟席(てんせき)の上、斂然(きゅうぜん)(注12)として聖王の文章具(そな)わり、佛然(ぼつぜん)として平世の俗起らん。六說なる者入ること能わず、十二子なる者親(ちか)づくこと能わざるなり。置錐(ちすい)の地無くして、而も王公も之と名を爭うこと能わず、一大夫の位に在るも、則ち一君も獨り畜(とど)むること能わず、一國も獨り容るること能わず。成名は諸侯より況(さかん)にして(注13)、以て臣と爲すことを願わざること莫し。是れ聖人の埶(せい)を得ざる者にして、仲尼・子弓(しきゅう)是なり。天下を一にし、萬物を財(さい)し(注14)、人民を長養し、天下を兼利し、通達の屬、從服せざること莫く、六說なる者立ちどころに息(や)み、十二子なる者遷化す。則ち聖人の埶を得る者にして、舜・禹是なり。今夫(か)の仁人や、將(まさ)に何を務めんとするか。上は則ち舜・禹の制に法り、下は則ち仲尼・子弓の義に法り、以て務めて十二子の說を息(や)めんとす。是(かく)の如くなれば則ち天下の害除かれ、仁人の事畢(おわ)り、聖王の跡著(あら)わる。


(注10)原文「猶然而」。楊注は「猶然」を舒遅の貌、と注する。ゆったりした様子を指す。ここが宋本では「然而猶」に作られている。集解の盧文弨は宋本に依るべし、と言う。宋本に依るならば、「然り而(しこう)して猶(なお)」と読むべきであろう。
(注11)集解の王先謙は、「溝猶瞀儒」は「溝瞀儒」のことであり、溝瞀は愚闇と訓じ、猶は語助なるのみ、と言う。これに従う。
(注12)集解の王引之は、「斂然」は古語になく、「斂」は「歙」となすべし、と言う。「歙然(きゅうぜん)」は、一致する様子。これに従う。
(注13)楊注或説は「況」はなお「益」のごとし、と言う。さかん。
(注14)「財」は「裁」の意味。

上に訳したくだりは、非十二子篇で最も謎の多いところである。
大きな二つの疑問がある。

  • 荀子が批判した子思・孟子の「五行」とは、何の説を指しているのか?
  • 荀子が孔子(仲尼)ともに並べて賞賛する「子弓」の正体は誰か?

以上のうち、子弓の正体については非相篇において重澤俊郎氏の整理を追ってレビューした。私の意見としては、子游説は受け入れることが難しく、かといって重澤氏が消極的な意味で比較的妥当性があると言う冉雍説もまた難しいと考える。『論語』に断片的に見える冉雍の思想と、荀子の思想の間に系譜関係を見出すことは難しい。それに冉雍=子弓であるならば、『荀子』書中に冉雍についてのエピソードがもっと多くてもよいのではなかろうか。孟子は、彼の学の系譜上の師に当たる曾参と子思について『孟子』書中で頻繁に言及しているのである。しかしながら、『荀子』書中において冉雍は他の孔子の弟子である曾参・子貢・子路・顔回・子夏に比べて、特別に取り上げられている形跡が見えない。私は、子弓はやはり詳細不明の思想家であると言うより他はない。

次に、子思・孟子への荀子の批判点である。
楊注は、「五行は五常、仁・義・礼・智・信」と言う。増注の久保愛は「豊島幹曰く、五行は中庸の天下達道五、及び孟子の親・義・別・序・信なり」と言う。
『中庸』の天下達道五、および『孟子』の親・義・別・序・信とは、以下のくだりである。

天下の達道は五、之を行う所以の者は三。曰く、君臣なり、父子なり、夫婦なり、昆弟(こんてい)なり、朋友の交なり。五者は、天下の達道なり。
(『中庸』第二十章より)

だが人民というのは飽食暖衣してぶらぶら暮らし、何も教化しなければ、ケダモノと変わりがない。聖人はまたこれを憂えた。そこで舜は契(せつ。殷王家の祖先)を司徒(しと。文部大臣)に命じて、人倫を教えさせた。すなわち父子の間には親(しん)を、君臣の間には義(ぎ)を、夫婦の間には別(べつ)を、長幼の間には敍(じょ)を、そして朋友の間には信(しん)を設定したのであった。
(『孟子』滕文公章句上、四より。現代語訳)

荀子の批判する「五行」は上の五達道・五倫であるという見解は、漢文大系もまたこれを是としている。
しかしながら、『荀子』を読めば、荀子自体が五達道・五倫と同じ用語を用いて同じ倫理を重視している例がいくつも見られる。

  • 君臣の義、父子の親、夫婦の別は、則ち日に切瑳して舍かざるなり。(天論篇
  • 父子の義、夫婦の別に於ける、齊・魯の孝具・敬父なるに如かざる者は、何ぞや。(性悪篇
  • 君臣父子、兄弟夫婦は、、、夫れ是を之れ大本と謂う。、、、君は君、臣は臣、父は父、子は子、兄は兄、弟は弟たるは一なり。(王制篇

ここから新釈漢文大系の藤井専英氏は、思・孟と荀子との間に何の差異があるのか、という点について説明を加える。

問題は一方が主観派の名将に対し、他方が客観派の驍将であることである。主観派が孔子・曾子・子思・孟子と忠信即ち誠を重んじて内省に力を注いだのに対し、荀子は、、、人間行為の外部的準則たる礼を重視し、荀子は人間が君・臣・父・兄・子・弟・夫・妻として人倫社会で持つべき心構えを論じ、、、それが皆同一人物の時処位を異にした接触面であり、したがって人はこのすべての面を同時に妥当する必要を述べ、これを兼ね併せて能くする法として「礼」を審かにすべきことを説いている。、、、(思・孟のような)主観に基づく君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友の人倫関係の解釈が、「あんなものが行為・行動と言えるものか」「人倫はもっと地についたものでなくてはならぬ」と、思・孟を攻撃させる結果となったのであろう。
(新釈漢文大系『荀子』上巻、149ページ)


藤井専英氏はこのように込み入った説明で、なぜ荀子が言葉的には五達道・五倫と同じ用語を用いながら、この非十二子篇で思・孟の「五行」を批判するのか、に注釈しておられるのである。

しかしながら、荀子が孟子の主張を特に取り上げて批判する性悪篇において、その批判点は孟子の五倫の内容についてではない。批判されているのは、孟子の性善説である。性悪篇で検討したように、孟子の性善説はその根拠にいわゆる「四端説」がある。人間の性は善であり、その善である心中の始原的な衝動として、惻隠・羞悪・辞譲(または恭敬)・是非がある。この四つの端(はじまり)を自己努力によって伸ばすことによってそれぞれ仁・義・礼・智の徳に結実させるのが人間の目標である、と孟子は説いたのであった。

さて、ここで孟子の挙げる仁・義・礼・智の四つの徳に信を加えたならば、後世の用語でいう「五常」となる。『孟子』書中においては、仁・義・礼・智・信の五常を並列してこれを心中の端と結び付ける構成とはなっていない。だが、孟子の性善説に立てば、信の徳もまた心中の端に根拠を持つ善でなければならないはずである。『孟子』書中の構成では四端―仁義礼智の結びつきとして性善説が説明されているが、別のところで孟子学派は仁義礼智信の五つの徳を心中の端から説明する試みを行っていたのではないだろうか?そして孟子の性善説が彼の独創ではなく、先行する子思の思想を発展させた可能性は、孟子の思想系譜上から十分に考えられる。

私は、非十二子篇における「五行」は五達道・五倫であるという説にはあまり賛同できない。なぜならば五達道・五倫は荀子にとって反対する理由がなく、上に例を挙げたように荀子もまたこれらを守るべき礼義として称揚しているからである。むしろ楊注の言うように「五行」=五常であり、五常の説とは孟子学派の性善説を指していて、これを荀子は孔子の学を歪めて作った妄言であると批判した、と考えたほうが、性悪篇における性善説批判の内容と合致するのではないか、と思うところである。これがまず、私の「五行」への一つめの仮説である。

だが「五行」については、もう一つ別の仮説を立てることができるかもしれない。猪飼補注は、非十二子篇の「五行」は五行生克旺相の説、と注している。五行生克旺相の説とは、すなわち陰陽五行説のことである。猪飼補注は、子思と孟子の著作の中で散逸した部分の中に陰陽五行説に当たる記述がなかったとはいえない、と言う。猪飼補注が五行説ではないか、と疑問に思う理由は、荀子の子・孟への批判がここで激烈なところにある。五達道・五倫(性善説もそうであろう)などの主張であれば荀子とは大同小異であって、荀子が「深遠なことを言いながら明確な説明を欠き、難解なことを言って明解さがない」と言って正道と相容れないと罵るからには、荀子から見てそこまでの邪説であったのだろう、という推測がここで起こるのである。もし「五行」が陰陽五行説であったとすれば、「天人の分」(天論篇)を唱える合理主義者である荀子は、これを100%退けなければならなかったであろう。

漢代初期に編纂されたという『大戴礼記』および『礼記(小戴礼記)』は、当時伝えられていた儒家の礼に関するテキストが始原となっている。そこには『荀子』各篇とほぼ一致するテキストが収録されていると同時に、『大戴礼記』曾子天円篇あるいは『礼記』礼運篇などでは君子の政策と宇宙の陰陽・五行とを相関させる主張が展開されている。漢代の陰陽五行説や天人相関説は、このような儒家の宇宙論から発展したと考えられる。漢代以前に陰陽五行説や天人相関説が存在していたかどうかは、はっきりしたことは分からない。しかしながら、『史記』仲尼弟子列伝における有若のエピソードなどを見る限り、孔子の後継者たちの中には孔子を予知能力者とみなすオカルト的思想が存在していたことが推測される。だが、荀子学派はオカルト的思想とは無縁であり、陰陽五行説や天人相関説を唱えた形跡は全く見られない。

もしかしたら、荀子学派とは並行して別の儒家学派があって、それが陰陽五行説や天人相関説を信奉して漢代にまで伝えたのかもしれない。もしそれが子思・孟子の属する儒家の魯学派であったとすれば、どうであろうか?現存する子思・孟子のテキストの中には陰陽五行説や天人相関説説は見えないが、孟子は中華世界には五百年周期で聖王が現れる、という神秘主義的な歴史哲学を奉じていた(公孫丑章句下、十三)。孟子は君子の生き方に関しては外物に惑わされずに生きよ、と合理的な人間主義思想を掲げたが、自然現象や歴史に対しても合理的な推論を行うことができていたかは、分からない。もしかしたら五行説は孔子死後に子思あたりが理論化してそれが孟子に受け継がれ、漢代に至るまで魯学派の末裔によって継承されていたのかもしれない。だが斉で活動した荀子は魯学派に属しておらず、それで子・孟の末裔である魯学派の五行説を儒家にあるまじき邪説の残滓であると、最大級の攻撃を行ったのかもしれない。しかし、この説には証拠がないので、単なる憶測を超えることができない。


[追記]
1993年に、中国で『郭店楚簡』と名付けられた古代の竹簡文が発見された。
考証の結果、これらの出土文献は、孟子と同時代の紀元前300年ごろのテキストであるという説が現在有力視されている(もっと遅い年代のものであるという異論もある)。
その『郭店楚簡』には、『老子』の異本が収録されていて、これが紀元前300年ごろのテキストであるという考証に従うならば、これは現在確認された中で『老子』のもっとも古いバージョンである。

また『郭店楚簡』には、いくつかの儒家系のテキストも含まれていた。(1)『礼記』緇衣篇と一致するテキストが出土した。(2)「性自命出(せいはめいよりいず)」と名付けられた新発見の儒家系テキストがあった。および(3)「五行(ごこう)」と名付けられた儒家系のテキストがあり、これは20年前に発掘された馬王堆漢墓から出土した「五行」と内容が重なっていた。もしこれらが孟子と同時代のテキストであるとするならば、儒家思想の戦国時代中期の姿を示唆する文献となって、古代儒家思想の発展史として重要である。孔子とその弟子の曾子の没後から孟子が歴史の表舞台に登場するまでのおよそ1世紀間の儒家思想史は、これまで空白であった。その時代をつなぐ儒家思想家である子思、および孟子の若年時代の思想については、確実にその時代のものであると推定できるテキストが存在しなかった。たしかに『礼記』に所収の四篇(中庸篇、緇衣篇が含まれる)は、子思一派の著作『子思子』から収録されたものである、という記録はあった。だが『子思子』そのものが散逸してしまったので、現行の『礼記』テキストが子思一派の思想を本当に忠実に伝えているのか、それとも後世の改変を受けたものであるのか、という決することができない文献学的課題を抱えていた。いま『郭店楚簡』によって子思の作であると伝えられた篇の一つが出土したことの意義は、それゆえに大きい。『郭店楚簡』のテキストは、子思および初期孟子の思想を示している可能性が考えられるのである。

『郭店楚簡』所収の新発見のテキストには、先述のとおり「性自命出」および「五行」と名付けられたものがある。「性自命出」は『礼記』中庸篇の思想の原型といえる論理が見えて、子思一派のテキストである可能性が示唆されている。そして「五行」は、「仁・義・礼・智・聖」の五行を展開したテキストであった。この五行は孟子の「仁・義・礼・智」に「聖」を加えたものであり、後世の五常は「聖」のかわりに「信」を加えたものである。こうして、「五行」とは孟子の性善説の原型をなす主張であって、孟子は(おそらく子思の)「五行」説を継承発展させて自らの「仁・義・礼・智」説を形成させたものと思われるのである。

よって、戦国時代当時の思想であって後世には失われた『郭店楚簡』所収の「五行」が、戦国時代末期の荀子による子思・孟子学派への批判の真意を指し示している可能性が高い。ならば荀子の「五行」批判は結局子思・孟子学派の性善説(およびそれに先行する主張)への批判ということになり、性悪篇の孟子批判と整合するだろう。『郭店楚簡』テキストにおいては「性」から「五行」が生ずると読むことができる論理構成となっているのであって、人間の善なる「性」の発展形が人間道徳である、という性善説の構成と一致する。いっぽう荀子は性悪篇において「人の性は惡、その善なる者は僞(い)なり」と規定して、人間のナマの生物学的存在には「悪」つまり生存本能しかなく、人間道徳は後天的な学習を積み上げることによって獲得するものである、と主張した。荀子は、社会契約説になぞらえられる自らの社会統治論を立てるに当たって、社会と人間存在が人為による加工によって善に秩序付けられる、という点を強調したゆえに、子思・孟子の性善説的主張を批判したのであった。以上のことは、このサイトの富国篇・性悪篇のコメントにおいて、私が展開したところである。

非十二子篇第六(3)

信ずべきことを信じるのは信であるが、疑うべきことを疑うのもまた信である。賢人を貴ぶのは仁であるが、愚人を卑しむのもまた仁である。発言して的を得るのは智であるが、沈黙しながら的を得るのもまた智である。ゆえに、沈黙を知るのは言葉を知ることと同じ意義がある。よって、多言でありながらその言葉が正しい分類法に従っているのは、聖人である。少言であってもその数少ない言葉が礼法に従っているのは、君子である(注1)。多言であろうが少言であろうが言葉に法がなくて口から出任せであれば、それが大真面目に弁論をしたところでしょせんは小人である。よって努力しながら、その努力が人民への務めに向いていないならば、これを姦事と言うべきである。知を巡らしながら、その知が中華の文明の建設者である先王たちの正道に則っていないならば、これを姦心と言うべきである。見事に機知の効いた弁舌やたとえ話を操りながら、その弁舌が礼義に従っていないならば、これを姦説と言うべきである。これら姦事・姦心・姦説の三姦は、聖王が禁じるところである。知があって陰険であること、精密な知(注2)を他者を傷つける方向に用いること、詐欺を用いる術に巧妙であること、無用のことに雄弁であること、仁の心なしに明察な弁論を行うこと、これらは統治の大害である。行いが正道から外れて頑固に居座ること、不正なことを巧みに言い飾ること、姦悪なことを弄んで自得すること、弁舌巧みにして正道にそむくこと、これらはいにしえの大禁である。知がありながら法がない者、勇気があるが遠慮する精神がない者、明察な弁論をしながら正道から外れた理屈を操る者、大げさな言葉を並べながらその言葉が実用性に乏しい者、姦悪を好んで愚かな大衆と行動を共にする者、これらの者はいわば速足を持っていながら道に迷うような頭の回る愚者であり、石を背負って川に身投げするような自滅者である。よって、天下が捨てて顧みない者どもである。

天下すべてを心服させる心構えについて。身分が高く尊貴であっても、他人に驕ってはならない。聡明で知を極めていても、その智恵で他人を陥れてはならない。理解力が素早くても、他人より先に出ることを争ってはならない。剛毅で勇敢であっても、その力で他人を傷つけてはならない。知らないことは質問し、うまくできないことは学び取り、うまくできることであっても必ず先に譲る。こうしたことを行って、はじめて有徳の人ということができる。君主に会えば、臣下の義を尽くす。郷里の人に会えば、長幼の義を尽くす。年長者に会えば、子弟の義を尽くす。友人に会えば、礼節・辞譲の義を尽くす。身分卑しい者や年少者に会えば、これを教え導き、過失には寛容であるという義を尽くす。全てを愛し、全てを敬い、他人と争わず、広い心で天地の万物を包み込むように他人と接するのである。このようであれば智恵のある賢者には尊重されることとなり、智恵の足りない愚者であっても親しまれることとなるだろう。だがここまで徳のある他人への接し方をしても心服しない者がいたならば、それはもはや人間の姿をした妖怪であり、心底からの狡猾の人間というべきである。このような者であれば、たとえ身内の子弟の中にいたとしても、刑を受けてもしようがない(注3)。『詩経』に、この言葉がある。:

殷朝滅びしは、天の時にあらず
祖法を用いざる、なんじの罪なりき
老成の賢者、すでに去りぬるも
開祖が残されし刑典はありき、なれど
なんじはこれを聴かず、顧みず
ゆえに殷朝の、命は傾けり
(大雅、蕩より)

そのような者は、まさに殷の紂王のような残賊であり、この詩のように自滅するに任せるがよい。

いにしえの時代に仕官する士と言われた者は、徳厚い者であり、人民をまとめ上げる者であり、富貴を心から楽しめる者であり(注4)、分けて施すことを楽しむ者であり、罪過から遠ざかる者であり、道理に従って事を処していく者であり、一人だけ富を持つことを恥じる者であった。これに比べて現代に仕官する士と言われている者は、心の汚れた者であり、他人を傷つけ世を乱す者であり、自分勝手な者であり、利をむさぼる者であり、触法行為を犯す者であり、礼義なくしてただ権勢ばかりを好む者である。いにしえの時代に在野の士と言われた者は、人徳盛んな者であり、物静かさを保つことができる者であり、正道を修める者であり、運不運が偶然の結果であることを知る者であり(注5)、正義を明らかにしていく者である。これに比べて現代に在野の士と言われている者は、無能のくせに能があると自称する者であり、無知のくせに知があると自称する者であり、心中は利を求めてやまないくせに自分は無欲であると嘘をつく者であり、陰険で汚れた行為をするくせに言葉だけは高尚で真面目なふりをする者であり、世の風俗から外れたことを行ってこれを正しい風俗であると言い、世を離れて勝手に振る舞い、己の道を独り極めて他人をそしる者である。

士・君子ができないことについて。君子は他人を貴ぶことはできるが、必ずしも他人に自らを貴ばせることはできない。君子は他人を信じることはできるが、必ずしも他人に自らを信じさせることはできない。君子は他人を用いることはできるが、必ずしも他人に自らを用いさせることはできない。ゆえに君子は自らを修めないことを恥じるが、他人から汚れていると批判されることなどを恥じたりはしない。君子は自らが信のない人間となることを恥じるが、他人から信を置かれないことなどを恥じたりはしない。君子は自らに能がないことを恥じるが、他人に自らが用いられないことなどを恥じたりはしない。こうして君子は栄誉に誘われず、誹謗を恐れず、正道に従って行動し、身を正して己を正しくし、外物のために心が傾いたりはしない。これが、誠の君子である。『詩経』に、この言葉がある。:

温(おだや)かで恭(つつし)む人は
これ、徳の基(もとい)
(大雅、抑より)

君たちは、こうあらねばならない。


(注1)聖人は多言、君子は少言である理由は、聖人の知は熟慮なしで常に正解を得るが、君子の知は熟慮の結果として正解を得るからである。非相篇(5)も参照。
(注2)原文「神」。荀子は「神」の字を、人間の知の神妙精密なはたらきの意に用いる。神(かみ)の意ではない。
(注3)孟子もまた、自らは徹底的に礼を尽くして接してもなおかつ親しまず横柄な返答をする者は、もはや禽獣であるとみなすべきだ、ということを言っている。離婁章句下、二十九を参照。
(注4)原文読み下し「富貴を楽しむ者なり」。集解の兪樾は、ここの大要は「富貴を慕わず」の意であろう、と言う。王先謙は「富」字は「可」字の誤りであり、「貴ぶ可きを楽しむ者なり」である、と言う。いずれも、富貴を楽しむことを肯定しているはずがない、とみなしての意見である。新釈は「人々の富貴になる事を楽しむ者」と訳している。だが私は思うに、この後に「分施を楽しむ」「独富を羞ずる」の語が続いているのだから、富貴を皆と共に分かち合うので富貴を真に楽しむことができる、という意味で取ってよいのではないか。孟子の言う「賢者にして而る後に此を楽しむ」(梁恵王章句上、二)の意である。諸氏の解釈は、狭隘に過ぎると私は思う。
(注5)原文読み下し「命を知る者なり」。「命」を天命と考えれば孔子・孟子の思想に近いが、荀子は天命について多く語ることがない。ここは正名篇の「命」の定義に従って、「人間の行為の必然的結果ではなくて、その人にたまたま起こったこと」という意味を前に打ち出して訳した。
《原文・読み下し》
信を信ずるは信なり、疑を疑うも亦信なり。賢を貴ぶは仁なり、不肖を賤しむも亦仁なり。言いて當るは知なり、默して當るも亦知なり、故に默を知るは猶お言を知るがごときなり。故に多言にして類なるは、聖人なり。少言にして法あるは、君子なり。多少法無くして流(りゅう)すれば、湎然(べんぜん)として辯(べん)ずと雖も小人なり。故に力を勞して民の務に當らざる、之を姦事と謂い、知を勞して先王に律(のっと)らざる、之を姦心と謂い、辯說(べんぜつ)・譬諭(ひゆ)・齊給(せいきゅう)・便利にして、禮義に順(したが)わざる、之を姦說(かんせつ)と謂う。此の三姦なる者は、聖王の禁ずる所なり。知にして險、賊にして神、詐を爲して巧、用無きを言いて辯、辯惠ならずして(注6)察なるは、治の大殃(だいおう)なり。行辟(へき)にして堅、非を飾りて好(こう)(注7)、姦を玩して澤(えき)(注8)、言辯にして逆なるは、古の大禁なり。知にして法無く、勇にして憚ること無く、察辯にして操僻(そうへき)(注9)、淫大(いんたい)にして用之(とぼ)しく(注10)、姦を好んで衆と與(とも)にし、足を利して迷い、石を負(いだ)いて墜つるは、是れ天下の弃(す)つる所なり。
天下を兼服するの心。高上尊貴なるも、以て人に驕らず、聰明聖知なるも、以て人を窮(くる)しめず、齊給速通なるも、人に爭い先んぜず、剛毅勇敢なるも、以て人を傷つけず、知らざれば則ち問い、能くせざれば則ち學び、能くすと雖も必ず讓り、然る後に德と爲す。君に遇(あ)えば則ち臣下の義を脩め、鄉に偶えば則ち長幼の義を脩め、長に遇えば則ち子弟の義を脩め、友に遇えば則ち禮節・辭讓の義を脩め、賤にして少なる者に遇えば、則ち告導・寬容の義を脩め、愛せざること無く、敬せざること無く、人と爭うこと無く、恢然(かいぜん)として天地の萬物を苞(つつ)むが如し。是(かく)の如くなれば、則ち賢者は之を貴び、不肖者は之に親しむ。是の如くにして服せざる者は、則ち訞怪(ようかい)・狡猾の人と謂う可し。則ち子弟の中(うち)と雖も、刑之に及んで宜(よろ)し。詩に云う、上帝時ならざるに匪(あら)ず、殷舊を用いざればなり、老成の人無しと雖も、尚お典刑有り、曾(すなわ)ち是れ聽くこと莫く、大命以て傾く、とは、此を之れ謂うなり。
古の所謂(いわゆる)士の仕うる者は、厚敦なる者なり、羣(ぐん)を合する者なり、富貴を樂しむ者なり、分施を樂しむ者なり、罪過に遠ざかる者なり、事理を務むる者なり、獨富を羞ずる者なり。今の所謂士の仕うる者は、汙漫(おまん)なる者なり、賊亂なる者なり、恣睢(しき)なる者なり、貪利(たんり)なる者なり、觸抵(しょくてい)する者なり、禮義無くして唯(ただ)權埶(けんせい)を之れ嗜む者なり。古の所謂處士なる者は、德盛んなる者なり、能く靜かなる者なり、正を脩むる者なり、命を知る者なり、是を箸(あら)わす者なり。今の所謂處士なる者は、能無くして能と云う者なり、知無くして知と云う者なり、利心足ること無なくして、欲無しと佯(いつわ)る者なり、行爲險穢(けんあい)にして、强(し)いて高言・謹愨(きんかく)なる者なり、不俗を以て俗と爲し、離縱して跂訾(きし)する者なり。
士・君子の能く爲さざる所(注11)。君子は能く貴ぶ可きを爲すも、人をして必ず己を貴ばしむること能わず、能く信ず可きを爲すも、人をして必ず己を信ぜしむること能わず、能く用う可きを爲すも、人をして必ず己を用いしむること能わず。故に君子は脩ならざるを恥じ、汙(お)とせ見(ら)るるを恥じず。信ならざるを恥じ、信ぜ見(ら)れざるを恥じず。能あらざるを恥じ、用い見(ら)れざるを恥じず。是を以て譽(ほまれ)に誘われず、誹(そしり)に恐れず、道に率(したが)いて行い、端然として己を正し、物の爲めに傾側せられず、夫れ是を之れ誠の君子と謂う。詩に云う、溫溫(おんおん)たる恭人、維(こ)れ德の基、とは、此を之れ謂うなり。


(注6)集解の王念孫は、本篇(1)注13と同じく「恵」を「急」と読む。しかし前に準じて、仁愛の意で訳す。
(注7)集解の王念孫は、「好」は去声でなく上声で読むべし、と言う。去声で読めば「このむ」の意であり、上声で読めば「よい。ととのっている」の意味。つまり、巧妙なこと。
(注8)新釈は于省吾の「澤・釈は古字通ず、釈は自得を謂うなり」を引く。「釈(えき)」は「懌」の借字で、よろこぶ。新釈に従う。
(注9)楊注はつづく「淫」字を前につなげて、「僻淫を操り」のように読む。集解の兪樾は「淫」字は後につなげて「大」は「汰」と読み、「淫汰(いんたい)」の意と言う。これに従う。
(注10)集解の兪樾は、「之」は「乏」が壊れた字である、と言う。これに従う。
(注11)宋本の原文は、「士君子之所能不能爲」として、上の段の末尾に置く。元刻は「能」を一字を削って「士君子之所不能爲」に作る。この文の処し方には、三説が提出されている。(1)このまま「士・君子の能く爲し能わざる所なり」と読んで、上の段のまとめの言とみなす。新釈の藤井専英氏は暫定的にこのように処す。(2)元刻を採用して「士・君子の能く爲さざる所」と読んで、以下に続く叙述の起句とみなす。増注の説。(3)字を追加、または入れ替えて解釈する。集解の王念孫は「爲」字を宋本原文の一つめの「能」字の下に追加して「士・君子の能く爲し、能く爲さざる所」と読む。猪飼補注は「爲」字を原文の「所」字の下に移して「士・君子の能く爲し、能わざる所」と読む。両説ともに、元刻と同じく以下に続く叙述の起句とみなす。漢文大系および金谷治氏は、王念孫説を取る。以上、どの説でも通るが、元刻のままで十分説明できるので、(2)を取ることにしたい。

異端批判を一通り終えた後は、再び正しい君子についての論述が始まる。ここはおそらく末尾にある子張・子夏・子游の儒家三学派批判につなげるイントロダクションであって、三学派は賤儒であり荀子の徒はこれに倣わず正しい君子を目指さなければならない、と諭すことが目的なのであろう。『論語』子張篇には、子張・子夏・子游の三学派が互いに孔子の学の解釈を巡って対立している姿が記録されている。荀子は儒家に属するが、三学派を批判しているところから見ると、これら孔子の直弟子の学派の出身ではないと思われる。荀子は趙国の出身であり、楚国ともつながりが深いと考えられる。荀子が孔子と並んで聖人と賞賛する子弓とは、趙国あるいは楚国の儒家思想家であったのかもしれない。

非十二子篇第六(4)

士・君子のあるべき容姿について(注1)。冠を高く掲げ、衣装をゆるやかに着こなし、温和な容貌をして、しかしながら厳格であり、荘厳であり、明るく、くつろいで、度量大きく、心広々として、晴れやかで、細かなことにこだわらない。これが、士・君子が父兄として子弟に接するときにあるべき容姿である。冠を高く掲げ、衣装をゆるやかに着こなし、真面目な容貌をして、謙虚で、父兄を信頼し、父兄に親しみ、礼儀正しく、従順で、恭敬で、決して背くことなく、視線を下げて父兄を正視しない。これが、士・君子が子弟として父兄に接するときにあるべき容姿である。私は諸君らに、学ぶ者の怪人どもの容姿を教えよう。冠は前に垂れ下がり、纓(かんむりのひも)はゆるんでいて、傲慢な容貌をして、満足げで、落ち着きもなく飛び跳ねて、無言で、こせこせとして、きょろきょろと左右を見回し、憔悴して、いきなりじろりと見る。宴会で酒食・音楽・美人が用意された場では、わざとらしく目を閉じて、まともに見ようとしない。礼儀作法を行う場では、指導者面をして憎憎しげであり、細かいことについて罵り怒る。労苦して事業を行う場では、怠惰で、真面目に仕事をぜず、怠け者のくせに他人の忠告を聞かず、恥を知らず、批判に耳を塞ぐ。これが、学ぶ者の怪人どもの容姿である。子張氏(注2)の門の賤儒どもは、冠の着け方はだらしなく、弁論はさっぱり内容がなく、聖人である禹・舜の歩き方とか走り方とかの形式だけ真似るばかりである。子夏氏(注3)の門の賤儒どもは、衣装と冠はきちんと正し、顔色もまたきちんと整え、得意な顔をして一日中何も言わない。子游氏(注4)の門の賤儒どもは、怠惰で仕事を嫌がり、恥を知らずに飲食に耽り、常に「君子はもとより力を用いないものだ」などとふざけた言い訳をする。君子は、そんなことではいけない。気楽な状態であっても、決して怠惰とならない。疲労した状態であっても、決して取り乱したりしない。原則に基づいて、しかも臨機応変であり、万事に適切な措置を行う。このことを尽くせば、ついに聖人となるのである。


(注1)それぞれの形容詞は、新釈漢文大系の解釈に沿って仮に訳しておく。猪飼補注は、その字義詳弁すべからず、と釘を刺している。荀子の勧める士・君子は素晴らしい容姿であり、他方で子張・子夏・子游の三学派に学ぶ者どもの容姿は醜悪この上ない、ということを言っていると読めば、それで十分であろう。
(注2)顓孫師子張(せんそんし・しちょう)。姓は顓孫、名は師、字(あざな)は子張。孔子の若手の弟子たちの中では、『論語』に現れる回数が最も多い一人である。論語子張篇では、子張が子夏を批判し、子游と曾参が子張を批判する言葉が収録されている。子張は若いが容姿が立派で、同門の弟子たちの間に敵が多かったようである。
(注3)卜商子夏(ぼくしょう・しか)。姓は卜、名は商、字は子夏。孔子の弟子で、文学に優れていたと評される。孔子の死後に魏国に赴いて、そこで重用された。
(注4)言偃子游(げんえん・しゆう)。姓は言、名は偃、字は子游。孔子の弟子で、子夏と同じく文学に優れていたと評される。
《原文・読み下し》
士・君子の容。其の冠は進(しゅん)(注5)、其の衣は逢(ほう)(注6)、其の容は良にして、儼然(げんぜん)、壯然(そうぜん)、祺然(きぜん)、蕼然(しぜん)、恢恢然(かいかいぜん)、廣廣然(こうこうぜん)、昭昭然(しょうしょうぜん)、蕩蕩然(とうとうぜん)たるは、是れ父兄の容なり。其の冠は進、其の衣は逢、其の容は愨(かく)にして、儉然(けんぜん)、恀然(しぜん)、輔然(ほぜん)、端然(たんぜん)、訾然(しぜん)、洞然(とうぜん)、綴綴然(ていていぜん)、瞀瞀然(ぼうぼうぜん)たるは、是れ子弟の容なり。吾汝に學者の嵬(かい)の容を語らん。其の冠は絻(べん)、其の纓(えい)は禁緩(きんかん)、其の容は簡連にして、填填然(てんてんぜん)、狄狄然(てきてきぜん)、莫莫然(ばくばくぜん)、瞡瞡然(ききぜん)、瞿瞿然(くくぜん)、盡盡然(じんじんぜん)、盱盱然(くくぜん)たり、酒食・聲色の中には、則ち瞞瞞然(ばんばんぜん)、瞑瞑然(めいめいぜん)たり、禮節の中には、則ち疾疾然(しつしつぜん)、訾訾然(ししぜん)たり、勞苦・事業の中には、則ち儢儢然(りょりょぜん)、離離然(りりぜん)、偷儒(とうだ)にして罔(もう)、廉恥無くして謑詬(けいこう)を忍ぶは、是れ學者の嵬なり。其の冠を弟佗(ていた)にし、其の辭を衶禫(ちゅうたん)にし、禹行(うこう)して舜趨(しゅんすう)するは、是れ子張氏の賤儒なり。其の衣冠を正しくし、其の顏色を齊(ととの)え、嗛然(きょうぜん)として終日言わざるは、是れ子夏氏の賤儒なり。偷儒(とうだ)事を憚り、廉恥無くして飲食を耆(たしな)み、必ず君子固(もと)より力を用いずと曰うは、是れ子游氏の賤儒なり。彼の君子は則ち然らず。佚(いつ)にして惰ならず、勞にして僈(ばん)ならず、原に宗し變に應じ、曲(つぶさ)に其の宜を得、是(かく)の如くにして然る後に聖人なり。


(注5)集解の兪樾は、「進」は読んで「峻」となす、と言う。これに従う。冠が高く掲げられている様。
(注6)楊注は「逢」は「大」なり、と言う。衣服がゆるやかである様。

孔子の有力な弟子であった子張・子夏・子游の三者の後を受けた各学派が、ここでは「賤儒」と最低の評価を与えられている。くだんの三者は、すべて孔子一門の中でも礼義を重視した。なので君子の内面の善を尊重する子思・孟子よりも、荀子の学にむしろ親近性がある。しかし荀子はこの非十二子篇で子思・孟子を批判して、返す刀で子張・子夏・子游の三学派までも批判する。上に訳した三学派を批判する内容は、もっぱら彼らの態度であって、思想的内容ではない。それらに比較される理想の君子像は、原則に忠実でありなおかつ臨機応変だと言う。荀子の目から見て既存の子張・子夏・子游三学派たちは、古い伝承を墨守するばかりで創造性を失っていたのであろう。続く漢代の儒学をリードしたのは、荀子から学んだ儒家たちの末裔であった。

荀子は、彼の時代に一家をなしていた孔子の直弟子たちを開祖とする儒家各学派に対して、総じて批判的視点を持っていたといえる。荀子は儒家発祥の地である魯国から文化的に遠く離れた趙国の出身であり、主に斉国で活動を行い、最後は楚国に定住した。荀子は、儒家としては傍流であり余所者であったゆえに、儒家の原理をより純化して発展させることに成功したのではないだろうか。

この後は、堯問篇末尾の荀子賛を読んでおきたい。

【次は、「業問篇第三十二」を読みます。】

非相篇第五(1)

人相で人を判断することは、いにしえの人々は行わなかったことであり、学ぶ者は言わないものである。かつての姑布子卿(こふしけい)(注1)とか、近年では梁国の唐舉(とうきょ)(注2)とかが、人の身体的特徴と面相を占って吉凶禍福を予言した。世俗の者たちはこれらを賞賛するが、いにしえの人々はこのようなことは行わなかったのであり、学ぶ者は言わないものである。ゆえに人の身体的特徴を占うことは、人の心を論ずるには及ばず、人の心を論ずることは、正道を学ぶわざを選ぶことにはかなわないのである。身体的特徴のよしあしは、心のよしあしには勝つことができない。また心のよしあしは、学ぶわざのよしあしには勝つことはできない。学ぶわざが正しくて心が素直であれば、たとえ顔かたちが悪くても心と学ぶわざが正しいので、君子となるために障害などありはしないのだ。逆にたとえ顔かたちがよくても心と学ぶわざが悪ければ、小人となることを止める助けになりはしないのだ。君子であることこそを、吉と言うべきである。小人であることこそを、凶と言うべきである。なので、顔面の長短・身長の高低・身体の美醜・形相の善悪は、吉凶ではない。このようなことは、いにしえの人々は問題にしなかったのであり、学ぶ者もまた問題にしないのである。たとえば堯帝は身長が高く、舜帝は身長が低かった。周の文王は身長高く、周公は身長が低かった。仲尼(ちゅうじ)は身長が高く、子弓(しきゅう)は身長が低かった(注3)。むかし、衛の霊公(注4)に家臣がいて、公孫呂(こうそんりょ)(注5)という名であった。身長は七尺(158cm)だが顔面が縦も横も三尺(68cm)あって、そこに目と鼻と耳が付いているという異様な面相であった。だが公孫呂は、天下に轟く名声を得たのであった。楚の孫叔敖(そんしゅくごう)(注6)は、期思(きし。河南省)の出身の田舎者で、突き出した禿頭に左足が右足より長いというおかしな風采であったが、車に乗りながらにして(注7)楚王を覇者に導いた。楚の葉公子高(しょうこうしこう)(注8)は身長低く身は痩せていて、歩けば服の重さにすら耐えられないほどひ弱に見えた。だが白公の乱(注9)において令尹子西(れいいんしせい)・司馬子期(しばしき)がすべて乱によって殺されたとき、葉公子高は楚都に入って白公を誅殺して楚国を平定した。彼が楚国を平定した手際は、手の平を返すがごときたやすさであり、その仁義と功名は後世に称えられた。ゆえに、士は身体の長さとか大きさとか重さとかを考えたりせず、ただその心中の高低だけを知ろうとするのである。顔面の長短・身長の高低・身体の美醜・形相の善悪は、論ずるに値しないのである。徐の偃王(えんおう)(注10)はうつむいて近くを見ることができず(注11)、仲尼(ちゅうじ)は蒙倛(もうき。ざんばら髪の鬼の仮面)(注12)のような不気味な面相であり、周公は折れた枯れ木のようなせむしの身体であり、皋陶(こうよう)(注13)は皮をむいた瓜のような血の気のない顔色であり、閎夭(こうよう)(注14)は顔の皮が見えないほどのひげ面であり、傅說(ふえつ)(注15)は魚の背びれのようなせむしの身体であり、伊尹(いいん)(注16)は顔に鬚(ひげ)も眉も無く、禹は片足をひきずり、殷の湯王は半身不随であり、堯・舜は瞳が重なっていた(注17)。ならばわが一門に学ぶ諸君(注18)は、人間の意志を論じてその人の文芸学問を比較し、それで人のよしあしを比較しようとするのか?それとも諸君は、単に身体が長い短いとか、外見が美しいとか醜いとかを論じて、人を嘲笑おうとするのか?いずれがよいか、よく考えるがよい。

かつて桀(けつ)・紂(ちゅう)は、身体は大きく美しく、天下に秀でていた。筋力は人並み優れ、一人で百人を敵とすることができた。なのにわが身は死んで国は滅び、天下の大恥辱となり、後世悪人を挙げるときには必ず両者が考えられるようになった。これは、容貌が悪かったからではない。ただ彼らは見聞が足りず、論議がいやしかった結果なのだ。今の世の乱れた君主や村落の軽薄才子どもは、美麗に着飾ってなまめかしく化粧し、奇怪な服装を着て女性のような格好をして、気性も態度も軟弱なことこの上もなく、どれもこれもまるで女子のようである。このような輩を成人女性たちは夫としたいと皆願い、若い処女たちは恋人としたいと皆願い、それで実家を捨ててこいつらに走ろうと望む者が肩を並べて次々に現れる始末である。だがしかし普通にまともな君主ならばこういう輩を家臣とすることを恥じ、普通にまともな父親ならばこういう輩を子として持つことを恥じ、普通にまともな兄ならばこういう輩を弟として持つことを恥じ、普通にまともな一般人ならばこういう輩を友人として持つことを恥じる。こういう輩がにわかに役人に捕らえられて、市場で公開処刑されるような境遇に遇うと、愚かにも天の助けを呼んで大泣きし、今の窮地に苦しんで、これまでの愚行を後悔しない者はいない。これは、容貌が悪かったからではない。ただ彼らは見聞が足りず、論議がいやしかった結果なのだ。こういうことであるならば、わが一門に学ぶ諸君(注18)は、美しい容貌を持つことと広い見聞・高い議論をなすことのどちらがよいと考えるか、聞きたいものである。


(注1)春秋時代の人。『韓詩外伝』に孔子の人相を見たという話がある。
(注2)戦国時代、梁すなわち魏国の人。史記蔡沢列伝で、無名時代の蔡沢の人相を見て将来の富貴を予言したという。果たして蔡沢は、秦国の宰相となった。
(注3)堯・舜はいにしえの聖王。文王は周王朝の開祖、周公はその子で成王の摂政。仲尼は孔子の字(あざな)。子弓は詳細不明、下のコメントの考証を参照。
(注4)衛の霊公は、孔子と同時代の衛国の君主。孔子は魯を去った亡命時代に何度か霊公のもとに身を寄せた。
(注5)詳細不明。
(注6)増注によれば、楚王の令尹(れいいん)すなわち宰相となって、十二年で楚の荘王を覇者とした、と言う。
(注7)原文「軒較之下」。新釈の藤井専英氏は「軒較」を車とその部品とみなし、「軒較之下」を坐したままで肉体を使わず頭脳を働かせる意、と解釈する。
(注8)沈諸梁子高(しんしょりょう・しこう)のこと。姓は沈、名は諸梁、字は子高。葉(しょう)に封ぜられたので葉公子高という。
(注9)史記伍子胥列伝によると、白公は楚の王族で、父の太子建は鄭国に亡命中に鄭国によって殺された。白公はこれを怨みに思って鄭国を討とうとしたが、当時の楚の宰相であった令尹子西はかえって鄭国を救出する援軍を出した。白公はこれに怒って、令尹子西と司馬子期を襲撃して殺した。このとき葉公子高は楚の人民を率いて白公を討ち、白公は敗れて逃亡の末に自害した。
(注10)史記秦本紀によれば、徐の偃王は周の穆王(ぼくおう)の時代に反乱を起こして鎮圧された、とある。だがここでは明らかに徐の偃王を肯定的に言及している。各書において徐の偃王が仁義を修めたという記録があるようである。
(注11)原文読み下し「目馬を瞻(み)る可く」。楊注によれば、徐の偃王は偃仰(背が下を向いて首が上を向くこと、つまり背骨が曲がっていたこと)でうつむいて細かく見ることができず、やっと遠くの馬が見えるだけであった、と言う。
(注12)「蒙倛」はざんばら髪の鬼の仮面のこと。荻生徂徠は「倛(き)を蒙(こうむ)る」と読んで、仮面をかぶる、と解する。
(注13)堯・舜に仕えた獄官。
(注14)周の文王の臣。
(注15)殷の高宗の臣で、高宗に抜擢されて殷を中興させた。
(注16)殷の湯王の臣。湯王を輔佐して夏王朝を亡ぼし、殷王朝を建国させた。
(注17)原文「參牟子」。牟子(ひとみ)が参(かさ)なる、という意味。海音寺潮五郎氏は、項羽もまた瞳が重なっていた、という記録があるところを評して、瞳の色が薄くて瞳が二つあるように見える様であろう、と言った。おそらくこのことであろう。
(注18)原文「従者」。楊注は、荀卿の門人、と言う。盧文弨は楊注を非として単に学ぶ者の意と解するが、楊注のほうがリアリティがあるのであえてこちらを採用して訳すことにしたい。
《原文・読み下し》
人を相するは(注19)、古の人有ること無きなり、學ぶ者は道(い)わざるなり。古者(いにしえは)姑布子卿(こふしけい)有り、今の世梁(りょう)に唐舉(とうきょ)有り、人の形狀・顏色を相して、其の吉凶・妖祥を知る。世俗之を稱するも、古の人は有ること無きなり、學ぶ者は道わざるなり。故に形を相するは心を論ずるに如かず、心を論ずるは術を擇ぶに如かず。形は心に勝らず、心は術に勝らず。術正にして心順なれば、則ち形相(けいそう)惡しと雖も心術善くして、君子と爲るに害無きなり。形相善しと雖も心術惡しければ、小人と爲るに害無きなり。君子之を吉と謂い、小人之を凶と謂う。故に長短・小大・善惡・形相は、吉凶に非ざるなり、古の人有ること無きなり、學ぶ者道わざるなり。蓋し帝堯は長にして、帝舜は短なり、文王は長にして、周公は短なり、仲尼は長にして、子弓は短なり。昔者(むかし)衛の靈公に臣有り、公孫呂(こうそんりょ)と曰う。身の長(たけ)七尺、面の長さ三尺にして、廣さ三寸、鼻・目・耳具(そな)わりて、而(しか)も名は天下を動かす。楚の孫叔敖(そんしゅくごう)は、期思(きし)の鄙人(ひじん)なり。突禿(とっくつ)長左、軒較(けんかく)の下(もと)にして、楚を以て霸たらしむ。葉公子高(しょうこうしこう)は、微小短瘠(たんせき)、行くに將(まさ)に其の衣に勝えざらんとするが若し、然るに白公の亂にや、令尹子西(れいいんしせい)・司馬子期(しばしき)皆焉(これ)に死したれば、葉公子高入りて楚に據り、白公を誅し、楚國を定むること、手を反(かえ)すが如きのみ、仁義・功名は後世に善とせらる。故に士は長を揣(はか)らず、大を揳(はか)らず、輕重を權(はか)らず、亦將(まさ)に心を志(し)らんとするのみ(注20)。長短・小大、美惡・形相、豈に論ぜんや。且つ徐の偃王(えんおう)の狀は、目馬を瞻(み)る可く、仲尼の狀は、面蒙倛(もうき)の如く、周公の狀は、身斷菑(だんし)の如く、皋陶(こうよう)の狀は、色削瓜(さくか)の如く、閎夭(こうよう)の狀は、面に見膚(けんぷ)無く、傅說(ふえつ)の狀は、身植鰭(しょくき)の如く、伊尹(いいん)の狀は、面に須麋(しゅび)無く、禹は跳び湯は偏し、堯・舜は參牟子(さんぼうし)なり。從者將(まさ)に志意を論じ、文學を比類せんとするか。直(ただ)將に長短を差し、美惡を辨じて、相欺傲(ぎごう)せんとするか。古者(いにしえ)桀・紂は長巨姣美(こうび)にして、天下の傑なり、筋力越勁(えつけい)にして、百人之に敵(あた)る。然り而(しこう)して身死し國亡び、天下の大僇(たいりく)と爲り、後世惡を言えば則ち必ず稽(かんが)う。是れ容貌の患に非ざるなり、聞見の衆(おお)からず、論議の卑しきのみ。今世俗の亂君、鄉曲(きょうきょく)の儇子(けんし)、美麗姚冶(ようや)にして、奇衣婦飾し、血氣態度、女子に擬せざること莫し。婦人得て以て夫と爲すを願わざること莫く、處女得て以て士と爲すを願わざること莫く、其の親家(しんか)を弃(す)てて之に奔(はし)らんと欲する者、肩を比(なら)べて並び起る。然り而して中君以て臣と爲すを羞じ、中父以て子と爲すを羞じ、中兄以て弟と爲すを羞じ、中人以て友と爲すを羞ず。俄にして則ち有司に束(つか)まられ、大市に戮(りく)せられるれば、天に呼びて啼哭(ていこく)し、其の今を苦傷して、其の始を後悔せざること莫し。是れ容貌の患に非ざるなり、聞見の衆からず、論議の卑きのみ。然らば則ち從者將に孰(いず)れを可とせんとするや。


(注19)元本には、「人」字がない。増注は元本に従い「人」字を削っている。
(注20)原文「亦將志乎心耳」。王先謙は集解本で「心」字を削っている。王先謙は「事、長大・輕重を揣揳(しけつ)せず、亦且(まさ)に彼の数聖賢に志(しる)す有らんとす」と言って、「(いにしえの士は身体的特徴から人物を論ずることはなく、)聖賢にもそんな特徴があると考えたにとどまっていた」のように解している。漢文大系は王先謙説を取って(ただし「心」字は復活させる)「亦將(しばらく)心に志(しる)すのみ」と読み下している。これに対して新釈の藤井専英氏は、「志」は知る、と注するにとどまる。藤井説を取る。

【この篇は、「子道篇第二十九」の後に読んでいます。】

さきに勧学篇から後の各篇は飛ばして読んだが、ここで戻って非相篇第五を検討したい。この篇は全体としてまとまっていないが、重要な論点が含まれている。一つはここで訳した、「人を相する」ことへの批判である。もう一つは中途から始まる、人間倫理が歴史を通じて同一であるということを論じた部分である。これは、荀子のいわゆる後王思想を裏付ける考えに繋がる。

まず、荀子の「人を相する」ことへの批判が置かれる。その批判するところは、言うまでもないだろう。現代においても、相変わらずよくあることである。史記高祖本紀によれば、漢の開祖である劉邦は若い頃には労働を嫌うごろつきにすぎなかったが、その人相が龍顔(りゅうがん)であったという。史記に記載されているところによると、資産家の呂氏は一文無しであった劉邦の龍顔を見て即座にこれを奇とし、その娘を娶わせることを決めたとある。娘とは中国史で代表的な悪女の一に数えられる、呂后(りょこう)のことである。このエピソードに見られるように、人相とか骨相とかで人物を判断する風潮は、戦国時代から秦漢代にかけて大いに流行していた。

荀子は、時代の風潮をここで批判する。人間の真価は身体的特徴ではく、むしろ心中の善であり、さらに正しい学問を身に付けているかどうかなのだ、と言うのである。孟子が「形・色は天性なり」(盡心章句上、三十八)と言うように、身体は天与の性質である。君子は天与の身体を活用して向上させるところに、偉大さがあるのだ。天論篇で、私は孟子と荀子の比較を試みた。孟子と荀子には、天に対する共通の態度があった。すなわち孟子は、天が与えた運命に対してこれから自律して行動することを説いた。荀子は、天が与えた自然現象に対してこれから自律して政策を行うことを説いたのであった。

荀子がここで「人を相する」ことを批判するのは、天与の自然に人間が甘んじることへの批判の一貫なのである。君子は「人を相する」風潮に心乱されてくじけることなどあってはならず、ひたすら学問に励んで心中の徳を向上させなければならない。荀子がここでファッションに凝って女性まがいの出で立ちをする男子が婦女子に大人気となっているが、世の平均的な男子どもは眉をひそめている、などと書いているところは、昔も今も人間の情はぜんぜん変わらないところを示していて苦笑するばかりだ。礼義を重んじる荀子はこれらを取り締まるべきだという立場に立っているのであろうが、現代の人はもう少し多様性に寛容であるべきだろう。しかし、人間の真の価値は外見よりも心中の徳であり、能力であるという荀子の意見は、昔と今とで換えることは難しいのではないだろうか?


ところで、上のくだりで仲尼(孔子のこと)と並んで挙げられている人物に、子弓(しきゅう)という者がいる。この人物は、『荀子』の他篇(非十二子、儒效)にも現れるのであるが、詳細不明の人物である。しかしながら荀子は子弓なる人物を孔子と並列しているので、これが荀子にとって孔子と並ぶ学問の先達の師に当たるのではないか、という推測が学者たちの間で出されたのであった。『荀子』本篇中を見ても、史記荀卿列伝の中にも、荀子が学問を受けた師の名前は記録されていない。

仲尼は孔子の字(あざな)なので、子弓もまた字であると推測できる。重澤俊郎氏は、子弓の正体の各説について『荀況研究』(大空社『周漢思想研究』所収)でレビューを行っている。

  • 朱張(子弓):王弼の説。論語王弼注において、「朱張字は子弓、荀卿以て孔子と比す」とある。朱張は論語微子篇で逸民すなわち隠者であったと伝えられているが、荀子の思想に隠者を重んじる思想はないので、重澤氏はこの説は難しいと言う。事実『論語』『孟子』には見られる隠遁思想の痕跡が『荀子』には全く見られないので、重澤氏の指摘は的を得ていると思われる。
  • 馯臂(子弓):張守節・朱熹の説。馯臂子弓(かんぴ・しきゅう)は史記仲尼弟子列伝において、孔子の弟子の商瞿(しょうく)から易学を受けた楚人と記録されている。だが荀子は六経すなわち詩・書・礼・楽・易・春秋の中では易について最も疎遠であり、よって重澤氏はこの説もまた難しいと言う。事実『荀子』内で易に関する言及は他の五経に比べて非常に少なく、張守節・朱熹の説は受け入れ難い。
  • 冉雍(仲弓):楊倞の説。冉雍仲弓(ぜんよう・ちゅうきゅう)は『論語』で孔子に高く評価された弟子で、徳行に優れていたと評される。王先謙も集解序で子弓=仲弓説に賛同する。重澤氏は彼の字はもと「子弓」であって次兄を表す「仲」の字を後に加えて「仲弓」とされた可能性を指摘している。
  • 言偃(子游):邵懿辰・武内義雄の説。言偃子游(げんえん・しゆう)は孔子の弟子で、文学に優れていたと評される。子游学派は礼を重視したので、荀子の学といちおうの親近性はある。しかし重澤氏は邵懿辰が主張する『礼記』檀弓篇が子游学派の作であって檀弓とは子弓=子游のことである、という説は根拠薄弱であると言う。また武内義雄博士は、『礼記』礼運篇の思想が荀子の礼に関する思想と類似性が高いことを指摘して、礼運篇が孔子と子游との対話として構成されているためにこの篇を子游学派の作と想定して、同様に子弓⁼子游の誤り説に同意する。しかしながら次の非十二子篇において、子游学派は孔子の別の弟子の子張・子夏の両学派と並んで賤儒として荀子に厳しく批判されていて、荀子に子游学派への尊敬は見えない。これにより、私は子弓=子游説も難しいと考える。

重澤氏は、楊倞の冉雍説が消極的な意味において比較的妥当性があると言うが、いずれにも結論を述べない。私が思うに、冉雍説についても肯定することが難しい。冉雍は徳行に優れていたと論語に記録されているのであるが、これと文学や礼法を重視した荀子の思想との間に系譜関係を見出すことは困難である。私としては、子弓の正体は不明であり、孔子の後に現れて荀子に直接の影響を及ぼす学問を立てたが、後世に名が知られなかった儒家思想家であったろう、と推測する以上のことが今のところはできそうにない。