非十二子篇第六(1)

By | 2015年6月18日
今の世になって、邪説・姦言をもっともらしく飾り立てて、これによって天下を撹乱し、人をいつわりあざむき、大につけ小につけ無茶苦茶な行為を行い、こうして天下が混乱して是非と治乱の根拠を分からなくさせてしまった犯罪的論者どもが現れた。以下に、その者どもを列挙する。

人間の性と情をほしいままに解放し(注1)、勝手な行動をするところに開き直り、禽獣(ケダモノ)のような行いをなすことによって礼義の文理に合致することも治世の道理を知ることもできず、にもかかわらず、自説のために根拠を用意して、それを主張するためには理屈を通すことができて、こうして愚かな大衆をあざむき惑わすことに成功する者。これが、它囂(たごう)と魏牟(ぎぼう)(注2)である。

人間の性と情を耐え忍んで(注3)、世を離れて己の道を独り極め、ただひたすら世間の他人と異なっていることで己を高い存在とみなし、それゆえに大衆をまとめ上げて統治の区分秩序を明らかにすることもできず、にもかかわらず、自説のために根拠を用意して、それを主張するためには理屈を通すことができて、こうして愚かな大衆をあざむき惑わすことに成功する者。これが、陳仲(ちんちゅう)(注4)と史鰌(ししゅう)(注5)である。

天下を一つにまとめて国家を建てるための基準である礼義を知らず、仕事の効果を尊重して倹約を推奨するが、働きに応じて身分秩序を区別する原理を軽視して、よって身分を区別することができず君臣の格差を作ることができず、にもかかわらず、自説のために根拠を用意して、それを主張するためには理屈を通すことができて、こうして愚かな大衆をあざむき惑わすことに成功する者。これが、墨翟(ぼくてき)(注6)と宋鈃(そうけい)である。

法の重要性を言いながらも実際にはその法がなく、礼を修めることを蔑んでただ恣意的な法を作ることを勧めるばかりであり、上においては君主の意向を聴いて法となし、下においては民の俗習から法を取り出し、常にこの二つを根拠にして法を紡ぎ出すが、それを詳しく調べてみると、結局あまりに非現実的な法ばかりであって地に足が付いた規則とはいいがたい。にもかかわらず、自説のために根拠を用意して、それを主張するためには理屈を通すことができて、こうして愚かな大衆をあざむき惑わすことに成功する者。これが、慎到(しんとう)と田駢(でんべん)(注7)である。

先王の言葉に則らず、礼義を肯定せず、好んで怪しい説を究め、奇怪な言辞をもてあそび、言辞の分析はきわめて明察であるにもかかわらずそこには仁愛の心がいささかもなく、弁舌はきわめて立つにもかかわらず実用性はなにもなく、いろいろな弁論を行いながら有用な内容は少なく、よって統治の綱紀とすることはとてもできず、にもかかわらず、自説のために根拠を用意して、それを主張するためには理屈を通すことができて、こうして愚かな大衆をあざむき惑わすことに成功する者。これが、恵施(けいし)と鄧析(とうせき)(注8)である。


(注1)荀子は性悪説を取るので、人間の生物学的本能である「性」と「情」に秩序破壊的なネガティブな意味しか与えない。性悪篇の議論を参照。
(注2)它囂(たごう)は楊注に未詳と言う。魏牟(ぎぼう)は楊注に「牟は魏公子にして、中山に封ぜらる。漢書芸文志の道家に公子牟四篇有り」と言う。漢書の記録を読む限り、魏牟は道家に属する思想家であり、荘子・列子・公孫龍の思想と近いものであったと思われる。
(注3)荀子にとって「性」と「情」は生物学的本能であって、人間にとって天与のものである。よってこれを個人で耐え忍ぶことに意味はなく、礼法によって秩序立てて制御する政策だけが有効である。富国篇における墨子への批判および正論篇における宋鈃(そうけい)への批判を参照。
(注4)陳仲(または田仲)は陳仲子として、『孟子』滕文公章句下、十および盡心章句上、三十四に現れる。陳仲子は、孟子の当時に清廉の士として評価されていた思想家であった。荀子が陳仲を批判するところは、陳仲は情性を独りで耐え忍ぶことに終始して、その思想に社会を制御する法を持たないところにある。
(注5)史鰌子魚(ししゅう・しぎょ)は、春秋時代に衛の大夫として衛の霊公に仕えた。『論語』衛霊公篇で「直なるかな史魚、邦道有るときも矢の如く、邦道無きときも矢の如し」とある。荀子は孔子が直であると称えた史鰌を、陳仲と並んで個人の廉直さに留まる者としてここで攻撃したことになる。
(注6)墨子のこと。翟は名。墨はおそらく本姓ではなく、通称であると思われる。
(注7)慎到・田駢はともに斉の稷下先生の一として史記荀卿列伝に見える。慎到は「勢」説の信奉者で、法家思想の祖の一となった。田駢は黄老の術を学んだ、とある。
(注8)ともに、著名な詭弁家。不苟篇(1)注2および注3参照。
《原文・読み下し》
今の世に假(いた)りて、邪說を飾り、姦言を文(かざ)り、以て天下を梟亂(きょうらん)し(注9)、矞宇嵬瑣(きつうかいさ)(注10)、天下をして混然として、是非・治亂の存する所を知らざらしむる者、人有り。
情性を縱(ほしいまま)にし、恣睢(しき)に安んじ、禽獸のごとく行い、以て文に合し治に通ずるに足らず、然り而(しこう)して其の之を持するや故(こ)有り、其之を言うや理を成し、以て愚衆を欺惑するに足るは、是れ它囂(たごう)・魏牟(ぎぼう)なり。情性を忍んで、綦谿利跂(きけいりき)(注11)、苟(いやし)くも人に分異(ぶんい)なるを以て高しと爲し、以て大衆を合し、大分を明(あきら)かにするに足らず、然り而して其の之を持するや故有り、其の之を言うや理を成し、以て愚衆を欺惑するに足るは、是れ陳仲(ちんちゅう)・史鰌(ししゅう)なり。天下を壹(いつ)にし、國家を建つるの權稱(けんしょう)を知らず、功用を上(たっと)び、儉約を大として、差等を僈(まん)にし、曾(すなわ)ち以て辨異(べんい)を容れ、君臣を縣するに足らず、然り而して其の之を持するや故有り、其の之を言うや理を成し、以て愚衆を欺惑するに足るは、是れ墨翟(ぼくてき)・宋鈃(そうけい)なり。法を尚(たっと)びて法無く、脩を下として作を好み、上は則ち聽を上に取り、下は則ち從を俗に取る、終日言いて文典を成すも、反紃(はんじゅん)して之を察すれば(注12)、則ち倜然(てきぜん)として歸宿(きしゅく)する所無く、以て國を經し分を定む可からず、然り而して其の之を持するや故有り、其の之を言うや理を成し、以て愚衆を欺惑するに足るは、是れ慎到(しんとう)・田駢(でんべん)なり。先王に法(のっと)らず、禮義を是とせず、而(しこう)して好んで怪說を治め、琦辭(きじ)を玩(もてあそ)び、甚だ察にして而(しか)も惠(けい)ならず(注13)、辯にして而も用無く、事多くして而も功寡(すくな)く、以て治の綱紀と爲す可らず、然り而して其の之を持するや故有り、其の之を言うや理を成し、以て愚衆を欺惑するに足るは、是れ惠施(けいし)・鄧析(とうせき)なり。


(注9)宋本はこの後に「欺惑愚衆」の四字がある。底本としている漢文大系は、元刻および王念孫説に基づいてこれを削る。
(注10)「矞宇」を郝懿行は大言炎炎なりと言い、兪樾は譎訏でありなお譎詭のごとし、と言う。兪樾説に従い、いつわりあざむく意と取る。「嵬瑣」の「嵬」を楊注は狂険の行をなす、と言い、「瑣」を同じく楊注は姦細の行をなす、と言う。大につけ小につけ無茶苦茶な行いをすること。
(注11)「綦谿」を増注の久保愛は「極蹊」と解して、狭い路を極めて以て己の道を爲す貌、と言う。「利跂」について楊注は「利」は「離」と同じ、と言い、これを受け集解の郝懿行は「利跂」について「世を離れ独立す」と言う。久保愛・郝懿行の両説を併せて、「綦谿利跂」を世を離れて己の道を独り極めること、と解する。
(注12)原文「反紃察之」。「紃」を楊注は「循」と同じ、と言う。底本の漢文大系は、元刻を是とする王引之の説に従う王先謙集解本に準拠して「反」字を採用する。「反紃(はんじゅん)」は、繰り返し調べること。宋本は「反」字を「及」字に作る。宋本にもし従うならば、「之を紃察(じゅんさつ)するに及べば」と読み下すであろう。この場合「紃察(じゅんさつ)」は、正し調べる意と取ることができる。
(注13)集解の王念孫は「恵」を「急」となすべし、と言う。天論篇「無用の辯、不急の察」、性悪篇「析速・粹孰なるも急ならず」。新釈の藤井専英氏は「恵」字を変えず、これを「慧」の意、あるいは仁愛の道と取る。仁愛の道の意として、訳すことにする。

【この篇は、「非相篇第五」の後に読んでいます。】

非十二子篇は、荀子の異端批判の総まとめを行った篇となっている。荀子の時代に影響力があった十二人の思想家を挙げて、これを批判する。だがこの非十二子篇における批判の言葉はそれぞれ短い文章であり、より詳細な批判は下に掲げた他の各篇で行われている(太字の篇は個別の学説への体系的な批判が置かれている篇である)。

  • 不苟篇:恵施・鄧析への批判[(1)]。陳仲・史鰌を、名を盗む者として批判する。
  • 富国篇:墨子の非楽・節用説への体系的批判[(3)]。
  • 天論篇:慎到・老子・墨子・宋鈃への批判[(3)]。
  • 正論篇:法家思想への批判[(1)]。宋鈃の人間寡欲説への体系的批判[(7), (8)]。
  • 解蔽篇:墨子・宋鈃・慎到・申不害・恵施・荘子への批判[(2)]。
  • 礼論篇:節葬を唱える墨家思想への体系的批判。
  • 楽論篇:非楽を唱える墨家思想への批判。
  • 正名篇:墨子・宋鈃・恵施への批判。名家思想への批判もある[(4)]。
  • 性悪篇:孟子の性善説への体系的批判[(2), (4)]。

この非十二子篇では老子・荘子が挙げられていないが、上のように荀子は彼らもまた他の篇において批判しているところである。おそらく上の十人の思想家の中で、その書が散逸して思想内容が不明である它囂(たごう)と魏牟(ぎぼう)は、道家の中でも荘子の思想に近い自由思想家だったのではないだろうか。

最初に、十人を批判した文章を訳した。これらの思想家については、後の篇の批判と併せて読めば大方はその批判点を理解することができる。陳仲(田仲、陳仲子)については、『孟子』が荀子よりも詳しく批判しているので、そちらを読んだほうが理解しやすい。

問題は、十二人の最後で批判される、同じ儒家の子思と孟子である。荀子は、彼らの「五行」の説を批判している。通説では、これは孟子の「五倫」説を批判したのだ、ということにされている。しかしながら、私には各研究家の意見がどうも腑に落ちない。荀子は、もっと別の点で子思・孟子学派を批判していたのではないだろうか?と疑問に思うところである。子思・孟子学派とは、孔子の弟子である曾参(そうしん)(あるいは別の孔子の弟子である有若(ゆうじゃく)もまた含まれるかもしれない)を始原とする、儒家の魯学派のことである。次回に述べることはただの憶測であって、明確な根拠があるわけではない。

2 thoughts on “非十二子篇第六(1)

    1. 河南殷人 Post author

      李さん、ご感想を投稿いただき、有難う御座います。

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