脩身篇第二(3)

By | 2015年7月1日
かの駿馬を繋いだ馬車は一日で千里を走ることができるが、駄馬を繋いだ馬車であっても十日間走らせ続けたならば千里を走ることができるろう。いったい君たちは、無窮を極めて無極を追いかけようとするのであるか?もしそうするならば、骨が折れて筋が絶たれるまで走り続けたとしても、一生涯かけても目標に到達することはできないだろう。そうではなくて、最終的に止まるべき目標があるならば、その目標が千里の彼方であったとしても、ゆっくり進んだり速く進んだり、先に進んだり後れて進んだり、自分のペースに合せて進んだならば、必ず到達できるはずだろう。正道を歩んで学ぶ者たちは、無窮を極めて無極を追いかけるのであるか、それとも最終的に止まるべき目標を持つのだろうか?言うまでもなく、後者なのである。あの堅白同異(けんぱくどうい)(注1)とか有厚無厚(ゆうこうむこう)(注2)とかの弁論は、なるほど実に頭のよい明晰な弁論を行う。しかしながら、君子たるものそのような弁論を行うことはしない。なぜならば、君子は止まるべき目標を持って学ぶ者だからであって、果てのない空論は行わないのである。また人によっては、奇怪で壮大な行動をあえて取る者がいる。そのような行動は、なるほど常人にはなかなかできはしない。しかしながら、君子たるものそのような行動を行うことはしない。なぜならば、君子は止まるべき目標を持って学ぶ者だからであって、目標の見えない行動は行わないのである。ゆえに、学問では「遅(ま)つ」ということが言われるのである。学問では、すでに目標が彼方に止まっていて、学ぶ者を待っている。学ぶ者は進んで、その目標に到達することを目指すのである。ゆっくり進んだり速く進んだり、先に進んだり後れて進んだり、自分のペースに合せて進んだならば、必ず到達できるはずだろう。ゆえに、休まずに足を前に出して進むならば、たとえびっこの鼈(すっぽん)であっても千里を踏破できるのであり、休まずに土を盛り上げていけば、高くそびえる丘や山ですら造成することができるのであり、河川の水源をせき止めて用水の口を開き、水の流れを着々と変えていけば、黄河や長江ですらやがては涸らしてしまうことになるであろう。だが六頭立ての見事な馬車であっても、進んだり退いたり右に行ったり左に行ったりを繰り返すばかりであれば、なにほども進むことができないであろう。人間の生得の才能などは、結局のところびっこの鼈と六頭立ての馬車との速度ほど違いはなかろう。しかし鼈は千里を進み、六頭立ての馬車はこれを成し得ない。それは他でもない、目標を設定してそれに向けて進むか否かの差あるのみなのだ。

いくら近い道でも、行かなければ到達はできない。いくら小さな事業でも、実施しなければ完成はしない。その人となりが怠け者で何も努力しない日を多く過ごしていれば、しょせんは短い道しか踏破することはできず、大きな目標に到達することなどとてもできはしないだろう。


(注1)堅白(けんぱく)は、名家の公孫龍(こうそんりゅう)の代表的な詭弁。劉向校讎叙録注9を参照。同異(どうい)は、『荘子』に見える小同異・大同異の説。カテゴリーを変えれば同異の相が異なる、という弁論のこと。(例として、生物というカテゴリーで見れば人間と動物と植物は大同であり、物質というカテゴリーで見れば鉱物まで大同である。)
(注2)有厚無厚は、『荘子』に「無厚は積む可からず、其の大は千里」とある。厚さゼロの平面はいくら積んでも厚さが出ず、これを広げれば無限の面積を占めることができる。ゆえに無厚は厚の極である、という弁論。これだけではただの詭弁であるが、西洋の幾何学は「平面は厚さを持たない」と定義する。西洋の幾何学にとって抽象的な定義は厳密な学問の基礎であって、詭弁ではない。
《原文・読み下し》
夫(か)の驥(き)は一日にして千里なるも、駑馬も十駕(じゅうが)すれば、則ち亦之に及ぶ。將(まさ)に以て無窮を窮め、無極を逐わんとするか。其れ骨を折り筋を絕つも、終身以て相及ぶ可らざるなり。將に之に止まる所有らんとすれば、則ち千里遠しと雖も、亦或は遲く或は速く、或は先に或は後に、胡為(なんす)れぞ其れ以て相及ぶ可からざらんや。識らず道を步む者は、將に以て無窮を窮め無極を逐わんとするか。意(そもそも)亦之に止まる所有らんか。夫(か)の堅白同異(けんぱくどうい)、有厚無厚(ゆうこうむこう)の察は、察ならざるに非ざるなり、然り而(しこう)して君子辨ぜざるは、之に止まればなり。倚魁(きかい)の行は、難からざるに非ざるなり、然り而して君子行わざるは、之に止まればなり。故に學に遲(ま)つと曰う(注3)。彼止まりて我を待ち、我行(ゆ)きて之に就かば、則ち亦或は遲く或は速く、或は先に或は後に、胡為れぞ其れ以て同じく至る可からざらんや。故に蹞步(きほ)して休まざれば、跛鼈(はべつ)も千里、累土して輟(や)まざれば、丘山も崇成す。其の源を厭(ふさ)ぎて、其の瀆(とう)を開けば、江河も竭(つく)さしむ可し。一進一退、一左一右なれば、六驥(りくき)も致さず。彼の人の才性の相縣するや、豈に跛鼈と六驥の足との若くならんや。然り而して跛鼈は之を致し、六驥は致さざるは、是れ他の故無し、或は之を爲し、或は爲さざるのみ。
道は邇(ちか)しと雖も、行かざれば至らず、事は小さしと雖も、爲さざれば成らず。其の人と爲りや、暇日多き者は、其の出入(しゅつにゅう)(注4)遠からず。


(注3)原文「故學曰遲」。集解の王念孫は、「學曰」は疑うは「學者」に作るべきであり、筆写した者が「者」の上半分を脱落させて「曰」にしたのではないか、と言う。増注は桃井源蔵を引いて、ここは「故曰學遲」とするべきであって「學遲」は古語であり解蔽篇の「故曰心容(故に曰く、心の容)」と文法が合致する、という説を示している。
(注4)増注、集解の郝懿行、王念孫はいずれも「出入」は「出人」に作るべし、と言う。つまり「人に出(い)ずる」と読んで、他人から遠く抜きん出ることができないの意に取る。しかしこの文は「邇」の対義語で「遠」が使われているはずであり、「遠」はすなおに道の距離と取ったほうがよいのではないだろうか。なので楊注の「出入は道路の至る所を謂う」を取って、「道の出口までの距離が大して遠くにならない」の意味に取りたい。なお集解の藤井専英氏は、「出入(しゅつにゅう)」を出所進退の行動動作の意に取る。

荀子の門に学ぶ君子たちには、学ぶ目的がある。それは、礼義を身に付けて凡人を指導するエリートとなり、国家の政策に関与する官僚となることである。荀子の礼義の中には法律知識もまた含まれているのであり、荀子の言う聖人が制定する制度とは、宮廷礼儀や音楽といった文化知識と、法律や行政判断の知識と、その両者をひっくるめたトータルな文化制度、すなわち「礼楽刑政(れいがくけいせい)」なのである。そう考えたとき、荀子の勧める学問の内容は明確となるであろう。荀子は中華世界を統一した法治官僚国家が作られることを理想と考え、学ぶ君子たちにはその統一帝国を上手に運営して恒久な平和をもたらすエリート官僚となることを望む。荀子の思想の中に純粋な学問のための学問を求めることは、間違いであると私は思う。荀子の想定している学問は、現実社会の運営に直結したものである。

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