非十二子篇第六(4)

By | 2015年6月22日
士・君子のあるべき容姿について(注1)。冠を高く掲げ、衣装をゆるやかに着こなし、温和な容貌をして、しかしながら厳格であり、荘厳であり、明るく、くつろいで、度量大きく、心広々として、晴れやかで、細かなことにこだわらない。これが、士・君子が父兄として子弟に接するときにあるべき容姿である。冠を高く掲げ、衣装をゆるやかに着こなし、真面目な容貌をして、謙虚で、父兄を信頼し、父兄に親しみ、礼儀正しく、従順で、恭敬で、決して背くことなく、視線を下げて父兄を正視しない。これが、士・君子が子弟として父兄に接するときにあるべき容姿である。私は諸君らに、学ぶ者の怪人どもの容姿を教えよう。冠は前に垂れ下がり、纓(かんむりのひも)はゆるんでいて、傲慢な容貌をして、満足げで、落ち着きもなく飛び跳ねて、無言で、こせこせとして、きょろきょろと左右を見回し、憔悴して、いきなりじろりと見る。宴会で酒食・音楽・美人が用意された場では、わざとらしく目を閉じて、まともに見ようとしない。礼儀作法を行う場では、指導者面をして憎憎しげであり、細かいことについて罵り怒る。労苦して事業を行う場では、怠惰で、真面目に仕事をぜず、怠け者のくせに他人の忠告を聞かず、恥を知らず、批判に耳を塞ぐ。これが、学ぶ者の怪人どもの容姿である。子張氏(注2)の門の賤儒どもは、冠の着け方はだらしなく、弁論はさっぱり内容がなく、聖人である禹・舜の歩き方とか走り方とかの形式だけ真似るばかりである。子夏氏(注3)の門の賤儒どもは、衣装と冠はきちんと正し、顔色もまたきちんと整え、得意な顔をして一日中何も言わない。子游氏(注4)の門の賤儒どもは、怠惰で仕事を嫌がり、恥を知らずに飲食に耽り、常に「君子はもとより力を用いないものだ」などとふざけた言い訳をする。君子は、そんなことではいけない。気楽な状態であっても、決して怠惰とならない。疲労した状態であっても、決して取り乱したりしない。原則に基づいて、しかも臨機応変であり、万事に適切な措置を行う。このことを尽くせば、ついに聖人となるのである。


(注1)それぞれの形容詞は、新釈漢文大系の解釈に沿って仮に訳しておく。猪飼補注は、その字義詳弁すべからず、と釘を刺している。荀子の勧める士・君子は素晴らしい容姿であり、他方で子張・子夏・子游の三学派に学ぶ者どもの容姿は醜悪この上ない、ということを言っていると読めば、それで十分であろう。
(注2)顓孫師子張(せんそんし・しちょう)。姓は顓孫、名は師、字(あざな)は子張。孔子の若手の弟子たちの中では、『論語』に現れる回数が最も多い一人である。論語子張篇では、子張が子夏を批判し、子游と曾参が子張を批判する言葉が収録されている。子張は若いが容姿が立派で、同門の弟子たちの間に敵が多かったようである。
(注3)卜商子夏(ぼくしょう・しか)。姓は卜、名は商、字は子夏。孔子の弟子で、文学に優れていたと評される。孔子の死後に魏国に赴いて、そこで重用された。
(注4)言偃子游(げんえん・しゆう)。姓は言、名は偃、字は子游。孔子の弟子で、子夏と同じく文学に優れていたと評される。
《原文・読み下し》
士・君子の容。其の冠は進(しゅん)(注5)、其の衣は逢(ほう)(注6)、其の容は良にして、儼然(げんぜん)、壯然(そうぜん)、祺然(きぜん)、蕼然(しぜん)、恢恢然(かいかいぜん)、廣廣然(こうこうぜん)、昭昭然(しょうしょうぜん)、蕩蕩然(とうとうぜん)たるは、是れ父兄の容なり。其の冠は進、其の衣は逢、其の容は愨(かく)にして、儉然(けんぜん)、恀然(しぜん)、輔然(ほぜん)、端然(たんぜん)、訾然(しぜん)、洞然(とうぜん)、綴綴然(ていていぜん)、瞀瞀然(ぼうぼうぜん)たるは、是れ子弟の容なり。吾汝に學者の嵬(かい)の容を語らん。其の冠は絻(べん)、其の纓(えい)は禁緩(きんかん)、其の容は簡連にして、填填然(てんてんぜん)、狄狄然(てきてきぜん)、莫莫然(ばくばくぜん)、瞡瞡然(ききぜん)、瞿瞿然(くくぜん)、盡盡然(じんじんぜん)、盱盱然(くくぜん)たり、酒食・聲色の中には、則ち瞞瞞然(ばんばんぜん)、瞑瞑然(めいめいぜん)たり、禮節の中には、則ち疾疾然(しつしつぜん)、訾訾然(ししぜん)たり、勞苦・事業の中には、則ち儢儢然(りょりょぜん)、離離然(りりぜん)、偷儒(とうだ)にして罔(もう)、廉恥無くして謑詬(けいこう)を忍ぶは、是れ學者の嵬なり。其の冠を弟佗(ていた)にし、其の辭を衶禫(ちゅうたん)にし、禹行(うこう)して舜趨(しゅんすう)するは、是れ子張氏の賤儒なり。其の衣冠を正しくし、其の顏色を齊(ととの)え、嗛然(きょうぜん)として終日言わざるは、是れ子夏氏の賤儒なり。偷儒(とうだ)事を憚り、廉恥無くして飲食を耆(たしな)み、必ず君子固(もと)より力を用いずと曰うは、是れ子游氏の賤儒なり。彼の君子は則ち然らず。佚(いつ)にして惰ならず、勞にして僈(ばん)ならず、原に宗し變に應じ、曲(つぶさ)に其の宜を得、是(かく)の如くにして然る後に聖人なり。


(注5)集解の兪樾は、「進」は読んで「峻」となす、と言う。これに従う。冠が高く掲げられている様。
(注6)楊注は「逢」は「大」なり、と言う。衣服がゆるやかである様。

孔子の有力な弟子であった子張・子夏・子游の三者の後を受けた各学派が、ここでは「賤儒」と最低の評価を与えられている。くだんの三者は、すべて孔子一門の中でも礼義を重視した。なので君子の内面の善を尊重する子思・孟子よりも、荀子の学にむしろ親近性がある。しかし荀子はこの非十二子篇で子思・孟子を批判して、返す刀で子張・子夏・子游の三学派までも批判する。上に訳した三学派を批判する内容は、もっぱら彼らの態度であって、思想的内容ではない。それらに比較される理想の君子像は、原則に忠実でありなおかつ臨機応変だと言う。荀子の目から見て既存の子張・子夏・子游三学派たちは、古い伝承を墨守するばかりで創造性を失っていたのであろう。続く漢代の儒学をリードしたのは、荀子から学んだ儒家たちの末裔であった。

荀子は、彼の時代に一家をなしていた孔子の直弟子たちを開祖とする儒家各学派に対して、総じて批判的視点を持っていたといえる。荀子は儒家発祥の地である魯国から文化的に遠く離れた趙国の出身であり、主に斉国で活動を行い、最後は楚国に定住した。荀子は、儒家としては傍流であり余所者であったゆえに、儒家の原理をより純化して発展させることに成功したのではないだろうか。

この後は、堯問篇末尾の荀子賛を読んでおきたい。

【次は、「業問篇第三十二」を読みます。】

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