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性悪篇第二十三(4)

孟子は、「人間の『性』は善である」と言う。これには、「そうではない」と答えよう。およそ古今において天下のいわゆる善といえば、正理(正しい道理)・平治(平らかな治世)のことである。いわゆる悪といえば、偏険(正道から偏って衝突すること)・悖乱(正道から外れて争乱すること)のことである。これが、善と悪との区分というものである。いま、本当に人間の『性』は本来的に正理・平治であると思うのであるか?それならば、どうして聖王が必要であろうか、礼義が必要であろうか。人間の『性』は本来的に正理・平治であるならば、聖王と礼義があったとしても、何もそれに付け加えることなどないではないか。しかし真実はそうではなく、人間の「性」は悪である。ゆえに、いにしえの時代、聖人たちは人間の「性」が悪であって、偏険にして不正であり、悖乱にして治まり難いことを直視したのであった。よってこの度し難い人間たちのために君主の威勢を設立し君臨し、礼義を明示してこれを教化し、公正な法を起草してこれを統治し、刑罰を厳重にしてこれを禁圧し、こうして天下すべてに治世をもたらし、人間を善に合一させたのであった。これが聖王の統治であって、礼義の教化であった。今、試みに君主の威勢を取り除き、礼義の教化をなくし、公正な法の統治を取り除き、刑罰の禁圧を無くしてみて、そのまま座って天下の人民が互いにどのような行動を取るか、観察してみたまえ。この状況の下では、強者は弱者を傷害してこれから奪い、多数者は少数者に暴力を加えてこれを引き裂くであろう。こうして天下が悖乱して、互いが互いを討ち合って滅びることは時間の問題となるであろう。これを見れば、人間の「性」が悪であることは明確であり、人間の善は「偽(い)」の結果なのである。ゆえに、いにしえの治世をよく説明できる者は、必ず今の時代に一致する内容を見出すのである。また天のなせるわざをよく説明できる者は、必ず人間の天与の性質からその徴候を読み取るのである。およそ論議というものは、論理的な整合性を貴び、かつ実証的な一致を貴ぶ(注1)。ゆえに座りながらにして正しい論議を立てることができるのであり、いざ立てばこの論議を実行することができるのであり、実行された政策が天下に広く施行されうるのである。論理的な整合性も実証的な一致もなくして、それで座りながら論議を立てたとしても、その論議は政策として実施不可能であり、そんな政策は天下に広く施行されることは不可能である。なんという間違いであろうか。ゆえに、「性」が善であると言う者は、聖王から去って礼義を捨てる者である。だが「性」が悪であると言う者は、聖王に与(くみ)して礼義を貴ぶ者である。木を矯(た)める器具が作られたのは、曲がった木があるからである。墨縄(すみなわ)が作られたのは、真っ直ぐでない材木があるからである。君主を立てて礼義を明示するのは、人間の「性」が悪だからである。これを見れば、人間の「性」が悪であることは明確であり、人間の善は「偽」の結果なのである。もともと真っ直ぐな木であるならば、器具を使わないでも真っ直ぐである。だがこれは、その「性」が真っ直ぐだからだ。曲がった木は、必ず器具で矯正したり熱を当てたりする作業を行うことによって、はじめて真っ直ぐとなる。これは、その「性」が真っ直ぐでないからなのだ。人間の「性」は悪なのであるから、必ず聖王の統治と礼義の教化を行うことによって、その後にはじめて天下すべてに治世をもたらされて、人間は善に合一するのである。これを見れば、人間の「性」が悪であることは明確であり、人間の善は「偽」の結果なのである。


(注1)原文の「弁合」を論理的な整合性、「符験」を実証的な一致、と訳した。楊注は「弁合・符験」を「論議之を別て合するが如く、之を符して験するが如くして、然る後に施行す可し」と言う。論議するときに区別してそれが内部的に整合し、論議が立てた説が検証して事実と一致して、それで始めて論議を実行できる、ということである。
《原文・読み下し》
孟子曰く、人の性は善なり、と。曰く、是れ然らず。凡そ古今天下の所謂(いわゆる)善なる者は、正理・平治なり。所謂惡なる者は、偏險・悖亂(はいらん)なり。是れ善惡の分なり。今誠に人の性は固(もと)より正理・平治なりと以(おも)えるか、則ち有(また)惡(いずく)んぞ聖王を用いん、惡んぞ禮義を用いんや。聖王・禮義有りと雖も、將(は)た曷(なん)ぞ正理・平治を加えんや。今然らず、人の性は惡なり。故に古者(いにしえは)聖人人の性は惡なるを以て、以て偏險にして正しからず、悖亂にして治まらずと爲す。故に之が爲に君上の埶(せい)を立ちて以て之に臨み、禮義を明(あきら)かにして以て之を化し、法正を起して以て之を治め、刑罰を重くして以て之を禁じ、天下をして皆治に出でて、善に合せしむるなり。是れ聖王の治にして禮義の化なり。今當試(こころみ)に(注2)君上の埶を去り、禮義の化を無くし、法正の治を去り、刑罰の禁を無くし、倚(い)して天下民人の相與(くみ)するを觀んか。是(かく)の若くなれば、則ち夫の强き者は弱きを害して之を奪い、衆(おお)き者は寡(すくな)きを暴して之を譁(か)す(注3)。天下の悖亂して相亡ぶや、頃(しばらく)を待たず。此を用(もっ)て之を觀れば、然れば則ち人の性惡なることは明かにして、其の善なる者は僞(い)なり。故に善く古を言う者は、必ず今に節(せつ)(注4)有り、善く天を言う者は、必ず人に徵(ちょう)有り。凡そ論なる者は其の辨合(べんごう)有り、符驗有るを貴ぶ。故に坐して之を言い、起ちて設く可く、張りて施行す可し。今孟子曰く、人の性は善なり、と。辨合・符驗無く、坐して之を言うも、起ちて設く可からず、張りて施行す可からず、豈に過つこと甚しからずや。故に性善なれば、則ち聖王を去りて、禮義を息(や)む。性惡なれば、則ち聖王に與(くみ)して、禮義を貴ぶ。故に檃栝(いんかつ)の生ずるは、枸木(こうぼく)の爲(ため)なり。繩墨(じょうぼく)の起るは、不直の爲なり。君上を立て、禮義を明かにするは、性惡なるが爲なり。此を用て之を觀れば、然れば則ち人の性の惡なること明かにして、其の善なる者は僞なり。直木は檃栝を待たずして直なる者は、其の性直ればなり。枸木は必ず將(まさ)に檃栝・烝矯を待ちて然る後に直ならんとする者は、其の性不直なるを以てなり。今人の性惡なれば、必ず將に聖王の治、禮義の化を待ちて、然る後に皆治に出で、善に合せんとするなり。此を用て之を觀れば、然れば則ち人の性の惡なること明かにして、其の善なる者は僞なり。


(注2)集解の王先謙は「當」は「嘗」の借字である、と言う。「嘗試」で、こころみに。
(注3)集解の兪樾は、「譁」は「華」となすべし、と言う。「華」はひきさくこと。
(注4)荻生徂徠は、「節」は符節なり、と言う。増注の久保愛、および集解の王引之はともに漢書董仲舒伝を引用する。すなわち董仲舒伝を読み下せば「善く天を言う者は、必ず人に徵有り、善く古を言う者は、必ず今に驗有り」とある。ここより王引之は「節」はすなわち「験」なり、と言う。「節」を符節と取れば、「一致する内容」の意味となるだろうし、これを「験」と取れば、「しるし」となるだろう。ここでは、徂徠を取る。

再び、孟子の批判に戻る。ここで荀子は、孟子の説に「その性善説を国家の統治に実際に適用する思考実験を行ってみよ。それで治世が実現できるのであれば、その説は実行可能である。だが実現できないのであれば、実行可能性のない空論にすぎない」と批判する。これは、痛烈な急所である。孟子に限らず、ほとんどのユートピア説はこの実験に耐えられない。

孟子の性善説を突き詰めると、人間は国家権力のないアナーキーでも自発的に秩序を立てることができる、という結論に導かれなければならない。なぜならば、人間には「四端」の一として恭敬(辞譲)の心があり、そこから人間は自発的に「礼」の徳を育んで秩序を形成できるはずだからである。しかし孟子は他方で王者と君子の秩序が社会に必要である、と主張している。これは孟子が気づかないところの矛盾であり、荀子はそれに気づいて孟子に対して「あなたの説では、国家がなくても秩序ができるというのですか?」と問い詰めるのである。できない、という前提に立つ荀子が儒家思想として統治論を論争したときに優位に立つのは、明確なことであろう。だがこれを国家がなくても秩序を作ることができる、と考えるのであれば、それこそ正名篇の最後で宋鈃の説を検討したときに想定した万人君子説に立たなければならないだろう。しかしこれは君子の特権性を無みする思想であるので、孟子にも荀子にも受け入れることはできないだろう。

しかしながら、荀子のこの性悪篇の主張にも、説明困難な問題がある。さきの性悪篇(3)の現代語訳を、再録しよう。

自らが少ない者は多くなることを願い、自らが醜い者は美しくなることを願い、自らが狭い者は広くなることを願い、自らが貧しい者は豊かになることを願い、自らが賤しい者は高貴となることを願うものである。自らの中によきものがない者は、必ずこれを外に求めるものである。ゆえに、すでに富んでいる者は、もはや財産をそれほど望まなくなり、すでに高貴である者は、もはや権勢をそれほど望まなくなり、このように自らの中によきものがある者は、必ずもはや外に求めなくなるのである。このことを見るならば、人間が善を為さんとするのは、その元来の「性」が悪だからなのである。


「性」が悪だとすれば、どうしてその人間が「性」から離れて善を目指すのであろうか?もしそれが自発的な動機であるとすれば、宋鈃が描くように人間はすべて自発的に「偽」を身に付けて寡欲となり、社会の衝突は回避されるのではないのか?そうでなくて人間は何もしないでいると「性」のままであって争うばかりであるならば、ひとり聖人と君子だけが(荀子の定義する語に従えば)「慮」を働かせて「知」・「能」を積み重ねて「偽」に到る、その動機はどこにあるというのであろうか?冒頭の勧学篇で荀子は学ぶ者により高みを目指すべし、と言って、君子の向上心を力説していた。その向上心の起源が、荀子の性悪説では十分に説明されているとは言い難い。

孟子が「四端」の説を挙げて人間の自発的な向上への意志を強調したのは、さきの伊藤仁斎が指摘したように、学ぶ人間に自らの可能性を自覚させる呼びかけを行うためであった。孟子の「四端」は、人間の他人に働きかける感情である点が重要である。すなわち「惻隠」は他人への憐れみであり、「羞悪」は自分と他人を比べた、あるいは社会総体に向けた不公正の感覚であり、「恭敬(辞譲)」はいうまでもなく他人より自己を低くする倫理感である。さきに私は互酬の原理を検討して、これが人間にとって国家以前の段階で発動する他人との交流の様式である、と書いた。孟子の「四端」もまた、人間の他人に働きかける感情であり、他人との交流を求める人間の始原的な動機であると言うことができるだろう。

私は、孟子の「四端」は、国家以前に人間が他人に働きかける始原的な動機を孟子的に整理した概念として、互酬の原理と通じるものがあると考える。孟子の理論的な弱さは、「四端」が人間の他人に働きかける善行為の側面だけを見ることに集中したことであり、それで荀子の批判を招くこととなった。しかしそれは、社会システムを構想するための理論としては不完全であるが、人間は本来的に他人に働きかけようとする動機を持っていることを指摘して、その中からあえて善なる動機だけを選んで行動すべし、と読むならば、それは倫理学として荀子よりも優れた分析であると評価することができるであろう。それは、国家による「法の支配」とは別個に考えるべき、人間の他人との交流を指摘するものだからである。

性悪篇第二十三(5)

「礼義とか、積偽(せきい。努力を積み重ねること)とかは、人間の『性』ではないか。だから聖人は己の『性』に従ってこれらを成し遂げることができるのではないのか?」と質問する者がいるならば、「そうではない」と答えよう。そもそも陶器職人は、陶土を成型して瓦を作る。ならば、陶土を瓦に作るのは、陶器職人の「性」に由来するわけではないだろう。木工職人は、木を削って木器を作る。ならば、木を木器に作るのは、木工職人の「性」に由来するわけではないだろう。聖人と礼義との関係は、たとえるならば陶器職人が陶土を成形して瓦のような道具を作るようなものである。ならば礼義とか積偽とかもまた、人間本来の「性」であるはずがない。そもそも人間の「性」というものは、聖人の堯(ぎょう)・舜(しゅん)であろうが、極悪人の桀(けつ。伝説の悪王)・盗跖(とうせき。伝説の大盗賊)であろうが、すべて同じなのである。礼義とか積偽とかが人間の「性」であるならば、どうして聖人の堯や禹(う)をわざわざ貴ぶ必要があるだろうか?またどうして、世の君子を貴ぶ必要があるだろうか?堯・禹・君子が貴ぶべきである理由は、これらが己の「性」をよく馴化して、「偽(い)」をよく起こして、「偽」が起こった結果として礼義を制定することに成功したからである。つまり、聖人と礼儀や積偽との関係は、陶器職人が陶土を成型して道具を作るようなものなのである。これを見れば、礼儀や積偽が人間の「性」であるはずがないだろう。桀、盗跖、それに世の小人どもが賤むべきである理由は、これらが己の「性」に従い、己の「情」に従い、勝手な行動をするところに開き直り、それによって利をむさぼって争奪を行うからである。よって、人の「性」は悪であることは明らかであり、その善なるものは「偽」なのである。天は、曾参(そうしん)(注1)・閔子騫(びんしけん)(注2)・孝己(こうき)(注3)にだけえこひいきして、一般人を除け者にしたわけではない。なのに曾参・閔子騫・孝己だけが孝行を真に全うし、孝行者の名声を全うしたのは、どうしてだろうか?それは、彼らが礼義を極めたからゆえである。また天は斉人・魯人にえこひいきして、秦人を除け者にしたわけではない。なのに父子の義の倫理において、夫婦の別(注4)の倫理において、斉人・魯人が父への孝行と夫婦の別を尊重することについて秦人の追随を許さないのは、どうしてだろうか?それは、秦人が己の「情」「性」に従い、勝手な行動に開き直り、礼義をおろそかにするからである。魯人・斉人と秦人との間に、「性」が異なっているはずはない(注5)

(注6)「では、『市井の人間(注7)でも禹となることができる』という言葉は、どういう意味なのか?」と質問する者がいるならば、以下のように答えよう。すなわち、およそ禹が禹であるゆえんは、彼が仁義と公正な法を成し遂げたところにある。つまり、仁義と公正な法は、これを知識として得てかつ実行するべき道理がそこにあるのだ。いっぽう市井の人間は、仁義と公正な法を理解できる資質を皆が持っているし、これらを実行することができる力も潜在的には持っているのである。ゆえに、彼ら市井の人間ですら、禹となることができるのは、明らかなことである。もし仁義と公正な法というものが、人間にとって到底知りうる理ではなくて、また実行できる理ではないとしたら、どうであろうか。そうであれば禹ですら仁義と公正な法を知ることができなかったであろうし、これを実行することもできなかったであろう。(だがそうではない。ゆえに、仁義と公正な法は、人間ならば知って実行できるものなのだ。)またもし市井の人間たちが、仁義と公正な法を理解できる資質を持っておらず、これらを実行することができる力を持っていないとしたら、どうであろうか。そうであれば市井の人間たちは家の中では父子の義すら理解することができず、家の外では君臣の正道すら理解することができなかったであろう。だが、そうではない。市井の人間たちは、家の中では父子の義を理解できているし、家の外では君臣の正道を理解できている。ならば、市井の人間にも理解できる資質があり、実行できる力があることは、明らかなことであろう。いま、市井の人間に、その理解できる資質と実行できる力を用いさせて、あの禹が理解して実行した仁義の道理に基づかせたら、彼らの資質と力ですら禹となることができるのは、明らかなことなのである。彼ら市井の人間に、正道を修める術に服させ学を修めさせて、心を学ぶことに集中して意志を専一にさせて、思索して熟考させて、毎日の精進を長く継続させて、善を積んで中断させなければ、彼らですら神明な智恵にまで達し、天地の万物を統御する能力を得ることであろう。つまり、聖人というものは、人間が積み上げて極めた存在なのである。

「では、『聖人の地点には、どんな人でも積み上げて極めることができる。しかしながら、誰も聖人の地点まで積み上げて極めることはできない』という言葉は、どういう意味なのか?」と質問する者がいるならば、以下のように答えよう。すなわち、可能性はあるのだが、そうさせることができないのである。小人は、君子となれる可能性がある。しかし、君子となろうとしない。君子は、小人となれる可能性がある。しかし、小人となろうとしない。人間は、小人から君子になることがいつでもできるし、その逆もそうである。なのに誰もそうなろうとしないのは、可能性はあるのだが、そうさせることができないからである。ゆえに、市井の人間は、禹となることは可能である。しかしながら、市井の人間が現実に禹となることができるかといえば、必ずしも容易なことではない。禹となることができないといっても、禹となることに絶対的な障害があるわけではない。人間は、足をもって天下全てを回ることは可能である。だが実際に天下全てを回った人間は、いまだかつていない。また工匠と農民と商人は、それぞれが別の職業の仕事を行うことは、可能である。だが実際に自分の職業以外の仕事をやりおおせた者はいない。これらを見れば、可能性はあったとしても、実際にはできないのである。できないとしても、行うことに絶対的な障害があるわけではないのである。よって、可能性があるか否かと、実際にできるか否かとは、非常に違うのである。市井の人間でも聖人になる可能性があるが、実際には誰も聖人になれないということは、これで明らかである。


(注1)曾子(そうし)と尊称される。孔子晩年の有力な弟子。父への孝行で有名であり、『孝経』の作者に仮託される。
(注2)孔子の弟子の一。論語先進篇で「孝なるかな、閔子騫」と孔子に称えられている。
(注3)殷の高宗武丁の太子で、賢明で孝行な人物であったという。
(注4)夫婦の別は儒家の五倫の一で、夫婦は家の秩序に従い区別されるべきである。五倫については天論篇(2)注6を参照。
(注5)以上、この性悪篇では、荀子は儒家の本拠地である魯国・斉国が礼義に優れていて、秦国が礼義に劣っていると位置づけている。彊国篇における荀子の秦国への観察と比べて、荀子が秦国をいかに捉えていたかどうかは、読む者がよく考えるべきであろうと私は思う。
(注6)猪飼補注は、ここから以下に訳した議論は「人間には皆善なる資質がある」という孟子の議論と一致するものであって、この性悪篇における性悪説と矛盾している。よっておそらく他の篇からの混入であろう、と推測している。しかしながら、この議論が性悪説への疑問への回答として置かれているとみなせば、性悪篇のここに置かれていることに矛盾はないと私は考える。
(注7)原文「塗之人」。塗(みち)にいるごく普通の人間、という意味。勧学篇には、同じ意味で「塗巷(とこう)の人」という語がある。
《原文・読み下し》
問う者曰く、禮義・積僞(せきい)なる者は、是れ人の性なり、故に聖人能く之を生ずるなり、と。之に應じて曰く、是れ然らず。夫れ陶人は埴(しょく)を埏(う)ちて瓦を生ず、然れば則ち埴を瓦とするは、豈に陶人の性ならんや。工人は木を斲(き)りて器を生ず、然れば則ち木を器とするは、豈に工人の性ならんや。夫れ聖人の禮義に於けるや、辟(たと)うれば亦(また)陶の埏ちて之を生ずるなり。然れば則ち禮義・積僞なる者は、豈に人の本性ならんや。凡そ人の性なる者は、堯・舜之(と)桀(けつ)・跖(せき)と、其の性一なり。君子之(と)小人と、其の性一なり。今將(まさ)に禮義・積僞を以て人の性と爲さんとするか、然れば則ち有(また)曷(なん)ぞ堯・禹を貴ばん、曷ぞ君子を貴ばんや。凡そ堯・禹・君子を貴ぶ所の者は、能く性を化し、能く僞を起し、僞起りて禮義生ずればなり。然れば則ち聖人の禮義・積僞に於けるや、亦猶お陶の埏ちて之を生ずるがごときなり。此を用(もっ)て之を觀れば、然れば則ち禮義・積僞なる者は、豈に人の性ならんや。桀・跖・小人に賤む所の者は、其の性に從い、其の情に順い、恣睢(しき)に安んじ、以て貪利(たんり)・爭奪に出ずればなり。故に人の性の惡なること明(あきら)かなりて、其の善なる者は僞なり。天は曾・騫(けん)・孝己(こうき)に私して、衆人を外にするに非ざるなり。然り而(しこう)して曾・騫・孝己のみ獨り孝の實に厚くして、孝の名に全き者は、何ぞや。禮義を綦(きわ)むるを以ての故なり。天は齊・魯の民に私して秦人を外にするに非ざるなり。然り而して父子の義、夫婦の別に於ける、齊・魯の孝具(こうきょう)(注8)・敬父(けいぶん)(注9)なるに如かざる者は、何ぞや。秦人の情性に從い、恣睢に安んじ、禮義を慢するを以ての故なり。豈に其の性異ならんや。
塗(みち)の人以て禹と爲る可しとは、曷(なん)の謂(いい)ぞや。曰く、凡そ禹の禹爲(た)る所以の者は、其の仁義・法正を爲すを以てなり。然れば則ち仁義・法正は、知る可く能くす可きの理有り。然り而して塗の人や、皆以て仁義・法正を知る可きの質有り、皆以て仁義・法正を能くす可きの具有り。然れば則ち其の以て禹と爲る可きこと明かなり。今仁義・法正を以て、固(もと)より知る可く能くす可きの理無しと爲さんか。然れば則ち禹と唯(いえど)も(注10)仁義・法正を知らず、仁義・法正を能くせざるなり。將に塗の人をして、固より以て仁義・法正を知る可きの質無くして、固より以て仁義・法正を能くす可きの具無からしめんとするか。然れば則ち塗の人や、且(まさ)に內は以て父子の義を知る可からず、外は以て君臣の正を知る可からざらんとす。然らず。今塗の人なる者は、皆內に以て父子の義を知る可く、外に以て君臣の正を知る可し。然れば則ち其の以て知る可きの質、以て能くす可きの具は、其れ塗の人に在ること明かなり。今塗の人なる者をして、其の以て知る可きの質、以て能くす可きの具を以て、夫(か)の仁義の知る可きの理、能くす可きの具に本づかしむれば、然れば則ち其の以て禹と爲る可きこと明かなり。今塗の人をして、術に伏し學を爲(おさ)め、心を專(もっぱら)にして志を一にし、思索・孰察(じゅくさつ)し、日を加え久しきに縣け、善を積みて息(やす)まざらしむれば、則ち神明に通じ、天地に參せん。故に聖人なる者は、人の積んで致す所なり。曰く、聖は積んで致す可し、然り而して皆積む可からざるは何ぞや、と。曰く、以てす可くして使(せし)む可からざるなり。故に小人は以て君子と爲る可くして、君子と爲るを肯(がえ)んぜず、君子は小人と爲る可くして、小人と爲るを肯んぜず。小人・君子なる者は、未だ嘗て以て相爲す可からずんばあらざるなり。然り而して相爲さざる者は、以てす可くして使む可からざるなり。故に塗の人は以て禹と爲る可し。然り則(しこう)して(注11)塗の人の能く禹と爲るは、未だ必ずしも然らざるなり。禹と爲ること能わずと雖も、以て禹と爲る可きに害無し。足以て天下を徧行す可し、然り而して未だ嘗て能く天下を徧行する者有らざるなり。夫(か)の工匠・農賈は、未だ嘗て以て事を相爲す可からずんばあらざるなり。然り而して(注12)未だ嘗て能く事を相爲さざるなり。此を用て之を觀れば、然れば則ち以て爲す可きも、未だ必ずしも能くせざるなり。能くせずと雖も、以て爲す可きに害なし。然れば則ち能・不能之(と)可・不可とは、其の同じからざること遠し。其の以て相爲す可からざること明かなり。


(注8)集解の王念孫は、「具」は「共」の字の誤りと言う。増注は「具」は「且」に作るべしと言い、猪飼補注は「孝具敬父」は「孝敬具文」に作るべし、と言う。増注に従えば「孝にして且つ父を敬う」であろうし、猪飼補注に従えば「孝敬にして文を具う」であろう。ここは、王念孫に従っておく。
(注9)楊注は、「敬父」は「敬文」たるべし、と言う。
(注10)楊注は、「唯」は「雖」と読むべし、と言う。
(注11)底本の漢文大系では、「則然」。すなわちしかるも、と読み下している。宋本に拠る新釈では「然則」であり、藤井専英氏は後の注12と同じく「然而」の誤りであろうと言う。宋本に従って「然則」に戻し、藤井氏に従って読み下す。
(注12)原文「然而」。宋本では「然則」となっている。上の注11参照。

続く二つの問答は、二つのことを言っている。一つは、人間の「性」はすべて等しい、という資質の平等性である。もう一つは、人間の格差は「偽」によってのみ生じる、という努力の結果の不平等性である。

もし禹と凡人とでは資質が違うのだ、と言ってしまうならば、これは人間の「性」が不平等であることを言うことになる。これは孟子も否定したところであるし、荀子も上で見るように同じく否定する。儒家思想は、統治階級の君子と被統治階級の小人との間に現実的な身分差別を設けるが、君子と小人との間に資質的な差別を認めるものではない。君子となる道は万人にオープンである、という原則が儒家思想の根本にある。これが儒家思想の強みであり、儒家思想を採用した中華帝国が支配下の臣民からあまねく有能な人材をリクルートして国家に吸い上げることを肯定する、その思想的背景になった(その最終的に洗練させた制度が、科挙の試験による高級官僚の選抜制度である)。孟子の「人は誰でも堯・舜になれる」(告子章句下、二)というテーゼを、荀子もまたとりあえずは受け継ぐのである。

だが荀子は禹と市井の凡人とでは資質が変わらないのだ、と言いながら、市井の凡人は現実的には決して禹のような聖人になることはできない、と言う。その理由とは、君子となろうとする継続的な努力をすることは誰にでもできることではないからだ、と言う。荀子性悪説の第二のテーゼである「偽」は(現実的には)聖人しか作成することができず、君子しか身に付けることができない、その理由を荀子はここで説明するのである。

しかしながら、以上の説明は、彼の性悪説への疑問にとっての最終的な回答となりえるだろうか?

「性」が悪であるならば、人はどうして「性」から離れて「偽」を身に付けようとするのか?その動機はいったい「性」のどこに存在しているのか?この疑問について、荀子はついに解決していない。心中のどこに、「偽」を身に付けようと志す動機があるのか。それは、「性」に属するのか。もし属するのであれば、それは単に「偽」を身に付ければ国家の統治者となることができて凡人よりも富貴を得ることができるからという、利己的な動機なのであるか?彼の性悪説に忠実に従えば、そのように結論せざるをえない。しかしながら、荀子は勧学篇などで、君子は富貴を目的としないところに偉大さがある、と言う。もしそうであるならば、君子が「偽」を身に付けようとする動機は、彼の性悪説の範囲内では説明できない「X」から由来することとなってしまう。しかし荀子は、「X」など存在しないと言う。これは、荀子の性悪説の最大の弱点である。そしてここに、孟子の性善説の側から荀子へ反撃する穴が生じることになる。人間が向上して君子を目指すのが利得のためでないのであるならば、人間の「性」にはやはり他人に善を施したいという善なる動機が隠されているのではないのか?「X」とは、「四端」なのではないのか?こうして、荀子の性悪説は未解決の問題を残すのである。

荀子が自らの性悪説の範囲内で君子が向上する動機を説明できないことが、『荀子』書中においても勧学篇などにおける君子への励ましの叙述と、富国篇などにおけるマクロの国家統治術を論ずる叙述とで、人間への視点が変化してしまうところにも表れている。そのねじれの原因は、古代中国思想史における個人倫理思想と社会統治思想との相克にあるはずである。そのような『荀子』の内部にあるねじれを読むこともまた、『荀子』を読む面白さであるに違いない。

性悪篇第二十三(6)

堯帝が舜に質問した。
堯帝「人間の『情』とは、いかなるものであるか?」
舜「人間の『情』とは、少しも美しくありません。問われるまでもないことです。妻子を得たら、親への孝心は衰えます。欲望が芽生えたら、友人への信義は衰えます。爵位と俸禄が満ちたら、主君への忠義は衰えます。人間の『情』とは、ここまで美しくないものです。問われるまでもございません。その中で、ただ賢者だけはこういった凡人の『情』から離れることができるのです。」

聖人の「知」というものがあり、士・君子の「知」というものがあり、小人の「知」というものがあり、労役夫の「知」というものがある。どんなに多く言葉を用いてもその言葉が礼義の規則によって分類されていて、一日中議論を行って数多の議論を千変万化させてもその原理が統一されている。これが、聖人の「知」である。言葉は少ないが率直で簡潔であり、正しく分類されて法に従っていて、言葉が縄で連ねたように合理的に整合されている。これが、士・君子の「知」である。言葉はへつらい、行いは正道に反し、物事をやらせたら後悔が多い。これが、小人の「知」である。無駄に口と行動だけは素早いが、その言葉は正しく分類されておらず、いろいろ雑学に詳しいが、その知識は何の役にも立たず、言葉の分析をやたらと素早く細かく行うが、その分析はぜんぜん的確でなく、是非を顧みることなく、正義と不正を論じ分けることもせず、他人と争って勝とうと望むことしか眼中にない。これが、労役夫の「知」である(注1)。また上勇というものがあり、中勇というものがあり、下勇というものがある。天下には中道というものがあるのだが、自らあえてその中道に従って身を直くし、また天下にはいにしえの文明の建設者である先王の正道があるのだが、自らあえて先王の意志に則って行動し、上には乱世の君主に従わず、下には乱世の人民と同調せず、仁のあることろには貧窮なく仁のないところに富貴がないという先王の正道を天下が理解しているのであれば、自ら天下と同じく苦楽を共にするよう願い、だがもし先王の正道を天下が理解していないのであれば、天地の間にただひとり独立して立ち、他人を恐れたりはしない。これが、上勇というものである。態度は恭しく意志は堅固であり、忠信を重んじ貨財を軽んじ、賢者をあえて推挙してこれを貴び、愚者をあえてひきずり降ろして解任する。これが、中勇というものである。己の身を軽んじて貨財を重んじ、わざわいなことを平然と続けながら曲解した言い訳で何とかごまかそうとし、是と非、然りと然らずの実情(注2)を顧みず、他人と争って勝とうと望むことしか眼中にない。これが、下勇というものである。繁弱(はんじゃく)と鉅黍(きょしょ)(注3)は、いにしえの良弓である。だが排㯳(はいけい。弓の曲がりを直す器具)を得なければ、良弓とて自力で真っ直ぐとなることはできない。斉の桓公の葱(そう)、斉の太公望の闕(けつ)、周の文王の録(ろく)、楚の荘王の曶(こつ)、呉王闔閭(こうりょ)の干將(かんしょう)・莫邪(ばくや)・鉅闕(きょけつ)・辟閭(へきりょ)(注4)は、いずれもいにしえの名剣である。だが砥石に当てて研がなければ鋭利となることはできず、人力を加えなければ物を断ち切ることはできない。驊騮(かりゅう)・騹驥(りき)・纖離(せんり)・綠耳(りょくじ)(注5)は、いずれもいにしえの名馬である。だがこれらに銜(くつわ)を噛ませて轡(たづな)を取り付け、尻を鞭で叩いて駆らせ、造父(ぞうほ)(注6)の御車術を与えて、はじめて一日千里を走らせることができるのである。そもそもたとえ人の性質が美(注7)であって心は是非を見分ける知力を持っていたとしても、必ず賢明な師を求めてこれに師事し、賢明な友人を得てこれを友人としようとするものである(注8)。賢明な師を得てこれに師事すれば、その聞くところのものは堯・舜・禹・湯の道となろう。良い友人を得てこれと交友すれば、その見るところのものは忠・信・敬・譲の行為となろう。わが身は日々仁義に進みながら、しかもそれを自覚することすらない。それは、習慣として善が身に付いているからである。しかし逆に不善の人間と共にいるならば、その聞くところのものはあざむきといつわりの行為であり、その見るところのものは人への誹謗、邪悪な行い、利をむさぼる行いである。ついにはわが身に刑罰を加えられながら、そうなるまで自覚して反省することすらない。それは、習慣として悪が身に付いているからである。言い伝えに、「その人物が分からなかったら、その友人を見よ。その君主が分からなかったら、その左右を見よ」とある。習慣というものは、これほどに恐ろしいものなのだ。


(注1)つづく下勇と並んで、いうまでもなく諸子百家のことである。
(注2)原文「是非然不然之情」。「情」を正名篇の定義に従って「感情」と訳したくなるが、ここでは実情、事情の意であろう。
(注3)繁弱は、春秋左伝定公四年に「封父之繁弱」とあり、注に大弓の名とあるという。鉅黍は史記蘇秦列伝に見える。
(注4)いずれも古代の名剣の名。干將・莫邪・鉅闕は呉王闔閭の剣として他書に見えるが、その他は詳細不明。
(注5)史記秦本紀には、驥(き)、溫驪(とうり)、驊騮(かりゅう)、騄耳(ろくじ)として表れる。秦本紀の記述によれば、周の穆王(ぼくおう)の御者であった造父が、これらの駿馬を見出した。王は造父を御者としてこれらの馬を駆って西方に巡狩し、楽しんで帰ることを忘れた。そのとき徐の偃王(えんおう)が反乱を起こし、造父は一日千里を走って王を都に帰らせて、そのために反乱を収拾できたという。
(注6)注5参照。
(注7)原文「性質美」。ここでの「性」は質美であるとされているので、性悪篇で展開されるところの「性」の概念であるはずがない。単に人間の資質を指しているはずである。この後に出てくる「偽」の使い方といい、性悪篇の末尾は語の用法がここまでの叙述に比べて乱れている。
(注8)勧学篇(2)の「君子は居必らず鄕(きょう)を擇び、遊ぶに必ず士に就く」、同(4)の「學は其の人に近づくより便なるは莫し」を参照。
《原文・読み下し》
堯舜に問いて曰く、人の情は何如と。舜對えて曰く、人の情は甚だ美ならず、又何ぞ問わん。妻子具(そな)わりて孝親に衰え、嗜欲得て信友に衰え、爵祿盈(み)ちて忠君に衰う。人の情か、人の情か、甚だ美ならず、又何ぞ問わん。唯(ただ)賢者のみ然らずと爲す、と。聖人の知なる者有り、士・君子の知なる者有り、小人の知なる者有り、役夫の知なる者有り。多言なれば則ち文にして類し、終日議するも其の之を言う所以は、千舉・萬變して、其の統類一なるは、是れ聖人の知なり。少言なるも則ち徑(けい)にして省に、論(りん)(注9)にして法に、之を佚(つら)ぬる(注10)に繩を以てするが若し、是れ士・君子の知なり。其の言や諂い、其の行や悖り、其の事を舉ぐるや悔多きは、是れ小人の知なり。齊給・便敏なるも類無く、雜能・旁魄(ほうはく)なるも用無く、析速(せきそく)・粹孰(すいじゅく)なるも急ならず、是非を恤(かえり)みず(注11)、曲直を論ぜず、人に勝つを期するを以て意と爲すは、是れ役夫の知なり。上勇なる者有り、中勇なる者有り、下勇なる者有り。天下中(ちゅう)有りて、敢て其の身を直くし、先王道有りて、敢て其の意を行い、上は亂世の君に循(したが)わず、下は亂世の民に俗(なら)わず(注12)、仁の在る所に貧窮無く、仁の亡き所に富貴無く、天下之を知れば、則ち天下と同じく之を苦樂せんと欲し(注13)、天下之を知らざれば、則ち傀然として天地の間に獨立して畏れず。是れ上勇なり。禮(たい)(注14)は恭にして意は儉、齊信を大として、貨財を輕んじ、賢者をば敢て推して之を尚(とうと)び、不肖者をば敢て援(ひ)きて之を廢す。是れ中勇なり。身を輕んじて貨を重んじ、禍に恬(やす)んじて(注15)廣(ひろ)く解し苟(いやしく)も免れ(注16)、是非・然不然の情を恤(かえりみ)ず、人に勝つを期するを以て意と爲す。是れ下勇なり。繁弱(はんじゃく)・鉅黍(きょしょ)は、古(いにしえ)の良弓なり、然り而(しこう)して排㯳(はいけい)(注17)を得ずんば則ち自ら正すこと能わず。桓公の葱(そう)、太公の闕(けつ)、文王の錄(ろく)、莊君の曶(こつ)、闔閭(こうりょ)の干將(かんしょう)・莫邪(ばくや)・鉅闕(きょけつ)・辟閭(へきりょ)は、此れ皆古の良劍なり。然り而して砥厲(しれい)を加えずんば、則ち利なること能わず、人力を得ずんば、則ち斷ずること能わず。驊騮(かりゅう)・騹驥(りき)・纖離(せんり)・綠耳(りょくじ)は、此れ皆古の良馬なり。然り而して前に必ず銜轡(かんひ)の制有り、後に鞭策(べんさく)の威有り、之に加うるに造父(ぞうほ)の馭を以てして、然る後に一日にして千里を致すなり。夫れ人の性は質美にして心は辯知すること有りと雖も、必ず將(まさ)に賢師を求めて之に事(つか)え、賢友を擇んで之を友とせんとす。賢師を得て之に事うれば、則ち聞く所の者は堯・舜・禹・湯の道なり。良友を得て之を友とすれば、則ち見る所の者は忠・信・敬・讓の行なり。身日に仁義に進んで自ら知らざる者は、靡(び)然らしむるなり。今不善人(ふぜんじん)と處(お)れば、則ち聞く所の者は欺(き)・誣(ふ)・詐(さ)の僞(い)(注18)なり、見る所の者は汙漫・淫邪・貪利の行なり、身且つ刑戮を加えられて自ら知らざる者は、靡然らしむるなり。傳に曰く、其の子を知らざれば、其の友を視よ、其の君を知らざれば、其の左右を視よ、と。靡のみ、靡のみ。


(注9)楊注或説は「論」は「倫」なり、と言う。増注および集解の郝懿行はこれを取る。
(注10)増注は「佚」と「佾」は同義、と言う。つらねる。
(注11)新釈の藤井専英氏は、「恤」は「卹」に同じく、顧の意と言う。
(注12)増注は荻生徂徠を引いて、「俗」は「沿」に作るべし、と言う。新釈は「俗」は説文に「習」、と言う。新釈に従う。
(注13)原文「則欲與天下同苦楽之」。漢文大系は楊注或説を取って、「苦」字を「共」に作るべしと言い、王念孫の説を容れて「同」の字を削るべし、と言う。これに従えば、「則ち天下と[同]苦(とも)に之を楽しまんと欲す」と読むであろう。増注は孟子の「楽しむに天下を以てし憂うるに天下を以てす」(梁恵王章句下、四)を引いて、この意と言う。増注に賛同したい。
(注14)増注は脩身篇を引いて「禮」は「體」に作るべし、と言う。これに従う。
(注15)楊注は、「恬」は「安」なり、と言う。
(注16)増注は元本に従って「免」字を削る。漢文大系はこれに従って「免」を読まずに「苟(いやしく)も」を次の句の冒頭につなげて読んでいる。新釈は「苟免」を「なすべき務めを怠っておりながら、恥と思わぬこと」、と言う。新釈に従う。
(注17)「㯳」字はCJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注18)ここでの「偽」は、その前の三つの欺・誣・詐を人為的に行うこと、あるいは「詐偽」で意図的にだます行為、とする意であろう。この性悪篇で「偽」は繰り返し肯定的な意で用いられているが、ここでは肯定的な意味で用いられているはずがない。よりによって性悪篇の末尾において「偽」字の意味をひっくり返して否定的な意味で用いるのは、『荀子』編集者の不注意であると言わざるをえない。

性悪篇の末尾は、堯と舜の仮想問答から始まる。もとよりこのような問答が実際にあったわけではなく、荀子の創作である。古代中国の文献に見られる歴史に関する叙述においては、古い時代のエピソードとされるものは実際は新しい戦国時代あたりに創作されたものである可能性が高い。『論語』では堯舜の具体的な業績について言及されることが乏しいが、『孟子』書中においては舜の生涯のエピソードが詳しく述べられている。堯舜の統治に関する先秦時代の諸文献の記録は、おそらく戦国時代における国家の統治術が反映されていると思われる。

末尾の議論は性悪篇のまとめといえる内容であるが、面白いのは聖人の「知」と士・君子の「知」を比較したとき、荀子は聖人が士君子よりも多言である、とみなしているところである。これは、礼法を制定するのは聖人の「知」の仕事であり、士・君子は聖人の制定した礼法を学んでこれに従う「知」にとどまる、と荀子は見なしているからに違いない。解蔽篇(6)における士・君子・聖人の段階論を参照すれば、そのことが分かるであろう。よって聖人は、無駄な雄弁を行って多言なのではない。正名篇で「相手に意義が通じれば、そこで終えるのだ。それ以上細かく検討することは、姦(よこしま)なことである。ゆえに、名称はその実体を指すに足りて、言辞は名称の指すべき中庸な意味を明らかにすることに足りれば、そこで終えるのだ」と言ったようにである。しかし国家の礼法は明確に制定されなければならず、政治判断は明確に言葉で述べられなければならない。以心伝心の政治は、荀子の拒否するところである。

これで、性悪篇は終わる。続く君子篇第二十四は短いエッセイであり、内容的にはこれまでの各篇で展開された王者の統治法を再度述べたものである。内容的に新しいものはないと考えるので、後回しとしたい。君子篇をもって、『荀子』書中のまとまった論述の篇は終わる。続く成相篇および賦篇は荀子作の詩賦を収録したものであり、思想的な意味は少ない。これも、読み飛ばしたい。続く大略篇以下は、荀子の言葉の断章と孔子とその弟子たちの語録を収めた雑録が続く。全体的に雑多な内容で、検討する価値に乏しいと考える。

ただし、子道篇第二十九だけは、重要である。ここの緒言における言葉は、儒家思想のオーソドックスな父子倫理をくつがえす合理的な内容を持っていて、儒家思想の中で異彩を放っている。荀子の思想の合理性をよく示す文章であるので、これは読むことにしたい。子道篇の後には、もう一度前の非相篇第五に戻って荀子の後王思想を検討し、それで『荀子』の思想の大略の検討を終えることにしたい。

【次は、「子道篇第二十九」を読みます。】

正名篇第二十二(1)

現代の君主(注1)が定めるべき、諸物の名称について述べる。まず、国家の刑法は殷王朝の法を採用すべし。次に官爵の体系は、周王朝の規定を採用すべし。国家の礼義文飾については、周王朝の礼制を採用すべし。その他の万物に付けられる名称は、中華世界ですでに慣習的に用いられている名称を標準として、さらに遠方の風俗を異にする地方由来の文物の名称についてはこれを中華世界のものとよく照らし合わせて、適切な中華の言語に翻訳して通用させよ。

つづいて、人間の属性に関する名称について述べる。人間が生得的に持っているものは、これを「性」と名付けよ。その人間が生得的に持っているものから何らの人為も加えずに自然発生する、陰陽の調和による身体の形成(注2)・外物と絶妙に対応する五官の形成(注2)・身体が外物の刺激に反応する感覚の形成(注2)、これらもまた「性」と名付けよ。

この人間の「性」から好き・嫌い・うれしい・腹が立つ・哀しい・楽しいといった衝動が沸き起こる。これを、「情」と名付けよ。この「情」が沸き起こった後で、心がこれを取捨選択する。この理性の作用を、「慮」と名付けよ。心が「慮」して、その結果人間の能力が発動して何ごとかを行う。これを、「偽(い)」(注3)と名付けよ。「慮」を積み重ね、人間の能力を用いて習得を行い、その結果成し遂げるもの。これもまた、「偽」と名付けよ(注4)

利を期待して行うこと、これを「事」と名付けよ。義を期待して行うこと、これを「行」と名付けよ。人間が生得している認知能力、これを「知」と名付けよ。その「知」が外物と一致して知識となること、これを「智」と名付けよ。人間が生得している行為能力、これを「能」と名付けよ。その「能」が外物と一致して有用な作用を行うこと、これも「能」と名付けよ。「性」が傷ついて損なわれた状態、これを「病」と名付けよ。人間の行為の必然的結果ではなくて、その人にたまたま起こったことは天命と言える。よってこれを「命」と名付けよ。以上が、人間の属性に関する名称である。

これらが、現代の君主が定めるべき、諸物の名称である。


(注1)原文「後王」。王制篇(4)注3およびコメント参照。
(注2)それぞれ原文読み下し「和生ずる所にして」「精合(がっ)し」「感應(おう)じ」。ここは前の「性」と名付けられたものが生命そのものを表しているのに対し、生命が作動してなす身体と感覚の形成を表している。これらもまた人間が理性を用いることなく自然に形成されるものであるから、「性」なのである。よって、荀子は「性」という語を人間の動物レベルの活動とみなしていることが分かる。いっぽう孟子は、「性」という語を人間の生得的倫理感覚を指す語として用いている。両者の「性」の解釈がかみ合わないのは、単なる語の定義の違いにすぎないことになる。
(注3)偽(にせもの)ではなくて、人為のこと。「偽」の概念は、性悪篇で展開される。
(注4)前の「偽」は人間の人為的活動そのもの、後の「偽」はそれが成し遂げた成果である。
《原文・読み下し》
後王の成名は、刑名は商(注5)に從い、爵名は周に從い、文名は禮(注6)に從う。散名の萬物に加わる者は、則ち諸夏の成俗に從い、遠方・異俗の鄉に曲期すれば、則ち之に因りて通を爲す。散名の人に在る者は、生の然る所以の者は之を性と謂い、性(せい)(注7)の和生ずる所にして、精合(がっ)し感應(おう)じ、事せずして自然なる、之を性と謂う。性の好惡(こうお)・喜怒・哀樂、之を情と謂う。情然(しか)しくして而(しか)も心之が擇を爲す、之を慮と謂う。心慮(おもんぱか)りて而も能之が動を爲す、之を僞(い)と謂う。慮積み、能習いて、而る後に成る、之を僞と謂う。利を正(あて)にして(注8)爲す、之を事と謂う。義を正(あて)にして(注8)爲す、之を行と謂う。知る所以の人に在る者、之を知と謂う。知りて合する所有る、之を智と謂う。[智](注9)能くする所以の人に在る者、之を能と謂う。能くして合する所有る、之を能と謂う。性傷(そこな)う、之を病(へい)と謂う。節(たまたま)(注10)遇(あ)う、之を命と謂う。是れ散名の人に在る者なり。是れ後王の成名なり。


(注5)「商」は殷王朝のこと。
(注6)楊注は、文は節文威儀を謂い、禮はすなわち周の儀礼なりと言う。
(注7)集解の王先謙は、この「性」は「生」に作るべし、と言う。
(注8)猪飼補注は荻生徂徠を引いて、「正」は期待の意、と言う。
(注9)集解の盧文弨は、「智」字は衍と言う。
(注10)楊注は、「節」は時なりと言う。集解の王先謙は、「節」はなお「適」のごとし、と言う。王先謙に従い、読みがなは金谷治氏に従う。

【この篇は、「解蔽篇第二十一」の後に読んでいます。】

正名篇は、まず単語の定義から始まる。まず儒家の主張する「正しい」単語の定義を出して、ここから外れた邪説を攻撃するための下準備である。荀子の「正しい」単語の定義は、(1)国家の制度については歴史的な用法を継承し、(2)諸物の名称は中華世界で慣習的に通用するものを採用し、(3)抽象的概念は後王すなわち現在の為政者が定義するべし、というものである。この篇が「正名篇」と名付けられているのは、漢文大系も指摘するとおり、孔子の「名を正す」という言葉にならったものである。

「名を正す」とは、論語子路篇の以下の問答について言う。

子路曰く、衛の君、子を待ちて政を爲さば、子將(まさ)に奚(いずれ)をか先にせん。子の曰(のたまわ)く、必ずや名を正さんか。子路曰く、是れ有る哉(かな)、子の迂なるや。奚(なん)ぞ其れ正しくせん。子の曰く、野なる哉、由や。君子は其の知らざる所に於て、蓋(けだ)し闕如(けつじょ)す。名正しからざれば、則ち言(こと)順(したが)わず。言順わざれば、則ち事(わざ)成らず。事成らざれば、則ち禮樂(れいがく)興らず。禮樂興らざれば、則ち刑罰中(あた)らず。刑罰中らざれば、則ち民手足を措(お)く所無し。故に君子は之に名づくること必ず言う可し、之を言うこと、必ず行う可し。君子其の言に於て、苟(いやしく)もする所無きのみ。

《現代語訳》
孔子の弟子の子路(しろ)が言った、「衛国の君主が先生をお引止めして政治を任せようとしたら、先生はまず何から着手なさいますか?」と。それに対して孔子が言われた、「必ず『名を正す』ところから始めよう」と。子路が言った、「これだから困りますよ、先生はなんとも迂遠だ!いったい、何を正しくすると言われるか?」と。孔子が言われた、「由(ゆう)(*)、お主は野卑であるのう。君子は自分が知らないことについては、沈黙するものであるぞ。名が正しくなければ、言語が不明瞭となる。言語が不明瞭となれば、政治は成功しない。政治が成功しなければ、礼楽が盛んとならない。礼楽が盛んとならなければ、刑罰の公正さが破れる。刑罰の公正さが破れたならば、人民は手足の置き所もなくなるであろう。ゆえに、君子とは事物に名を付けるときには必ず言葉で明確に示し、示された言葉は、必ず実行しなければならない。君子は、言葉を用いるときには、これをゆめゆめ軽率にしないものなのだ」と。

(*)由(ゆう)は、子路の名。姓は仲(ちゅう)、名は由、字(あざな)は子路。『論語』においては地の文では「子路」と呼ばれ、孔子が話しかけるときには「由」と呼ばれる。


これに対する、貝塚茂樹氏の注釈は以下のとおりである。

子路と孔子とのこの会話は、いつ行われたか。ここに出てくる衛君がだれをさしているか問題である。前四九七年、孔子は魯国を逃げて衛国に亡命した。前四九三年に衛の霊公が死ぬと、夫人南子(なんし)が公の遺命によるとして、公子郢(こうしえい)を立てようとしたが承諾しない。ついに南子に反対して亡命していた後の荘公蒯聵(そうこうかいかい)の子で、霊公の孫にあたる出公輒(しゅっこうちょう)を即位させた。蒯聵は大国の晋の後援を得て衛の要地の戚(せき)の城に潜入し、ここを根拠地として内乱を起こした。(中略)この衛の君は衛の出公をさしている。これに対して孔子の立場は、荘公蒯聵は亡父霊公から追放されているが、父子の縁は切れていないし、また太子の地位は失っていないから、出公は父である蒯聵に位を譲らねばならないと考えた。「名を正さん」とはこのことをさしている。子路はそんなことを出公が承知するはずはないかから、孔子の言は理論としては正しいが、現実的でないとして非難したのである。孔子はしかし、自己の「名を正す」という立場が絶対に正しいことを確信して、子路を説得しようとした。「名」つまりことばと、「実」つまり実在とが一致せねばならないという「名実論」は、これ以降中国の知識論の基本となってる。(中略)しかし、孔子が「名実論」をはっきり意識していたかどうかについては若干の疑いがある。孔子のもとの発言が、弟子たちにより、「名実論」「大義名分論」の立場で解釈され、発展させられてこの形となったのであろう。
(貝塚茂樹訳注『論語』中公文庫より)


オーソドックスな解釈は、君主という「名」と君主にふさわしい人間という「実」は一致させなければならない、というものである(朱熹『論語集注』「程子曰く、名実相須(ま)つ。一事を苟(いやしく)もすれば、則ち其の余は皆苟もす」)。孔子は上の問答で、「名を正す」ということが礼楽を支え、法律を支える基盤となるという。すなわち「名を正す」ことは国家の行政が実効力を持つために絶対必要である、と孔子は考えていたことに他ならない。いったい孔子は、「名を正す」ことの政治的意義をどのように考えていたのであろうか?

この正名篇は、孔子の末流にあった儒家である荀子が、孔子の「名を正す」ということの解釈を開陳したものである。それは、国家が言語を定義して、正統のイデオロギーを定義して、それ以外の言語と思想を排斥するべし、といった政策主張であった。儒家が理想とする「正しい言語」「正しい名義」が国家において唯一許されることによって、政策者が発する法令はあいまいな解釈が排斥され、ただ一つの意味として受け止められる。こうして政策者の法令が効果的・効率的に施行されることによって、国家が人民を感覚によって操作する政策である礼楽は盛んとなり、国家が人民を暴力によって操作する政策である法律は公正さを得ることになる。荀子は、「名を正す」ことの政策的効果を、このように考えていたと私は考えたい。当然ながら荀子は、世界に唯一の正しい意味が実在し、理想的な言語を用いるならば世界の意味を言語で完全に表現することができる、というプラトニズムに立つ。荀子のプラトニズムは、前の解蔽篇で十分に展開されたところである。

これをもう少し現代思想的に言い換えることをあえて試みるならば、「名を正す」とは人間同士のコミュニケーションにおいて一切のあいまいさを排除して、心中のロゴス(Logos)が過不足なく言語として表明されるロゴス―言語の理想的対応関係を作ることを目指す、ということになるだろうか。すなわちジャック・デリダが言うロゴス中心主義(Logocentrism)、音声中心主義(Phonocentrism)の思想である。

Derrida believed that the fields of philosophy, literature, anthropology, and linguistics had become highly phonocentric. He argued that phonocentrism was an important example of what he saw as Western philosophy’s logocentrism. He maintained that phonocentrism developed due to the human desire to determine a central means of authentic self-expression. He argued that speech is no better than writing, but is assigned that role by societies that seek to find a transcendental form of expression. This form of expression is said to allow one to better express transcendental truths and to allow one to understand key metaphysical ideas. Derrida believed that phonocentric cultures associate speech with a time before meaning was corrupted by writing. He saw phonocentrism as part of the influence of Romanticism, specifically its belief in a time in which people lived in harmony and unity with nature. Derrida did not believe that there was any ideal state of unity with nature. He also argued that speech suffers from many of the same inherent flaws as writing.
(英語版Wikipedia “Phonocentrism”, 2015/5/24現在の表記より。)

《日本語訳》
デリダは、哲学・文学・人類学・言語学の諸分野はきわめて音声中心主義的(phonocentric)であると確信していた。彼は、音声中心主義は彼がみなす西洋思想のロゴス中心主義(logocentrism)の重要な一典型であると論じた。彼は、音声中心主義は人間が「自己のほんとうのことを表現したい」という欲望から発展したものである、と主張した。彼は、スピーチは文書よりも優れているというわけではなく、そうではなくてスピーチは単に超越的な表現形式としての役割を社会によって割り振られているにすぎない、と論じた。一般には、スピーチという表現形式は、人間が超越的な真理を表現するためにより適しており、人間が核心的な形而上学的概念を理解することへと導く、と捉えられている。デリダは、音声中心主義的な文化はスピーチのことを、文書に記録されることによって「ほんとうの意味」が堕落してしまう前の段階にあって、より「ほんとうの意味」を保持しているものだ、とみなすと論じた。彼は、音声中心主義はロマン主義の影響の一部であるとみなし、とりわけロマン主義の「人類はかつて自然との調和と統一の中に生きていた時代があった」という信仰の影響の一部であるとみなした。デリダは、人間と自然とが統一された理想的状態などは存在しないと考えた。彼は同じく、スピーチは文書と全く同質に、多くの錯誤を内在的に含んでいる、と論じた。
(直訳ではなく、意味が通りやすいように語を追加して訳した。)

難解なデリダの思想を私なりに解釈するならば、ロゴス中心主義者・音声中心主義者は、世界には唯一「ほんとう」の姿があり、人間には唯一「ほんとう」の自分がある、と信じる。そしてそれらを言語で完全に表現することができる、ということを信じる。よって、人間が口で語るスピーチがその「ほんとう」を表現するために最も近いのであり、取捨選択されて書かれる文書は「ほんとう」から遠い、と信じる。プラトニストがロゴス中心主義・音声中心主義に陥るのは、明確なことである。彼らは「ほんとう」の自然と人間を表現できる「ほんとう」の言語がある、と信じるからである。だがそれはロマン主義的な錯覚であり、スピーチであろうが文書であろうが、「ほんとう」を表現することなど決してできないし、そもそも「ほんとう」などは存在せず、「差延」(différance)があるだけなのだ、とデリダは指摘するのである。

荀子の主張は、デリダの用語を用いるならばロゴス中心主義者・音声中心主義者が、その理想的状態を担保するために国家権力を介入させることを露骨に示唆する。それによって、「正しい言語」「正しい名義」と国家権力が不可分に結びついていることを戯画的なまでに明確に示す。荀子の思想は、言語と国家権力の関係を明示する点で古代思想において、よくも悪くも重要である。以下、読んでいきたい。

正名篇第二十二(2)

ゆえに、王者が名を制定するならば、名称が定められて諸物が区分され、正道が行われて人間どうし意思が通ずるようになる。このように王者は名称と正道を制定することによって慎重に人民を率いて、これを斉一にするのである。ゆえに、言葉をむやみに分解詮索していじくり回し、勝手に名称をこしらえ、これによって正しい名称を乱し、人民に疑心を植え付け、人間に論争を多くさせるような者は、大姦と言うべきである。この者の罪は、いわば契約書偽造・度量衡偽造の罪に等しいのである。ゆえに人民は、このような大姦を信じて奇怪な言葉を使って正しい名称を乱すような行為を、あえて行おうとはしないのである。このような人民こそが誠実というものであり、誠実な人民だから国家はこれを使用しやすく、使用しやすいゆえに功績も挙がるのである。人民は、奇怪な言葉を使って正しい名称を乱すような行為を、あえて行わない。ゆえに国家の法に斉一に従い、国家の命令に謹んで従うのである。このようであれば、功績は長久であろう。功績が長久に挙がるのは、治の極地である。これが、正しい名称を各人が謹んで守ることの効能なのである。

だが、今や聖王は没していなくなり、正しい名称を守ることはおろそかとなり、奇怪な言葉が沸き起こり、名称と諸物の対応関係が乱れ、是非の区別が不明確となってしまっている。このような世では法令を守る官吏たちも、礼義の正道を唱える儒者たちも、混乱するばかりである。いまもし王者が起こることがあれば、必ずかつての時代の古い名称を参照して、適切な新しい名称を制定することであろう。ゆえに、(1)正しい名称を定めることの必要性、(2)名称によって諸物の同異をはっきり定めることの必要性、そして(3)名称を定める基準、これら三者は必ず深く理解しておかなければならない。

(1)もし形が異なった二つのものについて、各人がてんでばらばらに独自の理解をしたら、どうなるか?もし異なった二つの対象について、名称とそれが名付ける対象とが混乱して絡み合ってしまったら、どうなるか?もし身分高い者と身分低い者とが区別されなくなってしまったら、どうなるか?もし同一と相違とが区別できなくなってしまったら、どうなるか?このようなことになってしまったならば、各人の意思の疎通は不可能となり、国家の事業は何も成し遂げられなくなるであろう。それは、災難である。ゆえに智者は、名称にはっきりと分別を立て、名称を制定してそれらが示す諸物との対応関係を定め、貴賤を明らかにして同異を区別するのである。貴賤が明らかとなり同異が区別されるならば、意思が通じなくなる災難はなくなり、国家の事業が成し遂げられなくなる災難もなくなるだろう。これが、正しい名称を定めることの必要性である。

(2)では、何に従って諸物の同異を定めるべきであろうか。それは、人間天与の五官に従うべきである。およそ同一の類にあって同一の「情」(注1)が沸き起こるものについては、人間の五官は同一の感覚を受け取るものである。ゆえに、五官が感じた感覚が似通っている現象に対しては、これをとりまとめて、同一の名称を付けて共通語となすのである。これが、名称を共通させて動かさない理由である。ものの形、色、パターンは、目によって区別される。ものの音声、清音、濁音、細音、巨音、あるいは奇怪な音声は、耳によって区別される。甘味、苦味、塩味、薄味、辛味、酸味、あるいは奇怪な味は、口によって区別される。よい香り、臭い香り、香草の香り、生臭さ、油臭さ、腐敗臭、あるいは奇怪な臭いは、鼻によって区別される。痛み、かゆみ、冷たさ、熱さ、なめらかさ、ざらざらした感触、軽さ、重さは、身体の感覚によって区別される。論説、よろこび、怒り、哀しみ、楽しみ、愛着、憎悪、欲望は、心によって区別される。心には、感覚を認識する能力がある。感覚を認識する能力は、耳が音声を受け取った後に発動できる。また目が形を受け取った後に発動できる。ならば、心が感覚を認識する能力とは、きっと五官が受け取った感覚を(たとえば人間の「あ」「い」「う」の音声や、「四角形」「三角形」といった形の)カテゴリーに分類して記録することを待って、しかる後に心が認識することができるはずである。五官がこれらを記録しても心が認識することなく、あるいは心がこれを認識してもこれを言葉によって表明することがなければ、人はこの状態を必ず「知っていない」とみなすことであろう。これが、名称によって諸物の同異をはっきり定めることの必要性である(注2)


(注1)原文「同情」。正名篇(1)の「情」の定義を参照。
(注2)ここで荀子は、いったいカテゴリーに分類して記録する作用(原文では「簿」字がこれに当たる)を、目耳鼻口身の五官が心の先に行って、それを心が統制して知覚する(原文では、「徴知」がこれに当たる)と考えているのであろうか?それとも、五官は感覚を生のまま受け取るだけであり、心がそれをカテゴリーに分類すると考えているのであろうか?原文を素直に読めば、前者のように見える。しかし現代医学的には、後者が正しい。荀子が人間の認識構造をどちらに考えていたのか、今の私にはまだ推定できない。とりあえず前者のように訳しておく。
《原文・読み下し》
故に王者の名を制するや、名定まりて實辨(べん)じ、道行われて志通じ、則ち愼んで民を率いて一にす。故に辭を析(せき)して擅(ほしいまま)に名を作り、以て正名を亂り、民をして疑惑し、人をして辨訟(べんしょう)多からしめば、則ち之を大姦と謂う。其の罪猶お符節・度量を爲(いつわ)るの罪のごときなり。故に其の民敢て奇辭を爲して以て正名を亂ること莫し。故に其の民は愨(かく)なり。愨なれば則ち使い易く、使い易ければ則ち公(注3)なり。其の民敢て奇辭を爲して、以て正名を亂ること莫し。故に法に道(よ)るに一にして、令に循(したが)うに謹む。是(かく)の如くなれば則ち其の迹(せき)長し。迹長く功成るは、治の極なり。是れ名約(めいやく)を守るを謹むの功なり。今聖王沒して、名守慢(まん)に、奇辭起りて、名實亂る。是非の形明(あきら)かならざれば、則ち守法の吏、誦數(しょうすう)の儒と雖も、亦皆亂る。若(も)し王者起ること有らば、必ず將(まさ)に舊名(きゅうめい)に循うこと有りて、新名を作ること有らんと。然れば則ち名有ることを爲す所と、緣(よ)りて以て同異する所と、名を制するの樞要(すうよう)とは、察せざる可からざるなり。異形は心離(わか)れて(注4)交(こもごも)喩(さと)り、異物は名實玄(みだ)れて(注5)紐(むす)ばれ、貴賤明かならず、同異別たず。是の如くなれば則ち志は必ず喩(さと)らざるの患有りて、事は必ず困廢の禍有り。故に知者は之が分別を爲し、名を制して以て實を指す。上は以て貴賤を明かにし、下は以て同異を辨ず。貴賤明かに、同異別つ。是の如くなれば則ち志喩らざるの患無く、事困廢の禍無し。此れ名有ることを爲す所なり。然れば則ち何に緣りて以て同異するや。曰く、天官に緣る。凡そ類を同じうし情を同じうする者は、其の天官の物を意(おも)う(注6)や同じ。故に之が疑似に比方(ひほう)して通ず。是れ其の約名を共にして以て相期する所以なり。形體(けいたい)・色理(しょくり)は目を以て異にし、聲音の清濁・調竽(ちょうう)(注7)・奇聲は耳を以て異にし、甘・苦・鹹(かん)・淡・辛・酸・奇味は、口を以て異にし、香・臭・芬(ふん)・鬱(うつ)(注8)・腥(せい)・臊(そう)・洒酸(ろうゆう)(注9)・奇臭は鼻を以て異にし、疾・養(よう)(注10)・凔(そう)・熱・滑・鈹(しゅう)(注11)・輕・重は形體を以て異にし、說故(せつこ)・喜・怒・哀・樂・愛・惡・欲は心を以て異にす。心に徵知(ちょうち)有り。徵知は則ち耳に緣りて聲を知りて可にして、目に緣りて形を知りて可なり。然り而(しこう)して徵知は必ず將(は)た天官の其の類を當簿(とうほ)(注12)するを待ちて、然る後に可なり。五官之を簿(ほ)して知らず、心之を徵して說無ければ、則ち人は然(しか)く之を知らずと謂わざること莫し。此れ緣(よ)りて以て同異する所なり。


(注3)集解の顧千里は、「公」は疑うは「功」に作るべし、と言う。
(注4)増注は「離」はなお「別」のごときなり、と言う。
(注5)集解の郝懿行は、「玄」は「眩」であり「紐」は「系」である、と言う。「眩系」で、名と実がみだれてむすばれること。
(注6)猪飼補注は、「意」は「億」と同じと言う。おもう・おしはかる。
(注7)集解の王先謙は「竽」字は「節」となすべし、と言う。新釈の藤井専英氏は劉師培を引いて「調」は「窕」の仮借、「竽」は「槬」の缺省字夸(う)の誤字、という説によって「細音・巨音」と訳している。一応新釈に従っておく。
(注8)「鬱」は鬱鬯(うつちょう)であり、香草の臭。
(注9)集解の王念孫は、楊注の或説により「洒」は「漏」の誤りであり、「酸」は「庮」の誤りである、と言う。「庮」は朽木の臭のことであり、「漏」は螻蛄(けら)の臭のことと言う。「漏庮」で、悪臭のこと。
(注10)楊注は、「養」は「癢」と同じと言う。かゆみ。
(注11)「鈹」の解釈は諸説ある。漢文大系は増注の「皸(くん)」に作るべし、の説を取る。肌が皸(あかぎれ)した感触。新釈は楊注或説の「鈒(しゅう)」の誤り、の説を取る。ざらざらした感触。新釈に従う。
(注12)楊注は「簿」は簿書なり、と言う。「当簿」は、つまり五官が感覚を記録して参照すること。

ここの議論はさらに後へ続くのであるが、長いのでひとまず区切って訳した。
前回のくだりで「正しい名称」が定義されたことに続いて、そこから外れた邪説が世を乱していることを批判し、聖王が現れたならばこれを斥けるであろうと言う。「正しい名義」の根拠として、人間の五官は生得的に受け取る感覚を区別する機能がある、と言う。この区別に名称を付ければ人類共通の「正しい名義」が成立する、という論理である。この名称の感覚起源説は、人間に共通の規範が実在すると主張する者が挙げる根拠としては、最も素朴でありかつ分かりやすい。孟子も、告子章句で人間の性は不変である、ということを論証しようとして荀子と同様の主張を行う。ただし孟子の論理は、荀子にそれに比べて粗雑なものである。孟子の告子章句は論証になっていない一方的な断言の集まりにすぎないが、荀子の論証はここまでにあるように、段階を追って進められている。なので、孟子の印象的な主張よりもその可否を論ずることがたやすい。

しかし、感覚は人類共通であるという信仰は、人間がひとたび己と違う文化の中にいる他人を知ったときに崩れ去ってしまうものだ。50代の人間と10代の人間とは、外物に対してかなり異なる感覚を持っていないだろうか?男性と女性は?日本人とアメリカ人は?都会の住人と田舎の住人は?、、、背景の文化を異にする人間が同じ対象を同じように見ているとはいえない、ということは、現代の為政者ならば少なくともそれを事実とみなしておかなければ、国内・国外において何らの政策も立てられないであろう。荀子が取り上げる目・耳・口の感覚についてすら、同じ日本人でも共通のものがあるとはいえそうにない。ファッションで何を美しいと感じるか、音楽で何を楽しいと感じるか、料理で何を美味だと感じるか、について思いを巡らせれば、同じ日本人でも簡単に共通項が見出せるとは言いがたいことを悟るだろう。カントは美しい・美しくないという「美学的」な範疇に入る判断については客観的な真理は存在せず、しかしながら人間にはこれらに自らの判断を下して他人から共感を得たいという願望が必ずあるのだ、と指摘するのである。

こういった人間の感覚の多様性をあえて無視して、「同じ国の国民なのだから、国家が定める唯一の文化に従わなければならない」と主張することは、つまり美学的判断を政治に持ち込むことである。それがナショナリズムとファシズムに容易に結びつくことは、少し考えれば分かることだろう。荀子や孟子のように「人間の五官が受け取る感覚は人類共通である」と主張するものは、容易にエスノセントリズム(自文化中心主義)に陥りやすく、それを国家のイデオロギーとして採用しようとすればナショナリズム・ファシズムと親和性が高い。

正名篇第二十二(3)

(3)さきほどに述べた五官の感覚に従って諸物の同異を定める、という原理に従って、諸物に名称を与えていく。同類の事物に対しては同じ名を与え、異なる類の事物に対しては異なる名を与える。単独の字(注1)で理解できる事物は、これを単独字で表現する(例:馬、山、人)。単独字で理解することが不足な事物は、これを複数字で表現する(例:白馬、高山、老人)。単独字の語(例:馬)と複数字の語(例:白馬、黄馬)とが排他でなくて共有する実体があるならば、これらを共通単語で呼ぶことができる(例:色の違いに着目すれば白馬、黄馬と区別するが、ウマ目ウマ科に属する生物一般に共通した名称で呼ぶ場合には、すべて「馬」の一字で呼んでも矛盾しない)。共通単語で読んでも害がない理由は、対象とする実体が異なっている事物は名が異なっていることは自明の理だからである(例:白牛と白馬を「馬」の共通単語で呼ぶことはしない。しかし両者を「白」の共通単語で呼ぶことは許され、また上位概念の「家畜」で呼ぶことは許される。「白」「家畜」は白牛と白馬が共有する実体であり、「牛」と「馬」は白牛と白馬が共有しない排他的な実体である)。ゆえに、実体が異なっている事物に同一の名称を付けないことが言語の混乱を防ぐことは、実体が同一である事物に異なる名称を付けないことが同じく言語の混乱を防ぐことと同じである。万物はきわめて多いが、時にこれらを全てひっくるめた総合名称が必要となる。これを「物」と言う。「物」は、最上位の共通単語(注2)である。すなわちいくつかの事物を比較して、それの共通事項を取り上げた共通単語を作る(例:「馬」と「牛」は「家畜」である。「蝶」と「蟻」は「虫」である)。共通単語どうしの共通事項があれば、さらに共通単語を作る(例:「家畜」と「虫」は「生物」である。「川」と「海」は「地形」である)。この作業を進めた果てに、ついにこれ以上の共通事項がない共通単語を作るに至って、ここで命名は終わる。だが時に「物」の中の一カテゴリーを取り上げて命名する必要がある。「鳥」「獣」などがそうである。「鳥」「獣」などは、最上位より下の共通単語(注3)である。すなわち最上位から下って個別の共通単語に分解し、個別の共通単語はさらに下位の共通単語に分解し、ついにこれ以下の分解ができない個別単語を作るに至って、ここでまた命名は終わる。

名称には、固有の最も効率的な名称があるわけではない。人間の約束により命名し、この約束が固定されれば慣用される。これが、効率的な名称と言うのである。慣用に反する命名を、非効率な名称と言うのである。また名称には、実体と結びつく固有の関係があるわけではない。人間の約束によりそれぞれの実体に命名し、この約束が固定されれば慣用される。これが、実体を伴った名称と言うのである。名称には、固有の最善の名称がある。即座にわかりやすく、名称の意味で論争が起きない名称、それが最善の名称と言うのである(注4)

物には、形状が同じで場所を異にしているものがある。また、形状が異なっていて場所が同じであるものがある。この二者は、区別するべきである。形状が同じで場所を異にしているものについては、二つの物に共通名称を用いることができる。しかしながら、この場合には「(名称は同じだが)二つの実体」とみなすべきである(例:虎の縞と豹の縞は、同じく「縞」と言うことができる。しかし両方の「縞」がある虎と豹は別の実体であるので、虎のことを豹と言うことはできない)。いっぽう形状が変化しても実態は同じであり、しかも異なる範疇に入る場合は、これは「化」したと言うべきであり、「化」しても実体に区別がない場合には、「(名称は違うが)一つの実体」とみなすべきである(例:少年時代のAさんと老人時代のAさんは姿が違っているが、同一人物が「化」したものである。よってこれらを「少年」「老人」の二つの名称で呼ぶことができるが、実体は同じであるために同じく「Aさん」と呼んでも差し支えない)

これが、事物の実体を考えて諸物を数量する方法であり、名称を定める基準である。現代の君主が定める諸物の名称は、以上の原理によって考察しなければならない。


(注1)原文「単」。複合しない単語の意味であるが、荀子は漢文を前提として議論しているために、漢文のシステムで訳す。以下同じ。
(注2)原文「大共名」。
(注3)原文「大別名」。
(注4)以上の議論は、前二者は言語学者ソシュールが言う各言語の「分節の恣意性」を指している。すなわち例を挙げれば、英語の「fry」という動詞は日本語では「揚げる」「炒める」の二単語に完全に分解され、中国語では「炒」「爆」「炸」とさらに細かく分解される。英語・日本語・中国語の三者のどれが能率的で(荀子の言葉で「宜」)、どれが対象とする実体と最も結びついているか(荀子の言葉で「実」)は、決定できるものではなく、それぞれの文化の約束に応じた慣習が決めるに過ぎず、いずれの言語の用い方でも過不足はない。これがソシュールの言う「分節の恣意性」である。最後の一者は、そうやって恣意的に作られた分節であっても各民族語の話者にとって最もコミュニケーションに役立つ言語がその話者にとってよい言語とするべきである、ということを言おうとしているはずである。
《原文・読み下し》
然る後に隨いて之に命ず。同なれば則ち之を同にし、異なれば則ち之を異にす。單以て喩(さと)るに足れば則ち單とし、單以て喩るに足らざれば則ち兼とし、單と兼と相避くる所無ければ則ち共とす。共とすと雖も害と爲らざるは、實を異にする者の名を異にするを知ればなり。故に實を異にする者をして、名を異にせざること莫からしむるや、亂る可からざるは、猶お實を異(おな)じく(注5)する者をして名を同じくせざること莫からしむるがごときなり。故に萬物衆(おお)しと雖も、時有りて之を徧舉(へんきょ)せんと欲す。故に之を物と謂う。物なる者は、大共名(だいきょうめい)なり。推して之を共す。共は則ち有(ま)た共し、無共に至りて然る後に止む。時有りて之を徧舉せんと欲す。故に之を鳥獸と謂う。鳥獸なる者は、大別名(だいべつめい)なり。推して之を別(べつ)し、別は則ち有(また)別し、無別に至りて然る後に止む。名に固宜(こぎ)無し。之を約して以て命じ、約定まり俗成る、之を宜(ぎ)と謂う。約に異なれば則ち之を不宜と謂う。名に固實無し。之を約して以て實に命じ、約定まり俗成る、之を實名と謂う。名に固善有り(注6)。徑易(けいい)にして拂(もと)らざれば、之を善名と謂う。物に狀を同じくして所を異にする者有り、狀を異にして所を同じくする者有り、別つ可きなり。狀同じくして(注7)所を異にするを爲す者は、合す可しと雖も、之を二實と謂う。狀は變じて實は別無く、而(しか)も異を爲す者は、之を化と謂い、化有りて而も別無きは、之を一實と謂う。此れ事の實を稽(かんが)え數を定むる所以なり。此れ名を制するの樞要なり。後王の成名は、察せざる可らざるなり。


(注5)集解の王念孫は、楊注或説を是として「異」は「同」となすべし、と言う。
(注6)増注は荻生徂徠を引いて、「徂徠が『有』字は『無』の誤りである、と言ったことは上(二つ)の文例を以て見れば理があるように似たり」、と言う。漢文大系は徂徠説を採用して、「有」字を「なし」と読む。徂徠の説は三文を「無」で合わせるべきだという意見であり、分からないでもない。だが前の二文は、名称には固有の利便性や不動の実体があるわけではなく、一民族語の話者が共通に理解している名称が正しい名称であるにすぎない、という意味であり、最後の文はそうやって社会が最も使いやすくて矛盾なく流通する名称が最善の名称である、と言っていると捉えたならば、「有」のままのほうが適切であると私は考える。上の注4も参照。
(注7)宋本には「狀同」の二字がある。

荀子は、続けて命名の規則を述べる。言語学の用語を用いるならば、対象を指す記号であるシニフィアン(仏語signifiant, 英語signifier)と指される対象であるシニフィエ(仏語signifié, 英語signified)とが一対一対応しているのが正しい命名法であり、よって社会は適切な一対一対応の命名法を発見することができる。これが、現代の王が定めるべき正しい言語である。そこから外れた言語はすべて無用無益の詭弁であり、これを排しなければならない、と言うことである。

これに対する批判は、いろいろな側面から提出することができるだろう。荀子の思想の主要目的である「理想国家の建設」のテーマに関わることを言うならば、「理想国家」を国民の範囲を限定したナショナルな単位として構想するならば、その構想の最初の時点で「自国民/非自国民」の定義を行わなければならない。これが自明の区分などでは決してなく、国家の側の恣意的な区分であり、最初の定義において力による線引きが行われていることは、見逃すべきではない。しかし私のこのサイトにおける立場としては、国家のこういった線引きがけしからんと憤慨する立場を推奨したいとも思わないし、かといって国家権力による恣意的な定義を国家存続のために絶対必要であると肯定したいとも思わない。各人の判断に、お任せしたいと思う。

だがもし一国を越えた普遍性のある基準を求めたいと望むならば、自国だけの基準を超えた間共同体的な基準でなければ、受け入れられることはないであろう。さきの王制篇で検討したように、ヘゲモニー国家である覇者の基準が多くの国に受け入れられるのは、それに従うことが参加国にメリットがあるからに他ならない。また富国篇で柄谷行人の議論を検討したように、世界=帝国は、世界貨幣、共同体を越えた法、世界宗教、世界言語はいずれも征服者・被征服者の両者を拘束する、どちらからも独立した原理とテクノロジーを提供することによって、多くの武力を用いずに成立することができた。これらの例が示すように、一国の基準が自国を超えて間共同体的に受け入れられるか否かを決める主導権を握るのは、国の外にあるプレイヤーである。ある時代にある国が正しい世界の定義を主張するかもしれないが、それが他国にメリットを与えるならば受け入れられるであろうし、メリットを与えなければ受け入れられないであろう。荀子の時代とは違って、いまだ諸文化の平均化が起こらず統一世界国家が解決策ではありえない現代の世界において、ヘゲモニー国家が一国の枠を超えて受け入れられる原理は、間共同体的な原理でしかありえないであろう。

正名篇第二十二(4)

「侮られることは、恥辱でない」(注1)とか、「聖人は(他人を愛して)己を愛さない」(注2)とか、「窃盗犯を殺すのは人を殺す範疇に入らない」とかいう説は、名称を誤って用いることによって名称を乱す邪説の例である。前に述べた「正しい名称を定めることの必要性」(正名篇(2)の(1)参照)に従って、これらの説を検討せよ。そして、どちらがより人間世界に通用するかをよく観察するがよい。その結果、こういった邪説は無用無益であることが明らかとなる。よって、禁止するべきである。

また「山と淵は同じく平らかである」(注3)とか、「人間の情は寡欲である」(注4)とか、「肉の料理は美味でなく、大鐘(おおがね)の鳴る音楽は楽しくない」(注5)とかいう説は、名称が指す実体を誤って認識することによって名称を乱す邪説の例である。前に述べた「名称によって諸物の同異をはっきり定めることの必要性」(正名篇(2)の(2)参照)に従って、これらの説を検討せよ。そして、どちらがより名称と実体とを対応させているかをよく観察するがよい。その結果、こういった邪説は無用無益であることが明らかとなる。よって、禁止するべきである。

「非而謁」(注6)とか、「飛んでいる矢は常に楹(はしら)の地点にある」(注7)とか、「白馬は馬ではない」(注8)とかいう説は、名称を誤って用いることによって実体への認識を乱す邪説の例である。前に述べた「人間の約束による命名」(正名篇(3)の論述を参照)に従って、これらの説が社会に通用する名称の体系に合致しているかどうかを検討せよ。その結果、こういった邪説は言語の通用的用法から外れていることが明らかとなる。よって、禁止するべきである。

およそ邪説やかたよった主張で正道を離れて手前勝手に言葉を作る者は、すべて上の三つの誤りのどれかに入るのである。ゆえに明君は己のなすことに従って、このような輩と論争したりはしない。そもそも人民は、これを斉一にするには正道をもってするのが最も能率的であるので、為政者は正道についての理屈などをいちいち弁明したりはしないのである。ゆえに明君は人民に対して勢威をもって君臨し、正道をもって導き、国家の命令をもって告げ、倫理をもってなすべきことを明確に示し、刑罰をもってなすべからざることを禁止するまでである。これらの方法をもってするので、人民が正道に教化されていくのはじつに精巧なのである。なんで、人民に説明する必要があるだろうか?(注9)

しかし今や聖王はすでに没して、天下は乱れ、姦言が沸き起こる世となった。こんな時代では、君子といえども勢威をもって人民に君臨することができず、刑罰によって人民になすべからざることを禁止することができない。ゆえに、今の時代は弁説を尽くさなければならないのだ。実体が理解されないときに、はじめてその対象に命名がなされる。その命名があってもまだ理解されないときに、はじめて他の命名された対象と比較して概念を明らかにする。その比較がなされてもまだ理解されないときに、はじめて命名された概念に説明を加える。その説明がなされてもまだ理解されないときに、はじめて異説を斥けて弁説するのである。ゆえに、以上の命名・比較・説明・弁説の四者は、統治のための作用を持つ偉大な言葉の装飾であり、ここから王業が始まるところである。名称を聞けば、実体が想起される。これは、名称の作用である。名称を重ねて、文章をなす。これは、名称を飾る麗飾である。名称の効用と名称の麗飾の二者をともに会得しているならば、この者は名称のことを深く理解している、と言うべきである。名称というものは、多数の実体を比較するための基盤である。その名称を連ねて作られる言辞というものは、実体の異なる名称を連ねることによって、新たに一つの意味を理解させるものである(例:「山」と「高」を重ねると「高山」となり別の実体を示す言辞が作られる)。弁説というものは、名称と実体を変えずして、その内容を理解させる手段である。その弁説のとき、比較・命名が作用をなす。弁説とは、心中の正道を外部に向けて表現するものである。心というものは、正道の主宰者である。正道というものは、統治の筋道である。心は正道に合し、説明は心に合し、言辞は説明に合し、名を正してこれを比較し、実体に基づいて理解させ、異なる実態は弁別して間違えず、同類の概念に当たるべきものはそのグループ化を誤らず、他人の説を聴いてこれに理があれば、心中の言葉と合わせて改良し、言葉を用いて弁説すれば道理を全て表明する。このように言葉を正しく用いることができたならば、正道をもって姦説の過ちを説明することは、あたかも墨縄(すみなわ)をもって曲線・直線を規制するかのようにたやすいことである。このゆえに邪説は世を乱すことはできなくなり、諸子百家どもはもはや逃げ隠れることが許されなくなる。以上のような正しい言葉を用いて正道を取る者であれば、一度に多数の訴えを聴くほどの聡明がありながら、それを自慢する様子もない。万人を覆うような厚い徳がありながら、それを誇る様子もない。正しい弁説が行われたら、天下は正しくなるのである。しかし正しい弁説が行われない時代であれば、断固として正道を明らかにして、世から退くような真似はするな。これゆえに、聖人は正しく弁説することを尊重するのである。『詩経』に、この言葉がある。:

ああ慈なるかな、高きかな
圭璋(けいしょう)のごとく、うるわしき
おおいに聞こえ、たたえらる
やすらかなるご尊顔の、わが君は
四方(よも)の規範であらせらる
(大雅、巻阿より)

まさに聖王は、世の規範なのである。


(注1)宋鈃の説。正論篇(7)参照。
(注2)墨家の説。墨家は、君主は天下国家のために己を顧みず働けと主張する。
(注3)詭弁論者、恵施(けいし)・鄧析(とうせき)の説。
(注4)上と同じく、宋鈃の説。正論篇(8)参照。
(注5)楊注は、墨子の説と言う。墨子は確かに音楽排斥を唱えるが、食事の快楽を明確に否定したというよりは、より一般的にぜいたくを排すべしという節用説として主張した。
(注6)未詳。下の注11参照。
(注7)漢文大系の説を取って、ゼノンのパラドックス「飛んでいる矢は静止している」の意と訳す。下の注12参照。
(注8)名家に属する公孫龍の詭弁。「白馬」は白という色の属性を指す。馬はウマ目ウマ科という形状の属性を指す。両者の言葉が指す属性が違うので、「白馬」と「馬」の二つの語は別概念である、という詭弁。
(注9)原文読み下し「辨埶(説)惡(いずく)んぞ用いんや」。荀子は正論篇(1)で政治を秘密主義にするべきでない、と説いたが、これは法令・政策の内容を原則的に公開するべきであると言ったまでで、君主がどうして現在の政策を正しいと考えて施行するのか、については説明する必要がない、とみなすのである。荀子は聖王の統治の正道は自明の正解があって、そこに議論の余地はないと確信するプラトニストだからである。これは、価値観の多様性を前提として人民の意志によって政策を選択できる、と考える近代デモクラシーの原理とは全く違っている。荀子は公正な政治が必要であることには同意するが、政治にとって正しい価値観は複数ありえるということには全く同意しないからである。
《原文・読み下し》
侮ら見(れ)ても辱とせず、聖人は己を愛せず、盜を殺すは人を殺すに非ざるなり、と。此れ名を用うるに惑いて、以て名を亂す者なり。之を以て名有りと爲す所に驗して、其の孰(いず)れか行わるるを觀れば、則ち能く之を禁ず。山淵は平らに、情欲は寡く、芻豢(すうけん)は甘(うま)さを加えず、大鐘は樂しさを加えず、と。此れ實を用うるに惑いて、以て名を亂る者なり。之を緣りて[無](注10)以て同異する所に驗して、其の孰れか調するやを觀れば、則ち能く之を禁ず。[(解釈困難:)非而謁](注11)、楹(えい)に牛(や)有り(注12)、馬は馬に非ず(注13)とは、此れ名を用うるに惑いて、以て實を亂る者なり。之を名約(めいやく)に驗し、其の受くる所を以て、其の辭する所に悖(もと)れば、則ち能く之を禁ず。凡そ邪說・辟言(へきげん)の正道を離れて擅(ほしいまま)に作る者は、三惑に類せざる者無し。故に明君は其の分を知りて、與(とも)に辨(べん)ぜざるなり。夫(か)の民は一にするに道を以てし易くして、與に故を共にす可からず。故に明君は之に臨むに埶(せい)を以てし、之を道(みち)びくに道を以てし、之に申(の)ぶるに命(注14)を以てし、之を章にするに論(りん)(注15)を以てし、之を禁ずるに刑を以てす。故に其の民の道に化するや神(しん)の如し。辨埶(べんせい)(注16)惡(いずく)んぞ用いんや。今聖王沒して天下亂れ、姦言起る。君子は埶(せい)の以て之に臨む無く、刑の以て之を禁ずる無し。故に辨說(べんせい)するなり。實喩(さと)られずして然る後に命じ、命喩られずして然る後に期し、期喩られずして然る後に說き、說喩られずして然る後に辨ず。故に期命・辨說なる者は、用の大文にして、王業の始なり。名聞えて實喩(さと)るは、名の用なり。累ねて文を成すは、名の麗なり。用・麗俱(とも)に得て、之を名を知ると謂う。名なる者は、累實を期する所以なり。辭なる者は、異實の名を兼ねて、以て一意を論(さと)す(注17)なり。辨說なる者は、實名を異にせずして、以て動靜を喩すの道なり。期命なる者は、辨說の用なり。辨說なる者は、心の道を象(あらわ)すものなり。心なる者は、道の工宰(こうさい)なり。道なる者は、治の經理なり。心は道に合し、說は心に合し、辭は說に合し、名を正して期し、請(じょう)に質(もとづ)いて(注18)喩し、異を辨じて過たず、類を推して悖(もと)らず、聽けば則ち文に合し、辨ずれば則ち故を盡(つく)す。道を正して姦を辨ずること、猶お繩(じょう)を引いて以て曲直を持するがごとし。是の故に邪說も亂すこと能わず、百家も竄(かく)るる(注19)所無し。兼聽の明有りて、奮矜(ふんきょう)の容無く、兼覆(けんふう)の厚有りて、德に伐(ほこ)るの色無し。說行わるれば則ち天下正しく、說行われざれば則ち道を白(あきら)かにして冥窮(めいきゅう)せ(宋本に従い補填:)不(ず)(注20)。是れ聖人の辨說なり。詩に曰く、顒顒(ぎょうぎょう)卬卬(こうこう)、圭の如く璋の如し、令聞令望、豈弟(がいてい)の君子は、四方綱と爲す、とは、此を之れ謂うなり。


(注10)集解の郝懿行は「無」字は衍文と言い、猪飼補注は「無」は「而」に作るべしと言う。
(注11)未詳。なんらかの詭弁の説であると思われるが、解釈できない。誤字脱字があると思われる。漢文大系、新釈の藤井専英氏、金谷治氏のいずれも解釈を放棄している。
(注12)原文「楹有牛」。金谷治氏、藤井専英氏は、これも解釈を放棄しておられる。漢文大系は墨子経説上・荘子天下篇などにより『儀礼』郷射礼篇を参考にして考えると、いにしえは矢を射るに楹(えい。柱)の間を過ぎる、なので矢は行かざるの時がある、すなわち矢は未だ嘗て動かずとしてこの語あるならん、という解釈を示す。よって「楹有牛」は「楹有矢」の誤りか、と言う。これを言い換えれば、射手が射た矢を横から見れば、回廊の楹(はしら)に差し掛かる。その瞬間には、矢は運動していない。運動していないから、楹を通りすぎることができない。つまりギリシャ哲学におけるゼノンの「飛んでいる矢は静止している」のパラドックスと同じ詭弁を指しているのであろう、というのが漢文大系の推測である。古代中国でゼノンのパラドックスと同様の議論があったという証拠を私は浅学にして知らないが、他に適当な解釈が見当たらないので、仮に漢文大系の説を採用しておきたい。
(注13)猪飼補注も指摘するように、これは公孫龍の「白馬は馬に非ず」の説である。三字ずつ三つの詭弁を並べるために、「白」字を省略したのであろう。
(注14)「命」について増注の久保愛は「名」に通ず、と言う。藤井専英氏は正名篇(1)の定義に従って人間に巡り来る者(天命)の意と取る。金谷治氏は命令の意で訳している。藤井説はこの文脈ではやや抽象的すぎるので、金谷説に従いたい。
(注15)増注の久保愛は「論」は「倫」と通ず、と言う。これに従う。
(注16)増注は荻生徂徠を引いて、「埶」は「説(せい)」に作るべし、と言う。
(注17)増注は、「論」は「諭」の誤りで「喩」に同じ、と言う。
(注18)原文「質請」。集解の王念孫は「質」は「本」なり、と言う。増注は「請」と「情」は古音通じる、と言う。情実のこと。
(注19)楊注は、「竄」は「匿」なり、と言う。
(注20)原文「冥窮」。宋本は前に「不」字がある。集解の兪樾は「不」字がない通行本に拠った上で、「窮」は「躬」と読むべし、と言う。「躬(み)を冥(くら)ます」の意に解すれば、(正しい論が天下に行われないときには)天下から身を隠す、という意となるだろう。これは論語泰伯篇「天下道有れば則ち明(あら)われ、道無ければ則ち隠る」、孟子盡心章句上、四十二「天下道有れば道を以て身を殉じ、天下道無ければ身を以て道に殉ず」などで表明される、天下に道なきときは身を潔白にして天下から身を避けるべしという思想を、荀子はここで孔子・孟子にならって述べているのだ、という解釈となるだろう。漢文大系、金谷治氏も兪樾説を取る。しかし新釈の藤井専英氏も指摘するように、上のくだりで「故に辨說(べんせい)するなり」と表明しているように、荀子はこの正名篇で天下に道がないからこそ正論を説かなければならない、と主張している。よって、宋本に依拠すべしという藤井氏の説にあえて賛同したい。

荀子は、儒家以外の諸子百家すべてを邪説として批判する。これらの邪説は社会の言葉を混乱させて、儒家が理想とする王者の国、すなわち法治官僚国家の統治の効率性を乱す。よって、すべて排斥せよ。それが、荀子の言わんとすることである。荀子はその正当性の根拠として、この正名篇において、社会には唯一の効率的で有益な言語体系が存在する、と主張する。邪説はそれに比べて、非効率で無益である。よってこれを禁止しても社会にかえって有益である、と言うのである。

二十世紀のファシストもコミュニストも同様の主張を「祖国のために」「万国のプロレタリアのために」行ったので、荀子の主張は突拍子もない愚論とはいえない。むしろ古代中国の荀子から二十世紀の国家まで、同型の議論が廃れることなく行われてきた、ということに、荀子のような議論には根深い支持者があるのだということを見て取るべきであろう。二十一世紀においても、いずれ国際情勢の変化とともに再び勢いを得る可能性がある。なので荀子の主張は、すぐれて現代的な問題を抱えていると私は考える。彼が戦国時代の悲惨な乱世を終わらせて中華世界に理想の統一国家を打ち立てようと真剣に考えれば考えるほど、時代の正邪を分別してそのうちの邪説を取り除け、という政策を選択せずにはいられなかったのである。ファシズムもコミュニズムも、彼らの主観としては祖国のためあるいは全人類の解放のためになる道を最も真剣に考えて、その結果として邪説を禁止する政策を立てたのであった。荀子もコミュニズムもファシズムも歴史であり、人類の歴史とはどうやら繰り返すものであるようだ。

正名篇第二十二(5)

謙譲する時と場合をよく会得し、長幼の序にはよく従い、言うべきでない言葉を言わず、妖しげな言葉を発せず、仁の心もて説得し、学ぶ心もて人の言を聴き、公共の精神をもって発言し、大衆の賞賛や非難するところに流されず、自己の言動を監視する観客の意向に惑わされることをせず、貴人の権勢にへつらわず、自己への機嫌取りの言葉に喜んでこれを用いたりはしない。正道に就いて離れず、困窮しても心は奪われず、好都合の時期でも浮ついて放埓とならず、公正を尊んで愚かな争いを賤しむ。これが、君子がものを説く姿である。詩(注1)に、この言葉がある。:

夜は長し、漫漫と明けず
思いは永し、はるかさかのぼる
いにしえのこと、ゆめ慢(あなど)らず
礼義のことを、愆(あやま)らぬなら
人の言葉を、何ぞ恤(うれ)えん
(逸詩。原詩は伝わらない)

諸君ら君子は、人の言葉に憂うことはない。

君子の言は、該博な知識を持ちながらも精密であり、常人の言葉どおりでありながら(注2)名称の分類は正しく行われていて、様々に多様でありながらその原理は統一されているものである。君子は名称を正しくし、言辞を妥当にし、これらのことに努めることによって名称・言辞の意義を明らかにする者である。名称・言辞というものは、意義を運ぶ道具である。相手に意義が通じれば、そこで終えるのだ。それ以上細かく検討することは、姦(よこしま)なことである。ゆえに、名称はその実体を指すに足りて、言辞は名称の指すべき中庸な意味を明らかにすることに足りれば、そこで終えるのだ(注3)。ここから外れた名称・言辞は、かえって意味を分からなくさせる。よってこれらは君子が捨てて顧みないものであるが、愚者はかえってこれらを拾って宝のように有り難がる。ゆえに愚者の言は、道理もなくて粗雑であり、むやみに言葉が多いがその名称の分類は無茶苦茶であり、よって多言を次々と費やすばかりなのである。この愚者は誤った言辞に惑わされて、名称の意義を深く理解しない者である。ゆえにどんなに多く言葉を述べても名称の中庸の意味を得ることができず、はなはだ労しても効果は上がらず、貪るように努力しても正しい名称を得ることがない。逆に知者の言は、これを考えるときには分かりやすく、これを行うときには事業がよく安定し、これを保持するときには事業が成り立ちやすいのである。よって知者の言葉を成就させたならば、必ず望むところの結果を得ることになり、嫌うところの結果に陥ることはない。なのに、愚者はこれに反することを行うのである。『詩経』に、この言葉がある。:

物の怪のたぐいであるならば
見えず掴めず、あきらめもしましょうが
あんたは人間ではござんせんか、そこに面目(かお)がありまする
この世間、人を視(み)ないですむ道理とてなし
だからこの恨み歌を作りまして
あんたの外れた心を正しましょう
(小雅、何人斯より)

愚者どもは、この恋歌の意味をよく理解したほうがよい。

およそ治世の道を語る者の中で人間が欲望を捨てることを期待する者は、人間の欲望を統御する対策を考えることなく、ただいたずらに人間が欲望を持つことを悩むだけの者である。およそ治世の道を語る者で人間が寡欲となることを期待する者は、人間の欲望を身分により差別化することを考えることなく、ただいたずらに人間が多欲であることを悩むだけの者である。欲望のある・なしの区分は、人間の属性において同類に属するものではない。それは生存・死亡の区別に属するのであり、つまり生存する状態は欲望があり、死亡した状態は欲望がないのである。よって、人間の欲望が治世・乱世によってなかったりあったりするのではない。また欲望が多い・少ないの区分は、人間の「情」(注4)の程度の差である。よって、人間の欲望が治世・乱世によって多かったり少なかったりするのではない。欲望は、その対象が得られるか否かを待たずに存在する。しかしながら、人間が実際に欲しい対象を獲得するために行動を起こすときには、現実的に可能な手段に従って行うのである。欲望がその対象を得られるか否かを待たずに存在するのは、天から受けた人間の本能である。だが人間が現実的に可能な手段に従うのは、心がこれを判断して選択するものである。[(解釈困難:)天から受けた欲望は、心が認可するところに制御される。よって現実に行動として現れる欲望は、もとより天から受けた欲望と同類とは言い難い](注5)。およそ人が欲するもので、「生きたい」という欲望ほど大きなものはない。また「死にたくない」という欲望ほど大きなものはない。しかし、時によって生を捨てて死を成し遂げる者がいる。これは、生を欲しないで死を欲したのではない。生きられない状況にあって、死ななければならないと心が判断したのである。ゆえに、欲望が多大であっても行動には出さないのは、心がこれを止めているのである。心が認可するところが道理に当たっていれば、その者がたとえ多欲であったとしても、治世を壊すような行動をどうして起こすだろうか?反対に、欲望が寡少であっても過ぎた行動を行ってしまうのは、心がこれを駆り立てているのである。心が認可するところが道理から外れているならば、その者がたとえ寡欲であったとしても、乱世を抑えるような行動をどうして起こすだろうか?ゆえに、世の治乱は心の認可するところに依存するのであって、「情」の欲するところに依存するのではない。本来の原因に求めずして、原因でないところに原因を求めて、「我々は治乱の原因を究明した!」などと言ったところで、実際には治乱の原因を見逃しているのである。人間の「性」(注6)は天が作ったものである。「情」とは、「性」から発現した性質である。欲望とは、「情」の反応である。「欲しい!」と心に衝動が起こったものに対して、これを「得よう!」と考えてこれを求めるのは、「情」の不可避的な現象である。この衝動を「得てもよい」と制御して導くところには、「知」(注7)が必ず作用しているのである(注8)。ゆえに卑賤な門番(注9)であっても、欲望から離れることはできない。欲望は「性」の本来的属性だからである。また富貴の頂点にある天子であっても、(生きている限り欲望は属性として尽きないので)欲望が完全に満ちて何も欲しない、ということにはならない。しかし欲望を完全に満たすことはできないが、ほぼ欲望を満たした状態ならば可能である。欲望を離れることはできないが、獲得可能な欲望を身分により差別化して、現実的に求めることができるものを各人に割り振ることは可能である。欲望を完全に満たすことはできないとしても、身分により現実的に求めることができるものを得るならば、これはほぼ欲望を満たした状態であると言えるだろう。また欲望から離れることはできないとしても、身分により現実的に求めることが許される欲望を限ったならば、求めるものが得られていない、とは考えないように仕向けることはできるのだ。人が正道を行くならば、身分の上に進めばほぼ欲望を満たすことができて、身分の下に退くならば分相応の欲望に己の求めるものを縮小させるものなのである。天下において、この原理以上に欲望を統御する道はない。


(注1)この詩は逸詩であり、本文は伝わらない。同じ詩からの引用が、天論篇にもある。天論篇(2)注8参照。
(注2)原文「俛然(ふぜん)」。俯して従う様という。常人大衆の言葉に従う、という意味。
(注3)以上の荀子の言葉は、論語衛霊公篇「子の曰く、辞は達するのみ」を想起させる。
(注4)正名篇(1)の「情」の定義参照。「情」は人間の動物レベルの生命活動で沸き起こる衝動であり、人によって多かったり少なかったりするが、宋鈃の徒が主張するように政治によって多かったり少なかったりするような性質のものではない、と荀子は言いたいのである。
(注5)下の注15参照。
(注6)これも正名篇(1)の「性」の定義参照。
(注7)これも正名篇(1)の「知」の定義参照。だがむしろここでは「知」よりも「智」の語を用いたほうがよいと思われる。
(注8)この議論を、富国篇の社会契約説と参照させよ。そうすれば荀子の社会契約説が人間の無限の欲望と国家の制御との折り合い点を目指したものであることが分かるだろう。
(注9)原文「守門」。城市の門番のこと。門番は城市内部の住民よりも卑賤な地位とみなされた。
《原文・読み下し》
辭讓の節は得、長少の理は順(したが)い、忌諱を稱せず、祅辭(ようじ)を出さず。仁心を以て說き、學心を以て聽き、公心を以て辨ず。衆人の非譽(ひよ)に動かされず、觀者の耳目に治(まど)わされず(注10)、貴者の權埶(けんせい)に賂(こ)びず、傳辟者(べんぺいしゃ)(注11)の辭を利とせず。故に能く道に處して貳(じ)せず、吐(くつ)して(注12)奪われず、利して流(りゅう)せず、公正を貴びて鄙爭(ひそう)を賤む。是れ士君子の辨說(べんぜい)なり。詩に曰く、長夜漫たり、永思騫(けん)たり、大古を之れ慢らず、禮義を之れ愆(あやま)らずんば、何ぞ人の言を恤(うれ)えん、とは、此を之れ謂うなり。
君子の言は、涉然(しょうぜん)として精(くわ)しく、俛然(ふぜん)として類し、差差然として齊し、彼れ其の名を正にし、其の辭を當(とう)にし、以て務めて其の志義を白(あきら)かにする者なり。彼の名辭なる者は、志義の使なり。以て相通ずるに足れば、則ち之を舍(お)く。之を苟(まこと)にするは、姦なり。故に名は以て實を指すに足り、辭は以て極を見(あら)わすに足れば、則ち之を舍く。是に外るる者は、之を訒(じん)と謂う。是れ君子の棄つる所にして、愚者拾いて以て己が寶(たから)(注13)と爲す。故に愚者の言は、芴然(こつぜん)として粗、嘖然(さくぜん)として類せず、誻誻然(とうとうぜん)として沸く。彼れ其の名に誘われ、其の辭に眩(まど)わされて、其の志義に深きこと無き者なり。故に窮藉(きゅうそ)して極無く、甚だ勞して功無く、貪りて名無し。故に知者の言や、之を慮(おもんぱか)るに知り易きく、之を行うに安んじ易く、之を持するに立ち易きなり。成れば則ち必ず其の好む所を得て、其の惡(にく)む所に遇わず。愚者は是に反す。詩に曰く、鬼と爲り蜮(いき)と爲れば、則ち得可からず、靦(てん)たる面目有り、人を視ること極まり罔(な)し、此の好歌(こうか)を作りて、以て反側を極む、とは、此を之れ謂うなり。
凡そ治を語りて欲を去ることを待つ者は、以て欲を道(おさ)むること無くして欲有るに困(くる)しむ者なり。凡そ治を語りて欲を寡くするを待つ者は、以て欲を節すること無くして欲多きに困しむ者なり。欲有ると欲無きとは、異類なり、生死なり、治亂に非ざるなり。欲の多寡は、異類なり、情の數なり、治亂に非ざるなり。欲は得可きを待たずして、而(しこう)して求むる者は可とする所に從う。欲の得可きを待たざるは、天に受くる所なればなり。求むる者の可とする所に從うは、心に受くるところなればなり(注14)。[天に受くる所の[一]欲は、心に受くる所の多(か)に制せられて、固(もと)より天に受くる所に類し難し。](注15)人の欲する所は生を甚しとす、人の惡(にく)む所は死を甚しとす。然り而(しこう)して人(ひと)生を從(す)てて死を成す(注16)者有るは、生を欲せずして死を欲するに非ず、以て生く可からずして以て死す可ければなり。故に欲之を過ぎて動及ばざるは、心之を止むればなり。心の可とする所理に中(あた)れば、則ち欲多しと雖も、奚(なん)ぞ治を傷(やぶ)らん。欲及ばずして動之に過ぐるは、心之を使(せし)むればなり。心の可とする所理を失えば、則ち欲寡しと雖も、奚ぞ亂を止めん。故に治亂は心の可とする所に在りて、情の欲する所に亡(な)し。之を其の在る所に求めずして、之を其の亡き所に求むれば、我之を得ると曰うと雖も、之を失す。性なる者は、天の就せるなり。情なる者は、性の質なり。欲なる者は、情の應なり。欲するを以て得可しと爲して之を求むるは、情の必ず免れざる所なり。以て可と爲して之を道(みちび)くは、知の必ず出ずる所なり。故に守門(しゅもん)爲(た)りと雖も、欲は去る可からず、性の具なればなり。天子爲(た)りと雖も、欲は盡(つく)す可からず。欲盡す可からずと雖も、以て盡すに近づく可きなり。欲去る可からずと雖も、求(きゅう)は節す可きなり。欲する所盡す可からずと雖も、求むる者は猶お盡すに近し。欲去る可らずと雖も、求むる所得ざるを慮(おもんぱか)らざる(注17)者は、欲求(きゅう)を節すればなり。道なる者は、進めば則ち盡すに近づき、退けば則ち求を節す。天下之に若(し)くは莫きなり。


(注10)集解の王念孫は、「治」は「冶」となすべきであり、「冶(や)」は「蠱(や)」と古字で通じたと言う。まどう。訳では新釈に従い、受身形で解釈した。
(注11)冢田虎『荀子断』は「傳」を「便」に作るべしと言う。
(注12)集解の兪樾は「吐」は「咄」たるべし、と言う。
(注13)宋本は、「寶」が「實」となっている。
(注14)原文「受乎心也」。増注は、「受」の上に「所」字が脱けるに似たり、と言う。これに従い、「所」字を入れるように読み下す。
(注15)楊注は、この一節未詳にして、あるいは恐らく脱誤あるのみと言う。漢文大系はこれを受けて、「恐らくは後人の傍(かたわら)に加えしものの本文中に誤り入りたるものなるべし」とみなして解釈を行わず、「これを強解する者は曲説たるを免れず」、と言う。楊注或説、集解の兪樾および郭嵩燾、新釈の藤井専英氏、金谷治氏と各説を立てているが、猪飼補注は「一」字を衍とみなして「多」字を「可」とみなす。これは各氏の複雑な解釈を避けた最もすっきりとした解釈であると、私は考える。なので猪飼説を支持したいが、訳ではいちおう猪飼説に従った訳を置いて、なおかつ解釈困難な旨を付記する。
(注16)原文「從生成死」。漢文大系は「生くるの道によりて死に到るなり、蓋し其道を誤るによりて生を求めて生くるべからざるなり」と注している。この「從」について猪飼補注は「舍」に作るべし、と言う。新釈も冢田虎の「從」は「縦」なり、の説を引いて、「すてる」の意味で「從」を解釈している。前後の文脈から猪飼補注・新釈の説を取りたい。
(注17)前後の原文を示せば、「所求不得慮者欲節求也」。金谷治氏は梁啓超の説を取って、「求むる所は得ず。慮なる者は求めを節せんと欲す」と読み下す。しかしこの説は、前の文との対句表現が崩れてしまうのが難点である。新釈の藤井専英氏は「慮」字を「旅、衆」の意味と解して「求むる所慮(おお)きを得ざる者は、欲求を節すればなり」と読み下す試案を立てている。猪飼補注は疑うは誤りありと言って、「所求慮不得者欲節求也」のように並び替えて「不」字を挿入する。漢文大系は「不」「慮」を読まず「求むる所得る者は、欲求を節すればなり」と読む。いずれも一長一短であるが、猪飼説を取りたい。

諸子百家の立てる名称が有害無益であることを説いた後で、君子が正しい名称を認識して用いる姿を描く。勧学篇以下の各篇で、荀子は君子のあるべき姿を推奨した。そのうち君子の用いる言葉に関する点を、ここで再度取り上げている。孔子は「巧言令色、鮮(すくな)きかな仁」(学而篇)と言い、「辞は達するのみ」(衛霊公篇)と言った。これらの短い格言の集まりである『論語』だけを取り上げて読む者は、孔子のこのような金言を読んで「なるほど真理には多言は無用だ」、と得心するものだ。だがその孔子の後継者たちの論文集である『礼記』などを読むと、長大にして多言である。荀子もまたここで君子は必要な言葉だけ用いなければならない、などと言っておきながら、この『荀子』に収録された論文集は先秦時代の中国思想において屈指の長大さを誇る。プロレタリアートの素朴な連帯感が世界を変える、と期待したマルクスは、プロレタリアートには到底理解できそうにもない難解かつ長大な論文を著したのであった。孔子は上のような言葉を残したかもしれないが、孔子学派は決して「辞は達するのみ」で言葉を切るような訥弁者ではない。

その後には、正論篇(7)および(8)に続いて再び宋鈃(そうけい)説への批判があらわれる。荀子は諸子百家の中でも、とりわけ墨子と宋鈃への批判に多くの文章を費やしている。これは、彼らの主張が荀子の理想とする王者の制、すなわち法治官僚国家のシステムと衝突する主張を立てるために、荀子はこれらを最大の敵として体系的に論破することを試みたのであろう。墨子の説は、法治官僚国家が前提とする身分秩序の差別を批判する。それに対する反批判は、さきの富国篇(3)で試みられた。宋鈃の説は、荀子の統治論の根幹を成す性悪説と衝突する。なぜならば荀子は人間の本性は悪=欲望的存在であるとみなすのであるが、そこから偽=人為を用いて善に化した君子が統治階級として国家を運営し、本性=悪のままの被統治階級の欲望を礼義によって制御するところに、国家の正統な秩序を見るからである。いっぽう宋鈃は、人間の本性を寡欲とみなす。もしそれが正しいのであるならば、社会は宋鈃の寡欲思想が普及してしまいさえすれば、君子の運営なしでも安定することとなるだろう。荀子としては、これを虚妄とみなさなければならない。正名篇に続く性悪篇では、荀子は孟子を主要な敵として人間の本性論を展開するのであるが、表面上の敵は孟子であっても、その背後にある敵は宋鈃と墨子であったはずである。

正名篇第二十二(6)

およそ人は心が「よい」とするところに必ず従って、「よくない」とするところを必ず去るものなのである。正道よりよい選択肢がないことを知っておりながら、正道に従わない者は、ありえないのである。これを喩えるならば、ある人がいて南に行きたいのだが道は遠く、北に行きたくないのだが道は近い。さてその者がたとえ南への道はたどり着くことすら難しいからといって、南に行かずして北に走ることがあるだろうか(注1)?今、人がその欲するところの困難が多くて憎むところの困難が少ないからといって、その者がたとえ欲することを得尽くすことが困難だからといって、欲するところから離れて憎むところを取るだろうか?ゆえに、正道をよしとしてこれに従うならば、どうして正道が損なわれて乱れることがありえようか。逆に正道をよくないとしてここから離れたならば、どうして正道が盛んとなって治まることがありえようか。ゆえに知者は正道だけを論ずるのであり、卑小な諸子百家どもの珍説はいずれすべて当たらずに衰えるしかないのである。およそ人が何かを取り上げるとき、欲するところのものが完全純粋の状態で手に入るようなことは決してない。またおよそ人が何かを失うとき、憎むところのものが完全純粋の状態で失うようなことは決してない。ゆえに人は行動するときには、常に基準を持ってそれで正邪を計らなければならないのである。衡(てんびん)が狂っていると、重い側が上を向いて人はそちらが軽いと誤認し、軽い側が下を向いて人はそちらが重いと誤認する。これが、人が軽重を間違う理由なのである。人間も同じであり、その基準が狂っていたならば、実は禍(わざわい)であるのに一見欲するところに見えてしまって、人はそちらを福への道と誤認し、実は福であるのに一見憎むところに見えてしまって、人はそちらを禍への道と誤認する。これまた、人が禍福を間違う理由なのである。正道というものは、古今通用の正しい基準なのである。正道を離れて主観だけで選択すれば、どちらに禍福があるかどうかを知ることができないだろう。交換の際に一個を渡して一個を受け取るならば、人は得も損もしなかったとみなす。一個を渡して二個を受け取るならば、人は損がなくて得をしたとみなす。二個を渡して一個を受け取るならば、人は得がなくて損をしたとみなす。このように、計算を実行する者は「多い」方を必ず選ぶ。同様に、熟慮する者は「よい」道に必ず従うのである。二個を渡して一個を受け取るようなことを人は決してしないのは、数量の多寡をよく見ているためである。正道に従って行動するのは、さながら一個を渡して二個を受け取るようなものである。失うものは何もなく、得だけがある。逆に正道を離れて主観だけで選択する者は、さながら二個を渡して一個を受け取るようなものである。得るものは何もなく、損だけがある。だが人は長年欲する道を積み重ねてきたにもかかわらず、一時の正道から外れた快楽でそれを捨ててしまうことがある。それは、損得禍福の計算がうまくできないからなのである。

いま、試みに心の察し難い深奥を見てみよう。心が正道の理を軽んじる者で、外物を重んじない者はいない。外物を重んじる者で、心の中が憂いがない者はいない。行動が正道の理から外れている者で、自分の外の世界において危険な状態にない者はいない。自分の外の世界において危険な状態にある者で、心の中が恐怖していない者はいない。心の中が憂いて恐怖していれば、口に美味なる肉料理を含んでいても、その味がわかることはない。耳に鐘や鼓の音楽を聴いていても、その音楽がわかることはない。目にあでやかな文様の衣装を見ていても、その形がわかることはない。軽くて暖かい衣を着て豪華な敷物に座っていたとしても、その安楽さがわかることはない。ゆえに、万物の美を一身に受けても、ぜんぜん満足できないのである。たとえ一時なりとも快楽に逃げようとしたとしても、憂いと恐怖から離れることは決してできないのである。こうして万物の美を受けて心中には憂いがあり、万物の便利を受けて身体には害が迫るのである。このような者が、どうやって物を求めて、己の生を養い、長寿を得ることができようか?このような者は、己の欲を導こうとして情の衝動の赴くがままに行うばかりであり、己の生命を育てようとして身体を危うくするばかりであり、己の楽しみを導こうとして己の心を攻め立てるばかりであり、己の名声を育てようとして乱れた行動に出るばかりなのである。このような者は、諸侯に封じられようが君主に就こうが、盗賊が隠れて悪事を行っていることなんら変わることがない。爵位に応じた馬車に乗って絻(かんむり)を被ろうが、足切り刑を受けた者が車に載せられていることと何ら変わることがない。これが、「自己を外物に使役させてしまう」というのである。

しかし心の中が平安で楽しければ、外物の色彩が十分に備わっていなくても、目の保養には十分となる。外物の音楽が十分に備わっていなくても、耳の楽しみには十分となる。粗末な飯と野菜スープだけでも、口を養うには十分となる。粗末な布で作った衣と靴だけでも、肉体の保全には十分となる。狭い部屋に蘆(あし)の簾(すだれ)を掛けて草と藁の敷物で座席を作るだけでも、身体を落ち着けるには十分となるのだ(注2)。ゆえに、万物の美がなくても楽しむことができるのであり、位階爵位がなくても名声を高めることができるのである。このような人に天下の政治を行わせたならば、彼は天下のためになす事業は大きく、己の快楽のためになすことは大したものではないだろう。これが、「自己を重んじて外物を使役する」というのである。熟慮のない言葉と、聖人に見られない行動と、聖人には聞かれない考えは、君子たるものこれを謹むのである。


(注1)この喩えは、文意は分かるのであるが、どうして南が肯定的に評価されて北が否定的に評価されるのか、その含意がどうも腑に落ちない。ひょっとしたら、君主として「南面」することと臣下として「北面」することの含意があるのかもしれない。「君主として南面するための道は遠いが、それでも人は欲するものである。臣下として北面する道はたやすいが、それでも人は嫌うものである」といった喩えであろうか?
(注2)明らかに論語雍也篇および述而篇の言葉を連想させる。下のコメント参照。
《原文・読み下し》
凡そ人は其の可とする所に從いて、其の不可とする所を去らざること莫し。道の之に若(し)くこと莫きを知りて、道に從わざる者は、之れ有ること無きなり。之を假(たと)うるに人有りて、南せんと欲して多とすること無く、北するを惡(にく)みて寡(すく)なしとすること無くんば(注3)、豈に夫(か)の南の者の盡す可からざるが爲に、南行を離れて北走せんや。今人欲する所は多とすること無く、惡む所は寡しとすること無くんば、豈に夫の欲する所の盡す可からざるが爲に、欲するところを得るの道を離れて、惡む所を取らんや。故に道を可として之に從わば、奚(なに)を以て之を損して亂れんや。道を不可として之を離るれば、奚を以て之を益(ま)して治らんや。故に知者は道を論ずるのみ、小家・珍說の願う所は皆衰えん。凡そ人の取るや、欲する所未だ嘗て粹にして來らず、其の去るや、惡む所未だ嘗て粹にして往かざるなり。故に人は動(どう)として權と俱(とも)にせざること無し(注4)。衡正しからざれば、則ち重(じゅう)仰に縣りて、人以て輕しと爲し、輕(けい)俛(ふ)に縣りて、人以て重しと爲す。此れ人の輕重に惑う所以なり。權正しからざれば、則ち禍欲するとところに託して、人以て福と爲し、福惡むところに託して、人以て禍と爲す。此れ亦人の禍福に惑う所以なり。道なる者は、古今の正權なり。道を離れて內自から擇べば、則ち禍福の託する所を知らず。易うる者一を以て一に易うれば、人は得も無く亦喪も無きなりと曰う。一を以て兩に易うれば、人は喪無くして得有るなりと曰う。兩を以て一に易うれば、人は得無くして喪有るなりと曰う。計(かぞ)うる者は多しとする所を取り、謀る者は可とする所に從う。兩を以て一に易うるは、人之を爲すこと莫きは、其の數を明(あきら)かにすればなり。道に從いて出すは、猶お一を以て兩に易うるがごときなり。奚(なに)をか喪わん。道を離れて內自ら擇ぶは、是れ猶お兩を以て一に易うるがごときなり。奚をか得ん。其れ百年の欲を累ねて、一時の嫌に易う。然も且つ之を爲すは、其の數を明かにせざればなり。有(また)嘗試(こころみ)に深く其の隱れて[其]察し難き者を觀るに、志は理を輕んじて物を重んぜざる者は、之有ること無きなり。外に物を重んじて內(うち)に憂えざる者は、之有ること無きなり。行は理を離れて外(そと)危からざる者は、之れ有ること無きなり。外に危くして內に恐れざる者は、之れ有ること無きなり。心憂恐(ゆうきょう)すれば、則ち口に芻豢(すうけん)を銜(ふく)みて其の味を知らず、耳に鐘鼓(しょうこ)を聽きて其の聲を知らず、目に黼黻(ほふつ)を視て其の狀を知らず、輕煖・平簟(へいてん)にして體(たい)其の安を知らず。故に萬物の美を嚮(う)けて嗛(きょう)とすること能わざるなり。假而(たとい)問(かん)(注5)を得て(注6)之を嗛とするも、則ち離るること能わざるなり。故に萬物の美を嚮けて憂を盛(な)し(注7)、萬物の美を兼ねて害を盛(な)す(注7)。此(かく)の如き者は、其れ物を求めんや、生を養わんや、壽を粥(やしな)わんや。故に其の欲を養わんと欲して其の情を縱(ほしいまま)にし、其の性(せい)(注8)を養わんと欲して其の形を危くし、其の樂(たのしみ)を養わんと欲して其の心を攻め、其の名を養わんと欲して其の行を亂る。此の如き者は、侯に封ぜられ君を稱すと雖も、其れ夫の(注9)盜と以て異ること無く、軒(けん)に乘り絻(べん)を戴くも、其れ足(あし)無き(注10)と以て異なること無し。夫れ是れを之れ己を以て物の役と爲ると謂う。心平愉(へいゆ)なれば、則ち色傭(そなわ)る(注11)に及ばずして以て目を養う可く、聲傭わる(注11)に及ばずして以て耳を養う可く、蔬食(そし)・菜羹(さいこう)にして以て口を養う可く、麤布(そふ)の衣、麤紃(そしゅん)の履(り)にして、以て體を養う可く、屋室(きょくしつ)(注12)、廬庾(ろれん)(注12)、葭稾(かこう)の蓐(じょく)、机筵(きえん)を尚(くわ)えて、以て形を養う可し。故に萬物の美無くして以て樂を養う可く、埶列(せいれつ)の位無くして以て名を養う可し。是(かく)の如くにして天下に加うれば、、其の天下の爲にすることは多くして、其の和樂(わらく)することは少し。夫れ是れを之れ己を重んじて物を役すと謂う。無稽の言、不見の行、不聞の謀は、君子は之を愼む。


(注3)金谷治氏の読み下しに従った。新釈の藤井専英氏は、「無」字を「雖」と同じと言い「いえども」と読み下している。
(注4)原文「故人無動而[不可以]不與權俱」。増注本は元本に拠って「不可以」を除く。これに従って読み下した。宋本に拠る新釈はここを「故に人は動と無く、以て權と俱にせざる可からず」と読み下している。
(注5)集解の王念孫は、「問」は「間」となすべし、と言う。
(注6)集解本の原文は、「假而得問」。増注本は元本に従って「而得」を省いて「問」を己人に問う、と解するが、上の王念孫の解釈に従い「問」を「間」とみなして「而得」をあるものとして読み下す。
(注7)原文「盛憂」、「盛害」これを「さかんにうれい」「さかんにがいす」と読むこともできる。新釈は荀子の他箇所の諸氏注釈を引いて、ここでの「盛」を「成」と読む。これに従う。
(注8)新釈も指摘するように、この「性」字は「生」のことである。
(注9)原文「夫盗」。増注本は元本に従い「夫」字を削る。だが「夫盗」「無足」と二字で対比させるために、宋本に拠り「夫」字を加える。
(注10)原文「無足」。解釈は二つに分かれる。集解の盧文弨および増注の久保愛は、不足・窮乏者のことと見る。この場合、「足る(こと)無き」と読み下すであろう。集解の兪樾は刖者(げつしゃ)、つまり足切りの刑を受けた者と見る。新釈の藤井専英氏・金谷治氏は、盧文弨・久保愛説を取っていて、漢文大系は兪樾説を取っている。「無足」は「夫盗」と対比されているので、兪樾説に従いたい。
(注11)増注は解蔽篇の「目は備色を視、耳は備聲を聽き」を引いて、「傭」は「備」に作るべし、と言う。これに従う。
(注12)集解の王念孫は、初学記器物部に「局室蘆簾稾蓐」とあることを引いて、「屋室」は「局室」であり「廬庾」は「蘆簾」であると言う。局室はせまい部屋、蘆簾は蘆(あし)の簾(すだれ)のこと。これに従う。

この正名篇の末尾において、荀子の主張にはついに矛盾が表れるようである。愚者は心を正道に従って養わないので、快楽を十分に楽しめないという。逆に君子は正道に従って心を養うので、快楽を十分に楽しむことができて、少しの快楽しか与えられなかったとしても、それを味わい尽くすことができるという。孔子は、最愛の弟子である顔回のことを、「なんと顔回は賢人であることよ!お櫃の飯一杯とヒョウタンの飲み物一本しかなく、貧民街のあばら家に住み、普通の人ならばその憂いに耐えられない。しかし顔回はその楽しみを変えない。なんと顔回は賢人であるよ!」(雍也篇)と絶賛した。孔子もまた「まずい飯に水だけ飲んで、肘を曲げて枕にして寝る。楽しみはその中にもあるものだ。不義によって富貴を得るなどは、私にとって浮雲のようにはかないものだよ」(述而篇)と言った。荀子の君子の心は、顔回・孔子のこのような境地を指しているはずである。

だが、それこそが宋鈃の言う「寡欲」なのではないだろうか?人間は精進して君子になれば、外物から得られる欲望など構わなくなり、顔回・孔子のように心が充実して楽しめるのである。宋鈃は、すべての人間が君子になれば、外物への欲望に執着しなくなって平和が訪れる、と言いたかったのではないだろうか?荀子はこの正名篇において、人間の「性」と「情」は常に多欲であるが、精進することによって心を充実させれば「性」と「情」が「偽」によって矯正されて、結局「寡欲」となることを認めてはいないだろうか?

荀子は、選ばれた者しか「偽」を完全に身につけて君子となることができない、ということを前提にしているのである。「偽」を完全に身に付けた少数者が、法治官僚国家の統治階級に昇る。それ以外の被統治階級は「性」のまま「情」のままであり、これは上から礼法により「偽」の枠をはめ込んで統御するしかない。荀子は、一般大衆すべてが「偽」を十分身に付けることによって君子レベルの美徳を獲得するという社会を、どうやら想定していない。荀子の理想社会では、いつまで経っても君子と大衆とは隔絶しているのである。

いっぽう宋鈃は、より一般大衆の美徳を信用している。だから、これを啓蒙して人間が「寡欲」で十分に満足できることに目覚めよ、と説く。荀子は、いわばエリートである君子が目覚めて前衛となり、大衆を上から統御する路線である。いっぱう宋鈃は、いわば大衆全体の啓蒙を目指す、草の根から社会を改造する路線である。宋鈃のアプローチで政治を描くことも、その理想が本当に実現できるか否かの問題はさておいて、理論的には可能なはずだ。荀子は人間が「性」・「情」・「偽」を普遍的に持つことを論じながら、すべての人間が「偽」を身につけて君子となることを非現実的であると斥ける。これは現実の統治論を描くために必要な前提であったとしても、理論的には矛盾と言えないだろうか?

続いて、最も有名な性悪篇第二十三に移る。性悪篇の直前に正名篇を置いたのは、唐代に『荀子』を校訂した楊倞である(楊倞版とそれ以前の劉向版との各篇の順番の相違については、各篇概要のページを参照)。この編集は、全く適切である。正名篇において、「性」が明確に定義された。つまり、この「性」という一語は、人間の自然そのままの状態、動物的本能を指す。それを受けて性悪篇が展開されるので、荀子の主張は明確となる。孟子の性善説がいう「性」と荀子の性悪説が言う「性」は、人間が本能レベルで所有している属性に対して、違う定義を行っているのである。

【次は、「性悪篇第二十三」を読みます。】

解蔽篇第二十一(1)

およそ人のわずらいとは、心が一方に偏った邪説に蔽(おお)われて大きな真理に暗くなるところにある。心をよく治めることができれば、正道に復帰することができるだろう。だが心が邪説に揺れて疑いを持ってしまうと、心は惑うばかりである。天下には、二つの正道はない。聖人は、二心に惑うことはない。だが今どきの諸国は政治をてんでばらばらなやり方で執っていて、諸子百家がてんでばらばらな説を立てる。こうなれば、こちらの説が正しいと主張するならばあちらの説は間違いということになり、こちらの説で国が治まるのであればあちらの説では国が乱れるということになる。乱れた国の君主、乱れた家の家長といえども、誠心誠意に正道を求めて自らの国や家をなんとか整えようと思ってはいるのである。だがその過程で妬んだり間違ったりして心が乱れると、そこに邪説を立てる者が現れて、己の守備範囲の主張を並び立てて誘惑するのである。そうして邪説の者にすっかり取り込まれて、邪説に従った対策を積み重ね、それにこだわるようになってしまい、ついにその弊害を聞かされることを恐れるようになるのだ。己がこだわる邪説から他の説を見るようになれば、ついに他説の利点を聞かされることを恐れるようになるのだ。こうして彼らは国や家を治める道から離れ去ってしまい、それなのに己を是としてやむことがない。なんとまあ邪説に心蔽われて、正道を求めたいという初心を失った哀れな姿であることよ。己の心を主体的に働かせることができなければ、目の前に白と黒があったとしても、目はそれを白と黒だと識別しようとしない。真横で雷や太鼓が鳴ったとしても、耳はそれを聞こうとしない。ましてや、心が邪説に蔽われていては、正しい認識などできはしない。世の中がこうして邪説に蔽われているので、そんな時代に正道を得た人は、上では乱れた国の君主に罵られ、下では乱れた家の家長に罵られるのである。なんと哀しいことではないか。

何が、心を蔽うのであろうか?欲が、心を蔽う。憎しみが、心を蔽う。初めてやることであると、心が蔽われる。最後の仕上げの段階に至ると、心が蔽われる。疎遠な存在だと、心が蔽われる。身近すぎると、心が蔽われる。いろいろと知りすぎると、心が蔽われる。あまりに知らなすぎると、心が蔽われる。時代が古すぎると、心が蔽われる。時代が新しすぎると、心が蔽われる。およそ万物はさまざまなのであるから、一つのことに心が蔽われると、他のことにも心が蔽われて、互いが互いを蔽うことになる。これが、心を治める術にとって、共通の悩みなのである。

《原文・読み下し》
凡そ人の患(かん)は、一曲に蔽(おお)われて、大理に闇(くら)きことなり。治むれば則ち經に復し、兩疑すれば則ち惑う。天下に二道無く、聖人に兩心無し。今諸侯政を異にして、百家說を異にすれば、則ち必ず或は是(ぜ)にして或は非、或は治にして或は亂なり。亂國の君、亂家の人も、此れ其の誠心は、正を求めて以て自ら爲(ため)にせざること莫きも、道に妬繆(とびゅう)して、人其の迨(およ)ぶ(注1)所を誘うなり。其の積む所に私し、唯(ただ)其の惡を聞かんことを恐るるなり。其の私する所に倚(よ)りて、以て異術を觀て、唯其の美を聞かんことを恐るるなり。是(ここ)を以て治と雖走(りそう)(注2)して、己を是として輟(や)まざるなり。豈(あ)に一曲に蔽われて、正を求むることを失するならずや。心焉(ここ)に使(し)せざれば、則ち白黑前に在るも目見えず、雷鼓側に在るも耳聞かず、況(いわん)や使(へい)せらるる(注3)者に於ておや。道を德(う)る(注4)の人は、亂國の君は之を上に非(そし)り、亂家の人は之を下に非る。豈に哀しからずや。故(なに)か(注5)蔽を爲す。欲蔽を爲し、惡蔽を爲し、始蔽を爲し、終蔽を爲し、遠蔽を爲し、近蔽を爲し、博蔽を爲し、淺蔽を爲し、古蔽を爲し、今蔽を爲す。凡そ萬物異なれば、則ち蔽を相爲さざること莫し。此れ心術の公患なり。


(注1)集解の郝懿行は、「迨」は「及」なり、と言う。
(注2)楊注は「雖」はあるいは「離」に作る、と言い、増注・集解の郝懿行もそうするべしと言う。
(注3)集解の兪樾は、この「使」は「蔽」の誤りである、と言い、上の「心焉に使せざれば」の句に引きずられて誤ったのであろう、と言う。これに従う。
(注4)増注・集解の王念孫は、「德」は「得」に作るべし、と言う。
(注5)集解の兪樾は、「故」は「胡」と同じである、と言う。「なにか」。

【この篇は、「正論篇第十八」の後に読んでいます。】

解蔽篇は、人間の心が真理を得る道を述べている。哲学において真理を得る道は、いくつか示されている。世界には絶対真理のイデアが存在して、それを人間は理性を働かせることによって捉えることができるし、捉えなければならない。これは、プラトンの言うところである。人間は認識を行うために先天的にメガネを掛けられていて、そのメガネを通して見える認識の範囲内でしか真理・誤謬を確定できない。メガネを外した先にある物自体は人間にとって憶測以上のことを言うことができない。これは、カントの言うところである。世界の真理は人間の争いを通じて歴史的に少しずつ明らかになる。歴史上の人間は、理性の狡知に踊らされて戦うことによって結果として真理を遺していく道具である。これは、ヘーゲルの言うところである。荀子は、どのように真理を得るというのだろうか。

解蔽篇を一読して私が思ったことは、ここでの荀子の議論が朱子学の議論に酷似しているということである。荀子も朱子学も、この世界には絶対真理があると考えるプラトニストである。そしてその真理を得るための方法は実験による検証ではなく、心を静かに落ち着けて瞑想することによって見出される、という非実験的な、いわば悟りの境地のようなことを言う。朱子学はその倫理的側面はいざしらず、世界認識の方法にはいささかの現代性もない。歴史的中国社会という特殊を人類全体の普遍であると断定するところから、すでにその思想は普遍性を消失しているのである。同様に、荀子は歴史的中国社会に固有の正道を、絶対真理とする。それは、荀子の時代に統一帝国を築くためには役立つ正論を導いたかもしれないが、時代と文化を異にしたこの二十一世紀の時代に対しては、荀子のこの解蔽篇の論議に見るべき現代的意義は何もないと私は考える。

それでも、この解蔽篇は続く正名篇のイントロダクション的意義を持っている。絶対的真理が確かに存在し、それを君子は把握できるという前提に立ってこそ、正名篇において真理から外れた異端の概念は国家が禁絶しなければならない、という主張に繋ぐことができるからである。したがって、退屈ではあるがこの解蔽篇を一応は読んでおきたい。真理の確定方法をこの解蔽篇の方法とは違ってより現代的な方法に変えたならば、現代において善悪を国家の法が定義することが一面ではやむをえないことでありながらも、それには必ず弊害が伴うことが見えてくるはずである。