正名篇第二十二(2)

By | 2015年5月26日
ゆえに、王者が名を制定するならば、名称が定められて諸物が区分され、正道が行われて人間どうし意思が通ずるようになる。このように王者は名称と正道を制定することによって慎重に人民を率いて、これを斉一にするのである。ゆえに、言葉をむやみに分解詮索していじくり回し、勝手に名称をこしらえ、これによって正しい名称を乱し、人民に疑心を植え付け、人間に論争を多くさせるような者は、大姦と言うべきである。この者の罪は、いわば契約書偽造・度量衡偽造の罪に等しいのである。ゆえに人民は、このような大姦を信じて奇怪な言葉を使って正しい名称を乱すような行為を、あえて行おうとはしないのである。このような人民こそが誠実というものであり、誠実な人民だから国家はこれを使用しやすく、使用しやすいゆえに功績も挙がるのである。人民は、奇怪な言葉を使って正しい名称を乱すような行為を、あえて行わない。ゆえに国家の法に斉一に従い、国家の命令に謹んで従うのである。このようであれば、功績は長久であろう。功績が長久に挙がるのは、治の極地である。これが、正しい名称を各人が謹んで守ることの効能なのである。

だが、今や聖王は没していなくなり、正しい名称を守ることはおろそかとなり、奇怪な言葉が沸き起こり、名称と諸物の対応関係が乱れ、是非の区別が不明確となってしまっている。このような世では法令を守る官吏たちも、礼義の正道を唱える儒者たちも、混乱するばかりである。いまもし王者が起こることがあれば、必ずかつての時代の古い名称を参照して、適切な新しい名称を制定することであろう。ゆえに、(1)正しい名称を定めることの必要性、(2)名称によって諸物の同異をはっきり定めることの必要性、そして(3)名称を定める基準、これら三者は必ず深く理解しておかなければならない。

(1)もし形が異なった二つのものについて、各人がてんでばらばらに独自の理解をしたら、どうなるか?もし異なった二つの対象について、名称とそれが名付ける対象とが混乱して絡み合ってしまったら、どうなるか?もし身分高い者と身分低い者とが区別されなくなってしまったら、どうなるか?もし同一と相違とが区別できなくなってしまったら、どうなるか?このようなことになってしまったならば、各人の意思の疎通は不可能となり、国家の事業は何も成し遂げられなくなるであろう。それは、災難である。ゆえに智者は、名称にはっきりと分別を立て、名称を制定してそれらが示す諸物との対応関係を定め、貴賤を明らかにして同異を区別するのである。貴賤が明らかとなり同異が区別されるならば、意思が通じなくなる災難はなくなり、国家の事業が成し遂げられなくなる災難もなくなるだろう。これが、正しい名称を定めることの必要性である。

(2)では、何に従って諸物の同異を定めるべきであろうか。それは、人間天与の五官に従うべきである。およそ同一の類にあって同一の「情」(注1)が沸き起こるものについては、人間の五官は同一の感覚を受け取るものである。ゆえに、五官が感じた感覚が似通っている現象に対しては、これをとりまとめて、同一の名称を付けて共通語となすのである。これが、名称を共通させて動かさない理由である。ものの形、色、パターンは、目によって区別される。ものの音声、清音、濁音、細音、巨音、あるいは奇怪な音声は、耳によって区別される。甘味、苦味、塩味、薄味、辛味、酸味、あるいは奇怪な味は、口によって区別される。よい香り、臭い香り、香草の香り、生臭さ、油臭さ、腐敗臭、あるいは奇怪な臭いは、鼻によって区別される。痛み、かゆみ、冷たさ、熱さ、なめらかさ、ざらざらした感触、軽さ、重さは、身体の感覚によって区別される。論説、よろこび、怒り、哀しみ、楽しみ、愛着、憎悪、欲望は、心によって区別される。心には、感覚を認識する能力がある。感覚を認識する能力は、耳が音声を受け取った後に発動できる。また目が形を受け取った後に発動できる。ならば、心が感覚を認識する能力とは、きっと五官が受け取った感覚を(たとえば人間の「あ」「い」「う」の音声や、「四角形」「三角形」といった形の)カテゴリーに分類して記録することを待って、しかる後に心が認識することができるはずである。五官がこれらを記録しても心が認識することなく、あるいは心がこれを認識してもこれを言葉によって表明することがなければ、人はこの状態を必ず「知っていない」とみなすことであろう。これが、名称によって諸物の同異をはっきり定めることの必要性である(注2)


(注1)原文「同情」。正名篇(1)の「情」の定義を参照。
(注2)ここで荀子は、いったいカテゴリーに分類して記録する作用(原文では「簿」字がこれに当たる)を、目耳鼻口身の五官が心の先に行って、それを心が統制して知覚する(原文では、「徴知」がこれに当たる)と考えているのであろうか?それとも、五官は感覚を生のまま受け取るだけであり、心がそれをカテゴリーに分類すると考えているのであろうか?原文を素直に読めば、前者のように見える。しかし現代医学的には、後者が正しい。荀子が人間の認識構造をどちらに考えていたのか、今の私にはまだ推定できない。とりあえず前者のように訳しておく。
《原文・読み下し》
故に王者の名を制するや、名定まりて實辨(べん)じ、道行われて志通じ、則ち愼んで民を率いて一にす。故に辭を析(せき)して擅(ほしいまま)に名を作り、以て正名を亂り、民をして疑惑し、人をして辨訟(べんしょう)多からしめば、則ち之を大姦と謂う。其の罪猶お符節・度量を爲(いつわ)るの罪のごときなり。故に其の民敢て奇辭を爲して以て正名を亂ること莫し。故に其の民は愨(かく)なり。愨なれば則ち使い易く、使い易ければ則ち公(注3)なり。其の民敢て奇辭を爲して、以て正名を亂ること莫し。故に法に道(よ)るに一にして、令に循(したが)うに謹む。是(かく)の如くなれば則ち其の迹(せき)長し。迹長く功成るは、治の極なり。是れ名約(めいやく)を守るを謹むの功なり。今聖王沒して、名守慢(まん)に、奇辭起りて、名實亂る。是非の形明(あきら)かならざれば、則ち守法の吏、誦數(しょうすう)の儒と雖も、亦皆亂る。若(も)し王者起ること有らば、必ず將(まさ)に舊名(きゅうめい)に循うこと有りて、新名を作ること有らんと。然れば則ち名有ることを爲す所と、緣(よ)りて以て同異する所と、名を制するの樞要(すうよう)とは、察せざる可からざるなり。異形は心離(わか)れて(注4)交(こもごも)喩(さと)り、異物は名實玄(みだ)れて(注5)紐(むす)ばれ、貴賤明かならず、同異別たず。是の如くなれば則ち志は必ず喩(さと)らざるの患有りて、事は必ず困廢の禍有り。故に知者は之が分別を爲し、名を制して以て實を指す。上は以て貴賤を明かにし、下は以て同異を辨ず。貴賤明かに、同異別つ。是の如くなれば則ち志喩らざるの患無く、事困廢の禍無し。此れ名有ることを爲す所なり。然れば則ち何に緣りて以て同異するや。曰く、天官に緣る。凡そ類を同じうし情を同じうする者は、其の天官の物を意(おも)う(注6)や同じ。故に之が疑似に比方(ひほう)して通ず。是れ其の約名を共にして以て相期する所以なり。形體(けいたい)・色理(しょくり)は目を以て異にし、聲音の清濁・調竽(ちょうう)(注7)・奇聲は耳を以て異にし、甘・苦・鹹(かん)・淡・辛・酸・奇味は、口を以て異にし、香・臭・芬(ふん)・鬱(うつ)(注8)・腥(せい)・臊(そう)・洒酸(ろうゆう)(注9)・奇臭は鼻を以て異にし、疾・養(よう)(注10)・凔(そう)・熱・滑・鈹(しゅう)(注11)・輕・重は形體を以て異にし、說故(せつこ)・喜・怒・哀・樂・愛・惡・欲は心を以て異にす。心に徵知(ちょうち)有り。徵知は則ち耳に緣りて聲を知りて可にして、目に緣りて形を知りて可なり。然り而(しこう)して徵知は必ず將(は)た天官の其の類を當簿(とうほ)(注12)するを待ちて、然る後に可なり。五官之を簿(ほ)して知らず、心之を徵して說無ければ、則ち人は然(しか)く之を知らずと謂わざること莫し。此れ緣(よ)りて以て同異する所なり。


(注3)集解の顧千里は、「公」は疑うは「功」に作るべし、と言う。
(注4)増注は「離」はなお「別」のごときなり、と言う。
(注5)集解の郝懿行は、「玄」は「眩」であり「紐」は「系」である、と言う。「眩系」で、名と実がみだれてむすばれること。
(注6)猪飼補注は、「意」は「億」と同じと言う。おもう・おしはかる。
(注7)集解の王先謙は「竽」字は「節」となすべし、と言う。新釈の藤井専英氏は劉師培を引いて「調」は「窕」の仮借、「竽」は「槬」の缺省字夸(う)の誤字、という説によって「細音・巨音」と訳している。一応新釈に従っておく。
(注8)「鬱」は鬱鬯(うつちょう)であり、香草の臭。
(注9)集解の王念孫は、楊注の或説により「洒」は「漏」の誤りであり、「酸」は「庮」の誤りである、と言う。「庮」は朽木の臭のことであり、「漏」は螻蛄(けら)の臭のことと言う。「漏庮」で、悪臭のこと。
(注10)楊注は、「養」は「癢」と同じと言う。かゆみ。
(注11)「鈹」の解釈は諸説ある。漢文大系は増注の「皸(くん)」に作るべし、の説を取る。肌が皸(あかぎれ)した感触。新釈は楊注或説の「鈒(しゅう)」の誤り、の説を取る。ざらざらした感触。新釈に従う。
(注12)楊注は「簿」は簿書なり、と言う。「当簿」は、つまり五官が感覚を記録して参照すること。

ここの議論はさらに後へ続くのであるが、長いのでひとまず区切って訳した。
前回のくだりで「正しい名称」が定義されたことに続いて、そこから外れた邪説が世を乱していることを批判し、聖王が現れたならばこれを斥けるであろうと言う。「正しい名義」の根拠として、人間の五官は生得的に受け取る感覚を区別する機能がある、と言う。この区別に名称を付ければ人類共通の「正しい名義」が成立する、という論理である。この名称の感覚起源説は、人間に共通の規範が実在すると主張する者が挙げる根拠としては、最も素朴でありかつ分かりやすい。孟子も、告子章句で人間の性は不変である、ということを論証しようとして荀子と同様の主張を行う。ただし孟子の論理は、荀子にそれに比べて粗雑なものである。孟子の告子章句は論証になっていない一方的な断言の集まりにすぎないが、荀子の論証はここまでにあるように、段階を追って進められている。なので、孟子の印象的な主張よりもその可否を論ずることがたやすい。

しかし、感覚は人類共通であるという信仰は、人間がひとたび己と違う文化の中にいる他人を知ったときに崩れ去ってしまうものだ。50代の人間と10代の人間とは、外物に対してかなり異なる感覚を持っていないだろうか?男性と女性は?日本人とアメリカ人は?都会の住人と田舎の住人は?、、、背景の文化を異にする人間が同じ対象を同じように見ているとはいえない、ということは、現代の為政者ならば少なくともそれを事実とみなしておかなければ、国内・国外において何らの政策も立てられないであろう。荀子が取り上げる目・耳・口の感覚についてすら、同じ日本人でも共通のものがあるとはいえそうにない。ファッションで何を美しいと感じるか、音楽で何を楽しいと感じるか、料理で何を美味だと感じるか、について思いを巡らせれば、同じ日本人でも簡単に共通項が見出せるとは言いがたいことを悟るだろう。カントは美しい・美しくないという「美学的」な範疇に入る判断については客観的な真理は存在せず、しかしながら人間にはこれらに自らの判断を下して他人から共感を得たいという願望が必ずあるのだ、と指摘するのである。

こういった人間の感覚の多様性をあえて無視して、「同じ国の国民なのだから、国家が定める唯一の文化に従わなければならない」と主張することは、つまり美学的判断を政治に持ち込むことである。それがナショナリズムとファシズムに容易に結びつくことは、少し考えれば分かることだろう。荀子や孟子のように「人間の五官が受け取る感覚は人類共通である」と主張するものは、容易にエスノセントリズム(自文化中心主義)に陥りやすく、それを国家のイデオロギーとして採用しようとすればナショナリズム・ファシズムと親和性が高い。

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