正名篇第二十二(3)

By | 2015年5月27日
(3)さきほどに述べた五官の感覚に従って諸物の同異を定める、という原理に従って、諸物に名称を与えていく。同類の事物に対しては同じ名を与え、異なる類の事物に対しては異なる名を与える。単独の字(注1)で理解できる事物は、これを単独字で表現する(例:馬、山、人)。単独字で理解することが不足な事物は、これを複数字で表現する(例:白馬、高山、老人)。単独字の語(例:馬)と複数字の語(例:白馬、黄馬)とが排他でなくて共有する実体があるならば、これらを共通単語で呼ぶことができる(例:色の違いに着目すれば白馬、黄馬と区別するが、ウマ目ウマ科に属する生物一般に共通した名称で呼ぶ場合には、すべて「馬」の一字で呼んでも矛盾しない)。共通単語で読んでも害がない理由は、対象とする実体が異なっている事物は名が異なっていることは自明の理だからである(例:白牛と白馬を「馬」の共通単語で呼ぶことはしない。しかし両者を「白」の共通単語で呼ぶことは許され、また上位概念の「家畜」で呼ぶことは許される。「白」「家畜」は白牛と白馬が共有する実体であり、「牛」と「馬」は白牛と白馬が共有しない排他的な実体である)。ゆえに、実体が異なっている事物に同一の名称を付けないことが言語の混乱を防ぐことは、実体が同一である事物に異なる名称を付けないことが同じく言語の混乱を防ぐことと同じである。万物はきわめて多いが、時にこれらを全てひっくるめた総合名称が必要となる。これを「物」と言う。「物」は、最上位の共通単語(注2)である。すなわちいくつかの事物を比較して、それの共通事項を取り上げた共通単語を作る(例:「馬」と「牛」は「家畜」である。「蝶」と「蟻」は「虫」である)。共通単語どうしの共通事項があれば、さらに共通単語を作る(例:「家畜」と「虫」は「生物」である。「川」と「海」は「地形」である)。この作業を進めた果てに、ついにこれ以上の共通事項がない共通単語を作るに至って、ここで命名は終わる。だが時に「物」の中の一カテゴリーを取り上げて命名する必要がある。「鳥」「獣」などがそうである。「鳥」「獣」などは、最上位より下の共通単語(注3)である。すなわち最上位から下って個別の共通単語に分解し、個別の共通単語はさらに下位の共通単語に分解し、ついにこれ以下の分解ができない個別単語を作るに至って、ここでまた命名は終わる。

名称には、固有の最も効率的な名称があるわけではない。人間の約束により命名し、この約束が固定されれば慣用される。これが、効率的な名称と言うのである。慣用に反する命名を、非効率な名称と言うのである。また名称には、実体と結びつく固有の関係があるわけではない。人間の約束によりそれぞれの実体に命名し、この約束が固定されれば慣用される。これが、実体を伴った名称と言うのである。名称には、固有の最善の名称がある。即座にわかりやすく、名称の意味で論争が起きない名称、それが最善の名称と言うのである(注4)

物には、形状が同じで場所を異にしているものがある。また、形状が異なっていて場所が同じであるものがある。この二者は、区別するべきである。形状が同じで場所を異にしているものについては、二つの物に共通名称を用いることができる。しかしながら、この場合には「(名称は同じだが)二つの実体」とみなすべきである(例:虎の縞と豹の縞は、同じく「縞」と言うことができる。しかし両方の「縞」がある虎と豹は別の実体であるので、虎のことを豹と言うことはできない)。いっぽう形状が変化しても実態は同じであり、しかも異なる範疇に入る場合は、これは「化」したと言うべきであり、「化」しても実体に区別がない場合には、「(名称は違うが)一つの実体」とみなすべきである(例:少年時代のAさんと老人時代のAさんは姿が違っているが、同一人物が「化」したものである。よってこれらを「少年」「老人」の二つの名称で呼ぶことができるが、実体は同じであるために同じく「Aさん」と呼んでも差し支えない)

これが、事物の実体を考えて諸物を数量する方法であり、名称を定める基準である。現代の君主が定める諸物の名称は、以上の原理によって考察しなければならない。


(注1)原文「単」。複合しない単語の意味であるが、荀子は漢文を前提として議論しているために、漢文のシステムで訳す。以下同じ。
(注2)原文「大共名」。
(注3)原文「大別名」。
(注4)以上の議論は、前二者は言語学者ソシュールが言う各言語の「分節の恣意性」を指している。すなわち例を挙げれば、英語の「fry」という動詞は日本語では「揚げる」「炒める」の二単語に完全に分解され、中国語では「炒」「爆」「炸」とさらに細かく分解される。英語・日本語・中国語の三者のどれが能率的で(荀子の言葉で「宜」)、どれが対象とする実体と最も結びついているか(荀子の言葉で「実」)は、決定できるものではなく、それぞれの文化の約束に応じた慣習が決めるに過ぎず、いずれの言語の用い方でも過不足はない。これがソシュールの言う「分節の恣意性」である。最後の一者は、そうやって恣意的に作られた分節であっても各民族語の話者にとって最もコミュニケーションに役立つ言語がその話者にとってよい言語とするべきである、ということを言おうとしているはずである。
《原文・読み下し》
然る後に隨いて之に命ず。同なれば則ち之を同にし、異なれば則ち之を異にす。單以て喩(さと)るに足れば則ち單とし、單以て喩るに足らざれば則ち兼とし、單と兼と相避くる所無ければ則ち共とす。共とすと雖も害と爲らざるは、實を異にする者の名を異にするを知ればなり。故に實を異にする者をして、名を異にせざること莫からしむるや、亂る可からざるは、猶お實を異(おな)じく(注5)する者をして名を同じくせざること莫からしむるがごときなり。故に萬物衆(おお)しと雖も、時有りて之を徧舉(へんきょ)せんと欲す。故に之を物と謂う。物なる者は、大共名(だいきょうめい)なり。推して之を共す。共は則ち有(ま)た共し、無共に至りて然る後に止む。時有りて之を徧舉せんと欲す。故に之を鳥獸と謂う。鳥獸なる者は、大別名(だいべつめい)なり。推して之を別(べつ)し、別は則ち有(また)別し、無別に至りて然る後に止む。名に固宜(こぎ)無し。之を約して以て命じ、約定まり俗成る、之を宜(ぎ)と謂う。約に異なれば則ち之を不宜と謂う。名に固實無し。之を約して以て實に命じ、約定まり俗成る、之を實名と謂う。名に固善有り(注6)。徑易(けいい)にして拂(もと)らざれば、之を善名と謂う。物に狀を同じくして所を異にする者有り、狀を異にして所を同じくする者有り、別つ可きなり。狀同じくして(注7)所を異にするを爲す者は、合す可しと雖も、之を二實と謂う。狀は變じて實は別無く、而(しか)も異を爲す者は、之を化と謂い、化有りて而も別無きは、之を一實と謂う。此れ事の實を稽(かんが)え數を定むる所以なり。此れ名を制するの樞要なり。後王の成名は、察せざる可らざるなり。


(注5)集解の王念孫は、楊注或説を是として「異」は「同」となすべし、と言う。
(注6)増注は荻生徂徠を引いて、「徂徠が『有』字は『無』の誤りである、と言ったことは上(二つ)の文例を以て見れば理があるように似たり」、と言う。漢文大系は徂徠説を採用して、「有」字を「なし」と読む。徂徠の説は三文を「無」で合わせるべきだという意見であり、分からないでもない。だが前の二文は、名称には固有の利便性や不動の実体があるわけではなく、一民族語の話者が共通に理解している名称が正しい名称であるにすぎない、という意味であり、最後の文はそうやって社会が最も使いやすくて矛盾なく流通する名称が最善の名称である、と言っていると捉えたならば、「有」のままのほうが適切であると私は考える。上の注4も参照。
(注7)宋本には「狀同」の二字がある。

荀子は、続けて命名の規則を述べる。言語学の用語を用いるならば、対象を指す記号であるシニフィアン(仏語signifiant, 英語signifier)と指される対象であるシニフィエ(仏語signifié, 英語signified)とが一対一対応しているのが正しい命名法であり、よって社会は適切な一対一対応の命名法を発見することができる。これが、現代の王が定めるべき正しい言語である。そこから外れた言語はすべて無用無益の詭弁であり、これを排しなければならない、と言うことである。

これに対する批判は、いろいろな側面から提出することができるだろう。荀子の思想の主要目的である「理想国家の建設」のテーマに関わることを言うならば、「理想国家」を国民の範囲を限定したナショナルな単位として構想するならば、その構想の最初の時点で「自国民/非自国民」の定義を行わなければならない。これが自明の区分などでは決してなく、国家の側の恣意的な区分であり、最初の定義において力による線引きが行われていることは、見逃すべきではない。しかし私のこのサイトにおける立場としては、国家のこういった線引きがけしからんと憤慨する立場を推奨したいとも思わないし、かといって国家権力による恣意的な定義を国家存続のために絶対必要であると肯定したいとも思わない。各人の判断に、お任せしたいと思う。

だがもし一国を越えた普遍性のある基準を求めたいと望むならば、自国だけの基準を超えた間共同体的な基準でなければ、受け入れられることはないであろう。さきの王制篇で検討したように、ヘゲモニー国家である覇者の基準が多くの国に受け入れられるのは、それに従うことが参加国にメリットがあるからに他ならない。また富国篇で柄谷行人の議論を検討したように、世界=帝国は、世界貨幣、共同体を越えた法、世界宗教、世界言語はいずれも征服者・被征服者の両者を拘束する、どちらからも独立した原理とテクノロジーを提供することによって、多くの武力を用いずに成立することができた。これらの例が示すように、一国の基準が自国を超えて間共同体的に受け入れられるか否かを決める主導権を握るのは、国の外にあるプレイヤーである。ある時代にある国が正しい世界の定義を主張するかもしれないが、それが他国にメリットを与えるならば受け入れられるであろうし、メリットを与えなければ受け入れられないであろう。荀子の時代とは違って、いまだ諸文化の平均化が起こらず統一世界国家が解決策ではありえない現代の世界において、ヘゲモニー国家が一国の枠を超えて受け入れられる原理は、間共同体的な原理でしかありえないであろう。

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