性悪篇第二十三(6)

By | 2015年6月7日
堯帝が舜に質問した。
堯帝「人間の『情』とは、いかなるものであるか?」
舜「人間の『情』とは、少しも美しくありません。問われるまでもないことです。妻子を得たら、親への孝心は衰えます。欲望が芽生えたら、友人への信義は衰えます。爵位と俸禄が満ちたら、主君への忠義は衰えます。人間の『情』とは、ここまで美しくないものです。問われるまでもございません。その中で、ただ賢者だけはこういった凡人の『情』から離れることができるのです。」

聖人の「知」というものがあり、士・君子の「知」というものがあり、小人の「知」というものがあり、労役夫の「知」というものがある。どんなに多く言葉を用いてもその言葉が礼義の規則によって分類されていて、一日中議論を行って数多の議論を千変万化させてもその原理が統一されている。これが、聖人の「知」である。言葉は少ないが率直で簡潔であり、正しく分類されて法に従っていて、言葉が縄で連ねたように合理的に整合されている。これが、士・君子の「知」である。言葉はへつらい、行いは正道に反し、物事をやらせたら後悔が多い。これが、小人の「知」である。無駄に口と行動だけは素早いが、その言葉は正しく分類されておらず、いろいろ雑学に詳しいが、その知識は何の役にも立たず、言葉の分析をやたらと素早く細かく行うが、その分析はぜんぜん的確でなく、是非を顧みることなく、正義と不正を論じ分けることもせず、他人と争って勝とうと望むことしか眼中にない。これが、労役夫の「知」である(注1)。また上勇というものがあり、中勇というものがあり、下勇というものがある。天下には中道というものがあるのだが、自らあえてその中道に従って身を直くし、また天下にはいにしえの文明の建設者である先王の正道があるのだが、自らあえて先王の意志に則って行動し、上には乱世の君主に従わず、下には乱世の人民と同調せず、仁のあることろには貧窮なく仁のないところに富貴がないという先王の正道を天下が理解しているのであれば、自ら天下と同じく苦楽を共にするよう願い、だがもし先王の正道を天下が理解していないのであれば、天地の間にただひとり独立して立ち、他人を恐れたりはしない。これが、上勇というものである。態度は恭しく意志は堅固であり、忠信を重んじ貨財を軽んじ、賢者をあえて推挙してこれを貴び、愚者をあえてひきずり降ろして解任する。これが、中勇というものである。己の身を軽んじて貨財を重んじ、わざわいなことを平然と続けながら曲解した言い訳で何とかごまかそうとし、是と非、然りと然らずの実情(注2)を顧みず、他人と争って勝とうと望むことしか眼中にない。これが、下勇というものである。繁弱(はんじゃく)と鉅黍(きょしょ)(注3)は、いにしえの良弓である。だが排㯳(はいけい。弓の曲がりを直す器具)を得なければ、良弓とて自力で真っ直ぐとなることはできない。斉の桓公の葱(そう)、斉の太公望の闕(けつ)、周の文王の録(ろく)、楚の荘王の曶(こつ)、呉王闔閭(こうりょ)の干將(かんしょう)・莫邪(ばくや)・鉅闕(きょけつ)・辟閭(へきりょ)(注4)は、いずれもいにしえの名剣である。だが砥石に当てて研がなければ鋭利となることはできず、人力を加えなければ物を断ち切ることはできない。驊騮(かりゅう)・騹驥(りき)・纖離(せんり)・綠耳(りょくじ)(注5)は、いずれもいにしえの名馬である。だがこれらに銜(くつわ)を噛ませて轡(たづな)を取り付け、尻を鞭で叩いて駆らせ、造父(ぞうほ)(注6)の御車術を与えて、はじめて一日千里を走らせることができるのである。そもそもたとえ人の性質が美(注7)であって心は是非を見分ける知力を持っていたとしても、必ず賢明な師を求めてこれに師事し、賢明な友人を得てこれを友人としようとするものである(注8)。賢明な師を得てこれに師事すれば、その聞くところのものは堯・舜・禹・湯の道となろう。良い友人を得てこれと交友すれば、その見るところのものは忠・信・敬・譲の行為となろう。わが身は日々仁義に進みながら、しかもそれを自覚することすらない。それは、習慣として善が身に付いているからである。しかし逆に不善の人間と共にいるならば、その聞くところのものはあざむきといつわりの行為であり、その見るところのものは人への誹謗、邪悪な行い、利をむさぼる行いである。ついにはわが身に刑罰を加えられながら、そうなるまで自覚して反省することすらない。それは、習慣として悪が身に付いているからである。言い伝えに、「その人物が分からなかったら、その友人を見よ。その君主が分からなかったら、その左右を見よ」とある。習慣というものは、これほどに恐ろしいものなのだ。


(注1)つづく下勇と並んで、いうまでもなく諸子百家のことである。
(注2)原文「是非然不然之情」。「情」を正名篇の定義に従って「感情」と訳したくなるが、ここでは実情、事情の意であろう。
(注3)繁弱は、春秋左伝定公四年に「封父之繁弱」とあり、注に大弓の名とあるという。鉅黍は史記蘇秦列伝に見える。
(注4)いずれも古代の名剣の名。干將・莫邪・鉅闕は呉王闔閭の剣として他書に見えるが、その他は詳細不明。
(注5)史記秦本紀には、驥(き)、溫驪(とうり)、驊騮(かりゅう)、騄耳(ろくじ)として表れる。秦本紀の記述によれば、周の穆王(ぼくおう)の御者であった造父が、これらの駿馬を見出した。王は造父を御者としてこれらの馬を駆って西方に巡狩し、楽しんで帰ることを忘れた。そのとき徐の偃王(えんおう)が反乱を起こし、造父は一日千里を走って王を都に帰らせて、そのために反乱を収拾できたという。
(注6)注5参照。
(注7)原文「性質美」。ここでの「性」は質美であるとされているので、性悪篇で展開されるところの「性」の概念であるはずがない。単に人間の資質を指しているはずである。この後に出てくる「偽」の使い方といい、性悪篇の末尾は語の用法がここまでの叙述に比べて乱れている。
(注8)勧学篇(2)の「君子は居必らず鄕(きょう)を擇び、遊ぶに必ず士に就く」、同(4)の「學は其の人に近づくより便なるは莫し」を参照。
《原文・読み下し》
堯舜に問いて曰く、人の情は何如と。舜對えて曰く、人の情は甚だ美ならず、又何ぞ問わん。妻子具(そな)わりて孝親に衰え、嗜欲得て信友に衰え、爵祿盈(み)ちて忠君に衰う。人の情か、人の情か、甚だ美ならず、又何ぞ問わん。唯(ただ)賢者のみ然らずと爲す、と。聖人の知なる者有り、士・君子の知なる者有り、小人の知なる者有り、役夫の知なる者有り。多言なれば則ち文にして類し、終日議するも其の之を言う所以は、千舉・萬變して、其の統類一なるは、是れ聖人の知なり。少言なるも則ち徑(けい)にして省に、論(りん)(注9)にして法に、之を佚(つら)ぬる(注10)に繩を以てするが若し、是れ士・君子の知なり。其の言や諂い、其の行や悖り、其の事を舉ぐるや悔多きは、是れ小人の知なり。齊給・便敏なるも類無く、雜能・旁魄(ほうはく)なるも用無く、析速(せきそく)・粹孰(すいじゅく)なるも急ならず、是非を恤(かえり)みず(注11)、曲直を論ぜず、人に勝つを期するを以て意と爲すは、是れ役夫の知なり。上勇なる者有り、中勇なる者有り、下勇なる者有り。天下中(ちゅう)有りて、敢て其の身を直くし、先王道有りて、敢て其の意を行い、上は亂世の君に循(したが)わず、下は亂世の民に俗(なら)わず(注12)、仁の在る所に貧窮無く、仁の亡き所に富貴無く、天下之を知れば、則ち天下と同じく之を苦樂せんと欲し(注13)、天下之を知らざれば、則ち傀然として天地の間に獨立して畏れず。是れ上勇なり。禮(たい)(注14)は恭にして意は儉、齊信を大として、貨財を輕んじ、賢者をば敢て推して之を尚(とうと)び、不肖者をば敢て援(ひ)きて之を廢す。是れ中勇なり。身を輕んじて貨を重んじ、禍に恬(やす)んじて(注15)廣(ひろ)く解し苟(いやしく)も免れ(注16)、是非・然不然の情を恤(かえりみ)ず、人に勝つを期するを以て意と爲す。是れ下勇なり。繁弱(はんじゃく)・鉅黍(きょしょ)は、古(いにしえ)の良弓なり、然り而(しこう)して排㯳(はいけい)(注17)を得ずんば則ち自ら正すこと能わず。桓公の葱(そう)、太公の闕(けつ)、文王の錄(ろく)、莊君の曶(こつ)、闔閭(こうりょ)の干將(かんしょう)・莫邪(ばくや)・鉅闕(きょけつ)・辟閭(へきりょ)は、此れ皆古の良劍なり。然り而して砥厲(しれい)を加えずんば、則ち利なること能わず、人力を得ずんば、則ち斷ずること能わず。驊騮(かりゅう)・騹驥(りき)・纖離(せんり)・綠耳(りょくじ)は、此れ皆古の良馬なり。然り而して前に必ず銜轡(かんひ)の制有り、後に鞭策(べんさく)の威有り、之に加うるに造父(ぞうほ)の馭を以てして、然る後に一日にして千里を致すなり。夫れ人の性は質美にして心は辯知すること有りと雖も、必ず將(まさ)に賢師を求めて之に事(つか)え、賢友を擇んで之を友とせんとす。賢師を得て之に事うれば、則ち聞く所の者は堯・舜・禹・湯の道なり。良友を得て之を友とすれば、則ち見る所の者は忠・信・敬・讓の行なり。身日に仁義に進んで自ら知らざる者は、靡(び)然らしむるなり。今不善人(ふぜんじん)と處(お)れば、則ち聞く所の者は欺(き)・誣(ふ)・詐(さ)の僞(い)(注18)なり、見る所の者は汙漫・淫邪・貪利の行なり、身且つ刑戮を加えられて自ら知らざる者は、靡然らしむるなり。傳に曰く、其の子を知らざれば、其の友を視よ、其の君を知らざれば、其の左右を視よ、と。靡のみ、靡のみ。


(注9)楊注或説は「論」は「倫」なり、と言う。増注および集解の郝懿行はこれを取る。
(注10)増注は「佚」と「佾」は同義、と言う。つらねる。
(注11)新釈の藤井専英氏は、「恤」は「卹」に同じく、顧の意と言う。
(注12)増注は荻生徂徠を引いて、「俗」は「沿」に作るべし、と言う。新釈は「俗」は説文に「習」、と言う。新釈に従う。
(注13)原文「則欲與天下同苦楽之」。漢文大系は楊注或説を取って、「苦」字を「共」に作るべしと言い、王念孫の説を容れて「同」の字を削るべし、と言う。これに従えば、「則ち天下と[同]苦(とも)に之を楽しまんと欲す」と読むであろう。増注は孟子の「楽しむに天下を以てし憂うるに天下を以てす」(梁恵王章句下、四)を引いて、この意と言う。増注に賛同したい。
(注14)増注は脩身篇を引いて「禮」は「體」に作るべし、と言う。これに従う。
(注15)楊注は、「恬」は「安」なり、と言う。
(注16)増注は元本に従って「免」字を削る。漢文大系はこれに従って「免」を読まずに「苟(いやしく)も」を次の句の冒頭につなげて読んでいる。新釈は「苟免」を「なすべき務めを怠っておりながら、恥と思わぬこと」、と言う。新釈に従う。
(注17)「㯳」字はCJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注18)ここでの「偽」は、その前の三つの欺・誣・詐を人為的に行うこと、あるいは「詐偽」で意図的にだます行為、とする意であろう。この性悪篇で「偽」は繰り返し肯定的な意で用いられているが、ここでは肯定的な意味で用いられているはずがない。よりによって性悪篇の末尾において「偽」字の意味をひっくり返して否定的な意味で用いるのは、『荀子』編集者の不注意であると言わざるをえない。

性悪篇の末尾は、堯と舜の仮想問答から始まる。もとよりこのような問答が実際にあったわけではなく、荀子の創作である。古代中国の文献に見られる歴史に関する叙述においては、古い時代のエピソードとされるものは実際は新しい戦国時代あたりに創作されたものである可能性が高い。『論語』では堯舜の具体的な業績について言及されることが乏しいが、『孟子』書中においては舜の生涯のエピソードが詳しく述べられている。堯舜の統治に関する先秦時代の諸文献の記録は、おそらく戦国時代における国家の統治術が反映されていると思われる。

末尾の議論は性悪篇のまとめといえる内容であるが、面白いのは聖人の「知」と士・君子の「知」を比較したとき、荀子は聖人が士君子よりも多言である、とみなしているところである。これは、礼法を制定するのは聖人の「知」の仕事であり、士・君子は聖人の制定した礼法を学んでこれに従う「知」にとどまる、と荀子は見なしているからに違いない。解蔽篇(6)における士・君子・聖人の段階論を参照すれば、そのことが分かるであろう。よって聖人は、無駄な雄弁を行って多言なのではない。正名篇で「相手に意義が通じれば、そこで終えるのだ。それ以上細かく検討することは、姦(よこしま)なことである。ゆえに、名称はその実体を指すに足りて、言辞は名称の指すべき中庸な意味を明らかにすることに足りれば、そこで終えるのだ」と言ったようにである。しかし国家の礼法は明確に制定されなければならず、政治判断は明確に言葉で述べられなければならない。以心伝心の政治は、荀子の拒否するところである。

これで、性悪篇は終わる。続く君子篇第二十四は短いエッセイであり、内容的にはこれまでの各篇で展開された王者の統治法を再度述べたものである。内容的に新しいものはないと考えるので、後回しとしたい。君子篇をもって、『荀子』書中のまとまった論述の篇は終わる。続く成相篇および賦篇は荀子作の詩賦を収録したものであり、思想的な意味は少ない。これも、読み飛ばしたい。続く大略篇以下は、荀子の言葉の断章と孔子とその弟子たちの語録を収めた雑録が続く。全体的に雑多な内容で、検討する価値に乏しいと考える。

ただし、子道篇第二十九だけは、重要である。ここの緒言における言葉は、儒家思想のオーソドックスな父子倫理をくつがえす合理的な内容を持っていて、儒家思想の中で異彩を放っている。荀子の思想の合理性をよく示す文章であるので、これは読むことにしたい。子道篇の後には、もう一度前の非相篇第五に戻って荀子の後王思想を検討し、それで『荀子』の思想の大略の検討を終えることにしたい。

【次は、「子道篇第二十九」を読みます。】

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