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仲尼篇第七(1)

「仲尼(ちゅうじ。孔子のあざな)の門人は、五尺(ごせき。この尺は年齢の意であって、一尺は二歳半)の童子であっても五覇(注1)のことを口に出して称えることを恥じる」と言われるわけは、どうしてであろうか。実にその通りなのであり、まことに彼らは我々儒家にとって称えることを恥じるべき存在なのである。斉の桓公は、五覇の中でも最も勢い盛んな君主であった。だがこの桓公の事跡といえば、まず最初に実兄の糾(きゅう)を殺して国を争って奪い取り(注2)、家庭内においては己のおば・姉・妹を留め置いて外に嫁がせなかった者が七人もいた乱倫を行い、後宮においては楽しみを極めて大いにおごって斉国の財政をもっても足りなかったほどであり、国外に対しては邾国(ちゅこく)をだまし莒国(きょこく)を襲撃し、三十五ヶ国を併合した(注3)。桓公の行った事跡はここまで非道であり、彼の陰険にして汚れて淫乱にしておごった姿はここまでひどかった。まことに、なんでこれを偉大なる孔子を慕う我ら門徒が称えるに足りるだろうか。「だが、それほどまでに汚れた君主でありながら滅びることなく、かえって覇者となったのは、どうしてであるか?」と問われるか。ああ、そのわけは、斉の桓公は巨大な節義を行ったからなのだ。ゆえに、誰も彼を亡ぼすことなどできなかった。桓公は、管仲を全幅に信頼して、これに国を託すことができることを見て取った。これは、天下の大識見であった。これを信頼するに当たっては過去の怒りも忘れ、朝廷に出るに当たってはかつての仇を不問となし(注4)、ついに管仲を宰相に立ててこれを仲父(ちゅうほ。おじうえ)と尊んだのであった。これは、天下の大英断であった。管仲を宰相に立てて仲父と尊んでも、桓公の一族は誰もねたむことがなかった。管仲の位を挙げて高(こう)・国(こく)の両氏(注5)と等しくしても、朝廷の家臣は憎むことはなかった。管仲に書社(しょしゃ)(注6)三百ヶ村を封地して与えても、朝廷の富者はこばむことはなかった。国の貴賤・長幼の序列は秩序正しくあり、みな桓公に従ってこれを貴び敬ったのであった。これは、天下の大節義であった。諸侯ならばこのような節義が一つでもあれば、滅ぼすことはできるものではない。桓公は、いくつもの節義を全て兼ね備えていた。これを滅ぼすことなどは、誰にもできない。これが覇者となったのは、当然のことであった。幸運のたまものではなくて、必然の結果であった。だがしかし、「仲尼の門人は、五尺の童子であっても五覇のことを口に出して称えることを恥じる」と言う。そのわけは、どうしてであるか。実にその通りなのであり、桓公は人を教化する王者の政治に基づいていなかったからである。桓公は、礼義を極めた政治を行わなかったからである。桓公は、礼義の規則を徹底した政治を行わなかったからである。桓公は、人を心服させる王者ではなかったからである。桓公は、策略を用いて、人を働かせたり安楽にさせる術を操り、財貨を蓄えて軍備を整え、その結果敵を倒すことに成功した。これは、人をだます意図によって勝利したものである。桓公は謙譲を装って実際には争い、仁政を建前にして実際には利益を貪る者であり、しょせんは小人の傑物というべきである。まことに、なんでこれを偉大なる孔子を慕う我ら門徒が称えるに足りるだろうか。

王者は、このような覇者とは違う。賢明有能の極みでありながら愚者たちを救い、強者の極みでありながらよく弱者に寛大であり、ひとたび戦えば必ず敵を危うくするが、しかし戦うことを恥となし、礼義を詳細に制定してこれを天下に示し、こうして暴虐の国であっても教化されて、ここまで行ってなおかつ天下に災厄をもたらす過てる者だけを最終手段として誅伐するのである。ゆえに、聖王の誅伐とは、きわめて少ない。たとえば、文王は四国(注7)を誅伐しただけであった。その後を継いだ武王は、二者(注8)を誅伐しただけであった。その後を継いだ成王の摂政となった周公の時代になって天下平定の業は完成し、成王の時代にはとうとう誅伐は行われなかったのであった。このように、聖王の治世であれば、王者の政治は必ず行われるのである。文王は百里四方の土地から創業して、天下を統一した。だが桀王・紂王は王者の政治を捨てたゆえに、天下を保有する権勢を持ちながらついに一庶民として老齢まで生き延びることすら許されなかった。ゆえに、王者の正道をよく用いれば百里四方の小国でも独立できるのであるが、王者の正道をよく用いなければ六千里四方ある楚国であっても敵国に使役されるであろう。ゆえに、君主が正道を得ることに努力せず権勢を大きくすることばかりに熱中することは、国と己の身を危険にさらすこととなるであろう。


(注1)原文「五伯」。いわゆる春秋五覇のこと。議兵篇(2)のコメント参照。
(注2)桓公の名は、小白(しょうはく)である。斉の釐公(きこう)には、諸児(しょげい)、糾(きゅう)、小白の三公子がいた。釐公の死後、諸児が継いで襄公(じょうこう)となったが、殺された。跡目争いは、管仲・召忽(しょうこつ)を従えて魯国に逃げていた糾と、鮑叔(ほうしゅく)を従えて莒国に逃げていた小白との争いとなった。管仲は斉国に帰る途上の小白を襲って、これを射撃した。矢は小白の鉤(こう。帯の留め金)に当たって事なきを得たが、小白は計略を用いて自分が死んだように見せかけた。管仲は小白を射殺したと魯国に報告し、魯国は油断して糾を斉国に送ることを遅らせた。その間に小白は斉国に入って、桓公として即位した。桓公は魯国の侵入軍を破り、魯軍を包囲して糾を魯国の手で殺すことと、管仲・召忽の引渡しを要求した。魯国は糾を殺し、召忽は自殺した。このとき管仲の親友で彼の才能を知っていた鮑叔が桓公に進言して、天下を狙うならば管仲をぜひ側近に取り立てるように桓公を説得した。桓公はこれを容れて、管仲に誅罰を与えると魯国を偽って管仲を送還させて、これを赦してやがて宰相の位にまで上げたのであった。
(注3)邾・莒はともに山東省東部の地。史書には桓公と管仲が譚(郯)・遂・項を亡ぼしたことは記載されているが、邾については記載がない。莒については呂氏春秋、韓詩外伝に桓公と管仲がこれを襲ったという記事がある。少なくとも桓公・管仲の時代以降、これら山東省東部の地は斉国の勢力圏となった。
(注4)管仲が糾を公位に付けるために桓公を狙撃したこと。上の注2参照。
(注5)高氏と国(國)氏は、斉国で代々上卿にあった。
(注6)周礼によれば、二十五家を社と言う。書社とは、戸籍に載せた社の数。
(注7)楊注は、密・阮・共・崇の四国と言う。増注は古屋鬲の「阮・共は密人の侵す所にして文王の誅する所に非ず」の説を引いて楊注を否定し、代わりに『竹書紀年』から文王の討伐の記録を取り出して翟・密・崇・昆夷の四国とする。
(注8)武王が討伐した二者について、殷の紂王は確実であるが、あと一つについては注釈者によって説が分かれる。楊注は紂王の寵妃の妲己(だつき)、あるいは紂王の家臣の悪来(おらい)とみなす。集解の兪樾は奄(えん)とみなす。増注は古屋鬲を引いて黎(れい)とみなす。とはいえここの文章は、代を重ねるごとに討伐の対象が四→二→ゼロと減少していったことを言うためのレトリックであって、上の注7と並んで四と二に数えるべき内容をあまり深く詮索してもしようがないであろう。
《原文・読み下し》
仲尼(ちゅうじ)の門人(注9)、五尺(ごせき)の豎子(じゅし)も、言いて五伯(ごは)を稱(しょう)するを羞ずとは、是れ何ぞや。曰く、然り、彼誠に稱することを羞ず可きなり。齊桓は五伯の盛んなる者なり、前事は則ち兄を殺して國を爭い、內行は則ち姑姊妹(こしまい)の嫁せざる者七人、閨門の內は、般樂(はんらく)・奢汰(しゃたい)にして、齊の分を以て之を奉じて足らず。外事は則ち邾(ちゅ)を詐り莒(きょ)を襲い、國を并(あわ)すこと三十五。其の事の行たるや是(これ)の若く、其の險汙(けんお)・淫汰(いんたい)なること彼(かれ)の如し(注10)。固(もと)より曷(なん)ぞ大君子の門に稱するに足らんや。是の若くにして亡びず、乃ち霸たるは何ぞや。曰く、於乎(ああ)、夫の齊の桓公天下の大節有り、夫れ孰(たれ)か能く之を亡ぼさん。倓然(たんぜん)として管仲の能く以て國を託するに足るを見る、是れ天下の大知なり。安(やす)んずれば(注1)其の怒を忘れ、出ずれば(注11)其の讎(あだ)を忘れ、遂に立てて仲父(ちゅうほ)と爲す、是れ天下の大決なり。立てて以て仲父と爲して、貴戚之を敢て妬むこと莫きなり。之に高(こう)・國(こく)の位を與(あた)えて、本朝の臣之を敢て惡むこと莫きなり。之に書社(しょしゃ)三百を與えて、富人之を敢て距(こば)むこと莫きなり。貴賤・長少、秩秩焉(ちつちつえん)として、桓公に從いて之を貴敬せざること莫し、是れ天下の大節なり。諸侯一節だに是の如きもの有らば、則ち之を能く亡ぼすこと莫からん。桓公此の數節の者を兼ねて盡(ことごと)く之を有す、夫れ又何ぞ亡す可けんや。其の霸たるや、宜(うべ)なるかな。幸に非ざるなり、數なり。然り而して仲尼の門人(注9)、五尺の豎子も、言いて五伯を稱するを羞ず、是れ何ぞや。曰く、然り、彼は政敎に本づくに非ざるなり、隆高(りゅうこう)を致(きわ)むるに非ざるなり、文理を綦(きわ)むるに非ざるなり、人の心を服するに非ざるなり。方略に鄉(むか)い、勞佚を審(つまびら)かにし、畜積・脩鬭(しゅうとう)して、能く其の敵を顛倒(てんとう)する者にして、詐心以て勝ちたり。彼は讓を以て爭を飾り、仁に依りて利を蹈む者にして、小人の傑なり。彼固(もと)より曷(なん)ぞ大君子の門に稱するに足らんや。
彼の王者は則ち然らず。賢を致(きわ)めて能く以て不肖を救い、强を致めて能く以て弱を寛にす、戰えば必ず能く之を殆(あやう)くするも、而(しか)も之と鬭(たたか)うことを羞じ、委然(いぜん)として文を成し、以て之を天下に示して、暴國安(すなわ)ち自ら化し、災繆(さいびゅう)なる者有りて然る後に之を誅す。故に聖王の誅や綦(きわめ)て省(すくな)し。文王四を誅し、武王二を誅し、周公業を卒(お)え、成王に至りては、則安(すなわち)以て誅する無し。故に道豈(あ)に行われざらんや。文王百里の地より載(はじ)めて、天下一となり、桀・紂之を舍(す)て、天下を有(たも)つの埶(せい)に厚くして、而(しか)も匹夫を以て老することを得ず。故に之を善用すれば、則ち百里の國も以て獨立するに足り、之を善用せざれば、則ち楚は六千里にして讐人(しゅうじん)の役と爲る。故に人主道を得ることを務めずして、其の埶を有することを廣くするは、是れ其の危き所以なり。


(注9)集解の王念孫は、この二箇所の「人」字は後人の追加と言う。根拠は(1)この言葉は後の「大君子の門」と相応しているため、(2)董仲舒『春秋繁露』の同様の文や、その他の書で荀子を引用した文において「人」字がないこと、を挙げる。しかしながら、新釈の藤井専英氏は「人」字はあったほうがよいと言う。削らなくても文は完全に正しいので、わざわざ他書と併せることによって削る必要はないと考える。
(注10)原文「其險汙淫汏也彼」。宋本では「彼」の前に「如」字があり、元本にはない。元本に従う場合「彼」の前で文を区切って、「其れ險汙・淫汏なり。彼(かれ)は固より、、」と読むことになる。「彼」は前にある「是(これ)」と対になっていると考えるならば、宋本が正しい。集解本は王念孫の説を採用して、「如」字のない元本を是としている。「彼」を管仲のこととみなす集解本の読み方のほうが意味としては通りがよいが、対句的美文を重んじる荀子の文体から言えば宋本に軍配を挙げたい。ここではあえて宋本に従って、「如」字を復活させて読むことにする。
(注11)増注および集解の王念孫はともに、「安」字を語助(「すなわち」)とみなして「出」を衍字とみなす。これにしたがえば、「安(すなわ)ち其の怒を忘れ[出]其の讎(あだ)を忘れ、、」と読むべきである。漢文大系はこれを採用している。しかし楊注は「安は猶(なお)内のごとく、出は猶外のごときなり。言うは内に忿恚(ふんい)の怒を忘れ、外に射鉤(しゃこう)の讎を忘る」と言い、このまま解釈している。楊注に従いたい。

孟子は、「仲尼の徒、桓・文の事を道(い)う者無し」(梁恵王章句上、七)「管仲は曾西すら爲(い)わざりし所なり」(公孫丑章句上、一)と言う。荀子もまたここで同様に、斉の桓公のような覇者のことを孔子の門徒は言うことを恥じるのだ、と言う。王者を尊んで覇者を卑しむのは、孟子も荀子も儒家として立場を同じくしている。ただ、荀子はこの仲尼篇や後の王覇篇において、管仲について限定つきの評価を与えている。少なくとも斉の桓公が覇者となることができたのは、もっぱら管仲が宰相として輔佐したおかげであった、と。しかし管仲が主君に与えた地位はしょせん覇者であって、儒家としては高く評価することができない、というわけである。

荀子が覇者をどのように位置づけて、王者をどのように位置づけているかは、王制篇で述べられている。そこで荀子の思想について解読を試みたので、ここでは繰り返さない。荀子の王者は、すでに統一中華帝国が予測できた戦国時代末期の時代であったからこそ、リアリティある世界平和の展望として提案することができた。だが荀子の時代と違って世界統一帝国が構想できない時代においては、王者のように戦わずして正義の力で世界を統一する者などは現れるべくもない。覇者はそのような時代に現れて国際秩序の維持を敢行するヘゲモニー国家であって、武力の威嚇を示すよりも経済利益と安全保障の利益を示すことによって、諸国がこれに従うことを有利であると判断させる。このような覇者は、偽りの強者が達成できない国際平和を形成することができる。それが一時的の平和であるからといって荀子ら儒家は覇者を批判するが、王者が現れない時代状況においては覇者以上の平和の策はありそうにない。

仲尼篇での王覇論は、上に訳した冒頭の部分だけである。ここから後は君子の処世術が置かれて、仲尼篇は中途半端に終わる。儒家の理想とする王者の統治論の本格的な叙述は、つづく儒效篇に持ち越されるようである(劉向『荀卿新書』版では仲尼篇の後に成相篇が挟まる)。王制篇と同じく、覇者への言及は荀子にとって本論へのイントロダクション的位置づけにすぎないようだ。しかし現代的意義を持った分析は、ここから後に続く荀子の本論ではなくて、圧倒的に覇者についての論述のほうだと評価したい。

仲尼篇第七(2)

君主の寵を保ち地位を保ち続け、終生君主から厭われない術について。君主が己を尊べば、己は恭敬してへりくだるべし。君主が己を信愛すれば、己は身を慎んで謙虚たるべし。君主が己に仕事をもっぱら任せたならば、己は任務を堅く守ってその任務に精通するべし。君主が己に安心して近くに置くならば、己はそのためにおもねって悪事を共に行わないように心がけるべし。君主が己をうとんじて遠ざけるならば、己は主君に心を一つにして、決して背くべからず。君主が己を退けたならば、己は恐れつつしんで、主君を怨むべからず。たとえ地位が貴く上げられても、おごってはならない。たとえ君主の信任を得たからといって、役得を得たと他人から嫌疑されるような立場に立ってはならない。たとえ重大な任務を承ったとしても、己一人で専断してはならない。財貨・利益を受けたときには、必ず「自分の善事はこのようなものを受けるに値しない」と謙遜の義を尽くした後に受けるべし。幸運な事が起こったときには、和気をもって喜ぶも度を外さず道理を保つべし。不幸な事が起こったときには、静かに身を慎みながらもやはり道理を保つべし。富めば広く施し、貧しければ節約するべし。こうして「君主は私を貴くするも賤しくするも自在であり、富ますも貧しくするもまた自在であり、殺すこともまたできるだろう。しかし私に悪事をさせることは、できません」ということを、君主に分からせるのだ。これが、君主の寵を保ち地位を保ち続け、終生君主から厭われない術である。たとえ己の立場が貧窮しようが無位無官となろうが、基準をここに取る者こそ、吉(よ)き人というべきであろう。『詩経』に、この言葉がある。:

愛すべきかな、茲(こ)の人よ
順徳なるかな、侯(こ)の君よ
永らく言(ここ)に、孝にありて
祖先の服(こと)を、昭(あきら)かに嗣(つ)ぐ
(大雅、下武より)

周の武王が祖先の業を謹んで継いだように、よき家臣は君主に仕えなければならない(注1)

重大な任務をよく処理して、重大な事業を任命されてこれをよく整理し、万乗の大国において君寵をほしいままにして、しかも必ず後のわざわいがないことを求めるための術について。それには、周囲と同調することを好むのがいちばんである(注2)。賢明の者を引き立てて施しを広く行い、怨まれる原因を除いて他人を妨害しない。己の能力と比較して任命されるに足りる事業であれば、この道を謹んで行う。だが己の能力と比較して任命に耐えられず、しかしながら君寵を失うことを恐れるならば、無理せずに周囲とさっさと同調することがいちばんであって、つまり自分より賢明の者を推挙して自分より能力のある者に事業を任せ、自分はその後を安んじてついていくのがよい。このように上手に渡世していくならば、君寵があるときには必ず栄達し、君寵が失われても決して罪を受けないであろう。これが君主に仕える者の金科玉条であって、必ず後のわざわいがない術である。ゆえに、知者が事業を始めるときには、勢いがよいときには勢いが欠けるときのことを考慮し、順調のときには困難が続くときのことを考慮し、安泰のときには危険のときのことを考慮し、いかなるときにも次の期間のための予備に気を配り、しかも己に禍が降りかかることを慎重に恐れるのである。このように慎重であれば、たとえ百回事業を始めても、窮地に陥ることはないであろう。孔子が「巧妙であっても法度を好めば、必ず身に節度がある。勇敢であっても同調を好めば、必ず勝利を得る。知があっても謙虚を好めば、必ず叡智を得る」と言われたのは、以上のことなのである。いっぽう、愚者はこれと反対である。重い地位にあって権勢をほしいままにすれば、彼は事を専断することを好んで賢者・能者をねたみ、功績ある者は抑圧して罪があると決めた者は排斥し、心中はおごり高ぶり、昔の怨みがある者を今でも根に持って重く用いず、「上にある者は下にむやみに施さないのが権威を保つのだ」などと考えて高位にありながら物惜しみをして、そのくせ下に対してはこれから権力を奪い取って、人の妨害を行うのである。愚者はこのようであるので、身の危険を避けたいと望んだところでかなえられるはずがないだろう。ゆえに愚者は地位が尊ければ必ず身が危険となり、任務が重ければ必ず解任されることとなり、君寵をほしいままにすればいずれ必ず恥辱を受けるだろう。この結果となるのは、飯が炊ける間のようにあっという間のことであろう。なぜならば、このような愚者はこれを攻撃する者ばかりが多く、これを擁護する者は少ないからである。

天下において事を行うための術について。君主に仕えれば必ず己の意を通じさせ、己が仁を行えば必ず聖人的な達成をなすためには、必ず礼義を貴んでここから離れてはならない。まず礼儀を必ず貴んで離れず、その後に行うことは、恭敬によって行いを先導し、忠信によって心を統一し、慎謹をもって行い、正直をもって行いを守り、へりくだる姿勢をもって諸事に従い、力の限りを尽くしてこれを繰り返す。こうすれば、君主に己が知られなくとも怨む心は起きず、功績がはなはだ大であっても己の徳に誇る顔色を見せることはなく、仕事をするときには要求は少ないが立てる功績は多く、他人を愛し敬って飽きることがないだろう。このようであれば、なすことが常に順調となるであろう。したがって君主に仕えれば必ず己の意を通じさせ、己が仁を行えば必ず聖人的な達成をなすだろう。これが、天下において事を行うための術である。

年少者が年長者に従い、賤しい者が貴い者に従い、愚者が賢者に従うことは、天下の通義である。だがここに人がいて、己の権勢は人より上にないにもかかわらず人より下風に立つことを恥じるのは、姦人の心の持ち主というべきである。心は姦悪の心から免れず、行いは姦悪の道から免れず、しかも君子・聖人の名声があることを欲する。これをたとえるならば、うつぶせで空を舐めようとするようなものであり、首吊りから助けようとして足を引っ張るようなものである。絶対にうまくいかず、努力すればするほど、君子・聖人の名声から遠ざかっていくだろう。ゆえに君子というものは、勢いが足りず屈する時期にはその状況に応じて静かに身を慎むのであり、勢いが出て伸びていく時期にはその状況に応じて大いに進歩するのである。常の心が定まっているから、愚者のようにあせって失敗したりはしないのである。


(注1)楊注はこの詩の引用について、「此を引くは、臣の君に事(つか)うるは亦(また)武王の祖考を継ぐがごとくなるを明らかにするなり」と注している。しかし荀子が言う家臣の主君への仕え方は義に従って是々非々であるべきであり、子孫が祖先の業を謹んで継承する敬虔な意志とは違うのではないか、と私は疑問に思う。この詩経の引用は、荀子の学をよく理解しない弟子が継ぎ足したものではないだろうか、と疑いたくなる。
(注2)原文読み下し「之と同するを好むに若くは莫し」。「同」字は「君子は和して同ぜず」(論語、子路篇)の意味であって、同調、雷同のことでよい意味ではない。ここでは処世術として自分より賢明な者や能力ある者をさっさと認めて譲り己の我を通すな、といった処世訓として「同」字が用いられていると思われる。荀子の常の主張とは、色合いが違う印象を受ける。儒家思想らしくない言葉として、あえて「同調」と訳した。後に出てくる「同調」も同様。
《原文・読み下し》
寵を持し位に處(お)り、終身厭われざるの術。主之を尊貴すれば、則ち恭敬にして僔(そん)、主之を信愛すれば、則ち謹愼にして嗛(けん)(注3)、主之を專任すれば、則ち拘守にして詳(しょう)、主之を安近すれば、則ち愼比(しんぴ)して邪ならず、主之を疏遠すれば、則ち全一にして倍(そむ)かず、主之を損絀(そんちゅつ)すれば、則ち恐懼して怨みず。貴にして夸(か)を爲さず、信ぜられて謙(けん)に處らず(注4)、任重くして敢て專にせず。財利至れば、則ち善及ばざるが而(ごと)きも(注5)、必ず將(は)た辭讓の義を盡(つ)くして、然る後に受く。福事至れば、則ち和にして理し、禍事至れば、則ち靜にして理す。富めば則ち施廣(ひろ)く、貧なれば則ち用節(せつ)す。貴にす可く賤にす可く、富ます可く貧しくす可く、殺す可きも姦を爲さしむ可からず。是れ寵を持し位に處り、終身厭われざるの術なり。貧窮・徒處の埶(せい)に在りと雖も、亦象(しょう)を是に取るなり。夫れ是を之れ吉人と謂う。詩に曰く、媚(び)なるかな茲(こ)の一人、侯(こ)の順德に應(あた)る、永く言(ここ)に孝なり、昭(あきら)かなるかな服(こと)を嗣(つ)ぐや、とは、此を之れ謂うなり。
大重に善處し、大事に理任し、寵を萬乘の國に擅(ほしいまま)にして、必ず後患無きを求むるの術。之と同するを好むに若くは莫し。賢を援(ひ)き施を博くし、怨を除いて人を妨害すること無し。能(のう)之に任ずるに耐うれば、則ち此の道を愼行するなり。能にして任ずるに耐えず、且つ寵を失わんことを恐るれば、則ち早く之と同するに若くは莫く、賢を推し能に讓りて、安んじて其の後に隨う。是の如くなれば、寵有れば則ち必ず榮え、寵を失えば則ち必ず罪無し。是れ君に事うる者の寶にして、必ず後患無きの術なり。故に知者の(注6)事を舉(あ)ぐるや、滿つれば則ち嗛(けん)(注7)を慮(おもんぱか)り、平なれば則ち險を慮り、安なれば則ち危を慮り、曲(つぶさ)に其の豫(よ)を重んじ、猶お其の旤(わざわい)に及ばんことを恐る。是を以て百舉(ひゃくきょ)して陷らざるなり。孔子の曰わく、巧にして度を好めば必ず節あり、勇にして同を好めば必ず勝あり、知にして謙を好めば必ず賢あり、とは、此を之れ謂うなり。愚者は是に反す。重に處りて權を擅にすれば、則ち好んで事を專にして賢能を妬み、有功を抑えて有罪を擠(おと)し、志は驕盈(きょうえい)にして舊怨(きゅうえん)を輕んじ、吝(*)嗇(りんしょく)にして施道を上に行わざるを以て重しと爲し、權を下に招いて以て人を妨害す(注8)。危きこと無からんと欲すと雖も、得んや。是を以て位尊ければ則ち必ず危く、任重ければ則ち必ず廢せられ、寵を擅にすれば則ち必ず辱めらること、立ちどころにして待つ可く、炊いで傹(おわ)る(注9)可きなり。是れ何ぞや。則ち之を墮(こぼ)つ者衆(おお)くして、之を持する者寡ければなり。
天下の行術。以て君に事うれば則ち必ず通じ、以て仁を爲せば則ち必ず聖たるには、隆を立てて貳(たが)うこと勿(なか)れ。然る後に恭敬以て之に先んじ、忠信以て之を統べ、愼謹以て之を行い、端愨(たんかく)以て之を守り、頓窮(とんきゅう)則(もっ)て之に從い(注10)、疾力以て之を申重す。君知らずと雖も、怨疾の心無く、功甚だ大と雖も、德に伐(ほこ)るの色無く、求を省き功多くし、愛敬して勌(う)まず。是の如くなれば則ち常に順ならざる無し。以て君に事うれば則ち必ず通じ、以て仁を爲せば則ち必ず聖なり、夫れ是を之れ天下の行術と謂う。
少は長に事え、賤は貴に事え、不肖は賢に事うるは、是れ天下の通義なり。人有りて、埶(せい)人の上に在らずして而(しか)も人の下爲(た)るを羞ずるは、是れ姦人の心なり。志は姦心を免れず、行は姦道を免れずして、而(しか)も君子・聖人の名有らんことを求むるは、之を辟(たと)うるに、是れ猶お伏して天を咶(ねぶ)り、經(くびくく)られるを救いて其の足を引くがごときなり。說必ず行われず、俞(いよいよ)務めて俞遠し。故に君子は時詘(くつ)すれば則ち詘し、時伸ぶれば則ち伸ぶるなり。

(*)原文は「メのしたに厷」。CJK統合漢字および同拡張Aにないので、やむなく代用する。宋本は「吝」字に作る。

(注3)新釈は、「キョウ」と読んでここよろい、の意に取る。楊注は「歉(けん)と同じ。足らざるなり。言うは敢て自満せざるなり」と言う。集解の王引之は「謙」と同じ、と言う。「謹慎」と意味の類似した語であるべきなので、王引之の解釈がよいと考えたい。
(注4)原文「不處謙」。楊注は「謙」は読んで「嫌」となす、と言う。宋本には「忘」字があって、「不忘處謙(謙に處るを忘れず)」に作っている。集解の王念孫は宋本を是と言い、王先謙は楊注に依って削るべしと言う。前後の文の調子に合わせるならば、「忘」字を削る集解本がよいであろう。
(注5)原文「則善而不及也」。宋本では「善」字の上に「言」字がある。宋本に従う新釈は「善は言(げん)なるも而(しか)も及(きゅう)せずして」と読み下し、「及」は「継ぐ。つづく。待ってましたとばかり飛びつくこと」と注する。したがって新釈の藤井専英氏はこの文を「言葉では喜びはするが、筋を通して、すぐ飛びつかず」と訳している。しかし楊注は「而は如なり」と注して、「言」字を入れない形で解釈している。集解の王念孫は楊注が「言」字なしで読んでいることを理由に、これを削るべきと言う。いちおう楊注・王念孫に従っておく。
(注6)宋本は「兵」字があって「知兵者」に作る。読み下せば「兵を知る者」であり、するとここから以下の言葉は用兵術を述べた内容になるであろう。思うに、もしかしたら「知者」以下の文章は兵法の格言の引用がもとなのであって、荀子はそれを君子の処世術に読み替えて述べたのかもしれない。荀子の本意は兵法について述べたものではなかろうから、ここでは「兵」字のない集解本に従うことにする。
(注7)こちらの「嗛」字は注3の楊注と同じく、不足の意味である。
(注8)ここのくだりを金谷治氏は、「以て吝嗇にして施しを行わず、上に道(よ)りて重きを爲し權を下より招きて以て人を妨害す」のように読み下し、ここに「さらにけちんぼうで施しを行わず虎の威をかりながら権勢を下位の者からかき集めて他人の邪魔をする」という訳を付けている。
(注9)楊注は「炊は吹と同じ、傹はまさに僵となすべし」と言う。息を吹きかけて倒す、の意味に取る。集解の郭慶藩は「傹」字は「竟」となすべし、と言う。飯を炊く間のうちに終わる、の意味に取る。郭慶藩の説を取る。
(注10)「頓窮」を新釈は「身をかがめて謹み敬う意」と言い、「則」は猪飼補注が引く桃井源蔵の説に従って「以」字に通じるとみなす。これに従う。

仲尼篇の後半は、君子の処世論である。荀子の他篇の同様の叙述に比べて、取り立てて特筆するべき新規な内容はない。前半の覇者を捨てて王者を選ぶという宣言に比べて、後半のこの処世術はどうも格調が低い内容となっていて、蛇足の感を受ける。『詩経』からの引用もピントを外していて、もしかしたら弟子の補筆した文章が混入しているのかもしれない。

栄辱篇第四(1)

おごり高ぶることは、人のわざわいである。恭しく己に厳しいことは、五兵器(注1)すら斥ける。戈(か。ほこの一種で、横に突き出た剣先が付く)や矛(ほこ)には突き刺す鋭さがあるが、恭しく己に厳しくある者の力を越えることはできないのである。ゆえに、善言を人に与える者は、着物を与えるよりも相手の心を暖かくするのであって、逆に人を傷つける言葉を言う者は、矛や戟(げき。ほこの一種で、まさかり状の横刃が付く)で刺すよりも深く相手の心を傷つけるのである。この広い天下において、ほんのわずかの土地も踏み立つことが許されない窮地にあるならば、それは足元の土地が平坦でないからなのではない。つま先立ちしても踏み立つことができないほどに追い込まれる者は、すべてその使う言葉が原因なのである。広い大道を通るときには、ぶつからないようにあえて他人に譲りなさい。狭い小道を通るときには、危険がないか注意して進みなさい。このようにしていれば、たとえ自分では恭しく己に厳しくあろうと心がけていなくても、ひとりでにできてしまうことであろう。

快いが、やがて自分を亡ぼすことになるもの。それは、怒りである。明察にやり遂げるが、やがて己を傷つけることになるもの。それは、憎しみである。豊富な知識を援用するが、やがて己を窮地に陥れるもの。それは、誹謗中傷である。清廉になろうとして、やがて己をますます汚すもの。それは口のわざわいである。人間関係を豊かにしようとして、やがて己の心身をますますやせ細らせるもの。それは、悪しき交際である。弁舌巧みであるが、他人を喜ばせないもの。それは、論争である。独立して立ちながら、少しも世に知られない原因となるもの。それは、他人に勝とうとする心である。廉直でありながら、少しも他人に貴ばれない原因となるもの。それは、他人をやり込めようとする攻撃心である。勇気がありながら、他人に敬遠される原因となるもの。それは、貪欲心である。誠信でありながら、少しも他人に尊敬されない原因となるもの。それは、独断専行を好む傾向である。以上のようなことは、しょせん小人の努力するところであり、ゆえに無益なことだ。君たち(注2)は、このようなことをしてはならない。

争いは、自分自身を忘れさせ、肉親を忘れさせ、主君を忘れさせるものである。わずか一時の怒りを行うことが生涯を台無しにするというのに、しかもこれを行うのは、そのときひとえに自分自身を忘れているからである。一家はあっという間に崩壊し、親戚にまで罰が及び処刑のおそれまであるにも関わらず、しかもこれを行うのは、そのときひとえに肉親を忘れているからである。主君はこれを嫌い、法規が厳しく禁じていることであるにも関わらず、しかもこれを行うのは、そのときひとえに主君を忘れているからである。自分自身を忘れ、肉親を忘れ、主君を忘れる行為は、法規がこれを赦免することはなく、聖王がこの者を生かして養うこともない。豚の仔は虎に近づかず、犬の仔は親から遠くに離れて遊ばない。それは、豚や犬の仔でもその親を忘れないからである。なのに人間でありながら自分自身を忘れ、肉親を忘れ、主君を忘れる行為を行うならば、その者は犬や豚にも劣ると言わなければならない。およそ争う者は、必ず自分を是として他人を非とする。だが本当に己が是で他人が非であるならば、己はすなわち君子であって他人はすなわち小人であるということになるだろう。君子が小人と相争って傷つけ合い、自分自身を忘れ、肉親を忘れ、主君を忘れる行為を行うというのであるか。ならば、これほどの過ちはないであろう。この者は、たとえるならば狐父(こほ)(注3)の戈(か)で牛の糞をかき集めるようなものだ。これで智者といえるだろうか?否、これほどの愚劣はあるまい。これで利益ある行為といえるだろうか?否、これほど害のある行為はあるまい。これで栄誉が得られるといえるだろうか?否、これほどの恥辱はあるまい。これで安泰が得られるだろうか?否、これほど危険な行為はあるまい。いったい人に争いがあるのは、どうしてであろうか。これを、狂気と錯乱の病気の人間が行う行為とみなすべきでろあろうか。だがそうではない。聖王が争う者を誅罰する法を定めるのは、正気の一般人でも争うことがあるゆえの禁令である。ではこれを鳥や鼠のような禽獣(ケダモノ)に属する人非人の行為とみなすべきであろうか。だがそうではない。姿形は全く人間であり、好悪(こうお)も人間の性情と変わらない人間が争うのであり、争いはまさしく人間の行為とみなさなければならない。いったい人に争いがあるのは、どうしてであろうか。私は、争いを非常に醜い行為と考える者である。


(注1)原文「五兵」。五種類の武器のことで、何を五兵に数えるかは各説ある。剣、刀、矛(ほこ)、鉞(まさかり)、矢など。
(注2)原文「君子」。前三篇の方針に従って、栄辱篇でも「君子」は基本的に「君たち」と訳す。勧学篇(1)のコメントを参照いただきたい。
(注3)狐父(こほ)は、現在の江蘇省の地名。古代、名剣の産地であったと記録にある。
《原文・読み下し》
憍泄(きょうせつ) なる者は人の殃(わざわい)なり。恭儉なる者は五兵を偋(しりぞ)く。戈矛(かぼう)の刺有りと雖も、恭儉の利に如かざるなり。故に人に善言を與(あた)うるは(注4)、布帛より煖(あたた)かし。人を傷つくるの言は,矛戟(ぼうげき)より深し。故に薄薄の地も、之を履(ふ)むことを得ざるは、地安からずに非ざるなり。危足して履む所無き者は、凡(すべ)て言に在るなり。巨涂(きょと)には則ち讓(ゆず)り、小涂(しょうと)には則ち殆(あやぶ)む(注5)、謹まざらんと欲すと雖も、云(ここ)に使(せし)めざるが若し。
快快にして亡ぼす者は怒なり、察察にして殘(そこな)う者は忮(し)なり、博にして窮する者は訾(し)なり、之を清くして俞(いよいよ)濁す者は口なり、之を豢(やしの)うて俞(いよいよ)瘠(や)する者は交なり、辯にして說(よろこ)ばれざる(注6)者は爭なり、直立して知ら見(れ)ざる者は勝なり、廉にして貴ば見(れ)ざる者は劌(けい)なり、勇にして憚ら見(れ)ざる者は貪(たん)なり、信にして敬せ見(ら)れざる者は剸行(せんこう)を好めばなり。此れ小人の務むる所にして、君子の爲さざる所なり。
鬭者(たたかいは)其の身を忘るる者なり、其の親を忘るる者なり、其の君を忘るる者なり。其の少頃(しばらく)の怒を行いて、終身の軀を喪う、然も且つ之を爲すは、是れ其の身を忘るるなり。家室立ちどころに殘(そこな)われ、親戚刑戮(けいりく)に免れず、然も且つ之を爲すは、是れ其の親を忘るるなり。君上の惡(にく)む所なり、刑法の大禁とする所なり、然も且つ之を爲すは、是れ其の君を忘るるなり。憂(しも)に(注7)其の身を忘れ、內に其の親を忘れ、上(かみ)に其の君を忘るれば、是れ刑法の舍(お)かざる所なり、聖王の畜(やしな)わざる所なり。乳彘(にゅうてい)は虎に觸れず、乳狗(にゅうこう)は遠遊せざるは、其の親を忘れざるなり。人や、憂(しも)に(注7)其の身を忘れ、內に其の親を忘れ、上(かみ)に其の君を忘るれば、則ち是れ人にして而(しか)も曾(すなわち)狗彘(こうてい)にも之れ若かざるなり。凡そ鬭(たたか)う者は必ず自ら以て是(ぜ)と爲して、人を以て非と爲すなり。己誠に是なり、人誠に非ならば、則ち是れ己は君子にして人は小人なるなり。君子を以て小人と相賊害し、憂(しも)に(注7)以て其の身を忘れ、內に以て其の親を忘れ、上(かみ)に以て其の君を忘るれば、豈(あ)に過つこと甚しからざらんや。是の人や、所謂(いわゆる)狐父(こほ)の戈を以て牛矢(ぎゅうし)を钃(しょく)するなり。將(は)た以て智と爲さんか、則ち愚焉(これ)より大なるは莫し。將た以て利と爲さんか、則ち害焉より大なるは莫し。將た以て榮と爲さんか、則ち辱焉より大なるは莫し。將た以て安と爲さんか、則ち危焉より大なるは莫し。人の鬭有るは何ぞや。我之を狂惑・疾病に屬せんと欲するか、則ち不可なり、聖王又之を誅す。我之を鳥鼠(ちょうそ)・禽獸に屬せんと欲するか、則ち又不可なり、其の形體又人にして、好惡(こうお)多く同じ。人の鬭有るは何ぞや、我甚だ之を醜とす。


(注4)原文「故與人善言」。新釈は、「故に人と與(とも)に言を善(よ)くするは」と読み下している。
(注5)ここの「讓」字と「殆」字の解釈が、説者で一定しない。(1)王念孫説。「殆」を「待」と読む。大道ならば他人と並んで行くことができるが他人に道を譲り、小道は一人しか歩けないので他人が通り過ぎるのを待つ、という風に解する。(2)兪樾説。「譲」を擾攘の「攘」と読む。擾攘は、さわぎみだれること。したがって大道は多くの人が通る道なので雑踏して止まず、小道は人がまれにしか通らない道なので殆(あやう)くて安全でない、という風に解する。金谷治氏は、兪樾説を取る。漢文大系及び新釈は、「譲」字は王念孫説に、「殆」は兪樾説に沿って解釈している。漢文大系及び新釈の解釈に従うことにしたい。
(注6)楊注或説は「説」を読んで「悦」となす、と言う。集解の兪樾は「弁じて人説を解せず」と言う。楊注或説に従えば「よろこばれざる」と読み下し、兪樾説に従えば「さとられざる」と読み見下すべきであろう。どちらでも通ずると思うが、楊注或説に従いたい。
(注7)楊注或説は、「憂」は「下」となすべし、と言う。つまり「下」が誤って「夏」となり、「夏」が転誤して「憂」字となったという解説である。これに従う。なお新釈の藤井専英氏は、「憂」を「擾」の意に取って「みだれて」と読み下している。

栄辱篇は引き続き君子の心得を説いた弁論を集めたものであるが、後半は荀子の性悪説を絡めた論議が置かれている。どうして荀子は『論語』に展開されているような君子論に性悪説を加えなければならなかったのか、という疑問は、『荀子』を読む者が誰でも抱く疑問であろう。『論語』の文言をどう読んでも、性悪説には繋がりそうにない。むしろ『孟子』のように性善説をもって解説したほうが、『論語』の精神にはよりすっきりと当てはまるであろう。荀子は、なぜ『論語』には表れない性悪説を唱える必要があったのか。荀子は、人間が国家秩序を作るために必要な原理として「礼義」を想定した。そしてその国家秩序の中における「君子」とは、人間の本能的な「性」を乗り越えて「偽(い)」としての礼義を身につけた支配階級である、と考えた。荀子の性悪説を理解するためには、性悪篇に加えて富国篇の社会契約論・礼義必要論・身分秩序必要論を併せて読み、また正論篇で展開される宋鈃(そうけい)の人間寡欲説への批判もまた併せて読まなければならない。荀子は、『論語』では体系化されていない国家の統治システムを詳細にモデル化した。性悪説は、その考察に当たって採用された理論であった。

栄辱篇第四(2)

犬や豚の勇気があり、商人や盗賊の勇気があり、小人の勇気があり、士・君子の勇気がある。食い物や飲み物のために戦い、廉恥を知らず、是非の分別を知らず、そのようなことのために死も傷も避けず、敵の数や力の大きさも恐れず、ガツガツとしてただ食い物や飲み物を得ることばかりに目が向いている。人がこのようであるならば、勇気は勇気であっても犬や豚の勇気である。利益を得るがために財貨のために戦い、謙譲の心なく、果敢に争って敵対し、猛烈に貪って敵対し、ガツガツとしてただ利益を得ることばかりに目が向いている。人がこのようであるならば、勇気は勇気であっても商人や盗賊の勇気である。死を軽んじるが、義を重んじることなくただ暴虐なだけである。人がこのようであるならば、勇気は勇気であってもしょせん小人の勇気である。義のためには権力にも屈することなく、利害を顧みることなく、国人が全て反対側に味方したとして心を変えることなく、死を重んじるが義を保ってゆるむことがない。人がこのようであるならば、これが士・君子の勇気である(注1)

鯈(ちゅう。川魚のハヤ)とか䱁(きょう。ナマズ?下の注5参照)とかは、水中でよく浮き上がる習性を持つ魚である。このような魚がふと砂の中に埋もれてしまって水に戻れなくなったら、どんなに水が欲しくてももはや戻ることはできないだろう。人間も同様に、困難に行き当たってしまったときになってようやく行いを改めて謹もうとしても、もはや益を成さないであろう。己のことを知る者は、たとえ困難に行き当たったとしても他人を怨むことはない。天の偶然があることを知る者は(注2)、たとえ困難に行き当たったとしても天を怨むことはない。他人を怨む者は窮するばかりであり、天を怨む者は思慮に欠けている。なすべきはどんな状況でも己の努力を重ねるだけであるのに、無作為であるからこそ今の己の失敗があるのだ。それを他人のせいにするのは、原因をよく知らないというものだ。

栄光と恥辱を分けるもの、および安全と危険、利益と損害の法則について。義を先にして利を後にする者は結局栄え、利を先にして義を後にする者は結局辱められるだろう。栄える者は常に前に向かって通じるが、辱められる者は常に前に困難があって窮する。前に向かって通じる者は常に人を制し、前に困難があって窮する者は常に人に制せられる。これが、栄光と恥辱を分けるものである。謹直な者は常に安全でかつ利益を受け、放埓でたけだけしい者は常に不安定で損害を受けるだろう。安全で利益を受ける者は常に安楽で温和であるが、不安定で損害を受ける者は常に憂いて苦しむであろう。安楽で温和な者は常に長寿を得られるだろうが、憂いて苦しむ者は常に長生きできないであろう。これが、安全と危険、利益と損害の法則なのである。

そもそも天が地上にもろもろの人間を発生させたとき、人間秩序のそれぞれの身分が保たれるべき条件は、自ずから設定されている。意志は人間の中で最もよく修められ、徳行は最も篤く、知慮は最も明察であることは、天子が天下を保有するために持つべき条件である。出す政令には法があり、動く物腰は時宜に正しく、訴えを聴いて判断するには公正であり、上はよく天子の命令に従い、下はよく人民の生活を維持することは、諸侯が諸国を保有するために持つべき条件である。意志と行動はよく修まり、職務に就けばこれをよく治め、上はよく上官に従い、下はよく役職を務めおおせることは、士大夫が封地を保有するために持つべき条件である。法律、規則、度量衡、刑罰、地誌、戸籍に精通し、それら法規の精神への理解は足りないものの、謹んでこれらの条項を守り、法規を恣意的に増やしたり減らしたりする解釈などせずよく自制して、これらの法規を父から子に相伝えることによって王公の制度を維持する。彼らのために、これまでの歴史で夏・殷・周の三代がそれぞれ興亡を経たが、いまだに過去から現在まで統治の法が伝えられて残っている。この役目を担うことは、官人・百吏が秩禄を保有するために持つべき条件である。親には孝、兄には悌を尽くし、謹直であり、力を尽くして己の生業に励んでこれをよく行い、怠けるようなことを決してしないことは、庶人が暖衣飽食して長く生を楽しみ、刑罰処刑から免れるための条件である。邪説・姦言を飾り立て、奇怪の事を行い、他人をそしってでたらめを言い、他人を押しのけて利益を奪い、放埓にしてたけだけしく、おごって粗暴のふるまいをなし、これによって乱世の中で生を盗んで諸方を渡り歩くことは、姦人が危地に追い詰められて辱められて、死刑の罰を受けるための条件である。その思慮が深くなく、その選択を謹まず、その取捨の基準を定めることに怠慢であることは、その身を危うくする原因を作るのである。


(注1)勧学篇(5)末尾の論述も参照。小人の勇と士・君子の勇の比較は、孟子の「匹夫の勇」(梁恵王章句下、三)の議論にも通じる。
(注2)原文読み下し「命を知る者は」。これを「天命を知る者は」と訳すと孟子の議論のようになってしまう。荀子の天は人間に偶然をもたらすが、天が人間を愛したり見捨てたりする意志を持つことはない。人間は天の偶然があることを所与として人力で最善を尽くさなければならない、と天論篇において主張されているところである。なので、ここではあえて「命」を天の偶然、と訳して孟子の議論と区別した。
《原文・読み下し》
狗彘(こうてい)の勇なる者有り、賈盜(ことう)の勇なる者有り、小人の勇なる者有り、士・君子の勇なる者有り。飲食を爭いて、廉恥無く、是非を知らず、死傷を辟(さ)けず、衆强を畏れず、恈恈然(ぼうぼうぜん)として惟(ただ)飲食を利することを之れ見るは、是れ狗彘の勇なり。事利の爲に貨財を爭い(注3)、辭讓無く、果敢にして振(もと)り(注4)、猛貪(もうたん)にして戾(もと)り、恈恈然として惟利を之れ見るは、是れ賈盜の勇なり。死を輕んじて暴なるは、是れ小人の勇なり。義の在る所、權に傾かず、其の利を顧みず、國を舉(あ)げて之に與(くみ)するも、改め視ることを爲さず、死を重んじて義を持して橈(たわ)まざるは、是れ士・君子の勇なり。
䱁(*)(ちゅうきょう)(注5)なる者は、浮陽の魚なり。沙に胠(さえぎ)られて水を思えば、則ち逮(およ)ぶこと無し。患に挂(かか)りて謹まんと欲すれば、則ち益無し。自ら知る者は人を怨まず、命を知る者は天を怨まず。人を怨む者は窮し、天を怨む者は志無し。之を己に失いて、之を人に反するは、豈(あ)に迂ならずや。
榮辱の大分、安危・利害の常體。義を先にして利を後にする者は榮え、利を先にして義を後にする者は辱しめらる。榮ゆる者は常に通じ、辱しめらる者は常に窮す。通ずる者は常に人を制し、窮する者は常に人に制せらる。是れ榮辱の大分なり。材愨(ざいかく)なる者は常に安利にして、蕩悍(とうかん)なる者は常に危害なり。安利なる者は常に樂易にして、危害なる者は常は憂險なり。樂易なる者は常に壽長(じゅちょう)にして、憂險なる者は常に夭折す。是れ安危・利害の常體なり。
夫れ天の蒸民(じょうみん)を生ずる、以て之を取る所有り。志意脩(しゅう)を致(きわ)め、德行厚(こう)を致め、智慮明(めい)を致むるは、是れ天子の以て天下を取る所なり。政令法あり、舉措(きょそ)時あり、聽斷公にして、上は則ち能く天子の命に順い、下は則ち能く百姓を保つは、是れ諸侯の以て國家を取る所なり。志行脩まり、臨官治まり、上は則ち能く上に順い、下は則ち能く其の職を保つは、是れ士大夫の以て田邑を取る所なり。法則・度量、刑辟(けいへき)・圖籍(とせき)を脩め(注6)、其の義を知らざるも、謹みて其の數(すう)を守り、愼みて敢て損益せず、父子相傳えて、以て王公を持す、是の故に三代亡ぶと雖も、治法猶お存するは、是れ官人・百吏の以て祿秩を取る所なり。孝悌・原愨(げんかく)、軥錄(こうろく)・疾力にして、以て其の事業を敦比(とんひ)して、敢て怠傲(たいごう)せざるは、是れ庶人の以て煖衣・飽食を取り、長生・久視して、以て刑戮を免るる所なり。邪說を飾り、姦言を文(かざ)り、倚事(きじ)を爲し、陶誕(ようたん)(注7)・突盜(とつとう)、惕悍(とうかん)・憍暴(きょうぼう)にして、以て亂世の間に偷生(とうせい)・反側するは、是れ姦人の以て危辱・死刑を取る所なり。其の慮の深からざる、其の擇の謹まざる、其の取舍を定むるの楛僈(こまん)なる、是れ其の危き所以なり。

(*)原文は「魚へん+本」。CJK統合漢字および同拡張Aにないので、やむなく代用する。

(注3)新釈は「事利を爲し、貨財を爭い」と読み下している。
(注4)集解の王引之は、「振」は「很」の字の誤りであり、「果敢にして很(もと)り」と「猛貪にして戾(もと)り」と二句一意相承ける、と言う。これに従う。新釈は増注が引く古屋鬲説の「振は奮なり」を取って、「振(ふる)う」と読んでいる。
(注5)「䱁」字について。底本は「魚へんに本」であるが今字になく、「䱁」字で代用する。「䱁」字はCJK統合漢字拡張Aにしかない。この字は何の魚を指しているのかについて、各説がある。(1)郝懿行は「鱧」字の可能性を指す。「体」の本字が「體」であることから、「鱧」字の略記体として「魚へんに本」であろう、という推測である。「鱧」は日本語ではハモのことであるが、漢字本来の意味ではオオナマズのこと。(2)王念孫は「魾(ひ)」字の誤りであることを疑う。「魾」はナマズの一種。
(注6)「脩」字について、宋本はこれを「循」とする。「循」ならばシタガウ、と読み下す。
(注7)集解の郝懿行は、「陶誕」はすなわち「謠誕(ようたん)」であり毀謗誇誕、と言う。他人をそしってでたらめを言うこと。

最初の段落および三つ目の段落について。儒家思想においては、「利」は「義」の対義語として用いられる。「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(論語、里仁篇)「利を見ては義を思い、危を見ては命を授く」(同、憲問)「王何ぞ必ずしも利と曰わん、亦仁義有るのみ」(孟子、梁恵王章句上)。三段落目にある荀子の「義を先にして利を後にする者は榮え、利を先にして義を後にする者は辱めらる」の語もまた、これら儒家の用語を踏襲したものである。そもそも荀子は性悪説に立つので、人間の「性」・「情」が「利」を求める存在であることを認める。「夫れ利を好みて得を欲する者は、此れ人の情性なり」(性悪篇)。しかし国家を指導するエリートである君子だけは、学んで身につけた「偽(い)」がもたらす「義」によって「性」・「情」から発する「利」をコントロールし、これを後回しにしなければならない。荀子の思想はこうして「利」を必然としながら、「利」を抑えるべきとする儒家思想と自らの主張を整合させようとするのである。

「利」は利益・便利の意であり、また刃物の先がするどい意もある。つまり、平常平凡から離れて突出して役に立つ状態を言う。その突出した状態を儲ける機会とみなして利益を狙うのが、商人である。他方、君子は社会の統治者として、社会を平常状態に保つことを心がける。社会が平常状態にあることが社会が正義にある姿であり、したがって「義」なのである。儒家思想が商人の「利」を盗賊と同列に扱うのは、それが社会の平常状態から突出した利益を狙うことに専念して、社会を平常状態に落ち着けることを顧みないからである。荀子は、身分による経済格差を社会秩序の不可欠の要素とみなす(富国篇を参照)。だが荀子から見れば、これは「義」の範疇にあるはずだ。荀子のような儒家にとって、身分格差・経済格差は社会の平常状態においてあるべき正統な秩序であり、したがって「義」なのである。荀子たち儒家思想には、官尊民卑の視点がある。

最後の段落について。荀子は、王の下に諸侯が封建される封建国家を理想とする(王制篇の官職表を参照)。いっぽう弟子の李斯は荀子の封建国家を否定して、全ての地方を郡県に分けて中央から長官を派遣して統治する郡県制を断行した。王・諸侯・士大夫の下に、法を守ってこれを継承する官人百吏がいる。彼ら官人百吏が、夏・殷・周の各王朝は交替しても、過去から現在まで法制度を変えることなく受け継がせてきたという。荀子は、法の歴史的な連続性を維持してきた担い手として、名もなき末端の実務官吏たちの継続的な力があったことを指摘するのである。この考えは、現在の王朝の法は過去の王朝の法と連続しているという荀子の後王思想を裏付ける考えである、とみなすことができるだろう。王朝や体制が変わっても実務官僚の法は連続している、という荀子の指摘は、歴史を英雄豪傑のエピソードとして見る史観ではなくて、人間社会の生存運営の連続として見る史観を切り開く道に繋がるであろう。ここでの荀子の歴史を通じた連続性を捉える視点は、近代史学と同一のものを持っている。

栄辱篇第四(3)

人間の素材である「性」も知能も、君たち君子と小人とでは変わりがないのだ。栄光を愛して恥辱を嫌い、利益を愛して損害を嫌うこともまた、君たち君子と小人とでは変わりがないのだ。しかしながら、これらを求めるために従う道は、全く異なっている。小人という存在は、でたらめな大言を矢継ぎ早に吐いて、それで他人が自分を信じることを望み、詐術を矢継ぎ早に行って、それで他人が自分に親しんでくれることを望み、禽獣(ケダモノ)同然の行いをなして、それで他人が自分を善であると認めることを望む。その考えていることは不可解で、その行うことは定まりなく、自分の行いを持続することは困難で、結局のところ自分の望むことは決して得られず、自分が嫌うことに必ず出くわすのである。ゆえに君たち君子という存在は、自らまず信を守って、それとともに他人が自分を信じてくれることを望み、自ら忠(まごころ)を守って、それとともに他人が自分に親しんでくれることを望み、自らをよく修め正して整えて、それとともに他人が自分を善であると認めてくれることを望む。その考えていることは理解しやすく、その行うことはよく安定し、自分の行いをよく持続することができて、結局のところ君たちは必ず自分の望むことを得て、自分が嫌うことには決して出くわさないであろう。ゆえに君たち君子は困窮するときにもその名声が隠れることはなく、順調であるときには功績が大いに明らかとなり、我が身は亡んでもその名はますます輝くであろう。そのとき小人どもは首を伸ばして踵を高くして君子をうらやみ、「あなたたちはけっきょく、素材である『性』と知能が他人より勝っているから俺たちと差が出たのだ!」などと必ず言うことであろう。だがこやつらは、素材である「性」と知能は君子も小人も異ならない、ということを知らないのだ。つまり、君たち君子はなすこと全てを妥当に振舞うのであるが、小人はなすこと全ての振る舞いをまちがえる。しかし小人の知能を考えてみると、こういった君子の行いを彼らもまた行うだけの知能を十分に持っていることがわかる。たとえるならば、越国の人間は越国の風俗に安んじ、楚国の人間は楚国の風俗に安んずるが、君たち君子は中華標準の文化(注1)に安んじている。これは、素材である「性」と知能が異なっているから分かれたのではなくて、日常的に身をひたしている振る舞い方と習俗が異なっているから分かれたのである。仁義と徳行は、常に安泰を得るべき術である。しかしながら、仁義と徳行を行ったとしても絶対に危険に遇わないというわけではない。他人をそしってでたらめを言い、他人を押しのけて利益を奪うことは、常に危険に遇うべき術である。しかしながら、これらのことを行ったとしても絶対に安泰となる者はいないというわけではない。君たち君子は、偶然の不運を過大視することなく、常に安泰を得るべき術によらなければならない。しかし小人は、偶然の幸運を過大視して、常に危険を得るべき術によるのである。

およそ人間には同じところがある。腹が減ったら食べることを欲し、寒かったら暖まることを欲し、疲れたら休むことを欲し、利益を好んで危害を嫌うのは、人間が生まれながらにして持っているところであり、人間が意図的に何かを行うことを待たずして自然にそうなるところのものであり、聖王の禹も悪王の桀も変わらないものである。目が白・黒の色を識別してかつ美しい映像・醜い映像を識別する能力を持っていること、耳が音声を識別してかつ清音・濁音の区別を聞き取る能力を持っていること、口が酸味・塩味・甘味・苦味を識別する能力を持っていること、鼻がよい香り・香草の香り・なまぐさい臭い・油くさい臭いを識別する能力を持っていること、身体と皮膚が寒さ・厚さ・痛さ・かゆさを識別する能力を持っていること、これらもまた人間が常に生まれながらにして持っているところであり、人間が意図的に何かを行うことを待たずして自然にそうなるところのものであり、聖王の禹も悪王の桀も変わらないものである。人間は聖王の堯・禹になることもできれば、悪人の桀・盗跖(とうせき。伝説の大盗賊)になることもできるし、工匠になることもできれば、農民や商人になることもできる。これらを分けるものは、勢い日常の振る舞い方と習俗を積み重ねていった結果にすぎないのだ。ところが日常の振る舞い方と習俗を積み重ねるという習性もまた、人間が生まれながらにして持っているところであり、人間が意図的に何かを行うことを待たずして自然にそうなるところのものであり、聖王の禹も悪王の桀も変わらないものである。堯・禹のようになれば、常に安泰で栄光を得るであろう。桀・盗跖のようになれば、常に危険で恥辱を得るであろう。堯・禹のようになれば、常に心は悦楽して身体は安楽であるが、工匠や農民・商人のようになれば、常に心は煩労して身体は疲労するであろう。なのに、人が危険・恥辱・煩労・疲労の道をわざわざ努めて行い、安泰・栄光・悦楽・安楽の道を行う者がすくないのは、どうしてであろうか?それは、人間が固陋だからである。堯や禹は、生まれながらにしてそれらの智徳を備えていたわけではない。彼らは生まれながらの素材を作り変えるところから始めて、「為(い)」を修めて完成させ(注2)、素材がすっかり作り変えられた果てに智徳を備えるに至ったのである。

人間は生まれたままの存在では、小人である。学ぶ師もなく則る法もなければ、心はただひたすらに利益を見るばかりである。人間は生まれたままの存在では小人であり、これが乱世に生を受けて乱俗を身に付けたならば、卑小の上に卑小を重ねることになる。君子が社会の上に立ってこれら小人に相向かわなければ、小人の心を開いて導くきっかけすらないであろう。人間の口と腹が、なんで礼義を知っているだろうか?なんで謙譲を知っているだろうか?なんで廉恥を知っているだろうか?なんで道理の分かれ目と正道を知っているだろうか?人間の口と腹は、しょせん食っては満腹することしか知らないのである。もし人間に学ぶ師もなく則る法もなければ、すなわち人間の心は口と腹といっしょであろう。もしここに人がいて、生まれてからいまだかつて肉の美味も穀物の美味も味わったことがなく、豆とか豆の葉とか酒かすとか米ぬかのような貧しい食事しか見たことがないとする。この者は、他の美食を知らないのであるからこんな貧しい食事でも十分満足しているであろう。だがここにとつぜん肉料理がこの者の前に運ばれてきたとする。するとこの者は驚き怪しんでこれを見て、「この変なものはなんだ?」と言うであろう。しかしこの料理に近寄って匂ってみると悪い匂いはせず、なめてみるといい味であり、食べてみると体に元気が出てくる。こうなれば、この者とてこれまでの貧しい食事など打ち捨てて、美味な食事を取ることは必然である。いま、わが国の文明を築いた先王たちの正道を取り、仁義の原則による統治を採用して、人間たちを群居させ、互いに扶養させ、互いに礼義を習得させ、互いに安泰な生活を築かせていったならば、その素晴らしい治世は桀や盗跖の乱脈の道と比べてあまりにも勝っているのであって、その勝りようはさきほどの肉や穀物の美味と貧しい食事との隔たりよりも、はるかに抜きん出ているだろう。なのに、人が桀や盗跖の乱脈の道をわざわざ努めて行い、先王の道を行う者がすくないのは、どうしてであろうか?それは、人間が固陋だからである。固陋なる心は天下の公患であり、人間の大いなるわざわいである。古語に、「仁者は好んで人に告げ示す」と言う。仁者はこの固陋な人間たちに、正道を告げ、正道を示し、正道に感化させて、正道をさっさと行わせて、正道に従わせて、正道を重ねさせる。このようにすれば、きっと固陋な者もたちまちのうちに寛大な心を持つようになり、愚劣な者もたちまちのうちに知力を得ることであろう。これがもし行われないというのであれば、湯・武のような聖王が上に君臨しても、なんの益があるだろうか?桀・紂のような悪王が上に君臨しても、なんの害があるだろうか?だが湯・武が上にあれば、天下はやがて治まる。桀・紂が上にあれば、天下はやがて乱れる。これこそ、人間の「情」は上からの教化しだいで湯・武の民のようにもなるし、あるいは桀・紂の民のようにもなる証拠ではないか?


(注1)原文「雅」。中華標準の文化のこと。論語述而篇に「子の雅言する所は、詩・書・執礼、皆雅言す」とある。各地方の言葉や文化でない、中華世界の標準語・標準的文化のこと。対比されている越国も楚国も、南蛮文化の代表的な国である。
(注2)原文「脩爲に成り」。ここでの「爲」は明らかに性悪篇の用語における「偽(僞)」を指している。
《原文・読み下し》
材性(さいせい)・知能は、君子も小人も一なり。榮を好み辱を惡(にく)み、利を好み害を惡むは、是れ君子も小人も同じき所なり。若し其れ之を求むる所以の道は則ち異れり。小人なる者は、疾(つと)めて誕(たん)を爲して、人の己を信ぜんことを欲し、疾めて詐を爲して、人の己に親しまんことを欲し、禽獸の行にして、人の己を善とせんことを欲す。慮するも之れ知り難く、行うも之れ安んじ難く、持するも之れ立ち難く、成(つい)に(注3)則ち必ず其の好む所を得ず、必ず其の惡む所に遇う。故に君子なる者は、信にして、亦人の己を信ぜんことを欲し、忠にして、亦人の己に親しまんことを欲し、脩正・治辨にして、亦人の己を善とせんことを欲す。慮すれば之れ知り易く、行えば之れ安んじ易く、持すれば之れ立ち易く、成(つい)に(注3)則ち必ず其の好む所を得、必ず其の惡む所に遇わず。是(こ)の故に窮すれば則ち隱れず、通ずれば則ち大いに明(あきら)かに、身死して名彌(いよいよ)白(あら)わる。小人は頸(くび)を延べ、踵(きびす)を舉(あ)げて、知慮・材性は、固(もと)より以て人に賢(まさ)ること有らんと願い曰わざること莫し。夫れ其の己と以て異なること無きを知らざるなり。則ち君子は注錯(ちゅうそ)之れ當(あた)りて、小人は注錯之れ過(あやま)てるなり。故に小人の知能を熟察するに、以て其の以て君子の爲す所を爲す可きに餘り有るを知るに足る。之を譬うるに越人(えつひと)は越に安んじ、楚人(そひと)は楚に安んじ、君子は雅(が)に安んず。是れ知能・材性然るに非ざるなり、是れ注錯・習俗の節異なればなり。仁義・德行は、常安の術なり、然り而(しこう)して未だ必ずしも危からずんばあらざるなり。汙僈(おまん)・突盜(とつとう)は、常危の術なり、然り而して未だ必ずしも安からずんばあらざるなり。故に君子は其の常に道(よ)りて、小人は其の怪に道る。
凡そ人は一同なる所有り。飢えて食を欲し、寒(こご)えて煖を欲し、勞して息(そく)を欲し、利を好んで害を惡むは、是れ人の生れながらにして有する所なり、是れ待つこと無くして然る者なり、是れ禹・桀の同じき所なり。目は白黑・美惡を辨じ、耳は音聲・清濁を辨じ、口は酸・鹹(かん)・甘・苦を辨じ、鼻は芬(ふん)・芳(ほう)・腥(せい)・臊(そう)を辨じ、骨體(こつたい)・膚理(ふり)は寒・暑・疾・養を辨ず、是れ又人の常(つね)に(注4)生れながらにして有する所なり、是れ待つこと無くして然る者なり、是れ禹・桀の同じき所なり。以て堯・禹と爲る可く、以て桀・跖と爲る可く、以て工匠と爲る可く、以て農賈と爲る可く、埶(せい)に(注5)注錯・習俗の積む所に在るのみ、是れ又人の生れながらにして有する所なり、是れ待つこと無くして然る者なり、是れ禹・桀の同じき所なり。堯・禹と爲れば則ち常に安榮し、桀・跖と爲れば則ち常に危辱し、堯・禹と爲れば則ち常に愉佚し、工匠・農賈と爲れば則ち常に煩勞す。然り而して人力(つと)めて此れを爲して、而(しか)も彼を爲すこと寡きは、何ぞや。曰く、陋なればなり。堯・禹なる者は、生れながらにして具(そな)わる者に非ず、夫れ故を變ずるに起り、修[修之]爲(しゅうい)(注6)に成り、盡(つ)くるを待ちて而る後に備わる者なり。
人の生は固(もと)より小人なり、師無く法無ければ、則ち惟(ただ)利を之れ見るのみ。人の生は固より小人にして、又以て亂世に遇い、亂俗を得たり、是れ小を以て小を重ね、亂を以て亂を得るなり。君子埶(せい)を得て以て之に臨むに非ずんば、則ち開內(かいのう)を得るに由無し。今是(か)の(注7)人の口腹、安(いずく)んぞ禮義を知らん、安んぞ辭讓を知らん、安んぞ廉恥・隅積を知らん。亦呥呥(ぜんぜん)として噍(か)み、鄉鄉(きょうきょう)として飽くのみ。人師無く法無ければ、則ち其の心は正(まさ)に其の口腹なり。今人をして生れて未だ嘗て芻豢(すうけん)・稻粱(とうりょう)を睹(み)ず、惟(ただ)菽藿(しゅくかく)・糟糠(そうこう)を之れ睹(み)ることを爲さしむれば、則ち至足(しいそく)を以て此に在りと爲さん。俄(にわか)にして粲然として芻豢・稻梁を秉(と)りて至る者有らば、則ち瞲然(きつぜん)として之を視て曰く、此れ何の怪ぞやと。彼之を臭いで鼻に嗛(けん)たること無く(注8)、之を嘗(な)めて口に甘く、之を食いて體に安ければ、則ち此を弃(す)てて彼を取らざること莫し。今夫(か)の先王の道、仁義の統を以て、以て相羣居(ぐんきょ)し、以て相持養(じよう)し、以て相藩飾(はんしょく)し、以て相安固(あんこ)せんか、夫の桀・跖の道以(と)(注9)、是れ其の相縣することを爲すは、幾(あ)に直(ただ)に夫の芻豢・稻梁の、糟糠に縣するのみならんや。然り而して人力(つと)めて此を爲して、而(しこう)して彼を爲すこと寡きは何ぞや。曰く、陋なればなり。陋なる者は天下の公患なり、人の大殃(だいおう)・大害なり。故(こ)に曰く、人者(じんしゃ)(注10)は好んで人に告示す、と。之に告げ、之に示し、之を靡(び)し、之を儇(けん)し、之に鈆(よ)り、之を重ぬれば、則ち夫(か)の塞なる者も俄(にわか)にして且(まさ)に通ぜんとし、陋なる者も俄にして且に僩(かん)ならんとし、愚なる者も俄にして且に知ならんとするなり。是れ若し行われざれば、則ち湯・武上に在りて曷(なん)ぞ益せん、桀・紂上に在りて曷ぞ損せん。湯・武存すれば、則ち天下從いて治まり、桀・紂存すれば、則ち天下從いて亂る。是(かく)の如き者は、豈に人の情、固(もと)より與(もつ)て(注11)此の如くなる可く、與て(注11)彼の如くなる可きに非ざらんや。


(注3)集解の兪樾は、「成」はなお「終」のごとくなり、と言う。これに従う。ついに。
(注4)増注および集解の王先謙は、「常」字は衍と言う。しかし、新釈の藤井専英氏に従い残す。
(注5)増注および集解の王先謙は、「埶」字は衍と言う。しかし、これも新釈の藤井専英氏に従い残す。
(注6)集解の兪樾は、「修之」は衍、と言う。これに従う。新釈の藤井専英氏は、この二字もあえて残して読み下している。
(注7)集解の王念孫は、「是」はなお「夫」のごとし、と言う。かの。
(注8)原文「無嗛」。楊注は「嗛」は「慊(けん)」たるべし、と言う。「無嗛」で、あきたりなくない、悪くない、の意。集解の王念孫は「無」は衍字で「嗛」は「快」なりと言う。「嗛(きょう)」の一字でこころよい、の意に取る。新釈の藤井氏はもう一つの読み方として、「嗛(きょう)」をこころよい、の意に取って「無」字を衍とせず、「無嗛」で最初に嗅いでみたときには快感を受けなかった(だがなめてみるとうまく食べると甚だ体に調子がよい)、のような意味に取る説を示している。楊注に従いたい。
(注9)原文「以夫桀跖是道」。集解の王先謙は「以」はなお「與」のごとし、と言う。
(注10)宋本は「人」を「仁」に作る。集解本の編者である王先謙は「各本皆仁者に作る。王の見る所の本と異なる」と注している。いま底本としている漢文大系は集解本に即しているので「人」字に作っている。この「人」字は当然「仁」字に読むべきである。
(注11)増注は、「與」と「以」はいにしえに通用す、と言う。上の注9の王先謙注と同じ。

栄辱篇の後半は、性悪篇と同じ議論が行われる。禹・舜のような聖人と小人とは「性」・「情」が同じであり、両者を隔てるものは後天的な修養だけである、と論じる。荀子がこの栄辱篇で学ぶ者に言いたいことは、君たち君子は「偽(為)」を修めて「性」・「情」を乗り越える存在となるべきだ、というものである。したがって『論語』や『孟子』が君子に呼びかける倫理と変わることはないのであるが、荀子の呼びかけは彼の性悪説と統一した論述となっているために、人間は生まれたままの存在では小人である、と言う。荀子の人の道を説く言葉は、孔子や孟子の言葉に比べて人間を定義づける用語がネガティブである。これでは、確かに後世に大衆的な人気を得られないであろう。

栄辱篇第四(4)

人間の「情」(注1)は、美味な肉料理を食べたいと望み、華麗な刺繍の衣服を着たいと望み、徒歩でなくて馬車で外出したいと望み、蓄財したいと望むものである。そうでありながら、人が何年生きても世代を何度積み重ねても、人間はこれで満足ということを知らない。この飽くなき欲望もまた、人間の「情」なのである。ところが人間は鶏・犬・豚・牛・羊を家畜として飼育する術を知っておりながら、酒も肉もあえて食べようとしない者がいる。銭をあり余るほど蓄えて財貨を倉庫に積んでいるのに、絹服を着るぜいたくをあえてしない者がいる。貴重品を宝箱にいっぱい隠しているのに、馬車を使わずにあえて歩いていく者がいる。これは、どうしてそうするのであろうか?ぜいたくをしたくないわけでは、断じてない。それは、長期的な計画を立てて後のことを考えて、生活が継続できないことを恐れての貯蓄行為のゆえであるに違いない。この動機ゆえに、節約をして欲望を制御し、集めて蓄蔵して、将来の生活を継続させようとするのである。この行為は、自分自身の生活を長期的に計画して後のことを考える、まことによいことではなかろうか。いっぽうかの思慮浅く生をぬすんで暮す連中は、このような計画的生活など一度も考えたことすらない。ただ大いに食らって、後のことを考えず、たちまち財貨が尽きれば困窮するのである。これだからこの連中は凍えて飢えることを免れず、瓢箪と飯入れを提げて放浪した末にやがて道端の死骸となるのである。ましてや、先王たちの正道や仁義の原則による統治や詩・書・礼・楽の規範など、彼らに理解できるはずもない。かの先王たちは、まことに天下の大知識者であった。彼らは天下の人民のために、長期的な計画を立てて後のことを考えて、万世の末まで治世を保とうと考慮したのであった。その遺風は長く残り、その積みあがった恩沢は厚く、その功績は遠き後世にまで残るものであり、これによく従って「為(い)」を修めて(注2)完成させた君子でなければ、彼ら先王の業績についてよく理解することはできないであろう。古語に、「短いつるべでは深い井戸の水を汲むことはできず、知が多くない者では聖人の言葉に理解を届かせることはできない」とある。詩・書・礼・楽の規範などは、かの凡庸な人間たちではとうてい理解できないのだ。ゆえに、私は君たちに言いたい。一度学んだものは、再度習いなさい。身に付いたならば、これを長く保ちなさい。広く学んだならば、万事を解決しなさい。よく熟慮して、己の心を安定させなさい。繰り返して習いよく洞察して、ますます好みなさい、と。このようにして「情」を統御したならば、利益があるだろう。このようにして名を挙げれば、栄誉があるだろう。これを通じて人を集めたならば、和合させることができるだろう。これによって独居したならば、満ち足りるであろう。これぞ、自らの心を楽しませる道ではなかろうか?

天子のように尊貴になり、天下を保有するほどに富を得る。これは、人が「情」として誰でも同じく望むものである。しかしながら人がその欲をほしいままに解放すれば、状況は許容できない惨状となり、物資は全く足りなくなる。ゆえにわが国の文明を築いた先王はこれの対策として、礼義を制定して区分を作り、貴賤の差、長幼の差、知愚の差、能不能の差に応じてこれを区別立てて、社会の全ての人間がそれぞれの仕事を行ってそれぞれの能力にふさわしい位置に付くように仕向け、そうした後に禄高の多少・厚薄を区別してそれぞれの働きに対応させたのである。これこそが、集団生活して調和の中に統一された社会を作る道なのであった。ゆえに、仁の人が上に立てば、農民は力を尽くして田を耕し、商人は知力を尽くして財貨を流通させ、工人たちは技巧を尽くして道具を作り、そして士大夫から公侯に至るまでの全ての宮廷人は、仁を厚くして知能を尽くし、それぞれの官職に励むのである。これが、泰平の極地というのである。ゆえに、この泰平の秩序においては、たとえ天下を禄とする天子であったとしても、これを過分な禄だとは思うことがない。また都市の門番、旅行者の管理人、関所の番人、夜警人のような卑しい官職であったとしても、これを寡少な禄だとは思うことがない。古語に、「不揃いゆえに揃い、曲がっているゆえに素直であり、同じからずして一つである」と言う。つまり、身分の不平等の下に安定することが、人間社会の正しいありかたなのである。『詩経』に、この言葉がある(注3)(注4)。:

小共(しょうきょう)・大共(だいきょう)のみたからを受け
諸国したがう、駿蒙(しゅんもう)となる
(殷頌、長發より)

これは湯王のことを称えた言葉であるが、湯王は過分なものを受け取ったのであろうか?そうではない。聖王の身分と功績は、天下と宝玉を受け取るにふさわしいのである。


(注1)人間は「性」「情」の面では君子も小人も変わらず、「情」として欲望を持つことは聖人だろうが悪人だろうが変わることはない。さきの栄辱篇(3)を参照。
(注2)「爲」は「偽(僞)」のことである。栄辱篇(3)注2に同じ。
(注3)詩中の「共」とは「珙(きょう)」のことで、両手でかかえるほどの大きい玉璧(ぎょくへき)のこと。
(注4)詩中の「駿蒙」は駿馬のこと。
《原文・読み下し》
人の情、食は芻豢(すうけん)有るを欲し、衣は文繡(ぶんしゅう)有るを欲し、行くは輿馬(よば)有るを欲し、又夫(か)の餘財蓄積(よざいちくし)の富まんことを欲するなり。然り而して年を窮め世を累(かさ)ね、[不]足(た)ることを知らざるは(注5)、是れ人の情なり。今人の生や、方(まさ)に雞(けい)・狗(こう)・豬彘(ちょてい)を蓄(やしな)い、又牛羊を蓄うを知る、然り而して食うに敢て酒肉有らず。刀布を餘(あま)し、囷窌(きんこう)を有す、然り而して衣(き)るに敢て絲帛(しはく)有らず。約なる者は筐篋(きょうきょう)に之れ藏する有り、然り而して行くに敢て輿馬有らず。是れ何ぞや。欲せざるに非ざるなり、幾(あ)に慮を長くし後を顧みて、以て之に繼ぐこと無きを恐るるが故ならずや。是に於て又用を節し欲を禦し、收歛・蓄藏して、以て之に繼ぐなり、是れ己が長慮・顧後するに於て、幾(あ)に甚だ善からずや。今夫の偷生(とうせい)・淺知の屬、曾て此而(これをしも)(注6)知らざるなり、糧食大(はなは)だ侈(おご)りて、其の後を顧みず、俄(にわか)にして則ち屈(つ)くれば(注7)安(すなわ)ち窮す。是れ其の凍餓に免れず、瓢囊(ひょうのう)を操(と)りて溝壑中の瘠(し)(注8)と爲る所以の者なり。況んや夫の先王の道、仁義の統、詩・書・禮樂の分をや。彼は固(まこと)に天下の大慮なり、將(まさ)に天下生民の屬の爲めに、慮を長くし後を顧みて、萬世を保たんとするなり、其の㳅(りゅう)(注9)長く、其の溫(うん)(注10)厚く、其の功盛(こうせい)は姚遠(ようえん)(注11)なり。孰(じゅんじゅく)(注12)・脩爲(しゅうい)の君子に非ざれば、之を能く知ること莫きなり。故(こ)に曰く、短綆(たんこう)は以て深井(しんせい)の泉を汲む可らず、知幾(おお)からざる者は與(もっ)て聖人の言に及ぶ可からず、と。夫の詩・書・禮樂の分は、固(もと)より庸人の知る所に非ざるなり。故(ゆえ)に(注13)曰く、之を一たびにして再びす可きなり、之を有して久しくす可きなり、之を廣(ひろ)くして通ず可きなり、之を慮(おもんぱか)りて安んず可きなり、反鈆(はんえん)して之を察して、俞(いよいよ)好む可きなり、と。以て情を治むれば則ち利あり、以て名を爲せば則ち榮あり、以て羣(ぐん)すれば則ち和し、以て獨すれば則ち足る。意を樂します者は其れ是れなるか。
夫れ貴きこと天子と爲り、富は天下を有(たも)つ、是れ人情の同じく欲する所なり。然り則して人の欲を從(ほしいまま)にすれば、則ち埶(せい)容るること能わず、物贍(た)すこと能わざるなり。故に先王案(すなわ)ち之が爲めに禮義を制して以て之を分ち、貴賤の等、長幼の差、知愚(ちぐ)(注14)・能不能の分を有らしめ、皆人をして其の事を載(おこな)いて(注15)、各(おのおの)其の宜しきを得せしめ、然る後に愨祿(こくろく)(注16)の多少・厚薄をして之に稱(かな)わしむ、是れ夫の羣居(ぐんきょ)・和一の道なり。故に仁人上に在れば、則ち農は力を以て田に盡(つく)し、賈は察を以て財に盡し、百工は巧を以て械器に盡し、士大夫以上、公侯に至るまで、仁厚・知能を以て官職に盡さざること莫し。夫れ是れを之れ至平と謂う。故に或は天下を祿して、而(しか)も自ら以て多しと爲さず、或は監門(かんもん)・御旅(ぎょりょ)・抱關(ほうかん)・擊柝(げきたく)にして、而も自ら以て寡(すくな)しと爲さず。故(こ)に曰く、斬(ざん)(注17)にして齊(ひと)しく、枉(ま)げて順(したが)い、不同にして一なり、と。夫れ是を之れ人倫と謂う。詩に曰く、小共大共を受けて、下國の駿蒙(しゅんもう)と爲る、とは、此を之れ謂うなり。


(注5)原文「不知不足」。楊注は、「不知足」となすべし、と言う。これに従う。なお新釈の藤井専英氏は、「不知不足」を「知覚せずまた満足せず」と訳して「不」字を削らない。
(注6)増注は「而」は「之」と通ず、語助なり、と言う。「此之」で通常はコレヲコレだが、漢文大系は文意を取ってコレヲシモ、と読み下している。
(注7)楊注は「屈」は「竭」なり、と言う。つく。
(注8)集解の王念孫は、「瘠」は読んで「胔」となす、と言う。「胔(し)」は、肉の付いた野ざらしの死骸を表す。
(注9)「㳅」は「流」の古字。CJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注10)集解の郝懿行は「溫」は「蘊」と同じくして「蘊」は「積」なり、と言う。先王の積みあがった恩沢のこと。
(注11)楊注は、「姚」は「遙」なり、と言う。遙遠(ようえん)で、はるか。
(注12)集解の王念孫は礼論篇に「順孰脩爲之君子」の語があることを引いて、この文は「順」字が脱けている、と言う。これに従って「順」の一字を加えておく。
(注13)上の「故」は古語の引用とみなして「故(こ)」と読むが、ここから以下の文は荀子本人の総括の言葉とみなして「故(ゆえ)」と読む。なお上の「短綆は以て深井の泉を汲む可らず、知幾からざる者は與て聖人の言に及ぶ可からず」について、冢田虎『荀子断』は「管子曰く、夫(そ)れ短綆は以て深井を汲む可らず、知鮮(すくな)きは以て聖人の言に與(くみ)する可からず」と言って、『管子』に類似の言葉があることを指摘する。
(注14)宋本は「賢」字が入って「知賢愚」に作り、元本は「知愚」である。王念孫は「賢」字を宋本が誤って追加したものと言い、元本を是とする。集解本の編集者である王先謙は王念孫説に従って、「賢」字を入れない。
(注15)楊注は「載」は「行」なり、と言う。
(注16)増注は「愨」は「穀」に作るべし、字の誤なり、と言う。これに従う。
(注17)集解の劉台拱は、「斬」は読んで「儳」のごとし、と言う。「儳」は、たがいに不ぞろいの様子。

荀子は上の段落で、人間の経済活動の計画性を指摘する。人間が今の快楽を抑えて資本を蓄積するのは、将来の不測の事態に備えての計画である。国家は善政を行って人民の生活をサポートし、継続的に豊かな経済活動が行えるインフラを提供しなければならない。荀子の主張を現代的な用語で言い換えれば、このようになるであろう。その叙述は現代のオーソドックスな経済思想とほとんど同一であり、古代の時点ですでに現代のオーソドックスな経済思想は完全に表れていたことを示している。

栄辱篇は最後に、聖王の身分秩序政策が国家の福祉を最高に発揮する、と称えて終わる。聖王の政策は能力に応じた身分秩序を作り、それぞれの身分に応じて経済的分配に格差を設ける、現代用語で言えばメリトクラシーによる統治である。人間はありのままの「性」に従えばカオスとなって争うばかりであり、ゆえに人間はあえて聖王の身分秩序に従うことを選択した、というものが荀子の社会契約説である。富国篇で詳しく展開される。

不苟篇第三(1)

君たちは、けっして行い難いことを貴んではならず、けっしてむだに頭がよいことを貴んではならず、けっして名前が売れることを貴んではならない。君たちが貴ぶべきことは、ただ一つ。礼義にかなっているかどうか、これだけなのだ。懐に石を抱えて、黄河に行って飛び込む。これは、なるほどなかなか行えることではない。そして、かつて申徒狄(しんとてき)(注1)はこれを行った。しかしながら、君たちはこんなことを貴んではならない。なぜならば、このような自暴自棄の自殺は礼義の正道に従っていないからだ。「山と淵は平らである」、「天と地は高さが等しい」、「斉国と秦国は国境を接している」、「釣り針にはすでに鰓(えら)が付いている」、あるいは「卵にはすでに毛が生えている」。これらの説は、なるほど弁護するためには大層込み入った弁論術が必要である。そして、かつて恵施(けいし)(注2)や鄧析(とうせき)(注3)はこれを行った。しかしながら、君たちはこんなことを貴んではならない。なぜならば、このような詭弁は礼義の正道に従っていないからだ。盗跖(とうせき)(注4)のことは、皆が口に出す。その名前は日月のように皆が知っていて、聖王の堯や禹と同じくいつまでも伝わっている。しかしながら、君たちはこんな名声を貴んではならない。なぜならば、このような悪名で有名となることは礼義の正道に従っていないからだ。だから、私は繰り返し言いたい。君たちは、けっして行い難いことを貴んではならず、けっしてむだに頭がよいことを貴んではならず、けっして名前が売れることを貴んではならない。君たちが貴ぶべきことは、ただ一つ。礼義にかなっているかどうか、これだけなのだ。『詩経』に、この言葉がある(注5)。:

美味し物、いろいろ有れど
維(ただ)時を得て、はじめて美味し
(小雅、魚麗より)

美味い酒食も時を得なければ美味くならないように、行為も弁論も名声も礼義に適わなければ美しいとは言えないのだ。


(注1)『淮南子』注によれば申徒狄は殷末の人で、紂王時代の乱世を見るに忍びず自ら淵に沈んだという。
(注2)恵施(けいし)は宋人で、魏(梁)の恵王の頃の人で魏国の宰相になったという。『荘子』において荘子の友人である詭弁家として表れる。孟子の同時代人ということになる。
(注3)鄧析(とうせき)は、春秋時代の鄭国の政治家。劉向によれば、刑名を好んで両可の説を操り無窮の辞を設け、しばしば子産(しさん)の政を難じたので子産はこれを処刑した、という。だが『左伝』の記述によれば、処刑したのは鄭駟顓(ていしせん)であって子産ではない。
(注4)伝説の大盗賊。『荘子』に盗跖篇がある。
(注5)以下の引用は、断章取義である。原詩の意味では、単によい酒食がよい時宜に出されたことを喜ぶ句にすぎない。
《原文・読み下し》
君子は行は苟(いやし)くも難きを貴ばず、說は苟くも察なるを貴ばず、名は苟くも傳わるを貴ばず、唯(ただ)其の當るを之れ貴しと爲す。故に懷に石を負(いだ)いて河に赴くは、是れ行の爲し難き者なり、而(しこう)して申徒狄(しんとてき)は之を能くす。然り而して君子貴ばざる者は、禮義に之れ中(あた)れるに非ざればなり。山淵は平(たいら)かに、天地は比(たぐい)し、齊秦は襲(かさな)り、[入乎耳出乎口](注6)、鉤(かぎ)に須(えら)有り(注7)、卵に毛有り。是れ說の持し難き者なり、而して惠施(けいし)・鄧析(とうせき)之を能くす。然り而して君子貴ばざる者は、禮義に之れ中れるに非ざればなり。盜跖(とうせき)は吟口(ぎんこう)され(注8)、名聲は日月の若く、舜・禹と俱(とも)に傳わりて息(や)まず。然り而して君子貴ばざる者は、禮義に之れ中れるに非ざればなり。故に曰く、君子は行は苟くも難きを貴ばず、說は苟くも察なるを貴ばず、名は苟くも傳わる(注9)を貴ばず、唯(ただ)其の當を之れ貴しと爲す、と。詩に曰く、物其れ有り、維(ただ)(注10)其れ時なり、とは、此を之れ謂うなり。


(注6)読み下せば「耳に入りて、口に出づ」。増注は、この六字勧学篇の語にして錯乱して此に入るのみ、と言う。楊注或説、あるいは新釈の藤井専英氏はこれを衍文としない解釈を提出するが、附会の説の印象を受ける。増注に従って衍文とみなす。
(注7)楊注或説は、「鉤に須有り」は即ち「丁子(ちょうじ)に尾有り」なり、と言う。つまり丁子(おたまじゃくし)を鉤になぞらえ、尾を須(ひげ)になぞらえて、尾のあるおたまじゃくしはヒゲ付きの鉤と形が似ているので両者に差はない、という説と解する。「丁子に尾有り」は、『荘子』天下篇に見える。いっぽう集解の兪樾は、「鉤」は疑うは「姁」の仮字と言う。「姁」は老婆のことで、「姁(く)に須有り」すなわち老婆にヒゲがあると読んで、つづく「卵に毛有り」と並べれば男女の種の区別も前後の時間の区別も無差別の相から見れば同一である、という説と解する。王先謙もまた兪樾説が比較的穏当である、と言う。漢文大系・新釈・金谷治氏は「鉤に須(ひげ、またはえら)有り」と読む。すなわち「鉤」は魚の釣り針で、「須」は魚の鬚(ひげ)または鰓(えら)である。言うは、釣り針は鰓に引っ掛けて魚を釣るが、ならば釣り針にはすでに鰓が付いていると言える、という意味に取って、「卵に毛有り」と同じく前後の時間の区別を無差別とみなす説と解する。いずれの説ともに決定的な説得力に欠けるが、字を変えずに解釈する日本人学者の説に従っておく。
(注8)原文「盜跖吟口」。集解の郝懿行は『説苑』における同文の引用では「盜跖凶貪」に作っているので、ここも必ず「凶貪」であって転写の形誤である、と言う。金谷治氏は劉師培説を引いて、「吟口は貪の字が壊れて二字になったものであろう」と言う。しかし新釈の藤井専英氏はこれに反対し、原文ままで十分に意が通ずる、と言う。藤井説に従い、字を改めない。
(注9)宋本は「傳」字が「得」字である。
(注10)宋本は「維」を「唯」に作る。「維」字はふつう「これ」と読むが、ここでは「ただ」の意に取らなければ前の説明と意味がつながらない。

不苟篇(ふこうへん)は、「君子」から書き起こす章句を連ねるスタイルを取る。学ぶ者に対して、君子の心得を説いた篇である。その意図を取って、勧学・脩身の両篇に続いて「君子」を「君たち」と訳し変えた。上の論述などで荀子が学ぶ者に説くことは、『論語』で説かれる君子の心得と変わることがない。次の栄辱篇が君子の心得と性悪説との接合を図ろうとする論述となっていて、ゆえに議論が分かりづらくなっているのに比べて、この不苟篇の心得は一部に難解な議論があるものの大半は分かりやすい平易な説明であって、『論語』の簡潔な言葉の詳細な解釈と考えてもよいだろう。朱子学やわが伊藤仁斎は、『論語』の詳細な解説書として『孟子』ばかりを取り上げる。だが、荀子もまた孔子の後継者として自負を持っていた儒家であり、この『荀子』もまた『論語』の精神を荀子の立場で解説したテキストなのである。

不苟篇第三(2)

君たちのあるべき姿。穏やかで交際しやすいが、馴れて侮ることは難しい人間であれ。用心深いので行動を自重させることはたやすいが、力での脅しには屈し難い人間であれ。災難に遇うことは恐れるが、義のために死ぬことを避けない人間であれ。利益があることを喜ぶが、不善は決してやらない人間であれ。交際は親しむがへつらわず、弁論はきちんと行うが無用の装飾は行わず、ひろびろとした心を持ち、世間の俗人たちとは違う様子であれ。

君たちは、才能がある者もまたよき人であり、才能がない者もまたよき人であれ。だが小人は、才能がある者もまた醜く、才能がない者もまた醜い。君たちの中で才能がある者は、寛容で素直な心を持って人を教え導きなさい。才能がない者は、恭敬で謙遜する心を持って人に謹んで従いなさい。だが才能のある小人は、傲慢でかたよった心を持って人に驕って無茶な振る舞いをなし、才能のない小人は、嫉妬と恨み誹りの心を持って人を陥れようと企む。ゆえに、「君子に才能があれば人はこれに学ぶことを栄誉と思い、君子に才能がなければ人はこれに教えることを楽しみとする。だが小人に才能があれば人はこれに学ぶことを賤しみ、小人に才能がなければ人はこれに教えることを恥じる」と言うのである。これが、君たちがなるべき君子と、君たちが避けるべき小人を分けることなのだ。

君たちは、心おおらかでなければならないが、怠慢に陥ってはいけない。清廉潔白な心を持たなければならないが、それで他人を責め潰してはならない。言うべきことはしっかり弁論しなければならないが、言い争ってはならない。明察を貴ばなければならないが、知に過ぎて攻撃的になってはならない。人に流されない独立した心を持たなければならないが、自分の正義で他人を打ち負かしてはならない。堅強な心を持たなければならないが、粗暴と取り違えてはならない。柔らかく謙遜する心を持たなければならないが、他人に追随して流されてはならない。心は常に恭敬謹慎して慎重でなければならないが、それで心の寛容さを失ってはならない。以上のような姿を見事に成し得ているならば、これを礼義の極まった姿と言うことができるだろう。『詩経』に、この言葉がある。:

温(おだや)かで恭(つつし)む人は
これ、徳の基(もとい)
(大雅、抑より)

君たちは、「徳の基」とみなされる人間となることを目指しなさい。

《原文・読み下し》
君子は知(まじわ)り(注1)易くして狎(な)れ難く、懼れしめ易くして脅し難し。患を畏れて而(しか)も義死を避けず、利を欲して而も非とする所を爲さず。交は親にして而も比せず、言は辯にして而も辭せず。蕩蕩乎(とうとうこ)として其れ以て世に殊(こと)なること有るなり。
君子は能あるも亦好く、不能なるも亦好し。小人は能あるも亦醜く、不能なるも亦醜し。君子は能あれば則ち寬容・易直にして以て人を開道し、不能なれば則ち恭敬・繜絀(そんちゅつ)にして以て人に畏事す。小人は能あれば則ち倨傲(きょごう)・僻違(へきい)にして以て人に驕溢(きょういつ)し、不能なれば則ち妬嫉(としつ)・怨誹(えんぴ)して以て人を傾覆す。故に曰く、君子は能あれば則ち人焉(これ)に學ぶを榮として、不能なれば則ち人之に告ぐるを樂しむ。小人は能あれば則ち人焉に學ぶを賤しみ、不能なれば則ち人之に告ぐるを羞(は)ず。是れ君子・小人の分なり。
君子は寬にして而も僈(まん)ならず、廉にして而も劌(けい)ならず、辯にして而も爭わず、察にして而も激ならず、寡立(かりつ)(注2)にして而も勝ならず、堅强にして而も暴ならず、柔從にして而も流(りゅう)ならず、恭敬・謹愼にして而も容(よう)なり。夫れ是を之れ至文と謂う。詩に曰く、溫溫たる恭人、維(こ)れ(注3)德の基、とは、此を之れ謂うなり。


(注1)『韓詩外伝』の引用では「知」字は「和」字となっている。増注・王念孫は『韓詩外伝』を是として「和」字が正しいとするが、集解の兪樾は「知」は「接」なり、と言い、「知」に交接の義がある用例があることを指摘する。兪樾説に従う。
(注2)集解の王念孫は、「寡立」は「直立」の誤、と言う。栄辱篇には「直立して而も知見(ら)れざる者は勝なり」の句がある。しかし新釈の藤井専英氏は「寡立」を孤高の意、孤高で人に屈しないこと、と注して字を改めない。藤井説に従う。
(注3)宋本を底本とする新釈は、「維」字を「惟」字とする。

「君子は周して比せず、小人は比して周せず」(論語、為政篇)
「志士仁人は生を求めて以て仁を害すること無し、身を殺して以て仁を成すこと有り」(同、衛霊公篇)
「君子は坦(たいらか)に蕩蕩たり、小人は長(とこしなえ)に戚戚たり」(同、述而篇)
「温にして厲(はげ)し、威にして猛ならず、恭しくして安し。」(同)

上の荀子のいずれの言葉も、これら『論語』の格言から外れたものではない。

不苟篇第三(3)

君たちが他人の徳を称え、他人の美点を誉めたとしても、それはへつらいではない。君たちが正しい議論を行って率直な指摘を行い、他人の誤りを数えあげたとしても、それは誹謗中傷ではない。自らの美点を言って聖王の舜・禹になぞらえ、自らを天地の万物を統御する存在だ(注1)と言ったとしても、それは大言壮語ではない。時宜に応じて身を伸ばしたり縮めたりして、蒲(がま)や葦(あし)のように腰を低く垂れたとしても、それは怖気づいているのではない。剛強猛毅で伸びて進まぬところなき様であっても、それは驕って強暴となっているのではない。なぜそうあることができるかといえば、確固とした義が基準にあるがゆえに状況に応じて臨機応変に行うことができるからであり(注2)、また明晰な知があるがゆえに正と不正を正しく見抜いて進退を間違えないからなのだ。『詩経』に、この言葉がある。

左に行かば、左に行きませ
君子(そなた)の車、宜しく行かん
右に向かわば、右に向かいませ
君子の車、宜しく進まん
(小雅、裳裳者華より)

君たちは、心中の義と知をしっかりと身に付けよ。そうすれば、時に応じた進退を確信を持って右に左に臨機応変に行うことができるだろう。

君たち君子は、小人の対極なのだ。君子は、心の大きな人ならば天与の性質を上手に生かして自己を伸ばし、正道を進むであろう(注3)。しかし心の細心な人ならば、義を畏れ謹んで礼節をよく守るであろう。知ある人ならば明察で万事に通じて法の類推判断(注4)が的確であろうし、愚鈍な人ならば正直であって法を誠実に守るであろう。登用されたときには恭しくして居るべき位に止まり、疎んじられたときには恐れ謹んで己を正しくすることに努めるであろう。喜ぶときには和やかでありながらも端正であり、憂うときには物静かでかつ居住まいを正す。物事が好調に運んでいるときには礼義を守って明朗であり、物事がうまく運ばないときには身を慎んで礼義を慎重に守るであろう。だが小人は、このようではない。心の大きな人ならば散漫粗暴であり、心の細かな人ならば乱れ狂って常軌を逸する。知ある人ならば利をかすめ取って悪知恵を膨らませ、愚鈍な人ならば他人を攻撃して乱暴する。登用されたときにはちょこまかと奔走して驕り高ぶり、疎んじられたときには逆恨みして陰険な仕返しを企む。喜ぶときには軽薄で落ち着きがなく、憂うときには意気消沈して恐れ震えるばかりしかしない。物事が好調に進んでいるときには驕って偏った行動に走り、物事がうまく運ばないときには自暴自棄となって下劣な行動に走る。言い伝えに、「君子は両進し、小人は両廃す」とあるが、まさに君子は順境でも逆境でも前に進むが、小人は順境でも逆境でも腐っていくのだ。

「君子は治を治める。乱を治めるのではない」という言葉は、どういう意味であろうか。その意味は、こうである。すなわち、礼義があることを、「治」と呼ぶ。礼義がないことを、「乱」と呼ぶ。ゆえに、この言葉の言うこころは、「君子は、礼義がある社会を治めるのである。礼義がない社会を治めるのではない」というものである。ならば君子は国が乱れたら、これを治めることをあきらめるのだろうか?決してそうでない。「国が乱れたらこれを治める」というときに、乱の原因を放置してこれを治める、と取ってはならない。国から乱の原因を除去して、国に治を加えるのである。「人が汚れたらこれを清める」というときに、汚れの原因を放置してこれを清める、というわけでは決してなく、汚れの原因を除去して代わりに体を清める。これと同じである。ゆえに、乱の原因を除去するのであって乱をそのままにして治めるのではなく、汚れの原因を除去するのであって汚れをそのままにして清めるのではない。つまり、「治」の言葉の意味は、「君子は治を治める。乱を治めるのではない。清めることを為(おさ)める。汚れを為めるのではない」のように解釈しなければならない。(統治とは、乱の原因を取り除いて治を加えるものなのである。その方法は、社会に礼義を加えること以外にありえず、礼義を加える以外に乱が治められるという考えはすべてまちがいである。そのことは、わが一門に学ぶ君たちならば知っていることであろう。)


(注1)原文読み下し「天地に參す」。天・地の間に人間が立って三者相並ぶ、という意味であるが、天論篇で「參」が論じられたとき、人間は天地のはたらきを所与としながら己の才覚で天地が生み出す万物を統御して利用することが強調された。荀子は、天論篇の論議に見えるように人間が万物へ働きかける力の至上性を論じる思想家である。なので、性悪篇と同様に、天地の万物を統御する、と訳した。
(注2)原文読み下し「義を以て變應し」。増注の久保愛、集解の王先謙はともにこの「義」の注釈として論語里仁篇の「君子の天下に於けるや適(てき)も無く莫(ばく)も無く、義にこれ與(とも)に比(した)しむ」を引用する。王先謙はまた孟子離婁章句下の「言必ずしも信ならず、行必ずしも果さず、惟(ただ)義の在る所のままにす」を引用する。王先謙は、「義は本より定まり無し、応ずる所に随い通変を為す、故に変応と曰う」と言う。
(注3)原文読み下し「君子大心ならば天にして道」。集解の盧文弨は「天にして道」は文義不明であり、『韓詩外伝』の引用に依って「天を敬して道」となすべし、と言う。新釈の藤井専英氏は、「天すなわち自然のままで人道に適」すると訳す。藤井氏の訳はあえて「大心」と整合させた訳といえるが、他方で天与の「性」は悪であり「偽」によってのみ君子となると考える荀子の性悪説との整合性が悪いように思われる。しかし『韓詩外伝』のように天を敬する、と解するのは一方では性悪説との衝突を回避するが、他方で「大心」の意とうまく整合しない感がする。両方を折衷して、天の与えた自然的性を上手に生かして自己を伸ばす人、ぐらいに訳してみた。
(注4)原文「類」。ここの「類」字は後の「法」の対義語で、法の条文にない事項に対して類推判断すること。
《原文・読み下し》
君子は人の德を崇び、人の美を揚ぐるも、諂諛(てんゆ)に非ざるなり。正義(せいぎ)(注5)直指して、人の過(あやまち)を舉(あ)ぐるも、毀疵(きし)に非ざるなり。己の光美を言いて、舜・禹に擬し、天地に參(さん)すも、夸誕(かたん)に非ざるなり。時と與(とも)に屈伸し、柔從なること蒲葦(ほい)の若きも、懾怯(しょうきょう)に非ざるなり。剛强猛毅にして、信(の)び(注6)ざる所靡(な)きも、驕暴(きょうぼう)に非ざるなり。義を以て變應し、知曲直(きょくちょく)に當るが故なり。詩に曰く、之を左し之を左にす、君子之を宜しくす、之を右し之を右にす、君子之をす、と。此れ君子の能く義を以て屈信・變應するを言うなり(注7)
君子は小人の反なり。君子は大心なれば則ち天にして道、小心なれば則ち義を畏れて節あり、知なれば則ち明通にして類、愚なれば則ち端愨(たんかく)にして法あり、由(もち)い(注8)見(ら)るれば則ち恭にして止、閉せ見(ら)るれば則ち敬にして齊あり、喜べば則ち和にして理、憂うれば則ち靜にして理あり、通ずれば則ち文にして明、窮すれば則ち約にして詳なり。小人は則ち然らず。大心なれば則ち慢にして暴、小心なれば則ち淫に流れて(注9)傾なり、知なれば則ち攫盜(かくとう)にして漸(せん)(注10)、愚なれば則ち毒賊にして亂なり、由(もち)い見るれば則ち兌(えい)にして倨、閉せ見るれば則ち怨みて險なり、喜べば則ち輕にして翾(けん)、憂うれば則ち挫して懾(しょう)なり、通ずれば則ち驕りて偏(へん)、窮すれば則ち弃(き)にして儑(がん)なり。傳に曰く、君子は兩進し、小人は兩廢す、とは、此を之れ謂うなり。
君子は治を治む、亂を治むに非ざるなり、とは、曷(なん)の謂(いい)ぞや。曰く、禮義を之れ治と謂い、禮義に非ざるを之れ亂と謂う。故に君子なる者は、禮義を治むる者なり、禮義に非ざるを治むる者に非ざるなり、と。然らば則ち國亂るれば將(は)た治めざるか。曰く、國亂れて之を治むる者は、亂に案(よ)りて(注11)之を治むるの謂に非ざるなり、亂を去りて之に被(こうむ)らしむるに治を以てす。人汙(お)にして之を脩(しゅう)する(注12)者は、汙に案(よ)りて之を脩するの謂に非ざるなり、汙を去りて之に易(か)うるに脩を以てす。故に亂を去りて亂を治むるに非ず、汙を去りて汙を脩むるに非ざるなり。治の名爲(た)る、猶お君子は治を爲(おさ)めて(注13)亂を爲めず、脩を爲めて汙を爲めずと曰うがごとし。


(注5)集解の王念孫は、案ずるに「義」は読んで「議」となす、と言う。
(注6)楊注は「信」は読んで「伸」となす、と言う。
(注7)宋本には「應」の下に「故」字があり、「此れ君子の能く義を以て屈信・變應する故(ゆえ)を言うなり」と読み下せる。増注の久保愛は「故」字有るは非なり、としてこれを削っている。
(注8)楊注は「由」は「用」なり、と言う。
(注9)宋本は「流」字がある。新釈の藤井専英氏は、ここは上の「小心なれば則ち義を畏れて節」に比せられるべきであるので宋本が正しい、と言う。藤井氏に従い「流」字のある宋本に戻す。
(注10)増注は「漸」について脩身篇の知慮漸深に解す、と言う。集解の王引之は「漸」は詐欺なり、と言う。合わせれば、悪知恵が深すぎて人をあざむくの意と取れるだろう。新釈の藤井専英氏は、「漸」をすすむ、の意に解して攫盜がひどくなっていく、という意に取っている。増注・王引之の意で訳す。
(注11)楊注は「案」は「據(拠)」なり、と言う。よる。
(注12)集解の兪樾は、「脩」は「滌」と読むべし、と言う。ここでの「脩」は洗浄する意。
(注13)新釈は、「爲」はオサムと読むが「なす」の意、と言う。

最後の問答は、「治」「乱」という語の意味を明確にすることを目的としたものであろうか。荀子の性悪説にとって最も押さえて置くべきポイントは、人間の「性」のままに社会を置くならば「乱」すなわちカオスしか結果することはなく、「偽(い)」を採用して礼義を身につけて「性」を統御することを通じて社会は「治」に移行する、というものであった。「乱を治む」という言葉はふつう乱世を治める、という意味にとって何の問題もなかろうが、あえて言葉にこだわることによって荀子学派における「治」「乱」の言葉の定義を再確認したのがこの問答の主眼点であったと言えるだろうか。荀子の性悪説は、富国篇の社会契約説と性悪篇の性・偽(い)の定義との両方を眺めて理解しなければならない。

不苟篇第三(4)

君たちは、自らの言葉を清潔にするので、君たちの同志が集まってくることであろう。また自らの言葉を善にするので、同類の者が君たちに呼応することであろう。これを、馬が鳴いたら別の馬が合せて鳴くことと一緒にしてはいけない。馬が別の馬に合せて鳴くのは、人間のような知のはたらきではなくて、本能の力がそうさせるにすぎない。体を洗いたての者は、衣服を着る前に衣服をはたいてから着る。髪を洗いたての者は、冠を被る前に冠をはたいてから被る。それは、汚れを落そうとする人間の情である。自らが明察であるのに、他人の混迷を受け入れる者などはいない。明察な知は、明察な知を持った同志を引き寄せるのである。

君たち君子が心を養うには、誠であることよりも良いことはない。誠であることを究めるには他でもなく、ただ仁を守り義を行うことをなすに尽きる。心中を誠にして仁を守り切れば、必ず形となって外に表れる。その表れ方は非常に巧妙であり(注1)、その巧妙な作用を通じて他人が教化されるのである。心中を誠にして義を徹底的に行えば、必ず行いには理が立つようになる。理が立てば明快となり、明快な理を用いるので万物の変化に対応することができるのである。情勢の変化が次々に起こり、それに完全に対応して応変することができるならば、それを天徳と言うべきである。天は何も言葉を言わないが、人はその高さを称える。地は何も言葉を言わないが、人はその厚さを称える。四季は何も言葉を言わないが、人民はその移り変わりを期待して生活する。これら天・地・時の自然が常の運行を行うのは、それらが自然法則の極地を示しているからである(注2)。君たち君子もまた、心中に仁義の法則の極地を示して至徳の状態となるならば、天・地・時のように言葉を発することなくして従う者たちから理解され、施すことなくして従う者たちから親しまれ、怒ることなくして従う者たちから畏れられるであろう。つまり天命に従う(注3)とは、自己の心中の仁義を尽くして誠にすることによって行うのである。善なる君子にして正道を治める者は、誠がなければ心中の仁義が完全とならない。心中の仁義が完全とならなければ、仁義が形となって外に表れることもない。仁義が形となって外に表れなければ、たとえ心に善が起こって顔色に表れ言葉に出したとしても、人民はなお君たちに付き従おうとはしないであろうし、たとえ付き従ったとしても君たちへの疑念を捨てられないだろう。天地は広大であるが、もし天地が誠でなければ(=自然法則どおりに運行しなければ)、万物を生成変化させることはできないだろう。聖人もまた大知ある者であるが、もし聖人に誠がなければ(=仁義の法則どおりに行動しなければ)、万民を教化させることはできないだろう。父子は親しむべきなのであるが、もし父子に誠がなければ互いに疎遠となってしまうだろう。君主は尊ばれるべきなのであるが、もし君臣に誠がなければかえって卑しまれてしまうであろう。そもそも誠は、君たち君子が守るべきものであり、政治事業の基本なのである。君たち君子に誠があるならば、居ながらにして同類の同志が君たちのもとに集まってくるであろう。君たちが誠を操(と)り上げたならば、我が身に誠を得るであろう。しかし誠を捨て置いたならば、我が身から誠は失われるであろう。誠を操(と)り上げてこれをわがものとすれば、その者は誠を尚(とうと)ぶであろう。誠を尚ぶならば、(仁義の道徳が心中で統一されて)実践することができるだろう。実践されてその努力を決して捨てなければ、いつか君たちは完成するであろう。すでに完成して悪なる「性」がすっかり修養され尽くして(注4)、それが長い時間経って、始原の「性」の地点に帰ってしまわないところまで自己を修養できたならば、他人を教化することができるだろう。

「君子は位が尊くても志は恭謙であり、注意力が細心であっても進む正道は大きく、直接見て聴く範囲は狭くて近くても見渡して聞き取ることができる範囲は非常に広くて遠い」という言葉は、どういう意味であろうか。それは、操術(そうじゅつ)(注5)を用いることによって、これを成し遂げることができるのである。千万人がいてそれぞれ「情」が違うように見えても、本質的には全ての人間が同じ「情」を持っているのである(注6)。天地の始まった太古の時代ははるかに遠いように見えても、本質的には今日の社会と同じ原理が貫かれているのである。わが国の歴史上の王(注7)が取った道は、現在の君主(注7)が取るべき道と同じなのである。君たちは、現代の君主が取るべき道を詳しく検討することによって、歴史上の王たちの統治した太古の社会を論ずることすら端然と手を拱(こまね)いたまま行えるのである。礼義のもとにある原理を推論し、是非の区分を明確に付け、天下を統治する要点を捉え、海内の人民を統治することすら、あたかも一人の人間を使用するかのように容易に行えるのである。操術はますます簡略化されながら、成し得る事業はますます巨大化する。それは、長さ五寸の矩(ものさし)で天下全体の面積を計算するように行えるのである。ゆえに、君たちは家の部屋から出ることもなく海内の情勢を全て集めることができる。それは、操術を通じて行うのである。


(注1)原文「神」。荀子は「神」の字を精妙なはたらきの意に用いる。ここでは非常に巧妙な作用の意に訳した。
(注2)原文読み下し「其の誠を至(きわ)むる者たるを以てなり」。この文は明らかに上文の「誠を致(きわ)むるには則ち它事(たじ)無し」以下と対応しているのであるが、自然の「誠」とは、自然が法則通りに動く様子を示しているはずである。君子の「誠」もまた同じく、人間の仁義の法則通りに動く様子を表しているからである。なので、ここでの「誠」を自然法則と解釈して訳した。
(注3)原文読み下し「命に順う」。「命」とは明らかに天命のことであり、ここで荀子は孟子の天命論と言葉の上で接近している。人間は自然の「性」のままでは「乱」でありカオスであるが、人間が「偽」を身につけたときに「治」の秩序が生まれる(不苟篇(3)参照)。この「治」の秩序およびそれを実現させる君子の仁義もまた天・地・時と同じく人間普遍の法則であり、その法則をここでは天命と呼んでいるのであろう。ここの論述は子思・孟子の言葉を継承しながら荀子が自説を展開しているために、言葉が先人の用いた議論に引きずられてしまっているように見える。
(注4)原文読み下し「濟りて材盡き」。「材」は素材のことで、荀子の用語で言う「性」である。材が盡(尽)きるとは、素材である「性」が礼義の「偽」によってすっかり修養され尽くすことを言う。
(注5)操術について。漢文大系は「一定の主義宗旨に由りて広く事理を推すの道なり」と解説する。新釈は上の段落を受けて「仁義の操守、すなわち、誠をきわめるという方法」と訳している。上の段落を受けて読めばもとより両者の訳のようになるのだろうが、荀子は原理に従って心中でこれを演繹するだけで、天下全体の情報収集と分析判断ができると本気で考えていたのであろうか?私はそうではなく、上の段落で強調されているがごとくに君子が誠の心を持って適正な判断ができる能力を持つことは、あくまで情報収集と分析判断の準備段階であると考えたい。君子が実際に情報を収集して分析判断を行うことは、礼法を用いて百官人民に指示を出す国家の職務に付いたときに全面的に実施されるだろう。すなわち操術が具体的に実現されるのは君子が為政者となったときであり、そのとき王制篇(5)の「類を以て雜に行き、一を以て萬に行」く統治術として実現するであろう。そのように私は考えたい。
(注6)「情」を正名篇の定義に従って「性」から起こる人間の衝動的感情と考えて、性悪篇、とりわけ(5)の堯・舜と桀・盗跖の「性」が同じであって「偽」によってのみ差が生まれる議論を参照すれば、この荀子の言葉の意味が理解できる。人間の「性」「情」が悪であって等しく欲望を持つという側面から人間を見れば、これを礼義の「偽」によって統御すれば治まり、かつそれ以外に治まる方法はないということを言っているのである。
(注7)原文「百王」・「後王」。百王とは過去の王たち。後王は現代の君主と訳す。非相篇(3)以降を参照。
《原文・読み下し》
君子は其の辯(べん)(注8)を絜(いさぎよ)くして、焉(これ)に同じき者合し、其の言を善くして、焉に類する者應ず。故に馬鳴いて馬之に應ずるは(注9)、知に非ざるなり、其の勢然ればなり。故に新(あらた)に浴する者は其の衣を振い、新に沐する者は其の冠を彈くは、人の情なり。其れ誰か能く己の潐潐(しょうしょう)たるを以て、人の掝掝(わくわく)たるを受くる者ならんや。
君子心を養うは、誠より善きは莫し。誠を致(きわ)むるには則ち它事(たじ)無し、唯(ただ)仁を之れ守ることを爲し、唯義を之れ行うことを爲す。心を誠にして仁を守れば則ち形(あら)わる、形わるれば則ち神なり、神なれば則ち能く化す。心を誠にして義を行えば則ち理あり、理あれば則ち明なり、明なれば則ち能く變ず。變化代興す、之を天德と謂う。天言わずして人高きを推し、地言わずして人厚きを推し、四時言わずして百姓期す。夫(そ)れ此れ常有るは、其の誠を至(きわ)むる者たるを以てなり。君子至德あれば、嘿然(もくぜん)として喩(さと)られ、未だ施さずして親しまれ、怒らずして威(おそ)れらる。夫れ此れ命に順うは、其の獨(どく)を愼(つつし) む(注10)者たるを以てなり。善の道を爲(おさ)むる者は(注11)、誠ならざれば則ち獨ならず、獨ならざれば則ち形われず、形われざれば則ち心に作(おこ)り、色に見(あら)われ、言に出ずと雖も、民猶若(ゆうじゃく)として未だ從わざるなり、從うと雖も必ず疑う。天地大爲るも、誠ならざれば則ち萬物を化すること能わず。聖人知爲るも、誠ならざれば則ち萬民を化すること能わず、父子親(しん)爲るも、誠ならざれば則ち疏(うと)く、君上尊爲るも、誠ならざれば則ち卑し。夫れ誠なる者は君子の守る所にして、政事の本なり、唯居る所にして其の類を以て至るなり。之を操れば則ち之を得、之を舍(お)けば則ち之を失う。操りて之を得れば則ち輕(とうと)び(注12)、輕べば則ち獨(どく)を行い、獨を行いて舍かざれば則ち濟(な)る。濟りて材盡(つ)き、長遷して其の初に反らざれば則ち化す。
君子は位尊くして志は恭に、心小にして道は大に、聽視する所の者近くして、聞見する所の者は遠し。是れ何ぞや、則ち操術然らしむるなり。故に千人萬人の情は、一人の情是れなり、天地の始なる者は、今日是れなり。百王の道は、後王是れなり。君子は後王の道を審かにして、百王の前を論ずること、端拜(たんきょう)(注13)して議するが若し。禮義の統を推し,是非の分を分ち、天下の要を摠(す)べ、海內の衆を治むること、一人を使うが若し。故に操は彌(いよいよ)約にして事は彌大に、五寸の矩(く)も、天下の方を盡すなり。故に君子は室堂(しつどう)(注14)を下らずして、海內の情舉(みな)此に積(あつ)まる者は、則ち操術然らしむるなり。


(注8)『韓詩外伝』の引用では、「辯」字が「身」字である。集解の盧文弨・王先謙は「身」字を正しいとみなす。しかし新釈の藤井専英氏も指摘するように、ここは「辯」字のままで差し支えないと考える。
(注9)『韓詩外伝』の引用では、この後に「牛鳴而牛應之(牛鳴いて牛之に應ず)」の六字がある。
(注10)原文「愼其獨」。少し儒学を学んだ者であれば、この語を見るとすぐに『中庸』の「君子は其の獨を愼む」(第三節)を連想する。楊注は、明らかに『中庸』を想定してこの語を注釈している。しかし集解の郝懿行は、中庸の「愼獨」はこれと義が別であり、「愼」は「誠」なり、と言う。さらに進んで新釈の藤井氏は、「愼」が「誠」の意であるから「愼獨」は上文の「誠心」に通じ、「獨」は己の心身をさす、と言う。藤井氏は「愼其獨」の内容は、上文の「心を誠にして仁を守」り「心を誠にして義を行」うの意である、と言う。なお、出土文献である『五行』に「愼獨」の語が表れていて、佐藤将之氏はこれに対する龐樸の解釈を取って”pays a special concern about the integration of his [moralities]”と英訳されている。その解釈に従うならば「獨」は「一」と同義であり、『中庸』の「獨」字もヒトリキリという伝統的解釈を捨てなければならない。いまこの線で仮に「其の獨を愼む」を訳すならば、「(君子は施すことなくして従う者たちから親しまれ、怒ることなくして従う者たちから畏れられる、といったことを)自分の心中の仁義の道徳を統一してわが物とすることに注力することによって行うのだ」となるだろうか。
(注11)原文「善之爲道者」。新釈の藤井氏は、「善」は用言とみなさなければならない、と言う。なぜならば本段落のここ以降は本段落初頭の「君子心を養うは、誠より善きは莫し」~「變化代興す、之を天德と謂う」の敷衍であり、両者の冒頭は同義でなければならないからである。ならば「君子」が「善之爲道者」と対であり、「養心(心を養う)」「誠」がそれぞれ「不獨(獨ならず)」「不誠(誠ならざれば)」と対とされるであろう。藤井氏はこの考えに従い「善之爲道者」を「道を爲(おさ)むるに善き者」と読み下している。言われることは分かるのであるが、この読み下し方が通るかどうか私としては判断が難しい。ここは藤井説のうち「爲」字をオサムと読む箇所を取り上げて通説と折衷し、あえて「善の道を爲(おさ)むる者」と読み下して、意味は「善(なる君子)にして正道を治める者」の意と解したい。
(注12)佐藤将之氏は龐樸の『五行』解釈に従い「輕」は尚、とみなす。トウトブ。これに従い、定説からあえて訳を変更する。
(注13)楊注は「端拜」はなお「端拱」のごとし、と言う。なお集解の王念孫は、「拜」字は「拱」字の古形の誤写であろう、と言う。「拱」字の古い形は「手」字を二つ並べた形である。王念孫に従い、「端拱」が正しいとみなす。端然と手を拱(こまね)くこと。
(注14)宋本は「室堂」で元本には「室」がない。増注・盧文弨ともに「室」字を衍字とみなして削るが、集解の王念孫は「室」字は衍字ではないと言い、書伝の中に「室堂」の語を言うことは多いと指摘する。王念孫に従い「室」字を衍字とみなさない。

上に訳した箇所の中間の段落は、『中庸』『孟子』の用いるレトリックに近い。しかしながら荀子は子思・孟子の批判者なので、両者とは似て非なる主張であると読まなければならない。荀子は、君子が心中に仁義を守って誠であることを要求することについては、子思・孟子と同一である。だが同一なのはここまでで、その仁義に誠である君子の力が社会に及ぼされるためには、必ず礼義のシステムを通じて実現されなければならないと考えるのが、荀子のはずである。

つづく段落では、後王思想もまた表明されている。非相篇で検討したことを繰り返すと、荀子は人間社会の統治術が本質的には歴史的にいっさい発展しておらず、太古から荀子の時代までよく統治された治世には同じ原理の統治術が適用されてきたはずだ、と考える。荀子は、歴史不変論者である。荀子が後王の制度を学ぶことによって記録の残らないいにしえの王の統治を知ることができる、と断ずるのは、両者の間には統治術にいかなる相違も存在するはずがない、と信じるからである。

荀子は、君子が礼義を扱うことによって国家を統治すると言う。だがその「礼義」から倫理的規範を取り除いて運用システムだけに注目するならば、その統治システムは法家思想の「法」のシステムと変わることがないといえる。荀子のイメージを具体化するならば、君子=為政者は官僚組織を束ねて法規を統御することによって、執務室から簡潔な指示を出すことによって配下の組織を動かし、政策結果を出すことができるというものであろう。すなわち、現代の国家組織や巨大企業の運営と本質的に同様の統治術を想定しているはずである。現代の人間はこれが理想国家の運営術なのだ、と言われても当たり前かつ没理想的すぎて困惑してしまうが、現代において当たり前となったことを2000年以上前の古代社会において指摘していたのが、荀子思想(そして法家思想もそうである)の先見性なのであった。