仲尼篇第七(1)

By | 2015年7月20日
「仲尼(ちゅうじ。孔子のあざな)の門人は、五尺(ごせき。この尺は年齢の意であって、一尺は二歳半)の童子であっても五覇(注1)のことを口に出して称えることを恥じる」と言われるわけは、どうしてであろうか。実にその通りなのであり、まことに彼らは我々儒家にとって称えることを恥じるべき存在なのである。斉の桓公は、五覇の中でも最も勢い盛んな君主であった。だがこの桓公の事跡といえば、まず最初に実兄の糾(きゅう)を殺して国を争って奪い取り(注2)、家庭内においては己のおば・姉・妹を留め置いて外に嫁がせなかった者が七人もいた乱倫を行い、後宮においては楽しみを極めて大いにおごって斉国の財政をもっても足りなかったほどであり、国外に対しては邾国(ちゅこく)をだまし莒国(きょこく)を襲撃し、三十五ヶ国を併合した(注3)。桓公の行った事跡はここまで非道であり、彼の陰険にして汚れて淫乱にしておごった姿はここまでひどかった。まことに、なんでこれを偉大なる孔子を慕う我ら門徒が称えるに足りるだろうか。「だが、それほどまでに汚れた君主でありながら滅びることなく、かえって覇者となったのは、どうしてであるか?」と問われるか。ああ、そのわけは、斉の桓公は巨大な節義を行ったからなのだ。ゆえに、誰も彼を亡ぼすことなどできなかった。桓公は、管仲を全幅に信頼して、これに国を託すことができることを見て取った。これは、天下の大識見であった。これを信頼するに当たっては過去の怒りも忘れ、朝廷に出るに当たってはかつての仇を不問となし(注4)、ついに管仲を宰相に立ててこれを仲父(ちゅうほ。おじうえ)と尊んだのであった。これは、天下の大英断であった。管仲を宰相に立てて仲父と尊んでも、桓公の一族は誰もねたむことがなかった。管仲の位を挙げて高(こう)・国(こく)の両氏(注5)と等しくしても、朝廷の家臣は憎むことはなかった。管仲に書社(しょしゃ)(注6)三百ヶ村を封地して与えても、朝廷の富者はこばむことはなかった。国の貴賤・長幼の序列は秩序正しくあり、みな桓公に従ってこれを貴び敬ったのであった。これは、天下の大節義であった。諸侯ならばこのような節義が一つでもあれば、滅ぼすことはできるものではない。桓公は、いくつもの節義を全て兼ね備えていた。これを滅ぼすことなどは、誰にもできない。これが覇者となったのは、当然のことであった。幸運のたまものではなくて、必然の結果であった。だがしかし、「仲尼の門人は、五尺の童子であっても五覇のことを口に出して称えることを恥じる」と言う。そのわけは、どうしてであるか。実にその通りなのであり、桓公は人を教化する王者の政治に基づいていなかったからである。桓公は、礼義を極めた政治を行わなかったからである。桓公は、礼義の規則を徹底した政治を行わなかったからである。桓公は、人を心服させる王者ではなかったからである。桓公は、策略を用いて、人を働かせたり安楽にさせる術を操り、財貨を蓄えて軍備を整え、その結果敵を倒すことに成功した。これは、人をだます意図によって勝利したものである。桓公は謙譲を装って実際には争い、仁政を建前にして実際には利益を貪る者であり、しょせんは小人の傑物というべきである。まことに、なんでこれを偉大なる孔子を慕う我ら門徒が称えるに足りるだろうか。

王者は、このような覇者とは違う。賢明有能の極みでありながら愚者たちを救い、強者の極みでありながらよく弱者に寛大であり、ひとたび戦えば必ず敵を危うくするが、しかし戦うことを恥となし、礼義を詳細に制定してこれを天下に示し、こうして暴虐の国であっても教化されて、ここまで行ってなおかつ天下に災厄をもたらす過てる者だけを最終手段として誅伐するのである。ゆえに、聖王の誅伐とは、きわめて少ない。たとえば、文王は四国(注7)を誅伐しただけであった。その後を継いだ武王は、二者(注8)を誅伐しただけであった。その後を継いだ成王の摂政となった周公の時代になって天下平定の業は完成し、成王の時代にはとうとう誅伐は行われなかったのであった。このように、聖王の治世であれば、王者の政治は必ず行われるのである。文王は百里四方の土地から創業して、天下を統一した。だが桀王・紂王は王者の政治を捨てたゆえに、天下を保有する権勢を持ちながらついに一庶民として老齢まで生き延びることすら許されなかった。ゆえに、王者の正道をよく用いれば百里四方の小国でも独立できるのであるが、王者の正道をよく用いなければ六千里四方ある楚国であっても敵国に使役されるであろう。ゆえに、君主が正道を得ることに努力せず権勢を大きくすることばかりに熱中することは、国と己の身を危険にさらすこととなるであろう。


(注1)原文「五伯」。いわゆる春秋五覇のこと。議兵篇(2)のコメント参照。
(注2)桓公の名は、小白(しょうはく)である。斉の釐公(きこう)には、諸児(しょげい)、糾(きゅう)、小白の三公子がいた。釐公の死後、諸児が継いで襄公(じょうこう)となったが、殺された。跡目争いは、管仲・召忽(しょうこつ)を従えて魯国に逃げていた糾と、鮑叔(ほうしゅく)を従えて莒国に逃げていた小白との争いとなった。管仲は斉国に帰る途上の小白を襲って、これを射撃した。矢は小白の鉤(こう。帯の留め金)に当たって事なきを得たが、小白は計略を用いて自分が死んだように見せかけた。管仲は小白を射殺したと魯国に報告し、魯国は油断して糾を斉国に送ることを遅らせた。その間に小白は斉国に入って、桓公として即位した。桓公は魯国の侵入軍を破り、魯軍を包囲して糾を魯国の手で殺すことと、管仲・召忽の引渡しを要求した。魯国は糾を殺し、召忽は自殺した。このとき管仲の親友で彼の才能を知っていた鮑叔が桓公に進言して、天下を狙うならば管仲をぜひ側近に取り立てるように桓公を説得した。桓公はこれを容れて、管仲に誅罰を与えると魯国を偽って管仲を送還させて、これを赦してやがて宰相の位にまで上げたのであった。
(注3)邾・莒はともに山東省東部の地。史書には桓公と管仲が譚(郯)・遂・項を亡ぼしたことは記載されているが、邾については記載がない。莒については呂氏春秋、韓詩外伝に桓公と管仲がこれを襲ったという記事がある。少なくとも桓公・管仲の時代以降、これら山東省東部の地は斉国の勢力圏となった。
(注4)管仲が糾を公位に付けるために桓公を狙撃したこと。上の注2参照。
(注5)高氏と国(國)氏は、斉国で代々上卿にあった。
(注6)周礼によれば、二十五家を社と言う。書社とは、戸籍に載せた社の数。
(注7)楊注は、密・阮・共・崇の四国と言う。増注は古屋鬲の「阮・共は密人の侵す所にして文王の誅する所に非ず」の説を引いて楊注を否定し、代わりに『竹書紀年』から文王の討伐の記録を取り出して翟・密・崇・昆夷の四国とする。
(注8)武王が討伐した二者について、殷の紂王は確実であるが、あと一つについては注釈者によって説が分かれる。楊注は紂王の寵妃の妲己(だつき)、あるいは紂王の家臣の悪来(おらい)とみなす。集解の兪樾は奄(えん)とみなす。増注は古屋鬲を引いて黎(れい)とみなす。とはいえここの文章は、代を重ねるごとに討伐の対象が四→二→ゼロと減少していったことを言うためのレトリックであって、上の注7と並んで四と二に数えるべき内容をあまり深く詮索してもしようがないであろう。
《原文・読み下し》
仲尼(ちゅうじ)の門人(注9)、五尺(ごせき)の豎子(じゅし)も、言いて五伯(ごは)を稱(しょう)するを羞ずとは、是れ何ぞや。曰く、然り、彼誠に稱することを羞ず可きなり。齊桓は五伯の盛んなる者なり、前事は則ち兄を殺して國を爭い、內行は則ち姑姊妹(こしまい)の嫁せざる者七人、閨門の內は、般樂(はんらく)・奢汰(しゃたい)にして、齊の分を以て之を奉じて足らず。外事は則ち邾(ちゅ)を詐り莒(きょ)を襲い、國を并(あわ)すこと三十五。其の事の行たるや是(これ)の若く、其の險汙(けんお)・淫汰(いんたい)なること彼(かれ)の如し(注10)。固(もと)より曷(なん)ぞ大君子の門に稱するに足らんや。是の若くにして亡びず、乃ち霸たるは何ぞや。曰く、於乎(ああ)、夫の齊の桓公天下の大節有り、夫れ孰(たれ)か能く之を亡ぼさん。倓然(たんぜん)として管仲の能く以て國を託するに足るを見る、是れ天下の大知なり。安(やす)んずれば(注1)其の怒を忘れ、出ずれば(注11)其の讎(あだ)を忘れ、遂に立てて仲父(ちゅうほ)と爲す、是れ天下の大決なり。立てて以て仲父と爲して、貴戚之を敢て妬むこと莫きなり。之に高(こう)・國(こく)の位を與(あた)えて、本朝の臣之を敢て惡むこと莫きなり。之に書社(しょしゃ)三百を與えて、富人之を敢て距(こば)むこと莫きなり。貴賤・長少、秩秩焉(ちつちつえん)として、桓公に從いて之を貴敬せざること莫し、是れ天下の大節なり。諸侯一節だに是の如きもの有らば、則ち之を能く亡ぼすこと莫からん。桓公此の數節の者を兼ねて盡(ことごと)く之を有す、夫れ又何ぞ亡す可けんや。其の霸たるや、宜(うべ)なるかな。幸に非ざるなり、數なり。然り而して仲尼の門人(注9)、五尺の豎子も、言いて五伯を稱するを羞ず、是れ何ぞや。曰く、然り、彼は政敎に本づくに非ざるなり、隆高(りゅうこう)を致(きわ)むるに非ざるなり、文理を綦(きわ)むるに非ざるなり、人の心を服するに非ざるなり。方略に鄉(むか)い、勞佚を審(つまびら)かにし、畜積・脩鬭(しゅうとう)して、能く其の敵を顛倒(てんとう)する者にして、詐心以て勝ちたり。彼は讓を以て爭を飾り、仁に依りて利を蹈む者にして、小人の傑なり。彼固(もと)より曷(なん)ぞ大君子の門に稱するに足らんや。
彼の王者は則ち然らず。賢を致(きわ)めて能く以て不肖を救い、强を致めて能く以て弱を寛にす、戰えば必ず能く之を殆(あやう)くするも、而(しか)も之と鬭(たたか)うことを羞じ、委然(いぜん)として文を成し、以て之を天下に示して、暴國安(すなわ)ち自ら化し、災繆(さいびゅう)なる者有りて然る後に之を誅す。故に聖王の誅や綦(きわめ)て省(すくな)し。文王四を誅し、武王二を誅し、周公業を卒(お)え、成王に至りては、則安(すなわち)以て誅する無し。故に道豈(あ)に行われざらんや。文王百里の地より載(はじ)めて、天下一となり、桀・紂之を舍(す)て、天下を有(たも)つの埶(せい)に厚くして、而(しか)も匹夫を以て老することを得ず。故に之を善用すれば、則ち百里の國も以て獨立するに足り、之を善用せざれば、則ち楚は六千里にして讐人(しゅうじん)の役と爲る。故に人主道を得ることを務めずして、其の埶を有することを廣くするは、是れ其の危き所以なり。


(注9)集解の王念孫は、この二箇所の「人」字は後人の追加と言う。根拠は(1)この言葉は後の「大君子の門」と相応しているため、(2)董仲舒『春秋繁露』の同様の文や、その他の書で荀子を引用した文において「人」字がないこと、を挙げる。しかしながら、新釈の藤井専英氏は「人」字はあったほうがよいと言う。削らなくても文は完全に正しいので、わざわざ他書と併せることによって削る必要はないと考える。
(注10)原文「其險汙淫汏也彼」。宋本では「彼」の前に「如」字があり、元本にはない。元本に従う場合「彼」の前で文を区切って、「其れ險汙・淫汏なり。彼(かれ)は固より、、」と読むことになる。「彼」は前にある「是(これ)」と対になっていると考えるならば、宋本が正しい。集解本は王念孫の説を採用して、「如」字のない元本を是としている。「彼」を管仲のこととみなす集解本の読み方のほうが意味としては通りがよいが、対句的美文を重んじる荀子の文体から言えば宋本に軍配を挙げたい。ここではあえて宋本に従って、「如」字を復活させて読むことにする。
(注11)増注および集解の王念孫はともに、「安」字を語助(「すなわち」)とみなして「出」を衍字とみなす。これにしたがえば、「安(すなわ)ち其の怒を忘れ[出]其の讎(あだ)を忘れ、、」と読むべきである。漢文大系はこれを採用している。しかし楊注は「安は猶(なお)内のごとく、出は猶外のごときなり。言うは内に忿恚(ふんい)の怒を忘れ、外に射鉤(しゃこう)の讎を忘る」と言い、このまま解釈している。楊注に従いたい。

孟子は、「仲尼の徒、桓・文の事を道(い)う者無し」(梁恵王章句上、七)「管仲は曾西すら爲(い)わざりし所なり」(公孫丑章句上、一)と言う。荀子もまたここで同様に、斉の桓公のような覇者のことを孔子の門徒は言うことを恥じるのだ、と言う。王者を尊んで覇者を卑しむのは、孟子も荀子も儒家として立場を同じくしている。ただ、荀子はこの仲尼篇や後の王覇篇において、管仲について限定つきの評価を与えている。少なくとも斉の桓公が覇者となることができたのは、もっぱら管仲が宰相として輔佐したおかげであった、と。しかし管仲が主君に与えた地位はしょせん覇者であって、儒家としては高く評価することができない、というわけである。

荀子が覇者をどのように位置づけて、王者をどのように位置づけているかは、王制篇で述べられている。そこで荀子の思想について解読を試みたので、ここでは繰り返さない。荀子の王者は、すでに統一中華帝国が予測できた戦国時代末期の時代であったからこそ、リアリティある世界平和の展望として提案することができた。だが荀子の時代と違って世界統一帝国が構想できない時代においては、王者のように戦わずして正義の力で世界を統一する者などは現れるべくもない。覇者はそのような時代に現れて国際秩序の維持を敢行するヘゲモニー国家であって、武力の威嚇を示すよりも経済利益と安全保障の利益を示すことによって、諸国がこれに従うことを有利であると判断させる。このような覇者は、偽りの強者が達成できない国際平和を形成することができる。それが一時的の平和であるからといって荀子ら儒家は覇者を批判するが、王者が現れない時代状況においては覇者以上の平和の策はありそうにない。

仲尼篇での王覇論は、上に訳した冒頭の部分だけである。ここから後は君子の処世術が置かれて、仲尼篇は中途半端に終わる。儒家の理想とする王者の統治論の本格的な叙述は、つづく儒效篇に持ち越されるようである(劉向『荀卿新書』版では仲尼篇の後に成相篇が挟まる)。王制篇と同じく、覇者への言及は荀子にとって本論へのイントロダクション的位置づけにすぎないようだ。しかし現代的意義を持った分析は、ここから後に続く荀子の本論ではなくて、圧倒的に覇者についての論述のほうだと評価したい。

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