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彊国篇第十六(5)

小さなことをこつこつと積み上げていくには、一月ごとに行うのでは毎日行うことにはかなわず、一季ごとに行うのでは毎月行うことにはかなわず、一年ごとに行うのでは毎季行うことにはかなわない。だいたい人というものは、日々の小さなことをあなどって怠りがちである。そうしていざ大きな難事が起こってから、ようやく奮起して努力するものだ。こんな様子であるので、このような者は常に日々の小さなことをこつこつと行っている者にかなわないのである。どうして、差が出てくるのか。小さなことは、しばしば起こる。起こる日数は、極めて多い。よってそれに対処していったときの積み上がりは、きわめて大きい。いっぽう大きなことは、めったに起こらない。起こる日数は、多くない。よってそれに対処していったときの積み上がりは、しょせん小さなものである。ゆえに、毎日を惜しんで怠りない(注1)者は王者となり、ときどき努力する者は覇者となり、ミスに対処しているだけの者は危うく、荒れっぱなしで放置する者は滅亡するのである。ゆえに王者は毎日をつつしみ、覇者は一年に四回程度つつしみ、わずかに存続している国は危機に陥ってからようやく憂慮し、亡国は滅亡するときになってようやく滅亡するしかないことに気づき、死ぬときになってやっともう死ぬしかないことを知るのである。国のわざわいは、悔いても悔いきれない。覇者の善事はたとえ見えたとしても、季節ごとにしか起きないので記録することもできよう。しかしながら王者の功名は毎日のことであるので、小さなことが大量にあってとても記録することができない。財物や宝物は、大きければ大きいほど評価される。しかし政治・教化の功名はその逆で、大きければ大きいほど評価されないものだ。真実は、小さなことをこつこつと積み上げていく者こそが、もっとも速やかに功名を成し遂げるのである。『詩経』に、この言葉がある。:

至徳は輶(かろ)し、毛の如し
されどもあえて、とり舉(あ)ぐ者なし
(大雅、烝民より)

ここに、真理がある。

およそ悪人が現れる理由は、上が礼義を尊ばず、礼義を敬しないところにある。礼義というものは、人が邪悪をなすことを禁止する装置なのである。いまもし上が礼義を尊ばず礼義を敬しなければ、下の人民はすべて礼義を捨てて邪悪に走ろうという心が起こるであろう。これが、悪人が現れる理由なのである。上に立つ者は、下の者たちの師である。下の者たちが上の者に和するのは、たとえるならば楽器の響きが人の歌声に合わせるようなものであり、また影が元の形をなぞらえるようなものである。ゆえに、人の上に立つ者は、慎まなければならない。そもそも礼義なるものは、人間の心の内においてこれを制御し、人間の外の万物においてこれを統御し、上に立つ者を安楽にして、下に従う者を秩序立てる原理なのである。内・外・上・下に規則があることは、礼義の本意である。ならばすなわち、およそ天下を治める要点は、礼義を第一として忠信をこれに次がせることにあるだろう。むかし禹・湯は、礼義を第一として忠信に励んで、天下は治まった。桀・紂は礼義を捨てて忠信に背いて、天下は乱れた。ゆえに人の上に立つ者は、必ずや礼義を慎み、忠信を務めて、それでようやく治まるのである。これが、人に君主たる者の大本である。部屋の中ですら掃除できていない状態では、外の庭が草延び放題であることに構っている暇がない。白刃が胸の前に突きつけられていては、目の前で流れ矢が飛んでいることに気づく暇がない。戟(げき。斧と槍が合体した武器)の刃が首筋に当てられていては、たとえ手の指を切られても構ってはいられない。これらのことを、しなくてもよいわけでは決してない。ただ、より痛い、より危ない、より先にしなければならない、ということが目前に迫っているからである。(ゆえに、大きなことが起こってから動くようでは王者とはなれない。王者となるためには、常に礼義の規則に従い、日々の忠信に務めるのである。)


(注1)原文「日を善くする」。楊注は「善」を愛惜して怠らず、と言う。
《原文・読み下し》
微を摘むは、月(つきづき)は日(ひび)に勝らず、時(ときどき)(注2)は月に勝らず、歲(としどし)は時に勝らず。凡そ人好んで小事を敖慢し、大事至りて然る後に之に興り之に務む。是(かく)の如くなれば、則ち常に夫の小事に敦比(とんひ)する者に勝らず。是れ何ぞや、則ち小事の至るや數(さく)、其の日を縣するや博(はく)、其の積爲るや大なり。大事の至るや希、其の日を縣するや淺、其の積爲るや小なる。故に日を善くする者や王たり、時を善くする者や霸たり、漏(ろう)を補う者や危く、大荒なる者は亡ぶ。故に王者は日を敬し、霸者は時を敬し、僅に存するの國は危くして後に之を戚(うれ)い、亡國は亡に至りて而(しこ)うして後に亡を知り、死に至りて而して後に死を知る。國の禍敗は、勝(あ)げて悔ゆ可からざるなり。霸者の善は著(あら)わるるも、時を以て託(しる)す(注3)可きなり。王者の功名は、日に志(しる)すに勝う可からざるなり。財物・貨寶は大を以て重しと爲し、政教・功名は是れに反す、能く微を積む者は速(すみやか)に成る。詩に曰く、德の輶(かろ)きこと毛の如きも、民克く之を舉ぐること鮮(すくな)し、とは、此を之れ謂うなり。
凡そ姦人の起る所以の者は、上の義を貴ばず、義を敬せざるを以てなり。夫の義なる者は、人の惡と姦とを爲すを限禁する所以の者なり。今上義を貴ばず、義を敬せず。是の如くなれば、則ち天下の人・百姓、皆義を棄つるの志有り、姦に趨くの心有り。此れ姦人の起る所以なり。且つ上なる者は下の師なり。夫の下の上に和するは、之を譬(たと)うるに猶お響の聲に應じ、影の形に像(かたど)るがごときなり。故に人の上爲る者は、順(つつし)(注4)まざる可からざるなり。夫の義なる者は、內は人を節して、外は萬物を節する者なり。上は主を安んじて、下は民を調する者なり。內外・上下節ある者は、義の情なり。然らば則ち凡そ天下を爲(おさ)むるの要は、義を本と爲して、信之に次ぐ。古は禹・湯義に本づき信を務めて天下治まり、桀・紂義を棄て信に倍(そむ)きて天下亂る。故に人の上爲る者は、必ず將(は)た禮義を愼み、忠信を務めて、然る後に可なり。此れ人に君たる者の大本なり。堂上糞(ふん)(注5)せざれば、則ち郊草曠芸(こううん)を瞻(み)ず(注6)、白刃胷(むね)を扞(おか)せば、則ち目流矢を見ず、拔戟(ばつげき)首に加うれば、則ち十指も斷ずるを辭せず。此を以て務と爲さざるに非ざるなり、疾養・緩急の相先んずる者有ればなり。


(注2)ここでの「時」は一季、三ヶ月のこと。
(注3)集解の兪樾、増注ともに「託」は「記」の誤りと言う。
(注4)増注は「順」は「愼」に通ずと言う。
(注5)集解の郝懿行は「糞」字を仮借であると言う。掃除する。元の字は「拚」の異体。
(注6)集解の王念孫は「曠瞻」二字を衍文とみなす。漢文大系はこれを取って「郊草芸(くさぎ)らず」と読んでいる。楊注・猪飼補注・金谷治氏・藤井専英氏はすべて「曠瞻」二字を読んでいる。金谷・藤井説に従って読む。

彊国篇の末尾は、教訓の文で終わる。非常に技巧的な文章であり、『詩経』の引用から逆算して言葉を作ったかのような印象すらある。『荀子』の中には荀子作の賦(ふ)という形式の長詩を集めた賦篇第二十六も収録されている。荀子は礼の大家として、美文を作ることにも長けていた。つまりリズムある美文によって、真理を雰囲気で理解した気にさせようとしているのである。ただ現代の私が読むと、時にいささか冗長な表現が見える。

荀子は、毎日こつこつと積み上げて、目立たないが大きな功績があるのが王者の政治のしかけであり、王者以外はこれを行わない、と言う。しかしながら秦国の法が、時々の場当たり的な努力の結果であるはずはないのであるが。法というものは過去の小さな判例解釈の積み重ねの結果、合理的に運用できる中庸点が見出された結果現在の法体系がある、ということは法学の常識であろう。後世の実務を軽視する道学者たちは知らないが、こと荀子が秦の法とて小さな努力の積み重ねとして能率的に運営されていることを、知らないはずがない。荀子は儒家の中でも最も礼義の法的側面を重視する社会思想家なのである。

「悪法も法なり」という言葉がある。法の実証的(positive)な側面を重視するのであれば、法の最も重要な点はその論理的整合性であろう。システムとして運営されるときに矛盾が起きないのであれば、法が何を禁止して何を命じているかの内容は、不問に処してもよい。
しかし法の規範的(normative)な側面を重視するのであれば、法は悪法であってはならず、「正しい」価値観に基づいた法でなければ批判されなければならないであろう。何が「正しい」価値観であるか、というのが次の問題となるのであるが。

荀子は、秦国の法の実証的な側面に対しては、これを絶賛していると言ってよい。前回のくだりで見たように、秦国の法のシステムは荀子が想定する礼義のシステムのとおりに動いていたのである。

ただ、荀子は秦国の法を規範的に批判するのである。秦国の法は、儒家が推奨する「正しい」価値観に沿っていない。それは偽りの「強者」の法であり、「覇者」の法ですらなく、ましてや「王者」の法からは遠い。ゆえにそれは秦国では通用するが、中華世界全体では通用しない。荀子の批判点は、本来そこにあったはずである。実証的な側面と規範的な側面とをカント的に分離して論じないので、読む者には荀子がまるで秦国の全てを批判しているように見えてしまう。荀子じしんもまた、秦国の制度を規範的に批判しているのか実証的に批判しているのかを自覚して分離できていなかった、と私は読んで思う。思想家たちは両者を区別できなかったが、実際の実務家たちは区別していた。漢代の政治家たちは、秦国の政策を規範的に厳しく批判した。しかしながら、漢帝国のシステムは、秦国の遺した法と統治制度を実証的に全て継承して運営されたのである。秦国の統治全てが悪い、と批判するのは、空理空論の道学者であるにすぎない。

続いて、天論篇に進みたい。荀子の合理的自然観、つまり古代中国の合理的自然観が展開された、『荀子』中の白眉の一篇の一つである。

【次は、「天論篇第十七」を読みます。】

議兵篇第十五(1)

臨武君(注1)が、荀子(孫卿子)(注2)と兵について趙国の孝成王の前で討論した。

(趙王)「兵法の要点をうかがいたい。」
(臨武君)「上は天の時を得て、下は地の利を得て、敵の変動を観察し、敵よりも後に進発して敵よりも先に戦場に着く。これが、兵法の要の戦術です。」(注3)
(荀子)「そうではありません。それがしの聞くいにしえの道では、用兵攻戦の根本は人民の心を一つにすることにあります。弓矢が整わなければ、羿(げい。伝説上の弓の達人)もまた小さな的に当てることができず、馬が和しなければ、造父(ぞうほ。周代の名御者)もまた馬車を遠くに駆ることができません。士民が親しんで従わなければ、殷の湯王・周の武王もまた必ず勝つことができません。ゆえに、人民を従わせる者が、よく兵を用いる者なのです。よって兵法の要点とは、よく人民を従わせるところにあるのです。」
(臨武君)「そうではありません。用兵において尊ぶべきことは、勢と利です。行うべきは、変と詐です(注4)。よく兵を用いる者は、迅速かつ隠密に動き、どこから現れるか知られない者です。孫子・呉子(注5)はこれを用いて天下に無敵でした。どうして人民が従うことを待つ必要がありましょうや?」
(荀子)「そうではありません。それがしの申していることは、仁の人の兵です。王者の志です。あなたの尊ぶことは、権謀であり勢利です。あなたの行うことは、攻奪であり変詐です。これらは、諸侯のやる事です。仁の人の兵は、騙すことができません。騙すことができる兵は、怠慢にして疲労した兵だけです。君臣・上下の間がばらばらに離れている国だけです。ゆえに、桀(伝説の悪王)が桀を騙すのであれば、それを上手にやるか否かで勝てるかもしれません。しかし桀が堯(伝説の聖王)を騙そうとすることは、たとえるならば卵を石に投げることであり、指で沸騰した湯をかきまわすことです。水火の中に入るようなもので、これを行えば焼かれるか溺れるかです。仁の人は総軍の将帥となって力を同じくし、上下の心は一つにまとまるのです。家臣が君主を見ること、下が上を見ることは、子が父に仕え、弟が兄に仕えるがごときであり、手と肘が頭と目を守って胸と腹を覆うがごときとなります。これを騙そうとして襲撃するのは、事前に警告してから叩くのと一緒であり、反撃されて痛い目を見るのは相手です。なおかつ仁の人が十里四方の国を治めるときには、百里四方から情報が集まってきます。百里四方の国を治めるときには、千里四方から情報が集まってきます。千里四方の国を治めるときには、これはもう天下全体から情報が集まって来るのです。よって仁の人は、必ず明察に警戒します。人民が付き従うこと、一つのようになるのです。ゆえに仁の人の兵は、集まれば卒(五人分隊)を作り、散れば行列を作り、延びれば莫邪(ばくや。春秋時代の名刀匠)の長刀のようになり、これに触れた者は斬られます。その鋭さは莫邪の切っ先のようになり、これに当たった者は壊滅します。円陣を敷いて静止すれば磐石のように固く、これに触れた者は砕け散ります。こうして敗れて憔悴した果てに、撤退するしかないのです。かつそもそも暴虐な国の君主は、いったい誰とともに戦うのでしょうか。本来彼のところには、自国の人民が集まってくるはずです。だが彼の人民は、もはやこちらの国の君主に親しみ喜ぶことが父母のようであり、こちらの国の君主を好むことが椒蘭(しゅくらん)の香りのようであり、いっぽう自国の君主をかえりみれば、焼きごて・入れ墨の刑罰を受けるかのように、仇讎(かたき)であるかのように忌み嫌い、もはやこの国の人民の人情としては、たとえ桀・盗跖(とうせき)クラスの極悪人であったとしても、憎い自国の君主のために大好きなあちらの国の君主と戦うことなど、もうありえません(このくだりは、王制篇にも出てくる)。これは、子や孫にその父母と戦わせるようなものです。敵国からは、必ず情報が入ってきます。どうして騙すことができるでしょうか。ゆえに、仁の人が国に用いられたならば日ごとに名声が挙がり、これに先に従う諸侯は安泰で、後から従う諸侯は危険となり、これに敵対することを企む者は領地を削られ、これに実際に敵対する者は滅亡するのです。『詩経』に、この言葉があります:

武(たけ)き王、旆(はた)をおし立て
つつしみて、鉞(まさかり)を持つ
火のごとく、烈烈たりて
あえて遏(とど)むる、者とてあらず
(殷頌、長發より。王とは殷の湯王のこと)

ゆえに湯王の軍は、この言葉のようであったのです。」
(孝成王・臨武君)「よい話だ。」


(注1)臨武君と孝成王については、下のコメント参照。
(注2)本篇は、荀子を「孫卿子」と称している。この称号については、年表・地図ページを参照。
(注3)天の時と地の利を考慮するべきことは、『孫子』始計篇。地形についての考察は、同地形篇および九地篇。戦場に先着することの利は、同虚実篇にある。
(注4)勢については、『孫子』勢篇。変と詐については、同虚実篇、軍争篇など。
(注5)呉子は呉起。戦国時代初期の兵法家・政治家。魯国・魏国で将軍として勇名を馳せ、楚国で政治家として法家思想に基づいた改革を行ったが、庇護する楚王の死後に彼の改革によって既得権益を奪われた貴族たちの恨みを買って惨殺された。
《原文・読み下し》
臨武君、孫卿子と兵を趙孝成王の前に議す。王曰く、兵の要を請い問う。臨武君對(こた)えて曰く、上天の時を得て、下地の利を得て、敵の變動を觀、之に後れて發し、之に先んじて至る。此れ兵を用うるの要術なり。孫卿子曰く、然らず。臣が聞く所の古の道は、凡そ用兵攻戰の本は民を壹(いつ)にするに在り。弓矢調はざれば、則ち羿(げい)も以て微に中(あ)つること能わず。六馬和せざれば、則ち造父も以て遠に致すこと能わず。士民親附せざれば、則ち湯武も以て必ず勝つこと能わず。故に善く民を附する者は、是れ乃ち善く兵を用うる者なり。故に兵の要は善く民を附するに在るのみ。臨武君曰く、然らず。兵の貴ぶ所の者は埶利(せいり)なり、行う所の者は變詐なり。善く兵を用うる者は、感忽(かんこつ)(注6)悠闇(ゆうあん)にして、其の從(よっ)て出ずる所を知ること莫し。孫吳之を用いて天下に敵無し、豈に必ずしも民を附するを待たんや。孫卿子曰く、然らず。臣の道(い)う所は、仁人の兵にて、王者の志なり。君の貴ぶ所は、權謀・埶利なり、行う所は、攻奪・變詐なり、諸侯の事なり。仁人の兵は、詐(たばか)る可からざるなり。彼の詐る可き者は、怠慢なる者なり、路亶(ろたん)なる者なり。君臣上下の間、滑然(かんぜん)(注7)として離德有る者なり。故に桀を以て桀を詐るは、猶お巧拙幸有り。桀を以て堯を詐るは、之を譬(たと)うるに、卵を以て石に投じ、指を以て沸を撓(こう)するが若し、水火に赴くが若し。焉(ここ)に入れば焦沒(しょうぼつ)せんのみ。故に仁人は三軍に將たりて、力を同じうし、上下心を一にす(注8)。臣の君に於けるや、下の上に於けるや、子の父に事(つか)え、弟の兄に事うるが若く、手臂(しゅひ)の頭目を扞(まも)り、胸腹を覆うが若くなり。詐りて之を襲うは、先(ま)ず驚かしめて而る後に之を擊つと一なり。且つ仁人の十里の國を用うれば、則ち將(まさ)に百里の聽有らんとす。百里の國を用うれば、則ち將に千里の聽有らんとす。千里の國を用うれば、則ち將に四海の聽有らんとす。必ず將(は)た聰明・警戒して、和傳(わふ)(注9)すること一の而(ごと)し。故に仁人の兵、聚(あつま)れば則ち卒を成し、散れば則ち列を成し、延なるは則ち莫邪(ばくや)の長刃の若く、之に嬰(ふ)るる者は斷ち、兌(えい)(注10)なれば則ち莫邪の利鋒の若く、之に當れば潰(つい)ゆ。圜居(えんきょ)して方(まさ)に止まれば(注11)、則ち盤石の若く然り、之に觸(ふ)るる者は角摧(かくさい)し、案(すなわ)ち[角](注12)鹿埵(ろくた)・隴種(りょうしょう)・東籠(とうろう)(注13)して退くのみ。且つ夫れ暴國の君、將(は)た誰と與(とも)に至るや。彼其の與に至る所の者は、必ず其の民なり。而(しこう)して其の民の我を親しむや、歡父母の若く、其の我を好むや、芬椒蘭(しゅくらん)の若く、彼其の上を反顧すれば、則ち灼黥(しゃくげ)の若く、讎仇(きゅうし)の若し。人の情、桀・跖と雖も、豈に其の惡む所の爲に、賊其の好む所の者を賊するを肯んずる又(あ)(注14)らんや。是れ猶(なお)人の子孫をして、自ら其の父母を賊せしむるがごときなり。彼必ず將に之を來り告げんとす。夫れ又何ぞ詐る可けんや。故に仁人用いらるれば國日に明なり、諸侯先ず順う者は安く、後に順う者は危く、之に敵することを慮(おもんぱ)かる者は削られ、之に反する者は亡ぶ。詩に曰く、武王發(はい)(注15)を載(た)て、有(また)虔(つつし)みて鉞(えつ)を秉(と)る、火の烈烈たるが如し、則ち我を敢えて遏(とど)むること莫し、とは此を之れ謂うなり。孝成王・臨武君曰く、善しと。


(注6)「感」を集解の郝懿行は「撼」のごとしと言い、「撼忽」はすばやい意。
(注7)「滑」を集解の王引之は「渙」と読むべきと言い、「渙然」は溶けて離れる意。
(注8)原文「仁人上下、百將一心、三軍同力」。増注は「仁人」の下に必ず誤りがあると言い、あるいは「仁人將三軍、同力、上下一心」であるかと言う。一応これに従う。
(注9)増注は、「傳」は「傅」とするべきで、「附」と同じ意と言う。
(注10)「兌」を集解の盧文弨は「鋭」と読むと言う。
(注11)各本は「止」字を「正」とする。楊注は「方止」を取って不動の時、と言う。
(注12)「角」字を増注の冢田虎および集解の劉台拱は衍字と言う。
(注13)楊注は「その義未詳、けだし皆摧敗披靡(さいはいひび)の貌」と言う。敗れて憔悴した様子であるか。
(注14)増注は「又」は「有」と読むと言う。
(注15)『詩経』テキストでは「發」は「旆」となっている。旗のこと。

【この篇は、「王制篇第九」の後に読んでいます。】

議兵篇は、趙の孝成王(在位BC265-BC245)と後で述べる臨武君の前で荀子が議論したこと、弟子の李斯と陳囂(ちんごう)の質問への返答、そして総括から成る。「強い兵とは何か?」という議論である。儒家の荀子は、戦争のことはあまりよく知らないようだ。述べられているのは「理想の政治とは何か?」という議論の延長上にあり、戦争に勝つための技術である兵法をよく理解しているようには見えない。

孝成王は、確かに荀子の活動時期に在位していた趙国の王である。荀子は趙国の出身であったが、主に活動したのは斉国であった(年表・地図を参照)。王の在位中のどこかの時点で、荀子は祖国に遊説に出かけたのであろう。この議論がいつ成されたのかは明確ではないが、私は長平の戦(BC260年)の前のことであろうと推測する。長平の戦は中国戦国時代最大の合戦の一つで、秦軍と趙軍が決戦して趙軍の惨敗に終わった。『史記』の記すところによれば、勝った秦軍は負けた趙軍の兵40万人を穴埋めにして殺したという。この合戦の直接の原因は、韓国が放棄した上党(じょうとう、山西省)の地を秦国が取るか趙国が取るか、を巡っての争いであった。しかしその背後の要因は、戦国諸侯で最強の力に成長していた秦国と、武霊王(在位BC326-BC298)の軍制改革以降に軍事大国として力を増した趙国との間で、中華を支配する勝者を決める決戦が不可避であったところにあった。かつての中華の覇権国であった魏国と斉国はこの頃すでに勢いを失い、南蛮の大国楚国は秦に圧迫されて国土を削られ、都を東に遷さざるをえなくなっていた。秦国の前に立ちはだかる大国は趙国ただ一国であり、長平の戦の決着が中華の勝者を決定したのであった。ここから後は秦国に始皇帝が現れて他の六国を併合する作業が残っているだけとなった。

長平の敗戦の後、趙国は都を秦軍に包囲されて窮地に陥った。魏の信陵君が義によって率いた救援軍の活躍で包囲が解かれた後も、趙国はもはや長平以前の国力を取り戻すことはできなかった。だがこの孝成王との議論で荀子は、秦国は強力であるが春秋時代の覇者である斉の桓公・晋の文公よりも弱い、などと言っている。秦に敗れた後の発言とは、とても思えない。なので、長平の戦よりも前に、来る秦軍との決戦に向けて諸子百家たちの議論を王が募集したところに荀子が論じたことの記録であろう、と私は推測する。

ここで孝成王の前で荀子と討論している相手は、臨武君と呼ばれる。この人物の詳細は、よく分からない。楊注は『戦国策』に現れる同名の楚将を引用して、この人であるかと疑っている。楊注はまた、劉向の『荀卿新書』劉向校讎叙録に荀子が「趙に至り、趙孝成王の前に孫臏(そんぴん)と兵を議す」と記載されていることに対して、これは年代的に疑わしいと斥けている。(孫臏は紀元前341年ごろに活動していた兵法家である。『孫子』を書いたとされる孫武の孫と伝えられる。前世紀後半に、彼じしんの兵法書である『孫臏兵法(仮称)』が中国で出土した。)しかしながら臨武君が陳述する兵法はまさしく『孫子』からの引用であり、兵法の知識を持った人物であったことは窺える。『孫子』は当時の兵法を論じる者ならば暗記するのが標準であった。

私はこの議兵篇を読む限り、荀子は戦争のことが分かっていないと思う。孫子が兵の破壊力は「勢」をコントロールすることによって作るべし、と説いたのは全く正論である(※)。いっぽう、荀子の言うように君主の仁義が士気を高めることなどは、およそ戦場においてはありえない。荀子は礼法を重視する持論に沿って、整った軍法・合理的な軍編成をこれから後に述べ立てるが、それは兵家こそが最も重視する項目であって、荀子だけが言っていることではない。荀子が仁の人の兵だから陣形を作れば強いのだ、などと言うが、とんでもない。合理的な兵法に従ったから強いのである。兵の一人一人が自律的に勇戦する国民軍は、確かに強い。しかしながら中国のように専制国家が農民から徴発した兵は、自律的に戦うことはできないのである。前近代で兵の一人一人が自律的に戦う軍は、ギリシャ・ローマの市民軍あるいはモンゴル・満州のような遊牧狩猟の戦士集団であった。これらは少数であっても、敵対するペルシャ軍や中国軍が装備優良な大軍であったにもかかわらず、圧勝した。それは、上からの指令に従って手足を動かすことしかできないマニュアル軍を、兵の一人一人が自律的に考えて勇戦する戦闘集団が打ち破った事例であった。荀子の仁の人の兵は理想としては美しいが、当時の中国の実情を全く無視した空想論である。だから中国では、兵を動物とみなしてこれを組織化して動かすマニュアルである兵法が発達したのである。

(※)付記:孫子の「勢」は烏合の衆を目的のために働かせる組織運営術として興味深い手法であると私は考えるが、それが何であるかを探求するのはこのサイトの目的ではないので割愛します。


荀子は堯を騙すことはできない、などと言っているが、戦争の歴史から言えば噴飯ものの空想である。戦争とは、両者の力にさほどの差がない場合においては、錯誤が少ない方が勝利する。錯誤しないほうが、ではない。錯誤は、不確実な情報しか得られない戦場においては、必ず起こるのである。ゆえに、兵家は相手の予想を裏切り錯誤を誘うために、変詐・詭道を戦場で使うのである。戦場での戦術(タクティクス)について言えば、荀子の議論は空想である。

ただ兵家の視野が戦争技術のことだけに向いているのに対し、儒家の荀子は国家全体の制度にまで目が向いている。国家の平時における優良な政治が基礎的な国力を高め、国に対する忠誠心を醸成し、いざ戦争になったときに長期的な軍の強さと士気の高さにつながる、という視点は、全くその通りである。国家の戦略(ストラテジー)について言えば、荀子のほうが兵家よりも一日の長がある。

戦争の真の浪費は、完全な情報の不足による錯誤に起因する。近年の番組によれば(NHK『その時歴史が動いた』)、日露戦争で乃木希介は旅順要塞攻略戦の早期の段階で旅順港にいるロシア東洋艦隊がすでに発艦できる状態にないことを、現地に赴いて得た情報から判断していたという。それゆえ乃木は多大な犠牲が出ることが予測できた旅順要塞の占領を急ぐことはないと日本の大本営に上申したのであるが、大本営は乃木の現地情報に確信が持てず、旅順港から東洋艦隊が出撃してヨーロッパから来襲するバルチック艦隊と挟み撃ちになればわが連合艦隊に勝ち目はないと憂慮し、旅順要塞の早期占領を乃木に命令した。やむなく乃木は旅順要塞の強襲占領作戦を行い、結局は占領したのであるが、その犠牲は甚大であった。番組の紹介する近年の研究では、乃木の判断は正しかったという。ならば、旅順要塞攻略戦の意義は全く大本営が情報を確信するため、それだけのための犠牲であった。

『孫子』は「兵は国の大事なり、死生の道、存亡の道なり」と言う。戦争は事前の計算どおりにはいかない不確実性を持ち、よって国を傾けかねない大事件である。ゆえに不確実な未来に向けて最善の情報を収集する努力を行い、動くときには相手の予想の裏をかく戦術によって可能な限り有利な情勢を作らなければならない。戦争の全てが明知の君主によって最も能率的に実行される、と思い込んで語る荀子のような論者は、実際の戦争を語る資格はない。荀子一門はどうやら一通りは兵法も研究したようであるが、兵法の本質である戦術論を軽視して自らの礼法論の中に解消してしまっている。これは、平時から戦時を語る論法である。情報の不確実性がある世界を対象とするときには、完全な情報が入手できることを前提とした論理は正論に見えて実は的外れとなる。荀子は、平時の政治経済の戦略レベルの議論だけに参加するのが正しい。

議兵篇第十五(2)

(趙王)「では、質問したい。王者の兵とは、どのような道を取ってどのような行動を取れば可能となるのか?」
(荀子)「そもそも大国の王にとっては、軍の統帥などは瑣末な事にすぎません。どうかそれがしに、いかなる原因をもって王者諸侯の強弱存亡が起こるかの因果関係と、いかなるときに安泰となるか危機に陥るかの形勢とを、述べさせてください。君主が賢明であると、その国は治まります。君主が無能であると、その国は乱れます。礼を尊び、義を尊ぶならば、国は治まります。礼をないがしろにし、義を賤しむならば、その国は乱れます。治まる国は強く、乱れる国は弱い。これが強弱の基本です。上が仰いで服するに足れば、下を用いることができます。上が仰いで服するに足りなければ、下を用いることができません。下を用いることができれば強く、下を用いることができなければ弱い。これが強弱の常です。礼を尊び、その上で功績に邁進するのは、最上です。家臣の禄を働きに応じて慎重に配分し、かつ節義を尊ぶのは、次善です。功績ばかり尊んで、しかし節義を賤しむのは、最低です。これが、強弱の一般法則です。士を好む者は強く、士を好まない者は弱く、民を愛する者は強く、民を愛さない者は弱く、政令に信用がある者は強く、政令に信用がない者は弱く、人民が斉一なる者は強く、人民が斉一ならざる者は弱く、褒賞の重い者は強く、褒賞の軽い者は弱く、刑罰に権威がある者は強く、刑罰が侮られる者は弱く、武器類や武具類がよく整備されている者は強く、それらが破れている者は弱く、兵を慎重に運用する者は強く、兵を軽率に運用する者は弱く、権勢が一箇所から出ている者は強く、権勢が複数に分かれている者は弱い。これが、強弱の常です。

斉国の人は、武芸を好みます。兵が首一つを取れば(A:楊注・集解の郭嵩燾の説)褒賞金を与えるが、戦勝したときに兵全体に与える賞与がない。(B:増注の久保愛の説)功績ない者から罰金を取って、それを功績者に与えるので、国から持ち出しの賞与がない。(C:猪飼補注の説)一時金を与えるが、徭役免除と税の軽減を与える褒賞がない。(注1)これは、小競り合いで敵が弱いときには有効かもしれませんが、大きな合戦で敵が堅固であるときには、組織的戦闘ができないのでばらばらになってしまいます。飛ぶ鳥が、散ってしまうようなものです。国が傾いて転覆するのは、日を追って明らかです。これは、亡国の兵です。これ以上に弱い兵は、ありません。市場で日雇いを集めて戦わせるのと、大して変わりません。

魏国の武卒は、基準を定めて採用します。三属の甲(楊注によると、鎧・腰当て・脛当ての三種のよろい。)を着て、十二石(せき)の弩(ど。いしゆみ、ボウガン。石は弓の強さの単位。十二石の弩は非常に強いいしゆみ。)を操り、五十本入りの矢立てを背負い、戈(か。古代の長槍の一種。)をその上に置き、冑(かぶと)をかぶって剣を帯び、糧食三日分を携帯して、一日で昼までに百里(40km)を走る試験を行います。これに合格した健児の家には徭役を免除し、税を軽減します。この特権は、数年経ってこれらの兵が衰えても、奪うことができません。新しい兵卒に入れ替えようとすれば、同じ特権を与えなければなりません。このゆえに、魏国は広大な土地を持ちながらも、税収が必ず少ないのです。これは、国を危うくする兵です。

秦国は、人民を常時困窮させ、酷烈に使役します。人民を威勢で脅し、過酷な法で苦しめ、褒賞で手なづけ、刑罰で圧迫します。秦国の人民に対して、お上から利益を得るためには戦闘によるしかない、と思わせるのです。まず苦しめて使役し、後から褒賞するのです。功績があれば褒賞がある、と利で釣ることにより急き立て、冑首五つを取ったら郷里の五家を隷属させる制を取っています。これが、兵を最も強くして長期的に国を強め、結果土地を多く奪って税収が上がることになりました。秦国が四世(楊注は孝公、恵王、武王、昭王と言う)において勝ち続けたのは、偶然ではなくて道理だったのです。ゆえに、斉国の武芸では魏国の武卒に敵いません。魏国の武卒では、秦国の鋭卒にかないません。だが秦国の鋭卒は、斉の桓公・晋の文公の整った軍隊にはかないません。そして斉の桓公・晋の文公の整った軍隊は、殷の湯王・周の武王の仁義にはかないません。これら仁義の王の軍と会戦する者は、消し炭を石に投げつけたがごとくに、砕け散ることでしょう。

さて今まで申し上げた各国に共通することは、すべて褒賞を求めて利益に走る兵ばかりということです。しょせんは、人を雇って労務を買う道です。上を尊んで法制に安んじ、節義をきわめる理を持っておりません。いま諸侯の中で精妙な国づくりを行うために節義に則る者がいたら、この者はたちまち勃興してこれら各国を窮地に陥れるでしょう。ゆえに士卒を招き、選抜して、威勢の力や変詐の術を尊んで、功利を尊ぶのは、人民を欺く道です。礼義により教化するのは、人を服して斉一とする道です。詐術によって詐術と戦うならば、まだ巧拙を論じることができるでしょう。しかし詐術によって斉一なる者と戦うのは、たとえれば錐で泰山を崩そうとするようなものです。天下の愚人でなければ、あえて試みようとはしないでしょう。ゆえに、王者の兵は試みられないのです。湯王・武王が桀王・紂王(ともに伝説の悪王)を誅したときには、手を拱いて指先で指図しただけで、強暴なる国は使い走らされたのです。桀王・紂王を誅するのは、ただの匹夫を誅するようなものでした。『書経』泰誓篇(注2)に、「匹夫の紂」とあるのは、そういうわけです。ゆえに、兵が大いに整っていれば天下を制し、わずかに整っていれば隣敵を危うくするのです。士卒を招き、選抜して、威勢の力や変詐の術を尊んで、功利を尊ぶ兵のごときは、勝敗に常がありません。あるいは国が縮小したり拡張したり、あるいは国が存続したり滅亡したり、あるいは互いの国で雌雄を決したり、これを繰り返しているだけです。これを盗兵というのであり、君子はこれに由りません。斉の田単(注3)、楚の莊蹻(そうきょく)(注4)、秦の衛鞅(えいおう)(注5)、燕の繆蟣(びゅうき)(注6)、これらは世に言うよく兵を用いる者たちです。彼らの用兵の巧拙強弱は伯仲していますが、その取る道は一つ、すなわち変詐の道にすぎません。和斉の道には、いまだ至りません。こづいたりだましたりして、権謀を巡らして敵を傾け覆すことを企む。いまだ盗兵を免れることはできません。斉の桓公・晋の文公・楚の莊王・吳王の闔閭(こうりょ)・越王の勾踐(こうせん)は、これみな和斉の兵でした。少しは王者の兵の域には入っていたといえるでしょう。だがしかし、本統には至りませんでした。ゆえに、覇者となることはできましたが、王者となることはできなかったのです。これが、いかなる原因をもって王者諸侯の強弱存亡が起こるかの、因果関係なのです。」
(孝成王・臨武君)「よい話だ。」


(注1)原文読み下し「贖錙金(しょくしきん)を賜えて、本賞無し。」解釈が分かれているので、各案併記した。藤井専英氏は楊注・集解に近い訳を取り、金谷治氏は久保愛に沿って訳している。
(注2)現在の『書経』泰誓篇は、偽古文尚書(ぎこぶんしょうしょ)と言われる偽書の一部である。偽古文尚書は東晋時代に梅賾(ばいさく)が提出したテキストであったが、清代に閻若璩がこれを偽書と考証した。
(注3)戦国時代、斉国の将軍。火牛の計を用いて、斉を滅亡から救った。
(注4)戦国時代、楚国の武将。蜀・雲南地方を征圧したが秦国に蜀を奪われて楚と連絡が絶たれ、雲南の滇池(てんち)に土着定住した。
(注5)商鞅(しょうおう)の名で著名な、戦国時代秦国の政治家。法家思想を秦国に導入して、秦国を戦国の大国に押し上げた。衛国の公族出身なので、衛鞅が本名である。
(注6)未詳。
《原文・読み下し》
王者の兵を請い問う、何の道何の行を設(もち)いて可なる。孫卿子曰く、凡そ大王に在りては、將率(しょうすい)は末事なり。臣請う、遂に王者諸侯、强弱・存亡の效、安危の埶(せい)を道(い)わん。君賢なる者は其の國治まり、君不能なる者は其の國亂る。禮を隆(とうと)び義を貴(とうと)ぶ者は其の國治まり、禮を簡にし義を賤しむ者は其の國亂る。治まる者は彊(つよ)く、亂るる者は弱し、是れ彊弱の本なり。上卬(あお)ぐに足らざれば、則ち下用う可きなり、上卬がざれば(注7)、則ち用う可からざるなり。下用う可ければ則ち强く、下用う可からざれば則ち弱し、是れ強弱の常なり。禮を隆び功を效すは上なり、祿を重んじ節を貴ぶは次なり、功を上(とうと)び節を賤しむは下なり。是れ强弱の凡なり。士を好む者は强く、士を好まざる者は弱し。民を愛する者は强く、民を愛さざる者は弱し。政令信なる者は强く、政令信ならざる者は弱し。民齊(ひと)しき者は强く、齊しからざる者は弱し。賞重き者は强く、賞輕き者は弱し。刑威なる者は强く、刑侮なる者は弱し。械用兵革の攻完にして便利なる者は强く、械用兵革の窳楛(ゆこ)にして便利ならざる者は弱し。兵を用いることを重んずる者は强く、兵を用いる者を輕んずる者は弱し。權一に出ずる者は强く、權二に出ずる者は弱し。是れ强弱の常なり。齊人技擊を隆び、其の技や、一首を得る者は、則ち贖錙金(しょくしきん)を賜えて、本賞無し。是れ事小にして敵毳(ぜい)なれば、則ち偷(かりそめに)用う可きなり、事大にして敵堅なれば、則ち渙焉(かんえん)として離るるのみ。飛鳥の若く然り、傾側・反覆日無し。是れ亡國の兵なり、兵是れより弱きは莫し、是れ其の市傭に賃して之を戰わしむるを去ること幾(いくばく)ぞ。魏氏の武卒は、度を以て之を取り、三屬の甲を衣(き)、十二石の弩(ど)を操(と)り、服矢(ふくし)五十個を負い、戈(か)を其の上に置き、䩜(かぶと)(注8)を冠し劍を帶び、三日の糧を贏(もたら)し、日中にして趨(はし)ること百里、試に中(あた)れば則ち其の戶を復し、其の田宅を利し、是れ數年にして衰うるも、未だ奪う可ざるなり、改造すれば則ち周(あま)ねくし易からざるなり、是れ故に地大なりと雖も、其の稅必ず寡し。是れ危國の兵なり。秦人其の民を生ずるや陿阨(きょうあい)、其の民を使うや酷烈、之を劫すに埶を以てし、之を隱するに阨を以てし、之を忸(な)らすに慶賞を以てし、之に鰌(せま)るに刑罰を以てし、天下の民をして、利を上に要する所以の者は、鬭(とう)に非ざれば由無からしむるなり。阨して之を用い、得て而して後に之を功とす、功賞相長とし、五甲首にして五家を隷す。是れ最も為衆强(しゅうきょう)長久爲り、多地以て正す。故に四世勝有るは、幸に非ざるなり、數なり。故に齊の技擊は、以て魏氏の武卒に遇う可らず、魏氏の武卒は、以て秦の銳士に遇う可からず、秦の銳士は、以て桓文の節制に當る可からず、桓文の節制は、以て湯武の仁義に敵す可らず。之に遇う者有れば、以て焦熬(しょうごう)を石に投ずるが若し。是の數國者を兼ねて、皆干賞蹈利の兵なり、傭徒(ようと)・鬻賣(しゅうこ)の道なり、未だ上を貴び制に安んじ節を綦(きわ)むるの理に有らざるなり。諸侯能く之を微妙にするに節を以てすることを有らば、則ち作(おこ)りて之を兼殆せんのみ。故に招近(しょうえん)(注9)募選し、埶詐(せいさ)を隆び、功利を尚(とうと)ぶは、是れ之を漸(あざむ)く(注10)なり。禮義敎化は、是れ之を齊しくするなり。故に詐を以て詐に遇うは、猶(なお)巧拙有り、詐を以て齊に遇うは、之を辟(たと)うるに猶錐刀を以て太山を墮(こぼ)つがごとし。天下の愚人に非ざれば、敢えて試みること莫し。故に王者の兵は試みられず。湯武の桀紂を誅するや、拱挹(きょうゆう)指麾(しき)して、強暴の國趨使せざること莫く、桀紂を誅すること獨夫を誅するが若し。故に泰誓に曰く、獨夫の紂とは、此を之れ謂うなり。故に兵大齊なれば、則ち天下を制し、小齊なれば、則ち鄰敵を治(あやう)(注11)くす。夫れ招近・募選して、埶詐を隆(とうと)び、功利を尚(とうと)ぶの兵の若きは、則ち勝不勝常無く、代翕(だいきゅう)・代張、代存・代亡して、雌雄を相爲すのみ。夫れ是を之れ盜兵と謂う、君子は由らざるなり。故に齊の田單、楚の莊蹻(そうきょく)、秦の衛鞅(えいおう)、燕の繆蟣(びゅうき)、是れ皆世俗の所謂(いわゆる)善く兵を用うる者なり、是れ其の巧拙・强弱は、則ち未だ以て相君(きみ)(注12)とすること有らざるも、其の道の若きは一なり。未だ和齊に及ばず、掎契(きけつ)・司詐、權謀・傾覆、未だ盜兵を免れざるなり。齊桓・晉文・楚莊・吳闔閭・越勾踐は、是れ皆和齊の兵なり、其の域に入ると謂う可し、然り而して未だ本統に有らざるなり、故に以て霸たる可くして以て王たる可からず。是れ強弱の效なり。孝成王臨武君曰く、善しと。


(注7)原文「上不足卬」。これについて、楊注は本文を「上不卬」として注している。増注、集解ともに「足」は衍字と見る。
(注8)革へんに由。CJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注9)楊注は「招延」として注釈を行っている。ゆえに「近」は「延」が本来のはずである。
(注10)「漸」を楊注は「法に近づいていまだ理ならず」と言い、集解の王先謙は「あざむく」の意と言い、増注は「士卒を勧進する」と言う。王先謙を取る。
(注11)増注・集解の王念孫ともに、「治」は「殆」と読むべしと言う。
(注12)「君」を元刻は「若」としている。集解の王先謙は「君」は「長」のごとしと言い、どれも強さが伯仲している、という意味に取っている。王先謙を取る。

ここは、王覇篇に続いて、いわゆる春秋五覇の荀子説が言及されているところである。いま王覇篇は後回しにしてここを読んでいるので、ここで春秋五覇について書きたい。

春秋五覇に誰を入れるのかは、諸文献において一定しない。そもそも五という数字は当時の五行説に見られるように中国宇宙論の基本数字であり、東西南北に中央を加えた数である。春秋時代に中国で会盟を召集して諸侯を和平させようと試みたヘゲモニー国家はいくつかあったが、その代表者を五つ列挙したまでのことである。荀子の挙げた五人の君主のうち、斉の桓公と晋の文公は「斉桓晋文」と呼ばれて、覇者の代表格とされる。この両者は諸侯を和平させて周王朝を一応は尊重し、中華を乱す蛮族を討った。しかし楚の荘王、呉の闔閭(および次代の夫差)、越の勾踐は蛮族そのものであり、その力にものを言わせて中華世界に参入し、諸侯を調整してヘゲモニーを取った者たちであった(このうち覇者の象徴である会盟を行ったのは、夫差と勾踐である)。遅れた国が先進的な文化に触れるとその利点を急速に吸収して強大となることは、歴史上よく見られることである。ただ春秋時代最後の覇権国となった越の全盛期は短く、勾踐の死後戦国時代に入ると衰えて、楚国に併合された。遅れた国であるほど先進地域に触れたときその文化に取り込まれてしまい、短期間でアイデンティティを失って消滅してしまうことも、歴史上よく見られるケースである。

さてここでの荀子の強兵であるが、またも荀子は戦略(ストラテジー)と戦術(タクティクス)とを混同した議論を行う。前回も申したとおり、私は荀子の議論について「いかにして強くて尊敬される国を作るか?」という戦略レベルの議論においては、認めるところがある。しかしながら、「いかにして勝つか?いかにして天下を統一するか?」という戦術レベルの議論においては、荀子は儒家のイデオロギーそのままの意見を開陳するだけである。これでは趙王も臨武君も、苦笑するばかりであったろう。趙王からすれば、荀子の主張などとうに理解していることであろうからである。

斉国の兵制・魏国の兵制・秦国の兵制を比較して、秦の兵制が最も強いのは必然である、と分析したところまでは上出来である。斉国の兵制は、個人の武勇に褒賞を与える。敵の首を一つ取ったら褒賞金いくら、と規定する。いわば個々の職人に出来高賃金を与える制度であり、組織立った労働には不向きな制度である。斉国は専制国家として未完成で、軍に厳格な軍法を敷くことが徹底できていなかったことが、うかがえる。

魏国の兵制は、それそのものとしては素晴らしい。兵の成果ではなくて能力に応じて労役と税免除の特権を与え、精鋭の兵を恒常的に優遇するしくみである。さすが、魏国は中原の先進国であった。だが荀子は魏国がこの制度は税収が上がらない原因である、と言う。つまり、精鋭の兵に対して年限を定めて解雇する制度がないか、あるいはあってもそれがうまく運用できていないことが見て取れる。魏国の温情主義的な兵制が悪く運用されて、しまりなく老兵を保持し続ける実情となっていたようである。これは制度が悪いのではなくて、運用が悪いのである。私は、荀子の主張とは違って、この制度そのものが国を危うくするとは考えない。

秦国の兵制は、法家思想に基づいている。働きに応じて褒賞を与え、罪に応じて処罰を与える。人民は戦争で首を取る以外に褒賞がなく、土地を得て少しでもましな生活をしようとすれば戦場で功績を挙げるしかないように仕向ける。ぱっと見では斉国の制度と変わりがないように見えるが、背後に生活規制の法と軍隊運用の法が厳格に適用されているところが違っている。現実として秦国の兵のほうが魏国の兵よりも強かったので、魏国の兵制はこの頃には強い兵を選ぶことができなくなっていたのであろう。魏国は専制国家の兵の用い方を誤り、秦国は正しく用いた。ここまでは、荀子の観察は現実を直視して、合理的に進んでいる。

しかし荀子は、その秦国の兵よりも、桓公・文公の兵のほうが強く、さらに湯王・武王の仁義の兵のほうが強い、と言う。桓公・文公の兵は、理解できる。彼らは正義の外交を掲げるヘゲモニー国家であり、対秦連合軍を作って集団で当たることを可能とするであろう。だが、湯王・武王の仁義の兵については、荀子は現実を直視することができずに儒家のイデオロギーに基づいて空想を述べている、と言うより他はない。いや、湯王・武王の兵はおそらく本当に強かったと私は思うが、その強さの原因は荀子の想定するところとは違うところにあったはずである。

荀子は、人間の性は悪=利己的存在と規定している。それが上から仁の人が制度を整えれば、人民が勇戦して兵が強くなると言う。これは、明らかに矛盾している。前にも申したとおり、人間を利己的存在と規定して社会の起源を社会契約説によって説明するのであれば、人民が仁の人の治世を支持するのは、ただただそれが己の生命と経済的利得を最も保障する制度を提供してくれるからにすぎない。これは、平時の論理である。

だが国のために命を賭して勇戦する、という戦時の論理は、そのような社会契約説からでは説明できない。あるいは同胞意識から来る連帯心であり、またはナショナリズムという形で勝手に人民が国家にラブコールを送る心情である。だが荀子はそのような連帯心もナショナリズムも前提としておらず、上から国家が人民に支配の制度をかぶせる、という法治官僚国家の原理だけを採用する。ここからは、同胞と共に自律的に勇戦する戦士は育たず、上が法によって徴発したので罰ゲームとして戦う兵卒しか現れないだろう。だから、専制王朝の徴発された兵卒は、自律的に勇戦する市民軍や遊牧狩猟の戦士集団には敵わないのである。荀子は、秦の兵は湯武の仁義に敵わない、などと言う。湯王や武王の戦士たちは、おそらく強かったであろう。しかしながら、その強さの秘訣は荀子の言う仁義の統治ではない。より国が原始的で、君主と戦士貴族たちの隔たりがほとんどなく、同族意識を持った同胞集団として連帯していたであろうから、強かったはずである。

専制王朝を中華世界の国制として前提とするのであれば、これはもう兵家に従って合理的な軍制を敷き、秦国のように法家思想的な制度に従って賞罰の法でコントロールするしかない。荀子の統治論は、あくまでも法治官僚国家のものである。その範囲内で強い兵を作る方法もまた、同じく上から礼法を人民にかぶせる論理で描かなければならない。それは徴発された兵というものは本質的に国のために自発的に勇戦する忠誠心など一片も持ち合わせていない、というところから始めなければならず、そのために兵を賞罰でコントロールして上から操作しなければならない、という兵家・法家の突き放した論理に徹しなければ、自国の兵に無駄な期待を持つことになるであろう。荀子たち儒家は、君主と人民とが親密に結合して無敵の兵を作る、といういにしえの聖王たちの美しい神話に酔っている。そのような兵などは、戦国時代の国家には決して求めることができない、という現実を見ることができないのである。

議兵篇第十五(3)

(臨武君)「将軍のあり方について、うかがいたい。」
(荀子)「知は疑わしい点を除くのが最上であり、行いは過失をなくすのが最上であり、物事は悔いがないことが最上です(注1)。物事は悔いがないところまで至って終わったとしても、成功するかどうかは必然ではないものです。ゆえに、軍制・号令・命令は厳格であって権威あることが必要であり、褒賞と刑罰は必ず行われてしかも信頼が置かれなければなりません。兵営と糧秣の倉庫は、厳重に防護しなければなりません。軍の移動は、あるときは安定して慎重に、またあるときは疾走して迅速でなければなりません。敵を偵察して動静を見るときには、深く静かに潜入し、巧妙に潜り込まなければなりません。敵に遭遇して決戦するときには、必ず自軍が明らかに知っている情報に従って行動し、疑わしい情報に従ってはなりません。以上が、『六術』です。
将軍の地位に恋々として、解任されるのを憎んではなりません。勝ちに急いで、負ける可能性を忘れてはなりません。自軍内を威嚇して、敵を軽視してはなりません。戦機の利だけを見て、その害を無視してはなりません。およそ考慮するときには熟考するべきであり、物資を使うときには気前よく使わなければなりません。以上が、『五権』です。
君命として受けない場合が、三つあります。配下に死を賭して作戦させる許可があったとしても、成功しそうにない作戦に当たらせてはなりません(注2)。配下に死を賭して作戦させる許可があったとしても、勝てそうにない合戦を行わせてはなりません。配下に死を賭して作戦させる許可があったとしても、人民を騙してはなりません。以上が、『三至』です。
およそ君命を主君から受けて総軍を動かすのに、総軍の編成が終わり、指揮官や軍吏の序列が固まり、物資も正しく整えられたならば、[解釈困難:主君も喜びようがないし、敵も怒りようがなく、](注3)これが至臣というべきものです。考慮は必ず事に先立ち、敬して熟慮を重ね、事の終わりになっても事が始まったときと同じように慎重であり、終始態度が同じである。これが大吉、最高の姿勢というべきものです。およそ万事が成功するのは、必ずや物事を敬して取り扱うところから起こり、万事が失敗するのは、必ずや万事に怠慢するところから起こるものです。ゆえに、敬することが怠慢に勝てば吉であるが、怠慢が敬することに勝てば滅亡します。計画が欲に勝てば順調に事は進みますが、欲が計画に勝てば凶となります。戦闘するときには守備するように慎重に、行軍するときには戦闘するように慎重に、たとえ戦功があっても幸運に勝ったぐらいにみなして慢心しない。つつしんで計謀を行い壙(おこた)らず、つつしんで事を実施して壙(おこた)らず、終わりにもつつしんで壙(おこた)らず、人間の集団につつしんで接して壙(おこた)らず、当たる敵に真摯に対して壙(おこた)らない。以上が、『五無壙(ごむこう)』です。
つつしんで以上の『六術』『五権』『三至』を行い、恭敬にして壙(おこた)らぬ姿勢で事を処する。これが、天下の将というべきものです。すなわち、神明に通じる知将と言うべき存在です。」
(臨武君)「よい話だ。」

(臨武君)「では次に王者の軍制について、うかがいたい。」
(荀子)「将軍は軍鼓と共に死し、御者(注4)は馬の手綱と共に死し、軍吏(注5)は己の職分と共に死し、下士官(注6)は分隊の中で死す。軍鼓が鳴れば進み、金鐘が鳴れば退く(注7)。命令に従うことを最優先とし、功績を挙げることはその後である。進むなの命令があるのに進むのは、退くなの命令があるのに退くのと同じであり、その罪は等しい。老若を殺さず、田畑を踏み荒らさず、投降する者は捕縛せず、反抗する者は許さず、敵側からの協力者は捕虜として扱わない。およそ誅殺とは人民を誅殺するのではなく、人民を乱す者を誅殺するのでなければならない。だが人民が賊をかくまうのであれば、この人民もまた賊とみなす。このように、わが軍に従う者は生かし、わが軍に刃向かう者は殺し、わが軍への協力者は取り立てて働かせる。殷の微子開(びしかい)は、殷の滅亡後宋国に封建されました(注8)。また曹觸龍(そうしょくりゅう)は、武王の軍中で処断されました(注9)。殷の遺民で周に服した者は、周人と同様の扱いで治められました(注10)。ゆえに近くに住む者は周の治世を謳歌して楽しみ、遠くに住む者は急いで周王のもとへ駆けつけました。遠方の僻地の国ですらも、周王のために奔走して周王の治世に安楽しないものはありませんでした。四海の内は一家のごとくとなり、命令は行き渡り、服従しない者はありませんでした。これが、人師(じんし)というものです。『詩経』に、この言葉があります。:

西より、東より、
南より、北より、
慕いきたりて、服せざるはなし
(大雅、文王有聲より)

これが、王者の兵でした。王者は、罪人を誅殺することはあるが、戦うことはありません。固く守備している城を、力攻めにはしません。頑強に抵抗する兵を、殲滅したりはしません。敵であっても上下が互いに喜び合っているならば、むしろこれを慶賀するのです。城を屠る(注11)ことは、しません。兵を城内に潜入させて中から開城させるような卑怯なことは、しません。兵を長期間戦場に留めることは、しません。戦役は、一時(三ヶ月)以上は行いません。ゆえに、乱れた国の人民は自国の君主の政治を楽しめず、これを上に仰ぐことに我慢ならず、王者の軍が来ることを待ち望むのです。」
(臨武君)「よい話だ。」


(注1)論語為政篇の「子張祿を干めんことを學ぶ。子の曰はく、多く聞き疑はしきを闕き、愼みて其の餘りを言へば、則ち尤寡し。多く見て殆きを闕き、愼みて其の餘りを行へば、則ち悔い寡し」が連想される。情報をよく集めて、疑念と過失と後悔を最少にする努力をせよ、それでも必ず成功するとは限らない、という意味であろう。
(注2)増注は、秦将白起(はくき)の事例を出す。白起は秦王から趙国の都邯鄲を攻略する命を受けたが、情勢不利で敗れることを予測して、君命に応じなかった。
(注3)このように訳すしかないが、意味がよく分からない。金谷治氏も、文章不足の感じで意味が取りにくい、と言う。錯簡を疑う。
(注4)原文「馭」。戦車を扱う御者。春秋戦国時代には、馬に曳かせる戦車が戦場で用いられていた。漢代になって廃れる。
(注5)原文「百吏」。ここでは軍属の官吏を指すと思われる。戦場の功績を記録し、物資の分配を行い、敵軍との交渉を行う。
(注6)原文「士大夫」。軍隊には、将軍の下に分隊を統率する下士官が置かれる。ここではそれを指していると思われる。ローマ軍の百人隊長のようなもの。
(注7)増注は漢書李陵伝を引用して、鼓声を聞いて縦(はな)ち金声を聞いて止まる、と言う。
(注8)微子開(または微子啓)は殷の紂王の庶兄で、紂王を諌めて容れられず逃亡し、周の武王に降伏した。武王は紂王を亡ぼした後、微子開に祖先の祭祀を継がせて、宋国に封建した。
(注9)曹觸龍は『荀子』臣道篇でも言及される。
(注10)古代中国史の研究家には殷人と周人とは対等でなく、支配者階級である周人に殷人が技術を持った隷属民として附属された、と捉える者もいる。重澤俊郎『周漢思想研究』など。
(注11)「屠城」は中国の戦争でしばしば使われる。降伏しない国の一城の住民を皆殺しにして、他の城に対して降伏するか全滅するかを選択させる作戦である。
《原文・読み下し》
將爲(た)るを請い問う。孫卿子曰く、知は疑(うたがい)を棄つるより大なるは莫く、行は過無きより大なる莫く、事は悔無きより大なるは莫く、事は悔無きに至りて止む、成必(ひつ)す可からざるなり。故に制號(せいごう)政令は嚴にして以て威ならんことを欲す、慶賞・刑罰は必にして以て信ならんと欲す、處舍(しょしゃ)・收藏は周にして以て固ならんと欲す、徙舉(ときょ)・進退は安にして以て重ならんと欲し、疾にして以て速ならんと欲す、敵を窺い變を觀るは潛にして以て深ならんことを欲し、伍にして以て參ならんことを欲す。敵に遇い戰を決するは必ず吾が明にする所に道(よ)り、吾が疑う所に道る無かれ。夫れ是を之れ六術と謂う。將たらんと欲して廢を惡(にく)むこと無かれ(注12)、勝を急にして敗を忘るること無かれ、內を威して外を輕んずること無かれ、其の利を見て其の害を顧みざること無かれ。凡そ事を慮(おもんぱか)るは孰(じゅく)せんことを欲し、財を用うるは泰ならんことを欲す。夫れ是を之れ五權と謂う。命を主に受けざる所以三有り、殺す可くして不完に處らしむ可からず、殺す可くして不勝を擊しむ可からず、殺す可くして百姓を欺かしむ可からず。夫れ是を之れ三至と謂う。凡そ命を主に受けて三軍を行(や)るに、三軍既に定まり、百官序を得て、羣物皆正まれば、則ち主も喜ぶこと能わず、敵も怒ること能わず、夫れ是を之れ至臣と謂う。慮必ず事に先じて、之に申(かさ)ぬるに敬を以てす、終を慎むこと始の如く、終始一の如し、夫れ是を之れ大吉と謂う。凡そ百事の成るや、必ず之を敬するに在り、其の敗るるや、必ず之を慢(あな)どるに在り。故に敬怠に勝てば、則ち吉、怠敬に勝てば、則ち滅す。計欲に勝てば、則ち從、欲計に勝てば、則ち凶。戰うこと守るが如くし、行うこと戰うが如くし、功有れば幸の如くし、謀を敬みて壙(こう)すること無かれ、事を敬みて壙すること無かれ、吏を敬して壙すること無かれ、衆を敬して壙すること無かれ、敵を敬して壙すること無かれ、夫れ是を之れ五無壙と謂う。此の六術・五權・三至を愼んで行いて、之に處するに恭敬・無壙を以てす。夫れ是を之れ天下の將と謂う、則ち神明に通ず。臨武君曰く、善しと。
王者の軍制を請い問う。孫卿子曰く、將は鼓に死し、馭(ぎょ)は轡(たずな)に死し、百吏は職に死し、士大夫は行列に死す。鼓聲を聞きて進み、金聲を聞きて退く。命に順じて上と爲し、有功之に次ぐ。令進まずして進むは、猶令退かずして退くがごとし、其の罪惟れ均し。老弱を殺さず、禾稼(ようか)を獵(ふ)まず、服する者は禽(きん)せず、格する者は舍(ゆる)さず、犇命(ほんめい)する者は獲(かく)せず。凡そ誅は、其の百姓を誅するに非ざるなり、其の百姓を亂る者を誅するなり、百姓其の賊を扞(まも)る者有らば、則ち是れ亦賊なり。故を以て刃に順う者は生き、刃に蘇(む)かう者は死し、犇命する者は貢す。微子開は宋に封ぜられ、曹觸龍(そうしょくりゅう)は軍に斷ぜらる。殷の服民(ふくみん)の之を養生するの所以の者は、周人に異なること無し。故に近き者は歌謳(かおう)して之を樂しみ、遠き者は竭蹙(けつけつ)して之に趨(おもむ)く。幽閒辟陋(ゆうかんへきろう)の國と無く、趨使して之を安樂せざること莫く、四海の內は一家の若く、通達の屬は從服せざること莫し。夫れ是を之れ人師と謂う。詩に曰く、西自(よ)り東自り、南自り北自り、思うて服せざること無し、とは、此を之れ謂うなり。王者は誅有りて戰うこと無く、城の守るをば攻めず、兵の格するをば擊たず、上下相喜びて則ち之を慶す。城を屠らず、軍を潛せず、衆を留めず、師時を越えず。故に亂者は其の政を樂み、其の上に安んぜずして、其の至らんことを欲するなり。臨武君曰く、善しと。


(注12)集解の王先謙は「欲」を「好」の意と取って、ただその能否を視て私の好悪ある無かれ、と言う。増注の荻生徂徠は、将帥の権を貪りて之を失うを憂うなかれ、と言う。文法的に言って、徂徠が適切と考える。

これで、荀子の趙王・臨武君との討論は終わりである。

前半は、儒家者流に将軍の心掛けを述べたものである。まずは、もっともらしく整理してある。
「君命に受けざる所有り」(『孫子』九変篇)という兵法家ならば誰でも知っているスローガンを、荀子は儒家の視点から解説している。しかし、私は孫子の兵法は荀子の解説しているような意味ではないと考える。

中国は広大であり、君主のいる都と将軍のいる戦場とは、遠く離れている。そのために君主は将軍に対して出陣前に命令を下し、指揮権を委任する証明である兵符(へいふ)の半分を持たせる。もう片方の兵符は君主が所持していて、命令の変更はこの君主の兵符を持参して戦場の将軍の半分と合わせることによってのみ許される、という指揮権委任の仕組みであった。戦国の四公子の一人として有名な魏の信陵君は、この兵符を魏王から盗み出して将軍から軍権を奪い、君命をねじ曲げて魏軍を趙国の首都邯鄲(かんたん)に向かわせた。このとき趙国の首都は秦軍に包囲されて、窮地にあった。信陵君は義によって援軍して秦軍は撤退を余儀なくされ、趙国を救出したのであった。

信陵君のエピソードはさておき、君主と将軍とのとの指揮命令の伝達がスムーズに行われていれば、まだよい。しかしながら、都にいる君主は往々にして判断を誤る。たとえ聡明な君主であったとしても、遠く離れて刻々と変化する戦場のことを、完全に知ることはできない。ましてや凡庸な君主であれば、敵国に買収されて讒言する者があったら見事に騙されて好機に撤退命令を出したり、あるいは名将を解任したりするであろう。このように、君主と将軍との間で情報のギャップがあることは必然である。ゆえに、将軍は戦場の現場次第では撤退命令とて聞かないことがあり、逆に攻撃命令とて待つときもあり、また好機と見たときには命令に違反しても攻撃を行わなければならないときがある、という心得が、「君命に受けざる所有り」の意味である、と私は考える。荀子の言うような、道徳的な意味などではない。戦争に勝つための、職業軍人のプロフェッショナルな心得である。この一点を見ても、荀子は兵法を理解しているかどうか怪しい。もし荀子のような朝廷・官僚の側に立つ者が「君命に受けざる所有り」の問題について議論するとすれば、正しくは「将軍が君命を違反して行動することが許される範囲は、法によって定められなければならない」と言わなければならない。

後半は、儒家の王者観に沿って、王者の兵のあり方を述べる。王者の兵は人民を帰服させて容易に征服する、というのである。しかし征服戦争の結果、敵国の人民が喜んで服するなどと考えるのは、甘すぎる。それは二十一世紀の戦争を見れば、一目瞭然であろう。できれば覇者=ヘゲモニー国家は、戦争という手段を使わずして諸国を調整することが、最も望ましい。もしそれが可能であるとするならば、その原因は覇者のレジームに従うことが、周辺諸国や共同体にとって安全の保障と経済的利益が得られる場合であろう。荀子の見通しは甘すぎると思うが、戦争とはいったん始まったら陰険かつ悲惨なものになることは必定であり、巻き込まれた人民は深く怨むであろう。だから王者の兵は力を行使しないのだ、というのは賛成できる。ゆえに諸国が互いに利のある国際体制を目指すことによって安定を目指すのが、上策であろう。大学者である荀子の歴史的展望を持った説明に対して、臨武君はとりあえずよい話を聞いた、とは思ったのではないだろうか。しかし、実戦に荀子のいう兵が役立つとは、思わなかったであろう。

議兵篇第十五(4)

弟子の陳囂(ちんごう)が荀子に質問した。
(陳囂)「先生は、兵について議論するときには、常に仁義を基本としております。しかし仁者は人を愛し、義者は理に従います。ならば、どうして兵を用いる必要があるのでしょうか?およそ兵を用いる者は、それすべて争奪のためではないですか。」
(荀子)「お前は、分かっていない。かの仁者は、人を愛する。人を愛するがゆえに、人を害する人を憎むのである。(『論語』里仁篇の「惟(ただ)仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」を連想させる。)義者は、理に従う。理に従うがゆえに、これを乱す人を憎むのである。そもそも兵というものは、暴虐を禁じて害悪を除く手段なのだ。争奪のためにあるのではない。ゆえに、仁の人の兵は、駐屯している土地は治安よく、通過するところは教化されていくのである。まるで時にかなった雨が降るがごとくに、これを喜ばない者はいない。こうして、堯は驩兜(かんとう)を討伐した。舜は有苗(ゆうびょう)を討伐した。禹は共工を討伐した(注1)。湯王は夏の桀王を討伐した。文王は崇(すう)を討伐した。武王は殷の紂王を討伐した。この四帝両王(注2)は、みな仁義の兵を天下に送ったのである。ゆえに、帝王の近くにある者はこれに親しみ、帝王の遠くにある者はその徳を慕った。兵は刀を血に塗らせることもなく、遠方の地から人は来たりて服従し、徳は盛んにして四方の極地にまで及んだのであった。『詩経』に、この言葉があるだろう。:

親鳥は、君子のごとく
威儀礼儀、迷わず一つ
(迷わずに、一つであるゆえ
四方(よも)の国、正されるかな)
(曹風、鳲鳩より)

そういうわけなのだ(注3)。」

次に、弟子の李斯が荀子に質問した。
(李斯)「秦国は、四世に渡って勝利を続けました(議兵篇(2)参照)。兵は海内において強く、威は諸侯に行き渡っています。これは、仁義によって勝ったのではありません。ただ富国強兵の技術(注4)を用いて、それに従ったまでです。」
(荀子)「お前は、分かっていない。お前の言う技術は、真の技術ではない。私の言う仁義は、最も偉大な技術なのだ。かの仁義というものは、政治を治めるために拠って経つところなのだ。政治が治まれば、人民はその上の者に親しみ、その君主の下にあることを楽しみ、これのために軽々と死ねるようになるのだ。ゆえに、『そもそも大国の王にとっては、軍の統帥などは瑣末な事にすぎない』と言うのだ(同じく議兵篇(2)参照)。たしかに、秦国は四世に渡って勝利した。だがかの国は今や戦々恐々として、天下の諸国が一体となって自国を踏み潰すことを常時恐れているではないか。これは、いわば滅亡の前段階の兵なのだ。王者の本統には至っていない。ゆえに湯王が夏の桀王を亡ぼしたのは、鳴條(めいじょう)の決戦において初めて決まったのではなかった。また武王が殷の紂王を亡ぼしたのは、甲子(きのえ)の日の朝に牧野で決戦したことによって初めて成したのではなかった。彼らは皆、仁義の王としてずっと以前から平素の修養を積んでいた。それゆえの勝利であった。これが、いわゆる仁義の兵なのだ。今、お前は根本なる仁義によって勝利を求めずして、瑣末なる変詐の術によって勝利を求めている。これが、世の乱れる原因なのである。」


(注1)どの注釈者も指摘しているが、共工を流刑に処したと記録にあるのは堯である。これは誤り。
(注2)楊注は禹・湯王も帝に数えている、と言う。猪飼補注は、ここは伝写の誤りで二帝四王が正しい、と言う。
(注3)引用された詩のカッコ内は原文にはないが、言いたいことはここまで続けないと分からない。下の注も参照。
(注4)原文「便」。便宜、便利のことであるが、意味を取りやすくするために「技術」と意訳した。以下も同じ。
《原文・読み下し》
陳囂(ちんごう)孫卿子に問いて曰く、先生兵を議するに、常に仁義を以て本と爲す。仁者は人を愛し、義者は理に循(したが)う。然らば則ち又何ぞ兵を以て爲さんと。凡そ兵有ることを爲す所の者は、爭奪の爲なり。孫卿子曰く、女(なんじ)が知る所に非ざるなり。彼れ仁者は人を愛す、人を愛するが故に人の之を害するを惡むなり。義者は理に循う、理に循う故に人の之を亂るを惡むなり。彼れ兵なる者は暴を禁じ害を除く所以なり、爭奪に非ざるなり。故に仁人の兵は、存する所の者は神(おさ)まり、過ぐる所の者は化す(注5)、時雨の降るが若く、說喜せざること莫し、是れ以て堯は驩兜(かんとう)を伐ち、舜は有苗(ゆうびょう)を伐ち、禹は共工を伐ち、湯は有夏を伐ち、文王は崇を伐ち、武王は紂を伐つ。此の四帝兩王は、皆仁義の兵を以て、天下に行(や)るなり。故に近き者は其の善に親しみ、遠き方は其の德を慕い、兵刃に血ぬらずして、遠邇(えんじ)來服し、德此(ここ)に盛(さかん)にして、四極に施及す。詩に曰く、淑き人君子、其の儀忒(たが)わず(注6)、とは此れ之を謂うなりと。
李斯孫卿子に問いて曰く、秦は四世勝有り、兵は海內に强く、威は諸侯に行わる、仁義を以て之を爲すに非ざるなり、便を以て事に從うのみと。孫卿子曰く、女が知る所に非ざるなり。女が所謂(いわゆる)便なる者は、不便の便なり、吾が所謂(いわゆる)仁義なる者は、大便の便なり。彼の仁義なる者は、政を脩むる所以の者なり、政脩まれば則ち民其の上に親み、其の君を樂(たのし)みて、之が爲に死するを輕んず。故に曰く、凡そ軍に在りては、將率(しょうそつ)は末事なりと。秦の四世勝有るは、諰諰然(ししぜん)として常に天下の一合して己を軋(あつ)せんことを恐るるなり、此れ所謂(いわゆる)末世の兵にして、未だ本統有らざるものなり。故に湯の桀を放つや、其の之を鳴條に逐うの時に非ざるなり、武王の紂を誅するや、甲子の朝を以てして而(しか)る後に之に勝つに非ざるなり、皆前行素脩(そしゅう)によるなり、所謂(いわゆる)仁義の兵なり。今女之を本に求めずして、之を末に索(もと)む、此れ世の亂るる所以なりと。


(注5)『孟子』盡心章句上十三に同様のフレーズが出てくる。この「神」字をどう解釈するについて、論者は分かれている。趙岐は神のごとくに化す、と解し、朱子は神妙で測りがたい、と解している。『孟子を読む』サイトでは朱子の解釈を取った。だが『孟子』訳者の小林勝人氏、『荀子』訳者の藤井専英氏はともに、よく治まるという意味に解している。『孟子』『荀子』両者で表れるので、このフレーズは当時の慣用句であったのだろう。だから、どっちとも取れるダブルミーニングを持っていたはずである。おそらく荀子は「よく治まる」という解釈を取っていたであろうと想定して読み下した。
(注6)『詩経』曹風、鳲鳩の詩はこの後に「其の儀忒わざれば、是の四國を正す」と続く。要は帝王の諸国平定の様をここで表すために引用したのであって、後半は言わずとも知っているだろう、という様で省略していると思われる。

荀子の両名の弟子が、質問する。陳囂(ちんごう)は楊注に荀子の弟子、とあるのだが、詳しい経歴はよく分からない。しかし質問している内容から見ると、荀子学校の穏健派に属していたのであろう。孔子以来の儒家の正道を守って、君主や官僚は人徳ある仁義の人でなければならない、というスタンスである。ただ荀子学派は来るべき統一中華帝国のプランを具体的に考察していたのであり、前の時代の孟子よりも詳細に国家の有効な礼法について検討した結果、統治術がしだいに法家思想の主張と大差ないものになっていったことが、想像できる。

もう一人の弟子の李斯は、『史記』にも一列伝が置かれている歴史上の大人物である。彼の主張を見ると、荀子学校の急進派の論法が見えてくる。荀子の統一中華帝国のプランを大筋で承認した上で、もはや君主や官僚の人徳などは問題としない。国家はシステムであり権力である、という法家思想の悪い言葉で言えばニヒリズム、よい言葉で言えば価値観を捨象した国家像に接近している。

李斯は統一秦帝国の丞相に就任し、始皇帝と二人三脚で中華史上最初の帝国を運営した。両名は、後世の評判がすこぶる悪い。しかしながら両名が打ち立てた中央集権制・法治官僚国家のシステムは、その後の中国で基本を変えることなく2000年間継続された。中華帝国2000年の歴史で始皇帝と李斯が作ったシステムに後世が付け加えたものといえば、統治の秩序を正当化するためのイデオロギーである儒学を採用したことと、官僚を採用する筆記試験である科挙を採用したことぐらいである。始皇帝と李斯のシステムは法治官僚国家として完成されていたために、周辺国の日本や新羅にまで導入されることとなった(ただし日本は、鎌倉幕府の成立から江戸時代末までの武家政権の期間、このシステムを捨てた)。それは近代国家の法治官僚国家のシステムと本質的には変わりがないので、明治維新以降の日本政府にも、現代に至るまで影を落している。大陸の政府、半島の政府も同様である。彼ら悪名高い両名の後世に及ぼした影響は、非常に大きい。

李斯は、荀子学校に在学していたときに、中華帝国の統治システムについて研究したことであろう。しかし李斯が秦帝国で導入した制度の中で、荀子のプランにはなかったものがある。それは、皇帝の下に封建諸侯を置かず、地方は全て中央から派遣した官僚によって統一支配する郡県制であった。しかし師の荀子は、諸侯を置くことを提唱していた(王制篇)。
秦帝国が倒れた後、漢帝国をはじめ歴代の中華帝国は、国家建設の初期においては建国の功労者や皇帝の親族を封建諸侯として置く制度を取ったこともあった。しかしながら、どの帝国も時代が進行するにつれて皇族以外の諸侯を取り潰し、皇族の諸侯は権力を奪って有名無実化し、結果的には郡県制を採用した。封建諸侯のような地方の自治政府は反乱の火種となり、かつ中央の税収を減らす。そのために、中央にとってはこれらを潰すことが利益であり、結局中華帝国は郡県制によって安定するのが常であった。李斯の見通しが、師の荀子に勝ったのであった。もちろん、郡県制が地方の自治能力を奪って中央に依存する体質を作り、安定と引き換えにどれだけ社会の多様性を削いだか、かつ広すぎる範囲を支配する中央政府がどれだけ統治の能率と細やかさを失ったか、の問題は考えなければならない。

李斯は秦国の強さはシステムにある、と己の正論を言った。これを荀子は斥け、魂のないシステムはやがて滅亡するだろう、と予言した。総論としては、李斯のほうが正しかった。だが、その李斯は後世の嘲りを受けた。

秦国は荀子が予言するのとは違って、始皇帝により天下を統一して完全勝利した。これは、中華は統一されることがもはや時代の趨勢であって、最強であった秦国がそれを成し遂げたまでであった。李斯は、それみたことかと師を凌駕したことに勝ち誇ったであろう。システムが、全てである。

しかし秦帝国は、始皇帝が生きている間しか続かなかった。司馬遷は秦帝国が滅んだ理由は、天下が統一国家により平和な時代が訪れることを期待していたのに、始皇帝はそれを裏切って人民を過酷に支配した、そのところに求めた。それもまた、一見解であろう。だが私の意見としては、始皇帝と李斯はあまりに短期間で矢継ぎ早に改革を行いすぎて、それを力に頼って強行しすぎたところに秦帝国の滅亡の原因を見たい。全国一律の法、文字・度量衡・貨幣の統一、郡県制、道路網の整備、巨大首都の造成、皇帝の儀式としての全国巡幸と封禅、これら始皇帝の時代に行われた事業は、皇帝の全国巡幸を除けばすべて後の中華帝国が継承した制度であった。李斯らによって帝国の青写真が出来上がっていたから、短期間で実施されたことであろう。しかしながら、その急激すぎる改革が、権力に抑え付けられている者たちの怒りを買ったようであった。とりわけ、中原諸国とは習俗が違っていた楚国の遺民たちの怒りは、激しかった。始皇帝の死後、楚は陳勝、項羽、劉邦らが率いる反乱軍を連続して輩出し、ついに秦帝国を亡ぼしてしまった。その秦が滅んだ焼け跡の上に、楚人の劉邦が漢帝国を建てた。漢帝国は、始皇帝の行った改革の成果を、ほぼ全て継承した。それは結局は、利益のある制度だったからであった。始皇帝の巡幸だけは、後世の皇帝たちに継承されなかった。好んで中華全土を回るようなエネルギーを持った皇帝は、以降には現れなかった。

李斯は秦帝国が滅亡する直前に、宦官の趙高によって惨殺された。その経緯は、史記の李斯列伝にある。天下の知性であった李斯が、たかが始皇帝の宮廷奴隷にすぎない趙高に翻弄されるとは。李斯列伝にある李斯と秦帝国の最後は、宮廷の密室政治というものがここまで醜いものだという活劇を示して、古今無双である。そして彼は偉大な改革者であったのに後世唾を吐きかけられることとなったのは、哀れである。システムは勝ち残り、システムを作った者は嘲られた。

私は李斯と始皇帝は、後世にまで継承される内容を持った合理的なシステムを作った個人として、近代のナポレオンに対比するべきであろう、と考える。李斯と始皇帝は、東アジアの法治官僚国家システムを作り上げた。ナポレオンは近代法と国民軍を作って、近代国民国家システムを作り上げた。私は彼らのシステムを手放しで称えることはしないが、時代と国を超えて採用されるべき理がそれらの中にあったことは、否定しない。

議兵篇のここから後は、本篇の総括となる。長大な文章であるが、儒家の論理で兵を語って、それ以上の見るべきものはない。なので、訳だけを一挙に置いて、終わりとしたい。

議兵篇第十五(5)

礼というものは、統治区別の至上であり、強国の基本であり、威令が行われる道であり、功名を挙げるための締めくくりである。王公がこれに依拠すると天下を得ることになるし、これに依拠しないと社稷(しゃしょく)(注1)を亡ぼすことになる。ゆえに、固い鎧も鋭い武器も、これで勝利を得るには足りない。高い城壁も深い堀も、これで防御を完全にするには足りない。厳しい命令も繰り返す刑罰も、これで権威を得るには足りない。礼の正道によればこれらはうまく行われ、よらなければしくじるまでのことである。楚国の人は、鮫の革と犀(さい)の革で作った鎧を着ける。叩けば鋭い音がでて、まるで金属か石のようである。宛(えん。楚国にある製鉄地帯)の鋼鉄で産する矛は、蜂のように傷つけサソリのように殺す。兵の神速なることは、つむじ風のようである。なのに、かの楚国は垂沙(すいさ)の地で危機に陥り(注2)、唐蔑(唐昧、とうまい)(注3)は戦死した。莊蹻(そうきょく)(注4)が遠征を行ったが、結局楚国は秦国に敗れて四分五列してしまった。固い鎧と鋭い武器が、なかったわけではない。国を統率するための基本が、礼の正道でなかったからである。楚国は、汝水(じょすい)と潁水(えいすい)(注5)を天然の要害となし、長江と漢水(かんすい)(注6)を巨大な堀として持ち、鄧(とう。河南省)の森林地帯を北方の境界として、方城山(ほうじょうさん。河南省)で囲まれている。なのに、秦軍が来襲したならば、枯れ葉を掃くように鄢・郢(えんえい)の地を取られてしまった(注7)。固い城塞と天然の要害が、なかったわけではない。国を統率するための基本が、礼の正道でなかったからである。また殷の紂王は比干(ひかん)の内臓をえぐりだし、箕子(きし)を幽閉し、炮烙(ほうらく)の刑を行い(注8)、常時殺戮を行って、家臣たちは震え上がり命永らえる者とてない有様であった。なのに、周軍が来襲したならば、王の命令は下で行われず、自国の人民を用いることができなかった。命令が厳格で、刑罰が頻繁でなかったわけではない。これも国を統率するための基本が、礼の正道でなかったからである。

いにしえの兵は、戈(か。槍の一種で、横に突き出た刃が付いている)・矛・弓矢だけであった。なのに、敵国はそれらの武器を試さずとも降伏した。城郭を構えることもなく、堀や池を掘ることもなく、砦を築くこともなく、弩(いしゆみ)や投石器のような機械兵器を使うこともなかった。なのに、国内は安泰で、外敵を恐れることもなく、固く守られていた。その理由は他でもない、礼の正道を明らかにして人民を区別しながらも応分に扱い、時にこれを使用するときには真にこれを愛し、下が上に和する様はまるで打てば響く鐘の音のようであった。法令に従わない者が出たときになって、はじめて刑を執行したのであった。ゆえに一人を刑に処して天下は服し、罪人もお上を怨まなかったのは、罪が己にあることを知るからであった。こういうわけで刑罰を簡単にしてしかも威が下に行われるのは、他でもない、礼の正道に依拠するからである。いにしえの帝堯は天下を治めたとき、一人を殺して、二人を処罰して、これで天下が治まったという。言い伝えに「威は厳格であって、しかもそれを行うことはない。刑は定めて、しかもそれを用いることはない」とあるのは、このことを言っていたのである。


(注1)富国篇(5)注1参照。
(注2)『戦国策』によると楚国の敗戦らしいが、詳細は不明。
(注3)戦国時代、楚国の将軍。楚の懐王の時代、秦が楚を攻撃する一連の合戦の最中に、秦・韓・斉・魏の連合軍に敗れて戦死した。
(注4)議兵篇(2)注4参照。
(注5)汝水(じょすい)と潁水(えいすい)は、淮水(わいすい)上流の川。地図で寿春(じゅしゅん)で合流する上流の二河川。
(注6)漢水は、陝西省南部の漢中盆地から流れて長江に合流する大河。地図では省略した。
(注7)鄢(えん)・郢(えんえい)は湖北省の都市。郢(えい)は楚の旧首都であり、BC278年白起の秦軍によって攻略された。楚は東に逃れて都を陳、さらに寿春に遷した。
(注8)比干は紂王のおじ。紂王を諌めたが胸を割かれ内臓をえぐり出されたという。箕子は紂王のおじ。紂王を恐れて狂人を偽ったが、王に幽閉された。炮烙の刑は火の上に渡した銅の柱に油を塗ってそこに罪人を渡らせ、火に落ちて焼き殺す刑。いずれも『史記』殷本紀に書かれている紂王の狂気を表すエピソードである。これらは紂王を殺して殷を亡ぼした周王朝が、その正当性を飾るために残されたエピソードである。歴史的真実とは思えない。
《原文・読み下し》
(注9)禮なる者は、治辨の極なり、强國の本なり、威行の道なり、功名の總(そう)なり。王公之に由るは、天下を得る所以なり、由らざるは、社稷(しゃしょく)を隕(す)つる所以なり。故に堅甲・利兵も以て勝を爲すに足らず、高城・深池も以て固と爲すに足らず、嚴令・繁刑も以て威と爲すに足らず。其道に由れば則ち行われ、其の道に由らざれば則ち廢す。楚人は鮫革(こうかく)・犀兕(さいじ)以て甲を為し、鞈(とう)として金石の如し。宛(えん)の鉅鐵釶(きょてつし)は、慘(さん)として蠭蠆(ほうたい)の如く、輕利・(けいり)僄遫(ひょうそく)は、卒として飄風(ひょうふう)の如し。然り而(しこう)して兵垂沙(すいさ)に殆(あやう)く、唐蔑(とうまい)死し、莊蹻(そうきょく)起りて、楚分れて三四と爲る。是れ豈(あ)に堅甲・利兵無からんや、其の之を統(す)ぶる所以の者、其の道に非ざる故なり。汝潁(じょえい)以て險と爲し、江漢以て池と爲し、之を限るに鄧林を以てし、之を緣(めぐ)らすに方城を以てす。然り而して秦師至れば、而(すなわ)ち鄢郢(えんえい)舉げらるること、槁(こう)を振るうが若く然り。是れ豈に固塞・隘阻無からんや、其の之を統ぶる所以の者、其の道に非ざる故なり。紂は比干を刳(こ)し、箕子を囚し、炮烙(ほうらく)の刑を爲し、殺戮時無く、臣下懍然として、其の命を必すること莫し。然り而して周師至れば、而ち令下に行われず、其の民を用うること能わず。是れ豈に令嚴ならず、刑繁ならざらんや。其の之を統ぶる所以の者、其の道に非ざる故なり。古の兵は、戈矛(かぼう)弓矢のみ、然り而して敵國は試を待たずして詘(くつ)す。城郭辨(べん)ぜず、溝池抇(ほ)らず、固塞樹せず、機變張らず。然り而して國晏然(あんぜん)として外を畏れずして[明](注10)內(かた)き(注11)者は、它(た)の故無し、道を明にして之を分鈞(ぶんきん)し、時に使いて誠に之を愛し、下の上に和するや影嚮(えいきょう)の如く、令を由(もち)いざる(注12)者有りて、然る后に之を誅(ま)つ(注13)に刑を以てす。故に一人を刑して天下服し、罪人其の上を郵(とが)(注14)めざるは、罪の己に在るを知ればなり。是れ故に刑罰省きて威流(おこな)わるは、它の故無し、其の道に由る故なり。古の帝堯の天下を治むるや、蓋(けだ)し一人を殺して、二人を刑して、天下治まる。傳に曰く、威厲(れい)にして而(しか)も試みず、刑錯(お)きて而も用いず、とは、此を之れ謂うなり。


(注9)ここから各注は史記礼書を参照して『荀子』の語句を訂正する。
(注10)『集解』『増注』ともに「明」は衍字と言う。
(注11)楊注は史記にもとづき「內(内)」は「固」であると言う。
(注12)『増注』は「由」は「用」、と言う。
(注13)『集解』の王念孫は史記・韓詩外伝において「誅」は「俟」となっていることを引き、さらに王制篇を引いて「待つ」の意味であると言う。
(注14)『集解』は史記を引いて宋本の「郵」は「尤」であると言う。

楚国の兵は強力であるが礼によらないので敗れた、と荀子はここで言う。それは、荀子生前の時代の観察であった。始皇帝の死後に項羽が現れて楚軍を率い、項羽はそのカリスマで彼のために命を賭けて奮戦する軍を作り上げた。その戦国時代の軍にはなかった異質の戦士集団の前に、軍法の力に頼っていた秦軍は粉砕されて、滅亡した。秦滅亡後に天下を分けて対決した劉邦の漢軍をして、項羽の軍には戦場では勝てないと諦めさせて持久戦を余儀なくさせたのであった。項羽の兵は、礼や法の力よりもカリスマの下で団結した軍が勝利することを、どうやら示したようである。秦国の法と荀子の礼は、戦闘の勝敗に限って言うならば、項羽の前で言葉を失う。

しかし項羽は、戦場での戦術を知っていたが、天下を攻略して信認を得るための戦略を知らなかった。劉邦は、持久して項羽の補給路を断つ策を取った。韓信は劉邦の命を受けて、周辺諸国を平定して項羽を孤立させる策を着々と成功させていった。戦場で勝つだけの項羽は、勝ちながら総体として追い込まれていった。ついに垓下(がいか)の戦で四面楚歌の孤立無援となり、勇戦しながらも散っていった。よって、項羽は戦術の強さだけでは天下の王とはなれない、という一つの実例であった。荀子の主張も、あながち間違いではない。

しかし劉邦は韓信や張良の戦略によって勝ったのであって、礼によって勝ったのではない。劉邦の漢帝国が儒家の礼を採用するのは、天下を平定した後に儒家の叔孫通(しゅくそんとう)の建策を用いてからであった。叔孫通はよく儒家の本分を分かっていて、「儒者は進取を行うことは下手ですが、守成を行うことはできます」と劉邦に進言した(『史記』劉敬叔孫通列伝)。叔孫通は劉邦に認められ、野人たちが起こした漢帝国の朝廷を、古式ゆかしい宮廷の礼で装飾したのであった。儒家の役割は、帝国が成立した後になって平時の制度を提供するところにあった。


閑話(むだなはなし)は置いておき、上に訳した議兵篇の箇所とほとんど同じ文が、『史記』礼書にも引用されている。『史記』礼書は他に『荀子』礼論篇の一部とほぼ同じ文も収録されていて、『史記』と『荀子』が起源を同じくするテキストを参照していたことは明らかである。

『荀子』の上のくだりは、『韓詩外伝』にもほぼ同じテキストが引用されている。

漢代の書物で、とくに現行の『荀子』と重なるテキストが見られるものは、『大戴礼記(だたいらいき)』および『韓詩外伝(かんしがいでん)』である。

大戴礼記
前漢代の儒者である戴徳(たいとく、生没年未詳)が、漢代初期に伝わっていた孔子の弟子および後学者たちのテキストを、後世に整理したもの(『四庫全書総目提要』)。別途に彼の甥の戴聖(たいせい)が『礼記(小戴礼記)』を編集し、現在五経の一とされているものは甥のテキストである。両者のテキストの関係には諸説ある。『四庫全書総目提要』は、戴聖が大戴礼記をさらに削って礼記を作ったと言う。『大戴礼記』は、全八十五篇のうち現在三十九篇しか伝わっていない。
残存する『大戴礼記』には『荀子』の言葉と重なる箇所があるが、特にその礼三本篇は、『荀子』礼論篇の前半部とほぼ重なる。また『大戴礼記』勧学篇は、『荀子』勧学篇の前半部と同宥座篇の一部とほぼ同一である。
韓詩外伝
前漢代の儒者である韓嬰(かんえい、生没年未詳)が、『詩経』の伝として先秦時代の様々なテキストから抜書きして、独自の見解を加えたもの。引用されたテキストは儒家に限らない。
『韓詩外伝』は、とくに『荀子』と重なるテキストからの抜書きが多い。上に掲げた議兵篇の一部もまた、そうである。

現在『荀子』と名付けられているテキストは、BC26年に劉向が荀子学派のテキスト群を整理して『荀卿新書』(孫卿新書)として発表したことが初出である。このとき劉向は三百二十二編の著作の中から重複する二百九十篇を削って三十二篇に整理したとある。上の『荀子』と『史記』礼論篇の相違はわずかな文字の違いであり、テキストの転写間違いの可能性が強い。しかし『大戴礼記』に記載されている『荀子』の複数の篇をつなげたようなテキスト、あるいは多少語句の出入りがあるテキストについては、あるいは劉向が整理したとき重複分として削られた別バージョンに由来していたのかもしれない。

『荀子』、『史記』礼書、『韓詩外伝』、『大戴礼記』の中のいくつかの篇といった前漢代の礼に関するテキストは、荀子学派が漢代に残したテキスト群を起源として、漢代にかけて別個の書物として整理されたものであろう。荀子学派のテキストは、ここまで引用されるほど漢代の礼論に影響があり、漢代儒学に影響があった。なのに、『史記』荀卿列伝の荀子に関する記録はあまりに簡潔で、業績の記載に乏しい。これは、不可解なことではないだろうか。

荀子は、自然現象は人間と無関係に起こる、という天人分離論を天論篇で主張した。いっぽう前漢武帝の時代に春秋学を修めて宮廷で重きを成した儒者が、董仲舒(とうちゅうじょ、BC179-BC122)であった。董仲舒は天人相関説を主張し、災異説を主張した。以下、安居香山『緯書と中国の神秘思想』(平河出版社、1988年)を参考しながら述べる。

董仲舒が武帝に天人相関説・災異説を建言した理由は、彼の皇帝権力絶対化の思想に沿ったものであった。董仲舒は漢帝国の秩序をいにしえの王たちの秩序と同じものと考え、皇帝が地上に君臨することは正統であると考えた。しかしそれでは君主権への歯止めがなくなってしまうので、彼は天の運行と君主の徳とは相関していて、君主が不徳であれば天が災害を下すであろう、と皇帝を天から下る倫理によって戒める、という思惑があった。それゆえの天神相関説・災異説であったという。しかし彼の思惑はどうであれ、このような説は荀子の天人分離論と明らかに相容れない。董仲舒は皇帝の責任の報いを天に放り投げて、人間ではなくて天が裁くであろう、と言ったことになる。これは、君主の人間に対する責任を問う孟子や荀子の思想から遠ざかるものであった。

前漢王朝では、董仲舒以降しだいにオカルト思想が前面に出るようになった。天人相関説・災異説は踏み込んで、天下から瑞兆・凶兆を探し出して、これを王朝の未来を予言する天の命令であるとみなす神秘主義が広がるようになった。また儒学が国家宗教として広く普及させられるようになると、儒学のテキストである『春秋』が予言を示している、という神秘的解釈が大流行した。緯書(いしょ)は、『春秋』その他儒学のテキストに予言的な解釈を与えた書で、漢代末期には続々と現れるようになった。これら漢代に流行した神秘主義思想を、讖緯(しんい)思想という。

讖緯思想は、王莽の現れた前漢末に全盛を迎えることとなった。王莽は「符命(ふめい)」すなわち緯書に書かれている予言が自らの即位を示している、という解釈を利用した。当時の人はいとも簡単にこれを信じ、王莽は前漢王朝を廃して新王朝を起こした。その失政による動乱の後に、劉秀が後漢王朝を再建して光武帝として即位した。光武帝もまた、漢が復興するという「図讖(としん)」すなわち緯書の予言に基づいて即位したのであった。緯書によって革命に成功した光武帝はこれを尊重し、天下に緯書を公布するよう指令した。この頃オカルト思想は、国家公認の思想にまで流布していたのであった。

『孫卿新書』劉向校讎叙録においては、董仲舒が「書を作りて孫卿(荀子)を美」としたと書かれている。もっとも現存している唯一の董仲舒の著作は『春秋繁露』八十二篇であるが、集解の王先謙はそこに荀子を称えた内容がないと言う。すでに、散逸したものと思われる。だが少なくとも董仲舒じたいは漢代初期の儒学に絶大な影響を及ぼした荀子のことを高く評価していたことになる。

もしかしたら荀子の名は、董仲舒以降の漢代後期儒学がしだいにオカルトに傾いていく中で、儒学の合理的思想を代表する書としてしだいに顧みられることが少なくなっていったのかもしれない。今はこのぐらいにして、いずれ天論篇を読むときに私ができる範囲で考えてみたい。

議兵篇は残りを一気に読み下す予定であったが、『荀子』と他の漢代書物との関係を整理するために、一回を費やすことにした。

議兵篇第十五(6)

およそ人を動かすとき、褒賞のために動くならば、傷つけられる危険を見たらひるんで動かなくなるであろう。ゆえに褒賞、刑罰、集団の勢いを使った策謀では、人の力を尽くさせて人を死地に赴かせるには足りない。人の主君たる者で下の人民に接する者が礼義も忠信もなく、すべて褒賞とか刑罰とか集団の勢いとかを使って人民を締め付けて効果を得ようするだけであれば、大敵がやってきたときには危険な城を守る者は必ず命令に違反し、敵に遭遇して戦場に当たらせたならば必ず敵前逃亡し、苦しくて難しい仕事をさせたならば必ず逃亡するであろう。上と下の心は離れてしまい、下の者がかえって上の者を襲うことになるであろう。ゆえに、褒賞とか刑罰とか集団の勢いとかの道は、傭兵の道で商売人の道に他ならず、これによって大衆を一つにして国家を美にするには足りない。ゆえに、いにしえの人はこれを恥じて言わなかったのであり、むしろ礼義を明らかにして大衆を導き、忠信を極めて大衆を愛し、賢を貴んで有能者を登用して大衆に身分の序列を与え、それから爵位と身分に応じた服装と褒賞を用いて大衆に施し、時宜に応じた仕事を行わせ、大衆の労務を軽くして、もってこれを赤子を育てるように整頓して育成したのであった。政令がすでに定まり、風俗がすでに斉一されたときに、まだ良俗から離れて上に従わない者がいたならば、人民はこれを嫌悪しない者はおらず、害毒と思わない者はおらず、よって疫病神を払うように忌み嫌った。ここにおいて、はじめて刑罰が起こるのである。このような者にこそお上の極刑が下るのであって、これほどの恥辱があるだろうか。極刑が待っているのに、良俗から離れて上に従わないことをして、いったい利があるだろうか。救いようのない狂人か変人でなければ、死の恐怖を見て改悛しない者があるだろうか。こうした後に人民はみな上の法を守り、上の意志に合わせ、その下で安楽するべきことをはっきりと悟るのである。ここにおいて上の者がよく善に化して、身を修めて行いを正しくし、礼義を積み、道徳を貴ぶならば、人民が貴び敬わないことはなく、親しみ称えないことはないのである。ここにおいて、はじめて褒賞が起こるのである。高い爵位と豊かな禄が与えられれば、これほど大きな光栄があるだろうか。これを害と思う者が、いったいありえるだろうか。人間たる者が、高い爵位と豊かな禄で養われることを願わないはずがない。輝かしい高貴な爵位と手厚い褒賞を前に掲げ、明らかな刑法と死刑による屈辱を後ろに置く。これならば教化されるまいと思っても、どうして教化されずにいられようか。ゆえに人民がこの君主に帰することは流れる水のごとくであり、この君主がいるところはよく治まって(注1)、この君主が治める人民はよく教化される。したがって、暴力的で凶悪な者ですら、この君主に教化されて誠実となり、自分勝手でルールをねじまげる者ですら、この君主に教化されて公共心を持ち、社会に適応しないひとりよがりな者ですら、この君主に教化されて社会と調和するのである。これが大化至一と呼ばれ、すなわち大いなる教化による斉一の極地である。『詩経』に、この言葉がある。:

みかどの猶(はかりごと)、まことに塞(み)てり
徐(えびす)ですらも、既(つい)に来たれり
(大雅、常武より)

この言葉のように、教化されるのである。

およそ人をまとめるためには、三つの術がある。徳をもって人をまとめる者、力をもって人をまとめる者、富をもって人をまとめる者である。人が我が名声を貴び、我が徳行を美とし、我が民となりたいと願い、ゆえに城門を開いて道を掃き清め、我が入ることを出迎える。城内の人民には、従来通りの生活を続けることを許す。こうすることによって人民はみな安心し、ここで法を立てて命令を下せば、従わない者はいないであろう。このゆえに土地を加えれば加えるほど権威はますます重くなり、人民を加えて兵はますます強くなるだろう。これが、徳によって人をまとめる者である。
我が名声を貴ばせる道を取らず、我が徳行を美と思わせる道を取らず、単に我が威を畏れて我が勢いに恐怖している。ゆえに人民には離反の心があっても、あえて反乱を起こそうとしないだけである。このようであれば、警備の兵数はますます多くなり、軍事費がますます増えることになるであろう。このゆえに土地を加えれば加えるほど権威はますます衰え、人民を加えて兵はますます弱くなるであろう。これが、力によって人をまとめる者である。
我が名声を貴ばせる道を取らず、我が徳行を美と思わせる道を取らず、富を求める貧乏人と食を求める飢えた者たちを集めて、腹が減っているから食わせろと言って我が方にやって来る。そこで倉庫を開いて食事を与え、財貨をくれてやって富を与え、良い官吏を配備してこれに接する。これを三年続けたら、人民も信じるようになるであろう。だがこの道ではやはり土地を加えれば加えるほど権威はますます衰え、人民を加えて兵はますます弱くなるであろう。これが、富によって人をまとめる者である。ゆえに、「徳をもって人をまとめる者は王となり、力をもって人をまとめる者は弱くなり、富をもって人をまとめる者は貧しくなる」と言われるのであるが、このことは古今で変わらない真理なのである。
斉国は宋国を併合することに成功したが、これを固めることができなかった(注2)。ゆえに魏国に宋の土地を奪われてしまった。燕国は斉国を併合することに成功したが、これを固めることができなかった。ゆえに田単(でんたん)によって奪回されてしまった(注3)。韓国の上党(じょうとう)は数百里四方の地で、これが富をそのままにそっくり趙国に献上されたのであるが、趙国はこれを固めることがきず、ゆえに秦国によって奪われてしまった(注4)。このように、土地の併合に成功しても、これを固めることができなかったならば、必ずこれを失うこととなる。逆に土地の併合に成功した後にこれを固めることができたならば、必ずその土地は恒久的に自国領となるであろう。得た土地を固めることができれば、併合には兵による強制はいらない。いにしえの時代、殷の湯王は薄(亳、はく)の地から創業し、周の武王は滈(鎬、こう)の地から創業した。いずれも百里(40km)四方ていどの小さな土地であったが、彼らの下で天下は一となり、諸侯は彼らの家臣となった。これは他でもない、彼らが得た土地と人々を固めることに成功したからであった。ゆえに、士を固めるには礼制を使い、人民を固めるには政刑を用いるのである(注5)。礼が治まれば士は服し、政刑が公平であれば人民は安んじるのである。士が服して人民が安んじるならば、これを大凝、つまり大安定というのである。ここから守ればすなわち固く、ここから攻めればすなわち強く、法令は行われて、法令が禁じることは行われなくなるだろう。こうして王者の事業が完成するのである。


(注1)原文読み下し「存する所の者神」。「神」字の解釈は議兵篇(4)注5参照。
(注2)BC288年斉国は宋に攻め入り、BC286年に宋王を殺して国を併合した。しかし翌年のBC285年に、燕国の楽毅が率いる対斉連合軍に攻撃された。斉王は死に、宋国の故地は結局楚・斉・魏の三国の分け取りとなった。
(注3)注2の続き。楽毅は斉国の大部分を占領したが、斉将の田単が即墨の城で辛うじて持ちこたえた。このとき燕国では楽毅を支持していた昭王が死んで、次の恵王は田単が仕組んだ流言に惑わされて楽毅を解任した。BC280年、田単は即墨の戦で燕軍に逆襲し、進んで占領地を全て回復して、新たに襄王を立てて斉を復興した。
(注4)長平の戦。議兵篇(1)のコメント参照。荀子はこの三つの事例を占領地を固めることができなかった例として挙げているが、最初の例では斉国は占領国が占領地を固める時間を得る前に他国に攻撃されている。長平の戦では、『史記』趙世家によると、上党の吏民はむしろ秦よりも趙への帰属を望んでいるという上党の太守の上奏によって、趙はここを占領した。しかし秦国はこのときすでに上党の地を秦の支配下に組み込む措置を取り始めていて、結果両軍の衝突に発展した。趙軍は敗れて上党の地を秦軍に奪われたが、それは力の結果であって、上党の人民の支持がどちらにあったのかは一概に評価できそうにない。荀子は戦争の結果だけを見て、事例として選んでいる。しかしこれらが荀子の言いたいことの事例として適切であるかどうか、疑う。
(注5)富国篇(2)注2参照。
《原文・読み下し》
凡そ人の動くや、賞慶の爲めに之を爲せば、則ち害傷を見て止む。故に賞慶・刑罰・埶詐(せいさ)は、以て人の力を盡し、人の死を致すに足らず。人の主上爲る者や、其の下の百姓に接する所以の者、禮義・忠信無く、焉慮(おおよそ)賞慶・刑罰・埶詐を率用(そつよう)し、其の下を除阨(けんやく)(注6)して、其の功用を獲るのみならば、大寇則(もし)(注7)至るに、之をして危城を持たせしむれば則ち必ず畔(そむ)き、敵に遇い戰に處(お)らしむれば則ち必ず北(に)ぐ。勞苦煩辱すれば、則ち必ず犇(はし)る。霍焉(かくえん)として離れんのみ。下反(かえ)って其の上を制す。故に賞慶・刑罰・埶詐の道爲るや、傭徒・粥賣(いくばい)の道なり。以て大衆を合し、國家を美にするに足らず。故に古の人羞(は)じて道(い)わざるなり。故に德音を厚くして以て之に先んじ、禮義を明にして以て之を道(みちび)き、忠信を致して以て之を愛し、賢を尚び能を使いて以て之を次(じ)し、爵服慶賞以て之を申(かさ)ね(注8)、其の事を時にし、其の任を輕くし、以て之を調齊し、之を長養し、赤子を保つが如くす。政令以(すで)に(注9)定まり、風俗以(すで)に一に、俗を離れて其の上に順(したが)わざる有らば、則ち百姓敦惡(たいお)(注10)せざること莫く、毒孽(どくげつ)とせざること莫く、不祥を祓(はら)うが若し。然る後に刑是に於て起る。是れ大刑の加わる所なり、辱(はじ)孰(いずれ)か焉(これ)より大ならん。將に以て利を爲さんとするか、則ち大刑焉に加わる。身苟(いやし)くも狂惑・戇陋(とうろう)ならずんば、誰か是を睹(み)て改めざらんや。然る後に百姓曉然(ぎょうぜん)として皆上の法に循い、上の志に像(なら)いて、之に安樂するを知る。是に於て能く善に化し、身を脩め、行(おこない)を正しくし、禮義を積み、道德を尊ぶもの有らば、百姓貴敬せざること莫く、親譽(しんよ)せざること莫し。然る後に賞是に於て起る。是れ高爵・豐祿の加わる所なり、榮孰(いずれ)か焉より大ならん。將に以て害と爲さんとするか、則ち高爵・豐祿以て之を持養す。生民の屬(ぞく)、孰か願わざらんや。雕雕焉(ちょうちょうえん)として貴爵・重賞を其の前に縣け、明刑・大辱を其の後に縣く。化すること無からんと欲すと雖も、能くせんや。故に民之に歸すこと流水の如く、存する所の者神(しん)に、爲す所の者化す。順(したが)いて(注11)、暴悍(ぼうかん)勇力の屬、之が爲めに化して愿(げん)、旁辟(ぼうへき)曲私の屬、之が爲めに化して公、矜糾(きょうきゅう)收繚(しゅうりょう)の屬、之が爲に化して調、夫れ是を之れ大化至一と謂う。詩に曰く、王猶(おういう)允(まこと)に塞(み)つれば、徐方既(ことごと)く來る、とは、此を之れ謂うなり。
凡そ人を兼ぬるに三術有り。德を以て人を兼ぬる者有り、力を以て人を兼ぬる者有り、富を以て人を兼ぬる者有り。彼れ我が名聲を貴び、吾が德行を美とし、我が民爲らんと欲す、故に門を辟(ひら)き涂(みち)を除して、以て吾が入るを迎う。其の民に因りて、其の處(ところ)に襲(よ)りて、百姓皆安んず。法を立て令を施せば、順比せざること莫し。是の故に地を得て權彌(いよいよ)重く、人を兼ねて兵兪(いよいよ)强し。是れ德を以て人を兼ぬる者なり。我が名聲を貴ぶに非ず、我が德行を美とするに非ず、彼れ我が威を畏れ、我が埶(せい)に劫(おびやか)さる、故に民離心有りと雖も、敢て畔慮(はんりょ)有らず、是(かく)の若くなれば則ち戎甲兪(いよいよ)衆(おお)く、奉養必ず費なり。是の故に地を得て權彌(いよいよ)輕く、人を兼ねて兵兪(いよいよ)弱し。是れ力を以て人を兼ぬる者なり。我が名聲を貴ぶに非ず、我が德行を美とするに非ず、貧を用(も)って富を求め、飢を用って飽を求め、腹を虛(むな)しくして口を張り、來りて我が食に歸す。是の若くなれば、則ち必ず夫(か)の掌窌(りんぽう)(注12)の粟を發(ひら)きて以て之に食わし、之に財貨を委(まか)して以て之を富まし、良有司(りょうゆうし)を立てて以て之に接し、已に三年を朞(きわ)めて、然る後に民信ず可きなり。是の故に地を得て權彌(いよいよ)輕く、人を兼ねて國兪(いよいよ)貧し。是れ富を以て人を兼ぬる者なり。故に曰く、德を以て人を兼ぬる者は王たり、力を以て人を兼ぬる者は弱く、富を以て人を兼ぬる者は貧しとは、古今一なり。兼并(けんぺい)は能くし易し、唯だ堅凝を之れ難しとす、齊能く宋を并(あわ)せて、凝すること能わず、故に魏之を奪う。燕能く齊を并せて、凝すること能わず、故に田單之を奪う。韓の上地は、方數百里にして、完全富足して趙に趨くも、趙凝すること能わず、故に秦之を奪う。故に能く之を并せて、凝すること能わざれば、則ち必ず奪わる。之を并すること能わずして、又其の有を凝すること能わざれば、則ち必ず亡ぶ。能く之を凝せば、則ち必ず能く之を并す。之を得て則ち凝すれば、兼并强(し)うること無し(注13)。古(いにしえ)は湯薄(はく)を以てし、,武王滈(こう)を以てす。皆百里の地なるも、天下一と爲り、諸侯臣と爲る。它(た)の故無し、能く之を凝すればなり。故に士を凝するに禮を以てし、民を凝するに政を以てす、禮脩まりて士服し、政平らかにして民安んず。士服し民安んじ、夫れ是を之れ大凝と謂う。以て守れば則ち固く、以て征すれば則ち强く、令行われ禁止(や)み、王者の事畢(おわ)る。


(注6)集解の王念孫は「除」は「險」の誤りと言う。
(注7)集解の王念孫は「則」は「若」である、と言う。
(注8)増注は「申」は「重」であると言う。
(注9)増注は「以」は「已」と通ずと言う。
(注10)荻生徂徠は「敦」が「憝」に通じると言う。「にくむ」。
(注11)『集解』の王引之は、「掌」は「稟」であるべしと言う。稟は地上の倉庫、窌は地面を掘った貯蔵庫。
(注12)原文「而順」。『集解』にて、ここは上に脱字があるはずと盧文弨は言うが、同じ集解の兪樾の説に従って「而順」を「從而」の意とみなす。
(注13)『新釈漢文大系』の藤井専英氏は楊注の意を取って「并」を「兵」に替えて「兼兵强(し)うること無し」と読む。『漢文大系』は増注の冢田虎説を取って「强(彊)」を「疆」の意と取って「兼并疆(かぎり)無し」と読んでいる。藤井専英氏に従う。

ここで長平の戦の結末が書かれているので、この箇所の最終的な浄書は明確に趙が秦に敗れたBC260年より後のものである。最初に私は趙王と臨武君との討論は長平の戦の前のことではないか、と推測したが、この議兵篇は王の前の討論、弟子との問答、結論の三つをつなげたものであり、いくつかの離れた期間に書かれた兵関係のテキストをまとめ上げたものではないだろうか。

性悪説に立って人間は欲望的存在であることを規定する荀子が、兵を議論するときにはいつのまにか自らの前提を捨ててしまう。指導者である君子が戦う理由であるならば、己の地位と名誉を守るために戦う、と言って性悪説と結合させることも可能であろう。しかし戦って死んでも誰も称えてくれない一般の兵卒が、なんで君主のために喜んで死ぬのか、さっぱり荀子の説明では理解がゆかない。荀子がここで強い兵・強い国をもたらすという礼の正道と、秦国の変詐の道と、どれだけの差があるだろうか。荀子は正しく刑を行い、正しく褒賞すれば人民は喜んで君主のために死ぬであろう、と言うのである。これはいわば、恐ろしい軍国主義国家よりも人に優しい福祉国家のほうが人民は喜んで命を投げ出すだろう、と言っているのに等しい。これは、正しいであろうか?もし正しいと思うのであれば、それは国家の論理に毒されている、と私は思う。

私が思うに、上下が一体となって戦う共同体は、少なくとも荀子が描く法治官僚国家そのものからは生まれてこないだろう。人に優しい国家はもちろん勧めるべき価値であるが、人が共同体のために命を賭け力を尽くそうと思う連帯心は、それとは別のところから生まれるものであるはずだ。

もし共同体の人間どうしの間で豊かな互酬関係による強い連帯感があって、その上に官僚が礼法の原理をかぶせて合理的に整理すれば、合理的でしかも強い兵が生まれるであろう。礼法から連帯感が生まれるのではない。順番が、逆なのである。現代の国もそうであって、国家や官僚がシステムを操作することによって強い国を作ることができる、などとは思ってはならない。順番が、逆なのである。社会の人間どうしの間で強い連帯感があるならば、国家や官僚がその力を合理的に利用すれば、結果的に強い国が生まれるであろう。強い国を作る道は、何も戦争で勝つ強い兵を作る道だけではない。優秀な外交ができて、なおかつ祖国を辱めない知性ある人材。または外国からもリスペクトを受ける、様様な才能の持ち主。あるいはこの土地ならば自由があって定住することができると亡命者たちに思わせる、アジールとしての場所。これらはまた社会の持つ力しだいで生み出すことができる、強い国のしるしであると私は考えたい。

続いて、彊国篇に移りたい。

【次は、「彊国篇第十六」を読みます。】

王制篇第九(1)

(質問者)為政の策について、伺いたい。
(荀子)賢明な者、有能な者は、身分を問わず昇進させる。怠け者、無能者は、猶予期間を与えずに罷免する。極悪人は、教化措置を与えずに処刑する。平均的な人間と一般人民には、政治による刑罰を用いる前に教化策を用いる。[(錯簡と疑われる部分:)身分の区別がまだ分かれていなくても、宗廟における序列は存在する。]王公・士大夫の子孫といえども、礼義にはげむことができなければ庶民に落す。庶民の子孫といえども、文芸学問を積んで身の行いを正し、礼義にはげむならば卿・士大夫にまで昇進させる。人民の中で姦言姦説を言う者、姦事を行う者、姦能を振るう者、 逃げ隠れる者、不正な心を持つ者は、まず教化してしばらく様子を眺め、褒賞により励まし刑罰により罰する。これで職業に安んじるならば、生活を許す。安んじないならば、遠地への流刑に処す。五疾(注1)の者は、政府が収容して扶養し、それぞれの能力に応じて使用し、官が衣食を支給して、すべて遺さず保護する。能力と行為が時節に反する者は、死刑にして恩赦は与えない。これが、天が与えるままの自然に則った徳というものである。王者の政治なのである。

次に、聴政の大筋を述べる。善者が来朝したときには、礼をもって接遇する。不善者が来朝したときには、刑をもって威嚇する。両者を分別すれば、賢人と愚人とは混同されず、是非は混乱しない。賢人と愚人とが混同されなければ、英傑がやって来るようになり、是非が混乱しなければ、国はよく治まる。こうなれば、名声は日に日に聞こえるようになり、天下の者が皆この君主を慕うようになり、法令は行われて禁令は守られるようになり、王者の事業は完成するであろう。およそ聴政は、威厳が激しすぎて人をやわらかく導くことを好まない、というようであれば、下の者は畏怖して親しまず、口を閉じて言いたいことが全て言われなくなる。このようであれば政治の大事は弛んで十分行われない状態に近づき、政治の小事はぜんぜん行われない状態に近づくであろう。だが逆に和気藹々として意思が通じるような空気を作り、好んで人をやわらかく導き、言いたいことを押し留めることをしなければ、かえって姦言が殺到することになり、君主を試すような不遜な意見が集中することになる。このようであれば陳情を聞くのが過大となって煩雑となり、これもまた政治の害となる。法律もその内容を詳しく議論検討しておかなければ、法が届かないところは必ず法の網が届かなくなり、官職も担当者がその職務を詳しく理解していなければ、職務の範囲外であるところは必ず行政の手が届かなくなる。ゆえに、法を詳しく議論検討し、官職を詳しく理解し、よい建策で野に隠れたものはなくし、よい人物で野に留まるものはなくし、そして万事に過ちなく行えるのは、君子でなければできないことである。ゆえに公平なる者は聴政の均衡を量るための衡(はかり)であり、中庸和解する者は聴政の基準たる縄(すみなわ)であり、法律が存在している事項については法を適用して判定し、法律が存在していない事項については法の原理による判断(注2)によって判定するのは、聴政の徹底というものである。だが一方にかたより、正しい道を踏まないのは、これは悪い聴政というものである。ゆえに良法があって政治が乱れることはあるが、君子が政治をして乱れることは古今にわたって未だかつて聞かない。言い伝えに「治は君子に生じ、乱は小人に生ず」と言うのは、このことを言うのである。

身分が均一であると、財貨が行き渡らない。上下の権勢が同一であると、国家を統一できない。人民大衆が均一であると、これを使用できない。天と地が分かれているように、人間の上下も分かれるが本来なのである。賢明な王が初めて立つとき、国を治めるために制度を設ける。そもそも貴人も平民も等しく尊かったならば主従の関係が成立できず、同様に等しく賤しかったら上が下を使うことができない。これは、天の与えた道理である。同じく貴人と平民の権勢が等しかったならば欲しい対象と嫌う対象とが両者で衝突し、全員を相応に満足させることができない。満足させることができなければ、必ず争いになる。争えば必ずカオスとなり、カオスとなれば窮乏する。わが国の文明の建設者である先王は、そのようなカオスを嫌い、ゆえに礼義を制定して人間を上下に分かち、貧富・貴賎の等級を作って両者が社会の中で分業できるようにさせたのである。これは、天下を養う基本であった。『書経』呂刑篇に、この言葉がある。:

平等均一は、真の平等均一ではない。

いま、この言葉の説明をしたのである(以上の説明は、富国篇も参照)。

馬車の馬が驚くと、君子は馬車に安心して乗ることができない。庶民が政治に驚くと、君子は位に安心して居ることができない。馬車の馬が驚けば、これを静めるのが最もよい。庶民が政治に驚けば、これに恩恵を与えるのがもっともよい。賢良な者を抜擢し、篤敬な者を推薦し、孝行な子弟を督励し、孤(みなしご)と寡(未亡人)を保護し、貧窮者に支援する。このようにすれば、庶民は政治に安んずるであろう。庶民が政治に安んずれば、しかる後に君子は位に安んずるのである。言い伝えに、「君は舟、庶民は水。水はすなわち舟を載せ、水はすなわち舟を覆す」とあるのは、このことを言うのである。ゆえに人の君主たるもの、地位の安定を欲するのであれば、政治を平らかにして民を愛するのが最もよいのである。また繁栄を欲するのであれば、礼を尊んで士を敬うのが最もよいのである。功名を立てることを欲するのであれば、賢人を尊重して有能な者を用いるのが最もよいのである。この三者は、人の君主たる者が守るべき大節(最重要な三カ条)である。三つの大節が当たっているならば、その他のことも必ず当たるものなのである。だが三つの大節が当たらないならば、その他のことがいくら当たっていたとしても、益無きがごとしである。孔子はこう言われた、「大節もよく守って小節もよく守るのは、上君である。大節はよく守るが小節はよく守ったりよく守らなかったりするのは、中君である。大節を守らない者は、たとえ小節をよく守っていたとしても、私はその者についてさらに見るまでもない。」


(注1)五疾を楊注に従って書くと、瘖(言語障害)・聾(聴覚障害)・跛躄(足萎え)・断者(足切断の刑を受けた者)・侏儒(小人症)のことである。
(注2)
原文「類」。楊注は「類は比類を謂う」と言う。法の条文にない事項を官僚が類推適用して判定すること、あるいは判例によって判断すること。ここでは、一般化して「法の原理による判断」と訳しておく。現代日本の法体系では、法律は国会が作成するが、それを運用する細則である政令は内閣が、規則・要綱などは各省庁機関が制定する。法の定めない細目を行政が埋めるところは、荀子と現代とでは同じである。ただし荀子はここで君子すなわち官僚が礼法の原理に基づいて個人判断で類推適用すべし、と言おうとしているようにも思われる。そのような官僚の裁量の余地を大きく許すことは、人治主義の余地を残すことになる。人治主義の弊害を防ぐためには、より詳細な法規を制定しなければならないことになるであろう。
《原文・読み下し》
政を爲すことを請い問う。曰く、賢能は次を待たずして舉(あ)げ、罷(ひ)・不能は須(しばらく)を待たずして廢し、元惡は敎を待たずして誅し、中庸・雜民(注3)は政を待たずして化す。[分未だ定まらざれば、則ち昭繆(しょうぼく)有るなり。](注4)王公士大夫の子孫と雖も、禮義に屬(はげ)(注5)むこと能わざれば、則ち之を庶人に歸す。庶人の子孫と雖も、文學を積み、身行を正しうし、能く禮義に屬(はげ)(注5)めば、則ち之を卿相・士大夫に歸す。故に姦言・姦說・姦事・姦能・遁逃・反側の民は、職して之を敎え、須(しばらく)して之を待ち、之を勉むるに慶賞を以てし、之を懲らすに刑罰を以てし、職に安んずれば則ち畜(やしな)い、職に安んぜざれば則ち棄つ。五疾は上收めて之を養い、材して之を事(つか)い、官施(かんし)して之に衣食し、兼覆(けんふ)して遺す無し。才行時に反する者は、死(ころ)して赦すこと無し。夫れ是を之れ天德と謂う。王者の政なり。
政を聽くの大分。善を以て至る者は之を待つに禮を以てし、不善を以て至る者は之を待つに刑を以てす。兩者分別すれば、則ち賢・不肖雜ならず、是非亂れず。賢・不肖雜ならざれば、則ち英傑至り、是非亂れざれば、則ち國家治まる。是の若くなれば、名聲日に聞こえ、天下願い、令行われて禁止(や)み、王者の事畢(おわ)る。凡(およ)そ聽は、威嚴猛厲(もうれい)にして、人を假道(かどう)するを好まざれば、則ち下畏恐(いきょう)して親しまず、周閉して竭(つ)くさず。是の若くなれば、則ち大事は弛(ゆる)むに殆(ちか)く、小事は遂(お)つるに殆し。和解調通にして、好みて人を假道し、之を凝止する所無ければ、則ち姦言並び至り、嘗試(しょうし)の說鋒起す。是の若くなれば、則ち聽くこと大に事煩わしく、是れ又之を傷つくるなり。故に法して議せざれば、則ち法の至らざる所の者必ず廢し、職して通ぜざれば、則ち職の及ばざる所の者は必ず隊(お)つ。故に法して議し、職して通じ、隱謀無く、遺善無く、而(しこう)して百事過(あやまち)無きは、君子に非ざれば能くすること莫し。故に公平なる者は職(注6)の衡にして、中和なる者は聽の繩(じょう)なり。其の法有る者は法を以て行い、法無き者は類を以て舉(きょ)するは聽の盡なり。偏黨にして經無きは、聽の辟(へき)なり。故に良法有りて亂るる者は之有り、君子有りて亂るる者は、古(いにしえ)より今に及ぶまで、未だ嘗て聞かざるなり。傳に曰く、治は君子に生じ亂は小人より生ず、とは、此を之れ謂うなり。
分均(ひと)しければ則ち偏(あまね)(注7)からず、埶(せい)齊しければ則ち壹(いつ)ならず、衆齊しければ則ち使われず。天有り地有りて、上下差有り。明王始めて立ちて、國を處すること制有り。夫れ兩貴の相事(つか)うること能わざる、兩賤の相使うこと能わざるは、是れ天數なり。埶位(せいい)齊しければ、欲惡(よくお)同じ。物澹(た)すこと能わざれば、則ち必ず爭う。爭えば則ち必ず亂れ、亂るれば則ち窮す。先王其の亂を惡(にく)む、故に禮義を制して、以て之を分かち、貧富・貴賤の等有り、以て相兼臨(けんりん)するに足らしむる者は、是れ天下を養うの本なり。書に曰く、維(こ)れ齊は齊に非ず、とは、此を之れ謂うなり。
馬輿(よ)に駭(おどろ)けば、則ち君子輿に安んぜず。庶人政に駭けば、則ち君子位に安んぜず。馬輿に駭けば、則ち之を靜むるに若(し)くは莫く、庶人政に駭けば、則ち之に惠(めぐ)む(注8)に若くは莫し。賢良を選び、篤敬を舉げ、孝弟を興し、孤寡(こか)を收め、貧窮を補(おぎな)う。是の如くなれば、則ち庶人は政に安んず。庶人政に安んじて、然る後に君子位に安んず。傳に曰く、君なる者は舟なり、庶人なる者は水なり、水は則ち舟を載せ、水は則ち舟を覆す、とは、此を之れ謂うなり。故に人に君たる者は、安を欲せば、則ち政を平らかにし民を愛するに若くは莫く、榮を欲せば、則ち禮を隆(とうと)び士を敬するに若くは莫く、功名を立てんと欲せば、則ち賢を尚(とうと)び能を使うに若くは莫し。是れ人に君たる者の大節なり。三節なる者當(あた)れば、則ち其の餘(よ)は當らざること莫し。三節なる者當らざれば、則ち其の餘は曲當(きょくとう)すと雖も、猶將(まさ)に益無からんとす。孔子の曰(のたま)わく、大節是なり、小節是なるは、上君なり。大節是なり、小節(注9)一出し一入するは、中君なり、大節非なれば、小節是なりと雖も、吾は其の餘を觀る無し、と。


(注3)宋本には「雜」があり元本にはない。
(注4)昭繆とは父子のこと、転じて宗廟の中における祖先の継承序列のこと。集解の郝懿行は「二語曉(さと)り難し」と解釈困難であることを言い、猪飼補注は「疑うは錯簡(さくかん。語句の誤入)にて強解す可らず」と言う。
(注5)増注は「屬」は「厲」の誤りと言う。「厲(はげ)む」。
(注6)集解の劉台拱は「職は聽の誤り」と言う。
(注7)集解の王念孫、増注の荻生徂徠ともに「偏」を「徧」であると言う。
(注8)集解の郝懿行は、「惠」は「順(したがう)」であると言う。しかし楊注をそのまま取る。
(注9)宋本にはこの後に「非也」の二字がある。

【この篇は、「富国篇第十」の後に読んでいます。】

私としてこの篇は「王者」「覇者」「強者」の国際政治学を読みたいのがメインテーマなので、ここはイントロダクションとしてあまり興味が持てない。
ここで質問者に対して開陳されていることは、王者の政治のあり方である。その叙述は、限りなく法家思想に近い。官僚の徳を強調する点は確かに儒家的であるが、それが行政において頼るのは法であり、よい政治は法の適正な運用にある、という結論に行き着けば、法家思想となんら変わりがない。孟子一門の行政プランはおおざっぱであるが、荀子一門は精密な行政プランを描きたがる。質問者(弟子かもしれないし、どこかの国の政治家かもしれない)に請われるがままに理想の行政プランを描いていくと、有能な官僚が人民を細かな点まで指導する法治官僚国家の姿が浮き上がってくる。このあたりの荀子の叙述はプラトンの『国家』を思わせるところがある。本人はよかれと思って叙述しているのであるが、行き過ぎは生活する人間の自律性を奪っていくものである。国家が人間にとって必然なものではなく、後から支配するために人間にかぶさってきたものであり、ゆえに国家は人間の機嫌を取るために平等と連帯を演出して、官僚は国民を手取り足取り面倒を見てやって自らの存在意義を確かめるのである。このことをもっとよく知るためには、佐藤優『国家論』(NHKブックス、2007年)および柄谷行人『世界史の構造』(岩波書店、2010年)をぜひ読んでいただきたいと思います。

ここで語ることはこれぐらいなので、この機会に法家思想についてレビューしておくことにしたい。荀子の後から法家思想の泰斗である李斯と韓非子が出てくるのであり、儒家である荀子もまた今回の叙述のように法家思想とほぼ同質な行政プランを構想している。

韓非子が法家思想の創始者であるかのように言われることがあるが、正しくない。韓非子は、先行する三人の思想家を総合したのである。三人とは、商鞅(しょうおう)、申不害(しんふがい)、慎到(しんとう)である。いずれも、戦国時代の人物である。そもそも法を用いて人民を効果的に制御する、という考えは孔子にもあったし、孔子と同時代の子産(しさん)は中華世界で最初に成文法を制定したことで知られる。ただ孔子らは法の力だけに頼って国を治めるべし、という主張をしたわけではない。孔子はむしろ君子の徳による善導を優先し、規則としては強制力のある法よりも文化的・社会的なルールである礼をより重視した。法家思想は徳や礼の効力を認めず、国家が制定する法の効力だけに頼って国家は運営されるべし、と唱えるものである。孔子の生きた春秋時代は国家の規模がまだ小さく、かつ宗教や慣習の力がまだ残っていた。しかし続く戦国時代となると国家は大規模化して官吏の数は膨大となり、徳や礼だけで国家を統治することは不可能となった。法家思想は、そのような時代の要請から発生したのであった。

韓非子は、商鞅、申不害、慎到の三者から、三つの統治原理を受け継いだ。

商鞅からは、「法」。商鞅は後進国であった秦国の改革を行い、貴族の慣習による統治を廃止して、明文化された法律による統治を導入した。法律は功労あるものへの賞と罪ある者への罰を規定し、情実を廃してこれを厳格に運用した。結果として、秦国は急激に強国となった。詳細は、『史記商君列伝』にある。

申不害からは、「術」。申不害は韓国の宰相であり、小国の韓国を一時強勢にした。申不害は、刑名の術という家臣統制術を編み出した。これは名(家臣の明文化された職責、あるいは記録された公約)と刑(家臣の挙げた実績)とが一致しているかどうかをまぎれなく判定して、名と刑が一致しない者を罰する方法である。この刑名の術によって地位に応じて実績を出さない家臣を許さず、国家を能率化するのである。韓非子は「(商鞅の法と申不害の術は)一つとして無いわけにはいかない、帝主の道具である」(『韓非子定法篇』)と言う。

慎到からは、「勢」。慎到は君主の権力の源泉は、君主の地位そのものにあると見た。「堯も匹夫となれば三人を治むること能わず」(『韓非子難勢篇』)、つまり聖王の堯から君主の地位を奪って庶民としてしまえば、三人を統御することすらできなくなるであろう、という痛烈な皮肉である。君主の権力は能力とか人徳とかにあるのではなく、君主の地位そのものが持つ力が違反する家臣をひれ伏させて、出世を願う家臣を引きつけるのである。この君主の地位が持つ力を、慎到は「勢」と呼んだ。ゆえに君主は、権限を家臣に譲ってはならない。「勢」が分裂して君主の法令が行き届かなくなるからである。また君主の能力は、国家の強弱とは関係がない。「勢」があって法がよく運行されていれば、国家はひとりでに動くからである。

韓非子はまず荀子に学び、進んで上の三者の説を総合して、法にのみ頼る国家運営のあり方を極めた。よって韓非子は法家思想の完成者ということができるだろう。

王制篇第九(2)

衛の成公と嗣公(注1)は、人民から重税を取って計略を好む君主であったが、民心を得ることはできなかった。鄭の子産(しさん)(注2)は民心を取った政治家であったが、政治を行うことはできなかった。管仲(注3)は政治を行う者であったが、礼を修めることはできなかった。ゆえに、礼を修める者は王者となり、政治を行う者は強大化し、民心を取る者は安泰となり、重税を取る者は滅ぶ。ゆえに王者は人民を富ませ、覇者は士(最低ランクの宮廷人)を富ませ、辛うじて存立する国は大夫(上級貴族)を富ませ、亡国は君主の懐を富ませて国庫を満たすのである。君主の懐と国庫が満ちて、人民は貧窮する。これを上が満ちあふれて下が枯れ果てる、というのである。こんなことでは国内の防衛もできず、外征して戦うこともできず、転覆滅亡は時間の問題である。自らせっせと税を集めた果てに滅亡し、敵国がこれを取って強さを増すのである。重税は敵の侵攻を招いて敵を有利にし、国を亡ぼして身を危うくする道である。ゆえに賢明な君主は、この道を踏まない。

他国の人心を奪う者は、諸侯を家臣とするであろう。他国の同盟国を奪う者は、諸侯を盟友とするであろう。他国の土地を奪う者は、諸侯を敵とするであろう。諸侯を家臣とする者は、王者である。諸侯を盟友とする者は、覇者である。諸侯を敵とする者は、危険である。強者(彊者)の道を用いるならば、敵国は城内にたてこもって守り、また打って出て戦おうとする。これに力で戦って勝ったとすれば、敵国の人民を傷つけることが必ず甚だしい。敵国の人民を甚だしく傷つければ、敵国の人民がこちらの国を憎むことが必ず甚だしい。敵国の人民がこちらの国を憎むことが甚だしければ、敵国の人民はわが国と日増しに戦うことを欲するであろう。逆も同じである。敵国に力で戦って勝ったとしても、自国の人民を必ず甚だしく傷つけ、自国の人民がその君主を必ず甚だしく憎むことになり、自国の人民はその君主のために戦うことを日増しにいやがるようになるであろう。敵国の人民が日増しに戦意を高め、自国の人民が日増しに戦意を失う。これが、強者がかえって弱い理由なのである。土地を奪っても領民は去り、労苦が多くて功績は少ない。防衛するべき土地が増えて、防衛するための人民は減る。これが、強者がかえってやがては力を削られていく理由なのである。諸国は表面上は交流することを続けても、水面下では怨みを続けて、相手が敵であることを忘れることはない。強国の隙を伺って、強国が疲弊したときに乗じようとするのである。強国の疲弊が見えたときが、強国の危機なのである。なので、強者の道を真に知る者は、このような武力侵略による強大化を目指さない。あえて侵略を目指さず、王道の命じる道によって国策を決め、国力を完備させて、君主の徳を固めるのである。国力が完備すれば諸国はこれを弱めることができず、君主の徳が固まれば諸国はこの国の力を削ることもできないであろう。天下に王者、覇者がいない時代であれば、これで常勝となる。これが、真の強道を知る者である。


(注1)成公(成侯)は戦国時代の衛国の君主で、嗣公(嗣君)はその孫。彼らの時代に国はますます衰弱して、嗣公の子の時代に魏国の属国となった。嗣公は『韓非子』内儲説・外儲説各篇に複数回エピソードが現れ、計略を好む知能的な君主として描かれている。
(注2)鄭国は、春秋時代にあった国。韓国に亡ぼされた。子産(?- BC522)は鄭国の宰相で、落ち目であった祖国をよく盛り立てた開明的な政治家で孔子にも君子として評価された(『論語』公冶長篇)。しかし『韓非子』難三篇では、視察中に気づいた人民の気配を察して役人に逮捕させたエピソードを取り上げて、自分一人の智恵だけで国の全てを見ることなどできない、と批判されている。また『孟子』離婁章句下では、人民を自分の乗り者に乗せて川を渡してやったエピソードを取り上げて、それよりもなぜ人民のために川に橋を架けないのか、と批判されている。戦国時代になると、子産はこのように仁愛あって政治を知らない前時代の政治家という見方が定着してしまった。これは、見当違いな批判である。
(注3)管仲(?- BC645)は春秋時代、斉国の大政治家。主君の桓公を補佐してこれを覇者に押し上げた。孔子は管仲は礼を知らないと一方で批判し(『論語』八佾篇)他方で管仲を仁者であると高く評価している(同、子路篇)。斉国は孔子の祖国である魯国の長年の敵国であり、管仲の時代に魯国は斉国に敗れてその下流に甘んじざるをえなくなった。その斉を強大化した偉大な政治家である管仲に対して、孔子は賞賛と警戒心のアンビヴァレントな感情を持っていたのであろう、と私は想像する。
《原文・読み下し》
成侯・嗣公(しこう)は、聚斂計數(しゅうれんけいすう)の君なり、未だ民を取るに及ばざるなり。子產は民を取る者なり、未だ政を爲すに及ばざるなり。管仲は政を爲す者なれど、未だ禮を脩(おさ)むるに及ばざるなり。故に禮を脩むる者は王たり、政を爲す者は强く、民を取る者は安く、聚斂する者は亡ぶ。故に王者は民を富まし、霸者は士を富まし、僅かに存するの國は大夫を富まし、亡國は筐篋(きょうきょう)を富まし、府庫を實たす。筐篋已(すで)に富み、府庫已に實ちて、百姓貧し。夫れ是を之れ上溢れて下漏ると謂う。入りては以て守る可からず、出でては以て戰う可からざれば、則ち傾覆滅亡は立ちどころにして待つ可きなり。故に我之を聚(あつ)めて以て亡び、敵之を得て以て彊し。聚斂する者は寇(こう)を召(まね)き敵を肥やし、國を亡ぼし身を危うくするの道なり。故に明君は蹈(ふ)まざるなり。
王は之が人を奪い、霸は之が與(とも)を奪い、强は之が地を奪う。之が人を奪う者は諸侯を臣とし、之が與を奪う者は諸侯を友とし、之が地を奪う者は諸侯を敵とす。諸侯を臣とする者は王たり、諸侯を友とする者は霸たり、諸侯を敵とする者は危うし。强を用いる者は、人の城を守り、人の出でて戰う、而(しこう)して我力を以て之に勝つなれば、則ち人の民を傷つくること必ず甚し。人の民を傷つくること甚しければ、則ち人の民我を惡(にく)むこと必ず甚し。人の民我を惡むこと甚しければ、則ち日に我と鬬(たたか)わんと欲す。人の城を守り、人の出でて戰う、而(しこう)して我力を以て之に勝てば、則ち吾が民を傷つくること必ず甚し。吾が民を傷つくること甚しければ、則ち吾が民の我を惡(にく)むこと必ず甚し。吾が民の我を惡むこと甚しければ、則ち日に我が爲に鬬(たたか)うことを欲せず。人の民は日に我と鬬うことを欲し、吾が民は日に我が爲に鬬うことを欲せざるは、是れ强者の反(かえ)って弱き所以なり。地來りて民去り、累多くして功少し。守る者益すと雖も、守る所以の者損す、是れ以て大者の反って削らるる所以なり。諸侯交わりを懷かざること莫きも、怨を接(つづ)けて(注4)其の敵を忘れず、强大の間を伺い、强大の敝(へい)を承くるなり。强大の敝(へい)を知るは(注5)、此れ强大(注6)の殆(あやう)き時なり。强大を知る者は强を努めざるなり、慮(おもんぱか)るに(注7)王命を以てし、其の力を全くし,其の德を凝(さだ)む。力全ければ則ち諸侯弱むること能わず、德凝まれば則ち諸侯削ること能わず、天下に王・霸の主無ければ、則ち常に勝つ。是れ强道を知る者なり。


(注4)原文「諸侯莫不懷交接怨」。解釈には多説ある。楊注の本説は「交接」を「相連結して国を怨むことを欲す」と考え、諸国が合従して強国に怨みを懐く、と取る。楊注の引く多数説、増注、および集解の王念孫は「懐」を「壊」と読み替えて「交接を壊(やぶ)りて怨み」と考え、諸国が強国との交流を絶って怨む、と読む。集解の郝懿行および王先謙は「交わりを懐かざることなきも怨みを接(つづ)く」と考え、諸国が表面上は交流することを続けても水面下では怨みを続ける、と読む。いずれにも理があるが、郝懿行・王先謙の解釈がリアリティがあるので、これを取る。
(注5)宋本「承强(彊)大之敝也、知强(彊)大之敝」。増注、集解は「也知强(彊)大之敝」の六文字は衍文であると言い、漢文大系は従っている。だが削らなくても通じるので、戻す。
(注6)集解の王引之は「强大」は「强道」であるべしと言う。
(注7)「慮」を集解の王念孫は大抵、すべての意と言う。

ここから、「強者」「覇者」「王者」の分析に入る。今回から次に読む回は、『荀子』国際政治学のハイライトである。

まず、衛の君主、子産、管仲の三者を挙げて、これらは完全な存在ではないと斥ける。孟子もまた管仲に低評価を与えるのであるが、私は荀子・孟子両先生のこの大政治家への評価はずいぶんとひどい、と批判的意見を持つ者である。儒家の開祖の孔子は、注に書いておいたように管仲を高く評価しているのである。孟子も荀子も王者を待ち望み王者の政治だけが平和の最終的解決法であると主張するために、儒家の王者の理想に当てはまらない管仲をこきおろすのである。管仲に関しては、儒家の祖国である魯の敵国の政治家であるから低評価した、というやっかみが相当に入っているように私には見える。

とはいえ、荀子は孟子とは違って、覇者が強者に勝つ理由、王者が覇者に勝つ理由を詳細に分析してみせる。荀子は覇者の政治を批判するために分析したのであるが、結果として読む者に覇者の優位性を納得させる書き方になってしまっている。それはもとより荀子の言いたいこととは違うのであるが、現代に荀子を読む私の目から見れば彼の王者はもはや時代遅れの統一帝国の姿であり、むしろかえって覇者のほうが魅力ある存在と写る。とはいえ荀子のテーマであった地上の平和をもたらす体制を考える、という意志はゆるがせにできないのであって、我々は荀子とは違った現代的な構想を考えてみなければならない。

荀子の描く覇者は、おそらくは管仲の取った外交政策を想定して叙述したと思われる。次回で見るように、管仲の外交はへゲモニー国家の手本というべき見事な手腕である。先行して言うならば、それは(1)贈与によって相手国の心を縛る贈与戦略、(2)国際秩序維持のために軍事作戦を行う安全保障戦略、(3)自国を含む多国を拘束する法的インフラを提唱する国際制度戦略、である。管仲はこれらを追求することによって、斉国の持てる国力を国際的評価に転化することに成功したのであった。自らは譲り、世界のための制度を作ることが結果的に自国の評価を高めて覇者に導くことを、管仲は分かっていた。

荀子はその前に、「強者」について分析する。そこで偽りの強者と真の強者を区別する。偽りの強者は滅び、真の強者は国を保つ。

偽りの強者は、ただの侵略国である。こんな悪手を使って勢力拡張を目指す国がもしいたとしたら、その国は少なくとも覇者=ヘゲモニー国家となる気概は持っていない証拠である。ところがヘゲモニー国家が不在の世界においては、このような手段を用いる国を抑止する手段がない。なので一時的に勝利してしまう可能性がある。それは、不幸な時代である。荀子に付け加えるならば、こういった偽りの強者は、あからさまに領地が欲しいと称して侵略を行うような愚劣は普通しない。むしろ主観的には自分たちは諸国に愛されていて、解放者であると思い込んで侵略する。あるいは自国を守るためのやむをえない戦争だ、と思い込んで侵略する。しかし侵略者であるか解放者であるかを判断するのは、強者の側ではなく強者に相対する各国である。ただの偽りの強者と国際的に認められる覇者とを分けるのは、相手に信用と経済的利益を与えることができるか否かなのである。それらは複数の国家の間で、間主観的に作られる。荀子は偽りの強者は国内が疲弊してやがて滅びるだろう、と元気付ける叙述をしてくれるが、現代では実際にはそう簡単にはいかないだろう。現代の国家は、ナショナリズムという国民を効果的に拘束する武器を使うからである。

それとは違って荀子の言う真の強者は、一国の独立を保持する道である。王者も覇者もいない世界においては、この道が最強であると言う。これもまた、理にかなった分析である。しかし強者は世界に覇者が現れたならば、また覇者は世界に王者が現れたならば、それに従わざるを得ない。王者は置いておいて、覇者に真の強者が従わざるをえない理由は、なぜであろうか?ここで、荀子は武力ではない拘束力が覇者にはあると見るからである。

王制篇第九(3)

かの覇者は、そうではない。覇者は田野を開き、国庫を満たし、武器を改良し、兵員の徴募を慎重に行い、それから褒賞を与えて督励し、刑罰を厳にして粛正し、滅んだ国を建て直し(注1)、絶えた家を継続させ、弱国を守って暴国を禁圧し、しかも領地併合の心はない。こうなれば、諸国は親しむであろう。友邦と敵国の交際の道(注2)を尽くし、諸国に尊敬して接すれば、諸国は喜ぶであろう。覇者が親しまれるのは、これが併合しないからである。併合の野心が露呈したならば、諸国はこれを疎んじるであろう。覇者が喜ばれるのは、これが友邦と敵国の交際の道を取るからである。家臣とする野心が露呈したならば、諸国はこれから離れるであろう。ゆえに、不併合を行為で明らかにし、友邦と敵国の交際の道で信用を保つならば、天下に王者がいないときは常勝となるであろう。これが覇道を知る者である。閔王(湣王)(注3)は五カ国連合軍に破れ、桓公は魯の荘公に脅迫された(注4)。その理由は他でもない、王者の道をたどらずに王者のようにふるまったからである。

かの王者は、そうではない。王者はその仁が天下に高らかであり、義が天下に高らかであり、威が天下に高らかである。仁が天下に高らかであるために、天下で親しまない者はいない。義が天下に高らかであるために、天下で尊ばない者はいない。威が天下に高らかであるために、天下であえて敵対する者はいない。敵無しの威をもって、人を心服させる王道の道を助ける。ゆえに戦わずして勝ち、攻めずして領地を得て、武器を使わずして天下が帰服するのである。これが王道を知る者である。仁・義・威の三つを備えた者は、王者になろうと思えばなれるし、覇者になろうと思えばなれるし、強者になろうと思えばなれるのである。


(注1)増注は、斉の桓公が衛公を封じたことであると言う。すなわち、狄(てき)人が衛懿公を殺して、衛国は内乱となった。桓公は狄人を討って楚丘に城を築き、衛文公を即位させた。
(注2)原文「友敵之道」増注の冢田虎に沿って訳す。
(注3)閔王は『史記』では湣王。戦国時代、斉国の王。東帝を名乗って勢威を示したが、燕国の昭王と楽毅(がくき)が仕掛けた対斉連合軍に侵攻されて逃亡、楚国によって殺された。その後斉国は田単によって復興したが、以降斉国の力は衰えた。湣王は『史記』で先代とされている宣王と同一人物であるという重要な説がある。こちらを参照。
(注4)斉桓公の五年、斉国は魯国を討って勝ち、魯の荘公は和を請うて桓公と柯(か)で会盟した。魯公が誓おうとしたとき曹沫(そうばつ)が壇上の桓公を匕首(あいくち)で脅して魯から奪った土地を返すように要求した。桓公は、このときこれを認めた。後で後悔して曹沫を殺し土地を返さないことを望んだが、管仲はこれを諌めた。「脅されたからといって認めたものを、信義にそむいて殺すのは、一時の快をむさぼるだけのこと。諸侯への信義を捨てて、天下からの支援を失うのはいけません。」桓公は思いとどまって土地を魯国に返し、諸侯は斉を信じるようになったという。
《原文・読み下し》
彼の霸者は然らず。田野を辟(ひら)き、倉廩を實(み)たし、備用(注5)を便にし、案(すなわ)ち募選を謹み材伎(さいぎ)の士を閱(えら)び、然る後に慶賞に漸(ひた)して以て之を先にし、刑罰を嚴にして以て之を糾(ただ)し、亡を存し絕(ぜつ)を繼ぎ、弱を衛(まも)り暴を禁じて、兼并(けんぺい)の心無くんば、則ち諸侯之を親しむ。友敵の道を脩め、敬を以て諸侯に接すれば、則ち諸侯之を說(よろこ)ぶ。之に親しむ所以の者は、并(へい)せざるを以てなり。之を并すること見(あら)わるれば、則ち諸侯之を(注6)疏(うと)んず。之を說ぶ所以の者は、友敵を以てなり。之を臣とすること見るれば、則ち諸侯離る。故に其の不并(ふへい)の行を明らかにし、其の友敵の道を信にすれば、天下王[霸]主(注7)無ければ則ち常に勝つ。是れ霸道を知る者なり。閔王(びんおう)は五國に毀(こぼ)たれ、桓公は魯莊に劫(おびやか)さるは、它(た)の故無し、其の道に非ずして之を慮(おもんぱか)るに王を以てすればなり。
彼の王者は然らず。仁天下に眇(びょう)たり、義天下に眇たり、威天下に眇たり。仁天下に眇たり、故に天下親しまざる莫きなり。義天下に眇たり、故に天下貴ばざる莫きなり。威天下に眇たり、故に天下敢えて敵する莫きなり。不敵の威を以て、服人の道を輔く。故に戰わずして勝ち、攻めずして得、甲兵勞せずして天下服す。是れ王道を知る者なり。此の三具を知る者は、王を欲して王たり、霸を欲して霸たり、强を欲して强たり。


(注5)増注は「武備の器用」と言い、集解の王念孫は「器用」、王先謙は「械用」と言う。農具を含めた機械用品と取ってもよいし、武器と取ってもよい。
(注6)集解は元刻に従い「之」字を削るが、削る必要はないと考えるので戻す。
(注7)増注は荻生徂徠を引いて「覇」字を衍字と言う。集解の王念孫も同じ。

ここから、「覇者」の叙述に移る。覇者の具体例としては、春秋時代に最初の覇者となった斉の桓公がもっとも分かりやすい。管仲が宰相として終生輔佐した君主である。桓公は奢りやすくまた人臣を選ぶ目がない人であり、それほど資質優良だったわけではない。桓公が覇者であり続けることができたのは、もっぱら管仲のおかげである。増注の久保愛もまた、ここでの荀子の叙述は桓公のことを指していると指摘している。というわけで、以下の整理は桓公の政策=管仲の政策である。

1 贈与によって相手国の心を縛る贈与戦略

諸侯が桓公の下に付き従うようになった事件が、二回あった。

一つは上の注で書いた、魯の荘公に戦争で得た土地を返還した事件である。
二つは、燕国に土地を割譲した事件である。北辺に位置する燕国に、蛮族である山戎(さんじゅう)が侵入した。燕の荘公は、斉に救援を求めた。桓公は燕のために、山戎を討った。荘公は桓公を見送って、斉の領域に入ってしまった。桓公は「諸侯が互いに見送るときには国境を越えないのが礼である。しかるに燕公は国境を越えて見送ってくれた。これに返礼しなければならない。」こうして、荘公が見送った地点に溝を掘ってそこを斉と燕の国境線とした。

これらのことが、どうして諸侯の間に桓公への信頼を与えたのであろうか。それは軍事力を見せ付けた桓公が土地を得ることをせず、それどころか燕に対してはかえって土地を割譲してあげた、という前代未聞の度量の広さに、圧倒的な信頼感を植え付けられたからであろう。経済人類学の用語で、互酬(reciprocity)というものがある。ある人が別の人に財宝を贈与すると、贈与された人はお返しをしなければ申し訳ない、という負債の心理が起こる。その心理が支配―被支配の人間関係を形作る。贈与された人は、負債の心理のために何らかのアクションを起こさずにはいられない。あるいは、負債を払うために倍返しで贈与し返す。あるいは、別の第三者に贈与して、贈与の輪を広げる。またあるいは、贈与した者に対して心中で負けを認めて服従するのである。

この互酬の原理を用いて暴力によらずに相手の心を取る戦略は、古今東西結構よく取られる手段である。豊臣秀吉が徳川家康を臣従させたときには、天下人の秀吉は実母を人質に差し出すという圧倒的な贈与を行うことによって、家康を屈服させたのであった。第二次大戦後にアメリカがマーシャル・プランを実行して疲弊するヨーロッパを救ったのも、贈与によって西側陣営を結束させるための、アメリカの高度な戦略のうちであった。斉の桓公は、強者が諸国から信頼を得て覇者=ヘゲモニー国家となるために、贈与戦略を用いたのであった。それは、力ある者が選択できる、戦わずして優位に立つ人心掌握術であった。さらに付け加えるならば、かつての中華帝国が周辺諸国と展開したいわゆる朝貢貿易もまた、その本質は贈与戦略であった。周辺諸国は、中国から魅力的な産物を沢山もらえるために、朝貢貿易を懇願したのであった。かつての中国は絹織物、茶、書籍、磁器、銅銭など、当時の周辺諸国が重宝する価値ある物資を供給することができた。これと形式的な中華皇帝への服属とをトレードするのが、朝貢貿易というものであった。

2 国際秩序維持のために軍事作戦を行う安全保障戦略

桓公・管仲のコンビが国際的正義として掲げたのは、「尊王攘夷」である。幕末の「尊皇攘夷」のスローガンの卸し元が中国春秋時代の桓公・管仲であったことは、今の日本人によってたいてい忘却されている。

王とは、周王朝のことを指す。春秋時代、周王朝は諸侯への統制力を失い、諸侯国はめいめいに自国の政策を追求して、結果紛争が頻発するようになっていた。
加えて中華文明が周辺の諸族に刺激を与えてそれぞれの国家形成に向かわせ、中華世界の諸侯国との軍事衝突も起こるようになった。中でも強大化したのは、長江流域を支配する楚国であった。楚国は自ら蛮夷の王を称して隣接する中華の諸侯国に侵略を行い、中華世界を挑発するようになった。

桓公と管仲は、以下の外征を実施した。

  • さきほど述べた通り、山戎が燕国に侵入したのでこれを討った。燕公には、周王への貢物を復活させた。
  • 狄(てき)人が衛の懿公を殺して、衛は内乱となった。桓公は狄人を討って楚丘に城を築き、衛文公を即位させた。(注1参照)
  • 桓公夫人の蔡姫は、蔡国の公の妹であった。蔡姫が夫の桓公を怒らせる非礼を行い、桓公は夫人を蔡国に帰したが、離縁はしなかった。蔡公は、蔡姫を他国に嫁がせてしまった。ここで桓公は諸侯の軍を率いて蔡を討ち、これを壊滅させた。このとき更に兵を進ませて、楚を討った。楚王は侵攻の理由を問いただしたところ、管仲は楚王から周王への貢物が届いていないので問責に来た、と返答し、楚王は貢物を約束せざるをえなかった。

これらの外征は、斉国の領土拡張のためではなくて、中華世界の諸侯国を支援して侵入する周辺諸族を撃退することが目的であった。国際正義として掲げたのが、周王を尊重して従来の中華世界の秩序を守ることであった。最後の蔡国への多国籍軍の展開はとりあえず蔡公の桓公への非礼への報復であったと解釈できるが、進んで楚国を討ったのはこの出兵が最初から楚国を問責することがプログラムに入っていたのであろう。管仲は楚王に対して貢物という象徴的なテーマを出して、楚国は中華世界のルールを守るのか否か、と問責したのであった。このように斉国は覇者=ヘゲモニー国家として、国際秩序維持のための軍事作戦を遂行したのであった。

次に述べる葵丘(ききゅう)の会盟において、周王は桓公に対等の礼を許そうとした。桓公はこの頃成功に奢ってこれを受けようとしたが、管仲は強くこれを押し留めた。覇者の信用力が尊王攘夷という国際正義に依拠していることを、管仲は忘れはしなかったのである。ここで桓公が周王と対等である、すなわち他の諸侯よりも格上であるということを宣言したならば、その時点で斉国への信認は崩れ去ってしまうだろう。どんなに強力であっても、覇者はあくまでも諸国と対等の盟友関係でなければいけないのである。この管仲の見識を実行して、自国の力に奢ることのない謙虚なヘゲモニー国家は、じつはあまりない。

3 自国を含む多国を拘束する法的インフラを提唱する国際制度戦略

桓公の三十五年、斉は諸侯を葵丘に集めて会盟した。
その会盟国が守るべき内容は、五箇条であった。以下、『孟子』告子章句下に沿って列挙する。

  1. 不孝者は誅罰すべし。後継ぎは変えるべからず。妾を妻と取り替えるべからず。
  2. 賢を尊び才を育てて、有徳の者を顕彰すべし。
  3. 老を敬い幼をいつくしみ、外から来た賓客・旅行者の扱いをゆめゆめ怠るべからず。
  4. 士は官職を世襲させるべからず。官職は兼任させるべからず。士を取り立てる際には必ず人物を優先させよ。みだりに大夫を誅殺するべからず。
  5. (他国を水攻めにするために)河川の堤防を曲げるべからず。(他国を飢餓に陥れるために)穀物の売買を妨害するべからず。諸侯が自らの臣に土地を封与する際には、盟主に必ず報告せよ。

1、2、3および4は、諸侯国の国内モラルの引き締めである。これらが正論であって斉のためだけに有利な条項ではないことは、明らかであろう。
また3は国際外交のインフラを維持することも諸侯国の責務とするもので、安定した国際秩序のためには不可欠の保護策である。
5は、自国の利益しか考えずに天下万民のためにならない軍事作戦の禁止である。現代では軍事作戦のみならず、資源維持や環境保護の目的についても国際的な取り決めを必要とする。

斉国がイニシアティブを取った葵丘の会盟は、上のように自国を含む多国を拘束する法的インフラの提唱であった。斉国だけの利益を追求したものではない正論であるので、諸侯国は覇者の権威の下でこれを誓うより他はなかった。

以上が、管仲の取った覇者=ヘゲモニー国家の戦略である。前回出た偽りの強者と覇者を分ける点は、強者は己の力に頼って他国をねじふせようと望むのに対して、覇者は贈与によって相手国の心を取り、国際正義を掲げることによって自国だけの利益ではない集団的利益の追求に目標を置いたところにある。この覇者の心を取る拘束力が、独立自尊を重んじる真の強者といえども、国際的秩序に参加する選択肢を選ばなければならなくさせるのである。もとよりそれは、真の強者にとってもメリットあることだからである。

しかしながら、斉国が覇者であり続けることはできなかった。政治的天才であった管仲が死去した後、桓公は覇者の座を維持することが出来なかった。このとき宋国の襄公は、自らも覇者として世界に正義をもたらそうと望んだ。こうして、襄公は諸侯を集めて会盟を企画した。しかし楚国は、小国の襄公が呼びつけたことに怒った。そこで宋に侵攻して襄公を捕らえた上で釈放し、これを辱めたのであった。中小国の宋国では、力で楚国を圧するだけの国力がなかったのである。あるいは、襄公は覇者となるためには贈与の裏づけが必要である、という管仲の戦略を十分に理解していなかったのである。「力を持って仁を仮(か)る者は覇なり」と孟子は言う。覇者=ヘゲモニー国家は、国に他国に抜きん出た力がないと、国際正義に実効力を持たせることができない。だから孟子も荀子もこれが最終的解決ではありえない、と否定する。否定するのであるが、、、


覇者を述べ終わった後、荀子はそれよりも上の「王者」を述べる。だが、何という内容の乏しい王者であろうか。このようなお題目を掲げれば戦わずして世界を統一し、諸国を臣として世界統一政府が成立するであろう、などと国際政治学のレポートで書いたならば、間違いなく不可を食らうであろう。荀子には、正義が自明の理として見えていたから、こんなにも王者の説明が簡単なのである。ではその自明の理である王者の政治とは、ここから後に続くさっぱり魅力のない法治官僚国家なのである。現代に荀子を読む者は、ここでがっかりしてしまう。

荀子は、もう統一中華帝国しか正解がない、という当時の結論が見えていたから、このようなことが書けたのであろう。しかし現代の世界政治の最終結論が、統一世界帝国のはずがない。古代の中華世界は非常に長い期間諸国が対立して戦争を続け、大国が小国を併合し、異文化の諸国まで中華世界に参入して結果として中華世界の文化が平均値に収斂し、その果てに荀子の時代には統一中華帝国が現実味を帯びていたのであった。現在の世界には、そのような文化の平均化はまだない。ならば現在の世界においては、覇者=ヘゲモニー国家による支配がせいぜい次善の策であり、覇者が不在の時代においては、各国ともに真の強者を目指して侵略を否定してなおかつ国の独立を保持するぐらいしか策がない、ということになるであろう。現代の文脈では、「王者」はありえないのであろうか。

(カントは)人間の本性(自然)には「反社会的社会性」があり、それをとりのぞくことはできないと考えていた。、、、カントが永遠平和のための国家連合を構想したのは、そのような国家の本性を消すことができないという前提に立ってです。しかも、彼は、国家連合が人間の理性や道徳性によって実現されるとはまったく考えなかったのです。それをもたらすものは、人間の「反社会的社会性」、いいかえれば、戦争だと、カントは考えたのです。

その結果が第一次大戦です。しかし、それがカントの平和論を甦らせた。、、、(国際連盟は)世界対戦を通じて、つまり「自然の巧知」によって達成されたのです。

彼(引用者注:カント)の理念は究極的に、各国が主権を放棄することによって形成される世界共和国にあります。それ以外に、国家間の自然状態(敵対状態)が解消されることはありえないし、したがって、それ以外に国家が揚棄されることはありえません。

(以上、柄谷行人『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を越えて』岩波新書、220-222ページより)

柄谷氏は、カントの世界共和国への期待をこのように言う。確かに荀子の「王者」の可能性を現代で考えるとするならば、「戦争を抑止し、持続しながらたえず拡大する連合」(カント『永遠平和のために』より)によるどこの国にも偏らない正義の力による支配、が最もありえる姿であろう。しかし、「王者」の理想を実現するために成立した国際連合は、柄谷氏もまた認めるように、現在国際紛争解決のための公共の場としての力が大きく疑われている。そこからアメリカの保守的論客たちはカント的な国際連合を嘲笑し、むしろヘーゲル的に覇権国が力で自己の理念を実現することを正統とするのである。つまりここでの稿の言葉に沿えば、「王者」を嘲笑して「覇者」だけが正解であると言うのである。その言い方にはこれまで述べたように相応の理があるので、なかなかに抗いがたい。

荀子の構想する統一中華帝国は、非常に長い期間諸国が血で血を洗う戦争を繰り返した先に見えてきた。秦国の絶対優位を確定させた長平の戦では、敗れた趙軍の兵が40万人殺された、と『史記』には記録されている。戦国時代の記録を見るとほとんど日常的に戦争を繰り返して多数の兵が死んでいたのであり、この惨状から抜け出すために荀子は王者による統一帝国を期待して、しかもそれは荀子の時代からあとわずかの後に実現したのであった。国際連合、あるいはなんらかの新しい中立的な国際機関が国際紛争解決のための公共の場として再び力を取り戻すには、柄谷氏がカントに言及して予見するように、恐ろしい世界戦争をもう一度経なければならないのであろうか。

王制篇はここから後、王者の経綸(けいりん)が延々と述べられる。だが、正直言って私には何の興味も沸かない。すでにそれは中華帝国として歴史上実現したのであり、荀子は法治官僚国家の理想を述べているだけである。そしてそれは、もはや来るべき理想ではない。今さら専制国家に憧れる理由は、何一つないのである。