議兵篇第十五(6)

By | 2015年4月23日
およそ人を動かすとき、褒賞のために動くならば、傷つけられる危険を見たらひるんで動かなくなるであろう。ゆえに褒賞、刑罰、集団の勢いを使った策謀では、人の力を尽くさせて人を死地に赴かせるには足りない。人の主君たる者で下の人民に接する者が礼義も忠信もなく、すべて褒賞とか刑罰とか集団の勢いとかを使って人民を締め付けて効果を得ようするだけであれば、大敵がやってきたときには危険な城を守る者は必ず命令に違反し、敵に遭遇して戦場に当たらせたならば必ず敵前逃亡し、苦しくて難しい仕事をさせたならば必ず逃亡するであろう。上と下の心は離れてしまい、下の者がかえって上の者を襲うことになるであろう。ゆえに、褒賞とか刑罰とか集団の勢いとかの道は、傭兵の道で商売人の道に他ならず、これによって大衆を一つにして国家を美にするには足りない。ゆえに、いにしえの人はこれを恥じて言わなかったのであり、むしろ礼義を明らかにして大衆を導き、忠信を極めて大衆を愛し、賢を貴んで有能者を登用して大衆に身分の序列を与え、それから爵位と身分に応じた服装と褒賞を用いて大衆に施し、時宜に応じた仕事を行わせ、大衆の労務を軽くして、もってこれを赤子を育てるように整頓して育成したのであった。政令がすでに定まり、風俗がすでに斉一されたときに、まだ良俗から離れて上に従わない者がいたならば、人民はこれを嫌悪しない者はおらず、害毒と思わない者はおらず、よって疫病神を払うように忌み嫌った。ここにおいて、はじめて刑罰が起こるのである。このような者にこそお上の極刑が下るのであって、これほどの恥辱があるだろうか。極刑が待っているのに、良俗から離れて上に従わないことをして、いったい利があるだろうか。救いようのない狂人か変人でなければ、死の恐怖を見て改悛しない者があるだろうか。こうした後に人民はみな上の法を守り、上の意志に合わせ、その下で安楽するべきことをはっきりと悟るのである。ここにおいて上の者がよく善に化して、身を修めて行いを正しくし、礼義を積み、道徳を貴ぶならば、人民が貴び敬わないことはなく、親しみ称えないことはないのである。ここにおいて、はじめて褒賞が起こるのである。高い爵位と豊かな禄が与えられれば、これほど大きな光栄があるだろうか。これを害と思う者が、いったいありえるだろうか。人間たる者が、高い爵位と豊かな禄で養われることを願わないはずがない。輝かしい高貴な爵位と手厚い褒賞を前に掲げ、明らかな刑法と死刑による屈辱を後ろに置く。これならば教化されるまいと思っても、どうして教化されずにいられようか。ゆえに人民がこの君主に帰することは流れる水のごとくであり、この君主がいるところはよく治まって(注1)、この君主が治める人民はよく教化される。したがって、暴力的で凶悪な者ですら、この君主に教化されて誠実となり、自分勝手でルールをねじまげる者ですら、この君主に教化されて公共心を持ち、社会に適応しないひとりよがりな者ですら、この君主に教化されて社会と調和するのである。これが大化至一と呼ばれ、すなわち大いなる教化による斉一の極地である。『詩経』に、この言葉がある。:

みかどの猶(はかりごと)、まことに塞(み)てり
徐(えびす)ですらも、既(つい)に来たれり
(大雅、常武より)

この言葉のように、教化されるのである。

およそ人をまとめるためには、三つの術がある。徳をもって人をまとめる者、力をもって人をまとめる者、富をもって人をまとめる者である。人が我が名声を貴び、我が徳行を美とし、我が民となりたいと願い、ゆえに城門を開いて道を掃き清め、我が入ることを出迎える。城内の人民には、従来通りの生活を続けることを許す。こうすることによって人民はみな安心し、ここで法を立てて命令を下せば、従わない者はいないであろう。このゆえに土地を加えれば加えるほど権威はますます重くなり、人民を加えて兵はますます強くなるだろう。これが、徳によって人をまとめる者である。
我が名声を貴ばせる道を取らず、我が徳行を美と思わせる道を取らず、単に我が威を畏れて我が勢いに恐怖している。ゆえに人民には離反の心があっても、あえて反乱を起こそうとしないだけである。このようであれば、警備の兵数はますます多くなり、軍事費がますます増えることになるであろう。このゆえに土地を加えれば加えるほど権威はますます衰え、人民を加えて兵はますます弱くなるであろう。これが、力によって人をまとめる者である。
我が名声を貴ばせる道を取らず、我が徳行を美と思わせる道を取らず、富を求める貧乏人と食を求める飢えた者たちを集めて、腹が減っているから食わせろと言って我が方にやって来る。そこで倉庫を開いて食事を与え、財貨をくれてやって富を与え、良い官吏を配備してこれに接する。これを三年続けたら、人民も信じるようになるであろう。だがこの道ではやはり土地を加えれば加えるほど権威はますます衰え、人民を加えて兵はますます弱くなるであろう。これが、富によって人をまとめる者である。ゆえに、「徳をもって人をまとめる者は王となり、力をもって人をまとめる者は弱くなり、富をもって人をまとめる者は貧しくなる」と言われるのであるが、このことは古今で変わらない真理なのである。
斉国は宋国を併合することに成功したが、これを固めることができなかった(注2)。ゆえに魏国に宋の土地を奪われてしまった。燕国は斉国を併合することに成功したが、これを固めることができなかった。ゆえに田単(でんたん)によって奪回されてしまった(注3)。韓国の上党(じょうとう)は数百里四方の地で、これが富をそのままにそっくり趙国に献上されたのであるが、趙国はこれを固めることがきず、ゆえに秦国によって奪われてしまった(注4)。このように、土地の併合に成功しても、これを固めることができなかったならば、必ずこれを失うこととなる。逆に土地の併合に成功した後にこれを固めることができたならば、必ずその土地は恒久的に自国領となるであろう。得た土地を固めることができれば、併合には兵による強制はいらない。いにしえの時代、殷の湯王は薄(亳、はく)の地から創業し、周の武王は滈(鎬、こう)の地から創業した。いずれも百里(40km)四方ていどの小さな土地であったが、彼らの下で天下は一となり、諸侯は彼らの家臣となった。これは他でもない、彼らが得た土地と人々を固めることに成功したからであった。ゆえに、士を固めるには礼制を使い、人民を固めるには政刑を用いるのである(注5)。礼が治まれば士は服し、政刑が公平であれば人民は安んじるのである。士が服して人民が安んじるならば、これを大凝、つまり大安定というのである。ここから守ればすなわち固く、ここから攻めればすなわち強く、法令は行われて、法令が禁じることは行われなくなるだろう。こうして王者の事業が完成するのである。


(注1)原文読み下し「存する所の者神」。「神」字の解釈は議兵篇(4)注5参照。
(注2)BC288年斉国は宋に攻め入り、BC286年に宋王を殺して国を併合した。しかし翌年のBC285年に、燕国の楽毅が率いる対斉連合軍に攻撃された。斉王は死に、宋国の故地は結局楚・斉・魏の三国の分け取りとなった。
(注3)注2の続き。楽毅は斉国の大部分を占領したが、斉将の田単が即墨の城で辛うじて持ちこたえた。このとき燕国では楽毅を支持していた昭王が死んで、次の恵王は田単が仕組んだ流言に惑わされて楽毅を解任した。BC280年、田単は即墨の戦で燕軍に逆襲し、進んで占領地を全て回復して、新たに襄王を立てて斉を復興した。
(注4)長平の戦。議兵篇(1)のコメント参照。荀子はこの三つの事例を占領地を固めることができなかった例として挙げているが、最初の例では斉国は占領国が占領地を固める時間を得る前に他国に攻撃されている。長平の戦では、『史記』趙世家によると、上党の吏民はむしろ秦よりも趙への帰属を望んでいるという上党の太守の上奏によって、趙はここを占領した。しかし秦国はこのときすでに上党の地を秦の支配下に組み込む措置を取り始めていて、結果両軍の衝突に発展した。趙軍は敗れて上党の地を秦軍に奪われたが、それは力の結果であって、上党の人民の支持がどちらにあったのかは一概に評価できそうにない。荀子は戦争の結果だけを見て、事例として選んでいる。しかしこれらが荀子の言いたいことの事例として適切であるかどうか、疑う。
(注5)富国篇(2)注2参照。
《原文・読み下し》
凡そ人の動くや、賞慶の爲めに之を爲せば、則ち害傷を見て止む。故に賞慶・刑罰・埶詐(せいさ)は、以て人の力を盡し、人の死を致すに足らず。人の主上爲る者や、其の下の百姓に接する所以の者、禮義・忠信無く、焉慮(おおよそ)賞慶・刑罰・埶詐を率用(そつよう)し、其の下を除阨(けんやく)(注6)して、其の功用を獲るのみならば、大寇則(もし)(注7)至るに、之をして危城を持たせしむれば則ち必ず畔(そむ)き、敵に遇い戰に處(お)らしむれば則ち必ず北(に)ぐ。勞苦煩辱すれば、則ち必ず犇(はし)る。霍焉(かくえん)として離れんのみ。下反(かえ)って其の上を制す。故に賞慶・刑罰・埶詐の道爲るや、傭徒・粥賣(いくばい)の道なり。以て大衆を合し、國家を美にするに足らず。故に古の人羞(は)じて道(い)わざるなり。故に德音を厚くして以て之に先んじ、禮義を明にして以て之を道(みちび)き、忠信を致して以て之を愛し、賢を尚び能を使いて以て之を次(じ)し、爵服慶賞以て之を申(かさ)ね(注8)、其の事を時にし、其の任を輕くし、以て之を調齊し、之を長養し、赤子を保つが如くす。政令以(すで)に(注9)定まり、風俗以(すで)に一に、俗を離れて其の上に順(したが)わざる有らば、則ち百姓敦惡(たいお)(注10)せざること莫く、毒孽(どくげつ)とせざること莫く、不祥を祓(はら)うが若し。然る後に刑是に於て起る。是れ大刑の加わる所なり、辱(はじ)孰(いずれ)か焉(これ)より大ならん。將に以て利を爲さんとするか、則ち大刑焉に加わる。身苟(いやし)くも狂惑・戇陋(とうろう)ならずんば、誰か是を睹(み)て改めざらんや。然る後に百姓曉然(ぎょうぜん)として皆上の法に循い、上の志に像(なら)いて、之に安樂するを知る。是に於て能く善に化し、身を脩め、行(おこない)を正しくし、禮義を積み、道德を尊ぶもの有らば、百姓貴敬せざること莫く、親譽(しんよ)せざること莫し。然る後に賞是に於て起る。是れ高爵・豐祿の加わる所なり、榮孰(いずれ)か焉より大ならん。將に以て害と爲さんとするか、則ち高爵・豐祿以て之を持養す。生民の屬(ぞく)、孰か願わざらんや。雕雕焉(ちょうちょうえん)として貴爵・重賞を其の前に縣け、明刑・大辱を其の後に縣く。化すること無からんと欲すと雖も、能くせんや。故に民之に歸すこと流水の如く、存する所の者神(しん)に、爲す所の者化す。順(したが)いて(注11)、暴悍(ぼうかん)勇力の屬、之が爲めに化して愿(げん)、旁辟(ぼうへき)曲私の屬、之が爲めに化して公、矜糾(きょうきゅう)收繚(しゅうりょう)の屬、之が爲に化して調、夫れ是を之れ大化至一と謂う。詩に曰く、王猶(おういう)允(まこと)に塞(み)つれば、徐方既(ことごと)く來る、とは、此を之れ謂うなり。
凡そ人を兼ぬるに三術有り。德を以て人を兼ぬる者有り、力を以て人を兼ぬる者有り、富を以て人を兼ぬる者有り。彼れ我が名聲を貴び、吾が德行を美とし、我が民爲らんと欲す、故に門を辟(ひら)き涂(みち)を除して、以て吾が入るを迎う。其の民に因りて、其の處(ところ)に襲(よ)りて、百姓皆安んず。法を立て令を施せば、順比せざること莫し。是の故に地を得て權彌(いよいよ)重く、人を兼ねて兵兪(いよいよ)强し。是れ德を以て人を兼ぬる者なり。我が名聲を貴ぶに非ず、我が德行を美とするに非ず、彼れ我が威を畏れ、我が埶(せい)に劫(おびやか)さる、故に民離心有りと雖も、敢て畔慮(はんりょ)有らず、是(かく)の若くなれば則ち戎甲兪(いよいよ)衆(おお)く、奉養必ず費なり。是の故に地を得て權彌(いよいよ)輕く、人を兼ねて兵兪(いよいよ)弱し。是れ力を以て人を兼ぬる者なり。我が名聲を貴ぶに非ず、我が德行を美とするに非ず、貧を用(も)って富を求め、飢を用って飽を求め、腹を虛(むな)しくして口を張り、來りて我が食に歸す。是の若くなれば、則ち必ず夫(か)の掌窌(りんぽう)(注12)の粟を發(ひら)きて以て之に食わし、之に財貨を委(まか)して以て之を富まし、良有司(りょうゆうし)を立てて以て之に接し、已に三年を朞(きわ)めて、然る後に民信ず可きなり。是の故に地を得て權彌(いよいよ)輕く、人を兼ねて國兪(いよいよ)貧し。是れ富を以て人を兼ぬる者なり。故に曰く、德を以て人を兼ぬる者は王たり、力を以て人を兼ぬる者は弱く、富を以て人を兼ぬる者は貧しとは、古今一なり。兼并(けんぺい)は能くし易し、唯だ堅凝を之れ難しとす、齊能く宋を并(あわ)せて、凝すること能わず、故に魏之を奪う。燕能く齊を并せて、凝すること能わず、故に田單之を奪う。韓の上地は、方數百里にして、完全富足して趙に趨くも、趙凝すること能わず、故に秦之を奪う。故に能く之を并せて、凝すること能わざれば、則ち必ず奪わる。之を并すること能わずして、又其の有を凝すること能わざれば、則ち必ず亡ぶ。能く之を凝せば、則ち必ず能く之を并す。之を得て則ち凝すれば、兼并强(し)うること無し(注13)。古(いにしえ)は湯薄(はく)を以てし、,武王滈(こう)を以てす。皆百里の地なるも、天下一と爲り、諸侯臣と爲る。它(た)の故無し、能く之を凝すればなり。故に士を凝するに禮を以てし、民を凝するに政を以てす、禮脩まりて士服し、政平らかにして民安んず。士服し民安んじ、夫れ是を之れ大凝と謂う。以て守れば則ち固く、以て征すれば則ち强く、令行われ禁止(や)み、王者の事畢(おわ)る。


(注6)集解の王念孫は「除」は「險」の誤りと言う。
(注7)集解の王念孫は「則」は「若」である、と言う。
(注8)増注は「申」は「重」であると言う。
(注9)増注は「以」は「已」と通ずと言う。
(注10)荻生徂徠は「敦」が「憝」に通じると言う。「にくむ」。
(注11)『集解』の王引之は、「掌」は「稟」であるべしと言う。稟は地上の倉庫、窌は地面を掘った貯蔵庫。
(注12)原文「而順」。『集解』にて、ここは上に脱字があるはずと盧文弨は言うが、同じ集解の兪樾の説に従って「而順」を「從而」の意とみなす。
(注13)『新釈漢文大系』の藤井専英氏は楊注の意を取って「并」を「兵」に替えて「兼兵强(し)うること無し」と読む。『漢文大系』は増注の冢田虎説を取って「强(彊)」を「疆」の意と取って「兼并疆(かぎり)無し」と読んでいる。藤井専英氏に従う。

ここで長平の戦の結末が書かれているので、この箇所の最終的な浄書は明確に趙が秦に敗れたBC260年より後のものである。最初に私は趙王と臨武君との討論は長平の戦の前のことではないか、と推測したが、この議兵篇は王の前の討論、弟子との問答、結論の三つをつなげたものであり、いくつかの離れた期間に書かれた兵関係のテキストをまとめ上げたものではないだろうか。

性悪説に立って人間は欲望的存在であることを規定する荀子が、兵を議論するときにはいつのまにか自らの前提を捨ててしまう。指導者である君子が戦う理由であるならば、己の地位と名誉を守るために戦う、と言って性悪説と結合させることも可能であろう。しかし戦って死んでも誰も称えてくれない一般の兵卒が、なんで君主のために喜んで死ぬのか、さっぱり荀子の説明では理解がゆかない。荀子がここで強い兵・強い国をもたらすという礼の正道と、秦国の変詐の道と、どれだけの差があるだろうか。荀子は正しく刑を行い、正しく褒賞すれば人民は喜んで君主のために死ぬであろう、と言うのである。これはいわば、恐ろしい軍国主義国家よりも人に優しい福祉国家のほうが人民は喜んで命を投げ出すだろう、と言っているのに等しい。これは、正しいであろうか?もし正しいと思うのであれば、それは国家の論理に毒されている、と私は思う。

私が思うに、上下が一体となって戦う共同体は、少なくとも荀子が描く法治官僚国家そのものからは生まれてこないだろう。人に優しい国家はもちろん勧めるべき価値であるが、人が共同体のために命を賭け力を尽くそうと思う連帯心は、それとは別のところから生まれるものであるはずだ。

もし共同体の人間どうしの間で豊かな互酬関係による強い連帯感があって、その上に官僚が礼法の原理をかぶせて合理的に整理すれば、合理的でしかも強い兵が生まれるであろう。礼法から連帯感が生まれるのではない。順番が、逆なのである。現代の国もそうであって、国家や官僚がシステムを操作することによって強い国を作ることができる、などとは思ってはならない。順番が、逆なのである。社会の人間どうしの間で強い連帯感があるならば、国家や官僚がその力を合理的に利用すれば、結果的に強い国が生まれるであろう。強い国を作る道は、何も戦争で勝つ強い兵を作る道だけではない。優秀な外交ができて、なおかつ祖国を辱めない知性ある人材。または外国からもリスペクトを受ける、様様な才能の持ち主。あるいはこの土地ならば自由があって定住することができると亡命者たちに思わせる、アジールとしての場所。これらはまた社会の持つ力しだいで生み出すことができる、強い国のしるしであると私は考えたい。

続いて、彊国篇に移りたい。

【次は、「彊国篇第十六」を読みます。】

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