王制篇第九(2)

By | 2015年4月12日
衛の成公と嗣公(注1)は、人民から重税を取って計略を好む君主であったが、民心を得ることはできなかった。鄭の子産(しさん)(注2)は民心を取った政治家であったが、政治を行うことはできなかった。管仲(注3)は政治を行う者であったが、礼を修めることはできなかった。ゆえに、礼を修める者は王者となり、政治を行う者は強大化し、民心を取る者は安泰となり、重税を取る者は滅ぶ。ゆえに王者は人民を富ませ、覇者は士(最低ランクの宮廷人)を富ませ、辛うじて存立する国は大夫(上級貴族)を富ませ、亡国は君主の懐を富ませて国庫を満たすのである。君主の懐と国庫が満ちて、人民は貧窮する。これを上が満ちあふれて下が枯れ果てる、というのである。こんなことでは国内の防衛もできず、外征して戦うこともできず、転覆滅亡は時間の問題である。自らせっせと税を集めた果てに滅亡し、敵国がこれを取って強さを増すのである。重税は敵の侵攻を招いて敵を有利にし、国を亡ぼして身を危うくする道である。ゆえに賢明な君主は、この道を踏まない。

他国の人心を奪う者は、諸侯を家臣とするであろう。他国の同盟国を奪う者は、諸侯を盟友とするであろう。他国の土地を奪う者は、諸侯を敵とするであろう。諸侯を家臣とする者は、王者である。諸侯を盟友とする者は、覇者である。諸侯を敵とする者は、危険である。強者(彊者)の道を用いるならば、敵国は城内にたてこもって守り、また打って出て戦おうとする。これに力で戦って勝ったとすれば、敵国の人民を傷つけることが必ず甚だしい。敵国の人民を甚だしく傷つければ、敵国の人民がこちらの国を憎むことが必ず甚だしい。敵国の人民がこちらの国を憎むことが甚だしければ、敵国の人民はわが国と日増しに戦うことを欲するであろう。逆も同じである。敵国に力で戦って勝ったとしても、自国の人民を必ず甚だしく傷つけ、自国の人民がその君主を必ず甚だしく憎むことになり、自国の人民はその君主のために戦うことを日増しにいやがるようになるであろう。敵国の人民が日増しに戦意を高め、自国の人民が日増しに戦意を失う。これが、強者がかえって弱い理由なのである。土地を奪っても領民は去り、労苦が多くて功績は少ない。防衛するべき土地が増えて、防衛するための人民は減る。これが、強者がかえってやがては力を削られていく理由なのである。諸国は表面上は交流することを続けても、水面下では怨みを続けて、相手が敵であることを忘れることはない。強国の隙を伺って、強国が疲弊したときに乗じようとするのである。強国の疲弊が見えたときが、強国の危機なのである。なので、強者の道を真に知る者は、このような武力侵略による強大化を目指さない。あえて侵略を目指さず、王道の命じる道によって国策を決め、国力を完備させて、君主の徳を固めるのである。国力が完備すれば諸国はこれを弱めることができず、君主の徳が固まれば諸国はこの国の力を削ることもできないであろう。天下に王者、覇者がいない時代であれば、これで常勝となる。これが、真の強道を知る者である。


(注1)成公(成侯)は戦国時代の衛国の君主で、嗣公(嗣君)はその孫。彼らの時代に国はますます衰弱して、嗣公の子の時代に魏国の属国となった。嗣公は『韓非子』内儲説・外儲説各篇に複数回エピソードが現れ、計略を好む知能的な君主として描かれている。
(注2)鄭国は、春秋時代にあった国。韓国に亡ぼされた。子産(?- BC522)は鄭国の宰相で、落ち目であった祖国をよく盛り立てた開明的な政治家で孔子にも君子として評価された(『論語』公冶長篇)。しかし『韓非子』難三篇では、視察中に気づいた人民の気配を察して役人に逮捕させたエピソードを取り上げて、自分一人の智恵だけで国の全てを見ることなどできない、と批判されている。また『孟子』離婁章句下では、人民を自分の乗り者に乗せて川を渡してやったエピソードを取り上げて、それよりもなぜ人民のために川に橋を架けないのか、と批判されている。戦国時代になると、子産はこのように仁愛あって政治を知らない前時代の政治家という見方が定着してしまった。これは、見当違いな批判である。
(注3)管仲(?- BC645)は春秋時代、斉国の大政治家。主君の桓公を補佐してこれを覇者に押し上げた。孔子は管仲は礼を知らないと一方で批判し(『論語』八佾篇)他方で管仲を仁者であると高く評価している(同、子路篇)。斉国は孔子の祖国である魯国の長年の敵国であり、管仲の時代に魯国は斉国に敗れてその下流に甘んじざるをえなくなった。その斉を強大化した偉大な政治家である管仲に対して、孔子は賞賛と警戒心のアンビヴァレントな感情を持っていたのであろう、と私は想像する。
《原文・読み下し》
成侯・嗣公(しこう)は、聚斂計數(しゅうれんけいすう)の君なり、未だ民を取るに及ばざるなり。子產は民を取る者なり、未だ政を爲すに及ばざるなり。管仲は政を爲す者なれど、未だ禮を脩(おさ)むるに及ばざるなり。故に禮を脩むる者は王たり、政を爲す者は强く、民を取る者は安く、聚斂する者は亡ぶ。故に王者は民を富まし、霸者は士を富まし、僅かに存するの國は大夫を富まし、亡國は筐篋(きょうきょう)を富まし、府庫を實たす。筐篋已(すで)に富み、府庫已に實ちて、百姓貧し。夫れ是を之れ上溢れて下漏ると謂う。入りては以て守る可からず、出でては以て戰う可からざれば、則ち傾覆滅亡は立ちどころにして待つ可きなり。故に我之を聚(あつ)めて以て亡び、敵之を得て以て彊し。聚斂する者は寇(こう)を召(まね)き敵を肥やし、國を亡ぼし身を危うくするの道なり。故に明君は蹈(ふ)まざるなり。
王は之が人を奪い、霸は之が與(とも)を奪い、强は之が地を奪う。之が人を奪う者は諸侯を臣とし、之が與を奪う者は諸侯を友とし、之が地を奪う者は諸侯を敵とす。諸侯を臣とする者は王たり、諸侯を友とする者は霸たり、諸侯を敵とする者は危うし。强を用いる者は、人の城を守り、人の出でて戰う、而(しこう)して我力を以て之に勝つなれば、則ち人の民を傷つくること必ず甚し。人の民を傷つくること甚しければ、則ち人の民我を惡(にく)むこと必ず甚し。人の民我を惡むこと甚しければ、則ち日に我と鬬(たたか)わんと欲す。人の城を守り、人の出でて戰う、而(しこう)して我力を以て之に勝てば、則ち吾が民を傷つくること必ず甚し。吾が民を傷つくること甚しければ、則ち吾が民の我を惡(にく)むこと必ず甚し。吾が民の我を惡むこと甚しければ、則ち日に我が爲に鬬(たたか)うことを欲せず。人の民は日に我と鬬うことを欲し、吾が民は日に我が爲に鬬うことを欲せざるは、是れ强者の反(かえ)って弱き所以なり。地來りて民去り、累多くして功少し。守る者益すと雖も、守る所以の者損す、是れ以て大者の反って削らるる所以なり。諸侯交わりを懷かざること莫きも、怨を接(つづ)けて(注4)其の敵を忘れず、强大の間を伺い、强大の敝(へい)を承くるなり。强大の敝(へい)を知るは(注5)、此れ强大(注6)の殆(あやう)き時なり。强大を知る者は强を努めざるなり、慮(おもんぱか)るに(注7)王命を以てし、其の力を全くし,其の德を凝(さだ)む。力全ければ則ち諸侯弱むること能わず、德凝まれば則ち諸侯削ること能わず、天下に王・霸の主無ければ、則ち常に勝つ。是れ强道を知る者なり。


(注4)原文「諸侯莫不懷交接怨」。解釈には多説ある。楊注の本説は「交接」を「相連結して国を怨むことを欲す」と考え、諸国が合従して強国に怨みを懐く、と取る。楊注の引く多数説、増注、および集解の王念孫は「懐」を「壊」と読み替えて「交接を壊(やぶ)りて怨み」と考え、諸国が強国との交流を絶って怨む、と読む。集解の郝懿行および王先謙は「交わりを懐かざることなきも怨みを接(つづ)く」と考え、諸国が表面上は交流することを続けても水面下では怨みを続ける、と読む。いずれにも理があるが、郝懿行・王先謙の解釈がリアリティがあるので、これを取る。
(注5)宋本「承强(彊)大之敝也、知强(彊)大之敝」。増注、集解は「也知强(彊)大之敝」の六文字は衍文であると言い、漢文大系は従っている。だが削らなくても通じるので、戻す。
(注6)集解の王引之は「强大」は「强道」であるべしと言う。
(注7)「慮」を集解の王念孫は大抵、すべての意と言う。

ここから、「強者」「覇者」「王者」の分析に入る。今回から次に読む回は、『荀子』国際政治学のハイライトである。

まず、衛の君主、子産、管仲の三者を挙げて、これらは完全な存在ではないと斥ける。孟子もまた管仲に低評価を与えるのであるが、私は荀子・孟子両先生のこの大政治家への評価はずいぶんとひどい、と批判的意見を持つ者である。儒家の開祖の孔子は、注に書いておいたように管仲を高く評価しているのである。孟子も荀子も王者を待ち望み王者の政治だけが平和の最終的解決法であると主張するために、儒家の王者の理想に当てはまらない管仲をこきおろすのである。管仲に関しては、儒家の祖国である魯の敵国の政治家であるから低評価した、というやっかみが相当に入っているように私には見える。

とはいえ、荀子は孟子とは違って、覇者が強者に勝つ理由、王者が覇者に勝つ理由を詳細に分析してみせる。荀子は覇者の政治を批判するために分析したのであるが、結果として読む者に覇者の優位性を納得させる書き方になってしまっている。それはもとより荀子の言いたいこととは違うのであるが、現代に荀子を読む私の目から見れば彼の王者はもはや時代遅れの統一帝国の姿であり、むしろかえって覇者のほうが魅力ある存在と写る。とはいえ荀子のテーマであった地上の平和をもたらす体制を考える、という意志はゆるがせにできないのであって、我々は荀子とは違った現代的な構想を考えてみなければならない。

荀子の描く覇者は、おそらくは管仲の取った外交政策を想定して叙述したと思われる。次回で見るように、管仲の外交はへゲモニー国家の手本というべき見事な手腕である。先行して言うならば、それは(1)贈与によって相手国の心を縛る贈与戦略、(2)国際秩序維持のために軍事作戦を行う安全保障戦略、(3)自国を含む多国を拘束する法的インフラを提唱する国際制度戦略、である。管仲はこれらを追求することによって、斉国の持てる国力を国際的評価に転化することに成功したのであった。自らは譲り、世界のための制度を作ることが結果的に自国の評価を高めて覇者に導くことを、管仲は分かっていた。

荀子はその前に、「強者」について分析する。そこで偽りの強者と真の強者を区別する。偽りの強者は滅び、真の強者は国を保つ。

偽りの強者は、ただの侵略国である。こんな悪手を使って勢力拡張を目指す国がもしいたとしたら、その国は少なくとも覇者=ヘゲモニー国家となる気概は持っていない証拠である。ところがヘゲモニー国家が不在の世界においては、このような手段を用いる国を抑止する手段がない。なので一時的に勝利してしまう可能性がある。それは、不幸な時代である。荀子に付け加えるならば、こういった偽りの強者は、あからさまに領地が欲しいと称して侵略を行うような愚劣は普通しない。むしろ主観的には自分たちは諸国に愛されていて、解放者であると思い込んで侵略する。あるいは自国を守るためのやむをえない戦争だ、と思い込んで侵略する。しかし侵略者であるか解放者であるかを判断するのは、強者の側ではなく強者に相対する各国である。ただの偽りの強者と国際的に認められる覇者とを分けるのは、相手に信用と経済的利益を与えることができるか否かなのである。それらは複数の国家の間で、間主観的に作られる。荀子は偽りの強者は国内が疲弊してやがて滅びるだろう、と元気付ける叙述をしてくれるが、現代では実際にはそう簡単にはいかないだろう。現代の国家は、ナショナリズムという国民を効果的に拘束する武器を使うからである。

それとは違って荀子の言う真の強者は、一国の独立を保持する道である。王者も覇者もいない世界においては、この道が最強であると言う。これもまた、理にかなった分析である。しかし強者は世界に覇者が現れたならば、また覇者は世界に王者が現れたならば、それに従わざるを得ない。王者は置いておいて、覇者に真の強者が従わざるをえない理由は、なぜであろうか?ここで、荀子は武力ではない拘束力が覇者にはあると見るからである。

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