議兵篇第十五(2)

By | 2015年4月19日
(趙王)「では、質問したい。王者の兵とは、どのような道を取ってどのような行動を取れば可能となるのか?」
(荀子)「そもそも大国の王にとっては、軍の統帥などは瑣末な事にすぎません。どうかそれがしに、いかなる原因をもって王者諸侯の強弱存亡が起こるかの因果関係と、いかなるときに安泰となるか危機に陥るかの形勢とを、述べさせてください。君主が賢明であると、その国は治まります。君主が無能であると、その国は乱れます。礼を尊び、義を尊ぶならば、国は治まります。礼をないがしろにし、義を賤しむならば、その国は乱れます。治まる国は強く、乱れる国は弱い。これが強弱の基本です。上が仰いで服するに足れば、下を用いることができます。上が仰いで服するに足りなければ、下を用いることができません。下を用いることができれば強く、下を用いることができなければ弱い。これが強弱の常です。礼を尊び、その上で功績に邁進するのは、最上です。家臣の禄を働きに応じて慎重に配分し、かつ節義を尊ぶのは、次善です。功績ばかり尊んで、しかし節義を賤しむのは、最低です。これが、強弱の一般法則です。士を好む者は強く、士を好まない者は弱く、民を愛する者は強く、民を愛さない者は弱く、政令に信用がある者は強く、政令に信用がない者は弱く、人民が斉一なる者は強く、人民が斉一ならざる者は弱く、褒賞の重い者は強く、褒賞の軽い者は弱く、刑罰に権威がある者は強く、刑罰が侮られる者は弱く、武器類や武具類がよく整備されている者は強く、それらが破れている者は弱く、兵を慎重に運用する者は強く、兵を軽率に運用する者は弱く、権勢が一箇所から出ている者は強く、権勢が複数に分かれている者は弱い。これが、強弱の常です。

斉国の人は、武芸を好みます。兵が首一つを取れば(A:楊注・集解の郭嵩燾の説)褒賞金を与えるが、戦勝したときに兵全体に与える賞与がない。(B:増注の久保愛の説)功績ない者から罰金を取って、それを功績者に与えるので、国から持ち出しの賞与がない。(C:猪飼補注の説)一時金を与えるが、徭役免除と税の軽減を与える褒賞がない。(注1)これは、小競り合いで敵が弱いときには有効かもしれませんが、大きな合戦で敵が堅固であるときには、組織的戦闘ができないのでばらばらになってしまいます。飛ぶ鳥が、散ってしまうようなものです。国が傾いて転覆するのは、日を追って明らかです。これは、亡国の兵です。これ以上に弱い兵は、ありません。市場で日雇いを集めて戦わせるのと、大して変わりません。

魏国の武卒は、基準を定めて採用します。三属の甲(楊注によると、鎧・腰当て・脛当ての三種のよろい。)を着て、十二石(せき)の弩(ど。いしゆみ、ボウガン。石は弓の強さの単位。十二石の弩は非常に強いいしゆみ。)を操り、五十本入りの矢立てを背負い、戈(か。古代の長槍の一種。)をその上に置き、冑(かぶと)をかぶって剣を帯び、糧食三日分を携帯して、一日で昼までに百里(40km)を走る試験を行います。これに合格した健児の家には徭役を免除し、税を軽減します。この特権は、数年経ってこれらの兵が衰えても、奪うことができません。新しい兵卒に入れ替えようとすれば、同じ特権を与えなければなりません。このゆえに、魏国は広大な土地を持ちながらも、税収が必ず少ないのです。これは、国を危うくする兵です。

秦国は、人民を常時困窮させ、酷烈に使役します。人民を威勢で脅し、過酷な法で苦しめ、褒賞で手なづけ、刑罰で圧迫します。秦国の人民に対して、お上から利益を得るためには戦闘によるしかない、と思わせるのです。まず苦しめて使役し、後から褒賞するのです。功績があれば褒賞がある、と利で釣ることにより急き立て、冑首五つを取ったら郷里の五家を隷属させる制を取っています。これが、兵を最も強くして長期的に国を強め、結果土地を多く奪って税収が上がることになりました。秦国が四世(楊注は孝公、恵王、武王、昭王と言う)において勝ち続けたのは、偶然ではなくて道理だったのです。ゆえに、斉国の武芸では魏国の武卒に敵いません。魏国の武卒では、秦国の鋭卒にかないません。だが秦国の鋭卒は、斉の桓公・晋の文公の整った軍隊にはかないません。そして斉の桓公・晋の文公の整った軍隊は、殷の湯王・周の武王の仁義にはかないません。これら仁義の王の軍と会戦する者は、消し炭を石に投げつけたがごとくに、砕け散ることでしょう。

さて今まで申し上げた各国に共通することは、すべて褒賞を求めて利益に走る兵ばかりということです。しょせんは、人を雇って労務を買う道です。上を尊んで法制に安んじ、節義をきわめる理を持っておりません。いま諸侯の中で精妙な国づくりを行うために節義に則る者がいたら、この者はたちまち勃興してこれら各国を窮地に陥れるでしょう。ゆえに士卒を招き、選抜して、威勢の力や変詐の術を尊んで、功利を尊ぶのは、人民を欺く道です。礼義により教化するのは、人を服して斉一とする道です。詐術によって詐術と戦うならば、まだ巧拙を論じることができるでしょう。しかし詐術によって斉一なる者と戦うのは、たとえれば錐で泰山を崩そうとするようなものです。天下の愚人でなければ、あえて試みようとはしないでしょう。ゆえに、王者の兵は試みられないのです。湯王・武王が桀王・紂王(ともに伝説の悪王)を誅したときには、手を拱いて指先で指図しただけで、強暴なる国は使い走らされたのです。桀王・紂王を誅するのは、ただの匹夫を誅するようなものでした。『書経』泰誓篇(注2)に、「匹夫の紂」とあるのは、そういうわけです。ゆえに、兵が大いに整っていれば天下を制し、わずかに整っていれば隣敵を危うくするのです。士卒を招き、選抜して、威勢の力や変詐の術を尊んで、功利を尊ぶ兵のごときは、勝敗に常がありません。あるいは国が縮小したり拡張したり、あるいは国が存続したり滅亡したり、あるいは互いの国で雌雄を決したり、これを繰り返しているだけです。これを盗兵というのであり、君子はこれに由りません。斉の田単(注3)、楚の莊蹻(そうきょく)(注4)、秦の衛鞅(えいおう)(注5)、燕の繆蟣(びゅうき)(注6)、これらは世に言うよく兵を用いる者たちです。彼らの用兵の巧拙強弱は伯仲していますが、その取る道は一つ、すなわち変詐の道にすぎません。和斉の道には、いまだ至りません。こづいたりだましたりして、権謀を巡らして敵を傾け覆すことを企む。いまだ盗兵を免れることはできません。斉の桓公・晋の文公・楚の莊王・吳王の闔閭(こうりょ)・越王の勾踐(こうせん)は、これみな和斉の兵でした。少しは王者の兵の域には入っていたといえるでしょう。だがしかし、本統には至りませんでした。ゆえに、覇者となることはできましたが、王者となることはできなかったのです。これが、いかなる原因をもって王者諸侯の強弱存亡が起こるかの、因果関係なのです。」
(孝成王・臨武君)「よい話だ。」


(注1)原文読み下し「贖錙金(しょくしきん)を賜えて、本賞無し。」解釈が分かれているので、各案併記した。藤井専英氏は楊注・集解に近い訳を取り、金谷治氏は久保愛に沿って訳している。
(注2)現在の『書経』泰誓篇は、偽古文尚書(ぎこぶんしょうしょ)と言われる偽書の一部である。偽古文尚書は東晋時代に梅賾(ばいさく)が提出したテキストであったが、清代に閻若璩がこれを偽書と考証した。
(注3)戦国時代、斉国の将軍。火牛の計を用いて、斉を滅亡から救った。
(注4)戦国時代、楚国の武将。蜀・雲南地方を征圧したが秦国に蜀を奪われて楚と連絡が絶たれ、雲南の滇池(てんち)に土着定住した。
(注5)商鞅(しょうおう)の名で著名な、戦国時代秦国の政治家。法家思想を秦国に導入して、秦国を戦国の大国に押し上げた。衛国の公族出身なので、衛鞅が本名である。
(注6)未詳。
《原文・読み下し》
王者の兵を請い問う、何の道何の行を設(もち)いて可なる。孫卿子曰く、凡そ大王に在りては、將率(しょうすい)は末事なり。臣請う、遂に王者諸侯、强弱・存亡の效、安危の埶(せい)を道(い)わん。君賢なる者は其の國治まり、君不能なる者は其の國亂る。禮を隆(とうと)び義を貴(とうと)ぶ者は其の國治まり、禮を簡にし義を賤しむ者は其の國亂る。治まる者は彊(つよ)く、亂るる者は弱し、是れ彊弱の本なり。上卬(あお)ぐに足らざれば、則ち下用う可きなり、上卬がざれば(注7)、則ち用う可からざるなり。下用う可ければ則ち强く、下用う可からざれば則ち弱し、是れ強弱の常なり。禮を隆び功を效すは上なり、祿を重んじ節を貴ぶは次なり、功を上(とうと)び節を賤しむは下なり。是れ强弱の凡なり。士を好む者は强く、士を好まざる者は弱し。民を愛する者は强く、民を愛さざる者は弱し。政令信なる者は强く、政令信ならざる者は弱し。民齊(ひと)しき者は强く、齊しからざる者は弱し。賞重き者は强く、賞輕き者は弱し。刑威なる者は强く、刑侮なる者は弱し。械用兵革の攻完にして便利なる者は强く、械用兵革の窳楛(ゆこ)にして便利ならざる者は弱し。兵を用いることを重んずる者は强く、兵を用いる者を輕んずる者は弱し。權一に出ずる者は强く、權二に出ずる者は弱し。是れ强弱の常なり。齊人技擊を隆び、其の技や、一首を得る者は、則ち贖錙金(しょくしきん)を賜えて、本賞無し。是れ事小にして敵毳(ぜい)なれば、則ち偷(かりそめに)用う可きなり、事大にして敵堅なれば、則ち渙焉(かんえん)として離るるのみ。飛鳥の若く然り、傾側・反覆日無し。是れ亡國の兵なり、兵是れより弱きは莫し、是れ其の市傭に賃して之を戰わしむるを去ること幾(いくばく)ぞ。魏氏の武卒は、度を以て之を取り、三屬の甲を衣(き)、十二石の弩(ど)を操(と)り、服矢(ふくし)五十個を負い、戈(か)を其の上に置き、䩜(かぶと)(注8)を冠し劍を帶び、三日の糧を贏(もたら)し、日中にして趨(はし)ること百里、試に中(あた)れば則ち其の戶を復し、其の田宅を利し、是れ數年にして衰うるも、未だ奪う可ざるなり、改造すれば則ち周(あま)ねくし易からざるなり、是れ故に地大なりと雖も、其の稅必ず寡し。是れ危國の兵なり。秦人其の民を生ずるや陿阨(きょうあい)、其の民を使うや酷烈、之を劫すに埶を以てし、之を隱するに阨を以てし、之を忸(な)らすに慶賞を以てし、之に鰌(せま)るに刑罰を以てし、天下の民をして、利を上に要する所以の者は、鬭(とう)に非ざれば由無からしむるなり。阨して之を用い、得て而して後に之を功とす、功賞相長とし、五甲首にして五家を隷す。是れ最も為衆强(しゅうきょう)長久爲り、多地以て正す。故に四世勝有るは、幸に非ざるなり、數なり。故に齊の技擊は、以て魏氏の武卒に遇う可らず、魏氏の武卒は、以て秦の銳士に遇う可からず、秦の銳士は、以て桓文の節制に當る可からず、桓文の節制は、以て湯武の仁義に敵す可らず。之に遇う者有れば、以て焦熬(しょうごう)を石に投ずるが若し。是の數國者を兼ねて、皆干賞蹈利の兵なり、傭徒(ようと)・鬻賣(しゅうこ)の道なり、未だ上を貴び制に安んじ節を綦(きわ)むるの理に有らざるなり。諸侯能く之を微妙にするに節を以てすることを有らば、則ち作(おこ)りて之を兼殆せんのみ。故に招近(しょうえん)(注9)募選し、埶詐(せいさ)を隆び、功利を尚(とうと)ぶは、是れ之を漸(あざむ)く(注10)なり。禮義敎化は、是れ之を齊しくするなり。故に詐を以て詐に遇うは、猶(なお)巧拙有り、詐を以て齊に遇うは、之を辟(たと)うるに猶錐刀を以て太山を墮(こぼ)つがごとし。天下の愚人に非ざれば、敢えて試みること莫し。故に王者の兵は試みられず。湯武の桀紂を誅するや、拱挹(きょうゆう)指麾(しき)して、強暴の國趨使せざること莫く、桀紂を誅すること獨夫を誅するが若し。故に泰誓に曰く、獨夫の紂とは、此を之れ謂うなり。故に兵大齊なれば、則ち天下を制し、小齊なれば、則ち鄰敵を治(あやう)(注11)くす。夫れ招近・募選して、埶詐を隆(とうと)び、功利を尚(とうと)ぶの兵の若きは、則ち勝不勝常無く、代翕(だいきゅう)・代張、代存・代亡して、雌雄を相爲すのみ。夫れ是を之れ盜兵と謂う、君子は由らざるなり。故に齊の田單、楚の莊蹻(そうきょく)、秦の衛鞅(えいおう)、燕の繆蟣(びゅうき)、是れ皆世俗の所謂(いわゆる)善く兵を用うる者なり、是れ其の巧拙・强弱は、則ち未だ以て相君(きみ)(注12)とすること有らざるも、其の道の若きは一なり。未だ和齊に及ばず、掎契(きけつ)・司詐、權謀・傾覆、未だ盜兵を免れざるなり。齊桓・晉文・楚莊・吳闔閭・越勾踐は、是れ皆和齊の兵なり、其の域に入ると謂う可し、然り而して未だ本統に有らざるなり、故に以て霸たる可くして以て王たる可からず。是れ強弱の效なり。孝成王臨武君曰く、善しと。


(注7)原文「上不足卬」。これについて、楊注は本文を「上不卬」として注している。増注、集解ともに「足」は衍字と見る。
(注8)革へんに由。CJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注9)楊注は「招延」として注釈を行っている。ゆえに「近」は「延」が本来のはずである。
(注10)「漸」を楊注は「法に近づいていまだ理ならず」と言い、集解の王先謙は「あざむく」の意と言い、増注は「士卒を勧進する」と言う。王先謙を取る。
(注11)増注・集解の王念孫ともに、「治」は「殆」と読むべしと言う。
(注12)「君」を元刻は「若」としている。集解の王先謙は「君」は「長」のごとしと言い、どれも強さが伯仲している、という意味に取っている。王先謙を取る。

ここは、王覇篇に続いて、いわゆる春秋五覇の荀子説が言及されているところである。いま王覇篇は後回しにしてここを読んでいるので、ここで春秋五覇について書きたい。

春秋五覇に誰を入れるのかは、諸文献において一定しない。そもそも五という数字は当時の五行説に見られるように中国宇宙論の基本数字であり、東西南北に中央を加えた数である。春秋時代に中国で会盟を召集して諸侯を和平させようと試みたヘゲモニー国家はいくつかあったが、その代表者を五つ列挙したまでのことである。荀子の挙げた五人の君主のうち、斉の桓公と晋の文公は「斉桓晋文」と呼ばれて、覇者の代表格とされる。この両者は諸侯を和平させて周王朝を一応は尊重し、中華を乱す蛮族を討った。しかし楚の荘王、呉の闔閭(および次代の夫差)、越の勾踐は蛮族そのものであり、その力にものを言わせて中華世界に参入し、諸侯を調整してヘゲモニーを取った者たちであった(このうち覇者の象徴である会盟を行ったのは、夫差と勾踐である)。遅れた国が先進的な文化に触れるとその利点を急速に吸収して強大となることは、歴史上よく見られることである。ただ春秋時代最後の覇権国となった越の全盛期は短く、勾踐の死後戦国時代に入ると衰えて、楚国に併合された。遅れた国であるほど先進地域に触れたときその文化に取り込まれてしまい、短期間でアイデンティティを失って消滅してしまうことも、歴史上よく見られるケースである。

さてここでの荀子の強兵であるが、またも荀子は戦略(ストラテジー)と戦術(タクティクス)とを混同した議論を行う。前回も申したとおり、私は荀子の議論について「いかにして強くて尊敬される国を作るか?」という戦略レベルの議論においては、認めるところがある。しかしながら、「いかにして勝つか?いかにして天下を統一するか?」という戦術レベルの議論においては、荀子は儒家のイデオロギーそのままの意見を開陳するだけである。これでは趙王も臨武君も、苦笑するばかりであったろう。趙王からすれば、荀子の主張などとうに理解していることであろうからである。

斉国の兵制・魏国の兵制・秦国の兵制を比較して、秦の兵制が最も強いのは必然である、と分析したところまでは上出来である。斉国の兵制は、個人の武勇に褒賞を与える。敵の首を一つ取ったら褒賞金いくら、と規定する。いわば個々の職人に出来高賃金を与える制度であり、組織立った労働には不向きな制度である。斉国は専制国家として未完成で、軍に厳格な軍法を敷くことが徹底できていなかったことが、うかがえる。

魏国の兵制は、それそのものとしては素晴らしい。兵の成果ではなくて能力に応じて労役と税免除の特権を与え、精鋭の兵を恒常的に優遇するしくみである。さすが、魏国は中原の先進国であった。だが荀子は魏国がこの制度は税収が上がらない原因である、と言う。つまり、精鋭の兵に対して年限を定めて解雇する制度がないか、あるいはあってもそれがうまく運用できていないことが見て取れる。魏国の温情主義的な兵制が悪く運用されて、しまりなく老兵を保持し続ける実情となっていたようである。これは制度が悪いのではなくて、運用が悪いのである。私は、荀子の主張とは違って、この制度そのものが国を危うくするとは考えない。

秦国の兵制は、法家思想に基づいている。働きに応じて褒賞を与え、罪に応じて処罰を与える。人民は戦争で首を取る以外に褒賞がなく、土地を得て少しでもましな生活をしようとすれば戦場で功績を挙げるしかないように仕向ける。ぱっと見では斉国の制度と変わりがないように見えるが、背後に生活規制の法と軍隊運用の法が厳格に適用されているところが違っている。現実として秦国の兵のほうが魏国の兵よりも強かったので、魏国の兵制はこの頃には強い兵を選ぶことができなくなっていたのであろう。魏国は専制国家の兵の用い方を誤り、秦国は正しく用いた。ここまでは、荀子の観察は現実を直視して、合理的に進んでいる。

しかし荀子は、その秦国の兵よりも、桓公・文公の兵のほうが強く、さらに湯王・武王の仁義の兵のほうが強い、と言う。桓公・文公の兵は、理解できる。彼らは正義の外交を掲げるヘゲモニー国家であり、対秦連合軍を作って集団で当たることを可能とするであろう。だが、湯王・武王の仁義の兵については、荀子は現実を直視することができずに儒家のイデオロギーに基づいて空想を述べている、と言うより他はない。いや、湯王・武王の兵はおそらく本当に強かったと私は思うが、その強さの原因は荀子の想定するところとは違うところにあったはずである。

荀子は、人間の性は悪=利己的存在と規定している。それが上から仁の人が制度を整えれば、人民が勇戦して兵が強くなると言う。これは、明らかに矛盾している。前にも申したとおり、人間を利己的存在と規定して社会の起源を社会契約説によって説明するのであれば、人民が仁の人の治世を支持するのは、ただただそれが己の生命と経済的利得を最も保障する制度を提供してくれるからにすぎない。これは、平時の論理である。

だが国のために命を賭して勇戦する、という戦時の論理は、そのような社会契約説からでは説明できない。あるいは同胞意識から来る連帯心であり、またはナショナリズムという形で勝手に人民が国家にラブコールを送る心情である。だが荀子はそのような連帯心もナショナリズムも前提としておらず、上から国家が人民に支配の制度をかぶせる、という法治官僚国家の原理だけを採用する。ここからは、同胞と共に自律的に勇戦する戦士は育たず、上が法によって徴発したので罰ゲームとして戦う兵卒しか現れないだろう。だから、専制王朝の徴発された兵卒は、自律的に勇戦する市民軍や遊牧狩猟の戦士集団には敵わないのである。荀子は、秦の兵は湯武の仁義に敵わない、などと言う。湯王や武王の戦士たちは、おそらく強かったであろう。しかしながら、その強さの秘訣は荀子の言う仁義の統治ではない。より国が原始的で、君主と戦士貴族たちの隔たりがほとんどなく、同族意識を持った同胞集団として連帯していたであろうから、強かったはずである。

専制王朝を中華世界の国制として前提とするのであれば、これはもう兵家に従って合理的な軍制を敷き、秦国のように法家思想的な制度に従って賞罰の法でコントロールするしかない。荀子の統治論は、あくまでも法治官僚国家のものである。その範囲内で強い兵を作る方法もまた、同じく上から礼法を人民にかぶせる論理で描かなければならない。それは徴発された兵というものは本質的に国のために自発的に勇戦する忠誠心など一片も持ち合わせていない、というところから始めなければならず、そのために兵を賞罰でコントロールして上から操作しなければならない、という兵家・法家の突き放した論理に徹しなければ、自国の兵に無駄な期待を持つことになるであろう。荀子たち儒家は、君主と人民とが親密に結合して無敵の兵を作る、といういにしえの聖王たちの美しい神話に酔っている。そのような兵などは、戦国時代の国家には決して求めることができない、という現実を見ることができないのである。

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