議兵篇第十五(3)

By | 2015年4月20日
(臨武君)「将軍のあり方について、うかがいたい。」
(荀子)「知は疑わしい点を除くのが最上であり、行いは過失をなくすのが最上であり、物事は悔いがないことが最上です(注1)。物事は悔いがないところまで至って終わったとしても、成功するかどうかは必然ではないものです。ゆえに、軍制・号令・命令は厳格であって権威あることが必要であり、褒賞と刑罰は必ず行われてしかも信頼が置かれなければなりません。兵営と糧秣の倉庫は、厳重に防護しなければなりません。軍の移動は、あるときは安定して慎重に、またあるときは疾走して迅速でなければなりません。敵を偵察して動静を見るときには、深く静かに潜入し、巧妙に潜り込まなければなりません。敵に遭遇して決戦するときには、必ず自軍が明らかに知っている情報に従って行動し、疑わしい情報に従ってはなりません。以上が、『六術』です。
将軍の地位に恋々として、解任されるのを憎んではなりません。勝ちに急いで、負ける可能性を忘れてはなりません。自軍内を威嚇して、敵を軽視してはなりません。戦機の利だけを見て、その害を無視してはなりません。およそ考慮するときには熟考するべきであり、物資を使うときには気前よく使わなければなりません。以上が、『五権』です。
君命として受けない場合が、三つあります。配下に死を賭して作戦させる許可があったとしても、成功しそうにない作戦に当たらせてはなりません(注2)。配下に死を賭して作戦させる許可があったとしても、勝てそうにない合戦を行わせてはなりません。配下に死を賭して作戦させる許可があったとしても、人民を騙してはなりません。以上が、『三至』です。
およそ君命を主君から受けて総軍を動かすのに、総軍の編成が終わり、指揮官や軍吏の序列が固まり、物資も正しく整えられたならば、[解釈困難:主君も喜びようがないし、敵も怒りようがなく、](注3)これが至臣というべきものです。考慮は必ず事に先立ち、敬して熟慮を重ね、事の終わりになっても事が始まったときと同じように慎重であり、終始態度が同じである。これが大吉、最高の姿勢というべきものです。およそ万事が成功するのは、必ずや物事を敬して取り扱うところから起こり、万事が失敗するのは、必ずや万事に怠慢するところから起こるものです。ゆえに、敬することが怠慢に勝てば吉であるが、怠慢が敬することに勝てば滅亡します。計画が欲に勝てば順調に事は進みますが、欲が計画に勝てば凶となります。戦闘するときには守備するように慎重に、行軍するときには戦闘するように慎重に、たとえ戦功があっても幸運に勝ったぐらいにみなして慢心しない。つつしんで計謀を行い壙(おこた)らず、つつしんで事を実施して壙(おこた)らず、終わりにもつつしんで壙(おこた)らず、人間の集団につつしんで接して壙(おこた)らず、当たる敵に真摯に対して壙(おこた)らない。以上が、『五無壙(ごむこう)』です。
つつしんで以上の『六術』『五権』『三至』を行い、恭敬にして壙(おこた)らぬ姿勢で事を処する。これが、天下の将というべきものです。すなわち、神明に通じる知将と言うべき存在です。」
(臨武君)「よい話だ。」

(臨武君)「では次に王者の軍制について、うかがいたい。」
(荀子)「将軍は軍鼓と共に死し、御者(注4)は馬の手綱と共に死し、軍吏(注5)は己の職分と共に死し、下士官(注6)は分隊の中で死す。軍鼓が鳴れば進み、金鐘が鳴れば退く(注7)。命令に従うことを最優先とし、功績を挙げることはその後である。進むなの命令があるのに進むのは、退くなの命令があるのに退くのと同じであり、その罪は等しい。老若を殺さず、田畑を踏み荒らさず、投降する者は捕縛せず、反抗する者は許さず、敵側からの協力者は捕虜として扱わない。およそ誅殺とは人民を誅殺するのではなく、人民を乱す者を誅殺するのでなければならない。だが人民が賊をかくまうのであれば、この人民もまた賊とみなす。このように、わが軍に従う者は生かし、わが軍に刃向かう者は殺し、わが軍への協力者は取り立てて働かせる。殷の微子開(びしかい)は、殷の滅亡後宋国に封建されました(注8)。また曹觸龍(そうしょくりゅう)は、武王の軍中で処断されました(注9)。殷の遺民で周に服した者は、周人と同様の扱いで治められました(注10)。ゆえに近くに住む者は周の治世を謳歌して楽しみ、遠くに住む者は急いで周王のもとへ駆けつけました。遠方の僻地の国ですらも、周王のために奔走して周王の治世に安楽しないものはありませんでした。四海の内は一家のごとくとなり、命令は行き渡り、服従しない者はありませんでした。これが、人師(じんし)というものです。『詩経』に、この言葉があります。:

西より、東より、
南より、北より、
慕いきたりて、服せざるはなし
(大雅、文王有聲より)

これが、王者の兵でした。王者は、罪人を誅殺することはあるが、戦うことはありません。固く守備している城を、力攻めにはしません。頑強に抵抗する兵を、殲滅したりはしません。敵であっても上下が互いに喜び合っているならば、むしろこれを慶賀するのです。城を屠る(注11)ことは、しません。兵を城内に潜入させて中から開城させるような卑怯なことは、しません。兵を長期間戦場に留めることは、しません。戦役は、一時(三ヶ月)以上は行いません。ゆえに、乱れた国の人民は自国の君主の政治を楽しめず、これを上に仰ぐことに我慢ならず、王者の軍が来ることを待ち望むのです。」
(臨武君)「よい話だ。」


(注1)論語為政篇の「子張祿を干めんことを學ぶ。子の曰はく、多く聞き疑はしきを闕き、愼みて其の餘りを言へば、則ち尤寡し。多く見て殆きを闕き、愼みて其の餘りを行へば、則ち悔い寡し」が連想される。情報をよく集めて、疑念と過失と後悔を最少にする努力をせよ、それでも必ず成功するとは限らない、という意味であろう。
(注2)増注は、秦将白起(はくき)の事例を出す。白起は秦王から趙国の都邯鄲を攻略する命を受けたが、情勢不利で敗れることを予測して、君命に応じなかった。
(注3)このように訳すしかないが、意味がよく分からない。金谷治氏も、文章不足の感じで意味が取りにくい、と言う。錯簡を疑う。
(注4)原文「馭」。戦車を扱う御者。春秋戦国時代には、馬に曳かせる戦車が戦場で用いられていた。漢代になって廃れる。
(注5)原文「百吏」。ここでは軍属の官吏を指すと思われる。戦場の功績を記録し、物資の分配を行い、敵軍との交渉を行う。
(注6)原文「士大夫」。軍隊には、将軍の下に分隊を統率する下士官が置かれる。ここではそれを指していると思われる。ローマ軍の百人隊長のようなもの。
(注7)増注は漢書李陵伝を引用して、鼓声を聞いて縦(はな)ち金声を聞いて止まる、と言う。
(注8)微子開(または微子啓)は殷の紂王の庶兄で、紂王を諌めて容れられず逃亡し、周の武王に降伏した。武王は紂王を亡ぼした後、微子開に祖先の祭祀を継がせて、宋国に封建した。
(注9)曹觸龍は『荀子』臣道篇でも言及される。
(注10)古代中国史の研究家には殷人と周人とは対等でなく、支配者階級である周人に殷人が技術を持った隷属民として附属された、と捉える者もいる。重澤俊郎『周漢思想研究』など。
(注11)「屠城」は中国の戦争でしばしば使われる。降伏しない国の一城の住民を皆殺しにして、他の城に対して降伏するか全滅するかを選択させる作戦である。
《原文・読み下し》
將爲(た)るを請い問う。孫卿子曰く、知は疑(うたがい)を棄つるより大なるは莫く、行は過無きより大なる莫く、事は悔無きより大なるは莫く、事は悔無きに至りて止む、成必(ひつ)す可からざるなり。故に制號(せいごう)政令は嚴にして以て威ならんことを欲す、慶賞・刑罰は必にして以て信ならんと欲す、處舍(しょしゃ)・收藏は周にして以て固ならんと欲す、徙舉(ときょ)・進退は安にして以て重ならんと欲し、疾にして以て速ならんと欲す、敵を窺い變を觀るは潛にして以て深ならんことを欲し、伍にして以て參ならんことを欲す。敵に遇い戰を決するは必ず吾が明にする所に道(よ)り、吾が疑う所に道る無かれ。夫れ是を之れ六術と謂う。將たらんと欲して廢を惡(にく)むこと無かれ(注12)、勝を急にして敗を忘るること無かれ、內を威して外を輕んずること無かれ、其の利を見て其の害を顧みざること無かれ。凡そ事を慮(おもんぱか)るは孰(じゅく)せんことを欲し、財を用うるは泰ならんことを欲す。夫れ是を之れ五權と謂う。命を主に受けざる所以三有り、殺す可くして不完に處らしむ可からず、殺す可くして不勝を擊しむ可からず、殺す可くして百姓を欺かしむ可からず。夫れ是を之れ三至と謂う。凡そ命を主に受けて三軍を行(や)るに、三軍既に定まり、百官序を得て、羣物皆正まれば、則ち主も喜ぶこと能わず、敵も怒ること能わず、夫れ是を之れ至臣と謂う。慮必ず事に先じて、之に申(かさ)ぬるに敬を以てす、終を慎むこと始の如く、終始一の如し、夫れ是を之れ大吉と謂う。凡そ百事の成るや、必ず之を敬するに在り、其の敗るるや、必ず之を慢(あな)どるに在り。故に敬怠に勝てば、則ち吉、怠敬に勝てば、則ち滅す。計欲に勝てば、則ち從、欲計に勝てば、則ち凶。戰うこと守るが如くし、行うこと戰うが如くし、功有れば幸の如くし、謀を敬みて壙(こう)すること無かれ、事を敬みて壙すること無かれ、吏を敬して壙すること無かれ、衆を敬して壙すること無かれ、敵を敬して壙すること無かれ、夫れ是を之れ五無壙と謂う。此の六術・五權・三至を愼んで行いて、之に處するに恭敬・無壙を以てす。夫れ是を之れ天下の將と謂う、則ち神明に通ず。臨武君曰く、善しと。
王者の軍制を請い問う。孫卿子曰く、將は鼓に死し、馭(ぎょ)は轡(たずな)に死し、百吏は職に死し、士大夫は行列に死す。鼓聲を聞きて進み、金聲を聞きて退く。命に順じて上と爲し、有功之に次ぐ。令進まずして進むは、猶令退かずして退くがごとし、其の罪惟れ均し。老弱を殺さず、禾稼(ようか)を獵(ふ)まず、服する者は禽(きん)せず、格する者は舍(ゆる)さず、犇命(ほんめい)する者は獲(かく)せず。凡そ誅は、其の百姓を誅するに非ざるなり、其の百姓を亂る者を誅するなり、百姓其の賊を扞(まも)る者有らば、則ち是れ亦賊なり。故を以て刃に順う者は生き、刃に蘇(む)かう者は死し、犇命する者は貢す。微子開は宋に封ぜられ、曹觸龍(そうしょくりゅう)は軍に斷ぜらる。殷の服民(ふくみん)の之を養生するの所以の者は、周人に異なること無し。故に近き者は歌謳(かおう)して之を樂しみ、遠き者は竭蹙(けつけつ)して之に趨(おもむ)く。幽閒辟陋(ゆうかんへきろう)の國と無く、趨使して之を安樂せざること莫く、四海の內は一家の若く、通達の屬は從服せざること莫し。夫れ是を之れ人師と謂う。詩に曰く、西自(よ)り東自り、南自り北自り、思うて服せざること無し、とは、此を之れ謂うなり。王者は誅有りて戰うこと無く、城の守るをば攻めず、兵の格するをば擊たず、上下相喜びて則ち之を慶す。城を屠らず、軍を潛せず、衆を留めず、師時を越えず。故に亂者は其の政を樂み、其の上に安んぜずして、其の至らんことを欲するなり。臨武君曰く、善しと。


(注12)集解の王先謙は「欲」を「好」の意と取って、ただその能否を視て私の好悪ある無かれ、と言う。増注の荻生徂徠は、将帥の権を貪りて之を失うを憂うなかれ、と言う。文法的に言って、徂徠が適切と考える。

これで、荀子の趙王・臨武君との討論は終わりである。

前半は、儒家者流に将軍の心掛けを述べたものである。まずは、もっともらしく整理してある。
「君命に受けざる所有り」(『孫子』九変篇)という兵法家ならば誰でも知っているスローガンを、荀子は儒家の視点から解説している。しかし、私は孫子の兵法は荀子の解説しているような意味ではないと考える。

中国は広大であり、君主のいる都と将軍のいる戦場とは、遠く離れている。そのために君主は将軍に対して出陣前に命令を下し、指揮権を委任する証明である兵符(へいふ)の半分を持たせる。もう片方の兵符は君主が所持していて、命令の変更はこの君主の兵符を持参して戦場の将軍の半分と合わせることによってのみ許される、という指揮権委任の仕組みであった。戦国の四公子の一人として有名な魏の信陵君は、この兵符を魏王から盗み出して将軍から軍権を奪い、君命をねじ曲げて魏軍を趙国の首都邯鄲(かんたん)に向かわせた。このとき趙国の首都は秦軍に包囲されて、窮地にあった。信陵君は義によって援軍して秦軍は撤退を余儀なくされ、趙国を救出したのであった。

信陵君のエピソードはさておき、君主と将軍とのとの指揮命令の伝達がスムーズに行われていれば、まだよい。しかしながら、都にいる君主は往々にして判断を誤る。たとえ聡明な君主であったとしても、遠く離れて刻々と変化する戦場のことを、完全に知ることはできない。ましてや凡庸な君主であれば、敵国に買収されて讒言する者があったら見事に騙されて好機に撤退命令を出したり、あるいは名将を解任したりするであろう。このように、君主と将軍との間で情報のギャップがあることは必然である。ゆえに、将軍は戦場の現場次第では撤退命令とて聞かないことがあり、逆に攻撃命令とて待つときもあり、また好機と見たときには命令に違反しても攻撃を行わなければならないときがある、という心得が、「君命に受けざる所有り」の意味である、と私は考える。荀子の言うような、道徳的な意味などではない。戦争に勝つための、職業軍人のプロフェッショナルな心得である。この一点を見ても、荀子は兵法を理解しているかどうか怪しい。もし荀子のような朝廷・官僚の側に立つ者が「君命に受けざる所有り」の問題について議論するとすれば、正しくは「将軍が君命を違反して行動することが許される範囲は、法によって定められなければならない」と言わなければならない。

後半は、儒家の王者観に沿って、王者の兵のあり方を述べる。王者の兵は人民を帰服させて容易に征服する、というのである。しかし征服戦争の結果、敵国の人民が喜んで服するなどと考えるのは、甘すぎる。それは二十一世紀の戦争を見れば、一目瞭然であろう。できれば覇者=ヘゲモニー国家は、戦争という手段を使わずして諸国を調整することが、最も望ましい。もしそれが可能であるとするならば、その原因は覇者のレジームに従うことが、周辺諸国や共同体にとって安全の保障と経済的利益が得られる場合であろう。荀子の見通しは甘すぎると思うが、戦争とはいったん始まったら陰険かつ悲惨なものになることは必定であり、巻き込まれた人民は深く怨むであろう。だから王者の兵は力を行使しないのだ、というのは賛成できる。ゆえに諸国が互いに利のある国際体制を目指すことによって安定を目指すのが、上策であろう。大学者である荀子の歴史的展望を持った説明に対して、臨武君はとりあえずよい話を聞いた、とは思ったのではないだろうか。しかし、実戦に荀子のいう兵が役立つとは、思わなかったであろう。

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