Author Archives: 河南殷人

君道篇第十二(1)

国を乱す君主はいるが、ひとりでに乱れていく国というものはありえない。国を治める人材はいるが、ひとりでに国を治める法などはありえない。羿(げい。伝説の弓の名手)の射術の法は後世まで滅びなかったが、羿の射術の法に倣った後継者たちが歴代必ずしも百発百中たりえたわけではない。禹(う。夏王朝の創始者)の法はいまだに存続しているが、禹の後を継いだ夏王朝の君主たちは歴代必ずしも王者たりえたわけではない。ゆえに、法というものはそれ単独で成り立つことはできず、法判断(注1)もまた自ずから行われるわけにもいかないのである。しかるべき人材を得たならば法も法判断も存続するが、その人材を失えば亡んでしまうのだ。法というものは統治のはじまりであり、君子というものは法の源なのである。ゆえに君子がいれば、法が簡略であってもすみずみまで統治が行き渡る。しかし君子がいなければ、法が完備していても順序立った施策が行えず、事物の変化に対応することができず、よって国が乱れるための十分な要因を作ってしまう。また法の意義を理解せずに法の条文だけを正しく行おうとする者は、博学といえどもいざ事に臨めば必ず混乱するものである。ゆえに明主はしかるべき人を得ることに急ぎ、いっぽう闇主は大きな権勢を得ることに急ぐ。しかるべき人を得ることに急ぐならば、君主は身体を楽にしたままで国は治まり、功績は大きく名声は美しくなり、最上ならば王者となってそれに劣っても覇者となるであろう。だがしかるべき人を得ることに急がず大きな権勢を得ることに急ぐならば、身体を労苦させても国は治まらず、功績は亡んで名は辱められ、社稷(しゃしょく)(注2)は必ず危うくなるだろう。ゆえに君主たる者は、しかるべき人を求めるために労苦して、この人を用いるときには休むのである。『書経』に、この言葉がある。:

文王はひたすらにおそれつつしんで、一人を(宰相に)選んだ。
(康誥篇より)

これが、王者の仕事を言っているのである。

割符を合せて契約書を分かち持つのは、互いの信用を担保するためである。しかし上の者が権謀を好めば、臣下に官吏たち、それにいつわりの言葉を好む大衆たちは、上の行為に乗じてやがて欺きを行うことであろう。くじを行うのは、公正な選抜を行うためである。しかし上の者が私事によって不正を行うならば、臣下に官吏たちもまた上に乗じてやがて不公正を行うことであろう。秤(はかり)と錘(おもり)を用いるのは、公平なつりあいを量るためである。しかし上の者が下の者を転覆させることを好むならば、臣下に官吏たちもまた上に乗じてやがて険悪な行為に出ることであろう。枡(ます)と概(ますかき。下の注8参照)を用いるのは、ひとしく公平な量を量るためである。しかし上の者が下の者から利を貪ることを好むならば、臣下に官吏たちも上に乗じてやがて収公する分を余分に増やして下に与える分を削り取り、規準なく人民から搾取することであろう。ゆえに、道具とか数量とかは統治の末流なのであって、統治の本源ではない。そういった道具や数量を用いる君子こそが、統治の本源なのである。官吏たちは法の条項を守るが、君子はそれらの本源を養うのだ。本源が澄めば末流も澄み、本源が濁れば末流も濁るであろう。ゆえに上の者が礼義を好み、賢人を貴んで能力ある者を登用し、利を貪る心がなければ、下の者もまた謙譲をきわめ、忠信をきわめ、臣下たる道・子たる道に謹むであろう。もしこのようであるならば、下賤の人民ですらも割符や契約書を用いることを待たずして信用を生み、くじを用いることを待たずして公正を生み、秤と錘を用いることを待たずして公平なつりあいを生み、枡と概を用いることを待たずして公平な量が量られることであろう。このゆえに褒賞を用いずして人民は励み、刑罰を用いずして人民は服し、官吏が労苦することなくして事は治まり、政令は煩雑でなくても風俗は美しくなり、人民は必ずや上の法に従い、上の意志にならい、上の企画した事業に励み、これらに安んじて楽しむことであろう。こうなれば人民は収税されてもその出費を考えなくなり、労役を課せられてもその労苦を考えなくなり、外敵の侵入があっても己の死を考えずに戦い、城郭は整備せずとも固く守られ、武器は研磨せずとも鋭くなり、敵国は服属させずとも屈服し、四海の人民は政令を待たずして統一されることであろう。これが、泰平の極地というのである。『詩経』に、この言葉がある。:

みかどの猶(はかりごと)、まことに塞(み)てり
徐(えびす)ですらも、既(つい)に来たれり
(大雅、常武より)

この言葉のように、天下が服するのである。


(注1)原文「類」。王制篇(1)に「其の法有る者は法を以て行い、法無き者は類を以て舉(きょ)する」とある。この王制篇や勧学篇、その他の篇に準じて、「類」を法の規定しない領域に下す為政者の類推判断とみなして、法判断と訳した。
(注2)富国篇(5)注1参照。
《原文・読み下し》(注3)
亂君有りて、亂國無く、治人有りて、治法無し。羿(げい)の法は亡ぶに非ざるも、而(しか)も羿は世(よよ)中(あた)らず。禹の法は猶お存すも、而も夏(か)は世(よよ)王たらず。故に法は獨り立つこと能わず、類は自ら行うこと能わず、其の人を得れば則ち存し、其の人を失えば則ち亡ぶ。法なる者は、治の端なり、君子なる者は、法の原(もと)なり。故に君子有れば、則ち法省くと雖も、以て徧(あまね)きに足るも、君子無ければ、則ち法具(そな)わると雖も、先後の施を失い、事の變に應ずること能わず、以て亂るるに足る。法の義を知らずして、法の數を正す者は、博(はく)(注4)と雖も事に臨めば必ず亂る。故に明主は其の人を得ることを急にして、闇主は其の埶(せい)を得ることを急にす。其の人を得ることを急にすれば、則ち身佚(いつ)して國治まり、功大にして名(な)美に、上は以て王たる可く、下は以て霸たる可し。其の人を得ることを急にせずして、其の埶を得ることを急にすれば、則ち身勞して國亂れ、功廢して名辱(はずか)しめられ、社稷(しゃしょく)必ず危し。故に人に君たる者は、之を索(もと)むるに勞して、之を使うに休す。書に曰く、惟(ただ)(注5)文王敬忌して、一人以て擇ぶ、とは、此を之れ謂うなり。
符節を合し、契券を別つ者は、信を爲す所以なり、上權謀を好めば、則ち臣下・百吏・誕詐(たんさ)の人、是に乘じて後に欺く。籌(ちゅう)を探り、鉤(こう)を投ずる(注6)者は、公を爲す所以なり、上曲私を好めば、則ち臣下・百吏、是に乘じて後に偏す。衡(こう)・石(せき)・稱(しょう)・縣(けん)(注7)なる者は、平を爲す所以なり。上覆傾を好めば、則ち臣下・百吏、是に乘じて後に險なり。斗斛(とこく)・敦槩(じゅんがい)(注8)なる者は、嘖(さく)(注9)を爲す所以なり。上貪利(たんり)を好めば、則ち臣下・百吏、是に乘じて後に豐取(ほうしゅ)・刻與(こくよ)し(注10)、無度を以て民より取る。故に械數なる者は、治の流(りゅう)なり、治の原(もと)に非ざるなり。君子なる者は、治の原なり。官人は數を守り、君子は原を養う。原清(す)めば則ち流清み、原濁れば則ち流濁る。故に上禮義を好み、賢を尚(とうと)び能を使い、貪利の心無ければ、則ち下も亦將に辭讓を綦(きわ)め、忠信を致(きわ)めて、臣子に謹まんとす。是の如くなれば則ち小民に在りと雖も、符節を合し、契券を別つことを待たずして信に、籌を探り、鉤を投ずるを待たずして公に、衝・石・稱・縣を待たずして平に、斗斛・敦槩を待たずして嘖なり。故に賞用いずして民勸(はげ)み、罰用いずして民服し、有司勞せずして事治まり、政令煩ならずして俗美に、百姓敢て上の法に順(したが)い、上の志に象(のっと)り、上の事に勸みて、之を安樂せざること莫し。故に藉歛(せきれん)には費を忘れ、事業には勞を忘れ、寇難には死を忘れ、城郭は飾を待たずして固く、兵刃は陵を待たずして勁(するど)く、敵國は服を待たずして詘(くつ)し、四海の民は令を待たずして一なり。夫れ是を之れ至平と謂う。詩に曰く、王猶(おうゆう)允(まこと)に塞(み)つれば、徐方既(ことごと)く來る、とは、此を之れ謂うなり。


(注3)以下の君道篇は、全篇に渡って楊注がない。したがって日本江戸時代および中国清代の各注釈者の見解を基礎とせざるをえない。
(注4)宋本には「博」の下に「傳(伝)」字があり、元本にはない。増注は「傳」を除く。宋本に従う新釈は「博(ひろ)く傳(つた)えらる」と読み下している。
(注5)宋本は「唯」字に作る。
(注6)原文「探籌投鉤」。集解の郝懿行は、探籌は竹をけずって書を書きそれをさぐりとらせること、すなわち「くじ」のことであり、投鉤は未詳であるが『慎子』に見えることを指摘する。漢文大系、新釈ともに探籌も投鉤も「くじ」の意と解している。
(注7)衝は秤(はかり)、石は錘(おもり)、稱・縣はいずれも秤のこと。つまり、全体で秤と錘の意。
(注8)集解の盧文弨は「敦槩は即ち準槩(じゅんがい)なり」と言う。「槩(概)」字の本義は枡(ます)に盛った穀物から上にはみ出た分をかき切ってならし、分量を正確に量るために用いる棒のことである。「ますかき」と訓ずる。そこから「おおむね」という意味が派生した。ここでは斗斛すなわち枡と合せて用いられているので、敦槩すなわち準槩は「ますかき」の意である。
(注9)増注の久保愛は、嘖は平生の義なり、と言う。ひとしく公平にすること。
(注10)原文「則臣下・百吏、乘是而後豐取・刻與、、」。元本には「後」字の後に「鄙」字があるが、宋本にはない。王念孫は、元本の「鄙」字は、先行する各文で「是に乘じて後に」の後に一字が続いているので、後人が意図的に追加したものであろう、と言う。なぜならば先行する各文は前半と後半が対比する意味となっているが、ここでの文の前半「嘖」字に対比されるべき語句は「豐取・刻與」であって、これで対比は十分であって「鄙」を加える必要はないからである。集解本は王説に賛同して「鄙」字を置かない。

君道篇に始まる三篇は、君主・家臣・賢士の三者について述べたシリーズである。直前の王制篇・富国篇・王覇篇では法治官僚国家のシステムが述べられたが、ここからの三篇はそのシステムの担い手である為政者たちの心得が説かれることになる。彼に先行する孟子は為政者の心得を主張することに熱心であったが、為政者が効果的に働くことができるためのシステムを描くことに疎漏であった。荀子は、その欠点を補正して両者を語ろうとするのである。

まずこの君道篇では、君主への教訓が述べられる。冒頭で述べられているように、その要点は、賢明な宰相を選んでこれに行政を一任するべし、ということである。君道篇の長大な文章は、この一点のために展開されている。しかし正直な私の印象を申すならば、「君主は優良な宰相を選ぶべし」という教訓を与えるための心得として、ここまで長大な理論を君主に説明することに意義があるとは思えない。荀子の論述は統治のための理論を延々と述べることに過ぎて、国のために人を正しく選ぶ、という国の頂点に立つ人間への倫理的教訓としては、孔子や孟子の短い金言の人を動かす力に遠く及ばない。理論的であることが荀子の長所であり、かつ欠点である。

なお君道篇は、楊注が完全に欠落している。散逸したことは、間違いない。

君道篇第十二(2)

人は、君主として何をするべきであろうか?それは、家臣に富貴を礼に従って分け与え、公平で偏りがなくすることである。人は、家臣として何をするべきであろうか?それは、礼に従って君主に仕え、怠らず従順・忠勤に励むことである。人は、父として何をするべきであろうか?それは、子に対して寛大で恵み深く、しかも礼に従って対することである。人は、子として何をするべきであろうか?それは、父母を敬い愛し、しかもその敬愛のしかたは礼に従って美しく飾ることである。人は、兄として何をするべきであろうか?それは、弟に対して慈愛をもって接し、友愛に努めることである。人は、弟として何をするべきであろうか?それは、兄を敬ってへりくだり、兄への仕えをおろそかにしないことである。人は、夫として何をするべきであろうか?それは、一家の主として功名を高く挙げていい加減な行為を行わず、妻には威厳をもって君臨して夫婦の区別を付けることである。人は、妻として何をするべきであろうか?それは、夫に礼があれば柔和に従順して夫の言葉をかしこまって聴き、夫に礼がなければ恐懼しちぢこまって自責することである。これらの道は、片方だけが存在するならば乱れ、双方が存在することによって治まることを、よく考えなければならない。では、これらの道を全てよく行うにはどうすべきであろうか?それは、礼を明らかにすることである。いにしえの時代、わが文明の建設者であった先王たちは礼を明らかにして、これを天下にあまねく行き渡らせ、その行動はことごとく礼にかなっていたのであった。ゆえに君子が恭しくあるが懼れはばかることなく、相手を敬うが恐れることはせず、貧窮しても卑屈とならず、富貴であっても驕ることなく、多くの異変に遇っても窮することがないのは、君子が礼を明らかにしているためなのである。よって君子の礼の扱い方は、これを敬ってこれに安んじ、事業を行う際には、正道を進んで外れず、人に対するあり方は、怨み少なくて広く寛大であるがおもねることはせず、己の身を修めるあり方は、謹んで礼を身に付けて礼から外れず、異変に応ずるあり方は、素早く敏捷であって惑わず、天地の万物を用いるあり方は、万物が生成する原因をあれこれ論議することはせず、ただ財物をうまく活用することを尽くすのみであって(注1)、官吏や技能者たちを用いるあり方は、それらと技能を競うようなことはせず、ただそれらの功績をうまく用いることを尽くすのみであって、上の者に仕えるあり方は、従順・忠勤であって怠らず、下の者を用いるあり方は、あまねく公平であって偏らず、交友関係のあり方は、義に拠って規則(注2)を持ち、郷里で居住するあり方は、寛容であるが乱れることはしない。君子はこのようであるから、たとえ困窮しても名声は挙がり、ひとたび栄達すれば必ず功績を挙げるのである。その厚い仁心は天下を覆い、そこまで大きな心を持つことはできないなどと憂うことはしない。その明達な智は天地にあまねく届き、どんな異変があってもこれをさばいて疑わない。その血気は温和であり、その意志は広大であり、その行為の義は天地の間に満ちている。これぞ仁智の極みというものである。このような人物を聖人と呼ぶのは、彼が礼を明らかにするからである。

「国を治めるには、どうすればよいであろうか?」と問われたならば、「身を修める方法は聞いたことがあるが、国を治める方法は聞いたことはない」と答えよう。君主というものは、形の規準である。規準が正しければ、付き従う影の形も正しくなる。君主というものは、槃(ばん。水盤)のようなものである。槃が円形なので、水の形も円形となる。君主というものは、盂(う。方形の水入れ)のようなものである。盂が方形なので、水の形も方形となる。(このように、君主の形次第で付き従う人民の形も決まるのだ。)君主が弓を射れば、家臣は決(けつ。「ゆだめ」のこと。下の注10参照)に手を掛けるだろう。楚の荘王は細い腰の女性を好んだので、女たちは痩せることを競って朝廷では飢え死にする者が出たという(注3)。このようであるから、「身を修める方法は聞いたことがあるが、国を治める方法は聞いたことはない」と言うのである。君主とは、人民の本源である。本源が澄めば末流も澄み、本源が濁れば末流も濁るであろう。ゆえに社稷(しゃしょく)を持つ君主が人民を愛することができず、人民に利益を与えることができずして、しかも人民が自分を親しみ愛してくれることを求めても、得ることはできないのだ。人民を親しまず愛さず、しかも人民が自分のために役立ち、自分のために死を賭けてくれることを求めても、得ることはできないのだ。人民が自分のために役立たず、自分のために死を賭けることもなくて、しかも兵が強くて城が固いことを求めても、得ることはできないのだ。兵が強くなくて城も固くなくて、しかも敵が襲ってこないことを求めても、得ることはできないのだ。敵が襲ってくることになって、しかも身が危険でなくて領地も削られず、国が滅亡もしないなどと求めても、もはや得ることはできない。身の危険・領地の削減・国の滅亡の状況が全て揃っていて、しかも安楽を求めようとする者は、狂人である。狂人は、時を経ずして没落するだろう。ゆえに、君主が国を強固にして我が身を安楽にしたいと望むのであれば、人民のことをよく考えるのが一番なのである。配下の者たちをなつけて人民を統一したいと望むのであれば、政治のやり方についてよく考えるのが一番なのである。政治を治めて国を美しくしようと望むのであれば、政治を行わせるべき人材を求めるのが一番なのである。いつの時代にも、学問を積んで政治の正道を得た人材は絶えることなく存在しているのだ。そのような人材とは、現代に生まれてもいにしえの正道を志し、天下中の王公がこの正道を好まない時世にあっても、ただ一人これを好み、天下中の人民がこの正道を望まない時世にあっても、ただ一人これを行うのである。このいにしえの正道を好む人材は貧困にあり、このいにしえの正道を行う人材は困窮の中にあったとしても、ただ一人これを行おうと努力して、片時も止めることをしないのである。この者はただ一人でいにしえの先王たちが天下を得た理由と失った理由をはっきりと明らかにして、国の安泰と危難、善事と悪事を白と黒とを見分けるようにたやすく理解するのである。このような人材に大任を与えたならば天下を統一して諸侯を家臣とすることができるだろうし、小さな任務を与えただけでも国威を隣の敵国に響かせることができるだろうし、またたとえ登用することができなくても自国の国境から去らず引き留めることに成功するだけで、その国はその人が生きている間は大事件も起こらないことであろう。ゆえに人の君主たる者は、人民を愛すれば安泰となり、士を好めば繁栄し、どちらもなければ滅亡するのである。『詩経』に、この言葉がある。:

よき民は、み国の藩(まがき)
天子の師は、み国の垣(かきね)
(大雅、板より)

君主は、この言葉のとおり人民を愛さなければならず、そのために政治のできる人材を好まなければならない。


(注1)荀子は、他の諸子百家のように万物の生成の根拠を論議することを拒否して、為政者は自然が生み出す財物をただ人間生活の向上のために活用することに専念するべきであると説く。天論篇を参照。
(注2)原文「類」。ここでは、ルール・規則のような意。
(注3)増注は戦国策に「昔者(むかし)先君霊王小腰を好み、楚士食を約す」とあることを引いて、この荘王は霊王の伝聞の間違いであろうと言う。
《原文・読み下し》
人の君爲(た)るを請い問う。曰く、禮を以て分施し、均徧(きんべん)にして偏ならず。人の臣爲るを請い問う。曰く、禮を以て君に待(じ)し(注4)、忠順にして懈(おこた)らず。人の父爲るを請い問う。曰く、寬惠にして禮有り。人の子爲るを請い問う。曰く、敬愛して文を致(きわ)む。人の兄爲るを請い問う。曰く、慈愛にして友を見(あら)わす。人の弟爲るを請い問う。曰く、敬詘(けいくつ)して苟(いやし)くもせず。人の夫爲るを請い問う。曰く、功を致めて流せず、臨を致めて辨有り。人の妻爲るを請い問う。曰く、夫禮有れば則ち柔從(じゅうじゅう)・聽侍(ちょうたい)し、夫禮無ければ則ち恐懼して自ら竦(しょう)するなり。此の道や、偏立して亂れ、俱立(ぐりつ)して治まる、其れ以て稽(かんが)うるに足る。之を兼ね能くすることを請い問う、奈何(いかん)。曰く、之が禮を審(つまびら)かにするなり。古者(いにしえは)先王禮を審かにして以て天下に方皇(ほうこう)・周浹(しゅうしょう)し、動當らざること無きなり。故に君子は恭にして難(だん)せず(注5)、敬にして鞏(きょう)せず(注6)、貧窮にして約ならず、富貴にして驕(きょう)ならず、竝(ならび)に變態に偶(あ)いて窮せざるは、之が禮を審かにすればなり。故に君子の禮に於けるや、敬にして之に安んじ、其の事に於けるや、徑にして失せず、其の人に於けるや、寡怨・寬裕にして阿(おもね)ること無く、其の身を爲(おさ)むるや、謹んで脩飭(しゅうちょく)して危(たが)わず(注7)、其の變(へんこ)(注8)に應ずるや、齊給(せいきゅう)・便捷(びんしょう)にして惑わず、其の天地萬物に於けるや、其の然る所以を說くことを務めずして、善く其の材を用いることを致(きわ)め、其の百官の事、技藝の人に於けるや、之と能を爭わずして、善く其の功を用いることを致め、其の上に待(じ)するや(注4)、忠順にして懈らず、其の下を使うや、均徧にして偏ならず、其の交遊や、義に緣(よ)りて類有り、其の鄉里に居るや、容にして亂せず。是の故に窮すれば則ち必ず名有り、達すれば則ち必ず功有り、仁厚天下を兼覆(けんふ)して閔(うれ)えず、明達天地に用(あまね)く、萬變を理(おさ)めて疑わず、血氣和平に、志意廣大にして、行義(こうぎ)天地の間に塞がる。仁智の極なり。夫れ是を之れ聖人と謂う。之が禮を審かにすればなり。
國を爲(おさ)むるを請い問う。曰く、身を修むるを聞く、未だ嘗て國を爲むるを聞かざるなり。君なる者は儀なり、儀正しくして景(かげ)正し。君なる者は槃(ばん)なり(注9)、槃圓(えん)にして水圓なり。君なる者は盂なり、盂方にして水方なり。君射(しゃ)すれば則ち臣決(けつ)(注10)す。楚の莊王細腰(さいよう)を好む、故に朝に餓人(がじん)有り。故(ゆえ)に曰く、身を修むるを聞く、未だ嘗て國を爲むるを聞かざるなりと。君なる者は、民の原(もと)なり、原清(す)めば則ち流(ながれ)清み、原濁れば則ち流濁る。故に社稷を有つ者にして、民を愛すること能わず、民を利すること能わずして、而(しか)も民の己を親愛せんことを求むるも、得可からざるなり。民を之れ(注11)親しまず愛せずして、而も其の己が用を爲し、己が爲に死せんことを求むるも、得可らざるなり。民己が用を爲さず、己が爲に死せずして、而も兵の勁(つよ)く、城の固きを求むるも、得可らざるなり。兵勁からず、城固からず、而も敵の至らざらんことを求むるも、得可からざるなり。敵至りて而も危削無く、滅亡せざらんことを求むるも、得可からざるなり。危削・滅亡の情、舉(みな)此に積みて、而も安樂を求むるは、是れ狂生なる者なり。狂生なる者は、時を胥(み)ずして落つ(注12)。故に人主强固・安樂を欲すれば、則ち之を民に反するに若くは莫く、下を附し民を一にせんと欲すれば、則ち之を政に反するに若くは莫く、政を脩(しゅう)し國を美にせんと欲すれば、則ち其の人を求むるに若くは莫し。彼の蓄積すること或りて之を得る者は、世(よよ)絕えず、彼(かれ)其の人なる者は、今の世に生れて、古の道に志し、天下の王公之を好むこと莫きを以てして、然も是に于(お)いて(注13)獨り之を好み、天下の民之を欲すること莫きを以てして、然も是に于(お)いて獨り之を爲す。之を好む者は貧しく、之を爲す者は窮するも、然も是に于(お)いて獨り猶お將に之を爲さんとして、少頃(しばらく)も輟(や)むことを爲さず、曉然(ぎょうぜん)として獨り先王の之を得る所以、之を失う所以を明(あきら)かにし、國の安危・臧否(ぞうひ)を知ること、白黑を別つが若し。是れ其の人なる者や、之を大用すれば、則ち天下一と爲り、諸侯臣と爲り、之を小用すれば、則ち威鄰敵(りんてき)に行われ、縱(たと)い用うること能わざるも、其の疆域(きょういき)を去ること無からしむれば、則ち國終身故(こ)(注14)無し。故に人に君たる者は、民を愛して安く、士を好みて榮え、兩者一無くして亡ぶ。詩に曰く、介人(注15)維れ藩、大師維れ垣(えん)、とは、此を之れ謂うなり。


(注4)二箇所の「待」について、集解の郝懿行は韓詩外伝の引用が「事(つかえる)」字に作っていることを引いて、「事」字が「侍」字に誤られてさらに「待」字に誤られたのであろう、と言う。これに従う。
(注5)増注および集解の王引之は、「難」は読んで「戁(だん)」となす、と言う。おそれること。
(注6)増注は、「鞏」は読んで「恐」となす、と言う。集解の王引之は、蛩㤨戦栗の意であると言う。いずれも、おそれること。
(注7)集解の王念孫は、「危」は読んで「詭」となす、と言う。たがう。
(注8)宋本は「變故」に作り、元本は「故」字がない。増注本は「故」字を削り、集解本は「故」字を残している。集解本に拠って「故」字を戻す。
(注9)宋本は、この後に「民者水也(民なる者は水なり)」が続く。
(注10)増注は、「決はなお闓(かい)のごときなり」と言う。象骨製で右の大指に付けて弓弦を引っ掛ける道具。「ゆがけ」のこと。
(注11)原文「民不親不愛」。元本には「之」字がなく、宋本にはある。集解本は「之」字を削るが、増注本は残している。ここはつづく「民己が用を爲さず(民不爲己用、、)」が「民」を主語としている文であるのとは違って、「民」を目的語として「己」が主語であると解釈したほうがよい。なので、宋本・増注本に従って「之」字を復活させたい。
(注12)原文「狂生者、不胥時而落」。宋本は、「落」を「樂」に作る。集解本・増注本はともに「落」字を取る。新釈は「樂」に作る宋本に沿ってここを「狂愚の人とは、時世を考えずに快楽に耽る者である」と訳している。だが主流説に沿って、「落」字で解釈することにしたい。
(注13)原文「于是」。集解の王念孫は韓詩外伝の引用において「于是」が「是子」に作られていることを証拠として、ここ以下の三つの「于是」は「是子」の誤りである、と言う。しかしながら漢文大系は「于是ハ古ノ道ニ於テナリ、必ズシモ王氏ノ説ノ如ク是子ニ改メズ」と注して、王説を取らず「是に于(お)いて」と読み下している。新釈も同じ。
(注14)増注は、故は事変なり、と言う。
(注15)宋本は、「介」字を「价」字に作る。

前半は、君主・家臣・父・子などの人間の各役割における倫理を列挙して、全ての人間関係は礼によって統制されるべきであり、ゆえに礼を尊重する君子は国家に重要であることが説かれる。後半は、君主が国を強くしようと望むならば人民を愛する政治を行わなければならず、人民を愛する政治を行うためにはしかるべき人材を求めて登用すべきである、と説く。いずれも、荀子各篇で説かれていることの繰り返しである。

前半で人間の各役割における倫理が列挙されているのであるが、荀子は子道篇において、「道に從いて君に從わず、義に從いて父に從わざるは、人の大行なり」と宣言する。すなわち、君主や父が義に外れている行為を行うときには、これに盲従せずに諌めてこれを正さなければならない、と説く。荀子は、後世の儒教倫理が陥ったような目上の存在への絶対服従を勧める立場を取らず、あくまでも人間関係に義があることが優先されると説く合理的倫理思想家である。

しかしながら、妻の夫に対する倫理に至って、荀子の合理的倫理もついに限界が見えるようである。妻は夫に礼があろうがなかろうが、従順恐懼しなければならない、と荀子は言う。荀子の倫理では、妻が夫に義を求めて諌める道は用意されないのである。孔子は「女子と小人は養い難し」(論語、陽貨篇)という名言を遺した。すなわち女子と小人はこれを近づけたら不遜となり、遠ざけたら怨む。このように理性によって自制することを知らない、倫理家にとって御しがたい存在である、と言うのである。孔子はこのように言ったが、古代の女子の側から見れば、男子たちが作った倫理に女子がどうして従わなければならない?と言いたかったのではないだろうか。斉国の文姜(ぶんきょう)、衛国の南子(なんし)、始皇帝の母の帝太后(ていたいこう)など、淫奔と糾弾された古代宮廷の婦人たちは、儒家のような男子中心の倫理観から見れば許しがたかったであろう。だが彼女たちの立場にあれば、男子たちの押し付ける倫理こそが女子にとって不条理だ、と言いたかったかもしれない。

孔子からすでに、女子は男子の倫理で捉えることが難しかった。孔子を受け継いだ荀子もまた、こうして妻の倫理について一方的に押し付けた服従の勧めを示して、女子には女子の言い分がある、という点を理解しようとはしなかった。今の時代でも、男子はこのような無理難題を女子に命じているのではないだろうか?そして女子の側は、それを内心鼻で笑っているのではないだろうか?

君道篇第十二(3)

道とは何であろうか?それは、君主の正道のことである。君主とは何であろうか?それは、人間を群れさせることができる存在である。群れさせることができるとは、どういうことであろうか?それは、人間を生かして養うことができるということであり、人間を区分けして治めることができるということであり、人間を登用することができるということであり、人間の身分ごとに文飾の区別を付けることができるということである。人間を生かして養うことができる者には、人々が親しむだろう。人間を区分けして治めることができる者の下では、人々が安心するであろう。人間を登用することができる者の下では、人々が楽しむであろう。人間の身分ごとに文飾の区別を付けることができる者は、人々によって尊ばれるであろう。この四つの統治のための要点を備えたならば、天下はこの者に帰すであろう。これが、人間を群れさせることができる、と呼ぶのである。だが人間を生かして養うことができない者には、人々が親しまないだろう。人間を区分けして治めることができない者の下では、人々は安心できないであろう。人間を登用することができない者の下では、人々は楽しめないであろう。人間の身分ごとに文飾の区別を付けることができない者は、人々によって尊ばれないであろう。この四つの統治のための要点を失ったならば、天下はこの者から去るであろう。このような者を、君主たるべきでない存在として、匹夫と呼ぶのである。古語に「道が存すればすなわち国は存し、道が亡びればすなわち国は亡ぶ」、とある通りなのである。工人・商人の数を減らして農夫を増やし(注1)、盗賊を禁じて姦悪の者を除く。これが、人間を生かして養う方法である。天子の下に三公(注2)があり、諸侯の下には一人の宰相があり、大夫(たいふ)はその官職に専念し、士(注3)は官職を持ち、それぞれの仕事には法度があって、必ず公正に仕事を行う。これが、人間を区分けして治める方法である。人材の徳を論議してその身分を定め、人材の能力を量ってその官職を与え、すべての人間に仕事を行わせ、各々の人間を適材適所に割り振り、最も賢明な者は三公に就かせ、次に賢明な者は諸侯に封じ、賢明さがその下の者は士・大夫となす。これが、人間を登用する方法である。冠弁(かんむり)と服装、服装の文様、器物調度の模様を整えて、身分に応じてことごとく区別を付ける。これが、人間の身分ごとに文飾の区別を付ける方法である。上は天子から下は庶民に至るまで、己の能力を発揮して、己の志を遂げ、必ず己の職分に安楽することは、万人に共通する目標というものである。また暖かい服装を着て食物は充たされ、安楽な住居を得て楽しく遊び、時宜に合った仕事を行い、明らかな職制があり、十分に財物が備わっているということは、これもまた万人に共通する目標というものである。だがしかし服装に色を重ねて文様を縫い上げ、食事に味を重ねて珍味を揃えることは、必要なものではなくて余分な贅沢というものである。そこで聖王はこういった余分な贅沢を手元に集め、これを臣下に分与することによって、身分の区別を明らかにした。すなわち上には賢良の者を余分に飾って貴賤の区別を明らかにし、下には年長者を年少者よりも余分に飾って親疎を明らかにしたのである。こうして上は王公のいる朝廷から、下は人民の住む住居に至るまで、天下の者は明らかに己の身分を知ることになるのである。この身分の区別は、区別自体が目的なのではない。それぞれの職分を明らかにして治世を完成させ、万世まで長らく世を安泰にするためである。ゆえに天子・諸侯は無駄な贅沢がなく、士・大夫は乱れた行いがなく、もろもろの官吏たちは職務怠慢がなく、一般人民は悪質で奇怪な風俗に染まらず盗賊の罪に走ることがないのは、身分秩序がよく義にかなっていてあまねく行き渡っているからである。古語に「治世には贅沢が人民にまで及び、乱世には不足が王公にまで及ぶ」とあるのは、このことなのである。

正道を極めた国の概略を述べる。礼を貴び法を極めれば、国は安定した常態を持つことになる。賢明な者を貴び能力ある者を登用すれば、人民は国の行く方向を知ることができる。議論を集めて公正に検討すれば、人民は疑わなくなる。勤勉な者を褒賞して怠惰な者を処罰すれば、人民は怠けなくなる。下の意見をことごとく聞いて明らかに政治を行えば、天下はこの者に帰す。これらのことを行った後に職分を明らかに区切り、事業の順序を決めて、才能ある者と技能ある者を官職に就け、すべてにおいて理にかなった統治を行えば、政治には公正なる道が開かれて私的な道は閉ざされ、公正な義が明らかとなって私的な行為は消え去るだろう。このようになれば、徳の厚い者は昇進して、悪心の者やへつらう者は上に行くことができず、利を貪る者は後退して、廉直で節義ある者は興隆するであろう。さて『書経』に、この言葉がある(注4)。:

命令を待たずに先行して行う者は、死罪としてこれを赦さない。
命令があったのに遅れて行わない者もまた、死罪としてこれを赦さない。
(逸文。本文はすでに散逸して伝わらない。)

つまり、人というものは、己の職分のことをよく学習してはじめて堅固な仕事ができるのであり、また人の行う仕事はすべて分担されるべきものであって、それはいわば耳と目と鼻と口の機能が別れていて交替できないことと同じなのである。ゆえに職分が分けられていれば人々は隣の職分のことについて気に掛けたりせず、身分位階が定まっていれば序列は乱れず、下の意見をことごとく聞いて明らかに政治を行えば、すべての事業は滞りなく行われるのである。このようになれば、臣下・官吏たちから庶民に至るまで、己の職分をよく修めてそこに安心してあえて留まり、己の能力を誠に尽くして与えられた官職を受けないことはなくなり、すべての人民は風俗を改善し、すべての小人は心を改め、悪質な心を持つ輩ですらすべて正直者に戻るであろう。これが、教化の政治の極みと言うのである。ゆえに天子は見ようとせずとも天下が見えて、聴こうとせずとも天下のことが聞こえ、熟慮しようとせずとも天下のことを知り、動こうとせずとも天下に功績を立て、静かに独り座っているだけで、天下がまるで一つの体のように従い、四肢が心の命ずるままに動くがごとく天下が従うのである。『詩経』に、この言葉がある。:

温(おだや)かで恭(つつし)む人は
これ、徳の基(もとい)
(大雅、抑より)

天子の統治術が完成すれば、このように動かずして天下を治めることができるだろう。


(注1)勧農抑商政策は、農業生産が圧倒的に重要な前近代社会では普遍的な政策である。
(注2)太師(たいし)・太傅(たいふ)・太保(たいほ)。正論篇(5)注3を参照。
(注3)ここでの「士」は、上級の宮廷人である「大夫」に対比して用いられ、下級の宮廷人のことを指す。荀子は上級の官僚を「君子」と呼び、下級の官僚を「士」と呼ぶ用法が多い。
(注4)偽古文尚書の夏書胤征篇にこの言葉が見えるが、偽古文尚書は晋代の偽書である。
《原文・読み下し》
道者(とは)何ぞや。曰く、君の道なりと(注5)。君者(とは)何ぞや。曰く、能く羣(ぐん)するなりと。能く羣するとは何ぞや。曰く、善く人を生養する者にして、善く人を班治する者にして、善く人を顯設(けんせつ)(注6)する者にして、善く人を藩飾(はんしょく)(注7)する者なり。善く人を生養する者は人之に親しみ、善く人を班治する者は人之に安んじ、善く人を顯設する者は人之を樂み、善く人を藩飾する者は人之榮とす。四統の者俱(そな)わりて、天下之に歸す、夫れ是を之れ能く羣すると謂う。人を生養すること能わざる者は、人親しまざるなり。人を班治すること能わざる者は、人安んぜざるなり。人を顯設すること能わざる者は、人樂まざるなり。人を藩飾すること能わざる者は、人榮とせざるなり。四統の者亡(うしな)いて、天下之を去る、夫れ是を之れ匹夫と謂う。故に曰く、道存すれば則ち國存し、道亡ぶれば則ち國亡ぶと。工賈を省き、農夫を衆にし、盜賊を禁じ、姦邪を除く、是れ之を生養する所以なり。天子は三公あり、諸侯は一相あり、大夫は官を擅(もっぱら)にし、士は職を保ちて、法度ありて公ならざること莫し、是れ之を班治する所以なり。德を論じて次を定め、能を量(はか)りて官を授け、皆其の人をして其の事を載(おこな)いて、各(おのおの)其の宜しき所を得せしめ、上賢は之をして三公爲(た)らしめ、次賢は之をして諸侯爲らしめ、下賢は之をして士大夫爲らしむ、是れ之を顯設する所以なり。冠弁(かんべん)・衣裳、黼黻(ほふつ)・文章、琱琢(ちょうたく)・刻鏤(こくろう)を脩して、皆等差有るは、是れ之を藩飾する所以なり。故に天子由(よ)り庶人に至るまで、其の能を騁(は)せ、其の志を得、其の事を安樂せざること莫きは、是れ同じき所なり。衣は煖にして食は充ち、居は安にして游は樂しく、事は時にし制は明にして用足る、是れ又同じき所なり。若し夫れ色を重ねて文章を成し、味を重ねて珍備(ちんび)(注8)を成すは、是れ衍(えん)なる所なり。聖王衍を財して、以て辨異を明(あきら)かにす。上は以て賢良を飾りて貴賤を明かにし、下は以て長幼を飾りて親疏を明かにす。上は王公の朝に在り、下は百姓の家に在るまで、天下曉然(ぎょうぜん)として皆其の所を知る、以て異を爲すに非ざるなり、將に以て分を明かにし治を達して萬世を保せんとするなり。故に天子・諸侯は靡費(びひ)の用無く、士大夫は流淫の行無く、百吏・官人は怠慢の事無く、衆庶・百姓は姦怪の俗無く、盜賊の罪無きは、其の能く以て義に稱(かな)いて徧(あまね)ければなり。故(こ)に曰く、治には則ち衍百姓に及び、亂には則ち不足王公に及ぶとは、此を之れ謂うなり。
道を至(きわ)むるの大形。禮を隆(とうと)び法を至(きわ)むれば、則ち國に常有り。賢を尚(とうと)び能を使えば、則ち民方(ほう)を知り、論を纂(あつ)めて公察すれば、則ち民疑わず、克(べん)(注9)を賞して偷(とう)を罰せば、則ち民怠らず、兼聽して齊明なれば、則ち天下之に歸す。然る後に分職を明かにし、事業を序し、材技能を官して、治理せざること莫ければ、則ち公道達して、私門塞がり、公義明かにして、私事息(や)む。是の如くなれば、則ち德厚き者進みて、佞說する者止まり、貪利なる者退きて、廉節なる者起る。書に曰く、時に先(さきだ)つ者は殺して赦すこと無く、時に逮(およ)ばざる者は殺して赦すこと無し、と。人其の事を習いて固く、人の百事は、耳・目・鼻・口の以て官を相借る可からざるが如きなり。故に職分れて民探せず(注10)、次定りて序亂れず、兼聽齊明にして百事留らず、是の如くなれば、則ち臣下・百吏より庶人に至るまで、己を脩めて而(しか)る後に敢て止(し)(注11)に安んじ、能を誠にして而(しか)る後に敢て職を受けざること莫く、百姓俗を易(か)え、小人心を變じ、姦怪の屬(ぞく)、愨(かく)に反(かえ)らざること莫し。夫れ是を之れ政敎の極と謂う。故に天子視ずして見え、聽かずして聰(きこ)え、慮らずして知り、動かずして功あり、塊然として獨坐して、天下之に從うこと一體の如く、四胑(しし)の心に從うが如し。夫れ是を之れ大形と謂う。詩に曰く、溫溫(おんおん)たる恭人、維(こ)れ德の基(もとい)、とは、此を之れ謂うなり。


(注5)原文「君道也」。集解の王念孫は儒效篇の「人の道(おこな)う所以(人之所以道)」を引いて、ここの「道」は「行」の意味であって君道篇のこの箇所には「之所」が脱落している、と論ずる。王説に沿って補ってこの君道篇を読むとすれば、「君の道(おこな)う所なり」となるだろう。しかし新釈の藤井専英氏も指摘するように、王説のように補って「君主が行うこと、政策」のように読むよりも、むしろ「君の道」のままに読んで「君主の(なすべき)正道」として取るほうがよいと思われる。
(注6)集解の王先謙は、「設」は「用」であり、人を顕設するとはなお人を顕用すると言うがごとし、と言う。人材を登用すること。
(注7)増注は、「その位班を称し、文飾を加え、上下をして別あらしむるなり」と注する。身分ごとに文飾の区別を付けること。
(注8)「珍備」は、韓詩外伝の引用において「備珍」に作られている。集解の兪樾は、正論篇の「食飲は則ち太牢を重ねて珍怪を備う」に沿ってここは「備珍怪(珍怪を備う)」の誤りである、と言う。
(注9)集解の王念孫は、「克」はまさに「免」となすべく字の誤りなり、「免」と「勉」は同じ、と言う。韓詩外伝の引用では「勉」字となっている。
(注10)増注・集解の王念孫はともに韓詩外伝の引用では「探」を「慢」字に作ることを指摘して、「慢」の誤りであると言う。新釈の藤井専英氏は「探」について「様子をさぐる。推測する。『不探』は自己の職分外の事を気にかけない意」と注釈している。藤井説に従い、字を改めない。
(注11)宋本は「正」に作る。増注は「止」について「己の立つ所の位なり。益稷に云う、汝の止に安んじよ、と。亦此の止と同じ」と言う。すなわち、「止」は己の職分のこと。

ここでは、王制篇・富国篇において述べられた政策が再説されている。荀子がなぜ身分秩序が必要であると主張するのかの理由は、富国篇の社会契約説と墨子への批判に詳しい。荀子にとって身分秩序は富貴を能力に応じて分配する装置であり、社会が争いと貧困に陥ることを防ぐための道具である。荀子には、孟子のような天命論、あるいは西洋や日本の王権神授説や現人神思想のような、神秘的な力によって裏打ちされた貴賤観が入り込む余地はない。

君道篇第十二(4)

君主は、国が強いことを望んで弱いことを嫌い、我が身が安泰であることを望んで危険となることを嫌い、栄光を望んで恥辱を嫌う。これは、聖王の禹(う)でも悪王の桀(けつ)でも同じことである。この三つの願望を求めて三つの嫌悪を避けるためには、はたしてどのような道を取るのが簡便であろうか?それは、身を慎んでよい宰相を選び取ることよりも最短の道はない。その宰相は、智があっても不仁ではいけない。仁があっても不智ではいけない。仁があってなおかつ智である人材が、君主の宝であり、王者・覇者の輔佐にふさわしい(注1)。このような宰相を得ることを急がないのは、不智である。このような宰相を得たのに登用しないのは、不仁である。宰相たるべき人材が登用されていないのに大きな功績を挙げることを願うのは、愚の骨頂である。いまの時代の君主にある多いなるわざわいを挙げるならば、一つは賢者に政治を行わせながら、片方で愚者といっしょにその政治をあれこれと修正をかけることである。二つは智者に政治を考えさせながら、片方で愚者とその政治を議論することである。三つは徳を修めた高潔の士に政治を行わせながら、片方で汚れた姦悪の輩といっしょにその政治を疑うことである。こんなことで、政治に成果を求めても無理なことである。これをたとえれば、真っ直ぐな木を立てておきながらその影が曲がらないかと恐れるようなものであり、惑いの骨頂である。古語には、「美人は醜人のわざわい、公正の士は愚衆のじゃま者」とある。正道に従う人は、汚れた姦悪の輩の賊なのである。汚れた姦悪の輩にその賊のことを議論させて、その議論が偏らないことを求めても無理なことである。これをたとえれば、曲がった木を立てておきながらその影が真っ直ぐであることを期待するようなものであり、錯乱の骨頂である。ゆえに、いにしえの人が人材を登用する道は違っていた。人材を取るには正道を取り、人材を登用するには法に従った。人材を取る正道とは、礼義に照らし合わせて人材の良し悪しをはかることである。人材を登用する法とは、身分に応じて権限を定めることである。登用した人材の行動と動作は礼義に従ってその良し悪しを考え、その人材の取捨選択した思慮は政策の成果によって評価し、その人材の日々の努力は挙げた功績によって比較する。このゆえに身分低い者は身分高い者の上に立って君臨することはできず、権限の軽い者は重い者の政治を評価することはできず、愚かな者は智者の政治について推測することができず、こうして何度政策を行っても過ちがなかったのである。ゆえに、人材を比較するときには礼義によってこれを行い、その者がよく恭敬に安んじているかどうかを観察し、その者とともに行動してみて異変によく対応できるかどうかを観察し、その者とともに遊んでみて放埓に流れないかどうかを観察し、その者が音楽・女色・権勢・利益といった誘惑の種に遭遇し、また腹の立つことや困難なことに遭遇したときに、節度をよく守って離れないかどうかを観察するのである。そうすれば、真の分別を身につけた人材とそうでない人材とは、白と黒のように区別できて曲げることはできないだろう。ゆえに伯楽(はくらく)(注2)が馬の良し悪しで欺かれることはできないように、君子ならば人の良し悪しで欺かれることはできない。これが、明主の道である。

君主が遠くにある小さな的を射抜く射術の名手を求めたいのであれば、高い爵位や大きな褒賞を示してこれを招くのであって、身内の子弟をえこひいきして選んではならず、縁遠い人材を見逃してはならず、とにかくよく的に当てる名手を採用するであろう。これ以外に、名手を得る方法などはあるはずがなく、聖人といえどもこれを変えることはできはしない。速い者にも追いつき遠くまで走る、一日千里を駆ける御車術の名手を求めたいのであれば、高い爵位や大きな褒賞を示してこれを招くのであって、身内の子弟をえこひいきして選んではならず、縁遠い人材を見逃してはならず、とにかくよく馬車を走らせる名手を採用するであろう。これ以外に、名手を得る方法などはあるはずがなく、聖人といえどもこれを変えることはできはしない。では国を治めて人民を駆り立て、上下を調和斉一させたいと望み、そのために内に向けては国人に誠実たることを求めて外に向けては外敵を防ぐことに努めることしか行わないならば、なるほど平安の時期ならば人を統制できて外国人に統制されることもなかろう。だがひとたび戦乱の時期となれば、これだけではあっという間に危難に陥って恥辱を受け、滅亡することであろう。だから君主は卿(けい。大臣)や宰相の輔佐を求めなければならないのであるが、その輔佐する卿や宰相を選ぶときにはさきほどのような国を治める公正さがなくて、己に親しんで群れる気に入りの者たちばかりを用いるならば、それは過ちの最たるものである。だから社稷を保つ君主というものは、誰もが強いことを望んでにわかに弱くなり、誰もが安泰となることを望んでにわかに危険に陥り、誰もが国と我が身を存続させることを望んでにわかに滅亡するのである。なのでいにしえの時代には万単位も国があったのに、今や十数国しかないのは、他でもない、輔佐する人材を選ぶところに失策があったからなのである。ゆえに明主は人に個人的な好意で金石珠玉を贈ることはあるが、人に個人的な都合で官職事業を渡すことはしないのである。それはどうしてであろうか?それは、官職事業を個人的な都合で渡すことは、渡す当人に利益がないことだからである。その者が無能であるのに君主がこれを用いるならば、それは君主が闇主であるということである。家臣が無能でありながら有能であると偽るのは、それは家臣が己の実力に嘘を付くということである。上では君主が闇主で、下では家臣が実力に嘘を付いていれば、国の滅亡は待ったなしであり、君主と家臣が共々に害を受ける道である。あの周の文王(ぶんおう)は、高位の一族に欠けていたわけではなかったし、身内の子や弟がいなかったわけではなかったし、また気に入りの家臣がいなかったわけでもなかった。しかし彼は発起して太公(たいこう)(注3)を人民から抜擢してこれを登用したのであった。これは、文王が太公を個人的な好意で用いたのでは決してない。親類であっただろうか?いや、周王室は姫(き)姓であり、太公は姜(きょう)姓である(注4)。旧知の間柄であっただろうか?いや、両名はそれまで互いに面識がなかった。眉目美麗であったからだろうか?いや、そのとき太公はすでに七十二歳であり、歯が抜け落ちた老人であった。それなのに文王が太公を用いたのは、文王が貴い正道を立てて貴い名声を明らかにして天下に恵みを垂れようと望んだとき、自分独りではそれができなかった。そのときに太公でなければこのことを行うには不足であったので、これを抜擢して用いたのであった。こうして果たして貴い正道は立ち、貴い名声は明らかとなり、天下をすべて制し、立国封建した七十一国のうち姫姓が五十三人を数え、周王室の子孫ならば狂気惑乱の者でない限りすべて天下の大諸侯に封じられることとなった。この成功を得たのは、人を愛する仁心があったゆえである。ゆえに天下の大道を掲げて天下の大功を立て、それが成った後に己に近しい者たちや愛する者たちを厚く庇護し、それ以下の一族の者もまた天下の大諸侯となることができたのであった。古語には「ただ明主のみがその愛するところをよく愛することができて、闇主はその愛するところまで必ず危うくする」とあるが、それは以上のことを指しているのである。


(注1)荀子の言葉と、孟子が弟子の楽正子を為政者の器として推奨した言葉を比較しよう(告子章句下、十三)。孟子は善を愛する心さえあれば為政者としては十分だと言い、その知力を重視しない。対する荀子は仁と智の両者がなければ宰相には選べない、と言う。この微妙な相違点が、両者の政治観の重要な分かれ目に繋がっているのではないだろうか。孟子はたとえば宰相のような高級官僚もまた具体的な仕事を行う必要はなくて人徳で人を動かすのが役割であって、具体的な仕事は属する配下が行うべきと考えているようである。他方荀子は働かなくてよいのは君主だけであって、宰相以下の高級官僚は行政の頂点として最高の仕事を行わなければならないと考えているようである。孟子は官僚制が未発達な親分・子分関係が支配する名望家政治を想定していたようであり、他方荀子は戦国時代末期の発達した官僚制を想定していたはずである。
(注2)伯楽とは、天帝の馬をつかさどる星の名。また春秋時代の人物である孫陽(そんよう)のことを指す。馬を見分けていることに優れていたので、伯楽と呼ばれた。
(注3)太公望(たいこうぼう)、すなわち呂尚(りょしょう)のこと。老年まで困窮していたが、周の文王がその才を見込んで抜擢し、文王・武王の二代に仕えて周が殷を倒すことに大功があったと伝えられる。その子孫は斉国に封じられて、春秋時代に桓公を輩出して春秋時代の最初の覇者となった。戦国時代になると斉国の君主の位は田(でん)氏に簒奪されて、呂尚の後裔は絶えた。
(注4)古代周王朝の王室は姫(き)姓である。呂尚は姓が呂、名が尚、字(あざな)が子牙(しが)であるが、その本姓は姜(きょう)姓であり、史記斉太公世家によれば祖先が呂(りょ)の地に封じられたので呂姓を名乗るようになったという。よって本姓と字(あざな)を組み合わせて、姜子牙(きょうしが)とも称される。
《原文・読み下し》
人主爲(た)る者は、强を欲して弱を惡(にく)み、安を欲して危を惡み、榮を欲して辱を惡まざる莫し、是れ禹・桀の同じき所なり。此の三欲を要(もと)め、此の三惡を辟(さ)くるは、果して何の道にして便なる。曰く、愼んで相(しょう)を取るに在り、道是(これ)より徑(けい)なるは莫し。故に智にして不仁なるは、不可なり。仁にして不智なるは、不可なり。既に智にして且つ仁なるは、是れ人主の寶(たから)なり、王霸の佐なり。得ることを急にせざるは、不知なり、得て用いざるは、不仁なり、其の人無くして有其の功有るを幸(ねが)うは、愚焉(これ)より大なるは莫し。今人主に六患(たいかん)(注5)有り、賢者をして之を爲さしめて、則(しか)るに(注6)不肖者と之を規し、知者をして之を慮らしめて、則(しか)るに愚者と之を論じ、脩士をして之を行わしめて、則(しか)るに汙邪(おじゃ)の人と之を疑う、成立(注7)を欲すと雖も、得んや。之を譬うるに、是れ猶お直木を立てて、其の景(かげ)の枉(まが)らんことを恐るるがごときなり、惑(まどい)焉より大なるは莫し。語に曰く、好女の色は、惡者の孽(げつ)なり(注8)、公正の士は、衆人の痤(ざ)なり(注9)、と。道に循う人は、汙邪の賊なり。今汙邪の人をして、其の怨賊を論ぜしめて、其の偏無からんことを求むるも、得んや。之を譬うるに、是れ猶お枉木を立てて其の景の直を求むるがごときなり、亂焉より大なるは莫し。故(ゆえ)に古の人之を爲すは然らず、其の人を取るや道有り、其の人を用うるや法有り。人を取るの道は、之を參(さん)するに禮を以てし、人を用うるの法は、之を禁ずるに等を以てし、行義・動靜は、之を度(はか)るに禮を以てし、知慮・取舍は、之を稽(かんが)うるに成を以てし、日月・積久は、之を校するに功を以てす。故に卑は以て尊に臨むことを得ず、輕は以て重を懸(はか)ることを得ず、愚は以て智を謀ることを得ず、是を以て萬舉して過たざるなり。故に之を校するに禮を以てして、其の能く敬に安んずるを觀、之と舉措(きょそ)・遷移して、其の能く應變(おうへん)するを觀、之と安燕(あんえん)して、其の能く流慆(りゅうとう)すること無きを觀、之に接するに聲色(せいしょく)・權利、忿怒(ふんど)・患險を以てして、其の能く守を離るること無きを觀るなり。彼の誠に之有る者と、誠に之無き者とは、白黑の若く然り、詘(くつ)す可けんや。故に伯樂(はくらく)は欺くに馬を以てす可からず、君子は欺くに人を以てす可からず、此れ明王の道なり。
人主、善射の遠を射て微に中(あ)つる者を得んと欲すれば(注10)、貴爵・重賞を懸けて、以て之を招致し、內以て子弟に阿(おもね)る可らず、外以て遠人を隱す可からず、能く是に中つる者は之を取る、是れ豈に必ずしも之を得るの道ならざらんや、聖人と雖も易(か)うること能わざるなり。善馭の速に及び遠を致す者、一日にして千里なるを得んと欲すれば(注11)、貴爵・重賞を懸けて、以て之を招致し、內以て子弟に阿る可らず、外以て遠人を隱す可からず、能く是を致(いた)す者は之を取る、是れ豈に必ずしも之を得るの道ならざらんや、聖人と雖も易うる能わざるなり。國を治め民を馭し、上下を調壹(ちょういつ)せんと欲し、將(すなわ)ち(注12)內は以て城を固くし、外は以て難を拒(ふせ)ぐのみならば、治には則ち人を制し、人制すること能わざらんも、亂には則ち危辱・滅亡すること、立ちどころにして待つ可きなり(注13)。然り而(しこう)して卿相・輔佐を求むるは、則ち獨り是の若く其れ公ならざるなり、案(すなわ)ち唯(ただ)己に便嬖(べんべい)・親比する者をのみ之れ用う、豈に過つこと甚だしからずや。故に社稷を有する者は、强を欲せざること莫きも、俄(にわか)にして則ち弱く、安を欲せざること莫きも、俄にして則ち危く、存を欲せざる莫きも、俄にして則ち亡ぶ。古(いにしえ)は萬國有りて、今は數十(じゅうすう)(注14)有り、是れ它(た)の故無し、之を是に失せざること莫きなり。故に明主は人に私するに金石・珠玉を以てすること有り、人に私するに官職・事業を以てすること無し、是れ何ぞや。曰く、本(もと)より私せらるる所に利ならざればなり。彼不能にして之を使えば、則ち是れ主闇(くら)きなり、臣不能にして能を誣(し)うるは、則ち是れ臣詐(いつわ)るなり。主上(かみ)に闇く、臣下(しも)に詐(いつわ)れば、滅亡すること日無く、俱(とも)に害するの道なり。夫の文王は貴戚無きに非ざるなり、子弟無きに非ざるなり、便嬖無きに非ざるなり、倜然(てきぜん)として乃ち太公を州人より舉げて之を用う、豈に之に私せんや。以て親と爲さんか、則ち周は姬(き)姓にして、彼は姜(きょう)姓なり。以て故(こ)と爲さんか、則ち未だ嘗て相識らざるなり。以て好麗と爲さんか、則ち夫の人行年七十有二、齫然(ぐんぜん)(注15)として齒(し)墮つ(注16)。然り而して之を用うる者は、夫の文王貴道を立て、[欲](注17)貴名を白(あきら)かにして、以て天下を惠せんと欲せしに、而(しか)も以て獨なる可からず、是(か)の子に非ざれば(注18)以て之を舉ぐるに足る莫し、故に是(か)の子を舉げて(注19)之を用う。是(ここ)に於て貴道果して立ち、貴名果して明かにして、天下を兼制し、七十一國を立て、姬姓獨り五十三人に居る。周の子孫、苟(いやし)くも狂惑ならざる者は、天下の顯諸侯(けんしょこう)爲らざること莫し、是の如き者は、能く人を愛すればなり。故に天下の大道を舉げ、天下の大功を立て、然る後に其の憐する所、愛する所を隱(いん)す、其の下猶お以て天下の顯諸侯と爲るに足る。故(こ)に曰く、唯(ただ)明主のみ能く其の愛する所を愛することを爲し、闇主は則ち必ず其の愛する所を危うくす、とは、此を之れ謂うなり。


(注5)集解の兪樾は、「六」は「大」の誤りと言う。
(注6)増注は、「則」はなお「而」のごとし、と言う。以下三つの「則」は、逆説の接続詞として読み下す。
(注7)宋本は「成立」を「成功」に作る。
(注8)増注は、「好」は美、「惡」は醜、「孽」は妖孽なり、と言う。美人は醜人のわざわいである、という意。
(注9)「痤」は、腫れ物のこと。増注は、「痤は妨害なり」と言う。公正の士は一般大衆の邪魔者である、ということ。
(注10)原文「人主、欲得善射射遠中微者」。宋本は「射」一字が欠落して「人主、欲得善射遠中微者(人主、善射の遠きより微に中つる者を得んと欲すれば)」に作る。
(注11)原文「欲得善馭速致遠者、一日而千里」。宋本には「及」字がない。集解本は「及」字を削り、増注本は残す。集解の王念孫は、前後の文が対句となるべきであること、あるいは王覇篇の表現などを引いて、「及」を残すべき説を立てる。兪樾は後文は「一日而千里」が付け加わっていて対句が破れていて、この五字の意味が「及」字の代わりであることを指摘して、「及」字を削るべき説を立てている。この読み下しでは、底本の漢文大系が増注本に従って読み下していることに倣って「及」字を残すことにしたい。なお新釈の藤井専英氏は「一日而千里」の五字が傍注の竄入である可能性を示唆している。もしこれを除くならば前後の文が対句として完全なものとなるので、有力な読み方であると考える。
(注12)「將」を漢文大系は「はた」と読んでいる。金谷治氏および藤井専英氏は「すなわち」と読んでいる。ここは金谷・藤井説に従っておく。
(注13)以上の「國を治め民を馭し、、」以下の一文について猪飼補注は、上下が連続せずおそらく衍脱がある、と言う。上の読み下しは、欠けた意味を補うために、原文に沿わず金谷・藤井両氏の読み下しを参考として行った。
(注14)富国篇では同じ表現で「十數」に作られている。増注・集解の王念孫ともに、十数に改めるべきと言う。
(注15)増注および集解の郝懿行は、ともに韓詩外伝の引用にて「齫」が「齳(ぐん)」字であることを引く。「齳」は、歯が無い貌。
(注16)原文「而齒墮」。宋本は「兩齒墮」に作る。
(注17)増注は、この文の二つ目の「欲」は衍と言う。
(注18)原文「非于是子」。集解本を底本としている漢文大系に従う。影宋台州本を底本とする新釈はここを「非于是」としている。さきの君道篇(2)の注13で王説を取らず「于是」と取ったので、君道篇内の文体の一貫性を重んじるならば新釈のほうがよいと思われる。
(注19)原文「舉是子」。これも集解本を底本とする漢文大系に従う。新釈は「舉于是」とする。

この君道篇の要点である、君主の最大の仕事は賢明な人材を選んでこれを宰相に登用すること、それが述べられる。荀子の君道篇における論述はまず礼法のシステムを整えることが有効な統治には必要であることを説き、その前提に立った上で、君主は行政の最高責任者として賢明な宰相を登用してこれをシステムの管理者として働かせるべし、という筋立てを取っている。ゆえに、システムの説明のために長大な前置きが置かれて、ここでようやく要点が述べられている。理論を追う学究の者たちは荀子の論述をよく聞いてくれることであろうが、政治の現場にある為政者にとってはよほど好学の者でなければここに至るまでに興味を失ってしまわないだろうか。

君道篇第十二(5)

牆(かきね)の外は、目で見ることができない。一里(約400m)向こうの音は、耳で聞こえない。なのに君主が担当すべき範囲のことは、遠くは天下の情勢から近くは国内の事情まで、その大略ぐらいは知っておかなければならない。天下の異変や国内の事件は、いろいろとゆるみが起こったり噛み合わない齟齬が起こったりするものだ。だが君主がその内容を知る手段を持たないならば、情報を知らないために脅迫される状況を作りかねず、情報を遮断されて何も知らされない状況を作りかねない。一個人が持っている目と耳の認識力はこんなにも狭く、君主が担当するべき範囲はこんなにも広い。その間の広大な空間で起こることは絶対知っておかなければならず、知らなければこんなにも危険なことになる。ならば、君主はこれをどうやって知ればよいのであろうか?それは、君主の左右に仕える側近たちは君主が遠きを観察して衆人の声を集めるための窓であるから、これを必ず早急に備えることである。ゆえに君主は側近の中に必ず信頼できる者があって、はじめてよく治めることができるのである。その信頼できる側近が事物を考量するだけの智慧があり、事物を判断できるだけの誠実さがあって、はじめてよく治めることができるのである。このような人材を、国具すなわち国に必要な道具と呼ぶ。君主といえども、遊興したり休息したりすることが必要であるし、また病気や死去の凶事が身の回りに起こらずにはいられない。それなのに国家というものは、泉が沸くがごとくに案件が起こるのであって、その一つでも対応しないならば、それは国の乱れのもととなる。ゆえに、「君主は一人でいることはできない」と言うのである。卿(けい。大臣)や宰相、補佐する家臣たちは、君主の几(ひじかけ)や杖(つえ)であって、早急に備えなければならない。君主は、政務を任せることができるこれらの重臣があって、はじめてよく治めることができるのである。それら重臣の徳の名声が人民を鎮撫するに足り、その知慮が万変に対応するに足りて、はじめてよく治めることができるのである。このような重臣を、国具と呼ぶのである。国の周囲には隣国諸侯があって、君主はこれらと関係を持たなければならない。だが、必ずしも友好な関係を持てない国もあるだろう。ゆえに君主は、遠国に赴いて必ず君主の意志を伝えて問題を解決することができる者があって、はじめてよく治めることができるのである。その弁舌は煩雑な問題を解明することができて、その知慮は問題を解決することができて、その裁断は国難を防ぐことができて、私事にかまけることなく、君主に叛くことなく、そうしてこの者が国家の急迫時に対応して外患を防ぎ、社稷を保つことができて、はじめてよく治めることができるのである。このような家臣を、国具と呼ぶのである。ゆえに、君主がその左右に仕える側近の中に信頼できる者がいないならば、これを闇(あん)すなわち情勢に闇い君主と言う。君主が政務を任せることができる卿や宰相、補佐する家臣を持たないならば、これを独(どく)すなわち一人で全部行わなければならない君主と言う。隣国諸侯に使者として赴く者がしかるべき人物でない君主は、これを孤(こ)すなわち孤立した君主と言う。君主が孤・独でかつ闇であるならば、これを危(き)すなわち危機にあると言い、たとえ国が存続していたとしても、いにしえの人は「この国は亡んだ」と言うであろう。『詩経』に、この言葉がある。:

済々と、多士をそろえて
文王の、み心寧(やす)し
(大雅、文王より)

文王の周囲は人材が多士済々であったので、彼は安心して統治できたのだ。

人材登用の規準について。誠実で勤勉であり、計数に細かく、仕事をうっかりしくじったりしない人物は、下級の官吏とするべき人材である。身をよく整えて端正であり、法度を尊んで分限を謹み、偏った心がなく、職分を守って職務に従い、課せられた任務をあえて増したり減らしたりせず、その任務を後世に伝えることができて侵し奪われるようなことがない人物は、士・大夫の長官とするべき人材である。礼義を尊ぶことは君主を尊ぶためであることを知り、士を好むことは名声を美しくするためであることを知り、人民を愛することは国を安んずるためであることを知り、恒常的な法度があることは人民の風俗を斉一にするためであることを知り、賢明な者を貴び能力ある者を登用するのは功績を高めるためであることを知り、農業を勧めて商工業を禁圧するのは財貨を多くするためであることを知り、下の者と小さな利益を争わないのは大きな事業をうまく行うためであることを知り、(度量衡などの)制度を明確化して事物を計量し活用するのはいちいち労苦をかけないためであることを知る、このような人物は、卿や宰相、補佐する家臣とするべき人材である。しかしこれら三つの人材は、まだ君主の正道には至らない(注1)。これら三つの人材の能力を論じて官職に就け、その身分序列を失わないことが、君主の正道と言うのである。このことを行うならば、君主は身体を楽にしたままで国は治まり、功績は大きく名声は美しくなり、最上ならば王者となってそれに劣っても覇者となるであろう。これが、君主の守るべき要点なのである。だがもし君主がこれら三つの人材の能力を論ずることができず、君主の正道に従うことができず、すなわちただただ自らの権勢を低くして自分自ら汗を流して労苦し、目と耳の楽しみをしりぞけて、自ら何日もかけて詳しく調べて一日中つぶさに事案を論議し、家臣と細かな点の理解を争ってかたよった能力を使い尽くすことばかりを思うならば、いにしえから現代に及ぶまで、このようなやり方で国が乱れなかったことはない。これがいわゆる「見ることができないものを見て、聞くことができないものを聞いて、成し遂げられないことを行う」と言うのである。


(注1)金谷治氏(岩波文庫)・藤井専英氏(新釈)の訳とはあえて異なる解釈で訳した。下の注11参照。
《原文・読み下し》
牆(しょう)の外は、目見えざるなり、里(り)の前(さき)は、耳聞えざるなり、而(しか)るに人主の守司は、遠き者は天下、近き者は境內にして、略知せざる可からざるなり。天下の變、境內の事は、弛易(しえき)(注2)・齵差(ぐうさ)(注3)する者有り、而(しこう)して人主是を知るに由(よし)無ければ、則ち是れ拘脅(こうきょう)・蔽塞(へいそく)の端(たん)なり。耳目の明は、是の如く其れ狹きなり、人主の守司は、是の如く其れ廣きなり。其の中は(注4)以て知らざる可からざるや、是の如く其れ危きなり。然らば則ち人主は將(は)た何を以て之を知る。曰く、便嬖(べんべい)・左右なる者は、人主の遠きを窺い、衆を収むる所以の門戶・牖嚮(ようきょう)(注5)にして、早く具(そな)えざる可からざるなり。故に人主は必ず將た便嬖・左右の信ずるに足る者有りて、然る後に可なり。其の知慧(ちけい)は物を規せしむるに足り、其の端誠は物を定めしむるに足りて、然る後に可なり。夫れ是を之れ國具(こくぐ)と謂う。人主も遊觀(ゆうかん)・安燕の時有らざること能わず、則(しこう)して(注6)疾病・物故の變有らざることを得ず。是の如くなれば、國なる者は、事物の至るや泉原の如く、一物應ぜざるは、亂の端なり。故に曰く、人主以て獨なる可らざるなり、と。卿相・輔佐は、人主の基杖(きじょう)(注7)にして、早く具(そな)えらざる可からざるなり。故に人主必ず將た卿相・輔佐の任ずるに足る者有りて、然る後に可なり。其の德音(とくいん)は以て百姓を塡撫(ちんぶ)するに足り、其の知慮は以て萬變を應待するに足りて、然る後に可なり。夫れ是を之れ國具と謂う。四鄰諸侯(しりんしょこう)の相與(くみ)する、以て相接せざる可からざるなり、然り而して必ずしも相親しまざるなり。故に人主は必ず將た遠方に喻志(ゆし)・決疑せしむるに足る者有りて、然る後に可なり。其の辯說は以て煩を解するに足り、其の知慮は以て疑を決するに足り、其の齊斷(せいだん)は以て難を距(ふせ)ぐに足り、秩(し)を還(いとな)まず(注8)、君に反せず、然り而して薄(はく)(注9)に應じ患を扞(ふせ)ぎ、以て社稷を持するに足りて、然る後に可なり(注10)。夫れ之を是れ國具と謂う。故に人主便嬖・左右に信ずるに足る者無き、之を闇と謂い、卿相・輔佐の任ずるに足る無き者、之を獨と謂い、四鄰諸侯に使する所の者、其の人に非ざる、之を孤と謂う。孤獨にして晻(あん)なる、之を危と謂い、國存するが若しと雖も、古の人は亡ぶと曰う。詩に曰く、濟濟(せいせい)なる多士、文王以て寧(やす)し、とは、此を之れ謂うなり。
人を材(さい)す。愿愨(げんかく)・拘錄(こうろく)、計數纖嗇(けいすうせんしょく)にして、敢て遺喪すること無きは、是れ官人・使吏の材なり。脩飭(しゅうちょく)・端正にして、法を尊び分を敬して、傾側の心無く、職を守り業に循(したが)い、敢て損益せず、傳世(でんせい)す可くして、侵奪せしむ可からざるは、是れ士・大夫・官師の材なり。禮義を隆(とうと)ぶの君を尊ぶが爲(ため)なるを知り、士を好むの名を美にするが爲なるを知り、民を愛すの國を安んずるが爲なるを知り、常法有るの俗を一にするが爲なるを知り、賢を尚(とうと)び能を使うの功を長ずるが爲なるを知り、本を務め末を禁ずるの材を多くするが爲なるを知り、下と小利を爭うこと無きの事に便なるが爲なるを知り、制度を明(あきら)かにし、物を權(はか)りて用に稱(かな)うの泥(なず)まざるが爲なるを知るは、是れ卿相・輔佐の材なり。未だ君道に及ばざるなり(注11)。能く此の三材の者を論官して、其の次を失うこと無きは、是れ人主の道と謂うなり。是の若くなれば則ち身佚にして國治まり、功大にして名美に、上は以て王たる可く、下は以て霸たる可し、是れ人主の要守なり。人主此の三材の者を論ずること能わず、此の道に道(よ)ることを知らず、安(すなわ)ち値(ただ)に(注12)將(は)た埶(せい)を卑しくして勞を出し、耳目の樂しみを併(しりぞ)けて(注13)、親しく自ら日を貫(かさ)ねて治詳し、一日(いちじつ)(注14)にして曲(つぶさ)に之を辨(べん)し、臣下と小察を爭いて偏能を綦(きわ)めんこと慮るのみなれば、古(いにしえ)自(よ)り今に及ぶまで、未だ此の如くにして亂れざる者有らざるなり。是れ所謂(いわゆる)、見る可からざるを視、聞く可からざるを聽き、成す可からざるを爲す、とは、此を之れ謂うなり。


(注2)「弛易」について、金谷治氏は王先謙の「弛易はなお弛慢のごとし」を取って「ゆるむ」と訳す。新釈は増注を取って「移り変わる」と訳す。王先謙説を取る。
(注3)集解の王先謙は、「歯の正しからざるを齵と曰う」と言う。「齵差」は、歯がかみ合わないように物事にずれが起こること。
(注4)宋本は「中」字があり元本はない。集解の王先謙は王念孫の説に従い「中」字を戻している。「中」は耳目の認識できる狭い範囲と君主が守るべき広大な範囲との間のこと。
(注5)「牖」は格子窓のこと。「嚮」は「向」と同じで、北向きの出窓のこと。つまり「牖嚮」で、合わせて窓の意。
(注6)増注は、「則」はなお「而」のごときなり、と言う。
(注7)増注は、「基」は疑うはまさに「几」に作るべし、と言う。これに従う。つくえ。
(注8)「秩」について増注および集解の王念孫は、「私」の誤りと言う。「還」について、増注は「反顧なり」、と言い、王念孫は「読んで営となす」、と言う。増注に従えば「かえりみる」と読み下し、王念孫に従えば「いとなむ」と読み下すであろう。漢文大系・金谷治氏・藤井専英氏ともに「いとなむ」と読み下しているので、これを取る。
(注9)増注は「迫」は急迫なり、と言う。集解の兪樾は「薄の言は迫なり」と言う。
(注10)原文「然後可」。集解本にはこの三字がなく、増注本にはある。増注本に従い戻す。
(注11)金谷治氏・藤井専英氏ともに、ここを「未だ君道に及ばざるも、、」と読んで後文につなげて解釈している。つまり、三材の者を論官してその次を失うこと無きならば、これは人主の道と言うべきであるがそれでも「君道」には及ばない、という読み方を取っている。だが、これ以上他に君道すなわち君主の正道がある、と荀子が考えていたであろうか?君道篇(3)に書かれている君道すなわち君主の正道は、三材の者を論官してその次を失うこと無きことに尽きるのではないだろうか?この疑問を持つので、あえて「未だ君道に及ばず」の文は前の三材の者は(たとえ卿相・輔佐の材であったとしても)君道には及ばない、以下に述べることが君道すなわち人主の道である、と解釈したい。疑うは、「然而是三材之道(然り而して是の三材の道は)」のような語が文頭から脱しているのかもしれない。
(注12)増注は、「値」は読んで「犆」となし、特・獨・直と同じ、と言う。「ただ」。
(注13)集解の王先謙は、「併」と「屛」は同じ、と言う。しりぞける。
(注14)「一日」について、宋本は「一內(内)」に作る。新釈は宋本に従って「内(こころ)を一にして」と読み、「心を精一にして」と訳している。しかし王覇篇(3)では類似の表現が「一日」に作られており(王覇篇では「辨」が「列」となっている)、集解の王先謙はけだし「内」は「日」の誤りである、と言う。これに従う。

再度君主の統治術を再説して、君道篇は終わる。完璧な智を持って動かず、最上の補佐人を宰相に選んで国家システムを運営させ、情実を排した礼と法の規則を走らせることによってシステムを労力を省いて正確に制御する。まるで現代におけるITシステムの管理者のような君主像である。マシーンとして作動するシステムを考えるとき、人間は古代人も現代人も同じ理想を想定するようである。それが本当に理想なのか、という問いは別の角度から提出されなければならないだろう。

王覇篇第十一(1)

国家とは天下において最も力を持った道具であり、君主とは天下において最も権勢を持った存在である。これを正道によって保持するならば、大いに安泰となり、大いに繁栄し、麗しい美徳を積み上げる淵源となるであろう。しかしこれを正道によって保持しないならば、大いに危険であり、大いに迷惑でり、あったよりもないほうがましの悪存在となるであろう。この悪が極まったならば、君主の座を捨てて一庶民として生きることを望んでも、もはやかなえられることはない。斉の湣王(びんおう、閔王とも記録される)(注1)、宋の獻王(けんおう)(注2)が、この実例である。ゆえに、君主とは天下において最も権勢を持った存在でありながら、自分だけの力で身を安んずることはできないのである。これを安んずることができるのは、必ず正道なのだ。ゆえに国家を統治する者は、義(注3)を立てれば王者となり、信を立てれば覇者となり、権謀ばかりを追い求めたならば滅亡する。この三者は、明主が謹んで選択するところであり、仁の人が努力して明らかにすることなのである。国中を挙げて礼義を唱えて、礼義の正道を損なうことをせず、たった一つの不義を行いたった一人の無罪者を殺して天下を得られる時に直面しても、仁者はこれを得ようとはしない。己が身と国家を、このように堅固に養い守るのである。このような君主と共に事業をなす者は、これみな義士というべきである。この国家の刑罰法令を述べ立てるならば、それはみな義法である。君主が速やかに群臣を率いて向かうところのものは、これみな義志である。このようであるならば、下の者が上の者を仰ぐべき原理は、義に拠るであろう。これによって、国家の基盤は定まる。基盤が定まれば、国家は安定する。国家が安定すれば、すすんで天下までも平定されることであろう。仲尼(ちゅうじ。孔子の字(あざな))はわずかの土地すら保有していなかったが、義によってその意志を誠に整え、義によってその身体と行動を律し、このことを言語に表明した。なのでその徳が成ったときには、天下に隠れもせず輝いて、その名声は後世にまで残った。今また天下の有力諸侯が義によってその意志を誠に整え、義によって法律規則と度量衡を整え、義を政治において表明し、貴賤の昇降と刑罰の執行もまた重ねて行い、初めから終わりまで足並みを揃えて国家を斉一させるならば、この者の名声は日月や雷のように天地の間に表れて明らかとなることであろう。ゆえに、「国を挙げて義を行えば、その名声は一日で明らかとなる」と言うのである。湯王・武王が、その実例である。湯王は亳(はく)に居を構え、武王は鄗(こう)に居を構えて(注4)、それぞれは百里(40km)四方の土地にすぎなかったが、そこから天下を統一して諸侯を家臣となし、天下を通行するもろもろの人民たちはことごとく服従したのであった。その理由は、ほかでもない。彼らは義を行ったからであった。これがいわゆる、義を立てれば王者となる、ということなのである。

しかし徳はまだ足らず、義もまだ足らないが、天下の道理をほぼ集めて、刑罰と褒賞は天下に信頼され、その諾否の判断もまた天下に信頼され、臣下たちははっきりとその者と約束するに足ることを知り、政令がいったん発布されたならばその政令が不利な状況となってもそれをねじまげて人民を欺くことはせず、条約がいったん締結されたならばその条約が不利な状況となってもそれを破って同盟国を欺くことはしない。このようであるならば、兵は強く城は固くなり、敵国はこれを畏れ、国は斉一となり、国の基盤は明らかに固まり、同盟国はこれを信頼するであろう。このような国家は、たとえ辺境の地にあったとしても、その勢威は天下を動かすであろう。五覇(ごは)が、これである。五覇は、人を教化する王者の政治に基づいているわけではない。五覇は、礼義を極めるわけではなく、礼義の規則を極めるわけでもなく、人を心服させる道を取るわけでもない。五覇は、ただ策略を用いて、人を働かせたり安楽にさせる術を操り、財貨を蓄えて軍備を整え、その結果上と下が歯がかみ合うように互いに信頼し、天下無敵となったまでのことである。ゆえに、斉の桓公・晋の文公・楚の莊王・吳王の闔閭(こうりょ)・越王の勾踐(こうせん)は、これみな辺境の国家の君主であったが、彼らの勢威は天下を動かして力は中華世界を危うくしたのであった。その理由は、ほかでもない。信がほぼあったからである。これがいわゆる、信を立てれば覇者となる、ということなのである。しかし国を挙げて功利を唱え、義を張り巡らせて信を行うことを務めることをせず、ただ利ばかりを求め、国内においては人民を欺くことに遠慮することなくして小さな利益を求め、国外に対しては同盟国を欺くことに遠慮することなくして大きな利益を求め、国家が今保有している資産を整えて活用することを行わずにかえって外国が保有しているものを奪おうといつも望んでいる。このようであれば、その国の家臣と人民は、すべて詐る心を持って上に立つ者に対するであろう。上に立つ者は下の者を詐り、下にある者は上の者を詐るならば、上と下はばらばらに分かれてしまうだろう。国がこのようになれば、敵国はこの国を軽んじ、同盟国はこの国を疑い、権謀ばかりが日ごとに行われて、やがて国は危機となって領地は削られることは必至であり、このようなことを極めた果てについに滅亡するであろう。斉の湣王と、同国の薛公(せつこう)(注5)がこの実例である。これらの者は、かの強国であった斉国の支配者でありながら、礼義を修めることをせず、人を教化する王者の政治に基づくことをせず、天下を統一することをせず、ただただ常に合従連衡の策士を国外に送り出して権謀に明け暮れることしかしなかった。よって、斉国の強力をもって南は楚国を破り、西は秦国を屈服させ、北は燕国を破り、中原地方に向かっては宋国を陥落させることに成功した(注6)。しかしながら燕・趙の二国が決起して斉国を攻撃するに及んで、枯葉を打ち払うがごとくに王の身は死んで国は滅び、天下の大恥となり、後の世に悪を言うときには必ず言及されるまでとなったのであった。その理由は、他でもない。ただ斉王は礼義に拠らず、権謀に拠ったからであった。王者となるか、覇者となるか、滅亡するかの三者について、明主はこれを謹んで選択し、仁の人はこれを努力して明らかにするのである。よく選択する者は人を制し、よく選択できない者は人がこれを制することであろう。


(注1)戦国時代斉国の王。その征服事業の顛末については、彊国篇(2)を参照。
(注2)楊注によれば、これは宋最後の王である偃(えん)のことであり、呂氏春秋にある康王のことである(解蔽篇(2)注9参照)。宋国は偃の代に斉の湣王の侵攻を受けて、偃は殺され宋国は滅亡した。
(注3)ここにおける「義」とは、国家と統治者の従うべき礼義、すなわち礼法の制度の意味が前面に出されている。抽象的な「正義」の意に狭めて取っては、覇者の政策との区別がよく分からないだろう。
(注4)正論篇(4)注1参照。
(注5)楊注は、ここで言う薛公とは孟嘗君田文(もうしょうくんでんぶん)である、と言う。田文が本名で、孟嘗君は称号である。孟嘗君は斉国の公子で権勢を誇り、戦国四君子の一に数えられる。増注の久保愛は楊注に疑義を唱え、孟嘗君は当時の聞人すなわち著名人であるからここでの薛公には当たらず、その父の田嬰(でんえい)のことであろう、と言う。まず田嬰が斉王によって薛公に封じられて、その後を子の孟嘗君が継いだ。しかし新釈の藤井専英氏は孟嘗君の没後に薛公の後は絶えた(『史記孟嘗君列伝』)こと、君道篇で荀子が孟嘗君を簒臣に挙げていることを指摘して、久保愛の説に必ずしも同調していない。
(注6)以上の戦役について、新釈は斉の湣王が各国に勝利した記録を挙げている。このうち斉湣王十年に斉国が燕国に勝ったという記録は『史記燕召公世家』から取ったものであるが、『孟子』においてこの戦役は先代の宣王の時期のことであると記録されている。『史記』の年表に間違いがあることが、『史記』と『孟子』との矛盾の原因であると思われる。『史記』の年表の間違いについての考証は、尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2・中華文明の誕生』(中央公論社)ほかを参照。
《原文・読み下し》
國なる者は、天下の[制](注7)利用なり。人主なる者は、天下の利埶(りせい)なり。道を得て以て之を持すれば、則ち大安なり、大榮なり、積美の源なり。道を得て以て之を持せざれば、則ち大危なり、大累なり、之有るも之無きに如かず、其の綦(きわ)まるに及んでは、匹夫爲(た)らんことを索(もと)むるも、得可からざるなり。齊湣(せいびん)・宋獻(そうけん)是(これ)なり。故に人主は天下の利埶なり、然り而(しこう)して自ら安んずること能わざるなり、之を安んずる者は必ず將(は)た道なり。故に國を用(おさ)むる者は、義立ちて王たり、信立ちて霸たり、權謀立ちて亡ぶ。三者は明主の謹みて擇(えら)ぶ所にして、仁人の務めて白(あきら)かにする所なり。國を絜(ひっさ)げて以て禮義を呼びて、以て之を害すること無く、一の不義を行い、一の無罪を殺して天下を得るは、仁者は爲さざるなり、擽然(らくぜん)として心國(しんこく)(注8)を扶持(ふじ)すること、且(は)た是(かく)の若く其れ固きなり。之(そ)の(注9)與(とも)に之を爲す所の者は、之(そ)の人は則ち舉(みな)義士なり。之(そ)の(注9)國家の刑法に布陳(ふちん)することを爲す所以の者は、則ち舉(みな)義法なり。[主](注9)極然(きょくぜん)として羣臣(ぐんしん)を帥(ひき)いて之に首鄉(しゅきょう)する者は、則ち舉(みな)義志なり。是の如くなれば則ち下上を仰ぐに義を以てす、是れ綦(き)定まるなり。綦定まりて國定まり、國定まりて天下定まる。仲尼(ちゅうじ)は置錐(ちすい)の地無くして、義を志意に誠にし、義を身行に加え、之を言語に箸(あら)わす、濟(なる)の日天下に隱れず、名後世に垂る。今亦天下の顯諸侯を以て、義を志意に誠にし、義を法則・度量に加え、之を箸わすに政事を以てし、案(すなわ)ち之を申重するに貴賤・殺生(さつせい)を以てし、襲然(しゅうぜん)として終始一の猶(ごと)くならしむ。是の如くなれば則ち夫の名聲の天地の間に部發(ほうはつ)(注10)するや、豈に日月・雷霆(らいてい)の如く然らざらんや。故(ゆえ)に曰く、國を以て義を齊(な)せば、一日にして白(あきら)かなり、と、湯・武是なり。湯は亳(はく)を以てし、武王は鄗(こう)を以てす。皆百里の地なるも、天下一と爲り、諸侯臣と爲り、通達の屬、從服せざること莫し、它(た)の故無し、義を濟(な)すを以てなり。是れ所謂(いわゆる)義立ちて王たるなり。
德未だ至らずと雖も、義未だ濟(な)らずと雖も、然り而して天下の理略(ほぼ)奏(あつ)まり(注11)、刑賞・已諾(いだく)、天下に信ぜられ、臣下曉然(ぎょうぜん)として、皆其の要(よう)す(注12)可きを知り、政令已に陳(ちん)すれば、利敗を睹(み)ると雖も、其の民を欺かず。約結已に定まれば、利敗を睹ると雖も、其の與(よ)を欺かず。是の如くなれば則ち兵勁(つよ)く城固く、敵國之を畏れ、國一に綦(き)明(あきら)かに、與國(よこく)之を信ず。僻陋(へきろう)の國に在りと雖も、威天下を動かす。五伯(ごは)是れなり。政教に本づくに非ず、隆高を致(きわ)むるに非ず、文理を綦(きわ)むるに非ず、人の心を服するに非ず、方略に鄉(むか)い、勞佚を審(つまびら)かにし、畜積(ちくし)を謹み、戰備を脩め、齺然(さくぜん)として上下相信じて、天下に之に敢て當ること莫し。故に齊桓(せいかん)・晉文(しんぶん)・楚莊(そそう)・吳闔閭(ごこうりょ)・越勾踐(えつこうせん)は、是れ皆僻陋の國なるも、威は天下を動かし、强は中國を殆(あや)うくす。它(た)の故無し、略(ほぼ)信なればなり。是れ所謂(いわゆる)信立ちて霸たるなり。國を絜(ひっさ)げて以て功利を呼び、其の義を張り其の信を齊(な)すことを務めず、唯(ただ)利を之れ求め、內は則ち其の民を詐(いつわ)るを憚らずして小利を求め、外は則ち其の與(よ)を詐るを憚らずして大利を求め、內に其の以(すで)に有する所を脩正せず、然も常に人の有を欲す(注13)。是の如くなれば則ち臣下・百姓、詐心を以て其の上を待たざる莫し。上は其の下を詐り、下は其の上を詐れば、則ち是れ上下析(わか)るるなり。是の如くなれば則ち敵國之を輕んじ、與國(よこく)之を疑い、權謀日に行われて、國危削を免れず、之を綦(きわ)めて亡ぶ。齊閔(せいびん)・薛公(せつこう)是れなり。故に强齊(きょうせい)を用(おさ)むるに、以て禮義を脩むるに非ざるなり、以て政教に本づくに非ざるなり、以て天下を一にするに非ざるなり、綿綿として常に引(いん)(注14)を結び外に馳するを以て務(つとめ)と爲す。故に强きこと南は以て楚を破るに足り、西は以て秦を詘(くつ)するに足り、北は以て燕を敗るに足り、中は以て宋を舉(あ)げるに足れり。燕・趙起りて之を攻むるに及以(およ)んで、槁(こう)を振るうが若く然り、而(しこう)して身死し國亡び、天下の大戮(たいりく)と爲り、後世惡を言えば、則ち必ず稽(かんが)う。是れ它の故無し、唯(ただ)其の禮義に由らずして、權謀に由ればなり。三者は明主の謹んで擇ぶ所以にして、仁人の務めて白(あきら)かにする所以なり。善く擇ぶ者は人を制し、善く擇ばざる者は人之を制す。


(注7)楊注は、「制」は衍字なるのみ、と言う。これに従う。
(注8)増注は、心國はまさに身國に作るべし、と言う。君主の身と国家。
(注9)二つの「之」字は、宋本にはなくて元本にはある。増注は宋本に拠ってこの二つの「之」字を削り、さらにすすんで直下の「之(そ)の人は」(原文:「之人」)の二字も衍字であると言う。集解の王引之は、王制篇の文章において元本は「之(そ)の下の人、、、」を三度続ける形式となっていることを指摘し、この王覇篇の「主」字は後人が加えたものであろう、と断じている。本サイトは、王制篇においては元本に拠って読み下した。なので、この王覇篇においてもまた元本に拠って二つの「之」字を加えることにしたい。したがって、増注の説をこちらの王覇篇では取らないことにする。さらに元本に拠りながら疑義を提出した王引之の説についてはこれを採用して、「主」字を衍字とみなして読まないことにする。なお、王制篇(6)注11も参照。
(注10)楊注は、「部はまさに剖となすべし。開發を謂うなり」と言う。「剖發」は、あらわれてあきらかとなること。
(注11)「奏」について集解の郝懿行・王念孫は、「湊」と読むべきであることを言う。「湊」は、あつめる意。これに従う。
(注12)楊注は「要は約なり。皆其の與に要約する可くして欺かざるを知る」と言う。約束できる、ということ。
(注13)原文「內不脩正其所以有、然常欲人之有」。「所以」はふつう二字でまとめて原因を意味する語句として、「ゆえん」と読み下す。底本としている漢文大系は集解の顧千里の説を容れて「內」字を衍字とみなし、また王念孫の説を容れて、「然」の上に「啖啖」の二字が脱しているとみなす。王念孫の説の根拠は、この王覇篇の末尾の文章に「不好循正其所以有、啖啖常欲人之有、是傷国(其の有する所以を循正することを好まず、啖啖として常に人の有を欲するは是れ傷國なり)」とあることにならったものである。いま漢文大系に沿って注13の箇所を読み下すならば、「[內]其の有する所以を脩正せず、啖啖然として常に人の有を欲す」となるであろう。しかし新釈の藤井専英氏は、「所以」を「ゆえん」と読まずに「以」の字を「已に通じ、既にの意」と解釈し、さらに「然」字は逆説の接続詞(しかも)と解釈する。上の読み下し文は、藤井氏の説に沿ったものである。類似の文から類推して補った漢文大系の解釈のほうが文章としてはすっきりするが、藤井氏の読み方に沿うならばより具体的な解釈となって興味深い。よって、アクロバットな読み方ではあるがあえて藤井説を取って読み下すことにする。
(注14)楊注は、「引」は読んで「靷」となす、と言う。「靷(いん)」は、馬の胸の下に当てて車を引かせる革ひものことで、「むながい」と訓ずる。「靷を結び外に馳する」とは、馬車を走らせて外国に遊説の客を送り出すことを言う。

王覇篇は、王制篇ですでに述べられた強者・覇者・王者のたどる道筋について再説して、その三者の中で王者が最も優れていて天下を最終的に統一するであろうことを述べた篇である。この王覇篇のほうが分量も多くて詳細な説明となっているのであるが、荀子の王覇論については、私はすでに王制篇で検討してすでに私の意見を述べた。なので、この王覇篇では多くを繰り返そうとは思わない。

上に訳した冒頭の箇所は、王制篇における王者と覇者と(偽りの)強者の三者について改めて述べたものである。歴史への証言として意義ある内容としては、ここと後の議兵篇においていわゆる「春秋五覇」の荀子説が立てられている。

荀子は中華世界(したがって、荀子の生きた人類世界すべて)が統一帝国の下に統治されることが、世界に恒久的な平和をもたらす最終的な解決策であることを固く信じていた。よって、富国強兵によって力を蓄え、その力を背景に諸国に信を得る外交を行って平和をもたらす覇者について、それを最終的な平和への解決策ではないと考えた。だから覇者の上位に王者を置くのであって、その王者とは統一帝国の君主として配下に能力ある官僚(荀子は「士」「君子」という用語でこれを表現する)を従えて世界を礼法によって合理的に統治する理想的存在と考えた。だがこの王者は、戦国時代末期であったからリアリティを持った理想であった。現代の世界においては、まず通用することができないだろう。現代の世界において現実的な解決策は、覇者=ヘゲモニー国家が主導する平和であるか、また覇者=ヘゲモニー国家が不在の時代であれば、一国の独立を確保して、攻めず攻められずの政策を維持し続ける(真の)強者の道となるであろう。それらのことは、すでに王制篇で書いた。

王覇篇第十一(2)

国家とは、天下において最も大きな道具であって、最も重い荷物である。よって、必ずこれを置く場所をよく選んでから置かなければならない。もし傾いた所にこれを置けば、危険なことになるだろう。また必ずこれが依拠する道をよく選んでから依拠しなければならない。もし荒れ果てた道を行くならば、行き詰ってしまうだろう。危険にして行き詰ってしまえば、滅亡するだろう。ここで国家を「置く」と言うのは、どこに国境を定めて国を建てるべきか、という意味で言っているのではない。むしろどのような法に依拠するべきであって、どのような人材とともに国を運営するべきであるか、ということである。よってその回答は、このようである。すなわち王者の法に依拠して王者の人材とともに国を運営すれば、すなわち王者となるであろう。覇者の法に依拠して覇者の人材とともに国を運営すれば、すなわち覇者となるであろう。亡国の法に依拠して亡国の人材とともに国家を運営すれば、すなわち滅亡するであろう、と。この三者は、明主が謹んで選択するところであり、仁の人が努力して明らかにすることなのである。ゆえに国家とは最も重い荷物であり、努力を積み重ねてこれを保持していかなければ、立ち行くことはできない。ゆえに国とは代々新たとなるものであるが、その変化はしごく平坦な推移なのであって、突然の飛躍的な変化が起こるものではなくて、いわば「玉(ぎょく)を改むれば行(こう)を改む」(注1)というものなのである。だが日は次々と過ぎてゆき、人は次々と移り変わっていくのに、千年の間までも不変のものが安泰として持続していくのは、どうしてであろうか?それは、千年の命を持つあの信ずべき法を援用してこれを保持し、千年の命を持つあの信ずべき士(注2)とともに国を運営するからである。だが、人は百歳の寿命すらないのに、千年の命を持つ信ずべき士がいるとは、どういうことであろうか?それは、千年の命を持つ法を自ら保持する者のことを、千年の命を持つ信ずべき士と言うのである。ゆえに、礼義を積む君子(注3)と国を運営するならば、すなわち王者となるであろう。誠実で完全な信頼のおける士(注3)と国を運営するならば、すなわち覇者となるであろう。権謀を行って人を倒すことを行う者と国を運営するならば、すなわち滅亡するであろう。この三者は、明主が謹んで選択するところであり、仁の人が努力して明らかにすることなのである。よくこれを選択する者は人を制し、よくこれを選択できない者は人がこれを制することであろう。国を保持するためには、君主一人で行うことは決してできない。なので、国が強固となるか、栄誉を受けるか、それとも恥辱を受けるかの別れ目は、君主を補佐する宰相をいかに選ぶかにかかっている。君主じしんが有能であって宰相もまた有能であれば、王者となるであろう。君主は無能であるが、無能の身を恐れ謹んで有能の人材を求めることを知っていれば、国を強くすることができるだろう。君主が無能であって、しかもその無能の身を恐れ謹んで有能の人材を求めることを知ることなく、ただただ左右にへつらう者と自らに親しんで集まる者ばかりを登用するならば、その国は危機となって領地は削られることが必至となり、このようなことを極めた果てについに滅亡するであろう。国というものは、これを大きく活用したときには大きくなり、これを小さく活用したときには小さくなる。大きく活用した極みは、王者となる。小さく活用した極みは、滅亡する。大と小を半ばに活用したときには、何とか国を存続させるにとどまるであろう。国を大きく活用する者は、義を先にして利を後にする。すなわち己に親しい者か遠い者かはどうでもよく、また地位が貴いか賤しいかはどうでもよく、ただ誠実で能力がある者だけを登用することを求めるだろう。これが、国を大きく活用するというのである。だが国を小さく活用する者は、利を先にして義を後にする。すなわち正しいか正しくないかはどうでもよく、正しいことと曲がっていることをよく見極めることもせず、ただただ左右にへつらう者と自らに親しんで集まる者ばかりを登用するだろう。これが、国を小さく活用するというのである。国を大きく活用する者は前者のごとくなり、国を小さく活用する者は後者のごとくなり、大と小と半ばに活用する者は、ときには前者のようになって、またときには後者のようになるであろう。古語に「正道に純粋ならば、王者となる。正道と邪道を混ぜて用いると、覇者となる。正道が一つもなければ、滅亡する」とあるのは、このことを言うのである。

国に礼義がなければ、その国は正しくない。礼義が国を正すゆえんは、これをたとえるならばまさしく衡(はかり)が物の軽重を量るようなものであり、縄墨(すみなわ)が物の直線と曲線を測るようなものであり、規(コンパス)と矩(ものさし)が四角形と円を測るようなものである。これらの道具のように、礼義の規準をあてがえば、人はこれをごまかすことができなくなるのである。詩に、こうある。:

、、、
霜雪の、将将(しょうしょう)として降る如く
日月の、光明(こうみょう)として輝く如く
之を為せば、則ち存し
之を為さざれば、則ち亡びん
(逸詩。原詩は伝わらない)

まさしく、礼義に従うか否かで身の存亡が決まるのである(注4)


(注1)楊注は、『國語』に古語の引用として「玉を改むれば行を改む」の語があることを指摘する。玉とは佩玉(はいぎょく)のこと、行とは歩行のことであり、すなわちこの古語の意味は、身につける佩玉の様式が変われば歩き方の様式も変えるように、礼の様式に変化はあるが礼の内容に本質的な変化はない、ということを言いたいのである。
(注2)原文読み下し「千歲の信士」。ここでいう「士」は、礼義を身に付けた統治階級一般を指しているはずである。以下も同じ。
(注3)原文読み下し「禮義を積むの君子」および「端誠・信全の士」。これらは「君子」と「士」を対比させて、前者を明らかに優位の存在に置いている。荀子の他篇において、「君子」は「聖人」の下にある上級の官僚で「士」はそれより劣る下級の官僚の意として用いられている。ここでの「君子」「士」は、荀子の他篇での用法に準じて用いられていると考えられる。
(注4)荀子はこの詩の断章を引用して、「之」を礼義の意味として解釈している。しかしこの詩は現行の『詩経』にない逸詩であるので、すでに伝わらない原詩において原文の「之」が礼義を指しているのかどうかは、分からない。荀子が断章取義を行って、原詩の意味から離れて解釈を行った可能性もある。
《原文・読み下し》
國なる者は、天下の大器なり、重任なり。善く爲(ため)に所を擇びて而(しか)る後に之を錯(お)かざる可からず、險に錯けば則ち危し。善く爲に道を擇びて然る後に之に道(よ)らざる可からず、薉(あい)に涂(と)すれば則ち塞(ふさ)がる。危塞なれば則ち亡ぶ。彼の國錯く者は、焉(これ)を封ずるの謂に非ざるなり。何の法にか之れ道(よ)り、誰の子(し)と之れ與(とも)にせん。故(ゆえ)に(注5)、王者の法に道(よ)り、王者の人と之を爲せば、則ち亦王たり。霸者の法に道(よ)り、霸者の人と之を爲せば、則ち亦霸たり。亡國の法に道(よ)り、亡國の人と之を爲せば、則ち亦亡ぶ。三者は明主の謹んで擇ぶ所以にして、仁人の務めて白(あきら)かにする所以なり。故に國なる者は重任なり、積を以て之を持せざれば則ち立たず。故に國なる者は世(よよ)新(あらた)にする所以の者なり、是れ憚憚(たんたん)として(注6)變ずるに非ざるなり。玉(ぎょく)を改むれば行(こう)を改むるなり。故に一朝の日なり、一日の人なり、然り而して厭焉(えんえん)として千歲の固(こ)(注7)有るは、何ぞや。曰く、夫(か)の千歲の信法を援(ひ)きて以て之を持し、安(すなわ)ち夫の千歲の信士と之を爲せばなり。人百歲の壽無くして千歲の信士有るは、何ぞや。曰く、夫の千歲の法を以て自ら持する者は、是れ乃(すなわ)ち千歲の信士なり。故に禮義を積むの君子と之を爲せば則ち王たり、端誠・信全の士と之を爲せば則ち霸たり、權謀・傾覆の人と之を爲せば則ち亡ぶ。三者は明主の謹んで擇ぶ所以にして、仁人の務めて白(あきら)かにする所以なり。善く之を擇ぶ者は人を制し、善く之を擇ばざる者は人之を制す。彼の國を持する者は、必ず以て獨なる可からざるなり、然れば則ち强固・榮辱は相(しょう)を取るに在り。身能に相能なり、是の如き者は王たり。身不能にして、恐懼して能者を求むるを知る、是の如き者は强し。身不能にして、恐懼して能者を求むるを知らず、安(すなわ)ち唯(ただ)便僻(べんべい)・左右の己に親比(しんぴ)する者を之れ用う、是の如き者は危削せられ、之を綦(きわ)めて亡ぶ。國なる者は、之を巨用すれば則ち大に、之を小用すれば則ち小なり。大を綦(きわ)めて王たり、小を綦めて亡び、小・巨分流する者は存す。之を巨用する者は、義を先にして利を後にし、安(すなわ)ち親疏を卹(かえり)みず、貴賤を卹みず、唯(ただ)誠能を之れ求む、夫れ是を之れ之を巨用すと謂う。之を小用する者は、利を先にして義を後にし、安(すなわ)ち是非を卹みず、曲直を治めず、唯(ただ)己に便僻・親比する者を之れ用う、夫れ是を之れ之を小用すと謂う。之を巨用する者は彼の若く、之を小用する者は此の若く、小・巨分流する者は、亦一は彼の若く、一は此の若し。故(こ)に曰く、粹にして王たり、駁(ばく)にして霸たり、一無くして亡ぶ(注8)、とは、此を之れ謂うなり。
國禮無ければ則ち正しからず、禮の國を正す所以は、之を譬(たと)うるに、猶お衡(こう)の輕重に於けるがごとく、猶お繩墨(じょうぼく)の曲直に於けるがごとく、猶お規矩(きく)の方圓(ほうえん)に於けるがごとく、既に之を錯けば、而(すなわ)ち人能く誣(し)うること莫きなり。詩に云う、霜雪の將將たるが如く、日月の光明なるが如し、之を爲せば則ち存し、爲さざれば則ち亡ぶ、とは、此を之れ謂うなり。


(注5)集解の王念孫は、「故」はまさに「曰」となすべし、と言う。「故」をはさんだ上文と下文を、設問とその返答とみなすからである。だが新釈は、簡釈の説を容れて、まとめて「法」と「人」の二事について考えた言葉であるとみなす。よって新釈はそのまま「故(ゆえ)に」と読み下している。新釈の解釈のほうが、よく通ると考えたい。
(注6)「憚憚」について楊注は「憚は坦と同じ」と言う。集解の郝懿行は楊注説でも通ずると前置きした上で、疑うは「憚」は「幝」字の誤りかと言う。「幝幝(たんたん)」は、敝(やぶ)れる貌のこと。郝懿行に従うならばここは「憚憚たるも變ずるに非ざるなり」と読み下すべきで、意味は「時代の経過とともに破れて古びていくが、それをまた繕って新たにするのであって、とつぜん変化するものではない」となるであろう。今は楊注に従う。
(注7)集解の王念孫・増注ともに、『群書治要』の引用では「固」を「國」に作ることを指摘して、これを是としている。しかし新釈の藤井専英氏は、「下文に『强(彊)固榮辱』とある事とも考え合わせ、『一朝之日、一日之人』という瞬時も停らないものに対し、千歳の永きに亙って滅亡せず固定して繁栄する国と意味に解せぬものであろうか」と書いている。藤井氏の指摘に従えば、あえて「固」を「國」に変えなくても通じるであろう。『群書治要』の引用は荀子の原文を転写する際に、意味が取りやすい字に入れ替えた可能性もある。同様の疑いは、同じく『荀子』からの引用が豊富な『韓詩外伝』にも散見される。藤井説を取って、あえて「固」字のままで解釈したい。
(注8)同じ語句が、彊国篇(4)に見える。よって、これは古語の引用とみなすべきであり、上の「故」は「故(こ)に」と読み下すべきであろう。

再び、王者は礼義に拠るゆえに覇者よりも勝る存在であることが述べられる。荀子の見る覇者とは、国内の家臣と人民に信頼を置かれて国外の同盟国にも信頼を置かれる存在である。では何が覇者に足りず王者にはあるのか、といえば、恒久的な秩序を作る礼義を立てることだ、と言うであろう。王者が立てる礼義とは貴賤の等級であり、賞罰の執行である。すなわち人間の能力に応じてこれを貴賤の身分秩序に等級化し、身分秩序を通じて能力に応じて富貴が分配される制度を整える。賞罰の法を厳格に執行することによって、有能な者は高い身分に上せられて富貴を得ることができて、それなりの能力の者はそれなりの身分と生活に甘んじるように仕向けられ、法を破る者には厳罰が課せられて秩序が保たれる。人間の「性」・「情」は悪であり、すなわち人間存在にとって欲望は消すことができない生物的本能である。よって最良の統治はこの欲望を秩序立てて制御するところに見出されるのであって、墨子や宋鈃(そうけい)のごとくに人間の欲望を軽視するところに見出してはならない。これが王者の秩序であり、覇者はこの礼法の秩序を天下に広めることをしないので、アドホック(まにあわせ)の平和しか天下に与えることはできない。荀子の王・覇の区別とは、以上のような主張であると思われる。この荀子の王者の国を、能力ある者が選ばれて国家を運営し、人間は各人の能力に応じた報酬が与えられるように設計された、合理的社会の完成形と見なすか。あるいは王者という名のビッグブラザーが世界で唯一君臨して全ての人間を支配する、超管理国家の悪夢とみなすか。それは、読む者が考えなければならないだろう。

王覇篇第十一(3)

国が危うければ楽しむ君主はおらず、国が安泰であれば憂う人民はいない。乱れてカオスとなると国は危うくなり、治まると国は安泰となる。いまどきの君主は、楽しみを急いで求めて国を治めることをのろのろと行う。なんというはなはだしい過ちであろうか。これを譬えるならば、音楽や映像を好みながら耳と目がなくても平然としているようなものである。なんと哀しいことではないか。そもそも人の情(注1)とは、目は美しい色をとことん見たいと望み、耳は美しい音色をとことん聞きたいと望み、口は美味をとことん究めたいと望み、鼻は麗しい香りをとことん味わいたいと望み、身体は安楽をとことん究めたいと望むものである。こういった五官の快楽への欲望は、人間の情が決して免れない本能なのである。しかしこの五官の快楽を養うためには、条件がある。この条件がなければ、五官の快楽を得て極めることはできないだろう。万乗の国(注2)は広大で大いに富んでいるというべきであり、そこによく治められて強固となる統治の正道が加わっているならば、安楽で楽しくて憂いと困難はないだろう。このようであった後に、五官の快楽を養う条件が備わるのである。ゆえに、あらゆる楽しみとは治国に生じるのであり、憂いと困難は乱国に生じるのである。楽しみを急いで求めて国を治めることをのろのろと行う者は、楽しみを知る者とはいえない。ゆえに明君とは、必ずまずはその国を治めて、しかるのちにあらゆる楽しみがその中から得られるものであり、一方闇君とは、必ず楽しみを急いで求めて国を治めることをのろのろと行うので、憂いと困難が数え切れないほど起こるのであり、やがて必ず己の身が死んで国が亡ぶところまで行き着くであろう。なんと哀しいことではないか。楽しみを行おうとして憂いを得て、安泰となろうとして危険を得て、幸福となろうとして死亡を得るのだ。なんと哀しいことではないか。ああ、君主たるものは、今の言葉をよく考えるべきである。

ゆえに、国を治める正道というものがあって、君主がなすべき職分というものがある。何日もかけて詳しく調べたり、一日のうちに事案をさばくような仕事は、もろもろの官吏たちに行わせるべき職務である。君主はこのような細かな事務を行う必要はないので、君主が安らかに遊び楽しむ時間はさまたげられることはない。君主の職務とは、一人の宰相を選んで臣下をすべて率い、臣下と官吏が正道に留まり正道に沿って常に励むようにさせることなのである。君主がこのようであれば、天下を統一して堯・禹に匹敵する名声を得るであろう。君主というものは、己の身を守ることは至って簡潔であるが、その要点はすべて尽くしている。またなす仕事はいたって楽であるが、それでも功績は挙がる。君主は衣装を着て動きもせず、座った敷物の上から降りることもしないで、海内の人民はこれが帝王となることを願わないものはいない。これを、至約すなわち簡潔の極地と言うのである。これに勝る楽しみは、ほかにない。君主というものは、人を官職に就かせる能力を持つ存在である。いっぽう庶民は自分が働く能力を持つ存在である。君主は他人に仕事をさせることができるが、庶民は自分の仕事をさせる他人がいない。百畝(ひゃくほ、1.82ヘクタール)の農地を守るしかなく、農事で困ったことが起こったとて、これを人にやらせる術はない。だが一人で天下の政治を全て聞きながら、日が余って仕事が少ないのは、人に仕事をやらせているからできるのである。大は天下を有し、小は一国を有している者が、全部自分一人で仕事をしなければならないならば、労苦して消耗することこれより甚だしいことはないだろう。このようであれば、奴婢(ぬひ)ですら天子と仕事を変わろうとは思うまい。天下すべてを保有して四海を統一する者が、どうして仕事を一人で行う必要があろうか。一人で仕事を行うのは、役夫の道である。君主がそのようなことをするべきだと言うのは、墨子の邪説である。だが家臣の徳を論じて有能な者を使役し、これらに官職を与えて働かせることこそが、聖王の道なのであり、儒家が謹んで守るところなのである。言い伝えには、「農夫たちは田地をそれぞれに分けて耕し、商人たちは財貨をそれぞれに分けて売り、工匠たちは仕事をそれぞれに分けて励み、士・大夫たちは職分をそれぞれに分けて政治を聴き、封建された諸侯たちは土地をそれぞれに分けて守り、三公(注3)は政治を総括して議論すれば、天子はただ手を拱いているだけである」とある。天子の立ち居振る舞いがかくのごとくであれば、天下は必ず平定されて、よく統治されるであろう。このことはいにしえの王たち(注4)もまた同じであったのであり、これが礼法の大本なのである。


(注1)「情」とは、人間の「性」から発現する衝動的な感情のことであり、本能に根ざすものである。正名篇の定義を参照。
(注2)大国のこと。儒效篇(7)注8参照。
(注3)太師(たいし)・太傅(たいふ)・太保(たいほ)。正論篇(5)注3を参照。
(注4)原文「百王」。礼法を制定した歴史上の王たちのこと。
《原文・読み下し》
國危うければ則ち樂君無く、國安ければ則ち憂民無し。亂るれば則ち國危うく、治まれば則ち國安し。今人に君たる者、樂しみを逐うを急にして國を治むるを緩にす、豈に過つこと甚しからずや。之を譬(とた)うるに是れ由(な)お聲色を好んで、而も恬として耳目無きがごときなり、豈に哀しからずや。夫れ人の情、目は色を綦(きわ)めんと欲し、耳は聲を綦めんと欲し、口は味を綦めんと欲し、鼻は臭を綦めんと欲し、心は佚(いつ)を綦めんと欲す。此の五綦(ごき)なる者は、人情の必ず免れざる所なり。五綦を養う者は具有り、其の具無ければ、則ち五綦なる者は得て致(きわ)む可からざるなり。萬乘の國は、廣大・富厚と謂う可し、加うるに治辨・强固の道有り、是(かく)の若くなれば則ち恬愉(てんゆ)(注5)にして患難無く、然る後に五綦を養うの具具(そな)わる。故に百樂なる者は、治國に生ずる者なり。憂患なる者は、亂國に生ずる者なり。樂しみを逐うを急にして國を治むるを緩にする者は、樂を知らざる者なり。故に明君なる者は、必ず將(は)た先ず其の國を治め、然る後に百樂其の中に得られ、闇君なる者は、必ず將た樂しみを逐うを急にして國を治むるを緩にす、故に憂患勝(あ)げて校(かぞ)う可からざるなり。必ず身死し國亡ぶるに至りて然る後に止む、豈に哀しからずや。將(まさ)に以て樂しみを爲さんとして、乃ち憂を得、將に以て安を爲さんとして、乃ち危を得、將に以て福を爲さんとして、乃ち死亡を得(う)、豈に哀しからずや。於乎(ああ)、人に君なる者は、亦以て若(かくのごと)き言を察す可し。
故に國を治むるに道有り、人主に職有り。夫の日を貫(かさ)ねて治詳(ちしょう)し、一日にして曲(つぶさ)に之を列(わか)つ(注6)が若きは、是れ夫(か)の百吏・官人をして爲さしむる所にして、是を以て游玩(ゆうがん)・安燕の樂しみを傷(きずつ)くるに足らず。夫の一相を論じて以て之を兼率し、臣下・百吏をして道に宿し方に鄉(むか)いて務めざること莫からしむるが若きは、是れ夫の人主の職なり。是の若くなれば則ち天下を一にし、名は堯・禹に配す。之(こ)の主なる者は、守ること至りて約にして詳に、事は至りて佚にして功あり、衣裳を垂れ、簟席(たんせき)の上を下らずして、海內の民、得て以て帝王と爲らんことを願わざること莫し。夫れ是を之れ至約と謂う、樂しみ焉(これ)より大なるは莫し。人主なる者は、人を官にするを以て能と爲す者なり。匹夫なる者は、自ら能くすることを以て能と爲す者なり。人主は人をして之を爲さしむることを得、匹夫は則ち之を移す所無し。百畝(ひゃくほ)を一守し、事業窮するも、之を移す所無きなり。今一人を以て天下を兼聽し、日餘り有りて治足らざる者は、人をして之を爲さしむればなり。大は天下を有し、小は一國を有し、必ず自ら之を爲して然る後に可ならば、則ち勞苦・秏顇(こうすい)焉より甚しきは莫し。是の如くなれば、則ち臧獲(ぞうかく)と雖も、肯て天子と埶業(せいぎょう)を易(か)えず。是を以て天下を縣し、四海を一にす、何が故に必ずしも自ら之を爲さんや。之を爲す者は、役夫の道なり、墨子の說なり。德を論じ能を使いて之を官施する者は、聖王の道なり、儒の謹しみて守る所なり。傳に曰く、農は田を分ちて耕し、賈(こ)は貨を分ちて販し、百工は事を分ちて勸(はげ)み、士・大夫は職を分ちて聽き、建國諸侯の君は土を分ちて守り、三公は方を摠(す)べて議すれば、則ち天子は己を共(きょう)するのみ(注7)、と(注8)。出ずること若(かくのごと)く入ること若(かくのごと)く、天下平均ならざること莫く、治辨ならざること莫し。是れ百王の同じき所なり、禮法の大分なり。


(注5)宋本は、「恬」字を「怡」字に作る。
(注6)集解の王念孫は、君道篇で「一日にして曲に之を辨ず」とあることを引き、辨と別は古字通じるゆえに「列」は「別」の誤りと言う。これに従う。
(注7)原文「則天子共己而已矣」。宋本には「已」字がなくて「則天子共己而矣」に作る。「傳に曰く、、」以下はほぼ同文が王覇篇(5)に再度表れる。しかしそこでは「則天子共己而止矣」となっている。オリジナルの同じ文を二度引用したが字が異なってしまったと推測できるが、ではオリジナルの文はどのようであったか。集解の王先謙は、群書治要では「而已」が「止矣」となっているので、「止」字のほうが正しい、と言う。漢文大系および新釈は、「則天子共己而已矣」の解釈を採用している。どちらとも決し難いが、漢文大系および新釈の解釈を取っておく。「共」について楊注或説は、読んで「拱」となす、と言う。こまねく。
(注8)「傳に曰く、、」以下に続く文が「、、禮法の大分なり」まで王覇篇(5)に再度表れる。新釈および金谷治氏は、おそらくそのために「、、禮法の大分なり」までを傳(伝)とみなす解釈をしておられる。しかしながら、荀子の古語の引用の通例は、これほどに長いものはあまり他の箇所に見られない。なので、最後の文は荀子の地の言葉であり、記録したものが伝とひとまとめで収録した、とあえて考えてみたい。

統治者と被統治者とは職分が違うのであって、統治者は被統治者のような具体的な生業に従事するべきではなくて国家秩序を統制する職務に専念するべきである、というのが儒家の共通した主張である。古くは論語の「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(里仁篇)の語から始まり、つづく孟子は滕文公章句において君主もまた耕作するべきであるという陳相(ちんしょう)の主張への反論においてこれを表明している。上のくだりで、荀子もまたそれを表明して墨子の説を斥ける。荀子の墨子批判は、富国篇においてより詳細に展開されている。儒家のこのような言はすべて、人間は国家とそれを運営する統治者が必要である、という考えを前提としている。だが人間は国家や統治者なしには自発的に秩序を作ることができないのかどうか、という疑問については、私は富国篇および性悪篇において一定の考えを述べたところである。

王覇篇第十一(4)

「百里四方の地からでも天下を取ることができる」という言葉は、うそではない。だが難しいことは、君主が天下を取る方法を知るところにある。天下を取るというのは、人々が土地を背負って自らの下にやって来るという意味ではない。むしろ正道を用いて人々を統一するだけのことなのだ。人々が真に統一されているならば、人々は我が国の地を棄てて他国の地に去ることなど、ありえないだろう。ゆえに百里四方の地であっても、その位階と爵服が天下の賢士を受け入れるためには十分なのであり、その官職と事業が天下の能士を受け入れるためには十分なのであり、その古くから受け継がれた法に従い善人を登用してこれを明らかに用いるならば、利を好む者もまた服従するであろう。賢士を一つにまとめ、能士を官職に就かせ、利を好む者を服従させ、この三者が備われば天下を取るための方法はすべて尽くされるのであって、この他には何もない。ゆえ百里四方の地であっても天下中の勢力をおのが下に収めるには十分なのであり、百里四方の地であっても忠信を極めて仁義を表明すれば天下中の人々をおのが下に収めるには十分なのである。天下中の勢力と人々を合せておのが下に統一すれば、天下を取るだろう。このときこれに服従することに遅れる者は、真っ先に危険に陥ることだろう。『詩経』に、この言葉がある。:

西より、東より、
南より、北より、
慕いきたりて、服せざるはなし
(大雅、文王有聲より)

これは、人々を統一することを言っているのである。

羿(げい)と蠭門(ほうもん)(注1)は、全ての射手をよく屈服させる名手である。王良(おうりょう)と造父(ぞうほ)(注2)は、全ての御者をよく屈服させる名手である。そして聡明な君子は、全ての人々をよく服従させる人材なのである。人々が服従すれば、権勢は後からついて来る。逆に人々が服従しなければ、権勢は自らのもとを去って行く。ゆえに、王者は人々を服従させることが全てなのである。君主が遠くにある小さな的を射抜く射術の名手を求めたいのであれば、これは羿と蠭門を選ぶに尽きる。速い者にも追いつき遠くまで走る御車術の名手を求めたいのであれば、これは王良と造父を用いることに尽きる。そして天下を調和統一して秦・楚の二大国を制圧するべき人材を求めたいのであれば、これは聡明な君子を選ぶに尽きるのである。いざ聡明な君子を用いたならば、君主は自らの知を用いることははなはだ簡略となり、事業をなすには労せずして大きな功績を挙げることができて、よってはなはだ身を処すことが楽になって大いに楽しむことができるようになる。ゆえに、明君は聡明な君主を宝とみなす。しかし愚かな君主は、かえってこれを扱いがたい人間だと厭うのである。

天子となる尊貴を得て、天下を保有する富を得て、聖王の名声を得て、すべての人を手の内に動かし、他の誰にも支配されることがないこと。これはすべての人間の情が同じく欲するところであり、王者はこれら全てを保有する存在である。美色を重ねてこれを着こなし、美味を重ねてこれを食らい、財貨を重ねてこれを保有し、天下を合せてこれの君主となり、飲食は大いに豪華に、音楽は大いに盛大に、展望台を大いに高くしつらえて、狩場を大いに広く保有して、諸侯を家臣として用いて天下を統一すること。これはすべての人間の情が同じく欲するところであり、しかも天子の礼制はこのようなものなのである。礼制はすでに並べられ、政令はすでに行き渡り、それでなおかつ官吏が仕事の要点を失すれば、これを死刑に処する。またそれでなおかつ公侯が礼を失すれば、これを蟄居幽閉に処する。またそれでなおかつ四方の国が奢侈に過ぎる風俗を持つならば、これを討ち滅ぼす。こうして名声は日月のごとく明らかとなり、功績は天地のごとく大きくなり、天下の人々が己に呼応することが形に添う影のごとく、音に沿う響きのごとくとなること。これはすべての人間の情が同じく欲するところであり、王者はこれら全てを保有する存在なのである。人間の情とは口は美味を好むものであって、王者の味わう味と香りは他に比類のない美味なものである。人間の情とは耳は美しい音声を好むものであって、王者の楽しむ音楽は他に比類のない盛大なものである。人間の情とは美しい映像を好むものであって、王者の見る華麗な装飾と婦女たちは他に比類のない多さを誇るものである。人間の情とは身体は安逸を好むものであって、王者の安楽で閑静なことは他に比類のない楽しさを誇るものである。人間の情とは心は利益を好むものであって、王者の得る禄は他に比類のない豊かなものである。このように王者は天下が同じく願うところを合せてこれを保有し、天下をとりまとめてこれを制することは己の子や孫を制するように容易に行うのである。頭のおかしい頑固者でなければ、このような王者の姿が楽しいと考えないものはいないだろう。このようになりたいと願う君主は数多く現れ、君主をこのようにしてみせることができる士は世に絶えないにも関わらず、千年の間に両者がめぐり会うことすらないのは、どうしてであろうか。それは、君主が公心を持たず、家臣が忠節を持たないからである。すなわち君主は賢者を捨て置いて小人をかたよって登用し、家臣は官職を争って求めて賢者に嫉妬するので、両者がめぐり会わないのである。君主はどうして広い心を持って、親しい者と遠い者とに差を付けず、また地位の貴い者と賤しい者とに差を付けず、ただただ誠実で有能な者を求めようとしないのであろうか。もし君主がこのようにすれば、家臣は官職を争うようなことをやめて賢者にこれを譲り、賢者の後に従うようになるだろう。このようになれば、聖王の禹や舜の再来となって、王業が再来することになるではないか。その功業は天下を統一し、その名声は舜・禹に匹敵するであろう。世の楽しみとして、これほどまでに美しいものはありえない。ああ、君主たるものは、これらの言葉をよく考えるべきである。かつて楊朱(ようしゅ)(注3)は、分かれ道に立って泣いて言った、「ここで半歩道を過てば、後で千里も行き先が違ってしまうことに気づくのだ!」と。こう言って、悲しんで泣いたのであった。今私が言った言葉もまた、栄誉と恥辱、安全と危険、存立と滅亡の分かれ道に他ならない。ならばこれを悲しむべきであるのは、実際の分かれ道よりも甚だしい。ああ、悲しいかな、人は千年の時間を経ても、これに気づくことがない。


(注1)羿(げい)も蠭門(ほうもん)も、伝説の弓の名手。
(注2)王良(おうりょう)も造父(ぞうほ)も、御者の名手。なお正論篇では「王梁」として表れる。
(注3)楊朱は、戦国時代の諸子百家の一。他者への善行の意義を否定し、自己の快楽を徹底的に追求する以外に人間の目的はないと考える、利己主義・快楽至上主義を説いたとされる。楊朱は、孟子が墨子と並んで最も批判攻撃する思想家である。自著は伝わっておらず、その思想については孟子の批判する内容と、晋代の『列子』にある楊朱篇から読み取るしかない。楊朱の思想のレビューは、『孟子を読む』サイトのこちらを参照。
《原文・読み下し》
百里の地、以て天下を取る可しとは、是れ虛ならず。其の難き者は人主の之を知るに在るなり。天下を取るとは、其の土地を負いて之に從うの謂に非ざるなり、道以て人を一にするに足るのみ。彼れ其の人苟(まこと)に壹(いつ)なれば、則ち其の土地且(は)た奚(なん)ぞ我を去りて它(た)に適(ゆ)かんや。故に百里の地も、其の等位・爵服は、以て天下の賢士を容るるに足り、其の官職・事業は、以て天下の能士を容るるに足り、其の舊法(きゅうほう)に循(したが)い、其の善者を擇(えら)びて明(あきら)かに之を用うれば、以て好利の人を順服せしむるに足る。賢士一に、能士官し、好利の人服す。三者具(そな)わりて天下盡(つ)き、是より其の外有ること無し。故に百里の地、以て埶(せい)を竭(つ)くすに足り、忠信を致し、仁義を箸(あら)わせば、以て人を竭くすに足る。兩者合して天下取られ、諸侯の後に同する者は先ず危し。詩に曰く、西自(よ)り東自(よ)り、南自(よ)り北自(よ)り、思うて服せざること無し、とは、人を一にするの謂なり。
羿(げい)・蠭門(ほうもん)なる者は、善く射を服する者なり。王良(おうりょう)・造父(ぞうほ)なる者は、善く馭(ぎょ)を服する者なり。聰明君子なる者は、善く人を服する者なり。人服して埶(せい)之に從い、人服せずして埶之を去る、故に王者は人を服して已(や)む。故に人主善射の遠きを射て微に中(あ)つるを得んと欲せば、則ち羿・蠭門に若くは莫く、善馭の速きに及びて遠きを致すを得んと欲せば、則ち王良・造父に若くはく、天下を調一して秦・楚を制するを得んと欲せば、則ち聰明君子に若くは莫し。其の知を用うること甚だ簡に、其の事を爲すこと勞せずして、功名大を致(きわ)め、甚だ處し易くして、綦(きわ)めて樂しむ可きなり。故に明君は以て寶(たから)と爲して、愚者は以て難と爲す。
夫れ貴きこと天子と爲り、富は天下を有し、名は聖王と爲り、人を兼制し、人得て制すること莫きは、是れ人情の同じく欲する所にして、王者は兼ねて是を有する者なり。色を重ねて之を衣(き)、味を重ねて之を食し、財物を重ねて之を制し、天下を合せて之に君となり、飲食甚だ厚く、聲樂(せいがく)甚だ大に、臺謝(たいしゃ)(注4)甚だ高く、園囿(えんゆう)甚だ廣く、諸侯を臣使して天下を一にす、是れ又人情の同じく欲する所にして、天子の禮制是の如き者なり。制度以(すで)に(注5)陳し、政令以(すで)に挾(あまね)く、官人要を失すれば則ち死し、公侯禮を失すれば則ち幽し、四方の國侈離(しり)の德有すれば則ち必ず滅び、名聲日月の若く、功績天地の如く、天下の人之に應ずること景嚮(えいきょう)の如きは、是れ又人情の同じく欲する所にして、王者は兼ねて是を有する者なり。故に人の情は、口は味を好んで臭味焉(これ)より美なるは莫く、耳は聲(せい)を好んで聲樂焉より大なるは莫く、目は色を好んで文章繁を致(きわ)め婦女焉より衆(おお)きは莫く、形體(けいたい)は佚(いつ)を好んで安重・間靜(かんせい)焉より愉なるは莫く、心は利を好んで穀祿(こくろく)焉より厚きは莫く、天下の同じく願う所を合し、兼ねて之を有し、天下を睪牢(こうろう)(注6)して之を制すること、子孫を制するが若し。人苟くも狂惑・戇陋(こうろう)(注7)ならざれば、其れ誰か能く是を睹(み)て樂しまざらんや。是を欲するの主は肩を並べて存し、能く是を建つるの士は世に絕えざるに、千歲にして合わざるは何ぞや。曰く、人主は公ならず、人臣は忠ならざればなり。人主は則ち賢を外にして偏舉(へんきょ)し、人臣は則ち職を爭いて賢を妬む、是れ其の合わざる所以の故(こ)なり。人主胡(なん)ぞ廣焉(こうえん)として親疏を卹(かえり)みること無く、貴賤に偏すること無く、唯(た)だ誠能を之れ求めざる。是の若くなれば、則ち人臣職[業]を輕んじ賢に讓りて(注8)、安(すなわ)ち其の後に隨う。是の如くなれば、則ち舜・禹還(すなわ)ち(注9)至り、王業還ち起る。功天下を一にし、名(な)舜・禹に配し、物(もの)由(な)お樂しむ可きこと、是の如く其れ美なる者有らんや。嗚呼(ああ)、人に君たる者、亦以て若(かくのごと)き言を察す可し。楊朱(ようしゅ)衢涂(くと)に哭(こく)して曰く、此れ夫(か)の舉(きょ)を過つこと蹞步(きほ)にして、跌(たが)うを覺ゆること千里なる者か、と。哀しみて之を哭す。此れ亦榮辱(えいじょく)・安危・存亡の衢(く)のみ、此れ其の哀む可きを爲すこと、衢涂よりも甚だし。嗚呼、哀しいかな、人に君たる者は千歲にして覺(さと)らざるなり。


(注4)楊注は、「謝」は「榭」と同じ、と言う。「臺(台)」は高い台地、「榭」は屋根のある展望台のこと。合せて、高い展望台のこと。
(注5)増注は、こことその下の「以」は「已」と同じという。
(注6)増注、集解の盧文弨ともに、ここの字は「皋(皐)」であるべきで、「皋牢(皐牢)」は牢籠のことと言う。とりまとめること。
(注7)戇陋は、愚かで固陋なこと。儒效篇(3)注10を参照。
(注8)原文「則人臣輕職業讓賢、而安隨其後」。集解の王念孫は、上文の「職を爭いて賢を妬む(原文:爭職妬賢)」と相反しているのであって、ゆえに「業」は衍字である、と言う。しかし新釈は通説と区切りを代えて「則人臣輕職業讓賢而、安隨其後」と読んでなおかつ「而」字と「能」字は古字通用するという于省吾の説を引いて、「則ち人臣職業を輕んじ賢に讓りて、安ち、、」と読んでいる。原文をなるべく省略せずに読もうとする新釈の姿勢は、理解できる。しかしここでは王念孫に従う。
(注9)集解の王念孫は、以下の二つの「還」は「即」であると言う。

荀子は王者が天下で最も富貴であり、最高の快楽を得る存在であることを強調する。能力に応じて身分を等級化して、身分に応じて富貴を差別化して配分する。そのことによって、人間が「性」「情」として持つ無限の欲望を能力に応じて比例配分して、秩序が保たれる。これが荀子の性悪説および社会契約説であって、その論理的帰結として、身分秩序の頂点にある王者は富貴を天下で最も多く与えられずにはいられない。同時にまた、王者は天下で最も能力のある存在が就任するべきである、という結論もまた得られるであろう。論理としてはそうなのであるが、ここでの荀子の王者の快楽への叙述は、朱子学などの後世の儒家たちが愛好するストイシズムから遠く、即物的である。これでは後世の道徳的な読者の心を掴むことはできないだろう。

王覇篇第十一(5)

およそ国家というものには、その中に統治に役立つ良法がない国家は存在せず、また統治を乱す悪法がない国家も存在しない。およそ国家というものには、賢明な士を持たない国家は存在せず、また無能な士を持たない国家も存在しない。およそ国家というものには、誠実な人民を持たない国家は存在せず、また凶悪な人民を持たない国家も存在しない。およそ国家というものには、美俗を持たない国家は存在せず、また悪俗を持たない国家も存在しない。もし国家がこれらの善悪相反する要素を共に行うならば、辛うじて存続することであろう。このうち善の要素が卓越すれば、国家は安泰となるだろう。だが悪の要素が卓越すれば、国家は危うくなるであろう。そして善の要素に完全に斉一させることに成功すれば、王者となるであろう。だが悪の要素に完全に斉一させるならば、国家は滅亡するであろう。法がよく行われ、賢者によって補佐され、人民は誠実となり、風俗は美俗となることが、善の要素に完全に斉一するということである。このようになれば、この国は戦わずして勝ち、攻めずして領地を獲得し、兵と武器を用いずして天下は服従するであろう。ゆえに湯王は亳(はく)に居を構え、武王は鄗(こう)に居を構えて(注1)、それぞれは百里(40km)四方の土地にすぎなかったが、そこから天下を統一して諸侯を家臣となし、天下を通行するもろもろの人民たちはことごとく服従したのであった。その理由は、ほかでもない。これらの王は、さきの善なる四要素を斉一させたからであった。だが悪王の桀(けつ)・紂(ちゅう)は天下を保有する権勢を厚く持ちながら、庶民として生きることを望んでもかなえられなかった(注2)。これは他でもない、さきの善なる四要素をすべて失ったからであった。ゆえにいにしえの王たち(注3)の法はそれぞれ同じではなかったが、それらの法の原理は、今述べたところに帰一するのである。

君主は臣民に対して愛をあまねく施すのであるが、臣民を統制するために礼義を用いる。君主の臣民に対する態度は、赤子を養うようなものである。そして政令や制度は君主が臣下の人民に接する手段であって、これらのうち道理に合わないものがほんのわずかでもあったならば、孤(みなしご)・独(子のない老人)・鰥(妻のいない老男)・寡(夫のいない老女)のような弱者であっても、これらを決して適応することはない。ゆえに臣下が君主に親しむことは父母を喜ぶようであり、これら臣下を殺しても君主に叛かせることはできないのである。君臣も上下も、貴賤も長幼も、庶民に至るまで、このように礼義を規準としないことはない。しかるのちに万人がみな自ら反省して、それぞれの職分にいそしむのである。これはいにしえの王たち(注3)が同じく行ってきたところであり、礼法の枢要である。こうして農夫たちは田地をそれぞれに分けて耕し、商人たちは財貨をそれぞれに分けて売り、工匠たちは仕事をそれぞれに分けて励み、士・大夫たちは職分をそれぞれに分けて政治を聴き、封建された諸侯たちは土地をそれぞれに分けて守り、三公(注4)は政治を総括して議論すれば、天子はただ手を拱いているだけである。天子の立ち居振る舞いがかくのごとくであれば、天下は必ず平定されて、よく統治されるであろう。このことはいにしえの王たち(注3)が同じく行ってきたところであり、礼法の大本である。何日もかけて詳しく調べたり、財物を検討してこれらを有効活用する方法を定めたり、衣服についての制度を制定したり、宮室についての法を定めたり、動員する役夫の数を定めたり、喪礼祭礼のための用具を適切に調えたりすること、これらを通じて万物をことごとく行き渡らせて、大きなものから小さなものまで定めた制度と数量に従うように揃えて、その上で実施すること。こういったことは、身分低い官吏がなすべき事務であって、大君子である君主の前であれこれ論議するべき案件ではない。ゆえに君主とは、礼義を朝廷に立てて適切であり、万事を行政する官吏がまことに仁人であるならば、身体を楽にして国家は治まり、功績は大きく名声は美しくなるのであって、最高の場合には王者となり、それに劣る場合でも覇者となるであろう。礼義を朝廷に立てながら適切でなく、万事を行政する官吏が仁人でないならば、身体を労しても国は敗れ、功績はなくなり名は恥辱を受け、社稷(しゃしょく)は必ず危うくなるであろう。これが、君主たるものの枢機である。ゆえに、適切な一人の宰相を得たならば天下を得られ、適切な一人の宰相を失ったならば社稷を危うくするであろう。適切な一人の宰相を得ることができずに適切な百人・千人の官吏を得ることができるという話は、聞いたことがない。適切な一人の宰相をすでに得られたならば、君主は身体を労することなど何もなく、ただ衣装を着て動きもせずに天下は定まるのである。ゆえに湯王は伊尹(いいん)(注5)を用い、文王は呂尚(りょしょう)(注6)を用い、武王は召公(しょうこう)(注7)を用い、成王は周公(しゅうこう)(注8)を用いた。また、それらに劣る者であっても、五覇(ごは)となることができた。斉の桓公は、後宮においては音楽を鳴らして大いにおごり、遊び呆けることに熱心で、天下においては身を修める君主とは評価されていなかった。しかるに桓公は諸侯を合せて天下を一つにまとめ、五覇の筆頭と言われた。これは他でもない、政治を管仲に一任するべきことを知っていたからであった。これは、君主たるものが守るべき要点であった。知者はこの要点を知るために、力を興隆させることが容易であって功名をきわめて大いにするのである。このことを捨てて、他になすべきことなどありはしない。ゆえに、いにしえの人で功名の大きな者は、必ずこの要点に従った者である。だがいにしえの人で国を失い己の身を危うくした者は、必ずこの要点に反した者であった。ゆえに、孔子は言われた、「知者の知は、もとよりすでに多い。その上でわずかな要点に集中してこれを守るので、必ず明察となる。愚者の知は、もとよりすでに少ない。その上でいろいろ煩雑に守ろうとするので、必ず無茶苦茶となって的外れとなる」と。この言葉は、今述べたことを指すのである。治まった国とは、職分がすでに定められた後は、君主・宰相・臣下・官吏がそれぞれの職分において聞くべきところのものを謹んで聞き、職分において聞く必要がないところのものは聞くことに務めることはせず、それぞれの職分において見るべきところのものを謹んで見て、職分において見る必要がないところのものは見ることに務めることはしないのである。聞くところと見るところとが、まことに職分に応じて斉えられたならば、たとえ遠方の僻地であったとしても、その人民はあえて己の本分をつつしんで礼制に安住し、上の者に順化されることであろう。これが、治まった国の徴(しるし)なのである。


(注1)正論篇(4)注1参照。
(注2)原文読み下し「匹夫爲らんことを索むるも得可らざるなり」この語句の意味は、彊国篇(2)注1参照。
(注3)原文「百王」。礼法を制定した歴史上の王たちのこと。
(注4)太師(たいし)・太傅(たいふ)・太保(たいほ)。正論篇(5)注3を参照。
(注5)湯王に仕えた賢人。『孟子』萬章章句上、七参照。
(注6)いわゆる太公望呂尚のこと。周の文王・武王の軍師であり、斉国の開祖。
(注7)召公は周の同族で、燕国の開祖。解蔽篇(2)注13参照。
(注8)成王は武王の子で、武王が死去したとき幼少であったので叔父の周公が摂政となり、周公は成王が成人したときにその政権を返上した。儒效篇(1)および同(6)を参照。
《原文・読み下し》
國として治法有らざること無く、國として亂法有らざること無く、國として賢士有らざること無く、國として罷士(ひし)有らざること無く、國として愿民(げんみん)有らざること無く、國として悍民(かんみん)有らざること無く、國として美俗有らざること無く、國として惡俗有らざること無し。兩者並び行われて國在り、上に偏して國安く、[在](注9)下に偏して國危うく、上に一にして王たり、下に一にして亡ぶ。故に其の法治まり、其の佐は賢に、其の民は愿(げん)に、其の俗は美にして、四者齊ふ、夫れ是を之れ上に一なりと謂う。是の如くなれば則ち戰わずして勝ち、攻めずして得、甲兵勞せずして天下服す。故に湯は亳(はく)を以てし、文王は鄗(こう)を以てし、皆百里の地にして天下一と爲り、諸侯臣と爲り、通達の屬、從服せざる莫し、它(た)の故無し、四者齊へばなり。桀・紂は即ち天下を有するの埶(せい)に序(あつ)くして(注10)、匹夫爲(た)らんことを索(もと)むるも得可らざるなり、是れ它の故無し、四者並びに亡(うしな)えばなり。故に百王の法は同じからざるも、是の若く歸する所の者は一なり。
上は愛を其の下に致(いた)さざること莫くして、之を制するに禮を以てす。上の下に於ける、赤子を保(ほう)するが如くし、政令・制度は、下の人百姓に接する所以にして、不理なる者豪末(ごうまつ)の如き有れば、則ち孤獨鰥寡(こどくかんか)と雖も必ず加えず。故に下の上を親しむこと、歡(かん)父母の如く、殺す可くして順わざらしむ可からず。君臣・上下、貴賤・長幼、庶人に至るまで、是を以て隆正を爲さざること莫し。然る後に皆內に自ら省みて、以て分に謹む。是れ百王の同じき所[以](ところ)(注11)にして、禮法の樞要なり。然る後に農は田を分ちて耕し、賈(こ)は貨を分ちて販し、百工は事を分ちて勸(はげ)み、士・大夫は職を分ちて聽き、建國・諸侯の君は土を分ちて守り、三公は方を總(す)べて議すれば、則ち天子は己を共(きょう)する而止矣(のみ)(注12)。出ずること若(かくのごと)く、入ること若くなれば、天下平均ならざること莫く、治辨ならざること莫し。是れ百王の同じき所にして、禮法の大分なり。夫(か)の日を貫して治平し、物を權(はか)りて用に稱(かな)い、衣服をして制有り、宮室をして度有り、人徒をして數有り、喪祭械用(そうかいかいよう)をして皆等宜(とうぎ)有らしめ、是を以て用(よう)萬物に挾(あまね)く、尺・寸・尋・丈も、制數(せいすう)・度量(どりょう)(注13)に循わざるを得ること無く、然る後に行うが若きは、則ち是れ官人・使吏の事なり、大君子の前に數うるに足らず。故に人に君たる者は、隆政を本朝に立てて當り、百事を要せしむる所の者、誠に仁人なれば、則ち身佚(いつ)にして國治まり、功大にして名は美に、上は以て王たる可く、下は以て霸たる可し。隆正を本朝に立てて當らず、百事を要せしむる所の者、仁人に非ざれば、則ち身勞して國亂れ、功廢して名は辱められ、社稷(しゃしょく)必ず危うし。是れ人君たる者の樞機なり。故に當(とう)を一人に能くして天下取られ、當を一人に失して社稷危うし。當を一人に能くせずして、當を千人・百人に能くする者は、說之れ有ること無きなり。既に當を一人に能くすれば、則ち身有(ま)た(注14)何の勞をか而(これ)(注15)爲さん、衣裳を垂れて天下定まる。故に湯は伊尹(いいん)を用い、文王は呂尚(りょしょう)を用い、武王は召公(しょうこう)を用い、成王は周公(しゅうこう)を用う。且つ卑しき者も五伯(ごは)たり。齊の桓公(かんこう)は閨門の內、縣樂(けんがく)(注16)・奢泰(しゃたい)、游抏(ゆうがん)を之れ脩め、天下に於ては脩と謂わ見(れ)ず、然るに諸侯を九合し、天下を一匡(いっきょう)し、五伯の長と爲る、是れ亦他の故無し、政を管仲に一にするを知ればなり。是れ人に君たる者の要守なり。知者は之が爲に力を興し易くして、功名綦(きわ)めて大なり、是を舍(す)てて孰(いずれ)か爲すに足らんや。故に古の人、大功名有る者は、必ず是に道(よ)る者にして、其の國を喪い其の身を危うくする者は、必ず是に反する者なり。故に孔子の曰(のたま)わく、知者の知は、固(もと)より以(すで)に(注17)多し、有(ま)た(注18)以て少を守れば、能く察なること無からんか。愚者の知は、固より以(すで)に少し、有(ま)た以て多きを守れば、能く狂なること無からんか、とは、此を之れ謂うなり。治國なる者は、分已に定まれば、則ち主相・臣下・百吏、各(おのおの)其の聞く所を謹み、其の聞かざる所を聽くことを務めず。各其の見る所を謹み、其の見ざる所を視ることを務めず。聞く所見る所、誠に以て齊(ととの)えば、則ち幽閒(ゆうかん)・隱辟(いんぺき)と雖も、百姓敢て分を敬し制に安んじ、以て其の上に化せざること莫し。是れ治國の徵(ちょう)なり(注19)


(注9)原文「兩者並行而國在、上偏而國安、在下偏而國危」。「在」字が二回繰り返されていることを生かして読むべきか、あるいは一方は誤入された衍字とみなすべきか。増注は或説で最初の「國」字の下に「存」字を加えてここで区切り、つづく「在」字を下につなげる読み方を示している。猪飼補注は、後ろの「在」字を衍字とみなす。集解の王念孫も同じ。ここは多数説である猪飼補注に従っておく。
(注10)集解の王念孫は、「序」はまさに「厚」となすべし、と言う。これに従う。
(注11)集解の王念孫、増注ともに、「所以」の「以」は衍字と言う。これらに従う。
(注12)王覇篇(3)の同文で採用した解釈に従い、ここは「止」字が「已」字に通じるという増注の説に従って「のみ」と読む。王覇篇(3)注7を参照。
(注13)原文「制數度量」。宋本は「制度數量」に作る。
(注14)増注は、「有」は読んで「又」となす、と言う。
(注15)増注は、「而」は読んで「之」となす、と言う。
(注16)仲尼篇では「般樂」で表れる。
(注17)猪飼補注は「以」は「已」に通ず、と注する。下も同じ。
(注18)猪飼補注は「有」は読んで「又」となす、と注する。下も同じ。
(注19)原文「百姓莫敢不敬分安制、以化其上、是治國之徵也」。「禮」字は宋本にあって元本では削られている。集解の王念孫は、「禮」字は俗書に「礼」字に作るが、「化」字は「礼」字と似ているのでこれを誤って読み、後人が「禮」字に作ってしまったのであろう、宋本が「禮化」に作るのは、転写した者が「化」字に作るテキストと「禮」字に作るテキストを一緒に合せてしまった結果であろう、という主旨の説を行っている(なお王念孫が言う俗字の「礼」は、現代日本の漢字では標準字体として採用されている)。王先謙は王念孫説に賛同して、自身の集解本では「禮」字を削っている。漢文大系もまた集解本に従う。しかし新釈の藤井専英氏は王念孫・王先謙に反対して、この節は「上は愛を其の下に致(いた)さざること莫くして、之を制するに禮を以てす」から始められていることなどを挙げて、結句として「禮」字がある宋本を是とする。ゆえに読み下しは「百姓敢て分を敬し制に安んぜざること莫し。禮を以て其の上に化するは、是れ治國の徵(ちょう)なり」のように行っている。どちらを取っても節全体の文意として大きな差は出ず、文章の形式の問題であると思われる。しかし文章の形式で言うならば、上に「是れ百王の同じき所[以]にして、禮法の樞要なり」「是れ人君たる者の樞機なり」「是れ人に君たる者の要守なり」とあり、ここも「是れ治國の徵(ちょう)なり」を独立させて締めたほうが上下よく揃うと思われる。なので私はあえて、王念孫・王先謙の読み方に従っておきたい。

斉の桓公が覇者となれた理由は、管仲を宰相に抜擢した見識があったからであった。そのことは、さきの仲尼篇でも述べられたことである。しかしながら仲尼篇では、儒家の門徒はそれでも覇者を称えることはしない、と言った。荀子は覇者を批判する立場であるにも関わらず、桓公と管仲のコンビについてずいぶんと言及することが多い。堯と舜、湯王と伊尹、文王と太公望は儒家が最も理想とする明君と名臣のコンビであるが、それら古すぎる時代の君臣たちよりも、桓公と管仲のコンビは時代も新しく業績も詳しく記録されている。彼らが覇者でさえなかったら、この二名の君臣の関係こそが荀子の理想とする君臣のモデルに最も近かったのではなかっただろうか。だから覇者であるのに、こうして多く言及せざるをえなかったのではないだろうか。荀子たち儒家が桓公と管仲の業績を評価できないのは、これを覇者と定義して王者の格下に置く儒家のイデオロギーが原因であろう。完全な聖王は存在することはできないし完全に善なる政治もまた実現することはできない、という妥協的智恵は、ユートピア思想にこだわる儒家が採用することができないものである。