王覇篇第十一(2)

By | 2015年8月20日
国家とは、天下において最も大きな道具であって、最も重い荷物である。よって、必ずこれを置く場所をよく選んでから置かなければならない。もし傾いた所にこれを置けば、危険なことになるだろう。また必ずこれが依拠する道をよく選んでから依拠しなければならない。もし荒れ果てた道を行くならば、行き詰ってしまうだろう。危険にして行き詰ってしまえば、滅亡するだろう。ここで国家を「置く」と言うのは、どこに国境を定めて国を建てるべきか、という意味で言っているのではない。むしろどのような法に依拠するべきであって、どのような人材とともに国を運営するべきであるか、ということである。よってその回答は、このようである。すなわち王者の法に依拠して王者の人材とともに国を運営すれば、すなわち王者となるであろう。覇者の法に依拠して覇者の人材とともに国を運営すれば、すなわち覇者となるであろう。亡国の法に依拠して亡国の人材とともに国家を運営すれば、すなわち滅亡するであろう、と。この三者は、明主が謹んで選択するところであり、仁の人が努力して明らかにすることなのである。ゆえに国家とは最も重い荷物であり、努力を積み重ねてこれを保持していかなければ、立ち行くことはできない。ゆえに国とは代々新たとなるものであるが、その変化はしごく平坦な推移なのであって、突然の飛躍的な変化が起こるものではなくて、いわば「玉(ぎょく)を改むれば行(こう)を改む」(注1)というものなのである。だが日は次々と過ぎてゆき、人は次々と移り変わっていくのに、千年の間までも不変のものが安泰として持続していくのは、どうしてであろうか?それは、千年の命を持つあの信ずべき法を援用してこれを保持し、千年の命を持つあの信ずべき士(注2)とともに国を運営するからである。だが、人は百歳の寿命すらないのに、千年の命を持つ信ずべき士がいるとは、どういうことであろうか?それは、千年の命を持つ法を自ら保持する者のことを、千年の命を持つ信ずべき士と言うのである。ゆえに、礼義を積む君子(注3)と国を運営するならば、すなわち王者となるであろう。誠実で完全な信頼のおける士(注3)と国を運営するならば、すなわち覇者となるであろう。権謀を行って人を倒すことを行う者と国を運営するならば、すなわち滅亡するであろう。この三者は、明主が謹んで選択するところであり、仁の人が努力して明らかにすることなのである。よくこれを選択する者は人を制し、よくこれを選択できない者は人がこれを制することであろう。国を保持するためには、君主一人で行うことは決してできない。なので、国が強固となるか、栄誉を受けるか、それとも恥辱を受けるかの別れ目は、君主を補佐する宰相をいかに選ぶかにかかっている。君主じしんが有能であって宰相もまた有能であれば、王者となるであろう。君主は無能であるが、無能の身を恐れ謹んで有能の人材を求めることを知っていれば、国を強くすることができるだろう。君主が無能であって、しかもその無能の身を恐れ謹んで有能の人材を求めることを知ることなく、ただただ左右にへつらう者と自らに親しんで集まる者ばかりを登用するならば、その国は危機となって領地は削られることが必至となり、このようなことを極めた果てについに滅亡するであろう。国というものは、これを大きく活用したときには大きくなり、これを小さく活用したときには小さくなる。大きく活用した極みは、王者となる。小さく活用した極みは、滅亡する。大と小を半ばに活用したときには、何とか国を存続させるにとどまるであろう。国を大きく活用する者は、義を先にして利を後にする。すなわち己に親しい者か遠い者かはどうでもよく、また地位が貴いか賤しいかはどうでもよく、ただ誠実で能力がある者だけを登用することを求めるだろう。これが、国を大きく活用するというのである。だが国を小さく活用する者は、利を先にして義を後にする。すなわち正しいか正しくないかはどうでもよく、正しいことと曲がっていることをよく見極めることもせず、ただただ左右にへつらう者と自らに親しんで集まる者ばかりを登用するだろう。これが、国を小さく活用するというのである。国を大きく活用する者は前者のごとくなり、国を小さく活用する者は後者のごとくなり、大と小と半ばに活用する者は、ときには前者のようになって、またときには後者のようになるであろう。古語に「正道に純粋ならば、王者となる。正道と邪道を混ぜて用いると、覇者となる。正道が一つもなければ、滅亡する」とあるのは、このことを言うのである。

国に礼義がなければ、その国は正しくない。礼義が国を正すゆえんは、これをたとえるならばまさしく衡(はかり)が物の軽重を量るようなものであり、縄墨(すみなわ)が物の直線と曲線を測るようなものであり、規(コンパス)と矩(ものさし)が四角形と円を測るようなものである。これらの道具のように、礼義の規準をあてがえば、人はこれをごまかすことができなくなるのである。詩に、こうある。:

、、、
霜雪の、将将(しょうしょう)として降る如く
日月の、光明(こうみょう)として輝く如く
之を為せば、則ち存し
之を為さざれば、則ち亡びん
(逸詩。原詩は伝わらない)

まさしく、礼義に従うか否かで身の存亡が決まるのである(注4)


(注1)楊注は、『國語』に古語の引用として「玉を改むれば行を改む」の語があることを指摘する。玉とは佩玉(はいぎょく)のこと、行とは歩行のことであり、すなわちこの古語の意味は、身につける佩玉の様式が変われば歩き方の様式も変えるように、礼の様式に変化はあるが礼の内容に本質的な変化はない、ということを言いたいのである。
(注2)原文読み下し「千歲の信士」。ここでいう「士」は、礼義を身に付けた統治階級一般を指しているはずである。以下も同じ。
(注3)原文読み下し「禮義を積むの君子」および「端誠・信全の士」。これらは「君子」と「士」を対比させて、前者を明らかに優位の存在に置いている。荀子の他篇において、「君子」は「聖人」の下にある上級の官僚で「士」はそれより劣る下級の官僚の意として用いられている。ここでの「君子」「士」は、荀子の他篇での用法に準じて用いられていると考えられる。
(注4)荀子はこの詩の断章を引用して、「之」を礼義の意味として解釈している。しかしこの詩は現行の『詩経』にない逸詩であるので、すでに伝わらない原詩において原文の「之」が礼義を指しているのかどうかは、分からない。荀子が断章取義を行って、原詩の意味から離れて解釈を行った可能性もある。
《原文・読み下し》
國なる者は、天下の大器なり、重任なり。善く爲(ため)に所を擇びて而(しか)る後に之を錯(お)かざる可からず、險に錯けば則ち危し。善く爲に道を擇びて然る後に之に道(よ)らざる可からず、薉(あい)に涂(と)すれば則ち塞(ふさ)がる。危塞なれば則ち亡ぶ。彼の國錯く者は、焉(これ)を封ずるの謂に非ざるなり。何の法にか之れ道(よ)り、誰の子(し)と之れ與(とも)にせん。故(ゆえ)に(注5)、王者の法に道(よ)り、王者の人と之を爲せば、則ち亦王たり。霸者の法に道(よ)り、霸者の人と之を爲せば、則ち亦霸たり。亡國の法に道(よ)り、亡國の人と之を爲せば、則ち亦亡ぶ。三者は明主の謹んで擇ぶ所以にして、仁人の務めて白(あきら)かにする所以なり。故に國なる者は重任なり、積を以て之を持せざれば則ち立たず。故に國なる者は世(よよ)新(あらた)にする所以の者なり、是れ憚憚(たんたん)として(注6)變ずるに非ざるなり。玉(ぎょく)を改むれば行(こう)を改むるなり。故に一朝の日なり、一日の人なり、然り而して厭焉(えんえん)として千歲の固(こ)(注7)有るは、何ぞや。曰く、夫(か)の千歲の信法を援(ひ)きて以て之を持し、安(すなわ)ち夫の千歲の信士と之を爲せばなり。人百歲の壽無くして千歲の信士有るは、何ぞや。曰く、夫の千歲の法を以て自ら持する者は、是れ乃(すなわ)ち千歲の信士なり。故に禮義を積むの君子と之を爲せば則ち王たり、端誠・信全の士と之を爲せば則ち霸たり、權謀・傾覆の人と之を爲せば則ち亡ぶ。三者は明主の謹んで擇ぶ所以にして、仁人の務めて白(あきら)かにする所以なり。善く之を擇ぶ者は人を制し、善く之を擇ばざる者は人之を制す。彼の國を持する者は、必ず以て獨なる可からざるなり、然れば則ち强固・榮辱は相(しょう)を取るに在り。身能に相能なり、是の如き者は王たり。身不能にして、恐懼して能者を求むるを知る、是の如き者は强し。身不能にして、恐懼して能者を求むるを知らず、安(すなわ)ち唯(ただ)便僻(べんべい)・左右の己に親比(しんぴ)する者を之れ用う、是の如き者は危削せられ、之を綦(きわ)めて亡ぶ。國なる者は、之を巨用すれば則ち大に、之を小用すれば則ち小なり。大を綦(きわ)めて王たり、小を綦めて亡び、小・巨分流する者は存す。之を巨用する者は、義を先にして利を後にし、安(すなわ)ち親疏を卹(かえり)みず、貴賤を卹みず、唯(ただ)誠能を之れ求む、夫れ是を之れ之を巨用すと謂う。之を小用する者は、利を先にして義を後にし、安(すなわ)ち是非を卹みず、曲直を治めず、唯(ただ)己に便僻・親比する者を之れ用う、夫れ是を之れ之を小用すと謂う。之を巨用する者は彼の若く、之を小用する者は此の若く、小・巨分流する者は、亦一は彼の若く、一は此の若し。故(こ)に曰く、粹にして王たり、駁(ばく)にして霸たり、一無くして亡ぶ(注8)、とは、此を之れ謂うなり。
國禮無ければ則ち正しからず、禮の國を正す所以は、之を譬(たと)うるに、猶お衡(こう)の輕重に於けるがごとく、猶お繩墨(じょうぼく)の曲直に於けるがごとく、猶お規矩(きく)の方圓(ほうえん)に於けるがごとく、既に之を錯けば、而(すなわ)ち人能く誣(し)うること莫きなり。詩に云う、霜雪の將將たるが如く、日月の光明なるが如し、之を爲せば則ち存し、爲さざれば則ち亡ぶ、とは、此を之れ謂うなり。


(注5)集解の王念孫は、「故」はまさに「曰」となすべし、と言う。「故」をはさんだ上文と下文を、設問とその返答とみなすからである。だが新釈は、簡釈の説を容れて、まとめて「法」と「人」の二事について考えた言葉であるとみなす。よって新釈はそのまま「故(ゆえ)に」と読み下している。新釈の解釈のほうが、よく通ると考えたい。
(注6)「憚憚」について楊注は「憚は坦と同じ」と言う。集解の郝懿行は楊注説でも通ずると前置きした上で、疑うは「憚」は「幝」字の誤りかと言う。「幝幝(たんたん)」は、敝(やぶ)れる貌のこと。郝懿行に従うならばここは「憚憚たるも變ずるに非ざるなり」と読み下すべきで、意味は「時代の経過とともに破れて古びていくが、それをまた繕って新たにするのであって、とつぜん変化するものではない」となるであろう。今は楊注に従う。
(注7)集解の王念孫・増注ともに、『群書治要』の引用では「固」を「國」に作ることを指摘して、これを是としている。しかし新釈の藤井専英氏は、「下文に『强(彊)固榮辱』とある事とも考え合わせ、『一朝之日、一日之人』という瞬時も停らないものに対し、千歳の永きに亙って滅亡せず固定して繁栄する国と意味に解せぬものであろうか」と書いている。藤井氏の指摘に従えば、あえて「固」を「國」に変えなくても通じるであろう。『群書治要』の引用は荀子の原文を転写する際に、意味が取りやすい字に入れ替えた可能性もある。同様の疑いは、同じく『荀子』からの引用が豊富な『韓詩外伝』にも散見される。藤井説を取って、あえて「固」字のままで解釈したい。
(注8)同じ語句が、彊国篇(4)に見える。よって、これは古語の引用とみなすべきであり、上の「故」は「故(こ)に」と読み下すべきであろう。

再び、王者は礼義に拠るゆえに覇者よりも勝る存在であることが述べられる。荀子の見る覇者とは、国内の家臣と人民に信頼を置かれて国外の同盟国にも信頼を置かれる存在である。では何が覇者に足りず王者にはあるのか、といえば、恒久的な秩序を作る礼義を立てることだ、と言うであろう。王者が立てる礼義とは貴賤の等級であり、賞罰の執行である。すなわち人間の能力に応じてこれを貴賤の身分秩序に等級化し、身分秩序を通じて能力に応じて富貴が分配される制度を整える。賞罰の法を厳格に執行することによって、有能な者は高い身分に上せられて富貴を得ることができて、それなりの能力の者はそれなりの身分と生活に甘んじるように仕向けられ、法を破る者には厳罰が課せられて秩序が保たれる。人間の「性」・「情」は悪であり、すなわち人間存在にとって欲望は消すことができない生物的本能である。よって最良の統治はこの欲望を秩序立てて制御するところに見出されるのであって、墨子や宋鈃(そうけい)のごとくに人間の欲望を軽視するところに見出してはならない。これが王者の秩序であり、覇者はこの礼法の秩序を天下に広めることをしないので、アドホック(まにあわせ)の平和しか天下に与えることはできない。荀子の王・覇の区別とは、以上のような主張であると思われる。この荀子の王者の国を、能力ある者が選ばれて国家を運営し、人間は各人の能力に応じた報酬が与えられるように設計された、合理的社会の完成形と見なすか。あるいは王者という名のビッグブラザーが世界で唯一君臨して全ての人間を支配する、超管理国家の悪夢とみなすか。それは、読む者が考えなければならないだろう。

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