王覇篇第十一(1)

By | 2015年8月19日
国家とは天下において最も力を持った道具であり、君主とは天下において最も権勢を持った存在である。これを正道によって保持するならば、大いに安泰となり、大いに繁栄し、麗しい美徳を積み上げる淵源となるであろう。しかしこれを正道によって保持しないならば、大いに危険であり、大いに迷惑でり、あったよりもないほうがましの悪存在となるであろう。この悪が極まったならば、君主の座を捨てて一庶民として生きることを望んでも、もはやかなえられることはない。斉の湣王(びんおう、閔王とも記録される)(注1)、宋の獻王(けんおう)(注2)が、この実例である。ゆえに、君主とは天下において最も権勢を持った存在でありながら、自分だけの力で身を安んずることはできないのである。これを安んずることができるのは、必ず正道なのだ。ゆえに国家を統治する者は、義(注3)を立てれば王者となり、信を立てれば覇者となり、権謀ばかりを追い求めたならば滅亡する。この三者は、明主が謹んで選択するところであり、仁の人が努力して明らかにすることなのである。国中を挙げて礼義を唱えて、礼義の正道を損なうことをせず、たった一つの不義を行いたった一人の無罪者を殺して天下を得られる時に直面しても、仁者はこれを得ようとはしない。己が身と国家を、このように堅固に養い守るのである。このような君主と共に事業をなす者は、これみな義士というべきである。この国家の刑罰法令を述べ立てるならば、それはみな義法である。君主が速やかに群臣を率いて向かうところのものは、これみな義志である。このようであるならば、下の者が上の者を仰ぐべき原理は、義に拠るであろう。これによって、国家の基盤は定まる。基盤が定まれば、国家は安定する。国家が安定すれば、すすんで天下までも平定されることであろう。仲尼(ちゅうじ。孔子の字(あざな))はわずかの土地すら保有していなかったが、義によってその意志を誠に整え、義によってその身体と行動を律し、このことを言語に表明した。なのでその徳が成ったときには、天下に隠れもせず輝いて、その名声は後世にまで残った。今また天下の有力諸侯が義によってその意志を誠に整え、義によって法律規則と度量衡を整え、義を政治において表明し、貴賤の昇降と刑罰の執行もまた重ねて行い、初めから終わりまで足並みを揃えて国家を斉一させるならば、この者の名声は日月や雷のように天地の間に表れて明らかとなることであろう。ゆえに、「国を挙げて義を行えば、その名声は一日で明らかとなる」と言うのである。湯王・武王が、その実例である。湯王は亳(はく)に居を構え、武王は鄗(こう)に居を構えて(注4)、それぞれは百里(40km)四方の土地にすぎなかったが、そこから天下を統一して諸侯を家臣となし、天下を通行するもろもろの人民たちはことごとく服従したのであった。その理由は、ほかでもない。彼らは義を行ったからであった。これがいわゆる、義を立てれば王者となる、ということなのである。

しかし徳はまだ足らず、義もまだ足らないが、天下の道理をほぼ集めて、刑罰と褒賞は天下に信頼され、その諾否の判断もまた天下に信頼され、臣下たちははっきりとその者と約束するに足ることを知り、政令がいったん発布されたならばその政令が不利な状況となってもそれをねじまげて人民を欺くことはせず、条約がいったん締結されたならばその条約が不利な状況となってもそれを破って同盟国を欺くことはしない。このようであるならば、兵は強く城は固くなり、敵国はこれを畏れ、国は斉一となり、国の基盤は明らかに固まり、同盟国はこれを信頼するであろう。このような国家は、たとえ辺境の地にあったとしても、その勢威は天下を動かすであろう。五覇(ごは)が、これである。五覇は、人を教化する王者の政治に基づいているわけではない。五覇は、礼義を極めるわけではなく、礼義の規則を極めるわけでもなく、人を心服させる道を取るわけでもない。五覇は、ただ策略を用いて、人を働かせたり安楽にさせる術を操り、財貨を蓄えて軍備を整え、その結果上と下が歯がかみ合うように互いに信頼し、天下無敵となったまでのことである。ゆえに、斉の桓公・晋の文公・楚の莊王・吳王の闔閭(こうりょ)・越王の勾踐(こうせん)は、これみな辺境の国家の君主であったが、彼らの勢威は天下を動かして力は中華世界を危うくしたのであった。その理由は、ほかでもない。信がほぼあったからである。これがいわゆる、信を立てれば覇者となる、ということなのである。しかし国を挙げて功利を唱え、義を張り巡らせて信を行うことを務めることをせず、ただ利ばかりを求め、国内においては人民を欺くことに遠慮することなくして小さな利益を求め、国外に対しては同盟国を欺くことに遠慮することなくして大きな利益を求め、国家が今保有している資産を整えて活用することを行わずにかえって外国が保有しているものを奪おうといつも望んでいる。このようであれば、その国の家臣と人民は、すべて詐る心を持って上に立つ者に対するであろう。上に立つ者は下の者を詐り、下にある者は上の者を詐るならば、上と下はばらばらに分かれてしまうだろう。国がこのようになれば、敵国はこの国を軽んじ、同盟国はこの国を疑い、権謀ばかりが日ごとに行われて、やがて国は危機となって領地は削られることは必至であり、このようなことを極めた果てについに滅亡するであろう。斉の湣王と、同国の薛公(せつこう)(注5)がこの実例である。これらの者は、かの強国であった斉国の支配者でありながら、礼義を修めることをせず、人を教化する王者の政治に基づくことをせず、天下を統一することをせず、ただただ常に合従連衡の策士を国外に送り出して権謀に明け暮れることしかしなかった。よって、斉国の強力をもって南は楚国を破り、西は秦国を屈服させ、北は燕国を破り、中原地方に向かっては宋国を陥落させることに成功した(注6)。しかしながら燕・趙の二国が決起して斉国を攻撃するに及んで、枯葉を打ち払うがごとくに王の身は死んで国は滅び、天下の大恥となり、後の世に悪を言うときには必ず言及されるまでとなったのであった。その理由は、他でもない。ただ斉王は礼義に拠らず、権謀に拠ったからであった。王者となるか、覇者となるか、滅亡するかの三者について、明主はこれを謹んで選択し、仁の人はこれを努力して明らかにするのである。よく選択する者は人を制し、よく選択できない者は人がこれを制することであろう。


(注1)戦国時代斉国の王。その征服事業の顛末については、彊国篇(2)を参照。
(注2)楊注によれば、これは宋最後の王である偃(えん)のことであり、呂氏春秋にある康王のことである(解蔽篇(2)注9参照)。宋国は偃の代に斉の湣王の侵攻を受けて、偃は殺され宋国は滅亡した。
(注3)ここにおける「義」とは、国家と統治者の従うべき礼義、すなわち礼法の制度の意味が前面に出されている。抽象的な「正義」の意に狭めて取っては、覇者の政策との区別がよく分からないだろう。
(注4)正論篇(4)注1参照。
(注5)楊注は、ここで言う薛公とは孟嘗君田文(もうしょうくんでんぶん)である、と言う。田文が本名で、孟嘗君は称号である。孟嘗君は斉国の公子で権勢を誇り、戦国四君子の一に数えられる。増注の久保愛は楊注に疑義を唱え、孟嘗君は当時の聞人すなわち著名人であるからここでの薛公には当たらず、その父の田嬰(でんえい)のことであろう、と言う。まず田嬰が斉王によって薛公に封じられて、その後を子の孟嘗君が継いだ。しかし新釈の藤井専英氏は孟嘗君の没後に薛公の後は絶えた(『史記孟嘗君列伝』)こと、君道篇で荀子が孟嘗君を簒臣に挙げていることを指摘して、久保愛の説に必ずしも同調していない。
(注6)以上の戦役について、新釈は斉の湣王が各国に勝利した記録を挙げている。このうち斉湣王十年に斉国が燕国に勝ったという記録は『史記燕召公世家』から取ったものであるが、『孟子』においてこの戦役は先代の宣王の時期のことであると記録されている。『史記』の年表に間違いがあることが、『史記』と『孟子』との矛盾の原因であると思われる。『史記』の年表の間違いについての考証は、尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史2・中華文明の誕生』(中央公論社)ほかを参照。
《原文・読み下し》
國なる者は、天下の[制](注7)利用なり。人主なる者は、天下の利埶(りせい)なり。道を得て以て之を持すれば、則ち大安なり、大榮なり、積美の源なり。道を得て以て之を持せざれば、則ち大危なり、大累なり、之有るも之無きに如かず、其の綦(きわ)まるに及んでは、匹夫爲(た)らんことを索(もと)むるも、得可からざるなり。齊湣(せいびん)・宋獻(そうけん)是(これ)なり。故に人主は天下の利埶なり、然り而(しこう)して自ら安んずること能わざるなり、之を安んずる者は必ず將(は)た道なり。故に國を用(おさ)むる者は、義立ちて王たり、信立ちて霸たり、權謀立ちて亡ぶ。三者は明主の謹みて擇(えら)ぶ所にして、仁人の務めて白(あきら)かにする所なり。國を絜(ひっさ)げて以て禮義を呼びて、以て之を害すること無く、一の不義を行い、一の無罪を殺して天下を得るは、仁者は爲さざるなり、擽然(らくぜん)として心國(しんこく)(注8)を扶持(ふじ)すること、且(は)た是(かく)の若く其れ固きなり。之(そ)の(注9)與(とも)に之を爲す所の者は、之(そ)の人は則ち舉(みな)義士なり。之(そ)の(注9)國家の刑法に布陳(ふちん)することを爲す所以の者は、則ち舉(みな)義法なり。[主](注9)極然(きょくぜん)として羣臣(ぐんしん)を帥(ひき)いて之に首鄉(しゅきょう)する者は、則ち舉(みな)義志なり。是の如くなれば則ち下上を仰ぐに義を以てす、是れ綦(き)定まるなり。綦定まりて國定まり、國定まりて天下定まる。仲尼(ちゅうじ)は置錐(ちすい)の地無くして、義を志意に誠にし、義を身行に加え、之を言語に箸(あら)わす、濟(なる)の日天下に隱れず、名後世に垂る。今亦天下の顯諸侯を以て、義を志意に誠にし、義を法則・度量に加え、之を箸わすに政事を以てし、案(すなわ)ち之を申重するに貴賤・殺生(さつせい)を以てし、襲然(しゅうぜん)として終始一の猶(ごと)くならしむ。是の如くなれば則ち夫の名聲の天地の間に部發(ほうはつ)(注10)するや、豈に日月・雷霆(らいてい)の如く然らざらんや。故(ゆえ)に曰く、國を以て義を齊(な)せば、一日にして白(あきら)かなり、と、湯・武是なり。湯は亳(はく)を以てし、武王は鄗(こう)を以てす。皆百里の地なるも、天下一と爲り、諸侯臣と爲り、通達の屬、從服せざること莫し、它(た)の故無し、義を濟(な)すを以てなり。是れ所謂(いわゆる)義立ちて王たるなり。
德未だ至らずと雖も、義未だ濟(な)らずと雖も、然り而して天下の理略(ほぼ)奏(あつ)まり(注11)、刑賞・已諾(いだく)、天下に信ぜられ、臣下曉然(ぎょうぜん)として、皆其の要(よう)す(注12)可きを知り、政令已に陳(ちん)すれば、利敗を睹(み)ると雖も、其の民を欺かず。約結已に定まれば、利敗を睹ると雖も、其の與(よ)を欺かず。是の如くなれば則ち兵勁(つよ)く城固く、敵國之を畏れ、國一に綦(き)明(あきら)かに、與國(よこく)之を信ず。僻陋(へきろう)の國に在りと雖も、威天下を動かす。五伯(ごは)是れなり。政教に本づくに非ず、隆高を致(きわ)むるに非ず、文理を綦(きわ)むるに非ず、人の心を服するに非ず、方略に鄉(むか)い、勞佚を審(つまびら)かにし、畜積(ちくし)を謹み、戰備を脩め、齺然(さくぜん)として上下相信じて、天下に之に敢て當ること莫し。故に齊桓(せいかん)・晉文(しんぶん)・楚莊(そそう)・吳闔閭(ごこうりょ)・越勾踐(えつこうせん)は、是れ皆僻陋の國なるも、威は天下を動かし、强は中國を殆(あや)うくす。它(た)の故無し、略(ほぼ)信なればなり。是れ所謂(いわゆる)信立ちて霸たるなり。國を絜(ひっさ)げて以て功利を呼び、其の義を張り其の信を齊(な)すことを務めず、唯(ただ)利を之れ求め、內は則ち其の民を詐(いつわ)るを憚らずして小利を求め、外は則ち其の與(よ)を詐るを憚らずして大利を求め、內に其の以(すで)に有する所を脩正せず、然も常に人の有を欲す(注13)。是の如くなれば則ち臣下・百姓、詐心を以て其の上を待たざる莫し。上は其の下を詐り、下は其の上を詐れば、則ち是れ上下析(わか)るるなり。是の如くなれば則ち敵國之を輕んじ、與國(よこく)之を疑い、權謀日に行われて、國危削を免れず、之を綦(きわ)めて亡ぶ。齊閔(せいびん)・薛公(せつこう)是れなり。故に强齊(きょうせい)を用(おさ)むるに、以て禮義を脩むるに非ざるなり、以て政教に本づくに非ざるなり、以て天下を一にするに非ざるなり、綿綿として常に引(いん)(注14)を結び外に馳するを以て務(つとめ)と爲す。故に强きこと南は以て楚を破るに足り、西は以て秦を詘(くつ)するに足り、北は以て燕を敗るに足り、中は以て宋を舉(あ)げるに足れり。燕・趙起りて之を攻むるに及以(およ)んで、槁(こう)を振るうが若く然り、而(しこう)して身死し國亡び、天下の大戮(たいりく)と爲り、後世惡を言えば、則ち必ず稽(かんが)う。是れ它の故無し、唯(ただ)其の禮義に由らずして、權謀に由ればなり。三者は明主の謹んで擇ぶ所以にして、仁人の務めて白(あきら)かにする所以なり。善く擇ぶ者は人を制し、善く擇ばざる者は人之を制す。


(注7)楊注は、「制」は衍字なるのみ、と言う。これに従う。
(注8)増注は、心國はまさに身國に作るべし、と言う。君主の身と国家。
(注9)二つの「之」字は、宋本にはなくて元本にはある。増注は宋本に拠ってこの二つの「之」字を削り、さらにすすんで直下の「之(そ)の人は」(原文:「之人」)の二字も衍字であると言う。集解の王引之は、王制篇の文章において元本は「之(そ)の下の人、、、」を三度続ける形式となっていることを指摘し、この王覇篇の「主」字は後人が加えたものであろう、と断じている。本サイトは、王制篇においては元本に拠って読み下した。なので、この王覇篇においてもまた元本に拠って二つの「之」字を加えることにしたい。したがって、増注の説をこちらの王覇篇では取らないことにする。さらに元本に拠りながら疑義を提出した王引之の説についてはこれを採用して、「主」字を衍字とみなして読まないことにする。なお、王制篇(6)注11も参照。
(注10)楊注は、「部はまさに剖となすべし。開發を謂うなり」と言う。「剖發」は、あらわれてあきらかとなること。
(注11)「奏」について集解の郝懿行・王念孫は、「湊」と読むべきであることを言う。「湊」は、あつめる意。これに従う。
(注12)楊注は「要は約なり。皆其の與に要約する可くして欺かざるを知る」と言う。約束できる、ということ。
(注13)原文「內不脩正其所以有、然常欲人之有」。「所以」はふつう二字でまとめて原因を意味する語句として、「ゆえん」と読み下す。底本としている漢文大系は集解の顧千里の説を容れて「內」字を衍字とみなし、また王念孫の説を容れて、「然」の上に「啖啖」の二字が脱しているとみなす。王念孫の説の根拠は、この王覇篇の末尾の文章に「不好循正其所以有、啖啖常欲人之有、是傷国(其の有する所以を循正することを好まず、啖啖として常に人の有を欲するは是れ傷國なり)」とあることにならったものである。いま漢文大系に沿って注13の箇所を読み下すならば、「[內]其の有する所以を脩正せず、啖啖然として常に人の有を欲す」となるであろう。しかし新釈の藤井専英氏は、「所以」を「ゆえん」と読まずに「以」の字を「已に通じ、既にの意」と解釈し、さらに「然」字は逆説の接続詞(しかも)と解釈する。上の読み下し文は、藤井氏の説に沿ったものである。類似の文から類推して補った漢文大系の解釈のほうが文章としてはすっきりするが、藤井氏の読み方に沿うならばより具体的な解釈となって興味深い。よって、アクロバットな読み方ではあるがあえて藤井説を取って読み下すことにする。
(注14)楊注は、「引」は読んで「靷」となす、と言う。「靷(いん)」は、馬の胸の下に当てて車を引かせる革ひものことで、「むながい」と訓ずる。「靷を結び外に馳する」とは、馬車を走らせて外国に遊説の客を送り出すことを言う。

王覇篇は、王制篇ですでに述べられた強者・覇者・王者のたどる道筋について再説して、その三者の中で王者が最も優れていて天下を最終的に統一するであろうことを述べた篇である。この王覇篇のほうが分量も多くて詳細な説明となっているのであるが、荀子の王覇論については、私はすでに王制篇で検討してすでに私の意見を述べた。なので、この王覇篇では多くを繰り返そうとは思わない。

上に訳した冒頭の箇所は、王制篇における王者と覇者と(偽りの)強者の三者について改めて述べたものである。歴史への証言として意義ある内容としては、ここと後の議兵篇においていわゆる「春秋五覇」の荀子説が立てられている。

荀子は中華世界(したがって、荀子の生きた人類世界すべて)が統一帝国の下に統治されることが、世界に恒久的な平和をもたらす最終的な解決策であることを固く信じていた。よって、富国強兵によって力を蓄え、その力を背景に諸国に信を得る外交を行って平和をもたらす覇者について、それを最終的な平和への解決策ではないと考えた。だから覇者の上位に王者を置くのであって、その王者とは統一帝国の君主として配下に能力ある官僚(荀子は「士」「君子」という用語でこれを表現する)を従えて世界を礼法によって合理的に統治する理想的存在と考えた。だがこの王者は、戦国時代末期であったからリアリティを持った理想であった。現代の世界においては、まず通用することができないだろう。現代の世界において現実的な解決策は、覇者=ヘゲモニー国家が主導する平和であるか、また覇者=ヘゲモニー国家が不在の時代であれば、一国の独立を確保して、攻めず攻められずの政策を維持し続ける(真の)強者の道となるであろう。それらのことは、すでに王制篇で書いた。

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