王覇篇第十一(3)

By | 2015年8月22日
国が危うければ楽しむ君主はおらず、国が安泰であれば憂う人民はいない。乱れてカオスとなると国は危うくなり、治まると国は安泰となる。いまどきの君主は、楽しみを急いで求めて国を治めることをのろのろと行う。なんというはなはだしい過ちであろうか。これを譬えるならば、音楽や映像を好みながら耳と目がなくても平然としているようなものである。なんと哀しいことではないか。そもそも人の情(注1)とは、目は美しい色をとことん見たいと望み、耳は美しい音色をとことん聞きたいと望み、口は美味をとことん究めたいと望み、鼻は麗しい香りをとことん味わいたいと望み、身体は安楽をとことん究めたいと望むものである。こういった五官の快楽への欲望は、人間の情が決して免れない本能なのである。しかしこの五官の快楽を養うためには、条件がある。この条件がなければ、五官の快楽を得て極めることはできないだろう。万乗の国(注2)は広大で大いに富んでいるというべきであり、そこによく治められて強固となる統治の正道が加わっているならば、安楽で楽しくて憂いと困難はないだろう。このようであった後に、五官の快楽を養う条件が備わるのである。ゆえに、あらゆる楽しみとは治国に生じるのであり、憂いと困難は乱国に生じるのである。楽しみを急いで求めて国を治めることをのろのろと行う者は、楽しみを知る者とはいえない。ゆえに明君とは、必ずまずはその国を治めて、しかるのちにあらゆる楽しみがその中から得られるものであり、一方闇君とは、必ず楽しみを急いで求めて国を治めることをのろのろと行うので、憂いと困難が数え切れないほど起こるのであり、やがて必ず己の身が死んで国が亡ぶところまで行き着くであろう。なんと哀しいことではないか。楽しみを行おうとして憂いを得て、安泰となろうとして危険を得て、幸福となろうとして死亡を得るのだ。なんと哀しいことではないか。ああ、君主たるものは、今の言葉をよく考えるべきである。

ゆえに、国を治める正道というものがあって、君主がなすべき職分というものがある。何日もかけて詳しく調べたり、一日のうちに事案をさばくような仕事は、もろもろの官吏たちに行わせるべき職務である。君主はこのような細かな事務を行う必要はないので、君主が安らかに遊び楽しむ時間はさまたげられることはない。君主の職務とは、一人の宰相を選んで臣下をすべて率い、臣下と官吏が正道に留まり正道に沿って常に励むようにさせることなのである。君主がこのようであれば、天下を統一して堯・禹に匹敵する名声を得るであろう。君主というものは、己の身を守ることは至って簡潔であるが、その要点はすべて尽くしている。またなす仕事はいたって楽であるが、それでも功績は挙がる。君主は衣装を着て動きもせず、座った敷物の上から降りることもしないで、海内の人民はこれが帝王となることを願わないものはいない。これを、至約すなわち簡潔の極地と言うのである。これに勝る楽しみは、ほかにない。君主というものは、人を官職に就かせる能力を持つ存在である。いっぽう庶民は自分が働く能力を持つ存在である。君主は他人に仕事をさせることができるが、庶民は自分の仕事をさせる他人がいない。百畝(ひゃくほ、1.82ヘクタール)の農地を守るしかなく、農事で困ったことが起こったとて、これを人にやらせる術はない。だが一人で天下の政治を全て聞きながら、日が余って仕事が少ないのは、人に仕事をやらせているからできるのである。大は天下を有し、小は一国を有している者が、全部自分一人で仕事をしなければならないならば、労苦して消耗することこれより甚だしいことはないだろう。このようであれば、奴婢(ぬひ)ですら天子と仕事を変わろうとは思うまい。天下すべてを保有して四海を統一する者が、どうして仕事を一人で行う必要があろうか。一人で仕事を行うのは、役夫の道である。君主がそのようなことをするべきだと言うのは、墨子の邪説である。だが家臣の徳を論じて有能な者を使役し、これらに官職を与えて働かせることこそが、聖王の道なのであり、儒家が謹んで守るところなのである。言い伝えには、「農夫たちは田地をそれぞれに分けて耕し、商人たちは財貨をそれぞれに分けて売り、工匠たちは仕事をそれぞれに分けて励み、士・大夫たちは職分をそれぞれに分けて政治を聴き、封建された諸侯たちは土地をそれぞれに分けて守り、三公(注3)は政治を総括して議論すれば、天子はただ手を拱いているだけである」とある。天子の立ち居振る舞いがかくのごとくであれば、天下は必ず平定されて、よく統治されるであろう。このことはいにしえの王たち(注4)もまた同じであったのであり、これが礼法の大本なのである。


(注1)「情」とは、人間の「性」から発現する衝動的な感情のことであり、本能に根ざすものである。正名篇の定義を参照。
(注2)大国のこと。儒效篇(7)注8参照。
(注3)太師(たいし)・太傅(たいふ)・太保(たいほ)。正論篇(5)注3を参照。
(注4)原文「百王」。礼法を制定した歴史上の王たちのこと。
《原文・読み下し》
國危うければ則ち樂君無く、國安ければ則ち憂民無し。亂るれば則ち國危うく、治まれば則ち國安し。今人に君たる者、樂しみを逐うを急にして國を治むるを緩にす、豈に過つこと甚しからずや。之を譬(とた)うるに是れ由(な)お聲色を好んで、而も恬として耳目無きがごときなり、豈に哀しからずや。夫れ人の情、目は色を綦(きわ)めんと欲し、耳は聲を綦めんと欲し、口は味を綦めんと欲し、鼻は臭を綦めんと欲し、心は佚(いつ)を綦めんと欲す。此の五綦(ごき)なる者は、人情の必ず免れざる所なり。五綦を養う者は具有り、其の具無ければ、則ち五綦なる者は得て致(きわ)む可からざるなり。萬乘の國は、廣大・富厚と謂う可し、加うるに治辨・强固の道有り、是(かく)の若くなれば則ち恬愉(てんゆ)(注5)にして患難無く、然る後に五綦を養うの具具(そな)わる。故に百樂なる者は、治國に生ずる者なり。憂患なる者は、亂國に生ずる者なり。樂しみを逐うを急にして國を治むるを緩にする者は、樂を知らざる者なり。故に明君なる者は、必ず將(は)た先ず其の國を治め、然る後に百樂其の中に得られ、闇君なる者は、必ず將た樂しみを逐うを急にして國を治むるを緩にす、故に憂患勝(あ)げて校(かぞ)う可からざるなり。必ず身死し國亡ぶるに至りて然る後に止む、豈に哀しからずや。將(まさ)に以て樂しみを爲さんとして、乃ち憂を得、將に以て安を爲さんとして、乃ち危を得、將に以て福を爲さんとして、乃ち死亡を得(う)、豈に哀しからずや。於乎(ああ)、人に君なる者は、亦以て若(かくのごと)き言を察す可し。
故に國を治むるに道有り、人主に職有り。夫の日を貫(かさ)ねて治詳(ちしょう)し、一日にして曲(つぶさ)に之を列(わか)つ(注6)が若きは、是れ夫(か)の百吏・官人をして爲さしむる所にして、是を以て游玩(ゆうがん)・安燕の樂しみを傷(きずつ)くるに足らず。夫の一相を論じて以て之を兼率し、臣下・百吏をして道に宿し方に鄉(むか)いて務めざること莫からしむるが若きは、是れ夫の人主の職なり。是の若くなれば則ち天下を一にし、名は堯・禹に配す。之(こ)の主なる者は、守ること至りて約にして詳に、事は至りて佚にして功あり、衣裳を垂れ、簟席(たんせき)の上を下らずして、海內の民、得て以て帝王と爲らんことを願わざること莫し。夫れ是を之れ至約と謂う、樂しみ焉(これ)より大なるは莫し。人主なる者は、人を官にするを以て能と爲す者なり。匹夫なる者は、自ら能くすることを以て能と爲す者なり。人主は人をして之を爲さしむることを得、匹夫は則ち之を移す所無し。百畝(ひゃくほ)を一守し、事業窮するも、之を移す所無きなり。今一人を以て天下を兼聽し、日餘り有りて治足らざる者は、人をして之を爲さしむればなり。大は天下を有し、小は一國を有し、必ず自ら之を爲して然る後に可ならば、則ち勞苦・秏顇(こうすい)焉より甚しきは莫し。是の如くなれば、則ち臧獲(ぞうかく)と雖も、肯て天子と埶業(せいぎょう)を易(か)えず。是を以て天下を縣し、四海を一にす、何が故に必ずしも自ら之を爲さんや。之を爲す者は、役夫の道なり、墨子の說なり。德を論じ能を使いて之を官施する者は、聖王の道なり、儒の謹しみて守る所なり。傳に曰く、農は田を分ちて耕し、賈(こ)は貨を分ちて販し、百工は事を分ちて勸(はげ)み、士・大夫は職を分ちて聽き、建國諸侯の君は土を分ちて守り、三公は方を摠(す)べて議すれば、則ち天子は己を共(きょう)するのみ(注7)、と(注8)。出ずること若(かくのごと)く入ること若(かくのごと)く、天下平均ならざること莫く、治辨ならざること莫し。是れ百王の同じき所なり、禮法の大分なり。


(注5)宋本は、「恬」字を「怡」字に作る。
(注6)集解の王念孫は、君道篇で「一日にして曲に之を辨ず」とあることを引き、辨と別は古字通じるゆえに「列」は「別」の誤りと言う。これに従う。
(注7)原文「則天子共己而已矣」。宋本には「已」字がなくて「則天子共己而矣」に作る。「傳に曰く、、」以下はほぼ同文が王覇篇(5)に再度表れる。しかしそこでは「則天子共己而止矣」となっている。オリジナルの同じ文を二度引用したが字が異なってしまったと推測できるが、ではオリジナルの文はどのようであったか。集解の王先謙は、群書治要では「而已」が「止矣」となっているので、「止」字のほうが正しい、と言う。漢文大系および新釈は、「則天子共己而已矣」の解釈を採用している。どちらとも決し難いが、漢文大系および新釈の解釈を取っておく。「共」について楊注或説は、読んで「拱」となす、と言う。こまねく。
(注8)「傳に曰く、、」以下に続く文が「、、禮法の大分なり」まで王覇篇(5)に再度表れる。新釈および金谷治氏は、おそらくそのために「、、禮法の大分なり」までを傳(伝)とみなす解釈をしておられる。しかしながら、荀子の古語の引用の通例は、これほどに長いものはあまり他の箇所に見られない。なので、最後の文は荀子の地の言葉であり、記録したものが伝とひとまとめで収録した、とあえて考えてみたい。

統治者と被統治者とは職分が違うのであって、統治者は被統治者のような具体的な生業に従事するべきではなくて国家秩序を統制する職務に専念するべきである、というのが儒家の共通した主張である。古くは論語の「君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る」(里仁篇)の語から始まり、つづく孟子は滕文公章句において君主もまた耕作するべきであるという陳相(ちんしょう)の主張への反論においてこれを表明している。上のくだりで、荀子もまたそれを表明して墨子の説を斥ける。荀子の墨子批判は、富国篇においてより詳細に展開されている。儒家のこのような言はすべて、人間は国家とそれを運営する統治者が必要である、という考えを前提としている。だが人間は国家や統治者なしには自発的に秩序を作ることができないのかどうか、という疑問については、私は富国篇および性悪篇において一定の考えを述べたところである。

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