王覇篇第十一(5)

By | 2015年8月27日
およそ国家というものには、その中に統治に役立つ良法がない国家は存在せず、また統治を乱す悪法がない国家も存在しない。およそ国家というものには、賢明な士を持たない国家は存在せず、また無能な士を持たない国家も存在しない。およそ国家というものには、誠実な人民を持たない国家は存在せず、また凶悪な人民を持たない国家も存在しない。およそ国家というものには、美俗を持たない国家は存在せず、また悪俗を持たない国家も存在しない。もし国家がこれらの善悪相反する要素を共に行うならば、辛うじて存続することであろう。このうち善の要素が卓越すれば、国家は安泰となるだろう。だが悪の要素が卓越すれば、国家は危うくなるであろう。そして善の要素に完全に斉一させることに成功すれば、王者となるであろう。だが悪の要素に完全に斉一させるならば、国家は滅亡するであろう。法がよく行われ、賢者によって補佐され、人民は誠実となり、風俗は美俗となることが、善の要素に完全に斉一するということである。このようになれば、この国は戦わずして勝ち、攻めずして領地を獲得し、兵と武器を用いずして天下は服従するであろう。ゆえに湯王は亳(はく)に居を構え、武王は鄗(こう)に居を構えて(注1)、それぞれは百里(40km)四方の土地にすぎなかったが、そこから天下を統一して諸侯を家臣となし、天下を通行するもろもろの人民たちはことごとく服従したのであった。その理由は、ほかでもない。これらの王は、さきの善なる四要素を斉一させたからであった。だが悪王の桀(けつ)・紂(ちゅう)は天下を保有する権勢を厚く持ちながら、庶民として生きることを望んでもかなえられなかった(注2)。これは他でもない、さきの善なる四要素をすべて失ったからであった。ゆえにいにしえの王たち(注3)の法はそれぞれ同じではなかったが、それらの法の原理は、今述べたところに帰一するのである。

君主は臣民に対して愛をあまねく施すのであるが、臣民を統制するために礼義を用いる。君主の臣民に対する態度は、赤子を養うようなものである。そして政令や制度は君主が臣下の人民に接する手段であって、これらのうち道理に合わないものがほんのわずかでもあったならば、孤(みなしご)・独(子のない老人)・鰥(妻のいない老男)・寡(夫のいない老女)のような弱者であっても、これらを決して適応することはない。ゆえに臣下が君主に親しむことは父母を喜ぶようであり、これら臣下を殺しても君主に叛かせることはできないのである。君臣も上下も、貴賤も長幼も、庶民に至るまで、このように礼義を規準としないことはない。しかるのちに万人がみな自ら反省して、それぞれの職分にいそしむのである。これはいにしえの王たち(注3)が同じく行ってきたところであり、礼法の枢要である。こうして農夫たちは田地をそれぞれに分けて耕し、商人たちは財貨をそれぞれに分けて売り、工匠たちは仕事をそれぞれに分けて励み、士・大夫たちは職分をそれぞれに分けて政治を聴き、封建された諸侯たちは土地をそれぞれに分けて守り、三公(注4)は政治を総括して議論すれば、天子はただ手を拱いているだけである。天子の立ち居振る舞いがかくのごとくであれば、天下は必ず平定されて、よく統治されるであろう。このことはいにしえの王たち(注3)が同じく行ってきたところであり、礼法の大本である。何日もかけて詳しく調べたり、財物を検討してこれらを有効活用する方法を定めたり、衣服についての制度を制定したり、宮室についての法を定めたり、動員する役夫の数を定めたり、喪礼祭礼のための用具を適切に調えたりすること、これらを通じて万物をことごとく行き渡らせて、大きなものから小さなものまで定めた制度と数量に従うように揃えて、その上で実施すること。こういったことは、身分低い官吏がなすべき事務であって、大君子である君主の前であれこれ論議するべき案件ではない。ゆえに君主とは、礼義を朝廷に立てて適切であり、万事を行政する官吏がまことに仁人であるならば、身体を楽にして国家は治まり、功績は大きく名声は美しくなるのであって、最高の場合には王者となり、それに劣る場合でも覇者となるであろう。礼義を朝廷に立てながら適切でなく、万事を行政する官吏が仁人でないならば、身体を労しても国は敗れ、功績はなくなり名は恥辱を受け、社稷(しゃしょく)は必ず危うくなるであろう。これが、君主たるものの枢機である。ゆえに、適切な一人の宰相を得たならば天下を得られ、適切な一人の宰相を失ったならば社稷を危うくするであろう。適切な一人の宰相を得ることができずに適切な百人・千人の官吏を得ることができるという話は、聞いたことがない。適切な一人の宰相をすでに得られたならば、君主は身体を労することなど何もなく、ただ衣装を着て動きもせずに天下は定まるのである。ゆえに湯王は伊尹(いいん)(注5)を用い、文王は呂尚(りょしょう)(注6)を用い、武王は召公(しょうこう)(注7)を用い、成王は周公(しゅうこう)(注8)を用いた。また、それらに劣る者であっても、五覇(ごは)となることができた。斉の桓公は、後宮においては音楽を鳴らして大いにおごり、遊び呆けることに熱心で、天下においては身を修める君主とは評価されていなかった。しかるに桓公は諸侯を合せて天下を一つにまとめ、五覇の筆頭と言われた。これは他でもない、政治を管仲に一任するべきことを知っていたからであった。これは、君主たるものが守るべき要点であった。知者はこの要点を知るために、力を興隆させることが容易であって功名をきわめて大いにするのである。このことを捨てて、他になすべきことなどありはしない。ゆえに、いにしえの人で功名の大きな者は、必ずこの要点に従った者である。だがいにしえの人で国を失い己の身を危うくした者は、必ずこの要点に反した者であった。ゆえに、孔子は言われた、「知者の知は、もとよりすでに多い。その上でわずかな要点に集中してこれを守るので、必ず明察となる。愚者の知は、もとよりすでに少ない。その上でいろいろ煩雑に守ろうとするので、必ず無茶苦茶となって的外れとなる」と。この言葉は、今述べたことを指すのである。治まった国とは、職分がすでに定められた後は、君主・宰相・臣下・官吏がそれぞれの職分において聞くべきところのものを謹んで聞き、職分において聞く必要がないところのものは聞くことに務めることはせず、それぞれの職分において見るべきところのものを謹んで見て、職分において見る必要がないところのものは見ることに務めることはしないのである。聞くところと見るところとが、まことに職分に応じて斉えられたならば、たとえ遠方の僻地であったとしても、その人民はあえて己の本分をつつしんで礼制に安住し、上の者に順化されることであろう。これが、治まった国の徴(しるし)なのである。


(注1)正論篇(4)注1参照。
(注2)原文読み下し「匹夫爲らんことを索むるも得可らざるなり」この語句の意味は、彊国篇(2)注1参照。
(注3)原文「百王」。礼法を制定した歴史上の王たちのこと。
(注4)太師(たいし)・太傅(たいふ)・太保(たいほ)。正論篇(5)注3を参照。
(注5)湯王に仕えた賢人。『孟子』萬章章句上、七参照。
(注6)いわゆる太公望呂尚のこと。周の文王・武王の軍師であり、斉国の開祖。
(注7)召公は周の同族で、燕国の開祖。解蔽篇(2)注13参照。
(注8)成王は武王の子で、武王が死去したとき幼少であったので叔父の周公が摂政となり、周公は成王が成人したときにその政権を返上した。儒效篇(1)および同(6)を参照。
《原文・読み下し》
國として治法有らざること無く、國として亂法有らざること無く、國として賢士有らざること無く、國として罷士(ひし)有らざること無く、國として愿民(げんみん)有らざること無く、國として悍民(かんみん)有らざること無く、國として美俗有らざること無く、國として惡俗有らざること無し。兩者並び行われて國在り、上に偏して國安く、[在](注9)下に偏して國危うく、上に一にして王たり、下に一にして亡ぶ。故に其の法治まり、其の佐は賢に、其の民は愿(げん)に、其の俗は美にして、四者齊ふ、夫れ是を之れ上に一なりと謂う。是の如くなれば則ち戰わずして勝ち、攻めずして得、甲兵勞せずして天下服す。故に湯は亳(はく)を以てし、文王は鄗(こう)を以てし、皆百里の地にして天下一と爲り、諸侯臣と爲り、通達の屬、從服せざる莫し、它(た)の故無し、四者齊へばなり。桀・紂は即ち天下を有するの埶(せい)に序(あつ)くして(注10)、匹夫爲(た)らんことを索(もと)むるも得可らざるなり、是れ它の故無し、四者並びに亡(うしな)えばなり。故に百王の法は同じからざるも、是の若く歸する所の者は一なり。
上は愛を其の下に致(いた)さざること莫くして、之を制するに禮を以てす。上の下に於ける、赤子を保(ほう)するが如くし、政令・制度は、下の人百姓に接する所以にして、不理なる者豪末(ごうまつ)の如き有れば、則ち孤獨鰥寡(こどくかんか)と雖も必ず加えず。故に下の上を親しむこと、歡(かん)父母の如く、殺す可くして順わざらしむ可からず。君臣・上下、貴賤・長幼、庶人に至るまで、是を以て隆正を爲さざること莫し。然る後に皆內に自ら省みて、以て分に謹む。是れ百王の同じき所[以](ところ)(注11)にして、禮法の樞要なり。然る後に農は田を分ちて耕し、賈(こ)は貨を分ちて販し、百工は事を分ちて勸(はげ)み、士・大夫は職を分ちて聽き、建國・諸侯の君は土を分ちて守り、三公は方を總(す)べて議すれば、則ち天子は己を共(きょう)する而止矣(のみ)(注12)。出ずること若(かくのごと)く、入ること若くなれば、天下平均ならざること莫く、治辨ならざること莫し。是れ百王の同じき所にして、禮法の大分なり。夫(か)の日を貫して治平し、物を權(はか)りて用に稱(かな)い、衣服をして制有り、宮室をして度有り、人徒をして數有り、喪祭械用(そうかいかいよう)をして皆等宜(とうぎ)有らしめ、是を以て用(よう)萬物に挾(あまね)く、尺・寸・尋・丈も、制數(せいすう)・度量(どりょう)(注13)に循わざるを得ること無く、然る後に行うが若きは、則ち是れ官人・使吏の事なり、大君子の前に數うるに足らず。故に人に君たる者は、隆政を本朝に立てて當り、百事を要せしむる所の者、誠に仁人なれば、則ち身佚(いつ)にして國治まり、功大にして名は美に、上は以て王たる可く、下は以て霸たる可し。隆正を本朝に立てて當らず、百事を要せしむる所の者、仁人に非ざれば、則ち身勞して國亂れ、功廢して名は辱められ、社稷(しゃしょく)必ず危うし。是れ人君たる者の樞機なり。故に當(とう)を一人に能くして天下取られ、當を一人に失して社稷危うし。當を一人に能くせずして、當を千人・百人に能くする者は、說之れ有ること無きなり。既に當を一人に能くすれば、則ち身有(ま)た(注14)何の勞をか而(これ)(注15)爲さん、衣裳を垂れて天下定まる。故に湯は伊尹(いいん)を用い、文王は呂尚(りょしょう)を用い、武王は召公(しょうこう)を用い、成王は周公(しゅうこう)を用う。且つ卑しき者も五伯(ごは)たり。齊の桓公(かんこう)は閨門の內、縣樂(けんがく)(注16)・奢泰(しゃたい)、游抏(ゆうがん)を之れ脩め、天下に於ては脩と謂わ見(れ)ず、然るに諸侯を九合し、天下を一匡(いっきょう)し、五伯の長と爲る、是れ亦他の故無し、政を管仲に一にするを知ればなり。是れ人に君たる者の要守なり。知者は之が爲に力を興し易くして、功名綦(きわ)めて大なり、是を舍(す)てて孰(いずれ)か爲すに足らんや。故に古の人、大功名有る者は、必ず是に道(よ)る者にして、其の國を喪い其の身を危うくする者は、必ず是に反する者なり。故に孔子の曰(のたま)わく、知者の知は、固(もと)より以(すで)に(注17)多し、有(ま)た(注18)以て少を守れば、能く察なること無からんか。愚者の知は、固より以(すで)に少し、有(ま)た以て多きを守れば、能く狂なること無からんか、とは、此を之れ謂うなり。治國なる者は、分已に定まれば、則ち主相・臣下・百吏、各(おのおの)其の聞く所を謹み、其の聞かざる所を聽くことを務めず。各其の見る所を謹み、其の見ざる所を視ることを務めず。聞く所見る所、誠に以て齊(ととの)えば、則ち幽閒(ゆうかん)・隱辟(いんぺき)と雖も、百姓敢て分を敬し制に安んじ、以て其の上に化せざること莫し。是れ治國の徵(ちょう)なり(注19)


(注9)原文「兩者並行而國在、上偏而國安、在下偏而國危」。「在」字が二回繰り返されていることを生かして読むべきか、あるいは一方は誤入された衍字とみなすべきか。増注は或説で最初の「國」字の下に「存」字を加えてここで区切り、つづく「在」字を下につなげる読み方を示している。猪飼補注は、後ろの「在」字を衍字とみなす。集解の王念孫も同じ。ここは多数説である猪飼補注に従っておく。
(注10)集解の王念孫は、「序」はまさに「厚」となすべし、と言う。これに従う。
(注11)集解の王念孫、増注ともに、「所以」の「以」は衍字と言う。これらに従う。
(注12)王覇篇(3)の同文で採用した解釈に従い、ここは「止」字が「已」字に通じるという増注の説に従って「のみ」と読む。王覇篇(3)注7を参照。
(注13)原文「制數度量」。宋本は「制度數量」に作る。
(注14)増注は、「有」は読んで「又」となす、と言う。
(注15)増注は、「而」は読んで「之」となす、と言う。
(注16)仲尼篇では「般樂」で表れる。
(注17)猪飼補注は「以」は「已」に通ず、と注する。下も同じ。
(注18)猪飼補注は「有」は読んで「又」となす、と注する。下も同じ。
(注19)原文「百姓莫敢不敬分安制、以化其上、是治國之徵也」。「禮」字は宋本にあって元本では削られている。集解の王念孫は、「禮」字は俗書に「礼」字に作るが、「化」字は「礼」字と似ているのでこれを誤って読み、後人が「禮」字に作ってしまったのであろう、宋本が「禮化」に作るのは、転写した者が「化」字に作るテキストと「禮」字に作るテキストを一緒に合せてしまった結果であろう、という主旨の説を行っている(なお王念孫が言う俗字の「礼」は、現代日本の漢字では標準字体として採用されている)。王先謙は王念孫説に賛同して、自身の集解本では「禮」字を削っている。漢文大系もまた集解本に従う。しかし新釈の藤井専英氏は王念孫・王先謙に反対して、この節は「上は愛を其の下に致(いた)さざること莫くして、之を制するに禮を以てす」から始められていることなどを挙げて、結句として「禮」字がある宋本を是とする。ゆえに読み下しは「百姓敢て分を敬し制に安んぜざること莫し。禮を以て其の上に化するは、是れ治國の徵(ちょう)なり」のように行っている。どちらを取っても節全体の文意として大きな差は出ず、文章の形式の問題であると思われる。しかし文章の形式で言うならば、上に「是れ百王の同じき所[以]にして、禮法の樞要なり」「是れ人君たる者の樞機なり」「是れ人に君たる者の要守なり」とあり、ここも「是れ治國の徵(ちょう)なり」を独立させて締めたほうが上下よく揃うと思われる。なので私はあえて、王念孫・王先謙の読み方に従っておきたい。

斉の桓公が覇者となれた理由は、管仲を宰相に抜擢した見識があったからであった。そのことは、さきの仲尼篇でも述べられたことである。しかしながら仲尼篇では、儒家の門徒はそれでも覇者を称えることはしない、と言った。荀子は覇者を批判する立場であるにも関わらず、桓公と管仲のコンビについてずいぶんと言及することが多い。堯と舜、湯王と伊尹、文王と太公望は儒家が最も理想とする明君と名臣のコンビであるが、それら古すぎる時代の君臣たちよりも、桓公と管仲のコンビは時代も新しく業績も詳しく記録されている。彼らが覇者でさえなかったら、この二名の君臣の関係こそが荀子の理想とする君臣のモデルに最も近かったのではなかっただろうか。だから覇者であるのに、こうして多く言及せざるをえなかったのではないだろうか。荀子たち儒家が桓公と管仲の業績を評価できないのは、これを覇者と定義して王者の格下に置く儒家のイデオロギーが原因であろう。完全な聖王は存在することはできないし完全に善なる政治もまた実現することはできない、という妥協的智恵は、ユートピア思想にこだわる儒家が採用することができないものである。

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