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礼論篇第十九(3)

礼とは、人の生まれるときと死ぬときとを厳粛に整えるのである。出生は人の始まりであり、死去は人の終わりである。始まりと終わりがともによくあれば、人の道はこれに尽きるだろう。ゆえに君子は万事始まりと終わりを慎んで行い、始まりも終わりも一貫して厳粛に行う。これが君子の正道であり、礼義の文飾である。例の、生きる者には厚く報いるが死んだ者は冷たくおざなりにする、というやり方は、知覚する力がある時期(つまり、生きている時期)は尊重するが、知覚する力が失せた後(つまり、死んだ後)には侮って扱うということだ。これはよこしまな輩の道であり、人の道にそむく心である(注1)。君子は人の道にそむく心が自らにあったならば、賤しい奴婢に接することですら自ら恥じる。いわんやそんな心で自らが貴び親しくする存在に仕えることができようか?仕える者の死を送る道とは、たった一回きりしか行えない。二回行うことはできないのだ。家臣として君主にその尊重の意を尽くす機会と、子として親にその尊重の意を尽くす機会は、ここにおいて最上のものとなるのだ。ゆえに、生者に仕えるときに忠節を厚くせず、恭敬を文飾で飾らない者は、これを粗野と言う。死者に仕えるときに忠節を厚くせず、恭敬を文飾で飾らない者は、これを礼知らずと言う。君子は粗野を賤しみ、礼知らずを恥じる。ゆえに天子は棺椁(かんかく。ひつぎと外囲い)を十重(注2)に作り、諸侯はこれを五重に作り、大夫は三重に作り、士は二重に作る。そうしてから葬礼の衣食については身分に応じて多寡と厚薄の区別が定められ、それぞれの翣菨(しょうしょう。ひつぎの装飾)の装飾の度合いに格差が定められて、死者を敬って飾り、生前から死後まで終始一貫した仕え方を守らせ、人としての願いをひたすらに満たしてやるのである。これがわが文明の建設者であった先王の正道であり、忠臣・孝子のきわみなのである。天子崩御の際の喪葬には、天下の人心を動員して諸侯たちを会葬させる。諸侯の喪葬には、その封国の関係国の人心を動員して大夫たちを会葬させる。大夫の喪葬には、一国内部の人心を動員して高潔な士たちを会葬させる。高潔な士の喪葬には、一郷(きょう。古代の行政区画で複数の州里を含む)の人心を動員して朋友たちを会葬させる。庶民の喪葬には、その一族を集合させて州里(しゅうり。古代の村単位)の人心を動員させる。だが刑を受けた罪人の喪葬には、一族を集合させることはできない。ただその妻子のみが会葬し、棺槨は厚さ三寸、屍衣は三着だけとなし、棺を飾ることはできない。昼間に葬送をすることはできない。ただ夕暮れに行き倒れを処分するようにこっそりと埋葬し、妻子は喪服せず日常の服装のままでこれを行わなければならない。家に戻っても哭泣の礼は行わず、喪服は着けず、親族だからといって服喪期間を礼のとおり守ることもせず、それぞれすぐに平常通りに戻り、それぞれ何ごともなかったかのように葬儀以前の状態に戻り、埋葬してしまった後には、喪中でもなんでもないかのように一切済ませてしまう。これぞ、死者への恥辱の最たるものである(注3)。礼というものは、吉事と凶事を慎重に取り扱い、その両者が衝突しないように取り計らう。纊(こう。綿)を鼻の下に着けて息がまだあるかどうかを確かめている段階では、かの忠臣・孝子はただ病気が重いことを心に思うだけであって、このときに殯(ひん。葬礼前のかりもがりの礼儀)とか斂(れん。納棺の礼儀)とかの道具を用意したりはしない。ただ涙を流して懼れつつしむばかりで、それでいてもっと生きて欲しいと願う心はやまず、生き永らえさせるための努力をやめはしない。そうして死去してから、ようやく葬礼の道具を用意し始めるのである。ゆえにたとえ裕福な家であっても、必ず死去してから一日置いた後に殯を行えるのであり、三日経ってから喪服が仕上がるのである。それから後に死去を遠方に告げる使者が出発し、葬礼の備品を作る者が作業を始めるのである。よって殯は長くても七十日以上を越えることはなく、短くても五十日より短いことはない。それは、これだけの期間の間に遠方からの弔問者が到着し、葬礼の備品が揃い、万事の準備が完了するからである。この段階に至ってその忠心は尽くされ、その礼節は大いに行われ、その文飾は備わるのである。そうした後に月始めに葬礼日を占い、その日の夕方に埋葬する地を占い、それから後に埋葬するのである。こうして日取りが決まってしまった後になっては、礼の規則において「行うべからず」とあれば、誰も行うことはならない。また礼の規則において「行うべし」とあれば、誰も止めることはならない。こうして三ヶ月後に行う葬礼は、生前の時と変わらないような備品を用いて死者を飾るのであり、この日までの三ヶ月間は、単に死者を家の中に置いておき生き残った遺族たちを慰めることだけが目的なのではない。この期間は、仕える者の死者への思慕を礼義の形によって尽くすという意味をもっているのである。


(注1)増注は「墨子を斥す」と注する。そのとおりであろう。
(注2)通説では天子の棺槨は「七重」が正しい、と言われている。ただ私は古礼に詳しくないので、その通りだと断言できる能力がない。なので原文のままにしておく。下の注5を参照。
(注3)ここの罪人の葬礼の叙述は、楊注も指摘するように『墨子』節葬篇への当てこすりである。つまり荀子は墨家がいにしえの美俗と推奨する簡便な葬礼をここで悪意を込めてなぞり、それを罪人を葬る方法だと揶揄しているのである。
《原文・読み下し》
禮なる者は、生死を治むるに勤む者なり。生は人の始にして、死は人の終なり、終始俱(とも)に善なれば、人道畢(おわ)る。故に君子は始を敬(つつし)みて終を愼み、終始一の如し。是れ君子の道にして、禮義の文なり、夫の其の生を厚くして、其の死を薄くするは、是れ其の知有るを敬みて、其の知無きを慢(あなど)るなり。是れ姦人の道にして、倍叛(ばいはん)の心なり。君子は倍叛の心を以て臧穀(ぞうかく)(注4)に接するも猶お且つ之を羞ず、而(しか)るを況(いわ)んや以て其の隆親する所に事(つか)うるをや。故に死の道爲(た)るや、一にして再復することを得可からざるなり、臣の重きを其の君に致す所以と、子の重を其の親に致す所以のものとは、是に於て盡(つ)く。故に生に事えて忠厚ならず、敬文ならざる、之を野と謂い、死を送りて忠厚ならず、敬文ならざる、之を瘠(せき)と謂う。君子は野を賤んで瘠を羞ず。故に天子は棺椁(かんかく)十重(注5)、諸侯は五重、大夫は三重、士は再重にして、然る後に皆衣衾(いしょく)(注6)に多少・厚薄の數有り、皆翣菨(しょうしょう)(注7)・文章の等有りて、以て之を敬飾し、生死・終始をして一の若くならしむれば、以て人願を爲すに足れり。是れ先王の道にして、忠臣・孝子の極なり。天子の喪は、四海を動かして諸侯を屬(しょく)し、諸侯の喪は、通國を動かして大夫を屬し、大夫の喪は、一國を動かして脩士を屬し、脩士の喪は、一鄉を動かして朋友を屬し、庶人の喪は、族黨を合して州里を動かす。刑餘(けいよ)の罪人の喪は、族黨を合することを得ずして、獨り妻子のみを屬し、棺椁(かんかく)三寸、衣衾(いきん)三領(さんれい)、棺を飾ることを得ず、晝(ひる)行くことを得ず、昏(こん)を以て殣(きん)し凡緣(はんえん)にして(注8)往きて之を埋(うず)め、反りて哭泣の節無く、衰麻(さいま)の服無く、親疏・月數の等無く、各(おのおの)其の平(へい)に反り、各其の始に復(かえ)り、已に葬埋すれば、喪無き者の若くにして止む。夫れ是を之れ至辱と謂う。禮なる者は吉凶を謹み、相厭(おお)わざる(注9)者なり。纊(こう)を紸(つ)け(注10)息を聽くの時は、則ち夫の忠臣・孝子、亦(また)其の閔(びん)なる(注11)を知るのみ、然り而して殯斂(ひんれん)の具、未だ求むること有らざるなり。涕(なみだ)を垂れて恐懼し、然り而して生を幸(ねが)うの心未だ已(や)まず、生を持するの事未だ輟(や)まざるなり。卒(しゅつ)して然る後に之を作具す。故に備家(びか)と雖も必ず日を踰(こ)えて然る後に能く殯(ひん)し、三日にして服を成す。然る後に遠きに告げる者出で、物に備うる者作る。故に殯は久しきも七十日に過ぎず、速(すみや)かなるも五十日を損せず、是れ何ぞや。曰く、遠き者以て至る可く、百求以て得可く、百事以て成る可し。其の忠至れり、其の節大なり、其の文備われり。然る後に月朝(げっちょう)日を卜(ぼく)し、月夕(げっせき)宅を卜し、然る後に葬るなり。是の時に當りてや、其の義止まれば、誰か死を行うことを得ん、其の義行かば、誰か是を止むることを得ん。故に三月の葬は、其の䫉(かたど)る(注12)こと生の設(もうけ)を以て死者を飾るなり、殆(ほと)んど直(ただ)に死者を留めて以て生を安んずるのみに非ざるなり、是れ隆を思慕に致(きわ)むるの義なり。


(注4)増注は、「臧穀」は王覇篇の「臧獲」であり賤役の名、と言う。奴婢のこと。
(注5)集解の王引之は、「十」は疑うはまさに「七」に作るべし、と言う。その理由は、礼では上位から下位に降りれば二ずつ減らしていくので、諸侯の上は七であるべきだ、ということである。増注は『荘子』の叙述に従い「七重」が正しい、という。そうかもしれないが、礼には別の規定があったのかもしれない。なので、そのままにしておく。漢文大系・金谷治氏・藤井専英氏はいずれも「七」が正しいと注している。
(注6)集解の盧文弨・王念孫は、楊注を根拠にして「衾」は「食」に変えるべきと言う。なぜならば楊注では「衣は衣衾を謂う、、、衾は錦衾を謂う、、、食は遣車を苞む遣奠を謂う」の構成で注が打たれているのであるが、この「食」に当たる本文がない。楊注の「衾は錦衾を謂う」以下は、もともと注の前文にある「衣衾」の説明であったのだが、誤って本文の「衾」字の説明であるとされて本文が「衾」字に誤られてしまった。このような推測である。盧・王説に従う。
(注7)楊注は、「翣菨」はまさに「翣蔞(しょうりゅう)」に作るべし、と言う。しかし新釈の藤井専英氏は「翣」「菨」は同じ意味であって変える必要はない、と注する。藤井説に従う。翣菨は棺の装飾。
(注8)楊注は、「昏殣は道路の死人を掩(おお)うがごとし」と言う。「殣(きん)」は行き倒れの死人。昼間に葬送せず夕暮れに行き倒れの死人を埋めるように葬らなければならない、と言う意味。「凡緣」については、増注は未詳と言う。楊注は、「凡は常にして緣は因なり、言うはその妻子常服する所のごとく之を埋む」と注する。つまり、罪人の妻子は日常の服装をもって葬る、という意味であるとみなす。ここは楊注に従っておく。
(注9)楊注は、「厭」は「掩」なり、と言う。おおう。
(注10)楊注は、「紸」は読んで「注」となす、と言う。「纊(こう)を注ける」とは、纊(綿)を鼻の下に付けて、それが動くか否かで息を引き取ったかどうかをうかがうことを言う。
(注11)集解の兪樾は、「閔」は「病」なり、と言う。
(注12)楊注は、「䫉」は「象」なり、と言う。䫉は貌と同じで、かたどる。「䫉」字はCJK統合漢字拡張Aにしかない。

礼論篇のここから後は、葬喪の礼の意義を論じることに費やされている。孟子は、墨家の夷之(いし)に対して葬礼の意義を説いてこれを論破しようとした(滕文公章句上、五)。荀子が葬喪の礼の意義を執拗に強調することもまた、節葬を主張する墨家を論破することが最大の目的だったはずである。

礼論篇第十九(4)

喪礼の概要を述べる。死去から期間が経つにつれて礼儀を飾り立てていき、礼儀ごとに家から次第に遠ざけていき(注1)、期間が経つにつれて生者は平常の生活に戻っていく。死者を飾り立てなければ、生者は死者を嫌悪して悲しまなくなるからである。生者に近いままであれば、彼らは死者を当たり前のように慣れてしまってだんだん鬱陶しく思い、そうなれば死者の扱いが粗略になって恭敬しなくなるからである。己の君主あるいは父母を一日にして失いながら、これを葬送する者たちが悲しまずに恭敬しなければ、まるで禽獣(ケダモノ)かと疑われるだろう。君子は、これを恥じる。ゆえに、死去から期間が経つにつれて礼儀を飾り立てていくのは、生者たちの嫌悪感を抑えるためである。礼儀ごとに家から次第に遠ざけていくのは、恭敬の心を全うさせるためである。期間が経つにつれて生者は平常の生活に戻っていくのは、生者の生活に配慮するためなのである。礼というものは、長すぎるものを断ち切り、短すぎるものを継ぎ足し、余りあるものを減らし、不足のものを増し、こうして敬愛を示す文飾を完成させて、ますます正義ある行為が美しくあることを推し進めさせるものなのである。華やかな文飾と質素な粗悪さとは相反するし、楽しい音楽と悲痛な哭泣とは相反するし、喜びと哀悼とは相反するが、礼はこの両者を兼ねて用い、時に応じてこれらを取り上げてそれぞれを統御するのである。ゆえに文飾と音楽と喜びは、平安な日常を維持して吉事に奉じる礼の拠って立つところであり、いっぽう粗末な衣服と哭泣の礼と哀悼は、異常な時間を支えて凶事に奉じる礼の拠って立つところである。よって文飾を用いるときには、妖しい美にまで至ってはならない。粗末な喪服を用いるときには、貧相でやけくそにまで至ってはならない。音楽を用いて喜ばしくするときには、度を越して乱れ怠惰に至ってはならない。哭泣の礼を用いて哀悼するときには、あまりに悲しんで身体を傷つけるに至ってはならない。これが、礼の中道なのである。ゆえに感情や容姿を変えるにしても、それは吉事と凶事を分けて貴賤・親疎の区分を明らかにするに足りれば、そこまでとしなければならない。これを越えた表現は、悪である。その過剰な表現がどんなに成し難いことであったとしても、君子はこれを賤しむ。だから喪礼の期間中に食べる量を取り決めて制限し、腰のまわりを測って帯をしめ、こうしてやせ衰えたことを自慢するような道は、悪人の道である。これは礼義の文飾とはいえず、孝子の情を示したとはいえず、他人に見せて名声を得ようとする下心のある者が行うことである。ゆえに喜んで生き生きとした表情と、哀悼してやつれた表情とは、吉凶と喜び・哀しみの感情が、顔色に表れたものなのである。歌って大きく笑うことと、悲しんで大泣きすることとは、吉凶と喜び・哀しみの感情が、音声に表れたものなのである。家畜の肉、稲と梁(おおあわ)、あま酒、魚の肉に対して、薄いかゆと濃いかゆ、豆と豆の葉、ただの水は、吉凶と喜び・哀しみの感情を、飲食で表したものなのである。礼服と冠、美しい衣服の模様、刺繍した織物に対して、粗布で作った斉衰(しさい。一年の喪の喪服)、喪服の麻帯、薄くて粗末な繐衰(けいさい。五月の喪の喪服)、菅の草履は、吉凶と喜び・哀しみの感情を、衣服で表したものなのである。風通しのよい部屋、奥深い宮室、越席(かつせき。蒲のむしろ)、牀笫(しょうし。寝台の上に敷くすのこ)、几(ひじかけ)、筵(むしろ)に対して、屬茨(しょくし。かやぶきの屋根)、倚廬(いろ。喪中に住むあばら家)、席薪(せきしん。喪主が敷いて寝るむしろ)・枕塊(しんかい。喪中に寝るときの土枕)は、吉凶と喜び・哀しみの感情を、住居で表したものなのである。喜びと哀しみの感情は、人間の中にもとよりその始原がある。それを短く断ったり長く継いだり、広げたり浅くしたり、増やしたり減らしたり、分類したり極めたり、盛んにしたり美しくしたりして、始原の感情と末尾の文飾とが互いに完全に調和してともに完備するようにさせ、こうして万世の規準となすに足らしめるもの、それが礼なのである。このことは、礼によく従って「為(い)」を修めて完成させた君子(注2)でなければ、よく理解することはできない。ゆえに、こう言いたい(注3)。「性」なるものは、始原であり素材である。「偽(い)」なるものは、文飾であり大いに飾り立てるものである。「性」が無ければ、「偽」を加えるところがなく、「偽」がなければ、「性」はそのままでは美しくなることはできない。「性」と「偽」が合わさって、しかる後に聖人の名声が成り立つのであり、聖人が天下を統一する功績もまたここにおいて成就するのである。ゆえに、こう言いたい。天地が合わさったときに万物は生じ、陰陽が交わったときに変化は生じ、「性」・「偽」が合わさったときに天下は治まるのである。天は万物を生むことができるが、万物を分類して秩序立てることはできない。地は人間を乗せることができるが、人間を統治することはできない。宇宙の万物から人間に至るまで、聖人の登場を待ってはじめて分類され秩序付けられるのである。『詩経』に、この言葉がある。:

百神を、懐柔(なつ)けたまえり
河の神、喬嶽(やま)の神すらも
(周頌、時遭より)

聖人の統治は、このように人間から万物に及ぶ。

喪礼というものは、死者を生きている人のように飾るものなのである。つまり、生きている時の状態を大いに模倣しながらも、その死を送り出すのが喪礼なのである。ゆえに、死んでいるようでありながら生きているようでもあり、まだそこにいるようでありながらもう去ってしまったようでもあり、生死を一つに連続させるのが喪礼なのである。死去したとき、まず髪と体を洗い、髪を束ねて手足の爪を切り、口に米を入れて貝を含ませる。これは、生きている頃に執り行っていた作法になぞらえたものである。髪を洗わない場合には濡らした櫛で三度梳いて終わり、体を洗わない場合には濡らした布で三度ぬぐって終わる。だが耳を塞ぐのに白綿を用い、口に入れる米は生米を用い、口に貝を含ませるのは、生きている頃の作法とは異なっている。肌着を着せて、三着の衣を重ね、紳(しん。太帯)に笏を挿すが帯に鉤(こう。留め金)は着けない。顔を包んで目隠しをして、髪を束ねるが男は冠を着けず女は笄(けい。かんざし)を着けない。死者の銘を旗に書いてこれを重(ちょう。木製の依りしろ)に懸けるのは、名が書かれていなければ柩ばかりが目立つからである。前に置く器具類であるが、冠は頭に被せる部分はあるが髪包みはない。罋廡(おうぶ。かめ)は中を空にして満たさない。簟席(てんせき。竹を編んだむしろ)はあるが牀笫(しょうし。上を参照)はない。木器は彫刻をせず、陶器は実用的でなく、薄器(はくき。竹や葦で作った容器)は物が入れられる作りではない。笙(ちいさなしょうのふえ)と竽(おおきなしょうのふえ)は置かれるが、音律を整えない。琴と瑟(おおごと)は絃を張るが、これも音律を整えない。柩を載せた車もまた埋葬するが、それを引いた馬は戻す。これらは、いずれも実用しないことを明示するためである。このように生活用の器具を揃えて墓まで行くのは、生者の引越しになぞらえているのである。しかし実際の引越しとは違って器具は簡略であって全て揃えておらず、見掛けは作ってあるが実用性はなく、柩を載せて走らせた車を埋葬するときにも、金属の鈴、革飾り、轡(たづな)、靷(むながい。馬の胸に着ける皮ひも)は葬らないのは、これも実用しないことを明示するためなのである。生者の引越しになぞらえながら実用しないことを明示するのは、これすべて生きていてほしいがもう戻らない、という哀悼の感情を重んじるゆえの礼なのである。葬儀に用いる生前の生活をかたどった器具類は、飾り立てるが実用できるものではない。墓に収める明器(めいき。副葬品)は、外見は似ているが実用できるものではない。およそ礼というものは、生者に仕えるときには喜びを文飾するのであり、死者に仕えるときには哀悼を文飾するのであり、祖先の祭祀においては恭敬の心を文飾するのであり、軍隊においては威厳を文飾するのである。これは過去の歴史上の王たち(注4)が同じく採用した礼であって、古今において統一された礼の原理であって、この原理がいつから始まったのかは分からない。ゆえに壙壠(こうりょう。墓穴と盛り土)は生者の家と屋根になぞらえて作られ、棺椁(かんかく。ひつぎと外囲い)は生者の車の版蓋(はんがい。車の横の泥除けと車の上の覆い)と鞎茀(きんふつ。車の前の革飾りと車の後ろの戸)になぞらえて作られ、幠帾(こちょ。柩の覆い)と絲歶(しぎょ。おそらくひつぎの装飾を指す)と縷翣(りょうしょう。ひつぎの装飾)は、生者の家の菲帷(ひい。草を編んだおおい)と幬尉(ちゅうい。垂れ幕)になぞらえて作られ、抗折(こうせつ。墓穴に収めた柩の上に掲げる土除けのむしろと、それを支える木枠)は生者の家の槾茨(まんし。かやぶきの屋根)・番閼(はんえん。垣根)になぞらえて作られるのである。よって葬礼とは他でもない、死生の意味を明らかにし、哀悼恭敬の意をもって死者を送り、それから丁重に埋葬することなのである。埋葬とは、死者の体をつつしんで葬ることである。祭祀とは、過ぎ去った祖先の神霊(注5)につつしんで仕えることである。銘と賛辞と系図は、死者の名をつつしんで伝承することである。生者に仕えるのは始まりを文飾することであり、死者に仕えるのは終わりを文飾することであり、始まりと終わりが備われば孝子の事はこれに尽きて、聖人の正道はこれで完成するのである。死者への配慮を刻み減らして生者に足し加えるのは、これを「墨(ぼく。暗愚という意味であるが、暗に墨家をも指す)」(注6)と言う。だが生者への配慮を刻み減らして死者に足し加えるのは、これを「惑(わく。まどい)」いと言う。生者を殺して死者を送るのは、これを「賊(ぞく。人間を害する)」と言う。いっぽう大いに生者の形になぞらえて死者を送り、死と生、終りと始まりへの仕え方が、人間の感情のよろしきにかなって必ず適切であること。これぞ礼義の法式なのであり、儒者がこれなのである。


(注1)『礼記』にある喪葬礼は、死去から期間に応じて遺族の家から墓地に次第に死体を移していく儀礼が規定されている。
(注2)原文「順孰脩爲」。栄辱篇(4)に「孰脩爲」の語が出てくる。「爲(為)」はこの後に出てくる「偽」のことである。
(注3)ここから後の叙述は、正名篇の定義による「性」・「偽」の用語を用いて、性悪篇の論理の組み立てに基づいて行われている。礼論篇(1)注2を参照。
(注4)原文「百王」。中華世界のいにしえの王たち。「先王」と同じ意味。
(注5)原文「神」。繰り返し言うところであるが、荀子は「神」字を使うときに通常は超越的な存在を意味させることはなく、理性の精妙なはたらきの意味としてこの字を用いる。そのことをわきまえた上であろう、新釈の訳は「精妙な力」とされている。しかしながら、ここで祭祀について説明しているときにまで「神」の字を人間的な意味で用いているとは、とても思えない。荀子がたとえ祖先の霊力を信じていなかったとしても、祖先の祭祀を行う際には神の霊力があるかのように仕えるべきである、と言いたかったのではないだろうか。なので上のように訳した。なお金谷治氏は「霊魂」と訳している。
(注6)「墨」について楊注は「墨子の法」と明言する。しかし集解の王念孫はこれに反対し、礼論篇(3)に「死を送りて忠厚ならず、敬文ならざる、之を瘠と謂う」とあってここの文と意味が通じ、なおかつ楽論篇(4)に「瘠墨」の語があるので、この「墨」は墨子の意ではない、と言う。新釈の藤井専英氏は解蔽篇の逸詩にある「墨以て明と爲す」の各者注を引いて(解蔽篇(6)注16参照)、「墨」を「暗愚で道理を知らぬ」と訳している。しかしながら、この文は儒者について称揚しているので、「墨」字をわざわざ使った意図は、暗愚の意味に加えて墨者を非難するダブルミーニングにあると考えてよいだろう。
《原文・読み下し》
喪禮(そうれい)(注7)の凡(はん)。變じて飾り、動きて遠ざかり、久しうして平なり。故に死の道爲(た)るや、飾らざれば則ち惡(にく)み、惡めば則ち哀まず。尒(ちか)ければ則ち翫(な)れ、翫るれば則ち厭い、厭えば則ち忘(ゆるかせ)にし(注8)、忘にすれば則ち敬(つつし)まず。一朝にして其の嚴親(げんしん)(注9)を喪いて、之を送葬する所以の者、哀しまず敬まざれば則ち禽獸に嫌(うたが)わん。君子は之を恥ず。故に變じて飾るは、惡(あく)を滅する所以なり。動じて遠ざくるは、敬を遂げる所以なり。久しうして平なるは、生を優にする所以なり。禮なる者は、長を斷ちて短を續(つ)ぎ、有餘を損して、不足を益し、愛敬の文を達して、滋(ますます)行義の美を成す者なり。故に文飾と麤惡(そあく)、聲樂(せいがく)と哭泣(こくきゅう)、恬愉(てんゆ)と憂戚とは、是れ反するなり。然り而(しこう)して禮は兼ねて之を用い、時(こもごも)舉(あ)げて代(こもごも)御す。故に文飾・聲樂・恬愉は、平を持し吉に奉ずる所以にして、麤衰(そさい)・哭泣・憂戚は、險を持し凶に奉ずる所以なり。故に其の文飾を立つるや、窕冶(ようや)に至らず。其の麤惡を立つるや、瘠弃(せきき)に至らず、其の聲樂・恬愉を立つるや、流淫・惰慢に至らず、其の哭泣・哀戚を立つるや、隘懾(あいしょう)して生を傷(やぶ)るに至らず。是れ禮の中流なり。故に情貌の變は、以て吉凶を別ち、貴賤・親疏の節を明(あきら)かにするに足れば、期(ここ)に(注10)止まる。是に外るるは、姦なり。難しと雖も、君子は之を賤む。故に食を量りて之を食い、要(注11)を量りて之を帶(たい)し、相高ぶるに毀瘠(きせき)を以てするは、是れ姦人の道なり。禮義の文に非ざるなり、孝子の情に非ざるなり、將に以て爲すこと有らんとする者なり。故に說豫(えつよ)・娩澤(べんたく)と、憂戚・萃惡(すいお)は、是れ吉凶・憂愉の情の、顏色に發する者なり。歌謠・謸笑(ごうしょう)と、哭泣・諦號(ていごう)とは、是れ吉凶・憂愉の情の、聲音に發する者なり。芻豢(すうけん)・稻梁(とうりょう)・酒醴(しゅれい・魚肉と、餰鬻(せんしゅく)(注12)・菽藿(しゅくかく)・酒漿(すいしょう)(注13)とは、是れ吉凶・憂愉の情の、食飲に發する者なり。卑絻(ひべん)(注14)・黼黻(ほふつ)・文織(ぶんし)と、資麤(しそ)(注15)・衰絰(さいてつ)・菲繐(ひけい)(注16)・菅屨(かんく)は、是れ吉凶・憂愉の情の、衣服に發する者なり。疏房・檖䫉(すいぼう)(注17)・越席(かつせき)・牀笫(しょうし)・几筵(きえん)と、屬茨(しょくし)・倚廬(いろ)・席薪(せきしん)・枕塊(しんかい)とは、是れ吉凶・憂愉の情の、居處(きょしょ)に發する者なり。兩情者(は)、人生固(もと)より端有り。若(も)し夫れ之を斷ち之を繼ぎ、之を博くし之を淺くし、之を益し之を損し、之を類し之を盡(つく)し、之を盛(さかん)にし之を美にし、本末・終始をして順比せざること莫からしめ、以て萬世の則(のり)と爲すに足るは、是れ禮なり。順孰(じゅんじゅく)・脩爲の君子に非ざれば、之を能く知ること莫きなり。故に曰く、性なる者は本始材朴(さいぼく)なり、僞(い)なる者は文理隆盛なり。性無ければ則ち僞の加うる所無し、僞無ければ則ち性自から美なること能わず、性・僞合して、然る後に聖人の名を成す(注18)。天下を一にするの功、是に於て就(な)るなり。故に曰く、天地合して萬物生じ、陰陽接(まじわ)りて變化起り、性僞合して天下治まる、と。天は能く物を生ずるも、物を辨(べん)ずること能わざるなり、地は能く人を載するも、人を治むること能わざるなり、宇中・萬物、生人の屬、聖人を待って然る後に分るるなり。詩に曰く、百神を懷柔し、河喬嶽(かきょうがく)に及ぶ、とは、此を之れ謂うなり。(注19)
喪禮(注20)なる者は、生者を以て死者を飾るなり、大いに其の生に象(かたど)りて、以て其の死を送るなり。故に死せるが如く生けるが如く、存するが如く亡するが如く、終始一なり。始めて卒するや、沐浴・鬠體(かつたい)・飯唅(はんかん)するは、生執(せいしゅう)(注21)に象るなり。沐せざれば則ち濡櫛(じゅしつ)三律して止み、浴せざれば則ち濡巾(じゅきん)三式(さんしょく)(注22)して止む。充耳して瑱(てん)(注23)を設け、飯は生稻(せいとう)を以てし、唅(かん)は槁骨(こうこつ)を以てするは、生術に反するなり。褻衣(せつい)を說(せつ)し(注24)、三稱(さんしょう)を襲すること、紳(しん)に縉(しん)して而(しか)も帶(たい)に鉤(こう)すること無し。掩面(えんめん)・儇目(せんもく)を設け、鬠(かつ)して而も冠笄(かんけい)せず。其の名(めい)(注25)を書して其の重(ちょう)に置くは、則ち名見えずして而も柩(きゅう)獨り明(あきら)かなればなり。薦器(せんき)(注26)は則ち冠に鍪(ぼう)有るも而も縰(し)毋(な)く、罋廡(おうぶ)は虛なれども而も實(みた)さず、簟席(てんせき)有りて而も牀笫(しょうし)無く、木器は斲(たく)を成さず、陶器は物を成さず、薄器は內(どう)(注27)を成さず、笙竽(しょうう)は具するも和せず、琴瑟(きんしつ)は張るも均せず、輿(よ)は藏するも馬は反るは、用いざるを告ぐるなり。生器を具(そな)えて以て墓に適(ゆ)くは、徙道(しどう)に象るなり。略して盡(つく)さず、䫉(ぼう)して功せず、輿を趨(は)せて之を藏するも、金・革・轡(ひ)・靷(いん)は入れざるは、用いざるを明かにするなり。徙道に象りて、又用いざるを明かにするは、是れ皆哀を重んずる所以なり。故に生器は文にして功あらず、明器は䫉(ぼう)して用いず。凡そ禮の生に事(つか)うるは、歡を飾るなり。死を送るは、哀を飾るなり。祭祀は、敬を飾るなり。師旅は、威を飾るなり。是れ百王の同じき所、古今の一なる所にして、未だ其の由來する所の者を知らざるなり。故に壙壠(こうりょう)は其の䫉(かたち)室屋に象り、棺椁(かんかく)は其の䫉版蓋(はんがい)・斯[象]柫(きんふつ)(注28)に象り、無帾(こちょ)(注29)・絲歶(しぎょ)(注30)・縷翣(りょうしょう)は、其の䫉以て菲帷(ひい)・幬尉(ちゅうい)に象り、抗折(こうせつ)は其の䫉以て槾茨(まんし)・番閼(はんえん)に象るなり。故に喪禮なる者は它(た)無し、死生の義を明かにし、送るに哀敬を以てして、終(つい)に周藏するなり。故に葬埋は、其の形を敬葬するなり。祭祀は、其の神に敬事するなり。其の銘誄(めいるい)・繫世(けいせい)は、其の名を敬傳(けいでん)するなり。生に事うるは始を飾るなり、死を送るは終を飾るなり、終始具わりて、孝子の事畢(おわ)り、聖人の道備わる。死を刻して生に附する、之を墨と謂い、生を刻して死に附する、之を惑と謂い、生を殺して死を送る、之を賊と謂う。大いに其の生に象りて、以て其の死を送り、死生・終始をして、宜に稱(かな)いて好善ならざることを莫からしむ。是れ禮義の法式にして、儒者是(これ)なり。


(注7)宋本は、「喪」を「卒」に作る。
(注8)新釈は「忘」をゆるかせにす、と読み下している。増注は、「忘はまさに怠に作るべし」と言う。新釈に従い読み下す。
(注9)集解の兪樾は、「嚴(厳)は君を謂い、親は父母を謂う」と注する。君主と両親のこと。
(注10)楊注は、「期」はまさに「斯」たるべし、と言う。ここに。
(注11)増注は、「要」は「腰」と同じ、と言う。
(注12)ここの七語は前半が吉事の食飲、後半が凶事の食飲と並べられているのが正しいであろう。原文は「餰鬻・魚肉」の順となっている。ゆえに集解の兪樾は、「魚肉」の二字はまさに「餰鬻」の二字の上にあるべし、と言う。餰鬻は、喪礼において食べる粥(餰は濃いもの、鬻は薄いもの)のこと。兪樾説に従い「魚肉」二字を先に置くことにする。もっとも魚肉を芻豢(すうけん)すなわち牛豚羊犬などの家畜の肉に対比させて、葬礼で食する凶事の肉とみなす礼が古代にあったのかもしれない。もしそうであれば、本文のままで正しいことになるだろう。魚肉を家畜の肉に対比させて凶事に食する習俗は、キリスト教の四旬節にもある。
(注13)集解の王念孫は、「酒漿」はまさに「水漿」たるべし、と言う。これも上の注と同じで、凶事の飲料は酒ではなく水でなければならないからである。これに従う。
(注14)卑絻について、楊注は「卑絻は裨冕に同じ」と注する。裨冕(裨して冕す)は富国篇(1)に大夫の服制として表れる。裨は裨衣で、大夫のものと定められた家臣用の衣。しかし集解の王念孫は、他篇の表現から見ればひとり裨冕だけがここで取り上げられるのはおかしい、と考えて、「裨」字は「弁」字の旧字の誤りである、という説を立てている。弁絻(弁冕)ならば、ともに冠の意を表す字である。それでもよいが、そのままにしておく。
(注15)「資麤」について楊注は、「資は齊と同じ、即ち齊衰(しさい)なり」と言う。齊衰(斉衰)は、一年の喪の喪服のこと。麤(そ。あらぬの)で作ると言う。
(注16)「菲繐(ひけい)」について、楊注は「菲」は草衣のことであり、「繐」は繐衰(けいさい、せいさい)で小功(しょうこう。五月の喪に着る喪服)のことと言う。これに対して増注は「菲」は「屝」と通じて草履のことであり、けだし斬衰(ざんさい。三年の喪に着る喪服)の菅をもって作る草履のこと、と言う。すると、下の「菅屨」と意味が重なってしまう。よって増注は古屋鬲の説を引いて、「菅屨」の二字は後人が「菲」字の注を本文に誤入したものと疑う。漢文大系は「菲」の増注説を受けて、「菲繐」を顛倒して「繐菲」にして菅屨の二字を削るべきことを注する。だが新釈の藤井専英氏は、「菲」を「うすい、そまつな」という形容詞と取る読み方をしている。増注説は合理的な推論であると思うが、藤井説は字を変えずにあえて読む点で優れていると考える。藤井説を取りたい。
(注17)疏房・檖䫉については礼論篇(1)注5参照。「䫉」は「貌」と同じ意で、以下に表れる「䫉」字も同じ。「䫉」字はCJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注18)宋本には「成」字があり、増注は宋本に拠り「成」字を加える。これに従う。
(注19)以下の文も上の論の続きであるが、長すぎるので新釈に従ってここで段落を分ける。
(注20)注7と同じく、宋本は「喪」を「卒」に作る。
(注21)楊注は、「生執に象るは、生時に持つ所の事に象るを謂う」と注する。生執はすなわち、生きている頃に執り行っていた作法のこと。
(注22)楊注は、「式」は「拭」と同じ、と言う。三拭(さんしょく)で、三度ぬぐうこと。
(注23)「瑱」字の本来の意味は、玉製の耳飾りのことである。しかし楊注は儀礼士喪礼篇を引いて、瑱には白纊(はくこう。白綿)を用いる、と注する。
(注24)宋本は「說」字を「設」に作る。盧文弨は、疑うはまさに「設」に作るべし、と言う。盧文弨は清代中期の人で日本の影宋台州本を参照できなかったが、清末の王先謙は日本から招来した宋本を参照して、宋本も盧文弨のとおり「設」字に作られていることを指摘する。いっぽう宋本を参照した増注の久保愛は、「説(說)」は「脱」と通ず、と言う。褻衣(肌着のこと)を着ける(設)のか脱がす(脱)のかで、意味が正反対となる。漢文大系は増注説を取り、金谷・藤井氏は清代学者たちの説を取っている。どちらが正しいのか私には判断がつきかねるが、多数説である清代学者の説に一応従っておく。
(注25)「名」は「銘」のこと。ここは、「某氏某の柩」の銘を書いた旌(せい。旗)を、重(ちょう。木で作られた依りしろ)に懸けておくことを言っている。
(注26)楊注は、「薦器は明器を陳(なら)ぶを謂う」と言う。明器とは墓に埋める副葬品。
(注27)集解の郝懿行は、「內(内)」は「納」と同じ、と言う。王念孫は、楊注或説のとおり「內(内)」は「用」となすのが正しいと言う。新釈の藤井専英氏は、礼記檀弓上篇のほぼ同一の表現から言えば楊注或説が正しいことになるが、この文の末尾で「用いざるを告ぐるなり」と結んでいるために、「用」字が重複しては結語の意をなし難い、と意見して郝説を取っている。これに従う。
(注28)「斯象柫」について、集解の兪樾は「象」は衍字、「斯」は「靳」字の誤りであり「鞎」に同じ、「柫」は楊注の言う「茀」、したがって楊注の言う「鞎茀(きんふつ)」である、と言う。楊注は、鞎茀を車の前後の革飾りの意に取る。しかし新釈の藤井専英氏は「茀」字は車の前後に設けた覆いの意であり、ここの「茀」は車の後の戸の意味であろう、と注する。藤井説に従っておく。
(注29)楊注は、「無」は読んで「幠(こ)」となす、と言う。幠帾は、柩の覆いであって幠は上を覆い帾は四方を覆って、これを宮殿にかたどると言う。
(注30)「絲歶」について楊注は「未詳、けだしまた喪車の飾なり」と言う。

喪礼についての儒家の大理論が続く。ここまで詳細執拗に喪礼を説くのは、儒家教団にとって葬喪の礼が最も宗教的神聖さを持った儀礼であったからであろう。『旧約聖書』では唯一神を祭る儀礼についてやはり詳細執拗な律法が展開されているが(冒頭のいわゆる「モーセ五書」と呼ばれる五篇が旧約聖書の律法に当たる)、儒家の礼とりわけ葬喪の礼に対する詳細さと敬虔さは、それと類似したものを感じる。漢代には、儒家思想が国家公認の宗教として普及されるようになった。だが時代が下れば反動として、このような詳細な礼を守ることが果たして敬虔な宗教的行為と言えるのだろうか、という疑問が現れることもやむをえなかったことであろう。漢帝国が亡びるとともに儒家思想は時代の知識人サークルにおいて人気を失墜させ、代わって老荘思想と仏教の台頭に譲ることとなった。とりわけ仏教思想は、古代儒家思想よりも人間の生死についてずっと深遠な哲学的説明を持っていた。漢代の終了とともに古代儒家思想が下火となったのは、その礼に偏重した形式主義が魅力を失っていた結果ではなかっただろうか。宋代以降のいわゆる新儒学は、その仏教思想から刺激を受けて、儒家思想に哲学的体系を与えようと試みた作業の結果であった。

日本は江戸期になって新儒学の集大成である朱子学を倫理学として導入したが、そのとき荀子のごとき古代儒家思想家が説いた詳細な礼の儀式については、関心をもってこれを実践したとは到底言いがたい。儒家思想の倫理には中華世界を超えた普遍性があったゆえに、日本人にも倫理として受け入れられた。だが、日本はすでに儒・仏の両道に日本独自の要素を交えた習俗文化の体系を固有に発展させていたので、朱子学が入ってきても儒家思想の礼の儀式まで新たに導入する余地はすでにありえなかった。江戸時代中期、対馬藩に仕えた雨森芳洲(あめのもりほうしゅう、1668-1755)は、藩主のために『交隣提醒(こうりんていせい)』を書き残した。芳洲は朝鮮語が堪能な儒者であり、対馬藩は釜山浦において倭館を持って李氏朝鮮と交易する役を幕府から請け負っていた。よって芳洲は対馬藩に真文役として招かれ、朝鮮に渡って当地の役人との折衝に生涯を捧げたのであった。『交隣提醒』は、藩主に対して外国と付き合うときに気をつけるべき心得を書いたもので、江戸時代の外交官の記録として非常に興味深い。その中で、両者の文化の違いが書かれている。朝鮮人は葬儀において大泣きするのであるが、朝鮮人はさぞかし日本人も感動していることであろうと思っているが、日本人はそれを見て笑っている。李氏朝鮮は朱子学を国学として、儒家思想を礼式に至るまで取り入れていた。なので当時の朝鮮人は、儒礼のとおりの哭泣の礼を行ったのである。しかし江戸時代の日本人には、儒礼は無縁のものであった。芳洲は、逆に日本人が尻をまくってふんどしを見せて働くことを男気があると誇っているが、朝鮮人は尻をまくるなどは野蛮人であると蔑んでいる、とも書いている。儒礼においては、服を人前で脱ぐことは大きな恥辱なのである。江戸時代の日本は朱子学を幕府公認の学としたといっても、それは本の中の倫理でしかなかった。李氏朝鮮のように儒礼までを導入して生活文化にまで儒家思想を加えることは、ついになかったのであった。

礼論篇第十九(5)

三年の喪とは、何であろうか?それは、哀悼の感情を礼の原則に従って計量して文飾を作り、これをもって人間集団を飾り立てて親疎・貴賤の礼義を設けた結果のものであって、これを増やしたり減らしたりできないものである。ゆえに、これを「離れることも変えることもできない術」と言うのである。大きな傷は治るのに時間がかかるものであり、甚だしい痛みは癒えるのが遅いものである。三年の喪とは、礼によって人間の感情を計量してそれに文飾を作ったとき、至痛の極みとして制定したものである。喪服を着て苴杖(しょじょう。枯死した竹で作った杖)をつき、廬(ろ。喪中に住むあばら家)に住んで粥をすすり、席薪(せきしん。喪主が敷いて寝るむしろ)して枕塊(しんかい。喪中に寝るときの土枕)することは、至痛の感情を飾り立てたものである。三年の喪は、二十五ヶ月で終わる。哀悼痛切の感情はいまだ尽きず、亡くなった父母を思慕する感情はいまだ忘れられないのであるが、礼はこの時期をもって喪を断ち切る。そのわけは、死者を送ることもいつかは終えなければならず、日常の生活に戻る時期が必要だからでなくて、何であろうか?およそ天地の間に発生する諸物の中で血気のある種族には、必ず知能がある(注1)。知能がある種族は、その同類を必ず愛する。かの大型の鳥や獣どもは、もし群れを見失って離れてしまうと、一ヶ月あるいは一季節経てば必ずもと来た道を引き返し、もとの生息地を通ったときには必ずそこをぐるぐる回って鳴き声を立て、足踏みし、ためらいの素振りを示し、ついに仲間がいないことを感じ取ってから立ち去る。小さな燕や爵(しゃく。すずめ)ですらも、しばらく哀しげにけたたましく鳴いた後で、ようやく立ち去るのである。だが血気がある種族において、人間よりも知能すぐれた者はいない。ゆえに人間のその両親に対する思慕の感情は、死に至るまで生涯尽きることはないのである(注2)。だが例の愚かで頑迷で邪悪なる者の主張(注3)に従うならば、人は朝に死んだ両親を夕方には忘れるだろう。このような邪説を野放しにするならば、鳥や獣にも劣ることになるだろう。これでどうして共に群れ住んで乱れずにいられるだろうか?だがあの文飾を修めた君子の主張に従うならば、三年の喪は二十五月で終了して、まるで駟(し。四頭建ての馬車)が窓の隙間を通り過ぎる瞬間のようにあっけない。しかし子として気が済むまで服喪をやり遂げたならば、これはいつまで経っても終わることがないだろう。ゆえにわが文明の建設者である先王・聖人は、中庸を選んで礼義を制定し、その一つで文飾を完成させて、それを行えば十分で終わりとしたのであった。ならば、どうして喪制には三年(父母への喪)・一年・九月・五月・三月(親類への喪で、親疎の度合いに応じて短く定める)の段階があるのか?それは、かけがえのない両親といえども一年単位の喪としたからである。それはどういう意味かといえば、一年の間に天地は変化し、四季はすべて経巡り、宇宙の中にある万物は、ことごとく更新される。ゆえに先王はこれになぞらえたのである。ならばどうして三年なのかといえば、一年に倍を足し加えたのである。ゆえに、両親の喪の間に季節は二度巡るのだ。では九ヶ月以下の喪はどういう意味であるかといえば、両親の喪以下にしたまでのことである。ゆえに三年の喪は最も大きなものであり、緦麻(しま。三月の喪服)・小功(しょうこう。五月の喪服)は最も小さなものであり、一年・九月はその中間としたのである。上は天の運行から取り、下は地の変化から取り、中は人の感情から規準を得たのである。こうして、人間が群れ住んで調和統一する原理がここに尽くされているのだ。ゆえに三年の喪は、人の正道が文飾されたその極みであり、これを至隆と言う。これは過去の歴史上の王たちが同じく採用した礼であって、古今において同じなのである。

それでは、君主の喪にも三年を取るのはどうしてであろうか?それは、君主という者は統治の主であり、政治の文飾面の頂点であり、かつ政治の実利面の頂点でもある。その下にある家臣人民が連れ立ってこの存在を最も尊ぶことに、何か異存でもあるだろうか?『詩経』に、この言葉がある。:

愷悌(おだやか)なる君は、
民草の父母
(大雅、洞酌より)

この詩のように、君主は人民の父母であるという説は昔からあったのである。そもそも父親は子を生むことはできるが、これを養育することはできない。母親はこれを養育することはできるが、これを教え諭すことはできない。だが君主は、人民を養育して教え諭す者である。これに対する喪が、三年でどうして終えることができるだろうか?乳母は赤子に乳を飲ませる者であるが、これに対してすら三月の喪を行う。慈母(じぼ。生母ではない、家内で子を育てる妾)は子供に衣服を着せてやる者であるが、これに対してすら九月の喪を行う。だが君主は乳母のように人民を食わせ、慈母のように人民に衣服を与え、人民の全ての面倒を見る者なのであるから、これに対する喪が三年でどうして終えることができるだろうか?君主を得れば国家は治まり、君主を失えば国家は乱れる、君主は礼の文飾の極致である。君主を得れば国家は安泰となり、君主を失えば国家は危険となる、君主は情の実利の極致である。二つの極致をともに集めて保有しているのが、君主なのである。これに対して三年の喪で仕えたとしても、なおまだ足りないのだ。ただ、これ以上引き伸ばすのは無道であるまでのことなのである。社(しゃ)は地神を祀り、稷(しょく)は穀神を祭り、郊(こう)はすべての先王をまとめて上天に祭祀する(注4)。では、三月の殯(ひん。かりもがり)(注5)とは、どういう意味なのであろうか?それは、死者を大事にして、死者を重んずるという意味がある。それは厚い文飾を極めて、死者への親愛を極めたものである。この三月の殯の間に死者を取り上げて、移し変え、住居から離して、陵墓に納めるのである。わが文明の建設者たる先王は、この礼が文飾のないものとなることを恐れた。そこで殯の期間を長くして、日を足したのである。ゆえに天子の殯は七月、諸侯の殯は五月、大夫の殯は三月と定め、死去から葬礼までその期間待ち続けるのは、それぞれの身分に応じて葬礼のための用具を揃える期間に十分と定めたのであり、葬礼のための用具が完成する期間に十分と定めたのであり、葬礼のための文飾を整えるのに十分と定めたのであり、葬礼のための文飾が完備するのに十分と定めたのであった。礼のための用具が全て備わっていることを、人の正道と呼ぶのである。


(注1)荀子は、動物と人間とを分けるのは義すなわち君臣父子の倫理であって、知力は動物にもあると考えている。王制篇(5)注3参照。
(注2)ここで荀子が例を挙げる動物の同類への親和的感情は、荀子の性悪説の反対の感情なのではないか?人間が動物より知能が優れているならば、なぜ同類への親和的感情も人間が動物同様に持っていると考えることができないのであろうか?荀子は性悪篇(3)において、兄弟の間では情性に従えば利己心が勝って相争う、と言っている。ならば荀子はどうして人の父母への情を自然な情とみなして特権化し、父母以外の人間との関係は放置すれば利己心が勝る、と考えるのか?この礼論篇における荀子の父母への喪の理由を人間の感情におく理論は、彼の性悪説と整合性が取れていないと私は感じる。
(注3)言うまでもなく、墨子とそれに従う墨家の思想である。
(注4)この一文は、前後の文から意味が外れているので錯簡とみなす説がある。下の注12参照。
(注5)殯(ひん)は、死去から葬礼までの期間。この期間に葬礼の準備を整え、住居から次第に陵墓まで死者を移していく礼が定められている。礼論篇(3)も参照。
《原文・読み下し》
三年の喪は何ぞや。曰く、情を稱(はか)りて文を立て、因って以て羣(ぐん)を飾り、親疏・貴賤の節を別けて、益損す可からざるなり。故に無適(むせき)・不易の術と曰う。創(きず)巨(おお)いなる者は其の日久しく、痛(いたみ)甚しき者は其の愈(い)ゆること遲し、三年の喪は、情を稱りて文を立つるに、至痛の極と爲す所以なり。齊衰(しさい)(注6)・苴杖(しょじょう)、廬(ろ)に居り粥を食い、席薪(せきしん)して枕塊(しんかい)するは、至痛の飾を爲す所以なり。三年の喪は、二十五月にして畢(おわ)る、哀痛未だ盡(つ)きず、思慕未だ忘れず、然り而(しこう)して禮是を以て之を斷ずる者は、豈(あ)に死を送るに已(や)むこと有り、生に復するに節有るを以てにあらずや。凡そ天地の間に生ずる者、血氣有るの屬は、知有らざること莫く、知有るの屬は、其の類を愛せざること莫し。今夫(か)の大鳥獸は、則(も)し(注7)其の羣匹(ぐんひつ)を失亡すれば、月を越え時を踰(こ)ゆれば、則ち必ず反鈆(はんえん)し、故鄉を過ぎれば、則ち必ず徘徊し、鳴號(めいごう)し、躑躅(てきちょく)し、踟躕(ちちゅう)し、然る後に能く之を去るなり。小なる者は是れ燕爵(えんしゃく)すら、猶お啁噍(ちょうしょう)の頃(あいだ)有りて、然る後に能く之を去る。故に血氣有るの屬は、人より知なるは莫し。故に人の其の親に於けるや、死に至るまで窮まること無し。將(まさ)に夫(か)の愚陋・淫邪の人に由らんとするか、則ち彼れ朝に死して夕に之を忘る。然り而して之にを縱(ほしいまま)にすれば、則ち是れ曾(すなわ)ち鳥獸にも之れ若(し)かざるなり。彼安(いずく)んぞ能く相與(とも)に羣居して亂るること無からんや。將に夫の脩飾の君子に由らんとするか、則ち三年の喪は、二十五月にして畢ること、駟(し)の隙を過ぐるが若し。然り而して之を遂ぐれば、則ち是れ窮(きわま)ること無きなり。故に先王・聖人、安(すなわ)ち之が爲に中を立て節を制し、一に以て文理を成すに足らしむれば、則ち之を舍(お)く。然れば則ち何を以て之を分つや、曰く、至親は期を以て斷ずればなり。是れ何ぞや、曰く、天地は則ち已(すで)に易(かわ)り、四時は則ち已に徧(あまね)く、其の宇中に在る者は、更始せざること莫きなり、故に先王案(すなわ)ち此を以て之に象(かたど)るなり。然れば則ち三年するは何ぞや、曰く、焉(これ)に加隆して、案ち之を倍せしむ。故に再期するなり。九月由(よ)り以下は何ぞや、曰く、案ち及ばざらしむるなり。故に三年は以て隆と爲し、緦麻(しま)・小功(しょうこう)は以て殺(さい)と爲し、期・九月は以て間と爲す。上は象を天に取り、下は象を地に取り、中は則(のり)を人に取る。人の羣居・和一する所以の理盡くせり。故に三年の喪は、人道の至文なる者なり。夫れ是を之れ至隆と謂う。是れ百王の同じき所にして、古今の一なる所なり(注8)
君の喪に三年を取る所以は何ぞや。曰く、君なる者は、治辨の主なり、文理の原(げん)(注9)なり、情貌の盡(じん)なり、相率いて之を隆(とうと)ぶことを致(きわ)む、亦可ならずや。詩に曰く、愷悌の君子は、民の父母、と。彼の君[子](注10)なる者は、固(もと)より民の父母爲(た)るの說有り。父能く之を生むも、之を養うこと能わず。母能く之を食(やしな)うも、之を敎誨すること能わず。君なる者は、已に能く之を食い、又善く之を敎誨する者なり。三年にして畢らんや。乳母(にゅうぼ)は之に飲食する者なり、而(しか)も三月す。慈母(じぼ)(注11)は之に衣被する者なり、而も九月す。君は之を曲備する者なれば、三年にして畢らんや。之を得れば則ち治まり、之を失えば則ち亂る、文の至なり。之を得れば則ち安く、之を失えば則ち危し、情の至なり。兩至の者俱(とも)に積む、三年を以て之に事うるも、猶お未だ足らざるなり。直(ただ)之を進むるに由無きのみ。(注12)故に社は社を祭るなり、稷(しょく)は稷を祭るなり、郊なる者は、百王を上天に幷(あわ)せて之を祭祀するなり。三月の殯(ひん)は何ぞや。曰く、之を大にするなり、之を重んずるなり。隆を致(きわ)むる所、親を致むる所なり。將に之を舉措(きょそ)し、之を遷徙(せんし)し、宮室を離れて丘陵に歸せんとするなり、先王其の文ならざるを恐る。是を以て其の期を繇(はるか)にし、之が日を足すなり。故に天子は七月、諸侯は五月、大夫は三月、皆其(それ)をして須(ま)つことは以て事を容るるに足り、事は以て成を容るるに足り、成は以て文を容るるに足り、文は以て備を容るるに足らしむ。曲(つぶさ)に容れて物を備う、之れ道と謂うなり。


(注6)「齊衰」を礼記は「斬衰」に作る。齊衰は一年の喪の服であり、斬衰は三年の喪の服である。なので増注は、礼記を正しいとみなす。新釈は、喪服を着用する意味として「齊衰」の語を用いている、と注している。
(注7)集解の王先謙は、「則」はなお「若」のごとし、と言う。「もし」。
(注8)礼記三年問篇と重なる文章は、ここまでである。三年問篇ではこの文の末尾が若干改変されて、最後に孔子の言葉として「子は生れてより三年にして、然る後に父母の懷を免る。夫の三年の喪は、天下の達喪なり」が置かれて終わっている。
(注9)新釈の藤井専英氏は、「原」字を「原窮(げんきゅう、たずねきわめる)」の意と取って「きわみ」と読み下している。その根拠として礼論篇(2)の「文理繁く、情用省くは、是れ禮の隆なり。文理省き、情用繁きは、是れ禮の殺なり」「君子は上其の隆を致(きわ)め、下其の殺を盡(つく)し、而(しこう)して中其の中に處る」を挙げる。藤井氏は礼論篇(2)の「文理」「情用」がここでの「文理」「情貌」に相当し、礼論篇では正しい道として両者を「致(きわ)め」「盡(つく)」すことが言われていることを指摘して、ここでの文と同じ意味として取るべきとことを示唆している。上の訳ではこれに従い、読み下しは通説通りとする。
(注10)集解の兪樾は、「子」字は衍文、と言う。これに従う。
(注11)「慈母」とは、庶母すなわち妻妾制下における生母以外の母で、養育に当たった者を言う。増注は儀礼喪服伝を引いて、そこで慈母の喪は五月とされていることを引いて、あるいは伝聞の異、と言う。
(注12)「故に社は社を、、」から「百王を上天に幷せて之を祭祀するなり」までの文は、喪礼とは関係がない。なので、これは錯簡であろうという疑問が提出されている。増注は古屋鬲の説を引いて、これは礼論篇(2)の「郊は天子に止り、社は諸侯に止り、、、」文の上にあるべしと疑う。集解の郝懿行は、次の礼論篇(6)の「尊を尊として親を親とするの義至るなり」の下にあるべしと疑う。

いわゆる三年の喪の儀礼に対する正当化が行われる。荀子は父母の死に当たって子が三年の喪を行うことにとどまらず、君主の死に当たっても家臣が三年の喪に服することを当然とみなす。荀子においては、人間は父母に仕える孝だけではなく、君主に仕える忠もまた必須の倫理である。ゆえに、君主の死を悼む喪もまた最長の期間の礼をもってしなければならない、と考えるのであろう。上の訳文のうち父母の死への三年の喪を正当化する前半部分は、『礼記』三年問篇とほぼ同一である。しかし民の父母たる君主の死への三年の喪を正当化する後半部分は、『礼記』にはない。

上にあるとおり、三年とは足掛け三年のことであって二十五月すなわち二年と一ヶ月の間父母あるいは君主の喪に服することを言う。『論語』には、孔子が古記録への解釈として、いにしえの君主は先君が崩御したら三年の喪に服し、その間全ての政務を宰相にあずけて謹慎した、という言葉がある(憲問篇「子張曰く、書に云う、高宗、諒陰三年言わずとは、何の謂いぞや、、、」)。孟子もまた、滕(とう)の文公に薦めて先君の死に際して三年の喪を行わせたのであった(滕文公章句上)。荀子は、孔子・孟子からさらにエスカレートさせる。三年の喪は父母の喪に対して行うだけでなく、君主の喪に対してすら家臣が行うものにまで拡張する。荀子の国家重視の視点が彼の喪礼にも表れている、と考えるべきであろう。

だが君主をはじめとする国家の統治者が父母への三年の喪に服することは、政務の停滞を必ず招くであろう。ましてや君主の喪に対して家臣が三年の喪に服するなど、外国に格好の付け入る隙を与える結果となって、その国を著しく傷つけることは必至であろう。荀子の理想的統一国家においては、真の意味での外国は想定されていない。聖王の支配に服する家臣と人民だけの世界であって、それに服しない者は個人であれ民族であれ犯罪者であって討伐の対象である。なので、一国の君主の支配に個人や外国が心から服従するいわれはない、という全うな現実の前に荀子の礼倫理を置くと、それは正当化できる倫理とはとても思えない。

すでに『論語』において孔子の弟子の宰我(さいが)は、君子が三年の喪を行うことは政治に弊害があるのではないか、と疑問を提出していた(陽貨篇「宰我問う、三年の喪は、期已に久し、、、」)。『孟子』においては、斉の宣王が孟子に対して三年は長すぎるので一年はどうか、と問うた(盡心章句上、三十九)。また孟子の勧めに従って三年の喪を断行しようとした滕の文公は、彼の重臣たちに当然ながら反対された。その重臣たちは、滕国の先君も魯国の先君も三年の喪を過去に行ったことはない、と言っている(滕文公章句上、二)。そもそも儒家の推奨する喪制は、中国文化のいにしえの時代において果たして本当に実施されていた古制であったのだろうか。疑うは、それは古文献の上に見られるだけの喪制であって実際に行われていたかどうかははなはだ怪しく、それを儒家は春秋戦国時代の国家秩序に対して空想的に「復興」させることを努力していたのではないだろうか。やがて儒家の後に続いて勃興した墨家が儒家の過剰な喪礼を激しく批判攻撃したので、儒家は墨家に反論するために三年の喪を守ることにますます固執するようになったのかもしれない。少なくとも、滕国の重臣の言葉を見るならば、君主の三年の喪は戦国時代にはすでになじみの薄い儀式でしかなかった。

漢代に儒家思想が中華帝国の公式思想となった後は、この過剰なまでの死者に仕える礼が次第に天下の士にもてはやされるようになり、後漢時代には大流行した。三国志の群雄の一人である袁紹もまた、母と父の死において三年の喪を実行したと伝えられている。しかし儒家思想が勝利して正義とされた漢代以降と、まだ儒家思想が諸子百家の一であるにすぎない戦国時代とでは、三年の喪への人々の受け止め方は全く違っていたはずである。

礼論篇第十九(6)

祭というものは、心中の思慕の感情に由来する。人は心動かされたり心ふさがれたりしたとき、時に思慕の感情が起こらずにはいられない。ゆえに人が喜んで皆と和合しているときには、かの忠臣孝子といえどもまた心動かされて思慕の感情が沸き起こる。その感情ははなはだ大きくて心揺さぶられて、これを我慢して通り過ぎたならば、心中の感情はがっかりとして飽き足らず、父母や主君への礼節に欠けている不足感が起こるのである。よってわが文明の建設者たる先王は、この感情を満たさんがために文飾を設け、尊き者を尊び親しい者に親しむ道を作り上げたのであった。ゆえに、祭というものは心中の思慕の感情に由来するものであり、忠信敬愛の極致であり、礼節文飾の極致であり、真の聖人でなければこの意義を完全に理解することはできない、と言うのである。聖人は祭の意義を明らかに理解し、士・君子はこれを安らかな心で挙行し、官人はこれを規範として遵守し、庶民はこれを習俗として受取るのである(注1)。君子は祭を人間のための正道として行うが、庶民は祭を鬼(き。死者の霊)に仕える行事として行う(注2)。ゆえに鐘に太鼓に笛に磬(けい。石製の打楽器)、琴に瑟(おおごと)に竽(おおきなしょうのふえ)に笙(ちいさなしょうのふえ)、韶(しょう。舜の音楽)に夏(か。禹の音楽)、護(かく。殷の湯王の音楽)に武(ぶ。周の武王の音楽)、酌(しゃく)に桓(かん。いずれも『詩経』周頌にある歌謡)・箾(さく)に象(しょう。いずれも周の文王の音楽)は、君子の心動いたところを喜びと楽しみの表現として表した文飾なのである。いっぽう齊衰(しさい。喪服)に苴杖(しょじょう。枯死した竹で作った杖)、廬(ろ。喪中に住むあばら家)に住んで粥をすすり、席薪(せきしん。喪主が敷いて寝るむしろ)して枕塊(しんかい。喪中に寝るときの土枕)することは、君子の心動いたところを哀しみと悲痛の表現として表した文飾なのである。軍隊には軍制が行き届き、刑罰法度は軽重が規定され、罪には相応の罰が必ず与えられることは、君子の心動いたところを嫌悪の表現として表した文飾なのである。それゆえ祭においては、卜筮(ぼくぜい。うらない)を行って吉日を定め、物忌みをして、よく清掃し、几(つくえ)と筵(むしろ)を揃え、いけにえの供物を納め、祝(しゅく。かんぬし)に式の次第を告げることを、あたかも祭を本当に受け取る者がいるがごとくに行うのである。供物をそれぞれに取ってこれを捧げることを、あたかもこれらを本当に味わう者がいるがごとくに行うのである。利(り。祭祀で飲食を輔佐する役の人)が爵(しゃく。さかずき)を挙げずに、祭の主人が尊(そん。酒を入れる祭器)を進めることを、あたかもこれを本当に飲む者がいるがごとくに行うのである。祭礼においては賓客が退出して主人がこれを拝礼して送り出したり、喪礼においては戻って衣服を変えて位置について哭泣(こくきゅう)したりするのは(注3)、あたかも本当に去ってしまった者がいるがごとくに行うのである。なんと哀切ではないか、なんと恭敬ではないか。死んだ者に生きている者のように仕え、亡くなった者に存在している者のように仕えるのである。たとい形も影もなくてもそこにあたかもあるかのごとくになぞらえ、その上で文飾を行うのである。


(注1)祭礼の完全な知を持つ聖人=聖王、祭礼を理解してよく己を修める(士)君子、祭礼を忠実に守る官吏、祭礼に従順に従ってこれを習俗とする庶民、という身分秩序に応じた祭礼の理解の格差を表現した言葉である。同様の表現として、礼論篇(2)「人是を有てば士・君子なり、是に外るるは民なり。是の其の中に於て、方皇・周挾し、曲に其の次序を得るは、是れ聖人なり」、正論篇(7)「聖王は以て法と爲し、士大夫は以て道と爲し、官人は以て守と爲し、百姓は以て俗と成す」、解蔽篇(6)「是に嚮いて務むるは士なり、是に類して幾くは君子なり。之を知るは聖人なり」など。
(注2)君子は鬼神を祀る儀礼を礼に従った文化的装飾とみなすが、人民大衆は無知ゆえに鬼神の存在を信じて畏れる。荀子は、儀礼にはいかなる神秘的力も備わっていないと断言する。天論篇(3)を参照。
(注3)原文読み下し「賓出で、主人拜送し、反りて服を易え、位に卽きて哭する」。ここは、新釈の藤井専英氏の解釈に沿った。藤井氏は、前半は祭礼のことであって「位に即きて哭する」は喪礼のことと解釈する。「反りて服を易う」については、明確な判断を保留している。楊注には、「此れ喪祭を雑説するなり、服を易うるは、祭服を易えて喪服に反るなり、賓出て祭事畢(おわ)り、位に即きて哭く」とある。楊注では「反りて服を易う」は祭服を喪服に替えることと解釈するが、そうするならばこれを一連の動作と解釈するわけにはいかず、祭事と喪事は別の時間の出来事であると解釈するしかないが、どうもしっくりこない。
《原文・読み下し》
祭なる者は、志意・思慕の情なり。愅詭(かくき)・唈僾(ゆうあい)(注4)して、時に至ること無きこと能わず。故に人の歡欣(かんきん)・和合の時は、則ち夫の忠臣・孝子も、亦愅詭して至る所有り。彼れ其の至る所の者は、甚だ大いに動くなり、案(すなわ)ち屈然として已(や)めば、則ち其の志意の情に於ける者、惆然(ちゅうぜん)として嗛(あきた)らず、其の禮節に於ける者、闕然(けつぜん)として具(そな)わらず。故に先王案ち之が爲に文を立て、尊を尊とし親を親とするの義至る。故に曰く、祭なる者は、志意・思慕の情なり、忠信・愛敬の至なり、禮節・文貌の盛なり、苟(まこと)に聖人に非ずんば、之を能く知ること莫きなり、と。聖人は明(あきら)かに之を知り、士・君子は安んじて之を行い、官人は以て守と爲し、百姓は以て俗を成す。其の君子に在るや、以て人道と爲し、其の百姓に在るや、以て鬼事と爲すなり。故に鐘鼓(しょうこ)・管磬(かんけい)、琴瑟(きんしつ)・竽笙(うしょう)、韶夏(しょうか)・護武(かくぶ)、酌桓(しゃくかん)・箾[簡]象(さくしょう)(注5)は、是れ君子の愅詭を、其の喜樂する所に爲す所以の文なり。齊衰(しさい)・苴杖(しょじょう)、廬(ろ)に居り、粥を食い、席薪(せきしん)・枕塊(しんかい)するは、是れ君子の愅詭を、其の哀痛する所に爲す所以の文なり。師旅制有り、刑法等有りて、罪に稱(かな)わざること莫きは、是れ君子の愅詭を、其の敦惡(たいお)(注6)する所に爲す所以の文なり。卜筮(ぼくぜい)して日を視、齋戒し、脩涂(しゅうじょ)し、几筵(きえん)し、饋薦(きせん)し、祝(しゅく)に告ぐること、之を饗(う)くるもの或るが如し。物ごとに取りて皆之を祭ること、之を嘗(な)むること或るが如し。利(り)爵を舉ぐること毋(な)く、主人尊を有(すす)むる(注7)こと、之を觴(しょう)するもの或るが如し。賓(ひん)出で、主人拜送(はいそう)し、反(かえ)りて服を易(か)え、位に卽(つ)きて哭(こく)すること、之を去るもの或るが如し。哀するかな、敬するかな。死に事(つか)うること生に事うるが如く、亡に事うること存に事うるが如し。形影(けいえい)無きに狀し、然り而(しこう)して文を成す。


(注4)「愅詭」について楊注は「愅は変なり、詭は異なり、みな変異感動の貌を謂う」と言う。心が動く様。「唈僾」について集解の盧文弨は「気、舒(の)びずの貌」と言う。憂いで気がふさがる様。
(注5)集解の王念孫は、「箾象(さくしょう)」は左伝の「象箾」なり、と言う。箾象は周の文王の音楽。荻生徂徠は、「箾」字と「簫」字はもと同字であり、「箾」字の注として「簫」が置かれていたところが本文に混入し、「簡」字は「簫」字を誤ったものである、とみなす。王念孫も「簡」字が衍字とみなす点では同一であり、「簡」字を削ることにする。
(注6)増注は、「敦」は「憝(たい)」と通ず、と言う。憝惡は、うらみにくむこと。これに従う。
(注7)「有」は「侑」と通じ、すすめるの意。

以上で、長大な礼論篇は終わりである。『史記』『大戴礼記』『礼記』に一部分があらわれる文章が、この礼論篇では総合的な礼の理論として展開されている。『史記』や『礼記』では唐突に墨家批判が出て来るが、この礼論篇に収められたとき、『荀子』の他篇でも展開される墨家批判とのつながりが出てくる。『史記』礼書はそれだけを読むと展開される礼理論の背景がよく分からないが(司馬遷は、黄老の術すなわち道家思想にシンパシーを持つ者であった)、それがこの礼論篇に収められたならば、荀子の性悪説に基づいた礼理論であることがはっきりする。この礼論篇こそが荀子あるいは荀子学派の礼理論のオリジナルなのであろうか、という印象を受ける。

致士篇第十四(1)

政治を広く聞き取って、耳目ではよく見聞きできないことをはっきりと認識して、明晰な認識をさらに進め、悪人を退け、善人を進めさせる術について。徒党を組んでおもねりへつらう者どもの誉め言葉は、君子(注1)の聞くところではない。人を傷つけ苦しめるための訴えは、君子の取り上げるところではない。他人をねたみ怨んでこれを妨害しようとする人物は、君子の近づけるところではない。財貨や鳥獣を贈ってきた請願は、賄賂なので君主の許すところではない。およそ根拠のない言動、主張、事業、計略、賞賛、訴えで、官の公道を経ずして横から無理に通そうとするようなものは、君子はこれを慎重に扱う。よく聞いて明察し、正当であるかどうかを見定めて、正当であったと判明すればそこではじめて刑罰と褒賞を行い、続いてこれの実行に当たるのである。このようであれば、邪悪な言動、主張、事業、計略、賞賛、訴えは、これらを行う術を失うだろう。そして誠実な言動、主張、事業、計略、賞賛、訴えは、明らかに通るようになって多数集まるようになり、ことごとく上に進められることであろう。これが政治を広く聞き取って、耳目ではよく見聞きできないことをはっきりと認識して、明晰な認識をさらに進め、悪人を退け、善人を進めさせる術である。

川の淵が深ければ、魚と鼈(すっぽん)はここに住まうであろう。山林が茂るならば、鳥とけものはここに住まうであろう。刑罰と政策が公平であれば、人民はここに安らぐであろう。礼義が備われば、君子はこの下に属するであろう。ゆえに、礼が身中にしみ渡って行動は修まり、義が国にしみ渡って政治は明らかとなり、礼をあまねく適応させることができて君主の貴い名声は明らかとなり、天下の者が皆この君主を慕うようになり、法令は行われて禁令は守られるようになり、王者の事業は完成するのだ。『詩経』に、この言葉がある。:

この天下の中心を恵み、
すすんで四方を安んぜよ
(大雅、民労より)

このように、四方に広がるように天下は治まるであろう。さて川の淵は龍と魚の住まいであり、山林は鳥とけものの住まいであり、国家は士(注1)と人民の住まいである。川の淵が枯れたら、龍と魚はここから去る。山林が荒れたら、鳥とけものはここから去る。国家が失政すれば、士と人民はここから去る。土地がなければ人は安心して住居できないのであるが、そもそも人がいなければ土地は守られることはない。だが正道と正しい法度が敷かれていないならば、人は土地にやっては来ない。そして君子がいなければ、正道は行われることはない。ゆえに、土地と人と正道と法度とは、国家の本源である。そして君子とは正道と法度の枢要であり、一時たりとも欠いてはならない。これを失ったならば国は乱れ、これを得たならば国は安泰となり、これを失ったならば国は危うくなり、これを得たならば国は存続し、これを失ったならば国は滅亡するのである。ゆえに、良法があって政治が乱れることはあるが、君子が政治をして乱れることは古今にわたって未だかつて聞かない。言い伝えに「治は君子に生じ、乱は小人に生ず」と言うのは、このことを言うのである。


(注1)荀子は他の各篇で「聖人」・「君子」・「士」の語を対比的に用い、「聖人」を君主、「君子」を上級官僚、「士」を下級官僚と想定している論述を行う(脩身篇(4)注2参照)。この致士篇でもまた、「士」と「君子」の語が違う役割として用いられている。すなわち「士」は人民と同じく君主の政策次第で集まって来る人材であるが、「君子」は君主の側近として礼と法度を国家に制定する人材とみなされている。
《原文・読み下し》
聽を衡(ひろ)くし(注2)、幽を顯(けん)にし、明を重ね、姦を退け、良を進めるの術。朋黨比周(ほうとうひしゅう)の譽(よ)は、君子聽かず、殘賊加累(ざんぞくかるい)の譖(しん)は、君子用いず、隱忌雍蔽(いんきようへい)の人は、君子近づけず、貨財禽犢(かざいきんとく)の請は、君子許さず。凡そ流言・流說・流事・流謀・流譽・流愬(りゅうそ)(注3)の、官せずして衡(こう)(注4)に至る者は、君子は之を愼む。聞聽して之を明譽(めいさつ)し(注5)、其の當(とう)と定めて當(あた)りて、然る後に其の刑賞を士(おこな)いて(注6)之に還(うつ)り(注7)與(あず)かる。是の如くなれば則ち姦言・姦說・姦事・姦謀・姦譽・姦愬は、之を試(こころ)むること莫く、忠言・忠說・忠事・忠謀・忠譽・忠愬は、明通・方起して、以て尚盡(じょうしん)(注8)せざるは莫し。夫れ是を之れ聽を衡(ひろ)くし、幽を顯にし、明を重ね、姦を退け、良を進めるの術と謂う。
川淵深くして魚鼈(ぎょべつ)之に歸し、山林茂りて禽獸之に歸し、刑政平(たいら)かにして百姓之に歸し、禮義備わりて君子之に歸す。故に禮身に及んで行(おこない)脩まり、義國に及んで政明(あきら)かに、能く禮を以て挾(あまね)くして、貴名白(あきら)かに、天下願い、令行われ禁止(や)み、王者の事畢(おわ)る。詩に曰く、此の中國を惠(けい)して、四方を綏(やす)んず、とは、此を之れ謂うなり。川淵なる者は魚龍の居なり、山林なる者は鳥獸の居なり、國家なる者は士民の居なり。川淵枯るれば、則ち魚龍之を去り、山林險なれば、則ち鳥獸之を去り、國家政を失えば、則ち士民之を去る。土無ければ、則ち人居に安んぜず、人無ければ、則ち土守られず、道法無ければ、則ち人至らず、君子無ければ、則ち道舉(おこな)われず。故に土と人と、道と法とは、國家の本作(ほんさく)(注9)なり。君子なる者は、道法の摠要(そうよう)なり、少頃(しばらく)も曠(むなし)くす可からざるなり。之を得れば則ち治まり、之を失えば則ち亂れ、之を得れば則ち安く、之を失えば則ち危く、之を得れば則ち存し、之を失えば則ち亡ぶ。故に良法有りて亂るる者は之有るも、君子有りて亂るる者は、古(いにしえ)自(よ)り今に及ぶまで、未だ嘗て聞かざるなり。傳(でん)に曰く、治は君子に生じ、亂は小人に生ず、とは、此を之れ謂うなり。


(注2)集解の兪樾は、この「衡」とつづく注4の「衡」はともに「横」と読むべきであり、「衡」と「横」は古くは同字である、と言う。ただしこちらは「ひろい」という意味で、注4と意味が異なる。よって、読み下しを変えることにする。
(注3)楊注は、「愬」は「譖」なり、と言う。そしり、うったえのこと。
(注4)こちらの「衡」について、楊注は横逆の意と注する。正当な道を取らずに横から無理を通そうとする行為のこと。
(注5)増注は、「譽」は疑うは「詧」に作るべきで、「詧」は「察」の古字であると言う。これに従う。
(注6)楊注は、「士」はまさに「事」となすべし、行うなり、と言う。集解の王引之は、「士」はまさに「出」字の誤りたるべし、と言う。両説どちらでも通ると思うが、楊注に従っておく。
(注7)新釈の藤井専英氏は、「還」字について「音はセンで、疾(すみやか)・敏捷の貌」と注して「すみやか」と読み下している。金谷治氏は再度、ふたたびの意に取って「うつる」と読み下している。金谷説に従っておく。
(注8)楊注は、「尚」は「上」と同じと言う。集解の兪樾は、楊注説からさらに進んで「盡」はまさに読んで「進」となすべし、と言う。「上進」は、上に進めること。金谷治氏および藤井専英氏は、兪樾説に従っている。漢文大系は増注の「尚は庶幾(こいねがう)」の説に従い、「盡(つく)すことを尚(こいねが)う」と読み下している。兪樾説に従いたい。
(注9)集解の王念孫は、「作」は「始」なり、「始」はまた「本」なり、と言う。「本作」は、本源の意。

楊注は本篇の冒頭に「賢士を致(まね)くの義を明(あきら)かにす」と注している。ところで現行本の末尾に置かれている劉向の叙録には三十二篇の目録が置かれているが(サイトの訳では省略)、そこではこの篇の名が「致仕篇」となっている。「致仕」の意は官職の勤めを終えて辞任することであり、意味が正反対となってしまう。なので増注は、楊注の作者である楊倞の時代にはまだ「仕」字に作る誤りはなかったのではないか、と言っている。

本篇は、前二篇に比べて短く、賢士を招くというテーマから離れた論述も目立つ。主な内容は国家が賢者能者を登用する必要性であり、君道篇あるいは王制篇などで述べられたことの再説である。独自に重要な意義がある篇とは思われないので、訳して簡単に終わらせたい。

致士篇第十四(2)

人民大衆の心を得たならば、天まで動かすことができるだろう(注1)。心中を楽しませたならば、寿命もまた延びるであろう。誠信であるならば理性は精妙となるが、言葉が誇大であるならば精神は亡失してしまうだろう(注2)

君主の憂いは、「私は賢者を登用する」と口で言うことにはなくて、本当に賢者を必ず登用するかどうかにある。「賢者を登用する」と口で言っても、実際の行いでは賢者を斥ける。口と行動が矛盾していて、それで賢者がやって来て愚者が引っ込むことを望んでも、それを実現することは難しいであろう。蝉を勢いよく飛び跳ねさせる人(注3)は、その任務は火を明るく焚いて木をゆさぶることに尽きる。しかし火が明るく焚かれなければ、木をゆさぶっても無益であろう。いまの時代に仁徳を明らかに示す君主がいるならば、天下がこの者に帰することは蝉が明るい火に寄って来るようなものではないか。

事業に臨み人民に接するとき、義を基準にして臨機応変に行い、寛容の心をもって多くを容れ、敬いつつしむ心をもって先導していくのが、政治の第一歩である。その後に中正調和の精神をもって明察して判断し、人民を支えるのが、政治の最大の要点である。その後に昇進降格・褒賞処罰を行うのであり、これが政治の終着点である。ゆえに一年目には第一歩から始めて、三年目には終着点に行き着くのがよい。だが終着点からいきなり着手したならば、政令は行われず、上と下は怨み憎み合うこととなるだろう。これは、争乱を自ら起こすことになる。『書経』に、この言葉がある。:

たとえ義刑・義殺であっても、直ちに執行してはならない。「なんじは順番にまだ従っていない」と言おう。
(周書、康誥より)

この言葉は、教化をまず行え、と言っているのである。

程(はかり)は、物の規準である。礼は、分節の規準である。程を用いて大小を決めて、礼を用いて身分序列を定め、徳に応じて位階を与え、能力に応じて官職を与える。およそ身分秩序とは厳格が望ましいが、人民はおおらかであることが望ましい。身分秩序が厳格であれば文飾が整い、人民がおおらかであれば安らかに暮らす。上が文飾整い下が安らかに暮らしていることは功名の極致であり、これ以上に付け加えることは何もない。

君主は国家の最高位の者であり、父親は家庭の最高位の者である。最高位に一人だけがいれば治まるが、二人いれば争乱となる。いにしえから現代まで、いまだ最高位の者が二人いて互いに権勢の重さを争い、それで長続きできた者はいない。

師となる術には四つあるが、その中に博く学ぶことは含まれていない。尊厳があり畏敬されていれば、師となることができるだろう。五、六十歳になって信頼があれば、師となることができるだろう。経文を唱えてその教えを侮らずその教えに違反しなければ、師となることができるだろう。微細な事象を認知してそこに倫理を貫くことができたならば、師となることができるだろう。ゆえに師となる術には四つあるが、その中に博く学ぶことは含まれていないのである。水が深いと渦を巻き、木の葉が落ちると土のこやしとなるがごとくに、弟子が学問を成し遂げて栄達すれば師を思って慕い集まるようになるものだ。『詩経』に、この言葉がある。:

言、むくいざることなく
徳、むくいざることなし
(大雅、抑より)

この言葉のとおりである。

褒賞は過分であってはならず、刑罰は濫用されてはならない。褒賞が過分であれば小人ですら利益を得ることとなり、刑罰が濫用されたならば君子ですら害が及ぶことになる。もし不幸にして過つとすれば、褒賞が過分であったとしても刑罰を濫用してはならない。善良の者を害するよりは、愚劣な輩を利したほうがましである。


(注1)まるで人の信望を得たら天の自然まで好影響を与える、といった天人相関説のような言葉である。しかし荀子は天の運行と人の行為は無相関であると論じているので(天論篇を参照)、これはレトリックであってその真意は「人の信望を得れば天与の自然を最大に活用できる」ぐらいのところであろう。原文は四字四句で「天」「年」「神」「魂」と押韻されている。美文ゆえのレトリックとみなすべきであろう。
(注2)不苟篇に「誠信は神(しん)を生じ、夸誕(かたん)は惑を生ず」とある。ここの文は、不苟篇の言葉の言い換えである。不苟篇(5)注2参照。
(注3)楊注は、南方人は蝉を取ってこれを食す、と注している。つまり食料として蝉を採るのである。
《原文・読み下し》
衆を得れば天を動かし、意を美(たの)しませれば(注4)年を延ばし、誠信なれば神(しん)の如く、夸誕(かたん)なれば魂(こん)を逐(うしな)う。
人主の患は、賢を用うと言うに在らずして、誠に賢を用うることを必ずするに在り(注5)。夫れ賢を用うと言う者は口なり、賢を却(しりぞ)くる者は行(おこない)なり。口・行相反して、賢者の至りて不肖者の退かんことを欲するも、亦難からずや。夫れ蟬を耀(おど)らす(注6)者は、務(つとめ)其の火を明(あきら)かにして、其の樹を振うに在るのみ。火明かならざれば、其の樹を振うと雖も、益無きなり。今人主能く其の德を明かにするもの有らば、則ち天下之に歸すること、蟬の明火に歸するが若し。
事に臨み民に接して、義を以て變應し、寬裕にして多く容れ、恭敬にして以て之に先だつは、政の始なり。然る後に中和・察斷して、以て之を輔くるは、政の隆なり。然る後に之を進退・誅賞するは、政の終なり。故に一年之を與(もっ)て(注7)始め、三年之を與(もっ)て終る。其の終を用(もっ)て(注8)始と爲さば、則ち政令行われずして、上下怨疾せん。亂の自ら作(おこ)る所以なり。書に曰く、義刑・義殺も、庸(もち)うるに卽(そく)を以てすること勿(なか)れ、汝(なんじ)惟(ただ)未だ事に順(したが)うこと有らずと曰え、とは、敎を先にするを言うなり。
程(てい)(注9)なる者は物の準なり、禮なる者は節の準なり。程以て數を立て、禮以て倫を定め、德以て位を敘(じょ)し、能以て官を授く。凡そ節奏は陵(りょう)を欲して、生民は寬を欲す。節奏は陵なれば文あり、生民は寬なれば安んず。上文に下安きは、功名の極なり、以て加う可からず。
君なる者は國の隆(りゅう)なり、父なる者は家の隆なり。隆一にして治まり、二にして亂る。古(いにしえ)自(よ)り今に及ぶまで、未だ二隆重きを爭いて、能く長久なる者有らず。
師術に四有り、而(しこう)して博習は與(あずか)らず。尊嚴にして憚(はばか)らるれば(注10)、以て師と爲る可く、耆艾(きがい)(注11)にして信あれば、以て師と爲るく、誦說(しょうせつ)して陵(しの)がず犯さざれば、以て師と爲る可く、微を知りて論(りん)(注12)あれば、以て師と爲る可し。故に師術四有り、而して博習は與らず。水深ければ回(めぐ)り、樹落つれば則ち本に糞(つちか)い、弟子通利(つうり)すれば則ち師を思う。詩に曰く、言として讎(むく)いざること無く、德として報いざること無し、とは、此を之れ謂うなり。
(注13)賞は僭(せん)を欲せず、刑は濫(らん)を欲せず。賞僭すれば則ち利小人に及び、刑濫すれば則ち害君子に及ぶ。若し不幸にして過たば、寧(むし)ろ僭するも濫すること無かれ。其の善を害せん與(より)は、淫を利するに若かず。


(注4)原文「美意」。楊注は、「美意は楽意なり」と言う。これに従い、美を「たのしむ」の意に取る。
(注5)原文「不在乎言用賢、而在乎誠必用賢」。宋本はこの文となっている。集解の王先謙は、『群書治要』では「不在乎不言、而在乎不誠」とあることを引いて、「不」字が脱している、と言う。しかし、二つの「不」字がない宋本のままで同じ意味として通るわけであり、あえて「不」字を挿入する必要はないと思われる。増注の久保愛は、宋本に従って二つの「不」字を置かない。
(注6)新釈の藤井専英氏は、「耀」は躍(やく)・趯(てき)に通じて跳の意、と注する。あざやかにおどりあがること。
(注7)増注は、「與」と「以」はいにしえに通用す、と言う。後ろの「與」も同じ。
(注8)新釈は、「以」に同じ、と注する。
(注9)楊注は、「程」は度量の総名なり、と言う。はかり。
(注10)増注は、「憚」は畏れ憚らるるなり、と注する。漢文大系および金谷治氏は、増注と同じく「はばからる」と受身で読んでいる。しかし新釈の藤井専英氏はこれを「はばかる」と読んで、受身の意ではない、と注している。弟子から畏れられるのではなくて自らつつしむことを実践するのが師術である、という藤井氏の意図は分からなくもない。しかしここは主流説に従って受身の意で取っておく。
(注11)楊注は、五十を「耆」と曰い六十を「艾」と曰う、と言う。五、六十歳のこと。
(注12)集解の郝懿行は、「論」と「倫」は古字通ず、と言う。郝懿行は「倫」を倫理の意に取っている。これに従っておく。
(注13)この末尾の文は、『春秋左氏伝』にほぼ同一のテキストがある。下のコメント参照。

致士篇の後半は、断章とみなされる文章が続く。一貫したテーマがあるようには見えず、この篇を記録した者の補遺であろうか。

末尾の語について、増注および集解の盧文弨は、いずれも『春秋左氏伝』(『左伝』と略称されることが多い)にほぼ同文があることを指摘する。すなわち襄公二十六年に楚の声子(せいし)の言として「歸生之を聞く、善く國を爲(おさ)むる者は、賞僭(たが)わずして、刑濫(みだ)りならず、と。賞僭わば、則ち淫人に及ばんことを懼れ、刑濫りならば、則ち善人に及ばんことを懼る。若し不幸にして過たば、寧(むし)ろ僭うとも濫りなること無かれ。其の善を失わんよりは、寧ろ其れ淫を利せん」とある。この理由について盧文弨は「考うるに、荀卿は左氏春秋を以て張蒼(ちょうそう)に授け、蒼は賈誼(かぎ)に授く。荀子は固(もと)より左氏を傳うる者の祖師なり」と言う。すなわち、『左伝』を漢代に伝承した荀子学派の系譜があり、ゆえに『荀子』の中にもこうして同一の文が存在していることにつながっているという説明である。『左伝』は『公羊伝』『穀梁伝』と並んで春秋三伝と呼ばれ、BC722年からBC481年までの年代記である『春秋経』の伝(でん、各年の詳細な伝承記事)の一つとして儒学で重視されてきたテキストである。『左伝』の最大の特徴は、他の二伝に比べて史的エピソードが豊富に収録されている点であり、また別の特徴として後の時代に起こったことが過去に卜筮の卦や星占いに表れていた、といったような予言的記述が非常に多く見られて、後世の結果は過去からの必然であるとみなす作者の決定論的な歴史観が見える。

さて、『左伝』には清代末期から偽書説が提出されている。『左伝』は前漢代の末に劉歆(りゅうきん。荀子の書を最初に編纂した劉向の子)が漢帝国の秘府(書庫)から発掘し、これを『春秋経』の伝の一つとして宣伝したところからテキストの歴史は始まる。しかし劉歆の発掘に疑いを持った清代学者たちは、『左伝』は劉歆の捏造した文書である、と批判したのであった。しかし『新釈漢文大系 春秋左氏伝』著者の鎌田正氏はその解説で、『左伝』は戦国時代中期のBC320年前後の成立であり、孔子の高弟である子夏(しか。姓は卜、名は商、字は子夏)の春秋学に影響された魏国の史官が制作したものであろう、という見解を述べて、捏造説には否定的である。『左伝』が劉歆の捏造なのか戦国時代の作品なのかを論議することは今の私がなすべきことではないので、深入りはしないことにする。なお古い時代には『左伝』は孔子の同時代人である左丘明(さきゅうめい)の著作である、という説が立てられていたが(漢代の司馬遷、あるいは『左伝序』を書いた魏晋代の杜預など)、これは多くの批判が提出されていて、ありえないと思われる。

臣道篇第十三(1)

人臣の区分について。態臣(たいしん)すなわち君主にへつらう家臣というものがいて、簒臣(さんしん)すなわち君主に従わない家臣というものがいて、功臣(こうしん)すなわち君主に功績を挙げさせる家臣というものがいて、聖臣(せいしん)すなわち君主に天下を統一させる家臣というものがいる。国内では人民を斉一にするには足らず、国外には国難を防ぐには足らず、人民はこれに親しまず、諸侯はこれを信用せず、そのくせ行動は巧妙かつ敏捷でおもねりへつらい、主君の寵愛を受ける。これが、態臣というものである。上には君主に忠でないが、下には人民から栄誉を受けて、公正な正道も普遍的な正義もかえりみず、徒党とともに馴れ合って、君主をまどわし私利を企むことに努める。これが、簒臣というものである。国内では人民を斉一にするに足り、国外には国難を防ぐに足り、人民はこれに親しみ、士はこれを信頼し、上には君主に忠、下には人民を愛して倦(う)まない。これが、功臣というものである。上には君主をよく尊び、下には人民をよく愛し、打ち出す政令と教化が下の者たちの規範となることは影が従うようであり、急事に応じて変事に対することが敏速であることは打てば響くがごとくであり、類推判断して予想を立てて、予想外の事態が起こっても、細かな点まで規則に従って見事に対処することができる。これが、聖臣というものである。ゆえに聖臣を登用する者は王者となり、功臣を登用する者は強くなり、簒臣を登用する者は危うくなり、態臣を登用する者は滅亡する。態臣が登用されたならば君主は必ず死に、簒臣が登用されたならば君主の身は必ず危うくなり、功臣が登用されたならば君主は必ず栄え、聖臣が登用されたならば君主の名は必ず尊くなる。ゆえに斉の蘇秦(そしん)、楚の州侯(しゅうこう)、秦の張儀(ちょうぎ)(注1)は、態臣というべき者である。韓の張去疾(ちょうきょしつ)、趙の奉陽(ほうよう)、斉の孟嘗(もうしょう)(注2)は、篡臣というべき者である。斉の管仲、晋の咎犯(きゅうほん)、楚の孫叔敖(そんしゅくごう)(注3)は、功臣と言うべきである。殷の伊尹(いいん)、周の太公(たいこう)(注4)は、聖臣と言うべきである。これが人臣の区分であり、国の吉凶・君主の賢愚を決める究極の要点である。これを必ずつつしんで記録し、つつしんで自ら選び取るならば、君主の家臣を選ぶための参考となりえるだろう。


(注1)州侯は、楚の襄王の佞臣で、『戦国策』『韓非子』に見える。蘇秦は戦国時代中期の遊説家で、趙国の宰相に就任して秦国に対抗する六国連合を成立させる「合従」策を行った。張儀は蘇秦と同時代の秦の宰相で、蘇秦の死後にその合従策をくつがえして六国を秦に服属させる「連衡」策を行った。蘇秦は趙国の宰相から失脚した後に斉国に仕えてそこで死んだので、斉の蘇秦と言ったのであろう。だが後世に外交策の規範を示した蘇秦・張儀と、無名の佞臣である州候とを同列に論じて批判してよいものであろうか。
(注2)張去疾について楊注は「けだし張良(ちょうりょう。漢の高祖劉邦に仕えた名軍師)の祖」と言う。奉陽とは、奉陽君(ほうようくん)のこと。趙の粛候の弟で宰相であった。蘇秦は趙国に最初に遊説に赴いたとき、奉陽君に喜ばれずに失敗した。一年余の後燕の文候の説得に成功して資金援助を受けて再度趙国に遊説に入ったときには、すでに奉陽君は死去していた。かくして蘇秦は粛候を説得することに成功した。孟嘗とは孟嘗君のことで、斉の公子田文(でんぶん)。戦国四君子の一に数えられる。斉王によって薛(せつ)の地に封じられて薛公と呼ばれ、数千人の食客を抱えたという。斉の湣王(びんおう)が権勢のある孟嘗君を除こうとしたので、逃亡して魏国の宰相となって燕・秦・趙とともに斉王を討った(この斉討伐戦争については、彊国篇(2)のコメントにその経過を記した)。湣王が死んで襄王の代に代わっても、薛公(孟嘗君)は諸侯の間に中立の関係を保ったという。このように斉王の一族でありながら必ずしも斉国に従わなかったので、荀子から簒臣のカテゴリーに入れられたのであろう。
(注3)管仲は、荀子が繰り返し言及する斉の桓公の宰相。咎犯は、春秋覇者の一である晋の文公の名臣、孤偃(こえん)のこと。字(あざな)は犯で、咎は舅(きゅう。しゅうと)と同じ意。文公の舅(しゅうと)であったので、咎犯と呼ばれた。晋国を追われて諸国を流浪する文公に付き従い、文公が帰国して国を継いだ後は、文公を補佐してこれを覇者とすることに大きく貢献した。孫叔敖は、非相篇にも表れる。
(注4)伊尹は、『孟子』萬章章句上、七参照。太公は、太公望呂尚のこと。君道篇(4)注3を参照。
《原文・読み下し》
人臣の論(りん)(注5)。態臣(たいしん)(注6)なる者有り、篡臣(さんしん)なる者有り、功臣なる者有り、聖臣なる者有り。內は民を一にせしむるに足らず、外は難を距(ふせ)がしむるに足らず、百姓親しまず、諸侯信ぜず、然り而して巧敏・佞說(ねいえつ)にして、善く寵を上に取る、是れ態臣なる者なり。上は君に忠ならず、下は善く譽(よ)を民に取り、公道・通義を卹(かえり)みず、朋黨(ほうとう)・比周し、主を環(まど)わし(注7)私を圖(はか)るを以て務(つとめ)と爲す、是れ篡臣なる者なり。內は民を一にせしむるに足り、外は難を距がしむるに足り、民之を親しみ、士之を信じ、上は君に忠に、下は百姓を愛して倦(う)まず、是れ功臣なる者なり。上は則ち能く君を尊び、下は則ち能く民を愛し、政令・敎化の、下に刑(のっと)らしむる(注8)こと影の如く、卒に應じ變に遇するに、齊給(せいきゅう)なること響(ひびき)の如く、類を推し譽(よ)(注9)に接し、以て無方を待ちて、制象を曲成す、是れ聖臣なる者なり。故に聖臣を用うる者は王に、功臣を用うる者は强く、篡臣を用うる者は危うく、態臣を用うる者は亡ぶ。態臣用いらるれば則ち必ず死し、篡臣用いらるれば則ち必ず危うく、功臣用いらるれば則ち必ず榮え、聖臣用いらるれば則ち必ず尊し。故に齊の蘇秦(そしん)、楚の州侯(しゅうこう)、秦の張儀(ちょうぎ)は、態臣と謂う可き者なり。韓の張去疾(ちょうきょしつ)、趙の奉陽(ほうよう)、齊の孟嘗(もうしょう)は、篡臣と謂う可きなり。齊の管仲、晉の咎犯(きゅうほん)、楚の孫叔敖(そんしゅくごう)は、功臣と謂う可し。殷の伊尹(いいん)、周の太公(たいこう)は、聖臣と謂う可し。是れ人臣の論(りん)(注5)にして、吉凶・賢不肖の極なり。必ず謹んで之を志(しる)して、愼んで自ら擇取(たくしゅ)することを爲せば、以て稽(かんが)うるに足らん。


(注5)集解の王先謙は、「論」は「倫」の借字であると言う。儒效篇(9)注9と同じ。
(注6)猪飼補注は、「佞媚の態を以て其の君に事(つか)う」と言う。
(注7)集解の王念孫は、「環」は読んで「営」となし、営は惑なり、と言う。君道篇(5)注8では「還」字を「営」と読む説を取ったが、そちらでは「いとなむ」と読んだがこちらでは「まどう」と読むことになる。
(注8)集解の王念孫は、「刑は法なり。下の上に法(のっと)ること影の形に従う如きを言う」と言う。のっとる。
(注9)「譽(誉)」について、楊注の声誉とみなす説に反対して二説が提出されている。集解の王先謙は「與」字であると言い、儒效篇(4)注7の王念孫説と同じと言う。増注の久保愛及び集解の兪樾は、誉は「豫」と通ず、と言う。王説を取るならば、「(類推判断して)隣接する概念にまとめあげて判断する」という意味となるであろうか。久保・兪説を取るならば、「(類推判断して)先のできごとを予想しておく」という意味となるであろうか。久保・兪説に従っておく。

臣道篇は、歴史上の家臣をカテゴリーに分類し、それぞれを高くあるいは低く評価する叙述から始まる。臣道篇において最重要視される倫理は、国家と主君への「忠」である。国家と主君への「忠」をおろそかにする家臣は、たとえどれだけ有能でなおかつ時代の大きな名声を得た人物であっても、荀子によって低い評価が与えられる。臣道篇で主張される「忠」の倫理は、後世の日本人が想定する国家への絶対的献身を称える「忠」の倫理に、大きく近づいている。これは先行する孔子や孟子の倫理にはなかった、新しい時代の正義の規準である。戦国時代末期となって国家が人間を隷属させる領域がますます大きくなり、人民の有能者を官吏として登用しこれを国家に献身させる官僚の倫理がますます要請されるようになって、荀子は国家への献身を正義とする「忠」の倫理を強調するようになった。だがこれは、まだ国家よりも血族集団への所属意識が優先されていた孔子の時代には表面化していなかったし、すでに戦国時代に入っていた孟子においても荀子のような国家と君主への「忠」は倫理として要請されることはなかった。

まず冒頭の緒言において、荀子は合従・連衡策を実現した遊説家の蘇秦・張儀を「態臣」と最低の評価を下し、戦国四君子の一に数えられる斉の孟嘗君を「簒臣」と国家の反逆者とみなし、ようやく斉の管仲・晋の咎犯(孤偃)に対して「功臣」とある程度高く評価して、伊尹と太公望を「聖臣」と最高の評価を与える。彼らが天下・国家の強化と安定にいかに貢献したか、によってランキングが付けられているのである。

しかしながら、荀子は後の時代から結果を見て、歴史上の政治家たちの活動を評価している。荀子が厳しく批判する蘇秦・張儀の外交作戦は、中華世界に絶対的な強国がまだ現れない混沌とした戦国時代中期であったから取られたものであった。蘇秦・張儀の時代には伊尹・太公望のように天下統一を行うことは不可能であり、間に合わせの外交政策で諸国間の均衡を得る政策もまた、一時の外交的安定を得るためにやむえなかった。荀子は後世の結果が見えた地点から彼らを批判しているのであって、彼らが置かれた時代の状況を理解しようとしない。

荀子は戦国時代のたそがれの時代にあったから、こうして過去の政治家たちを天下統一への貢献の有無によって総括できたのであった。戦国時代の終わりにあって荀子が推奨した臣道は、当時の人々にとっての全世界であった中華世界を全て統一した巨大世界政府への誠心誠意の「忠」であった。だが、このような世界政府への「忠」は、人間の身近な周囲の人々と郷里を愛する素朴な心情からはるかに遠く離れている。そのような倫理を必要とするべき巨大な官僚制国家が登場した時代は、果たして人間にとって本当に理想の社会であったのであろうか?

臣道篇第十三(2)

君命に従って君主に利益をもたらすことを、順すなわち従順であると言う。君命に従った結果君主に利益をもたらさないことを、諂(てん)すなわちへつらうと言う。君命に逆らって君主に利益をもたらすことを、忠すなわち忠勤であると言う。君命に逆らった結果君主に利益をもたらさないことを、簒(さん)すなわち君主の力を奪うと言う。君主の栄辱をかえりみず、国家の善悪をかえりみず、主君にまにあわせの迎合をして主君からの下命は適当に受け取って、このようにして禄を保って己の交際を広めるばかりであるならば、これを国賊と言う。君主が誤ったはかりごとや事業を行って、それが国家を危うくして社稷(しゃしょく)が倒されるようなことであるとき、その大臣や父兄が的確に進言し、容れられたならばよし、容れられなければこれを去る。これを諌(かん)すなわち君主を諌める行為と言う。君主に的確に進言し、容れられたならばよし、容れられなければあくまで君主と争って死ぬ。これを争(そう)すなわち君主と争う行為と言う。よく知と力を合わせて、群臣・官吏を率いて、皆でともに君主に強要してこれを矯正し、君主はそれが面白くなくても聴かざるを得ず、ついにこうして国の大きなわずらいを解決し、国の大きな害を除き、君主を尊んで国を安んずることを成し遂げる。これを輔(ほ)すなわち君主を輔佐する行為と言う。よく君主の命令に反抗し、君主の権勢を盗み取り、君主の事業に逆らい、こうして国の危機を安んじ、君主の辱を除き、戦勝して国に大きな利益をもたらすことができる。これを弼(ひつ)すなわち君主を諌めて助ける行為と言う。ゆえに、諌・争・輔・弼の人材は、社稷を守る家臣であり、国君の宝である。明君はこれを尊び厚く遇すが、闇主はこれにとまどって己の賊とみなす。ゆえに明君の賞する者を闇君は罰するのであり、闇君の賞する者を明君は殺すのである。伊尹(いいん)・箕子(きし)(注1)は、諌する臣と言うべきである。比干(ひかん)・子胥(ししょ)(注2)は、争する臣と言うべきである。平原君の趙国におけるは(注3)、輔する臣と言うべきである。信陵君の魏国におけるは(注4)、弼する臣と言うべきである。言い伝えに、「正道に従って君主に従わず」とあるのは、このような臣道なのである。ゆえに正義の臣が登用されたならば、朝廷から不平は起こらなくなる。諌・争・輔・弼の人が信頼されたならば、君主の過ちは大きくならない。武勇の士が登用されたならば、仇なす敵国は付け入ることができなくなる。辺境の臣が正しく処遇されたならば、国境線は失われなくなる。ゆえに明主は家臣と心を同じくすることを好み、闇主は独断専行することを好む。明主は賢明な者を貴び能力ある者を登用して、その成果を受け取る。闇主は賢明な者をねたみ能力ある者をおそれて、己の功績をつぶし、己に忠勤なる者を罰し、己の賊を賞する。これを暗愚の極みと言い、桀(けつ。夏王朝を滅ぼした悪王)・紂(ちゅう。殷王朝を滅ぼした悪王)はこれゆえに滅んだのである。


(注1)楊注は、「伊尹太甲(たいこう)を諌む」と注する。すなわち史記殷本紀によれば、湯王の後を継いだ太甲(たいこう)が不明で徳を乱したので、伊尹はこれを桐宮に追放して反省を促したという。しかし新釈の藤井専英氏は、この故事は「諌」ではなくて「拂(弼)」と言うべきだから、伊尹が湯王に仕える以前に夏の桀王に仕えて、これを諌めて容れられずに去ったことを指すのであろう、と言う。箕子は、殷の紂王の一族。議兵篇(5)注8参照。
(注2)比干は、殷の紂王のおじ。上の議兵篇の注を同じく参照。子胥は伍子胥(ごししょ)で、春秋時代末期の呉国の臣。史記伍子胥列伝に伝記がある。闔閭(こうりょ)・夫差(ふさ)の二代の呉王に仕えて重きを成したが、呉軍に破れて屈従を約した越王勾踐(こうせん)がいつか必ず叛くことを予想してこれを許さず討つべきことを夫差に説いたが、聴かれなかった。ついに讒言を信じた夫差から死を賜い、果てた。伍子胥の死後に勾踐は兵を挙げ、夫差は自害して呉国は越国に滅ぼされた。
(注3)平原君は、戦国時代後期の趙の公子。戦国四君子の一に数えられる。史記平原君列伝に伝記がある。長平の戦で趙軍は秦軍に惨敗し、秦軍は趙都の邯鄲を包囲した。このとき平原君は自ら楚国に赴いて救援を要請し、楚国から帰国後は決死の士を率いて秦軍と戦いこれを後退させた。そこに楚国と魏国から救援軍が到着して、邯鄲は解放された。しかしこのとき平原君が趙王を強要したとは、史記には書かれていない。
(注4)信陵君は、平原君と同時代の魏の公子。同じく戦国四君子の一に数えられる。史記魏公子列伝に伝記がある。信陵君は上の平原君の援軍要請に応じて、魏王の意志を無視して魏軍の兵権を奪い取り、邯鄲を救った。信陵君はそのまま趙国に留まったが、信陵君のいない魏国を秦軍は攻撃した。信陵君は故国の危機にあって再び魏国に戻って将軍となり、諸国は信陵君に救援軍を派遣してついに秦軍は敗走した。
《原文・読み下し》
命に從いて君を利す、之を順と謂い、命に從いて君を利せざる、之を諂(てん)と謂い、命に逆(さか)いて君を利す、之を忠と謂い、命に逆いて君を利せざる、之を篡(さん)と謂い、君の榮辱を卹(かえり)みず、國の臧否(ぞうひ)を卹みず、偷合(とうごう)苟容(こうよう)して、以て祿を持し交を養うのみなる、之を國賊と謂う。君に過謀・過事の、將(まさ)に國家を危うくし社稷を殞(おと)さんとするの具(ぐ)(注5)有るや、大臣・父兄、能く言を君に進め、用いらるれば則ち可とし、用いられざれば則ち去ること有る、之を諫と謂う。能く言を君に進め、用いらるれば則ち可とし、用いらるれば則ち死すること有る、之を爭と謂う。能く知を比(あわ)せ(注6)力を同じくし、羣臣(ぐんしん)・百吏を率いて、相與(とも)に君を强(し)い君を撟(た)め、君安んぜずと雖も、聽かざること能わず、遂に以て國の大患を解き、國の大害を除き、君を尊び國を安んずることを成すこと有る、之を輔と謂う。能く君の命に抗し、君の重を竊(ぬす)み、君の事に反し、以て國の危を安んじ、君の辱を除き、功伐以て國の大利を成すに足ること有る、之を拂(ひつ)(注7)と謂う。故に諫爭・輔拂の人は、社稷の臣なり、國君の寶(たから)なり、明君の尊厚する所にして、闇主は君(これ)に惑いて(注8)、以て己の賊と爲すなり。故に明君の賞する所は、闇君の罰する所なり、闇君の賞する所は、明君の殺す所なり。伊尹(いいん)・箕子(きし)は、諫と謂う可し、比干(ひかん)・子胥(ししょ)は、爭と謂う可し、平原君(へいげんくん)の趙に於けるは、輔と謂う可し、信陵君(しんりょうくん)の魏に於けるは、拂(ひつ)と謂う可し。傳に曰く、道に從いて君に從わず、とは、此を之れ謂うなり。故に正義の臣設(もち)いらるれば(注9)、則ち朝廷頗(は)(注10)ならず、諫爭・輔拂(ほひつ)の人信ぜらるれば(注11)、則ち君の過は遠ならず、爪牙(そうが)の士施(もち)いらるれば(注12)、則ち仇讎(きゅうしゅう)作(おこ)らず、邊境(へんきょう)の臣處(しょ)すれば、則ち疆垂(きょうすい)(注13)喪せず。故に明主は同を好んで、闇主は獨を好む。明主は賢を尚(とうと)び能を使いて、其の盛を饗(う)け(注14)、闇主は賢を妒(ねた)み能を畏れて、其の功を滅し、其の忠を罰し、其の賊を賞す、夫れ是を之れ至闇と謂う,桀・紂の滅ぶる所以なり。


(注5)宋本は「懼」に作る。
(注6)楊注は、「比」は「合」なり、と言う。あわせる。
(注7)楊注は、「拂」は読んで「弼(ひつ)」となす、と言う。以下の「拂」字も「弼」字に読み替える。
(注8)原文「闇主惑君」。集解の盧文弨は、「主惑」二字は疑うは衍と言う。宋本は「君」字を「之」に作る。宋本に従えば通して読むことができるので、「君」字を「之」に入れ替えて読むことにする。
(注9)集解の王先謙は、「設」はなお「用」のごときなり、と言う。もちいる。
(注10)増注は、「頗」は不平なり、と言う。
(注11)楊注は、「信は君に信ぜらるを謂う、或は曰く、信は読んで伸となす」と注する。集解の王先謙は楊注の或説のほうがよい、と言い、漢文大系は「信」をのぶる、と訓ずる。新釈は楊注本説を取っている。楊注本説に従っておく。
(注12)集解の兪樾は、「施」はなお「用」のごとしと言う。もちいる。
(注13)楊注は、「垂」は「陲」と同じ、と言う。疆陲(きょうすい)は、国境のこと。
(注14)増注は、「盛」は読んで「成」となし、「饗」は「享」と同じ、と言う。成功を受け取ること。

子道篇において「道に從いて君に從わず、義に從いて父に從わざるは、人の大行なり」と言われている。上に訳した荀子の臣道は、子道篇の言葉のとおりである。すなわち国と君主の利益を思って、へつらうことなく全力を尽くすのが忠なる家臣である。それは君主の命に逆らってでも行わなければならず、時には命を賭して君主を諌めなければならない。「君に事(つか)えて遇わざる時は、諫死するも可なり、幽囚するも可なり、飢餓するも可なり」(講孟箚記、乙卯六月十三日より)と言った吉田松陰なども、荀子の臣道には異論がないことであろう。松蔭は孟子を愛読する正統派の儒者であって、荀子に依拠していたわけではないが。

上に訳したような荀子の臣道は、悲壮感を帯びている。孟子はつまらない君主には早々に見切りを付けて立ち去ったが、そのような雇い主が気に入らなければ立ち去る契約社員のような気軽さは、もはや荀子の臣道には見えない。松蔭もまた、孟子の主君を渡り歩くあり方については、模範としてはならないと批判した。こと臣道に関しては、松蔭の思想は孟子よりも荀子に近いようである。

荀子の法治官僚国家の下で働く官僚は、国家に忠を尽くして命懸けで働いてもらわなければならないのである。そこからは、「どうして人間が国家という作り物の怪物に尽くし、同じ人間である君主に命懸けで尽くさなければならないのか?」という疑問が、すでに排除されている。

臣道篇第十三(3)

聖君に仕える者は、ただその命を聞き従うだけでよく、諌めて争う必要はない。中君すなわち中ぐらいの君主に仕える者は、諌めて争う必要があり、へつらいおもねる必要はない。暴君に仕える者は、その過ちをなんとか取り繕う必要があり、これを矯正して支えることはできない。乱世に脅かされ、暴国の中で窮して暮らし、暴君の下にいることをもはや避けることができないのであれば、この暴君の美点を尊び、暴君の善事を持ち上げ、暴君の悪事を言わず、暴君の失敗を隠し、暴君の長所を言うが、暴君の短所は称えたりしない。このような行動を習慣化するしかない。詩(注1)に、こうある。:

国の天命、もはや尽きたり
しかし我、これを人に告ぐることなし
いざ、この身を防がん
(逸詩。原詩は伝わらない)

こうすることも、やむをえない。

君主をつつしみ敬って自らは謙遜し、君主の命に聞き従って敏速に行動し、私事をもって決断選択することはせず、私的に公の物を取ったり与えたりもせず、上に従うことを自らの志となすこと。これが、聖君に仕える義である。忠信であるがおもねらず、諌めて争うがへつらわず、志を高く持って相手を強く矯正し、志を誠実にしてかたよった心を持たず、是をすなわち是と言い非をすなわち非と言うこと。これが、中君に仕える義である。調和するが崩れず、柔和であるが屈せず、寛容であるが乱脈とはならず、明らかに正道を極めて、かならず周囲と調和するが、しかも君主を教化して作り変え、時に応じてその心中に正道を通し込む。これが、暴君に仕える義である。暴れ馬を馴らすがごとく、赤子を養うがごとく、飢えた者を食わせるがごとくに、暴君を扱うのである。ゆえに、それが懼れたときに進言してその過失を改め、それが憂えたときに進言してその悪習を矯正し、それがよろこんだときに進言してそれを正道に招きいれ、それが怒ったときに進言してその悪心を除く。このようにすれば、暴君ですら細かい点まで矯正は可能であろう。『書経』に、この言葉がある(注2)。:

君命に従って、逆らうことなかれ。
主君をおだやかに諌めて、倦(う)むことなかれ。
上に立てば、明察たるべし。
下に居れば、謙遜たるべし。
(逸文。原文は伝わらない)

この言葉のように、臣道はあるべきである。

人に仕えてその人から信頼を得られない者は、仕え方が必死でない者である。人に必死に仕えながらその人から信頼を得られない者は、敬いつつしみ方が足りない者である。仕える人を敬いつつしみながらその人から信頼を得られない者は、忠心から尽くしていない者である。忠心から尽くして仕えながらその人から信頼を得られない者は、功績がないからである。仕えて功績があるのにその人から信頼を得られない者は、己に人徳がないからである。ゆえに、人徳なき道を行く者は、必死であっても無駄となり、功績をだめにしてしまい、苦労を台無しとしてしまうだろう。ゆえに、君子はこれを行わない。


(注1)この句自体は『詩経』に見当たらないが、唐風揚之水にこれと類似した句がある。下の注5参照。その解釈であるが、増注は「天の大命を降し、まさに以て此の国を滅ぼさんとするも、此を以て人に告ぐれば、則ち罪其の身に及ぶ。よろしく其の口を緘(かん)して、以て身害せらるるを防ぐべきなり」と注する。増注の解釈に沿って訳した。
(注2)逸文。楊注は『書経』伊訓篇の文と注するが、増注は今の伊訓篇の文とは大きく異同があると指摘する。もっとも現在に残っている伊訓篇は偽古文尚書に含まれる一篇であって、晋代の偽書である。
《原文・読み下し》
聖君に事(つか)うる者は、聽從有りて諫爭無く、中君に事うる者は、諫爭有りて諂諛(てんゆ)無く、暴君に事うる者は、補削有りて撟拂(きょうひつ)(注3)無し。亂時に迫脅せられ、暴國に窮居して、之を避くる所無ければ、則ち其の美を崇び、其の善を揚げ、其の惡を違(さ)け(注4)、其の敗を隠し、其の長ずる所を言い、其の短なる所を稱(しょう)せず、以て成俗を爲す。詩に曰く(注5)、國に大命有り、以て人に告ぐ可らず、其の躬(みずか)らの身を防がん、とは、此を之れ謂うなり。
恭敬にして遜、聽從にして敏、敢て以て私に決擇すること有らず、敢て以て私に取與(しゅよ)すること有らず、上に順うを以て志と爲す、是れ聖君に事うるの義なり。忠信にして諛(ゆ)せず、諫爭して諂(てん)せず、撟然(きょうぜん)として剛折し、端志にして傾側の心無く、是(ぜ)をば案(すなわ)ち是と曰い、非をば案ち非と曰う、是れ中君に事うるの義なり。調にして流せず、柔にして屈せず、寬容にして亂せず、曉然(ぎょうぜん)として以て道を至(きわ)め、調和せざること無く、而(しか)も能く化易し、時に之を關內(かんどう)す(注6)、是れ暴君に事うるの義なり。樸馬(ぼくば)を馭(ぎょ)するが若く、赤子を養うが若く、餧人(だいじん)を食(やしな)うが若し。故に其の懼るるに因りて、其の過を改め、其の憂うるに因りて、其の故(こ)を辨(べん)じ(注7)、其の喜ぶに因りて、其の道に入らしめ、其の怒るに因りて、其の怨を除かば、曲(つぶさ)に謂う所を得ん。書に曰く、命に從いて拂(もと)らず、微諫して倦まず、上と爲れば則ち明に、下と爲れば則ち遜、とは、此を之れ謂うなり。
人に事えて不順なる者は、不疾なる者なり。疾にして不順なる者は、不敬なる者なり。敬にして不順なる者は、不忠なる者なり。忠にして不順なる者は、無功なる者なり。功有りて不順なる者は、無德なる者なり。故に無德の道爲(た)るや、疾を傷(そこ)ない、功を墮(こぼ)ち、苦を滅ぼす、故に君子は爲さざるなり。


(注3)集解の盧文弨は、「拂」は読んで「弼」となす、と言う。撟拂は、矯正して支えること。
(注4)集解の王念孫は、「違」は読んで「諱」となす、と言う。諱はさけること。
(注5)楊注は逸詩と注する。増注は『詩経』唐風揚之水に「我命有るを聞く、敢て以て人に告げず」の句があることを引いて、また此の意なり、と注している。
(注6)楊注本説は、「關(関)」は「開」の誤りで、「開內(内)」は「開納」の意と取る。集解の王念孫は、上に通言するを「關(関)」と曰う、と言い、楊注或説の「道を以て君の心中に関通す」が近い、と言う。したがって「関内」は君主の心中に正道を通し込むこと。新釈は、「内」は音ドウ、と注する。すなわち「内」を「いれる」の意味に取る場合には「ドウ」と訓ずる。
(注7)集解の王念孫は、「辨」は読んで「變(変)」となし「其の故を變(変)ずる」とは故を去って新に就くを謂う、と言う。すなわち、旧来の悪から引き離して善に移らせること、の意味と解釈している。これに従っておく。

聖君・中君・暴君の三者に仕える臣道が説かれる。暴君への仕え方が説かれるところが、孟子とは違っている。荀子は王制篇他の各篇で王者の理想政治を説き、君主の正しいあり方を理想として示す。よって荀子は全篇を通じて見れば、「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」といった家臣の君主への一方的な忠勤の義務を薦めているわけでは決してなく、頂点の君主から末端の家臣、人民に至るまで正義が貫かれている合理的な国家を理想に描くのである。しかし荀子は現実に暴君に直面したときに、孟子のように逃げることを薦めない。もはや天下に一つの王朝しか残っていないのであれば、戦国時代のように他国に逃げることはできない。天下で唯一の国家の下に踏みとどまって正義のために命を賭けて忠勤し、何とか力を尽くすしかない。

荀子の弟子の韓非子はさらにシニカルとなって、暴君のみならず君主一般に仕えてこれを説得することがいかに困難であるか、ということを強調する。韓非子は、聖王の湯王ですら伊尹は料理人に身をやつしてへつらわなければ聞いてもらえなかった、と言うのである。韓非子が見る君主という存在は、周囲にはべる近しい者たちが自分たちの私利私欲のためにその権力を利用することを常に狙っていて、君主は彼らによって容易に耳目をくらまされて利用される。なので君主から縁遠い有能な家臣の声は、君主にはきわめて届きにくいのが通常である。韓非子は、現実の君主が師の荀子の理想論とは違って必ずしも明察とはなりえない状況に置かれていることから目をそむけることができず、有能な家臣は不利な状況の中でそれでも有効な政策を君主に進言しなければならない、と述べる。

戦国時代末期となって秦国の一方的な勝利が確定し、もはや君主が善であろうがなかろうが国家権力には一つしか選択肢がない、という時代状況になれば、暴君でも仕える以外に道は残されていない、という非情の現実がある。荀子や韓非子の臣道には、孟子の時代から様変わりした選択肢のない時代の苦衷が表れているようである。

臣道篇第十三(4)

大忠というものがあり、次忠というものがあり、下忠というものがあり、国賊というものがある。その人徳によって君主を覆いつくしてこれを善に教化してしまうのが、大忠である。その人徳によって君主を調整してこれを輔佐するのが、次忠である。是をもって非を諌めて君主から怒りを買うのは、下忠である。君主の栄辱をかえりみず、国家の善悪をかえりみず、主君にまにあわせの迎合をして主君からの下命は適当に受け取って、このようにして禄を保って己の交際を広めるばかりであるならば、これは国賊である。周公の成王に対するあり方は、大忠と言うべきである(注1)。管仲の桓公に対するあり方は、次忠と言うべきである。子胥(ししょ)の夫差(ふさ)に対するあり方は、下忠と言うべきである(注2)。曹觸龍(そうしょくりゅう)の紂王に対するあり方のごときは、国賊と言うべきである(注3)

仁者は必ず人を敬う。およそ人というものは、賢者でなければすなわち愚者である。賢者であるのにこれを敬わない者がいるならば、その者は禽獣(ケダモノ)というべきである。だが愚者であってもあえてこれを敬わない者がいるならば、その者は虎を侮るようなものであり、何をしでかすか分からない愚者に噛み付かれる恐れがある。禽獣は、無茶苦茶なことをする。虎を侮れば、危険が待っている。そうして災いが己の身に及ぶだろう。『詩経』に、この言葉がある(注4)。:

虎を暴(てうち)にする者はおらず
黄河を馮(かちわた)る者もおらぬ
人はそのことを知るれども
すべて他事もかくすべきこと、知らぬなり
戦々兢兢(せんせんきょうきょう)として、
深き淵に臨むがごとく、
薄き冰(こおり)を履(ふ)むがごとく、なさねばならぬ
(小雅、小旻より)

まさに、人に対するには、相手が賢愚を問わず細心の注意が必要なのだ。ゆえに仁者は、必ず人を敬う。人を敬うには、道がある。賢者はこれを尊んで敬い、愚者はこれを恐る恐る扱って敬い、賢者はこれに親しんで敬い、愚者はこれを遠ざけて敬うのである。仁者が人を敬うという姿勢は、常に一つである。しかしながら、その敬うときの内情は、このように二通りなのである。だが相手に忠信かつ誠実であって相手を傷つけないことにおいては、誰と接しても常に同じなのである。これが、仁人の本質である。仁人とは忠信を本質となし、誠実をもって規範となし、礼儀によって装飾し、類推判断(注5)によって理を定め、ちょっとした言葉の端でも、ちょっとした動作でも、全てが一つの規則に則っているのである。『詩経』に、この言葉がある。:

僭(たが)わず、賊(そこ)なわざれば
則(のり)とならざること鮮(すくな)し
(大雅、抑より)

仁人は、こうして規則どおりに動くのである。

つつしんで敬うことが、礼の精神である。調和することが、楽(がく。音楽)の精神である。謹慎することは、己の利益となる。怒って戦うことは、己の害となる。ゆえに君子は礼楽(れいがく)に安んじ、謹慎を利益とみなして、怒って戦うことはしない。この原則ゆえに百事を行って過ちがないのである。小人はこの反対である。

(君命に逆らって君主を利する)忠は、(君命に従って君主を利する)順に結局は通じるのである(注6)。君主と争って君主を危険に追い込むことは、やがて平治をもたらすことを計算して行うのである。しかし君主が災いと争乱を起こしたきに、それに聴き従っているだけの者もある。この三者の区別は、明主でなければよく知ることはできない。君主と争った末に国のためによい結果をもたらし、君主に逆らった末に国のために功績を挙げ、死を覚悟して出撃して私心無く、忠を極めて公のために尽くすこと。これが、忠が順に通じると言うのであり、信陵君(しんりょうくん)(注7)はこれに近い。君主から権力を奪った末に正義をもたらし、君主を殺した末に仁政を行い、上下の位をひっくり返した末に貞節を守り、その功績は天地を統御し、その恩沢は人民に行き渡る。これが、平治のために君主を危険に追い込むと言うのであり、湯王・武王はこれに当たる。君主に過失があっても心を合わせ、君主と和合しても筋道がなく、正しいことか正しくないことかはどうでもよく、正しいことと曲がっていることをよく見極めることもせず、主君にまにあわせの迎合をして主君からの下命は適当に受け取って、わけのわからぬ者どもを迷わせかき乱す。これが、君主が災いと争乱を起こしたきに、それに聴き従っているだけの者と言うのであり、飛廉(ひれん)と悪来(あくらい)(注8)はこれに当たる。言い伝えには、「不揃いゆえに揃い、曲がっているゆえに素直であり、同じからずして一つである」とある。『詩経』には、この言葉がある(注9)。:

小球(しょうきゅう)・大球(だいきゅう)のみたからを受け
諸国したがう、綴旒(めじるし)となる
(殷頌、長發より)

こうして称えられた湯王のように、あえて争って天下に平治をもたらす道は、むしろ忠の道に通じるのである。


(注1)周公と成王との関係は、儒效篇(1)および同(6)を参照。
(注2)子胥は伍子胥のこと。臣道篇(2)注2参照。
(注3)曹觸龍について。楊注はここの注で『説苑』を引いて、夏の桀王の左師に「觸龍」なる者があったと書かれていることを指摘する。しかしながら荀子はこの臣道篇でも議兵篇でも、曹觸龍を殷の紂王の時代の人物とみなしている。
(注4)詩中の「暴」字は手討ちにする意。また「馮」字は徒歩で渡る意。
(注5)原文「倫類」。勧学篇(5)注1でこの語を「法の解釈」と訳した。「倫」はとなりの意であって、倫類は物事に対してとなり合う類をもって類推判断を適用することである。ここではより一般的な判断基準のように訳す。
(注6)ここでの「忠」「順」は、臣道篇(2)の言葉の定義に従っているのである。
(注7)魏の信陵君については、臣道篇(2)注4を参照。
(注8)飛廉・悪来については、解蔽篇(2)注3を参照。
(注9)詩中の「球」とは大小の玉のこと。小国は大球を贈り大国は大球を贈り、服属することを象徴する。また詩経の毛伝は、「綴」は表、「旒」は章、と言う。両者ともに、しるしのこと。
《原文・読み下し》
大忠なる者有り、次忠なる者有り、下忠なる者有り、國賊なる者有り。德を以て君を復(おお)いて(注10)之を化するは、大忠なり。德を以て君を調(ととの)えて之を補(たす)くる(注11)は、次忠なり。是(ぜ)を以て非を諫めて之を怒らすは、下忠なり。君の榮辱を卹(かえり)みず、國の臧否を卹みず、偷合(とうごう)・苟容(こうよう)し、之を以て祿を持し交を養うのみなるは、國賊なり。周公の成王に於けるが若きは、大忠と謂う可し、管仲(かんちゅう)の桓公に於けるが若きは、次忠と謂う可し、子胥(ししょ)の夫差(ふさ)に於けるが若きは、下忠と謂う可し、曹觸龍(そうしょくりゅう)の紂に於けるが若き者は、國賊と謂う可し。
仁者は必ず人を敬す。凡そ人(ひと)賢に非ざれば、則案(すなわち)(注12)不肖なり。人賢にして敬せざれば、則ち是れ禽獸なり。人不肖にして敬せざれば、則ち是れ虎を狎(あなど)るなり。禽獸なれば則ち亂れ、虎を狎れば則ち危く、災い其の身に及ぶ。詩に曰く、敢て暴虎(ぼうこ)せず、敢て馮河(ひょうが)せず、人其の一を知りて、其の它(た)を知ること莫し、戰戰兢兢(せんせんきょうきょう)として、深淵に臨むが如く、薄冰(はくひょう)を履(ふ)むが如し、とは、此を之れ謂うなり。故に仁者は必ず人を敬す。人を敬するに道有り。賢者をば則ち貴びて之を敬し、不肖者をば則ち畏れて之を敬す。賢者をば則ち親みて之を敬し、不肖者をば則ち疏(うと)んじて之を敬す。其の敬は一なるも、其の情は二なり。若し夫れ忠信・端愨(たんかく)にして害傷せざるは、則ち接すとして然らざること無し、是れ仁人の質なり。忠信以て質と爲し、端愨以て統と爲し、禮義以て文と爲し、倫類以て理と爲し、喘(ぜん)にして言い、臑(ぜん)にして動くも、一に以て法則と爲す可し(注13)。詩に曰く、僭(せん)せず賊(ぞく)せざれば、則(のり)と爲さざること鮮(すくな)し、とは、此を之れ謂うなり。
恭敬は禮なり、調和は樂(がく)なり、謹愼は利なり、鬭怒(とうど)は害なり。故に君子は禮樂に安んじ、謹愼を利として、鬭怒無し、是を以て百舉(ひゃくきょ)して過たざるなり。小人は是に反す。
忠の順に通じ、險の平を權(けん)し(注14)、禍亂には聲(こえ)に從う、三者は明主に非ざれば之を能く知ること莫きなり。爭いて然る後に善く、戾(もと)りて然る後に功あり、出死して私無く、忠を致(きわ)めて公なり、夫れ是を之れ忠の順に通ずと謂い、信陵君之に似たり。奪いて然る後に義に、殺して然る後に仁に、上下位を易(か)えて然る後に貞なり、功天地に參し、澤生民に被(こうむ)る、夫れ是を之れ險の平を權すと謂い、湯・武是(これ)なり。過ちて情を通じ、和して經無く、是非を卹みず、曲直を論ぜず、偷合・苟容して、狂生(きょうせい)を迷亂す、夫れ是を之れ禍亂には聲に從うと謂う、飛廉(ひれん)・惡來(あくらい)是なり。傳に曰く、斬(ざん)にし齊(ひと)しく、枉(ま)げて順(したが)い、不同にして一なり、と(注15)。詩に曰く、小球大球を受け、下國の綴旒(てつりゅう)と爲る、とは、此を之れ謂うなり。


(注10)集解の兪樾は、韓詩外伝の引用が「復」を「覆」に作ることを指摘して、これを取る。おおう。
(注11)集解の郝懿行は、韓詩外伝の引用が「補」を「輔」に作ることを指摘する。
(注12)則、案ともに「すなわち」の意。語調を整えるために、意味の同じ二字が揃えられている。二字あわせて「すなわち」と読み下す。
(注13)勧学篇(4)に「端(ぜん)にして言い、蝡(ぜん)にして動くも、一に以て法則と爲す可し」とある。楊注は、「喘は微言にして、臑は微動なり」と言う。
(注14)楊注は、「危険の事を權(権)用し、平に至らしむ」と言う。増注は、「權(権)はその軽重を称量す」と言う。治平のことを考慮に入れて、あえて争う様。
(注15)栄辱篇の末尾と同一の文。集解の劉台拱は、「斬」は読んで「儳」のごとし、と言う。「儳」は、たがいに不ぞろいの様子。

「忠」を強調する臣道篇は、以上で終わる。

孟子の説く君子像は、君主に天下を取らせるというサーヴィスを提供する君主の師であって、君主とは等価交換の立場に立つべき存在であり、決してその下に立つ存在ではない。しかしその一世紀後に儒家思想を展開した荀子の臣道は、国家の官僚制度の枠内にあることが前提となって、その中であえて正道を貫いて上の者と争うことによって官僚システムを活性化させる役割が期待されているようである。孟子の説く君子は、独立独歩のプロフェッショナルというべきであり、君主から求められたならば政治に貢献するが、君主の隷属下にはいない。いっぽう荀子の説く家臣は、官僚システムの中で国家のために正義を貫いて死することもあるが、国家に奉仕することに疑いを置かない隷属者である。孟子から荀子の思想へと移行した背景には、諸国分立時代から統一国家の登場へと移行する政治状況の変化があり、また春秋時代の遺風が残っていた戦国時代中期から国家権力にすべての臣民が隷属する戦国時代末期の官僚国家へと移行する社会構造の変化があったはずである。