君道篇第十二(5)

By | 2015年10月9日
牆(かきね)の外は、目で見ることができない。一里(約400m)向こうの音は、耳で聞こえない。なのに君主が担当すべき範囲のことは、遠くは天下の情勢から近くは国内の事情まで、その大略ぐらいは知っておかなければならない。天下の異変や国内の事件は、いろいろとゆるみが起こったり噛み合わない齟齬が起こったりするものだ。だが君主がその内容を知る手段を持たないならば、情報を知らないために脅迫される状況を作りかねず、情報を遮断されて何も知らされない状況を作りかねない。一個人が持っている目と耳の認識力はこんなにも狭く、君主が担当するべき範囲はこんなにも広い。その間の広大な空間で起こることは絶対知っておかなければならず、知らなければこんなにも危険なことになる。ならば、君主はこれをどうやって知ればよいのであろうか?それは、君主の左右に仕える側近たちは君主が遠きを観察して衆人の声を集めるための窓であるから、これを必ず早急に備えることである。ゆえに君主は側近の中に必ず信頼できる者があって、はじめてよく治めることができるのである。その信頼できる側近が事物を考量するだけの智慧があり、事物を判断できるだけの誠実さがあって、はじめてよく治めることができるのである。このような人材を、国具すなわち国に必要な道具と呼ぶ。君主といえども、遊興したり休息したりすることが必要であるし、また病気や死去の凶事が身の回りに起こらずにはいられない。それなのに国家というものは、泉が沸くがごとくに案件が起こるのであって、その一つでも対応しないならば、それは国の乱れのもととなる。ゆえに、「君主は一人でいることはできない」と言うのである。卿(けい。大臣)や宰相、補佐する家臣たちは、君主の几(ひじかけ)や杖(つえ)であって、早急に備えなければならない。君主は、政務を任せることができるこれらの重臣があって、はじめてよく治めることができるのである。それら重臣の徳の名声が人民を鎮撫するに足り、その知慮が万変に対応するに足りて、はじめてよく治めることができるのである。このような重臣を、国具と呼ぶのである。国の周囲には隣国諸侯があって、君主はこれらと関係を持たなければならない。だが、必ずしも友好な関係を持てない国もあるだろう。ゆえに君主は、遠国に赴いて必ず君主の意志を伝えて問題を解決することができる者があって、はじめてよく治めることができるのである。その弁舌は煩雑な問題を解明することができて、その知慮は問題を解決することができて、その裁断は国難を防ぐことができて、私事にかまけることなく、君主に叛くことなく、そうしてこの者が国家の急迫時に対応して外患を防ぎ、社稷を保つことができて、はじめてよく治めることができるのである。このような家臣を、国具と呼ぶのである。ゆえに、君主がその左右に仕える側近の中に信頼できる者がいないならば、これを闇(あん)すなわち情勢に闇い君主と言う。君主が政務を任せることができる卿や宰相、補佐する家臣を持たないならば、これを独(どく)すなわち一人で全部行わなければならない君主と言う。隣国諸侯に使者として赴く者がしかるべき人物でない君主は、これを孤(こ)すなわち孤立した君主と言う。君主が孤・独でかつ闇であるならば、これを危(き)すなわち危機にあると言い、たとえ国が存続していたとしても、いにしえの人は「この国は亡んだ」と言うであろう。『詩経』に、この言葉がある。:

済々と、多士をそろえて
文王の、み心寧(やす)し
(大雅、文王より)

文王の周囲は人材が多士済々であったので、彼は安心して統治できたのだ。

人材登用の規準について。誠実で勤勉であり、計数に細かく、仕事をうっかりしくじったりしない人物は、下級の官吏とするべき人材である。身をよく整えて端正であり、法度を尊んで分限を謹み、偏った心がなく、職分を守って職務に従い、課せられた任務をあえて増したり減らしたりせず、その任務を後世に伝えることができて侵し奪われるようなことがない人物は、士・大夫の長官とするべき人材である。礼義を尊ぶことは君主を尊ぶためであることを知り、士を好むことは名声を美しくするためであることを知り、人民を愛することは国を安んずるためであることを知り、恒常的な法度があることは人民の風俗を斉一にするためであることを知り、賢明な者を貴び能力ある者を登用するのは功績を高めるためであることを知り、農業を勧めて商工業を禁圧するのは財貨を多くするためであることを知り、下の者と小さな利益を争わないのは大きな事業をうまく行うためであることを知り、(度量衡などの)制度を明確化して事物を計量し活用するのはいちいち労苦をかけないためであることを知る、このような人物は、卿や宰相、補佐する家臣とするべき人材である。しかしこれら三つの人材は、まだ君主の正道には至らない(注1)。これら三つの人材の能力を論じて官職に就け、その身分序列を失わないことが、君主の正道と言うのである。このことを行うならば、君主は身体を楽にしたままで国は治まり、功績は大きく名声は美しくなり、最上ならば王者となってそれに劣っても覇者となるであろう。これが、君主の守るべき要点なのである。だがもし君主がこれら三つの人材の能力を論ずることができず、君主の正道に従うことができず、すなわちただただ自らの権勢を低くして自分自ら汗を流して労苦し、目と耳の楽しみをしりぞけて、自ら何日もかけて詳しく調べて一日中つぶさに事案を論議し、家臣と細かな点の理解を争ってかたよった能力を使い尽くすことばかりを思うならば、いにしえから現代に及ぶまで、このようなやり方で国が乱れなかったことはない。これがいわゆる「見ることができないものを見て、聞くことができないものを聞いて、成し遂げられないことを行う」と言うのである。


(注1)金谷治氏(岩波文庫)・藤井専英氏(新釈)の訳とはあえて異なる解釈で訳した。下の注11参照。
《原文・読み下し》
牆(しょう)の外は、目見えざるなり、里(り)の前(さき)は、耳聞えざるなり、而(しか)るに人主の守司は、遠き者は天下、近き者は境內にして、略知せざる可からざるなり。天下の變、境內の事は、弛易(しえき)(注2)・齵差(ぐうさ)(注3)する者有り、而(しこう)して人主是を知るに由(よし)無ければ、則ち是れ拘脅(こうきょう)・蔽塞(へいそく)の端(たん)なり。耳目の明は、是の如く其れ狹きなり、人主の守司は、是の如く其れ廣きなり。其の中は(注4)以て知らざる可からざるや、是の如く其れ危きなり。然らば則ち人主は將(は)た何を以て之を知る。曰く、便嬖(べんべい)・左右なる者は、人主の遠きを窺い、衆を収むる所以の門戶・牖嚮(ようきょう)(注5)にして、早く具(そな)えざる可からざるなり。故に人主は必ず將た便嬖・左右の信ずるに足る者有りて、然る後に可なり。其の知慧(ちけい)は物を規せしむるに足り、其の端誠は物を定めしむるに足りて、然る後に可なり。夫れ是を之れ國具(こくぐ)と謂う。人主も遊觀(ゆうかん)・安燕の時有らざること能わず、則(しこう)して(注6)疾病・物故の變有らざることを得ず。是の如くなれば、國なる者は、事物の至るや泉原の如く、一物應ぜざるは、亂の端なり。故に曰く、人主以て獨なる可らざるなり、と。卿相・輔佐は、人主の基杖(きじょう)(注7)にして、早く具(そな)えらざる可からざるなり。故に人主必ず將た卿相・輔佐の任ずるに足る者有りて、然る後に可なり。其の德音(とくいん)は以て百姓を塡撫(ちんぶ)するに足り、其の知慮は以て萬變を應待するに足りて、然る後に可なり。夫れ是を之れ國具と謂う。四鄰諸侯(しりんしょこう)の相與(くみ)する、以て相接せざる可からざるなり、然り而して必ずしも相親しまざるなり。故に人主は必ず將た遠方に喻志(ゆし)・決疑せしむるに足る者有りて、然る後に可なり。其の辯說は以て煩を解するに足り、其の知慮は以て疑を決するに足り、其の齊斷(せいだん)は以て難を距(ふせ)ぐに足り、秩(し)を還(いとな)まず(注8)、君に反せず、然り而して薄(はく)(注9)に應じ患を扞(ふせ)ぎ、以て社稷を持するに足りて、然る後に可なり(注10)。夫れ之を是れ國具と謂う。故に人主便嬖・左右に信ずるに足る者無き、之を闇と謂い、卿相・輔佐の任ずるに足る無き者、之を獨と謂い、四鄰諸侯に使する所の者、其の人に非ざる、之を孤と謂う。孤獨にして晻(あん)なる、之を危と謂い、國存するが若しと雖も、古の人は亡ぶと曰う。詩に曰く、濟濟(せいせい)なる多士、文王以て寧(やす)し、とは、此を之れ謂うなり。
人を材(さい)す。愿愨(げんかく)・拘錄(こうろく)、計數纖嗇(けいすうせんしょく)にして、敢て遺喪すること無きは、是れ官人・使吏の材なり。脩飭(しゅうちょく)・端正にして、法を尊び分を敬して、傾側の心無く、職を守り業に循(したが)い、敢て損益せず、傳世(でんせい)す可くして、侵奪せしむ可からざるは、是れ士・大夫・官師の材なり。禮義を隆(とうと)ぶの君を尊ぶが爲(ため)なるを知り、士を好むの名を美にするが爲なるを知り、民を愛すの國を安んずるが爲なるを知り、常法有るの俗を一にするが爲なるを知り、賢を尚(とうと)び能を使うの功を長ずるが爲なるを知り、本を務め末を禁ずるの材を多くするが爲なるを知り、下と小利を爭うこと無きの事に便なるが爲なるを知り、制度を明(あきら)かにし、物を權(はか)りて用に稱(かな)うの泥(なず)まざるが爲なるを知るは、是れ卿相・輔佐の材なり。未だ君道に及ばざるなり(注11)。能く此の三材の者を論官して、其の次を失うこと無きは、是れ人主の道と謂うなり。是の若くなれば則ち身佚にして國治まり、功大にして名美に、上は以て王たる可く、下は以て霸たる可し、是れ人主の要守なり。人主此の三材の者を論ずること能わず、此の道に道(よ)ることを知らず、安(すなわ)ち値(ただ)に(注12)將(は)た埶(せい)を卑しくして勞を出し、耳目の樂しみを併(しりぞ)けて(注13)、親しく自ら日を貫(かさ)ねて治詳し、一日(いちじつ)(注14)にして曲(つぶさ)に之を辨(べん)し、臣下と小察を爭いて偏能を綦(きわ)めんこと慮るのみなれば、古(いにしえ)自(よ)り今に及ぶまで、未だ此の如くにして亂れざる者有らざるなり。是れ所謂(いわゆる)、見る可からざるを視、聞く可からざるを聽き、成す可からざるを爲す、とは、此を之れ謂うなり。


(注2)「弛易」について、金谷治氏は王先謙の「弛易はなお弛慢のごとし」を取って「ゆるむ」と訳す。新釈は増注を取って「移り変わる」と訳す。王先謙説を取る。
(注3)集解の王先謙は、「歯の正しからざるを齵と曰う」と言う。「齵差」は、歯がかみ合わないように物事にずれが起こること。
(注4)宋本は「中」字があり元本はない。集解の王先謙は王念孫の説に従い「中」字を戻している。「中」は耳目の認識できる狭い範囲と君主が守るべき広大な範囲との間のこと。
(注5)「牖」は格子窓のこと。「嚮」は「向」と同じで、北向きの出窓のこと。つまり「牖嚮」で、合わせて窓の意。
(注6)増注は、「則」はなお「而」のごときなり、と言う。
(注7)増注は、「基」は疑うはまさに「几」に作るべし、と言う。これに従う。つくえ。
(注8)「秩」について増注および集解の王念孫は、「私」の誤りと言う。「還」について、増注は「反顧なり」、と言い、王念孫は「読んで営となす」、と言う。増注に従えば「かえりみる」と読み下し、王念孫に従えば「いとなむ」と読み下すであろう。漢文大系・金谷治氏・藤井専英氏ともに「いとなむ」と読み下しているので、これを取る。
(注9)増注は「迫」は急迫なり、と言う。集解の兪樾は「薄の言は迫なり」と言う。
(注10)原文「然後可」。集解本にはこの三字がなく、増注本にはある。増注本に従い戻す。
(注11)金谷治氏・藤井専英氏ともに、ここを「未だ君道に及ばざるも、、」と読んで後文につなげて解釈している。つまり、三材の者を論官してその次を失うこと無きならば、これは人主の道と言うべきであるがそれでも「君道」には及ばない、という読み方を取っている。だが、これ以上他に君道すなわち君主の正道がある、と荀子が考えていたであろうか?君道篇(3)に書かれている君道すなわち君主の正道は、三材の者を論官してその次を失うこと無きことに尽きるのではないだろうか?この疑問を持つので、あえて「未だ君道に及ばず」の文は前の三材の者は(たとえ卿相・輔佐の材であったとしても)君道には及ばない、以下に述べることが君道すなわち人主の道である、と解釈したい。疑うは、「然而是三材之道(然り而して是の三材の道は)」のような語が文頭から脱しているのかもしれない。
(注12)増注は、「値」は読んで「犆」となし、特・獨・直と同じ、と言う。「ただ」。
(注13)集解の王先謙は、「併」と「屛」は同じ、と言う。しりぞける。
(注14)「一日」について、宋本は「一內(内)」に作る。新釈は宋本に従って「内(こころ)を一にして」と読み、「心を精一にして」と訳している。しかし王覇篇(3)では類似の表現が「一日」に作られており(王覇篇では「辨」が「列」となっている)、集解の王先謙はけだし「内」は「日」の誤りである、と言う。これに従う。

再度君主の統治術を再説して、君道篇は終わる。完璧な智を持って動かず、最上の補佐人を宰相に選んで国家システムを運営させ、情実を排した礼と法の規則を走らせることによってシステムを労力を省いて正確に制御する。まるで現代におけるITシステムの管理者のような君主像である。マシーンとして作動するシステムを考えるとき、人間は古代人も現代人も同じ理想を想定するようである。それが本当に理想なのか、という問いは別の角度から提出されなければならないだろう。

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