臣道篇第十三(3)

By | 2015年10月14日
聖君に仕える者は、ただその命を聞き従うだけでよく、諌めて争う必要はない。中君すなわち中ぐらいの君主に仕える者は、諌めて争う必要があり、へつらいおもねる必要はない。暴君に仕える者は、その過ちをなんとか取り繕う必要があり、これを矯正して支えることはできない。乱世に脅かされ、暴国の中で窮して暮らし、暴君の下にいることをもはや避けることができないのであれば、この暴君の美点を尊び、暴君の善事を持ち上げ、暴君の悪事を言わず、暴君の失敗を隠し、暴君の長所を言うが、暴君の短所は称えたりしない。このような行動を習慣化するしかない。詩(注1)に、こうある。:

国の天命、もはや尽きたり
しかし我、これを人に告ぐることなし
いざ、この身を防がん
(逸詩。原詩は伝わらない)

こうすることも、やむをえない。

君主をつつしみ敬って自らは謙遜し、君主の命に聞き従って敏速に行動し、私事をもって決断選択することはせず、私的に公の物を取ったり与えたりもせず、上に従うことを自らの志となすこと。これが、聖君に仕える義である。忠信であるがおもねらず、諌めて争うがへつらわず、志を高く持って相手を強く矯正し、志を誠実にしてかたよった心を持たず、是をすなわち是と言い非をすなわち非と言うこと。これが、中君に仕える義である。調和するが崩れず、柔和であるが屈せず、寛容であるが乱脈とはならず、明らかに正道を極めて、かならず周囲と調和するが、しかも君主を教化して作り変え、時に応じてその心中に正道を通し込む。これが、暴君に仕える義である。暴れ馬を馴らすがごとく、赤子を養うがごとく、飢えた者を食わせるがごとくに、暴君を扱うのである。ゆえに、それが懼れたときに進言してその過失を改め、それが憂えたときに進言してその悪習を矯正し、それがよろこんだときに進言してそれを正道に招きいれ、それが怒ったときに進言してその悪心を除く。このようにすれば、暴君ですら細かい点まで矯正は可能であろう。『書経』に、この言葉がある(注2)。:

君命に従って、逆らうことなかれ。
主君をおだやかに諌めて、倦(う)むことなかれ。
上に立てば、明察たるべし。
下に居れば、謙遜たるべし。
(逸文。原文は伝わらない)

この言葉のように、臣道はあるべきである。

人に仕えてその人から信頼を得られない者は、仕え方が必死でない者である。人に必死に仕えながらその人から信頼を得られない者は、敬いつつしみ方が足りない者である。仕える人を敬いつつしみながらその人から信頼を得られない者は、忠心から尽くしていない者である。忠心から尽くして仕えながらその人から信頼を得られない者は、功績がないからである。仕えて功績があるのにその人から信頼を得られない者は、己に人徳がないからである。ゆえに、人徳なき道を行く者は、必死であっても無駄となり、功績をだめにしてしまい、苦労を台無しとしてしまうだろう。ゆえに、君子はこれを行わない。


(注1)この句自体は『詩経』に見当たらないが、唐風揚之水にこれと類似した句がある。下の注5参照。その解釈であるが、増注は「天の大命を降し、まさに以て此の国を滅ぼさんとするも、此を以て人に告ぐれば、則ち罪其の身に及ぶ。よろしく其の口を緘(かん)して、以て身害せらるるを防ぐべきなり」と注する。増注の解釈に沿って訳した。
(注2)逸文。楊注は『書経』伊訓篇の文と注するが、増注は今の伊訓篇の文とは大きく異同があると指摘する。もっとも現在に残っている伊訓篇は偽古文尚書に含まれる一篇であって、晋代の偽書である。
《原文・読み下し》
聖君に事(つか)うる者は、聽從有りて諫爭無く、中君に事うる者は、諫爭有りて諂諛(てんゆ)無く、暴君に事うる者は、補削有りて撟拂(きょうひつ)(注3)無し。亂時に迫脅せられ、暴國に窮居して、之を避くる所無ければ、則ち其の美を崇び、其の善を揚げ、其の惡を違(さ)け(注4)、其の敗を隠し、其の長ずる所を言い、其の短なる所を稱(しょう)せず、以て成俗を爲す。詩に曰く(注5)、國に大命有り、以て人に告ぐ可らず、其の躬(みずか)らの身を防がん、とは、此を之れ謂うなり。
恭敬にして遜、聽從にして敏、敢て以て私に決擇すること有らず、敢て以て私に取與(しゅよ)すること有らず、上に順うを以て志と爲す、是れ聖君に事うるの義なり。忠信にして諛(ゆ)せず、諫爭して諂(てん)せず、撟然(きょうぜん)として剛折し、端志にして傾側の心無く、是(ぜ)をば案(すなわ)ち是と曰い、非をば案ち非と曰う、是れ中君に事うるの義なり。調にして流せず、柔にして屈せず、寬容にして亂せず、曉然(ぎょうぜん)として以て道を至(きわ)め、調和せざること無く、而(しか)も能く化易し、時に之を關內(かんどう)す(注6)、是れ暴君に事うるの義なり。樸馬(ぼくば)を馭(ぎょ)するが若く、赤子を養うが若く、餧人(だいじん)を食(やしな)うが若し。故に其の懼るるに因りて、其の過を改め、其の憂うるに因りて、其の故(こ)を辨(べん)じ(注7)、其の喜ぶに因りて、其の道に入らしめ、其の怒るに因りて、其の怨を除かば、曲(つぶさ)に謂う所を得ん。書に曰く、命に從いて拂(もと)らず、微諫して倦まず、上と爲れば則ち明に、下と爲れば則ち遜、とは、此を之れ謂うなり。
人に事えて不順なる者は、不疾なる者なり。疾にして不順なる者は、不敬なる者なり。敬にして不順なる者は、不忠なる者なり。忠にして不順なる者は、無功なる者なり。功有りて不順なる者は、無德なる者なり。故に無德の道爲(た)るや、疾を傷(そこ)ない、功を墮(こぼ)ち、苦を滅ぼす、故に君子は爲さざるなり。


(注3)集解の盧文弨は、「拂」は読んで「弼」となす、と言う。撟拂は、矯正して支えること。
(注4)集解の王念孫は、「違」は読んで「諱」となす、と言う。諱はさけること。
(注5)楊注は逸詩と注する。増注は『詩経』唐風揚之水に「我命有るを聞く、敢て以て人に告げず」の句があることを引いて、また此の意なり、と注している。
(注6)楊注本説は、「關(関)」は「開」の誤りで、「開內(内)」は「開納」の意と取る。集解の王念孫は、上に通言するを「關(関)」と曰う、と言い、楊注或説の「道を以て君の心中に関通す」が近い、と言う。したがって「関内」は君主の心中に正道を通し込むこと。新釈は、「内」は音ドウ、と注する。すなわち「内」を「いれる」の意味に取る場合には「ドウ」と訓ずる。
(注7)集解の王念孫は、「辨」は読んで「變(変)」となし「其の故を變(変)ずる」とは故を去って新に就くを謂う、と言う。すなわち、旧来の悪から引き離して善に移らせること、の意味と解釈している。これに従っておく。

聖君・中君・暴君の三者に仕える臣道が説かれる。暴君への仕え方が説かれるところが、孟子とは違っている。荀子は王制篇他の各篇で王者の理想政治を説き、君主の正しいあり方を理想として示す。よって荀子は全篇を通じて見れば、「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」といった家臣の君主への一方的な忠勤の義務を薦めているわけでは決してなく、頂点の君主から末端の家臣、人民に至るまで正義が貫かれている合理的な国家を理想に描くのである。しかし荀子は現実に暴君に直面したときに、孟子のように逃げることを薦めない。もはや天下に一つの王朝しか残っていないのであれば、戦国時代のように他国に逃げることはできない。天下で唯一の国家の下に踏みとどまって正義のために命を賭けて忠勤し、何とか力を尽くすしかない。

荀子の弟子の韓非子はさらにシニカルとなって、暴君のみならず君主一般に仕えてこれを説得することがいかに困難であるか、ということを強調する。韓非子は、聖王の湯王ですら伊尹は料理人に身をやつしてへつらわなければ聞いてもらえなかった、と言うのである。韓非子が見る君主という存在は、周囲にはべる近しい者たちが自分たちの私利私欲のためにその権力を利用することを常に狙っていて、君主は彼らによって容易に耳目をくらまされて利用される。なので君主から縁遠い有能な家臣の声は、君主にはきわめて届きにくいのが通常である。韓非子は、現実の君主が師の荀子の理想論とは違って必ずしも明察とはなりえない状況に置かれていることから目をそむけることができず、有能な家臣は不利な状況の中でそれでも有効な政策を君主に進言しなければならない、と述べる。

戦国時代末期となって秦国の一方的な勝利が確定し、もはや君主が善であろうがなかろうが国家権力には一つしか選択肢がない、という時代状況になれば、暴君でも仕える以外に道は残されていない、という非情の現実がある。荀子や韓非子の臣道には、孟子の時代から様変わりした選択肢のない時代の苦衷が表れているようである。

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