礼論篇第十九(6)

By | 2015年11月5日
祭というものは、心中の思慕の感情に由来する。人は心動かされたり心ふさがれたりしたとき、時に思慕の感情が起こらずにはいられない。ゆえに人が喜んで皆と和合しているときには、かの忠臣孝子といえどもまた心動かされて思慕の感情が沸き起こる。その感情ははなはだ大きくて心揺さぶられて、これを我慢して通り過ぎたならば、心中の感情はがっかりとして飽き足らず、父母や主君への礼節に欠けている不足感が起こるのである。よってわが文明の建設者たる先王は、この感情を満たさんがために文飾を設け、尊き者を尊び親しい者に親しむ道を作り上げたのであった。ゆえに、祭というものは心中の思慕の感情に由来するものであり、忠信敬愛の極致であり、礼節文飾の極致であり、真の聖人でなければこの意義を完全に理解することはできない、と言うのである。聖人は祭の意義を明らかに理解し、士・君子はこれを安らかな心で挙行し、官人はこれを規範として遵守し、庶民はこれを習俗として受取るのである(注1)。君子は祭を人間のための正道として行うが、庶民は祭を鬼(き。死者の霊)に仕える行事として行う(注2)。ゆえに鐘に太鼓に笛に磬(けい。石製の打楽器)、琴に瑟(おおごと)に竽(おおきなしょうのふえ)に笙(ちいさなしょうのふえ)、韶(しょう。舜の音楽)に夏(か。禹の音楽)、護(かく。殷の湯王の音楽)に武(ぶ。周の武王の音楽)、酌(しゃく)に桓(かん。いずれも『詩経』周頌にある歌謡)・箾(さく)に象(しょう。いずれも周の文王の音楽)は、君子の心動いたところを喜びと楽しみの表現として表した文飾なのである。いっぽう齊衰(しさい。喪服)に苴杖(しょじょう。枯死した竹で作った杖)、廬(ろ。喪中に住むあばら家)に住んで粥をすすり、席薪(せきしん。喪主が敷いて寝るむしろ)して枕塊(しんかい。喪中に寝るときの土枕)することは、君子の心動いたところを哀しみと悲痛の表現として表した文飾なのである。軍隊には軍制が行き届き、刑罰法度は軽重が規定され、罪には相応の罰が必ず与えられることは、君子の心動いたところを嫌悪の表現として表した文飾なのである。それゆえ祭においては、卜筮(ぼくぜい。うらない)を行って吉日を定め、物忌みをして、よく清掃し、几(つくえ)と筵(むしろ)を揃え、いけにえの供物を納め、祝(しゅく。かんぬし)に式の次第を告げることを、あたかも祭を本当に受け取る者がいるがごとくに行うのである。供物をそれぞれに取ってこれを捧げることを、あたかもこれらを本当に味わう者がいるがごとくに行うのである。利(り。祭祀で飲食を輔佐する役の人)が爵(しゃく。さかずき)を挙げずに、祭の主人が尊(そん。酒を入れる祭器)を進めることを、あたかもこれを本当に飲む者がいるがごとくに行うのである。祭礼においては賓客が退出して主人がこれを拝礼して送り出したり、喪礼においては戻って衣服を変えて位置について哭泣(こくきゅう)したりするのは(注3)、あたかも本当に去ってしまった者がいるがごとくに行うのである。なんと哀切ではないか、なんと恭敬ではないか。死んだ者に生きている者のように仕え、亡くなった者に存在している者のように仕えるのである。たとい形も影もなくてもそこにあたかもあるかのごとくになぞらえ、その上で文飾を行うのである。


(注1)祭礼の完全な知を持つ聖人=聖王、祭礼を理解してよく己を修める(士)君子、祭礼を忠実に守る官吏、祭礼に従順に従ってこれを習俗とする庶民、という身分秩序に応じた祭礼の理解の格差を表現した言葉である。同様の表現として、礼論篇(2)「人是を有てば士・君子なり、是に外るるは民なり。是の其の中に於て、方皇・周挾し、曲に其の次序を得るは、是れ聖人なり」、正論篇(7)「聖王は以て法と爲し、士大夫は以て道と爲し、官人は以て守と爲し、百姓は以て俗と成す」、解蔽篇(6)「是に嚮いて務むるは士なり、是に類して幾くは君子なり。之を知るは聖人なり」など。
(注2)君子は鬼神を祀る儀礼を礼に従った文化的装飾とみなすが、人民大衆は無知ゆえに鬼神の存在を信じて畏れる。荀子は、儀礼にはいかなる神秘的力も備わっていないと断言する。天論篇(3)を参照。
(注3)原文読み下し「賓出で、主人拜送し、反りて服を易え、位に卽きて哭する」。ここは、新釈の藤井専英氏の解釈に沿った。藤井氏は、前半は祭礼のことであって「位に即きて哭する」は喪礼のことと解釈する。「反りて服を易う」については、明確な判断を保留している。楊注には、「此れ喪祭を雑説するなり、服を易うるは、祭服を易えて喪服に反るなり、賓出て祭事畢(おわ)り、位に即きて哭く」とある。楊注では「反りて服を易う」は祭服を喪服に替えることと解釈するが、そうするならばこれを一連の動作と解釈するわけにはいかず、祭事と喪事は別の時間の出来事であると解釈するしかないが、どうもしっくりこない。
《原文・読み下し》
祭なる者は、志意・思慕の情なり。愅詭(かくき)・唈僾(ゆうあい)(注4)して、時に至ること無きこと能わず。故に人の歡欣(かんきん)・和合の時は、則ち夫の忠臣・孝子も、亦愅詭して至る所有り。彼れ其の至る所の者は、甚だ大いに動くなり、案(すなわ)ち屈然として已(や)めば、則ち其の志意の情に於ける者、惆然(ちゅうぜん)として嗛(あきた)らず、其の禮節に於ける者、闕然(けつぜん)として具(そな)わらず。故に先王案ち之が爲に文を立て、尊を尊とし親を親とするの義至る。故に曰く、祭なる者は、志意・思慕の情なり、忠信・愛敬の至なり、禮節・文貌の盛なり、苟(まこと)に聖人に非ずんば、之を能く知ること莫きなり、と。聖人は明(あきら)かに之を知り、士・君子は安んじて之を行い、官人は以て守と爲し、百姓は以て俗を成す。其の君子に在るや、以て人道と爲し、其の百姓に在るや、以て鬼事と爲すなり。故に鐘鼓(しょうこ)・管磬(かんけい)、琴瑟(きんしつ)・竽笙(うしょう)、韶夏(しょうか)・護武(かくぶ)、酌桓(しゃくかん)・箾[簡]象(さくしょう)(注5)は、是れ君子の愅詭を、其の喜樂する所に爲す所以の文なり。齊衰(しさい)・苴杖(しょじょう)、廬(ろ)に居り、粥を食い、席薪(せきしん)・枕塊(しんかい)するは、是れ君子の愅詭を、其の哀痛する所に爲す所以の文なり。師旅制有り、刑法等有りて、罪に稱(かな)わざること莫きは、是れ君子の愅詭を、其の敦惡(たいお)(注6)する所に爲す所以の文なり。卜筮(ぼくぜい)して日を視、齋戒し、脩涂(しゅうじょ)し、几筵(きえん)し、饋薦(きせん)し、祝(しゅく)に告ぐること、之を饗(う)くるもの或るが如し。物ごとに取りて皆之を祭ること、之を嘗(な)むること或るが如し。利(り)爵を舉ぐること毋(な)く、主人尊を有(すす)むる(注7)こと、之を觴(しょう)するもの或るが如し。賓(ひん)出で、主人拜送(はいそう)し、反(かえ)りて服を易(か)え、位に卽(つ)きて哭(こく)すること、之を去るもの或るが如し。哀するかな、敬するかな。死に事(つか)うること生に事うるが如く、亡に事うること存に事うるが如し。形影(けいえい)無きに狀し、然り而(しこう)して文を成す。


(注4)「愅詭」について楊注は「愅は変なり、詭は異なり、みな変異感動の貌を謂う」と言う。心が動く様。「唈僾」について集解の盧文弨は「気、舒(の)びずの貌」と言う。憂いで気がふさがる様。
(注5)集解の王念孫は、「箾象(さくしょう)」は左伝の「象箾」なり、と言う。箾象は周の文王の音楽。荻生徂徠は、「箾」字と「簫」字はもと同字であり、「箾」字の注として「簫」が置かれていたところが本文に混入し、「簡」字は「簫」字を誤ったものである、とみなす。王念孫も「簡」字が衍字とみなす点では同一であり、「簡」字を削ることにする。
(注6)増注は、「敦」は「憝(たい)」と通ず、と言う。憝惡は、うらみにくむこと。これに従う。
(注7)「有」は「侑」と通じ、すすめるの意。

以上で、長大な礼論篇は終わりである。『史記』『大戴礼記』『礼記』に一部分があらわれる文章が、この礼論篇では総合的な礼の理論として展開されている。『史記』や『礼記』では唐突に墨家批判が出て来るが、この礼論篇に収められたとき、『荀子』の他篇でも展開される墨家批判とのつながりが出てくる。『史記』礼書はそれだけを読むと展開される礼理論の背景がよく分からないが(司馬遷は、黄老の術すなわち道家思想にシンパシーを持つ者であった)、それがこの礼論篇に収められたならば、荀子の性悪説に基づいた礼理論であることがはっきりする。この礼論篇こそが荀子あるいは荀子学派の礼理論のオリジナルなのであろうか、という印象を受ける。

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