礼論篇第十九(5)

By | 2015年11月3日
三年の喪とは、何であろうか?それは、哀悼の感情を礼の原則に従って計量して文飾を作り、これをもって人間集団を飾り立てて親疎・貴賤の礼義を設けた結果のものであって、これを増やしたり減らしたりできないものである。ゆえに、これを「離れることも変えることもできない術」と言うのである。大きな傷は治るのに時間がかかるものであり、甚だしい痛みは癒えるのが遅いものである。三年の喪とは、礼によって人間の感情を計量してそれに文飾を作ったとき、至痛の極みとして制定したものである。喪服を着て苴杖(しょじょう。枯死した竹で作った杖)をつき、廬(ろ。喪中に住むあばら家)に住んで粥をすすり、席薪(せきしん。喪主が敷いて寝るむしろ)して枕塊(しんかい。喪中に寝るときの土枕)することは、至痛の感情を飾り立てたものである。三年の喪は、二十五ヶ月で終わる。哀悼痛切の感情はいまだ尽きず、亡くなった父母を思慕する感情はいまだ忘れられないのであるが、礼はこの時期をもって喪を断ち切る。そのわけは、死者を送ることもいつかは終えなければならず、日常の生活に戻る時期が必要だからでなくて、何であろうか?およそ天地の間に発生する諸物の中で血気のある種族には、必ず知能がある(注1)。知能がある種族は、その同類を必ず愛する。かの大型の鳥や獣どもは、もし群れを見失って離れてしまうと、一ヶ月あるいは一季節経てば必ずもと来た道を引き返し、もとの生息地を通ったときには必ずそこをぐるぐる回って鳴き声を立て、足踏みし、ためらいの素振りを示し、ついに仲間がいないことを感じ取ってから立ち去る。小さな燕や爵(しゃく。すずめ)ですらも、しばらく哀しげにけたたましく鳴いた後で、ようやく立ち去るのである。だが血気がある種族において、人間よりも知能すぐれた者はいない。ゆえに人間のその両親に対する思慕の感情は、死に至るまで生涯尽きることはないのである(注2)。だが例の愚かで頑迷で邪悪なる者の主張(注3)に従うならば、人は朝に死んだ両親を夕方には忘れるだろう。このような邪説を野放しにするならば、鳥や獣にも劣ることになるだろう。これでどうして共に群れ住んで乱れずにいられるだろうか?だがあの文飾を修めた君子の主張に従うならば、三年の喪は二十五月で終了して、まるで駟(し。四頭建ての馬車)が窓の隙間を通り過ぎる瞬間のようにあっけない。しかし子として気が済むまで服喪をやり遂げたならば、これはいつまで経っても終わることがないだろう。ゆえにわが文明の建設者である先王・聖人は、中庸を選んで礼義を制定し、その一つで文飾を完成させて、それを行えば十分で終わりとしたのであった。ならば、どうして喪制には三年(父母への喪)・一年・九月・五月・三月(親類への喪で、親疎の度合いに応じて短く定める)の段階があるのか?それは、かけがえのない両親といえども一年単位の喪としたからである。それはどういう意味かといえば、一年の間に天地は変化し、四季はすべて経巡り、宇宙の中にある万物は、ことごとく更新される。ゆえに先王はこれになぞらえたのである。ならばどうして三年なのかといえば、一年に倍を足し加えたのである。ゆえに、両親の喪の間に季節は二度巡るのだ。では九ヶ月以下の喪はどういう意味であるかといえば、両親の喪以下にしたまでのことである。ゆえに三年の喪は最も大きなものであり、緦麻(しま。三月の喪服)・小功(しょうこう。五月の喪服)は最も小さなものであり、一年・九月はその中間としたのである。上は天の運行から取り、下は地の変化から取り、中は人の感情から規準を得たのである。こうして、人間が群れ住んで調和統一する原理がここに尽くされているのだ。ゆえに三年の喪は、人の正道が文飾されたその極みであり、これを至隆と言う。これは過去の歴史上の王たちが同じく採用した礼であって、古今において同じなのである。

それでは、君主の喪にも三年を取るのはどうしてであろうか?それは、君主という者は統治の主であり、政治の文飾面の頂点であり、かつ政治の実利面の頂点でもある。その下にある家臣人民が連れ立ってこの存在を最も尊ぶことに、何か異存でもあるだろうか?『詩経』に、この言葉がある。:

愷悌(おだやか)なる君は、
民草の父母
(大雅、洞酌より)

この詩のように、君主は人民の父母であるという説は昔からあったのである。そもそも父親は子を生むことはできるが、これを養育することはできない。母親はこれを養育することはできるが、これを教え諭すことはできない。だが君主は、人民を養育して教え諭す者である。これに対する喪が、三年でどうして終えることができるだろうか?乳母は赤子に乳を飲ませる者であるが、これに対してすら三月の喪を行う。慈母(じぼ。生母ではない、家内で子を育てる妾)は子供に衣服を着せてやる者であるが、これに対してすら九月の喪を行う。だが君主は乳母のように人民を食わせ、慈母のように人民に衣服を与え、人民の全ての面倒を見る者なのであるから、これに対する喪が三年でどうして終えることができるだろうか?君主を得れば国家は治まり、君主を失えば国家は乱れる、君主は礼の文飾の極致である。君主を得れば国家は安泰となり、君主を失えば国家は危険となる、君主は情の実利の極致である。二つの極致をともに集めて保有しているのが、君主なのである。これに対して三年の喪で仕えたとしても、なおまだ足りないのだ。ただ、これ以上引き伸ばすのは無道であるまでのことなのである。社(しゃ)は地神を祀り、稷(しょく)は穀神を祭り、郊(こう)はすべての先王をまとめて上天に祭祀する(注4)。では、三月の殯(ひん。かりもがり)(注5)とは、どういう意味なのであろうか?それは、死者を大事にして、死者を重んずるという意味がある。それは厚い文飾を極めて、死者への親愛を極めたものである。この三月の殯の間に死者を取り上げて、移し変え、住居から離して、陵墓に納めるのである。わが文明の建設者たる先王は、この礼が文飾のないものとなることを恐れた。そこで殯の期間を長くして、日を足したのである。ゆえに天子の殯は七月、諸侯の殯は五月、大夫の殯は三月と定め、死去から葬礼までその期間待ち続けるのは、それぞれの身分に応じて葬礼のための用具を揃える期間に十分と定めたのであり、葬礼のための用具が完成する期間に十分と定めたのであり、葬礼のための文飾を整えるのに十分と定めたのであり、葬礼のための文飾が完備するのに十分と定めたのであった。礼のための用具が全て備わっていることを、人の正道と呼ぶのである。


(注1)荀子は、動物と人間とを分けるのは義すなわち君臣父子の倫理であって、知力は動物にもあると考えている。王制篇(5)注3参照。
(注2)ここで荀子が例を挙げる動物の同類への親和的感情は、荀子の性悪説の反対の感情なのではないか?人間が動物より知能が優れているならば、なぜ同類への親和的感情も人間が動物同様に持っていると考えることができないのであろうか?荀子は性悪篇(3)において、兄弟の間では情性に従えば利己心が勝って相争う、と言っている。ならば荀子はどうして人の父母への情を自然な情とみなして特権化し、父母以外の人間との関係は放置すれば利己心が勝る、と考えるのか?この礼論篇における荀子の父母への喪の理由を人間の感情におく理論は、彼の性悪説と整合性が取れていないと私は感じる。
(注3)言うまでもなく、墨子とそれに従う墨家の思想である。
(注4)この一文は、前後の文から意味が外れているので錯簡とみなす説がある。下の注12参照。
(注5)殯(ひん)は、死去から葬礼までの期間。この期間に葬礼の準備を整え、住居から次第に陵墓まで死者を移していく礼が定められている。礼論篇(3)も参照。
《原文・読み下し》
三年の喪は何ぞや。曰く、情を稱(はか)りて文を立て、因って以て羣(ぐん)を飾り、親疏・貴賤の節を別けて、益損す可からざるなり。故に無適(むせき)・不易の術と曰う。創(きず)巨(おお)いなる者は其の日久しく、痛(いたみ)甚しき者は其の愈(い)ゆること遲し、三年の喪は、情を稱りて文を立つるに、至痛の極と爲す所以なり。齊衰(しさい)(注6)・苴杖(しょじょう)、廬(ろ)に居り粥を食い、席薪(せきしん)して枕塊(しんかい)するは、至痛の飾を爲す所以なり。三年の喪は、二十五月にして畢(おわ)る、哀痛未だ盡(つ)きず、思慕未だ忘れず、然り而(しこう)して禮是を以て之を斷ずる者は、豈(あ)に死を送るに已(や)むこと有り、生に復するに節有るを以てにあらずや。凡そ天地の間に生ずる者、血氣有るの屬は、知有らざること莫く、知有るの屬は、其の類を愛せざること莫し。今夫(か)の大鳥獸は、則(も)し(注7)其の羣匹(ぐんひつ)を失亡すれば、月を越え時を踰(こ)ゆれば、則ち必ず反鈆(はんえん)し、故鄉を過ぎれば、則ち必ず徘徊し、鳴號(めいごう)し、躑躅(てきちょく)し、踟躕(ちちゅう)し、然る後に能く之を去るなり。小なる者は是れ燕爵(えんしゃく)すら、猶お啁噍(ちょうしょう)の頃(あいだ)有りて、然る後に能く之を去る。故に血氣有るの屬は、人より知なるは莫し。故に人の其の親に於けるや、死に至るまで窮まること無し。將(まさ)に夫(か)の愚陋・淫邪の人に由らんとするか、則ち彼れ朝に死して夕に之を忘る。然り而して之にを縱(ほしいまま)にすれば、則ち是れ曾(すなわ)ち鳥獸にも之れ若(し)かざるなり。彼安(いずく)んぞ能く相與(とも)に羣居して亂るること無からんや。將に夫の脩飾の君子に由らんとするか、則ち三年の喪は、二十五月にして畢ること、駟(し)の隙を過ぐるが若し。然り而して之を遂ぐれば、則ち是れ窮(きわま)ること無きなり。故に先王・聖人、安(すなわ)ち之が爲に中を立て節を制し、一に以て文理を成すに足らしむれば、則ち之を舍(お)く。然れば則ち何を以て之を分つや、曰く、至親は期を以て斷ずればなり。是れ何ぞや、曰く、天地は則ち已(すで)に易(かわ)り、四時は則ち已に徧(あまね)く、其の宇中に在る者は、更始せざること莫きなり、故に先王案(すなわ)ち此を以て之に象(かたど)るなり。然れば則ち三年するは何ぞや、曰く、焉(これ)に加隆して、案ち之を倍せしむ。故に再期するなり。九月由(よ)り以下は何ぞや、曰く、案ち及ばざらしむるなり。故に三年は以て隆と爲し、緦麻(しま)・小功(しょうこう)は以て殺(さい)と爲し、期・九月は以て間と爲す。上は象を天に取り、下は象を地に取り、中は則(のり)を人に取る。人の羣居・和一する所以の理盡くせり。故に三年の喪は、人道の至文なる者なり。夫れ是を之れ至隆と謂う。是れ百王の同じき所にして、古今の一なる所なり(注8)
君の喪に三年を取る所以は何ぞや。曰く、君なる者は、治辨の主なり、文理の原(げん)(注9)なり、情貌の盡(じん)なり、相率いて之を隆(とうと)ぶことを致(きわ)む、亦可ならずや。詩に曰く、愷悌の君子は、民の父母、と。彼の君[子](注10)なる者は、固(もと)より民の父母爲(た)るの說有り。父能く之を生むも、之を養うこと能わず。母能く之を食(やしな)うも、之を敎誨すること能わず。君なる者は、已に能く之を食い、又善く之を敎誨する者なり。三年にして畢らんや。乳母(にゅうぼ)は之に飲食する者なり、而(しか)も三月す。慈母(じぼ)(注11)は之に衣被する者なり、而も九月す。君は之を曲備する者なれば、三年にして畢らんや。之を得れば則ち治まり、之を失えば則ち亂る、文の至なり。之を得れば則ち安く、之を失えば則ち危し、情の至なり。兩至の者俱(とも)に積む、三年を以て之に事うるも、猶お未だ足らざるなり。直(ただ)之を進むるに由無きのみ。(注12)故に社は社を祭るなり、稷(しょく)は稷を祭るなり、郊なる者は、百王を上天に幷(あわ)せて之を祭祀するなり。三月の殯(ひん)は何ぞや。曰く、之を大にするなり、之を重んずるなり。隆を致(きわ)むる所、親を致むる所なり。將に之を舉措(きょそ)し、之を遷徙(せんし)し、宮室を離れて丘陵に歸せんとするなり、先王其の文ならざるを恐る。是を以て其の期を繇(はるか)にし、之が日を足すなり。故に天子は七月、諸侯は五月、大夫は三月、皆其(それ)をして須(ま)つことは以て事を容るるに足り、事は以て成を容るるに足り、成は以て文を容るるに足り、文は以て備を容るるに足らしむ。曲(つぶさ)に容れて物を備う、之れ道と謂うなり。


(注6)「齊衰」を礼記は「斬衰」に作る。齊衰は一年の喪の服であり、斬衰は三年の喪の服である。なので増注は、礼記を正しいとみなす。新釈は、喪服を着用する意味として「齊衰」の語を用いている、と注している。
(注7)集解の王先謙は、「則」はなお「若」のごとし、と言う。「もし」。
(注8)礼記三年問篇と重なる文章は、ここまでである。三年問篇ではこの文の末尾が若干改変されて、最後に孔子の言葉として「子は生れてより三年にして、然る後に父母の懷を免る。夫の三年の喪は、天下の達喪なり」が置かれて終わっている。
(注9)新釈の藤井専英氏は、「原」字を「原窮(げんきゅう、たずねきわめる)」の意と取って「きわみ」と読み下している。その根拠として礼論篇(2)の「文理繁く、情用省くは、是れ禮の隆なり。文理省き、情用繁きは、是れ禮の殺なり」「君子は上其の隆を致(きわ)め、下其の殺を盡(つく)し、而(しこう)して中其の中に處る」を挙げる。藤井氏は礼論篇(2)の「文理」「情用」がここでの「文理」「情貌」に相当し、礼論篇では正しい道として両者を「致(きわ)め」「盡(つく)」すことが言われていることを指摘して、ここでの文と同じ意味として取るべきとことを示唆している。上の訳ではこれに従い、読み下しは通説通りとする。
(注10)集解の兪樾は、「子」字は衍文、と言う。これに従う。
(注11)「慈母」とは、庶母すなわち妻妾制下における生母以外の母で、養育に当たった者を言う。増注は儀礼喪服伝を引いて、そこで慈母の喪は五月とされていることを引いて、あるいは伝聞の異、と言う。
(注12)「故に社は社を、、」から「百王を上天に幷せて之を祭祀するなり」までの文は、喪礼とは関係がない。なので、これは錯簡であろうという疑問が提出されている。増注は古屋鬲の説を引いて、これは礼論篇(2)の「郊は天子に止り、社は諸侯に止り、、、」文の上にあるべしと疑う。集解の郝懿行は、次の礼論篇(6)の「尊を尊として親を親とするの義至るなり」の下にあるべしと疑う。

いわゆる三年の喪の儀礼に対する正当化が行われる。荀子は父母の死に当たって子が三年の喪を行うことにとどまらず、君主の死に当たっても家臣が三年の喪に服することを当然とみなす。荀子においては、人間は父母に仕える孝だけではなく、君主に仕える忠もまた必須の倫理である。ゆえに、君主の死を悼む喪もまた最長の期間の礼をもってしなければならない、と考えるのであろう。上の訳文のうち父母の死への三年の喪を正当化する前半部分は、『礼記』三年問篇とほぼ同一である。しかし民の父母たる君主の死への三年の喪を正当化する後半部分は、『礼記』にはない。

上にあるとおり、三年とは足掛け三年のことであって二十五月すなわち二年と一ヶ月の間父母あるいは君主の喪に服することを言う。『論語』には、孔子が古記録への解釈として、いにしえの君主は先君が崩御したら三年の喪に服し、その間全ての政務を宰相にあずけて謹慎した、という言葉がある(憲問篇「子張曰く、書に云う、高宗、諒陰三年言わずとは、何の謂いぞや、、、」)。孟子もまた、滕(とう)の文公に薦めて先君の死に際して三年の喪を行わせたのであった(滕文公章句上)。荀子は、孔子・孟子からさらにエスカレートさせる。三年の喪は父母の喪に対して行うだけでなく、君主の喪に対してすら家臣が行うものにまで拡張する。荀子の国家重視の視点が彼の喪礼にも表れている、と考えるべきであろう。

だが君主をはじめとする国家の統治者が父母への三年の喪に服することは、政務の停滞を必ず招くであろう。ましてや君主の喪に対して家臣が三年の喪に服するなど、外国に格好の付け入る隙を与える結果となって、その国を著しく傷つけることは必至であろう。荀子の理想的統一国家においては、真の意味での外国は想定されていない。聖王の支配に服する家臣と人民だけの世界であって、それに服しない者は個人であれ民族であれ犯罪者であって討伐の対象である。なので、一国の君主の支配に個人や外国が心から服従するいわれはない、という全うな現実の前に荀子の礼倫理を置くと、それは正当化できる倫理とはとても思えない。

すでに『論語』において孔子の弟子の宰我(さいが)は、君子が三年の喪を行うことは政治に弊害があるのではないか、と疑問を提出していた(陽貨篇「宰我問う、三年の喪は、期已に久し、、、」)。『孟子』においては、斉の宣王が孟子に対して三年は長すぎるので一年はどうか、と問うた(盡心章句上、三十九)。また孟子の勧めに従って三年の喪を断行しようとした滕の文公は、彼の重臣たちに当然ながら反対された。その重臣たちは、滕国の先君も魯国の先君も三年の喪を過去に行ったことはない、と言っている(滕文公章句上、二)。そもそも儒家の推奨する喪制は、中国文化のいにしえの時代において果たして本当に実施されていた古制であったのだろうか。疑うは、それは古文献の上に見られるだけの喪制であって実際に行われていたかどうかははなはだ怪しく、それを儒家は春秋戦国時代の国家秩序に対して空想的に「復興」させることを努力していたのではないだろうか。やがて儒家の後に続いて勃興した墨家が儒家の過剰な喪礼を激しく批判攻撃したので、儒家は墨家に反論するために三年の喪を守ることにますます固執するようになったのかもしれない。少なくとも、滕国の重臣の言葉を見るならば、君主の三年の喪は戦国時代にはすでになじみの薄い儀式でしかなかった。

漢代に儒家思想が中華帝国の公式思想となった後は、この過剰なまでの死者に仕える礼が次第に天下の士にもてはやされるようになり、後漢時代には大流行した。三国志の群雄の一人である袁紹もまた、母と父の死において三年の喪を実行したと伝えられている。しかし儒家思想が勝利して正義とされた漢代以降と、まだ儒家思想が諸子百家の一であるにすぎない戦国時代とでは、三年の喪への人々の受け止め方は全く違っていたはずである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です