Author Archives: 河南殷人

成相篇第二十五(3)

「お国作りの、労働歌。
いにしえの、聖王たちこそ我が手本。堯(ぎょう)・舜(しゅん)(注1)賢者を尊んで、己は低くへりくだる。
許由(きょゆう)・善巻(ぜんけん)義の人で、王者の利すら欲しがらぬ、その行いはいと高し。
「堯は、賢者に禅譲し、
政治を民のためにした。天下を利して皆愛し、恩徳均しく施した。
上下の身分を区分けして、貴賤の位を規定して、君臣の差を確定す。
「堯は、能ある舜を得て、
帝位をこれに授くなり。舜堯帝とめぐり合い、尚賢・推徳、天下治まる。
たとい賢聖ありとても、時のめぐりが悪ければ、誰にも知られぬこともある。
「堯は、譲りて徳とせず、
舜は譲られ辞退せず。堯は二女をば降嫁させ、舜に政治を一任す。
ああ大人(たいじん)なり帝舜よ、帝位を継ぎて南面し、万物よろしく治めらる。
「舜は、己の天下をば、
有徳の禹(う)へとまた授く。徳を尊び賢を推し、身分秩序を失わず、
罪人の子でも抜擢し、己の子でもひいきせず(注2)、位を賢者に手渡した。
「堯は徳あり、天下のために、
心と力を費やした。干戈(かんか)用いることもなく、三苗(さんびょう)の族服従す。
舜を甽畝(けんぽ)(注3)に見出して、これに天下を一任し、わが身をようやく休ませた。
「后稷(こうしょく)農事をつかさどり、
五穀を豊かに実らせた。夔(き)は楽正(がくせい)に就任し、鳥獣すらも喜んだ。
契(せつ)は司徒(しと)にて民教え、民孝弟を学び取り、有徳の者を尊んだ。
「禹は大功あり、天下から、
洪水のもとを取り除き、民の大害取り去って、邪臣共工(きょうこう)追い出した。
北で九河を切り開き、十二渚(しょ。中州)砕いて流れを通し、三江(注4)もまた鎮まった。
「その禹は、天下を九州に、
分けて国制制定し、我が身を労して苦しんで、天下のために働いた。
益(えき)に皋陶(こうよう)、橫革(こうかく)、直成(ちょくせい)、禹を輔弼した臣なりき。
「契(せつ)玄王の、子は昭明(しょうめい)、
はじめは砥石(しせき)の地にいたが、後に遷って商(しょう)に居す。
十有四世経た末に、生まれた人が天乙(てんいつ)で、これぞ成湯(せいとう)、殷祖なり。
「天乙湯の、業績は、
人材論考抜擢が、すべて道理によく適い、王位はこれまた卞隨(べんずい)と、牟光(むこう)に譲らんと望まれた。
お国の基礎を築くには、これらむかしの賢聖に、拠れば必ずまちがいない。」


(注1)以下、歌に表れる中国の神話的聖王たちとその関係人物について説明する。堯は五帝の一で、いにしえの聖王。舜を見出してこれに二人の娘を与えて王子たちを仕えさせ、政治を一任した。死後、舜に位を禅譲した。舜は五帝の一で、凶悪な父と弟から命を狙われたがこれに耐えて、堯の下で政治を行いその死後に禅譲を受けた聖王。舜もまた、その死後に禹に位を禅譲した。許由・善卷は隠者で、『荘子』譲王篇によると堯は許由に天下を譲ろうとしたが許由は受けず、舜は善卷に天下を譲ろうとしたがやはり善卷は受けなかったという。三苗は、堯舜の時代に長江流域にあった民族。舜がこれを討ち、西方の三危(さんき)の地に追放したという。現代の苗(ミャオ)族の祖先であるという説もある。后稷は棄(き)のことで、堯舜に仕えて農事を担当した。その職名が后稷であり、棄の通称となった。后稷は周王室の祖である。夔は堯舜に仕えて典楽(てんがく)に任じられ、音楽を担当した。契は堯舜に仕えて司徒に任じられ、人民の倫理教化を担当した。契は殷王室の祖であり、玄王を追号された。益は堯舜に仕えて虞(ぐ)に任じられ、山林川沢の管理を担当した。禹とともに治水に当たって功績があり、禹はその死後に益に位を譲ったが、人民が禹の子の啓(けい)に就いたので益は位を啓に譲ったという(孟子萬章章句上、六を参照)。禹は堯舜の時代に治水に失敗して舜によって処刑された鲧(こん)の子で、舜はその子の禹に改めて治水を命じ、禹は中華の土地に水路を引いて洪水を鎮めることに成功した。その功績により、舜は禹に位を禅譲した。禹の後をその子の啓が継いで、世襲の夏王朝が始まった。皋陶は堯舜に仕えて士(し)に任じられ、訴訟・刑罰を担当した。禹は最初皋陶にその位を譲ろうとしたが、皋陶は先に死んでしまった。共工は堯に仕えていたが堯に嫌われ、北辺の幽州に追放された。橫革・直成(真窺)は『呂氏春秋』に表れる禹を補佐した人物であるが、詳細不明。成湯(湯)は契の子孫で、名は乙(いつ)。歌では天乙とされている。夏王朝の桀を倒して殷王朝の開祖となった。昭明は、契の子。卞隨・牟光について、楊注は『荘子』譲王篇の「湯は天下を卞隨・務光に譲るも、二人受けず。皆投水して死す」を挙げて、「牟」と「務」は同じ、と言う。すなわち卞隨・牟光(務光)は、湯が禅譲しようとしたがこれを受けずに入水自殺した人物という。
(注2)原文読み下し「外に仇を避けず、內に親に阿らず」。上に書いたとおり禹は舜によって処刑された鲧(こん)の子であったが、舜はこれを抜擢して治水を行わせた。舜には子の商均(しょうきん)がいたが愚か者であり、その死後、位は禹に禅譲した。
(注3)孟子に、「舜は畎畒の中より発す」(告子章句下、十五)とある。「甽」は「畎」の古字。畎畒とは田のみぞとうねのことで、卑賤な農夫の身分を指す用語。
(注4)増注は韋昭を引いて、松江・銭塘江・浦陽江と言う。新釈は明確でないと言う。
《読み下し》
請う相(そう)を成して、聖王に道(よ)らん、堯舜賢を尚(とうと)び身辭讓(じじょう)し、許由(きょゆう)・善卷(ぜんけん)、義を重んじ利を輕んじ、行顯明(けんめい)なり。
堯賢に讓りて、以て民の爲にし、氾利(はんり)・兼愛(けんあい)德施(とくし)均(ひと)しく、上下を辨治して、貴賤等有り、君臣を明(あきら)かにす。
堯は能に授け、舜は時に遇い、賢を尚び德を推して天下治まる、賢聖有りと雖も、適(たまたま)世に遇わずんば、孰(たれ)か之を知らん。
堯德とせず、舜辭せず、妻(めあ)わすに二女を以てし任ずるに事を以てす、大人(たいじん)なる哉(かな)舜や、南面して立ちて、萬物備わる。
舜禹に授くるに、天下を以てし、得を尚び賢を推して序を失わず、外に仇を避けず、內に親(しん)に阿(おもね)らず、賢者に予(あた)う。
[禹]心力を勞し(注5)、堯德有り、干戈(かんか)用いずして三苗(さんびょう)服し、舜を甽畝(けんぽ)に舉(あ)げ、之に天下を任じて、身休息す。
后稷(こうしょく)を得て、五穀殖(しょく)し、夔(き)樂正(がくせい)と爲りて鳥獸服し、契(せつ)司徒と爲りて、民孝弟を知り、有德を尊ぶ。
禹功有り、鴻(こう)を抑下し、民害を辟除(へきじょ)して共工(きょうこう)を逐い、北九河を決し、十二渚(しょ)を通じ、三江を疏(そ)す。
禹土を傅(し)きて(注6)、天下を平かにし、躬(み)親(みず)から民の爲にして勞苦を行い、益(えき)・皋陶(こうよう)、橫革(こうかく)・直成(ちょくせい)(注7)を得て、輔と爲す(注8)
契玄王(せつげんおう)、昭明(せいめい)を生ず、砥石(しせき)に居り商(しょう)に遷る、十有四世にして、乃ち天乙(てんいつ)有り、是れ成湯(せいとう)なり。
天乙湯(てんいつとう)、論舉(ろんきょ)當(あた)り、身卞隨(べんずい)と牟光(ぼうこう)とに讓る、古賢聖に道(よ)れば、基必ず張る(注9)

《原文》
請成相、道聖王、堯舜尚賢身辭讓、許由善卷、重義輕利、行顯明。
堯讓賢、以爲民、氾利兼愛德施均、辨治上下、貴賤有等、明君臣。
堯授能、舜遇時、尚賢推德天下治、雖有聖賢、適不遇世、孰知之。
堯不德、舜不辭、妻以二女任以事、大人哉舜、南面而立、萬物備。
舜授禹、以天下、尚得推賢不失序、外不避仇、內不阿親、賢者予。
[禹]勞心力、堯有德、干戈不用三苗服、舉舜甽畝、任之天下、身休息。
得后稷、五穀殖、夔爲樂正鳥獸服、契為司徒、民知孝弟、尊有德。
禹有功、抑下鴻、辟除民害逐共工、北決九河、通十二渚、疏三江。
禹傅土、平天下、躬親為民行勞苦、得益皋陶、橫革直成、爲輔。
契玄王、生昭明、居於砥石遷於商、十有四世、乃有天乙、是成湯。
天乙湯、論舉當、身讓卞隨舉牟光、道古賢聖、基必張。

※[]内は原文にある字を削る。


(注5)原文「禹勞心力」。一字余分であり、荻生徂徠を引く増注、および王引之を引く集解は、「心」字を削るべきと言う。新釈の藤井専英氏は劉師培の説を採用して、「禹」字を削る。言うは、この句は「堯有德、勞心力(堯は徳有りて、心力を労す)」が本来の形で、後の「禹傅土、平天下」と対文となるべきものである。この一行はもっぱら堯舜の功績を述べたものであって禹は関係がないので、新釈の解釈は有力であると考える。
(注6)楊注は、「傅」は読んで「敷」となす、と言う。しく。
(注7)増注の久保愛、集解の盧文弨はともに『呂氏春秋』の「陶・化益・真窺・横革・之交の五人を得て、禹を佐(たす)く」を引いて、化益は伯益のことであり、真窺は直成のことである、と言う。これで正しいと思われる。ただし、直成(真窺)・横革は禹に仕えた人物であることは確かであるが、その事績はよく分からない。
(注8)集解の王念孫は、一字を脱す、と言う。藤井専英氏は、「為(爲)」は「之交」の脱字と転訛である可能性を挙げる。之交は上の呂氏春秋において禹に仕えた家臣の一人である。
(注9)猪飼補注は、四字を脱する、と注する。確かに、最後の行は四字少ない。だが、それらの字を推測する術はない。もしかしたら最後の行を破格にして一句少なくした技巧であるのかもしれず、このままでも押韻的には歌は成立している。

第三歌は、堯・舜・禹・湯王の聖王たちの業績を称えた中華文明建国の叙事詩となっている。述べられているエピソードはほぼ孟子や史記のものと同じであるが、この歌では『荘子』に表れる隠者たちもまた有徳の者として称えられているところが違っている。しかし荀子が『荘子』に描かれているような隠者を、どうして称えたのであろうか。堯・舜・湯といった聖王たちが己の位に固執せず、有徳の者に後を継がせようと望んでいたことを強調するために、道家が称える隠者たちにご登場いただいたのであろうか。正論篇で検討したように荀子は世襲を肯定せず有徳有能の者が君主の座に就くことを正義とするので、この歌ではひたすら禅譲伝説を強調したのかもしれない。しかしそこで隠者たちを出したのは、まずかったのではないか。隠者たちは君主の位を欲しいとは思わなかったので辞退したのであるが、君主の位は富貴の頂点であって誰もが欲しがる地位である、ということは荀子の統治論の要にあって、ゆえに墨子を批判したのではなかったのであろうか。隠者たちの存在は、宋鈃(そうけい)の人間寡欲説に有利であって、荀子の性悪説に不利な反証となるであろう。

いにしえの黄金時代の神話を後世の人間のための模範として信じるのが、儒家のスタンスであった。聖王たちの偉大な政治も、堯舜の禅譲伝説も、もとより神話にすぎない。しかし後世の儒家は、これらを政治の理想として真剣に論じたのであった。一方わが日本では、中華文明のように神話時代の登場人物を倫理的模範として尊重する文化は成立しなかった。アマテラスオオミカミや神武天皇を神社に祀ることはするが、彼らの生きざまや統治方法が後世の模範とはならなかった。よってわが国の倫理的模範のあり方は、中国やインドから輸入した形を採用するのが常であった。模範的人間像の最古の起源は、釈迦や孔子のような外国人に求められることになった。

成相篇第二十五(4)

「一言、言わせてもらいましょう。
世が乱れ善を憎むる末世に、これを止めることもせず、
賢者をねたんで忌み嫌い、姦人使い続けたら、なんで滅びずに済みましょう。
「ああこりゃひどい、世も末だ。
まずは歪んだ道を往き、聖知を用いず愚と謀り、
前の車が突っ転ぶ、様をその目で見ながらも、いまだ反省しないとは、いつになったら覚めるのか。
「反省もせず、覚めもせず、
間近の災難に目をつぶり、迷って指針も見失い、上下の秩序もおろそかに、
下の忠義の進言も、上に達することはなく、耳目を覆い戸を塞ぐ。
「君への門戸が、塞がれば、
政治は惑うばかりなり。闇夜が続き行き惑い、是非もひっくり返るだろう。
徒党を組んだ小人が、揃って君を欺いて、正直の士は憎まれる。
「正義の道を、憎むから、
心に基準などありゃしない。君の曲がった御心を、すでに諫める人もなく、
我一人だけ美とすれば、身が安泰のわけもない。
「自戒すること、知らざれば、
どうせ何度も繰り返す。諫められても聞きもせず、過ち重ねて悔いもせぬ。
さすれば讒夫(ざんぷ)の出番なり、奴らは甘言に事欠かぬ、へつらい媚びて、嘘をつく。
「へつらう奴の、悪行は、
疲れて止むことすら知らぬ。君寵争い賢者をねたみ、これをあくまで罵倒する。
功績ねたんで賢者をけなし、徒党を組んで主君をおおう。
「上の耳目が、塞がれば、
輔弼の臣もいなくなる。代わりに昇る側近は、讒夫の輩ばかりなり。
もはや君主の手に負えず、郭公長夫(かくこうちょうふ)(注1)の災難で、厲王(れいおう)(注2)が彘(てい)に流された、末路が待っているだろう。
「周の幽王・厲王が、
敗れて死んだ原因は、諫めを聴かず忠義の人を、害したゆえに他ならず。
ああなぜ我は、時を得ず、こんな乱世に生まれたか。
「忠義の道を、遂げようと、
我が諫言申しても、君は取り挙ぐこともなし。
やがて伍子胥(ごししょ)(注3)の後を追い、この身に凶事をたまわりて、進言諫言聴かれずに、属鏤(しょくる)の剣で自害して、首、江中に棄てられん。
「かつての人の、失政を、
鑑に自ら戒めば、何が治乱のもとであり、何が是であり非であるか、よくよく分かることでしょう。
これにて終わる、労働歌、その意お悟り願います。」


(注1)集解の盧文弨は、郭公長父とは『呂氏春秋』にある虢公長父のことであると言う。増注は加えて古谷鬲を引用して『竹書紀年』厲王三年に虢公長父が淮夷(わいい。淮水流域の蛮族)を伐った記録を指摘する。虢公長父とは、虢(かく)国の諸侯である長父という名の家臣であろう。厲王の佞臣ということである。
(注2)歌に出てくる厲王・幽王をまとめて解説する。厲王は、いわゆる西周(BC1122?-BC770)後期の王で、史記によれば暴虐奢侈傲慢であり、巫(ふ。神に仕える神職)を用いて民を監察し、王を誹謗する民を報告させて殺したという。家臣の召公がその悪政を諫めても、聞かなかった。耐えかねた人民が蜂起して王を襲い、王は彘(てい)に逃亡して、そこで死んだ。その後は家臣の召公(しょうこう)と周公(しゅうこう。文王の子の周公とは別人)の両名が一時的に政治を執り、これを共和(きょうわ)と呼んだ。厲王の太子は召公によって育てられて、成長すると王位に就けられた。これが宣王であり、宣王の時代に周王朝は再び権威を取り戻した。幽王はその宣王の子で、西周最後の王。史記によれば襃姒(ほうじ)という名の妃を寵愛したが、襃姒は笑うことを好まなかった。あるとき有事に備えて諸侯を都に呼ぶためののろしを間違って点火し、駆け付けた諸侯が間違いだったと知って呆然とした様を見て、襃姒が大いに笑った。幽王はそれを喜び、その後理由もなくのろしを挙げ続けて諸侯をだまし、襃姒に媚びた。諸侯はついに王ののろしを信じなくなった。幽王を恨んだ家臣が蛮族の西夷(せいい)・犬戎(けんじゅう)を連れて都を襲った。幽王はのろしを挙げたが、諸侯はもはや誰も駆け付けなかった。幽王は、捕らわれて殺された。その後諸侯は、襃姒の子ではない幽王の太子を王位に就けた。平王である。平王は西周王朝の拠点であった関中盆地が蛮族に蹂躙されたので、これを避けて東の洛陽に遷都した。歴史学的には、この時から後の周王朝を東周(BC770-BC255)と呼び、この時から春秋時代が始まったとみなされる。
(注3)伍子胥は、成相篇(1)参照。呉王夫差は伍子胥に属鏤の剣を賜って、これを自害させた。
《読み下し》
願わくは辭を陳ぜん(注4)、世亂れて善を惡(にく)むも此を治めず、隱諱(いんき)して賢を疾(ねた)み、良(なが)く姦詐を由(もち)うれば(注5)、災(し)(注6)無きこと鮮(すくな)し。
患難なる哉(かな)、阪(はん)(注7)を先と爲す(注8)、聖知を用いず愚者と謀り、前車已に覆りて、後未だ更(あらた)むるを知らず、何ぞ覺(さと)る時あらん。
覺悟せず、苦を知らず、迷惑して指(し)を失い上下を易(か)え、中(ちゅう)(注9)上に達せず、耳目を蒙揜(ぼうえん)して、門戶を塞ぐ。
門戶塞がりて、大いに迷惑し、悖亂(はいらん)・昏莫(こんぼ)終極せず、是非反易し、比周して上を欺き、正直(せいちょく)を惡む。
正直を惡みて、心に度無く、邪枉(じゃおう)・辟回(へきかい)にして道途を失うも、已に尤(とが)むる人無く、我獨り自ら美とす、豈(あ)に[獨](注10)故無からんや。
戒むることを知らざれば、後に必ず有(また)あり(注11)、恨後(こんふく)(注12)過を遂げて肯て悔いざれば、讒夫(ざんぷ)多く進み、言語を反覆して、詐態(さたい)を生ず。
人之れ態(たい)(注13)にして、備(はい)することを(注14)如(し)らずして(注15)、寵を爭い賢を嫉みて惡忌(おき)を利(むさぼ)り(注16)、功を妬み賢を毀(こぼ)ち、下は黨與(とうよ)を歛(あつ)め、上は蔽匿(へいとく)す(注17)
上壅蔽(ようへい)すれば、輔埶(ほせい)を失い、讒夫を任用し制すること能わず、孰公長父(かくこうちょうふ)(注18)の難に、厲王(れいおう)彘(てい)に流さる。
周の幽・厲、敗るる所以は、規諫を聽かず忠を是れ害すればなり、嗟(ああ)我れ何人ぞ、獨り時に遇わず、亂世に當(あた)る。
(兪樾に従って改める:)衷を對(と)げん(注19)(注20)と欲するも、言從われず、恐らくは子胥(ししょ)と爲りて身凶に離(あ)い(注21)、進諫聽かれず、剄(けい)するに獨鹿(どくろく)(注22)を而(もっ)てして(注23)、之を江に棄てられん。
往事を觀て、以て自ら戒めば、治亂・是非亦識る可し、成相に託して、以て意を喻(さと)す(注24)

《原文》
願陳辭、世亂惡善不此治、隱諱疾賢、良由姦詐、鮮無災。
患難哉、阪爲先、聖知不用愚者謀、前車已覆、後未知更、何覺時。
不覺悟、不知苦、迷惑失指易上下、中不上達、蒙揜耳目、塞門戶。
門戶塞、大迷惑、悖亂昏莫不終極、是非反易、比周欺上、惡正直。
正直惡、心無度、邪枉辟回失道途、已無郵人、我獨自美、豈[獨]無故。
不知戒、後必有、恨後遂過不肯悔、讒夫多進、反覆言語、生詐態。
人之態、不如備、爭寵嫉賢利惡忌、妒功毀賢、下歛黨與、上蔽匿。
上壅蔽、失輔埶、任用讒夫不能制、孰公長父之難、厲王流於彘。
周幽厲、所以敗、不聽規諫忠是害、嗟我何人、獨不遇時、當亂世。
欲衷對、言不從、恐爲子胥身離凶、進諫不聽、剄而獨鹿、棄之江。
觀往事、以自戒、治亂是非亦可識、託於成相、以喻意。

※[]内は原文にある字を削る。


(注4)増注の久保愛および集解の王引之は、「願陳辭」の下に三字の脱落を指摘する。しかし私が思うに、冒頭の三字が欠落していると考えたほうがよいのではないか。古代の文書は竹簡に書かれていたが、竹簡を編集した際に前の札に冒頭の三字が書かれていて、この札が散逸したことがありえたのではないかと思う。第一行の韻はお決まりの「請成相」の句とは合わないので、もしあったとすれば別の形の起句であっただろう。
(注5)楊注はここで「長く姦詐を用いる」と注する。よって、「良」は「長」の意であり、「由」は「用」の意である。集解の王念孫は「良」字は誤りとみなすが、新釈は広雅釈詁を引いて「良」字に「長」の意があることを指摘している。
(注6)増注は、「災の叶音(きょうおん。古代の韻文を解釈するとき、後世の韻と合わないときに発音を変えて読むこと。協音とも書く)は菑」と注する。すなわち成相篇(1)注6と同様に、「災(し)」と読むべきであろう。
(注7)楊注は「阪は反と同じ」と言う。しかし新釈の藤井専英氏は、「阪」をかたむくの意に取る。「下文に『前車已覆』『後未知更』と続くのに照らして、傾斜した悪路と見るのが妥当であろう」と言う。新釈に従う。
(注8)「先」では韻が合わない。集解の郝懿行は「先」字の先古音は「西」であり、韻が合うと注する。王念孫は「先」は疑うはまさに「之」に作るべしと言う。増注は桃井源蔵を引いて、ここは「阪先爲」に作るべし、と言う。選定が難しいが、郝懿行の意見に従って「先」字のままにしておく。
(注9)宋本・元本ともに「中」を「忠」に作る。増注本はこれらに従って「忠」字に作る。「忠」の意味で取ってよいと思われる。
(注10)楊注或説は、「下の獨字無からん」と言い、増注・集解の盧文弨は楊注或説に賛同する。これらに従い「獨」字を衍字として削る。
(注11)増注、集解の盧文弨ともに「有」は読んで「又」と曰う、と言う。
(注12)集解の王念孫は、「恨」は「很」と同じで、「後」は「復」の誤りでまた「愎」と同じと言う。これに従う。「很愎」を王念孫は「諫めて従わず、以て其の過を遂ぐるなり」と言う。
(注13)「態」はおもねりへつらうこと。臣道篇(1)の態臣を参照。
(注14)猪飼補注は「備」はまさに「憊(はい)」に作るべし、と言う。これに従いたい。疲れること。
(注15)楊注は、「如」はまさに「知」となすべし、と言う。これに従う。
(注16)「利」について新釈は「むさぼる」と読んで、賢者を忌み嫌うことを貪るの意に解し、王念孫の「利は相字の誤り」の説を取らない。新釈に従う。
(注17)「匿(とく)」では「態」「備(または憊)」「忌」と韻が合わない。増注は「匿の叶は女利の反」と注し、ジと読ませているが、その根拠は私には分からない。
(注18)楊注或説は、「孰」はあるいは「郭」となす、と言う。集解の盧文弨は、「郭」と「虢」は古字通ず、と言う。
(注19)集解の兪樾は、「對(対)は遂なり」と言う。これに従う。
(注20)原文「欲衷對」。このままでは韻が合わないので、集解の郝懿行は「對(対)」は「封」字の誤りを疑う。兪樾は、字を並び替えて「欲對衷」とするべきと言う。増注も朱熹の同意見を引く。後者の説を取って、字を並び替えた形で読み下す。
(注21)増注は、「離」は「遇」なり、と言う。
(注22)楊注は、「獨鹿は屬鏤と同じ」と言う。属鏤(屬鏤、しょくる)とは、呉王夫差が伍子胥に賜って自害を命じた剣の名。
(注23)集解の王念孫は、「而」は「以」と同じ、と言う。増注本は「以」字を採っている。
(注24)荻生徂徠は、四字の脱落を指摘する。だが前の第三歌とも共通した末尾行の脱落であり、これも破格の技巧であると考えたほうがよいのかもしれない。

第四歌は、対照的に暴君闇君の下の乱世を述べる。周の厲王・幽王は国を傾け滅ぼした君主として、すこぶる評判が悪い。しかし君主だけが原因で国が滅びたわけでは、なかっただろう。西周時代から東周時代の移行期にはいわゆる中原地方の経済力と文化水準が上昇して、諸侯国が独自に領国経営を始める機運が起こった。まず中原地方の中央に位置する鄭国が強大となり、続いて斉、晋の両国が覇権を握り、非中華諸国の楚国・呉国・越国までが中華文明の刺激を受けて覇権争いに参入するようになった。諸侯分立の春秋時代への移行は、社会の構造的な変化が背景にあって、結果として周王朝の統一が失われたのであろう。それは、わが国の歴史が戦国時代に突入した原因と、同じ歴史的経過であったに違いない。わが国の戦国時代の到来を、応仁の乱を招いた足利義政の失政だけに求めることなどはナンセンスである。むしろ地方の領主たちの経済力と文化水準が上昇して室町幕府の統制に従わなくなったことが、約1世紀の戦乱の時代の根本的な原因であった。中華世界では始皇帝が武力によって諸国分立時代を終わらせたように、日本の分裂時代もまたそれを終わらせたのは信長・秀吉・家康の武力であった。

成相篇第二十五(5)

「お国づくりの、労働歌。
治世の筋道、申しましょう。君主の道は五つあり。とてもかんたん、わかりやすい。
君主がこれを守るなら、臣民治まり、国栄う。
「ひとつとせ、臣下に無駄飯食わせずに、
農事勧めて節約すれば、余りあるほど財を得る。
すべての事案は上に挙げ、汚吏の勝手にさせなけりゃ、民の力は結集す。
「ふたつとせ、臣下の禄は分相応、
下の者なら職分に、真面目に尽くせば生きていけ、そこから爵服だんだんと、上げて俸禄厚くする。
下に与える褒賞は、家臣が勝手に行わず、君主のもとから降りるなら、富貴は私事で枉げられぬ。
「みっつとせ、君主の法を明確に、
据えたら論議に筋が立つ。法度規則を定めたら、民はなすべきことを知る。
臣下の論功行賞に、規則作ってその他に、貴賤を得る道封じたら、王にへつらう者消える。
「よっつとせ、君主の法が定まれば、
禁令犯す者もなく、民は教化を喜んで、君主の地位は揺るぎない。
君主の道に従えば、富貴を得るが逆らえば、恥辱を受けることとなる、王に従うよりはなし。
「いつつとせ、刑が道理に沿うならば、
民は分限をよく守り、臣下に刑の大権の、勝手な使用を封じれば、私門の権勢弱くなる。
罰行うにも規則あり、勝手に軽重させぬなら、君主の権威は分かれない。
「国の基盤の、置きどころ。
君主明なら幸あろう。君主論議を好むなら、臣下必ず熟慮する。
さきの五つの君道を、しっかと修めて行えば、国は万事がうまくいき、君主の権威ゆるぎなし。
「君主の政治の、聴き方は、
まず実情をよく知るべし。論功行賞刑罰は、慎重の上に慎重に、考えこれを施せば、
功績明らかなる者も、功績隠れている者も、皆が正しく称えられ、民は誠に帰すだろう。
「言葉に節度を、持たすには、
その内実を考えよ。うそとまことを選り分けて、賞罰必ず当たるなら、
下は上をば欺かず、みな正直に言上し、みな明白になるだろう。
「君主の知徳が、全けりゃ、
遠き隠れた事象すら、君主は居ながら見て通す、法無きところに法を見て、見えざるものを理解する。
君主の耳目が全けりゃ、百官法令つつしんで、あえて勝手を行わず。
「君主がひとたび、令出せば、
臣下の行為に規律あり、百官つつしみ順守して、勝手な解釈なされない。
民の私的な陳情は、もはや通じる術もなく、ただひたすらに課せられた、職務に精励するしかない。
「臣下は、つつしみ従順に、
君主は万事に判断す。よく正しく見て考えりゃ、論議が乱れることはない。
こうして天下を治めたら、後々の世まで末永く、政治の手本となるでしょう。」
《読み下し》
請う相を成して、治方を言わん、君論五有り約以(にして)(注1)明なり、君謹んで之を守れば、下皆平正にして、國乃(すなわ)ち昌(さか)んなり。
臣下の職は、游食すること莫く、本を務め用を節すれば財極まること無く、事業上に聽かれて、相使うることを得ること莫ければ、民力を一にす。
其の職を守れば、衣食足り、厚薄等有りて爵服を明(あきら)かにし、利は往(ただ)(注2)上を卬(あお)ぎて、擅(ほしいまま)に與(あた)うることを得ること莫くんば、孰(たれ)か得を私せん。
君の法明かなれば、論に常有り、表儀旣に設くれば民(たみ)方を知り、進退律有りて、貴賤を得ること莫ければ、孰か王に私せん。
君の法儀(ぎ)なれば、禁爲さず、敎を說(よろこ)ばざること莫く名移らず、之を脩むる者は榮え、之に離(そむ)く者は辱めらる、孰か它(た)を師とせん。
刑陳(みち)(注3)に稱(かな)えば、其の銀(ぎん)(注4)を守り、下用うることを得ざれば私門を輕くす、罪禍律有りて、輕重を得ること莫ければ、威分かれず。
請う祺(き)(注5)を牧(おさ)めん、明ならば基(き)(注5)有り、主論議を好めば必ず善く謀り、五聽脩領(しゅうりょう)すれば、續(こと)(注6)を理(おさ)めざること莫くんば、主執持(しゅうじ)す(注7)
聽の經(みち)は、其の請(じょう)(注8)を明かにせよ、參伍明謹して賞刑を施せば、顯(あらわ)れたる者必ず得て、隱れたる者も復(また)顯われ、民誠に反(かえ)る。
言に節有らしむるには、其の實を稽(かんが)えよ、信・誕以て分れ賞・罰必すれば、下上を欺かず、皆情を以て言い、明なること日の如し。
上通利なれば、隱遠至る、法を不法に觀て不視に見る、耳目旣に顯(けん)なれば、吏法令を敬(つつし)みて、敢て恣(ほしいまま)にすること莫し。
君の敎出ずれば、行に律有り、吏謹んで之を將(おこな)いて(注9)鈹滑(しゅうかつ)(注10)すること無く、下私請せず、各(おのおの)宜しき(盧文弨に従い補う:)所を(注11)以てして、巧拙を舍(お)く。
臣は謹脩(きんじゅん)(注12)し、君は變を制す、公に察して善く思えば論亂れず、以て天下を治むれば、後世之に法(のっと)りて、律貫と成さん。

《原文》
請成相、言治方、君論有五約以明、君謹守之、下皆平正、國乃昌。
臣下職、莫游食、務本節用財無極、事業聽上、莫得相使、一民力。
守其職、足衣食、厚薄有等明爵服、利往卬上、莫得擅與、孰私得。
君法明、論有常、表儀既設民知方、進退有律、莫得貴賤、孰私王。
君法儀、禁不為、莫不說教名不移、脩之者榮、離之者辱、孰它師。
刑稱陳、守其銀、下不得用輕私門、罪禍有律、莫得輕重、威不分。
請牧祺、明有基、主好論議必善謀、五聽脩領、莫不理續、主執持。
聽之經、明其請、參伍明謹施賞刑、顯者必得、隱者復顯、民反誠。
言有節、稽其實、信誕以分賞罰必、下不欺上、皆以情言、明如日。
上通利、隱遠至、觀法不法見不視、耳目既顯、吏敬法令、莫敢恣。
君教出、行有律、吏謹將之無鈹滑、下不私請、各以宜、舍巧拙。
臣謹脩、君制變、公察善思論不亂、以治天下、後世法之、成律貫。

※下線は原文にない字を補う。


(注1)新釈の藤井専英氏は、以は「而」に通ずると注する。これに従って読む。
(注2)集解の王引之は、「往」はまさに「佳」となすべく、「佳」は「唯」(あるいは惟)の古字なり、と言う。これに従う。
(注3)集解の王念孫は、「陳」は「道」なり、と言う。
(注4)楊注は、「銀は垠なり」と言う。垠(ぎん)は、境界。
(注5)原文「請牧祺、明有基」。猪飼補注は桃井源蔵(白鹿)を引いて、まさに「請牧基、明有祺」に作るべし、と言う。集解の兪樾は成相篇第一歌の「請牧基、賢者思(請う基を牧(おさ)めん、賢者を思え)」を参照して、ここは「請牧基、明有祺」に作るべきであって伝写者が両字を転倒したのみ、と言う。これらに従い、字を入れ替えて解釈する。
(注6)集解の王念孫は、「續」はまさに「積」となすべく、積は事なり、と言う。これに従う。
(注7)原文「主執持」。三説の解釈が提出されている。楊注は、「主自ら此の道を執持し、権をして下に帰せしめず」と言う。藤井専英氏は楊注に従い、「君主は自ら権勢を執持することとなる」と訳す。陶鴻慶は、「執」は「埶」の誤字とみなす。「埶」はすなわち勢のことである。金谷治氏は陶説を採る。集解の王念孫は、「主執持」はまさに「孰主持」すなわち「孰(たれ)か主持せん」となすべし、と言う。漢文体系は王説を採り、「政務ノ一二人ノ手に帰スルコトナキヲイフナリ」と注する。楊注と陶説とは両者の大意変わらず、王説はこの歌の上文の「孰か得を私せん」、「孰か王に私せん」と同じ意味であると解釈しようとしている。原文を変えない楊注で解釈しておく。
(注8)楊注は、「請」はまさに「情」となすべし、と言う。
(注9)増注は、「將」は「行」なり、と言う。おこなう。
(注10)正名篇(2)注11を参照。そこにある「滑・鈹」と同じ意味である。正名篇に従って、「鈹」は「鈒(しゅう)」の誤字とみなすことにする。「鈒滑」はざらざらした感触となめらかな感触の意であるが、ここでは布が縮んだ状態と伸びた状態を指して、法規を伸び縮みして解釈することの比喩。
(注11)明らかに一字足りない。集解の盧文弨の説に従い、「所」字を補う。
(注12)集解の王念孫は、「脩」はまさに「循」となすべし、と言う。隷書では「循」・「脩」の両字は間違われやすく、上古音に従えば「循」・「變(変)」・「亂(乱)」・「貫」字が韻をなすからである。いちおうこれに従っておく。

最後の歌は、荀子の統治論に沿った内容となっている。堯問篇末尾の荀子賛は荀子学派の末流の誰かが書いたものであろうが、そこで荀子は孔子に並ぶ聖人であったと称えられている。確かに荀子は一流の儒家思想家であったと同時に、音楽理論家でもあり、美文作りにも長けていた。その万能人ぶりは、孔子に近いものがあったと言うことができるかもしれない。

君子篇第二十四(全)

天子の配偶者は妻(さい。「ひとしい」の含意がある)と言わず后(こう。「あと」の含意がある)と言うのは、天子はそれに匹敵する人間を持たないことを示しているのである。天下の内において天子を客として迎える礼が規定されていないのは、やはり天子に匹敵する主人がいないことを示しているのである。天子は足で赴くことができるが、相者(しょうしゃ。天子の付き人)が先導するのを待って初めて進む。天子は口で話すことができるが、伝奏役の官吏が記録するのを待って始めて詔(みことのり)を告げる。天子は、見ようとせずとも天下が見えて、聴こうとせずとも天下のことが聞こえ、何も言わずとも天下に意思が明らかとなり、熟慮しようとせずとも天下のことを知り、動こうとせずとも天下に功績を立てる。それは、天子は天下のことについて全知全能の地位にあることを示しているのである。天子と言う存在は、権勢は最も重く、肉体は最も安楽で、心は最も楽しく、意志は決して曲げられることはなく、肉体は労苦をなさず、尊いことはこの上もない。『詩経』に、この言葉がある。:

普天の下、王土にあらざるはなく
率土の浜、王臣にあらざるはなし
(小雅、北山より)

天子とは、この言葉のとおり天下の保有者である。聖王が上にあって礼義による区分秩序が下に行われているならば、士・大夫は乱れた行いがなく、もろもろの官吏たちは職務怠慢がなく、一般人民は悪質で奇怪な風俗に染まらず盗賊の罪に走ることもなく、誰もあえて国の大禁を犯そうとはせず、天下は明らかに窃盗では富者となることはできないことを知り、他人を傷害しては天寿を全うできないことを知り、上の発布した禁令を犯せば安泰ではありえないことを知るのである。よって人々は正道に従えば望む富貴安楽を得る道が開け、正道に従わなければ憎む貧賤刑罰を得る結末に遇うだろう。このようであるから刑罰をほとんど行わずして天子の威令が天下に行き渡ることは水が上から下に流れるがごとくであり、世の人々はすべて、姦悪の事を行えばそれを隠したり逃げたりしても到底免れることができないと明らかに知るのであり、姦悪の事を行った者はすべて罪に服してもはや嘘を吐かないのである。『書経』に、この言葉がある。:

およそ人は、自ら罪を受けるものである。
(康誥篇より)

この言葉のとおり、聖王の世では罪人は自ら刑に服すのである。ゆえに、刑罰が罪と正しく対応していれば、威勢が生まれるであろう。だが刑罰が罪と対応していないならば、侮りを受けるであろう。爵位がその賢明の程度と正しく対応していれば、貴ばれるであろう。だが爵位がその賢明の程度と対応していないならば、賤しまれるであろう。いにしえの時代には、刑罰はその罪を越えることはなく、爵位はその徳を越えることはなかった。ゆえに父親を処刑したとしてもその子を家臣に取り立てることもあったし、兄を処刑したとしてもその弟を家臣に取り立てることもあった。刑罰が罪を越えることなく、爵位・褒賞が徳を越えることなく、規則を明確にして各人が誠実に働けば成功できたのであった。この下で善をなす者は励み、不善をなす者は阻まれ、刑罰をほとんど行わずして天子の威令が天下に行き渡ることは水が上から下に流れるがごとくであり、政令はきわめて明らかであって人々が教化されることは精妙の極致(注1)というべきであった。言い伝えに、「天子一人に幸福があれば、天下万民もまた幸福を受ける」とあるのは、このような統治なのである。だが乱世は、こうでない。刑罰は罪を越えて苛烈であり、爵位・褒賞は徳に不相応に過分であり、同族であるという理由で罪を問い、賢者を登用するときに先祖の功績で行う。一人に罪があれば、三族(注2)がすべて処刑されて、聖王の舜のような徳があったとしても、一律に処刑を免れない。これが、同族であるという理由で罪を問うやり方である。先祖にかつて賢人がいただけで子孫は必ず高い位に昇り、その行いが悪王の桀(けつ)・紂(ちゅう)のごとき者であったとしても、必ず多くの家臣を従えた貴人となる。これが、賢者を登用するときに先祖の功績で行うやり方である。同族であるという理由で罪を問い、賢者を登用するときに先祖の功績で行うならば、世の乱れを望まなくともどうして避けられるだろうか?『詩経』に、この言葉がある。:

百川は氾濫し、
山冢(やまやま)は崩れ落ち、
高岸は谷となり、
深谷は陵(おか)となる。
哀しや、今の人
なぜに懲(とど)めることなきか
(小雅、十月之交より)

このような惨状となるだろう。

人間の序列区分を聖王の制度に則るならば、貴ぶべきところを知るだろう。義の精神によって事業を制御するならば、利益のあるところを知るだろう。序列区分において貴ぶべきところを知れば、人間を養う道を知る。事業において利益あるところを知れば、行動すべき道を知る。この二者は是非の本源であって、得失の本源である。ゆえに成王があらゆる政治について周公に必ず聴き従ったのは、何が貴ばれるべきかをよく知っていたからである(注3)。桓公があらゆる国事について管仲を必ず用いたのは、何が事業において利益があるかをよく知っていたからである。呉国には伍子胥がいたがこれを用いることができずに国が亡んだのは、正道に背いて賢人を失ったからである。ゆえに聖人を尊んで重用する者は王者となり、賢人を尊んで重用する者は覇者となり、賢人を重用せずとも敬うことができる者は少なくとも国を存続させ、賢人を侮る者は亡ぶ。これは、古今にわたって一つである。賢明な者を貴んで能力ある者を登用し、貴賤の等級を定め親疎の区別を定め分けて長幼の序列を定めるのは、わが文明の建設者である先王の正道である。ゆえに賢明な者を貴んで能力ある者を登用するならば、君主は尊くなって人民は安楽となるだろう。貴賤の等級が定められているならば、法令は上から下に円滑に行われて滞らないであろう。親疎の区別が定められているならば、国からの施し物は応分に分配されて過たないであろう。長幼の序列が定められているならば、役務は序列に従って分配されて事業は速やかに行われ、休息することができるだろう。仁とは、この先王の正道により喜ぶことである。義とは、この先王の正道に従って区分を定めることである。節義とは、この先王の正道を守って生きて死することである。忠節とは、この先王の正道により身を厚く謹むことである。これら四つを兼ねてよく行うことができるならば、人として完備したと言える。人として完備しながらも自ら誇ることをせず、ただひたすらに自らを善とすることにはげむならば、これを聖人と言う。自ら誇らないゆえに、天下の人々と能力を争うようなことはせずに、しかもよく天下の人々の功績を使い尽くすのである。聖人の知徳を持ちながらもこれを持っているようには見せないゆえに、天下で最も貴い存在となるのである。『詩経』に、この言葉がある。:

親鳥は、君子のごとく
威儀礼儀、迷わず一つ
迷わずに、一つであるゆえ
四方(よも)の国、正されるかな
(曹風、鳲鳩より)

これが、天子となった聖人の功績なのである。


(注1)原文「神」。荀子はこの字において超自然的な存在を意味させない。
(注2)楊注は、父・母・妻と注する。他にも説があって、父の兄弟・自分の兄弟・子の兄弟(儀礼)、父・子・孫(礼記)がある。時代によって範囲が異なるようであるが、舜が処刑されるとすれば極悪人であった父の瞽瞍(こそう)か弟の象(しょう)の悪事のためであろうから、儀礼あるいは礼記の説のほうが正しい。
(注3)以下の歴史上の人物については、臣道篇(4)の各注を参照。
《原文・読み下し》
天子に妻(さい)(注4)無きは、人に匹(ひつ)無きを告(しめ)すなり。四海の內客禮無きは、適無きを告すなり。足は能く行くも、相者(しょうしゃ)を待ちて然る後に進み、口は能く言うも、官人を待ちて然る後に詔(つ)ぐ。視ずして見え、聽かずして聰(きこ)え、言わずして信(あきら)かに(注5)、慮(おもんぱか)らずして知り、動かずして功あるは、至備を告うなり。天子なる者は、埶(せい)は至重、形は至佚、心は至愈、志は詘(くつ)する所無く、形は勞する所無く、尊きこと上無し。詩に曰く、普天の下、王土に非ざるは莫く、率土(そつど)の濱(ひん)、王臣に非ざるは莫し、とは、此を之れ謂うなり。聖王上に在りて、分義下に行わるれば、則ち士・大夫に流淫の行無く、百吏・官人に怠慢の事無く、衆庶・百姓に姦怪の俗無く、盜賊の罪無く、敢て大上(たいじょう)の禁(注6)を犯すこと莫く、天下曉然(ぎょうぜん)として、皆夫の盜竊(とうせつ)の人以て富を爲す可からざるを知り、皆夫の賊害の以て壽(じゅ)を爲す可からざるを知り、皆夫の上の禁を犯すは以て安を爲す可らざるを知るなり。其の道に由れば則ち人は其の好む所を得、其の道に由らざれば、則ち必ず其の惡(にく)む所に遇う。是の故に刑罰綦(きわ)めて省きて、威行わるること流るるが如く、世曉然として、皆夫の姦を爲せば、則ち隱竄(いんざん)・逃亡すと雖も、之(しか)も由(なお)(注7)以て免るるに足らざるを知るなり、故に罪に服して請(じょう)(注8)ならざること莫し。書に曰く、凡(およ)そ人自ら罪を得、とは、此を之れ謂うなり。故に刑罪に當れば則ち威あり、罪に當らざれば則ち侮(あなど)られ、爵賢に當れば則ち貴ばれ、賢に當らざれば則ち賤しめらる。古者(いにしえは)刑罪に過ぎず、爵德に踰(こ)えず、故に其の父を殺して其の子を臣とし、其の兄を殺して其の弟を臣とす。刑罰罪に怒(す)ぎず(注9)、爵賞德に踰えず、分然として各(おのおの)其の誠を以て通ず、是(ここ)を以て善を爲す者は勸み、不善を爲す者は沮(はば)み、刑罰綦(きわ)めて省きて、威行わるること流るるが如く、政令致明(ちめい)にして、化易(かえき)神(しん)の如し。傳に曰く、一人慶有れば、兆民之に賴(よ)る、とは、此を之れ謂うなり。亂世は則ち然らず。刑罰罪に怒(す)ぎ(注9)、爵賞德に踰え、族を以て罪を論じ、世を以て賢を舉ぐ。故に一人罪有りて、三族皆夷(い)せられ(注10)、德舜の如しと雖も、刑均(けいきん)(注11)を免れず。是れ族を以て罪を論ずるなり。先祖當(かつ)て(注12)賢なれば、子孫必ず顯(あらわ)れ、行桀(けつ)・紂(ちゅう)の如きと雖も、列從必ず尊し。此れ世を以て賢を舉ぐるなり。族を以て罪を論じ、世を以て賢を舉ぐれば、亂るること無からんと欲すと雖も、得んや。詩に曰く、百川沸騰し、山冢(さんちょう)崒崩(しゅつほう)し、高岸谷と爲り、深谷陵と爲る、哀し今の人、胡(なん)ぞ憯(かつ)て懲(とど)むること莫きか、とは、此を之れ謂うなり。
論(りん)(注13)聖王に法(のっと)れば、則ち貴ぶ所を知り、義を以て事を制すれば、則ち利する所を知る。論(りん)(注13)貴ぶ所を知れば、則ち養う所を知り、事利する所を知れば、則ち動に出づる所を知る。二者は是非の本にして、得失の原なり。故に成王の周公に於けるや、往くとして聽かざる所無きは、貴ぶ所を知ればなり。桓公の管仲に於けるや、國事往くとして用いざる所無きは、利する所を知ればなり。吳に伍子胥(ごししょ)有るも、而(しか)も用うること能わず、國亡ぶるに至るは、道に倍(そむ)き賢を失えばなり。故に聖を尊ぶ者は王たり、賢者を貴ぶ者は霸たり、賢を敬する者は存し、賢を慢(あなど)る者は亡ぶは、古今一なり。故に賢を尚(とうと)び、能を使い、貴賤を等し、親疏を分ち、長幼を序するは、此れ先王の道なり。故に賢を尚び能を使えば、則ち主尊く下安く、貴賤等有れば、則ち令行われて流(とど)まらず(注14)、親疏分有れば、則ち施行われて悖(もと)らず。長幼序有れば、則ち事業捷(はや)く成りて休(きゅう)する(注15)所有り。故に仁なる者は此を仁する者なり(注16)、義なる者は此を分つ者なり、節なる者は此に死生する者なり、忠なる者は此に惇愼(とんしん)する者なり。此を兼ねて之を能くすれば備わる。備わりて矜(ほこ)らず、一に自ら善くする、之を聖と謂う。矜らず、夫(そ)の故に天下與(とも)に能を爭わずして、善く其の功を用うることを致(きわ)む。有りて有りとせず、夫の故に天下の貴と爲る。詩に曰く、淑き人君子、其の儀忒(たが)わず、其の儀忒わざれば、是の四國を正す、とは、此を之れ謂うなり。


(注4)楊注は、「妻」は「斉」なり、と注する。増注は曲礼を引いて、「天子の妃、后と曰う。后は後なり。後なる者は、斉等せずの言なり」と言う。つまり「妻」の語は「斉(さい。ひとしい)」の含意があって、夫と対等の配偶者の意味を持っている。だが天子の配偶者を指す語である「后(こう)」は「後」の含意があって、天子に従う存在の意を持っている。それが「天子に妻無し」の意味と言うことである。
(注5)新釈の藤井専英氏は、「信」を明の意に取る。この文は君道篇(3)の「天子視ずして見え、聽かずして聰(きこ)え、慮らずして知り、動かずして功あり」の語と同一の表現であり、「信」もまた天子は発言しないのに発言したことと同一の結果があらわれる、という意味に取ったほうがよい。藤井氏は、そのように解釈していると思われる。一応これに従っておく。
(注6)原文「大上之禁」。集解の兪樾は「上之大禁」に作るべし、と言う。増注は『群書治要』には「大」字がないのでこれを削るべきことを言う。新釈は劉師培の意見を紹介して「大上の禁」であるべきで、下文は「大」字が脱落したもの、と指摘する。新釈に従い、そのままにしておく。
(注7)増注は、「之は而と同じく、由は猶と同じ」と注する。これにしたがい、「しかもなお」の意に取る。
(注8)集解の兪樾は、「請」はまさに読んで「情」となすべし、と言う。情は実のことで、罪に服して嘘をつかないことを言う。
(注9)集解の王念孫は、「怒・踰はみな過なり」と言う。これに従う。すぎる。
(注10)楊注は、「夷は滅なり」と言う。死刑に処せられること。
(注11)楊注は、「均は同なり、同じくその刑を被るを謂う」と言う。連座して処刑されること。
(注12)増注は、楊注或説の「當は或は嘗と爲す」に賛同する。かつて。當は嘗の借字。
(注13)楊注は「論議聖王に法效す」と注する。楊注のように「論」を論議とみなすのが通説であるが、荀子はいっぱんに論議すること自体を薦めることはせず、むしろ自明の真理である正道に則った意見を採用するべきことを薦める。新釈の藤井専英氏は臣道篇が「人臣の論」に始まり[(1)]、つづく論議で周公・管仲・伍子胥を対比させていること[(4)]がこの君子篇と同一であることを指摘して、「論」を「倫」と解することができるのではないだろうか、と注している。この君道篇の他、王制篇には「王者の論」の語があり、儒效篇には「人論」の語があって、三者はいずれも一文の発句として「倫」の意に解するべき「論」字が置かれていることを見れば、藤井氏の説は妥当であると考えたい。なので、「論」を「倫」の意に解して、礼法に基づいた人間の序列区分の意に取りたい。
(注14)集解の王念孫は、「流」は読んで「留」となす、と言う。とどまる。
(注15)楊注は「休息する所の時有り」と注する。なお新釈の藤井専英氏は、爾雅釈詁に「美也」、集韻に「善也」とあることを引いて、「立派に仕上がる」と訳している。
(注16)楊注は、「仁は愛悦を謂う。此は尚賢・使能・等貴賤・分親疏・序長幼の五者を謂い、此の五者を愛悦すれば則ち仁と為す可し」と注する。すなわちここの語は、上に示された尚賢・使能・等貴賤・分親疏・序長幼の五つの道を喜ぶことが仁である、という意味である。以下の義・節・忠も同じ。

君子篇の題名について楊注は、「凡そ篇名は、初発の語を多用す。此の篇皆人君の事を論ず。即ち君子は当(まさ)に天子と為すべし。恐らく伝写の誤なり」と言う。つまり、この君子篇は人君のことについてもっぱら書かれているので、篇名は「天子篇」の誤りではないか、と疑っている。この篇は劉向『荀卿新書』では末尾直前の第三十一篇とされていた。単一のエッセイではあるが、重要性の低い篇とみなされていたのであろう。

内容は、王制篇、王覇篇、君道篇の各篇で描写された理想国家の統治術を簡潔に再説したものである。君主は礼法を採用して、家臣それぞれの徳と能力を正確に査定して、それに比例した爵禄を与えなければならない。荀子が強調する、厳格なメリトクラシー(実力主義)である。その論述の中で、古代の通制であった縁座制が批判されている。縁座制とは、罪を受けた本人が処罰を受けるのみならず、その家族親類に至るまで処罰が広げられる刑罰制度である。「三族を誅す」、「罪九族に及ぶ」という記録は古代の歴史書で頻出する。ずっと後世においてすら、明の永楽帝の簒奪を認めずに最後まで反抗した方孝孺(ほうこうじゅ)は、その一族全てが残虐に殺される罰を受けた。荀子はそのような縁座制に反対し、本人の能力はその一族や祖先の功績・刑罰とは切り離して評価せよ、と言うのである。合理主義者の荀子の面目が、ここにも表れている。荀子の主張は、しかしながら東アジア社会において後世まで顧みられることが少なく、現在でもいまだに生き残っているように見られる。子の罪を親の責任となし、親の罪により子を指弾し、先祖の行為により子孫を責め立てることを、決してしていないと自信をもって言えるだろうか?

楽論篇第二十(1)

そもそも音楽というものは楽しみであり、人間の情がそれを求めずにはいられないところである。ゆえに人は楽しまずにはいられず、楽しめば必ず歌声として出るのであり、動きとなって表れるのである。この音声と動作は人の本来的なあり方であって、生きている者の外に出した動きとは何か声を発したり何か動いたりすることだから、突き詰めれば結局音楽をすることなのである。人は楽しまずにはいられず、楽しめば外に表現せずにはいられず、だがその表現が正しく導かれなければ、乱れずにはいられない。わが文明の建設者である先王は、その乱れを憎んだ。ゆえに雅(が。宮廷の音楽)と頌(しょう。宗廟の音楽)(注1)の声音を制定して人の音楽心を導き、その声楽は十分に楽しめながら淫奔に流れることなく、その文飾は理解しやすいがよこしまに陥ることなく、声音を曲げたり真っ直ぐにしたり、急速にしたり淡白にしたり、細く鋭くしたり太くゆるやかにしたり、止めたり演奏させたりして、人の善心が十分感動できるようにして、よこしまで汚れた気が入り込まないようにさせたのである。これが、先王が音楽を制定した理由である。それなのに墨子が音楽を否定するのは、どういうことであろうか。ゆえに音楽は、宗廟の中にあっては君臣・上下が同じくこれを聴いて、和やかに敬むこと間違いがない。家庭の中にあっては、父子・兄弟が同じくこれを聴いて、和やかに親しみ合うこと間違いがない。郷里においては、年長者も年少者も同じくこれを聴いて、和やかに従順となること間違いがない。ゆえに音楽というものは音階の唯一の基本をはっきりとさせて(注2)、そこから音階の調和を定めるものであって、各楽器を演奏させて、適宜に区切りを付けて飾るものなのである。演奏と区切りとが合わさって文飾を成し、これによって唯一の正道に十分従わせることができて、ゆえにどのような多様な変化にも対応できるのである(注3)。これが、先王が音楽を制定した方法である。なのに墨子が音楽を否定するのは、どういうことであろうか。ゆえに雅・頌の声音を聴けば、心は伸びやかとなる。干(たて)と戚(おの)を手に取り、伏せたり仰いだり伸びたり縮んだりする舞を習うならば、おのずと容貌はいかめしくなる。舞者がその演域と外域とを進み、休止と演奏に合わせるならば、その行列は整って進退は一致する。ゆえに音楽というものは、打って出ては征誅するものであり、内に留まっては拝礼して譲るものであって、征誅することと拝礼して譲ることとは、和して恭順するという意義において一つである。音楽が打って出て征誅すればこれを聴き従わないものはなく、音楽が内に留まり拝礼して譲ればこれに素直に従わないものはない。ゆえに音楽というものは、天下を大いに斉一させるものであり、中和のための大綱であり、人間の情がそれを求めずにはいられないものである。これが、先王が音楽を音楽を制定した方法である。それなのに墨子が音楽を否定するのは、どういうことであろうか。かつ音楽というものは、先王の喜びを装飾したものである。いっぽう軍隊・鈇鉞(ふえつ。おのとまさかりのことで、君主の象徴的な軍権を示す)というものは、先王の怒りを装飾したものである。先王は、喜びも怒りもすべて斉一されていた。よって喜べばすなわち天下もこれに和し、怒ればすなわち暴乱の者もこれを畏れた。先王の正道において、礼と音楽はその最も大いなるものである。それなのに墨子はこれを否定する。ゆえに、こう言おう。墨子の正道を見るやり方は、瞽(こ。盲者)が白と黒の色に対したようなものであり、聾(ろう。聾者)が清音と濁音に対したようなものであり、南の楚国に行こうとして北の方角にこれを求めるようなものである、と。


(注1)『詩経』には大雅(たいが。朝廷の会合の音楽)・小雅(しょうが。宴席の音楽)・頌の各グループの詩が収められている。いにしえの朝廷では、これらの詩が歌として演奏されたということである。
(注2)原文読み下し「一を審(つまびら)かにして」。増注は、「一は律なり」と注する。猪飼補注は、古代中国の音階である五声(ドレミソラの東洋五音階)・十二律(西洋と同じ十二音)の中心音である宮(きゅう。ハ音)・黄鐘(こうしょう。ニ音)をはっきりとさせることによって和を定める、と言っている。つまり、基本音から絃や笛の長さを一定の比率で長くあるいは短くすればまず五声が生まれて、さらに続けたら十二律が生まれた後ほぼ元の音に戻る。こうして生まれた各音階を微調整して、完全な音階を作る。西洋の平均律などの調律法と、原理は同じである。
(注3)原文「萬變を治むるに足る」。音楽理論的に言えば、「和」(音階)を基礎にして、そこに様々な「節奏」(休止符と音符)を乗せることによって曲が作られる。「和」と「節奏」の法則に従う限りどのような状況にも応じた美しい音楽を作り出すことができて、聖人は以上のような音楽の法則もまた熟知しているので、あらゆる人の心を動かす曲を作曲できるだろう。「萬變を治むるに足る」とは、そのような意味であると思われる。古代の儒家思想は、音楽理論と礼の理論が類比されて語られるところに特徴がある。
《原文・読み下し》(注4)
(注5)夫れ樂(がく)なる者は、樂(らく)なり(注6)。人情の必ず免れざる所なり。故に人は樂(たのし)むこと無きこと能わず、樂めば則ち必ず聲音(せいおん)に發し、動靜に形(あらわ)る。而(しこう)して人の道は、聲音・動靜にして、性術の變は是に盡(つ)く。故に人は樂まざること能わず、樂めば則ち形るること無きこと能わず、形れて道(どう)(注7)を爲さざれば、則ち亂るること無きこと能わず。先王其の亂を惡(にく)む。故に雅頌(がしょう)の聲を制して、以て之を道(みちび)き、其の聲をして以て樂しむに足りて流(りゅう)せざらしめ、其の文をして以て辨ずるに足りて諰(よこしま)(注8)ならざらしめ、其の曲直・繁省、廉肉・節奏をして、以て人の善心を感動するに足らしめ、夫の邪汙(じゃお)の氣をして、接することを得るに由(よし)無からしむ。是れ先王樂を立つるの方なり、而(しか)るに墨子之を非とするは奈何(いかん)。故に樂は、宗廟の中に在りて、君臣・上下同じく之を聽けば、則ち和敬せざること莫く、閨門の內にて、父子・兄弟同じく之を聽けば、則ち和親せざること莫く、鄉里・族長(ぞくちょう)(注9)の中にて、長少同じく之を聽けば、則ち和順せざること莫し。故に樂なる者は、一を審(つまびら)かにして以て和を定むる者にして、物を比して(注10)以て節を飾る者にして、合奏して(注11)以て文を成す者なり。以て一道に率(したが)うに足り、以て萬變を治むるに足る。是れ先王樂を立つるの術なり、而るに墨子之を非とするは奈何。故に其の雅頌の聲を聽けば、志意廣(ひろ)きを得、其の干戚(かんせき)を執りて、其の俯仰(ふぎょう)・屈伸を習えば、容貌莊(そう)を得。其の綴兆(ていちょう)(注12)を行き、其の節奏を要(よう)すれば(注13)、行列正を得て、進退齊を得。故に樂なる者は、出でては征誅する所以にして、入りては揖讓(ゆうじょう)する所以なり、征誅と揖讓とは、其の義一なり。出でて征誅する所以なれば、則ち聽從せざること莫く、入りては揖讓すう所以なれば、則ち從服せざること莫し。故に樂なる者は、天下の大齊なり、中和の紀なり、人情の必ず免れざる所なり。是れ先王樂を立つるの術なり、而るに墨子之を非とするは奈何。且つ樂なる者は、先王の喜を飾る所以にして、軍旅・鈇鉞(ふえつ)なる者は、先王の怒を飾る所以なり。先王は喜怒皆其の齊を得。是の故に喜べば天下も之に和し、怒れば暴亂も之を畏る。先王の道、禮樂は正に其の盛んなる者なり、而るに墨子之を非とす。故に曰く、墨子の道に於けるや、猶お瞽(こ)の白黑に於けるがごとく、猶お聾(ろう)の清濁に於けるがごとく、猶お楚に之(ゆ)かんと欲して北に之を求むるがごときなり。


(注4)君道篇に続いて、以下の楽論篇にも全篇に渡って楊注がない。したがって日本江戸時代および中国清代の各注釈者の見解を基礎とせざるをえない。
(注5)以下の文章と大筋で一致する文章が、礼記楽記篇および史記楽書にも表れる。ただし、相互に文の出入りがある。下のコメント参照。
(注6)原文「夫樂者樂也」。中国語は同じ漢字が名詞になったり形容詞・動詞になったりする。「樂(楽)」字は音楽の意のときはガク、「たのしい」の意のときはラクと読む。現代中国語でもyuè/lèと別の発音をする。
(注7)増注は、「これを導かざれば、則ち姦声に感じ、姦声人を感ぜしめ、逆気之に応じて故に乱る」と注する。よって「道」は「導」の意である。
(注8)集解の盧文弨は、礼記・史記がいずれも「諰」を「息」に作ることを指摘して、ここの「諰」は「ごんべん+息」字(「息」の別字)の訛、と言う。郝懿行は「諰」は「息」の仮借、すなわち同音の字を借りたものと解する。しかし新釈の藤井専英氏は梁啓雄『荀子簡釈』を引いて、「諰」は「偲」であって佞すなわち邪(よこしま)の意、と言う。集解のとおりに解するならば「息(や)む」の意味であって、これに即した金谷治氏の訳は「その文飾が十分理解できてしかもそれだけには終わらないようにし(、、)」である。だが藤井説のほうが意味が明快となるので、こちらを取りたい。
(注9)「族長」について藤井専英氏は『簡釈』の「族長は郷里と同意」を引く。「族」「長」ともに古代にあった戸数の単位ということである。
(注10)増注は鄭玄を引いて、「物を比するは、金・革・土・匏の属を雑して以て文を成す」と言う。つまり「物」とは楽器のことで、金・石・糸・竹・匏(ほう。ひさご。ひょうたん)・土・革・木の八種類に分類される楽器(これを八音と呼ぶ)を指し、物を比するとはこれらの楽器を調和的に重ねて音楽を成すことである。
(注11)集解の盧文弨は、礼記・史記がともに「節奏合して以て文を成す」の表現に作られていることを指摘する。宋本もこの表現である。
(注12)礼記の注に従って、「綴」を舞者の行列の位置、「兆」をその外域とみなす。
(注13)増注は「要は会なり」と言う。あう。

楽論篇は、音楽の効能を述べた篇である。音楽は礼と合わせて「礼楽(れいがく)」と呼ばれ、礼楽は孔子が麗しい古制として最も重視した文化体系である。孟子は、礼については荀子のように体系的ではないが言及する。しかし、音楽についてはほとんど語ることがない。いっぽう荀子はこの楽論篇の一篇において、儒家の音楽論をまがりなりにも残した。楽論篇の上に訳した箇所は、『礼記』楽記篇および『史記』楽書の一部に大筋で一致している(史記楽書の中間部分は、ほぼ礼記楽記篇の全体と同一である)。ただし楽論篇では墨家批判の言葉が随所に挟まっているが、礼記・史記にはない。礼記・史記をこの楽論篇と比較すると、礼記・史記は楽論篇よりも礼と音楽の関係についての理論的叙述が詳しく書かれている。

楽論篇においても、礼論篇と同じく墨家は批判される。墨家は非楽を唱え、国家から音楽を追放するべきと主張した。

姑(しばら)く嘗(こころみ)に厚く万民に籍斂(せきれん)し、以て大鐘(たいしょう)・鳴鼓(めいこ)・琴瑟(きんしつ)・竽笙(うしょう)の声を為して、以て天下の利を興し、天下の害を除かんことを求むるも、補うこと無きなり。是の故に子墨子曰く、楽を為すは非なり、と。
(『墨子』非楽篇より)


すなわち君主が人民から重税を取って音楽を行ったとしても、その音楽で戦争が止み平和が訪れることはないし、天下の利益が増して害が除かれることはない。ゆえに音楽は実利がない無駄なぜいたくであり、廃絶するべきである。墨家思想は音楽に何の実利も認めず、人民の生活水準を向上させることのない娯楽であるとみなして、敵視した。だが荀子にとっては、支配者の礼と音楽は国家を統治するために必ず採用するべき、文化装置なのである。荀子は富国篇において社会契約説を展開して支配階級の必要性を説き、支配階級が多く富貴を持つことは社会秩序にとって必要であると擁護した。転じてこの楽論篇においては、音楽がただの娯楽なのではなくて、礼と同様に社会秩序の調和に貢献する文化装置であることを説くのである。

楽論篇の主旨は、冒頭の「楽(がく)なる者は楽(らく)なり」の語がすべてである。楽論篇の中には飲酒の礼について述べられている箇所もあって、むしろ礼論篇に入れられるべきと思われる叙述もある。この楽論篇で荀子は音楽の効能について、いろいろと述べる。そこで挙げられる古代楽器は後世に考証されているし、実物が春秋戦国時代の陵墓から出土することもあって、楽器については大方の復元は可能である。だが、それらを用いて演奏された古代の音楽そのものは、はっきりとは分からない。なので、いくら荀子の理論を読んでも、その実際の演奏は分からない。(おそらく実際に聞くことができたとしても、現代人の耳を感動させることができるかは疑問であるが、、、)

実演なくして音楽の論文を読んでも、その意義を理解することはほとんど不可能である。よって、この楽論篇はその内容について特に検討しないことにしたい。その代わりといってはなんであるが、古代楽器の一である古琴(こきん、クーチン)の演奏ビデオを紹介しておきたい(論語読書会同人、子敬子の演奏)。琴は、後漢の蔡邕(さいよう、132? – 190)がその著書『琴操』において言及している。古琴はすなわち少なくとも千八百年前には存在した琴(きん)、すなわち小型の琴(こと)である。ちなみに大型のものは瑟(しつ)という別の字で呼ばれる。琴はとりわけ古代以来中国文化において、士大夫たちに愛好されて連綿と奏でられてきた。現在古琴の演奏に用いられる最も古い楽譜は、明代初期(15世紀初)に編纂された。古琴のレパートリーには孔子の作と伝えられる曲があり、周の文王・武王・周公の作と伝えられる曲があり、果ては伝説の聖王である堯・舜の作品まで伝承されている。その真偽のほどは、諸子のご推察に任せることにしよう。だが少なくとも相当に古い時代の楽譜であることは、間違いないだろう。現代の解釈による演奏であるので、演奏の緩急や強弱については古い時代のままと思うべきではないと、私は思う。しかし音色については、そう遠く離れてはいないだろう。

古代の楽器による演奏によって、荀子の音楽論の空気の一片でも感じることに寄与できたならば、幸いである。

《文王操》伝・周文王作

楽論篇第二十(2)

そもそも音楽が人の心の中に入るのは深く、その人を教化することは速やかである。ゆえにわが文明の建設者である先王は謹んで音楽に文飾を行ったのであった。音楽が中庸で雅正であれば、人民は和合するも淫奔になることはない。音楽が厳粛で荘厳であれば、人民は斉一してカオスとならない。人民が和合して斉一となれば、兵は強くて城は固くなり、敵国はあえて干渉しようとはしなくなるだろう。このようになれば、人民はそれぞれの立場に安んじて暮らし、それぞれの郷里の生活を楽しみ、君主に必ず満足することであろう。しかる後に君主の名声はここにおいて明らかに表れ、その光と輝きはここにおいて大いになり、四海全ての人民がこの君主を師として従うことを願うことであろう。こうして音楽を整えることは、王者の始原の点なのである。だが音楽がなまめかしくて歪んでいるならば、人民は淫奔散漫となって賤しくなるであろう。淫奔散漫であればカオスとなり、賤しくなれば争う。人民がカオスとなって争えば、兵は弱くなって城は劫略され、敵国によって危機に陥るであろう。このようになれば、人民はそれぞれの立場に安んじて暮らせなくなり、郷里の生活を楽しめなくなり、君主に満足することができないだろう。ゆえに礼楽がすたれてよこしまな音楽が起こることは、国が危うくなり領地を削られ辱めを受ける根本的要因なのである。ゆえに先王は礼楽を貴んで、よこしまな音楽を賤しんだ。それで官制規則には、「法令を整え、詩歌の文を確定し、よこしまな音楽を禁止し、時に応じて音楽を習い修め、中華でない蛮夷の風俗とよこしまな音楽が雅正なる風俗と音楽を乱さないようにするのは、大師(たいし)の任務である」と定められているのである(注1)。墨子は、「音楽というものは、聖王が否定したものである。なのに儒家がこれを行うのはまちがいである」と言う。しかし君子ならば墨子は間違っている、と考えるだろう。音楽というものは、聖人が楽しんだものであるが、これによって人民の心を善に化すことができて、人の心を感動させること深く、風俗を改造することが容易なものである。ゆえに先王は礼楽によって人民を導き、人民は和合して親しみあったのであった。そもそも人民には好き・嫌いの感情があるのだが、その感情に正しく応じた喜びと怒りの表現がなければ、人民はカオスとなる。先王はそのカオスを憎んだ。ゆえに礼によってその行動を修正し、音楽を正しくして、天下はこれら先王の制度に従ったのであった。よって齊衰(しさい)の喪服と哭泣(こくきゅう)の声は人の心を悲しませ、よろいを着てかぶとを被り行列して軍歌を歌えば人の心を勇壮にさせる。なまめかしい容姿と鄭(てい)・衛(えい)の音楽(注2)は、人の心をみだらにさせる。一方紳(しん。大帯)・端(たん。周の朝服)・章甫(しょうほ。殷の礼冠)を身に付けて韶(しょう。舜の音楽)に合わせて舞い武(ぶ。武王の音楽)を歌えば、人の心は荘厳となる。ゆえに君子は耳にみだらな音楽を聞かず、目にみだらな光景を見ず、口に悪しき言葉を出さないのである。君子は、この三者を慎む。およそみだらな音楽を人が感じると、逆気(ぎゃくき)(注3)がこれに呼応して、逆気が歌と舞となってあらわれて、カオスが生じる。いっぽう正しい音楽を人が感じると、順気(じゅんき)(注3)がこれに呼応して、順気が歌と舞となってあらわれて、秩序が生じる。音楽が起これば人間が和して応えるのであり、善なる音楽と悪なる音楽にはそれぞれにふさわしい歌と舞が伴うのである。ゆえに君子は音楽を慎重に取捨選択するのである。君子は鐘と太鼓によって人の意志を導き、琴と瑟(おおごと)によって人の心を楽しませ、干(たて)と戚(おの)を取って舞わせ、羽(う。雉の羽飾り)と旄(ぼう。旗)によって飾らせ、磬(けい。石板を打つ楽器)と笛をそこに合奏させる。音楽の清く明るいことは天になぞらえたものであり、音楽の広くて大いなることは大地になぞらえたものであり、舞の伏し起きと旋回の動きは、四季の移り変わりに似ている。ゆえに正しい音楽が行われたならば人の意志は清くなり、正しい礼を修めたならば人の行動は完成する。人の観察眼は聡明となり、人の血気はおだやかで平静となり、風俗は矯正されて、天下はすべて安らかとなり、天下の者は美と善を楽しみ合うことであろう。ゆえに、「音楽というものは、楽しみである」と言うのである。君子は音楽によって人の正道を身に付けることを喜ぶが、小人は音楽によって己の欲望を高めることを喜ぶ。正道によって欲望を制御すれば、楽しんでもカオスとならない。だが欲望によって正道を忘れたならば、混乱するばかりで楽しむことすらできない。ゆえに音楽とは楽しみを導き出すものであり、金・石・糸・竹の各楽器は徳を導き出すものであり、よき音楽が行われたならば人民は正道に向かうのである。このように音楽とは人を統治するための大いなる手段なのであるが、墨子はこれを否定する。かつ音楽というものは決して変えられない調和の法則を持つものであって(注4)、礼というものは決して変えられない道理の法則を持つものである。音楽は各人を合わせて一つにさせるものであって、礼は身分を別けて区別するものであり、礼と音楽をあわせれば人心を管理するものとなる。根本法則を極めてあらゆる変化に応ずるのは、音楽の意義である。また誠を明らかにしてさかしらな「偽(い。人為)」から去るのは、礼の基本である(注5)。墨子が音楽を否定することは、王者から刑罰を食らうべき罪である。だが明察の王者はすでに死んで去り、よって墨子のあやまりを正す者もおらず、愚者は墨子の学を学んで、ついにその身を危うくするのである。君子が音楽のことを明らかに示すことは、人の徳の向上のためなのである。なのに乱世は善を憎んで、君子の言葉を聞かない。ああ、哀しいかな!音楽の正道は、いまだこの世で成就できない。弟子諸君よ、音楽の学習に励みなさい。墨子のような邪説に惑わされてはならない。


(注1)ここは、王制篇(5)における各官職の説明文から引用されている。王制篇においては、全訳は行わず概要を表にして整理した。
(注2)原文「鄭衛之音」。鄭声は、『論語』『孟子』においてもみだらな音楽として批判されている。『礼記』楽記篇には「鄭衛の音、乱世の音なり」の句がある。鄭国・衛国は春秋時代末期における中華の先進地域であって、当時のモダンな音楽があったのであろう。それが保守的な文化の擁護者である孔子の耳をいらだたせたことが想像される。しかしはるかに時代が下った戦国時代末期にあっても荀子がこうして批判しているのは、「鄭衛の音」が儒家の音楽規範から外れた俗楽一般を指す用語となっていたと思われる。
(注3)逆気・順気とは、人間に悪しき「気」とよろしき「気」を指す。「気」は宇宙と体内にあるエネルギーの源のような何かであり、人間にとって外部的存在である。孟子・荀子は、「気」を統御する方法について論述している。荀子の「気」論は、脩身篇を参照。孟子については、「浩然の気」の論議を参照。
(注4)原文「和の変ず可からざる者にして」。「和」を一般的な調和、和合の意に取るよりも、音階をはじめとした音楽の調和法則と取ったほうが、その不変性を強調する荀子の主張にリアリティが出るだろう。それと対比されて、礼にも不変の「理」(道理)があると主張されるのである。こちらについても荀子はもとより本気で主張しているが、音楽法則と違ってこちらについては現代的な視点には当然耐えられそうにない。
(注5)原文読み下し「誠を著し僞(い)を去るは、禮の經なり」。この言葉は、「僞(偽)」が礼であるという荀子の常の主張と正反対のものである。ゆえに、藤井専英氏はあるいは「去」は「大」の誤りであることを疑い、さらにあるいは「去」を離去の意味に取って「その都度の人為的努力から離れて、慣習乃至(ないし)規範という形で無意識に行えるようにあるよう、習慣づけておく事が礼本来の意義目的である」と詳細な訳を与えている。だが、藤井氏の説明はまことに迂遠である印象を受ける。私は、やはり荀子が「偽」の字をここでネガティブな意味でうっかり用いてしまったミスと考えたい。ここでの「偽」は性悪篇ほかでの「偽=人為=礼」というポジティブな意味から外れてしまって、通常の用法である「(悪しき)人為的努力=いつわり」という意味として使われている。「偽」をネガティブな意味で用いてしまったミスは、他に性悪篇(6)注18にも見られる。
《原文・読み下し》
夫れ聲樂(せいがく)の人に入るや深く、其の人を化するや速(すみやか)なり。故に先王謹んで之が文を爲す。樂(がく)中平なれば、則ち民和して流せず、樂肅莊なれば、則ち民齊して亂せず。民和齊なれば、則ち兵勁(つよ)く城固く、敵國敢て嬰(ふ)れざるなり。是の如くなれば、則ち百姓其の處(ところ)に安んじ、其の鄉(きょう)を樂んで、以て其の上に至足せざること莫し。然る後に名聲是に於て白(あらわ)れ、光輝是に於て大に、四海の民、得て以て師と爲すを願わざるは莫し。是れ王者の始なり。樂姚冶(ようや)にして以て險なれば、則ち民流僈(りゅうまん)・鄙賤(ひせん)なり、流僈なれば則ち亂れ、鄙賤なれば則ち爭う。亂れ爭えば則ち兵弱く城犯され、敵國之を危くす。是の如くなれば、則ち百姓其の處に安んぜず、其の鄉を樂まず、其の上に足らず。故に禮樂廢(すた)れて邪音(じゃいん)起る者は、危削・侮辱の本なり。故に先王禮樂を貴んで、邪音を賤む。其の序官に在るや、曰く、憲命を脩め、誅賞(ししょう)(注6)を審(つまびら)かにし、淫聲を禁じ、時を以て順脩して、夷俗・邪音をして敢て雅を亂さざらしむるは、太師の事なり、と。墨子曰く、樂なる者は、聖王の非とする所なり、而(しか)るに儒者之を爲すは過なり、と。君子以て然らずと爲す。樂なる者は、聖王の樂む所なり、而(しこう)して以て民心を善くす可く、其の人を感ぜしむるや深く、(王先謙に従い改める:)其の風俗を移すや易(やす)し(注7)。故に先王之を導くに禮樂を以てし、而して民和睦す。夫れ民に好惡(こうお)の情有りて、喜怒の應無ければ則ち亂る。先王其の亂を惡むなり、故に其の行を脩め、其の樂を正して、天下焉(これ)に順(したが)う。故に齊衰(しさい)の服、哭泣(こくきゅう)の聲は、人の心をして悲しましめ、甲(よろい)を帶び䩜(かぶと)(注8)を嬰(か)け(注9)、行伍(こうご)に歌えば、人の心をして傷(そう)ならしめ(注10)、姚冶の容、鄭衛(ていえい)の音は、人の心をして淫ならしめ、紳(しん)・端(たん)・章甫(しょうほ)し、韶(しょう)を舞い武(ぶ)を歌えば、人の心をして莊ならしむ。故に君子は耳に淫聲を聽かずして、目に女色(じょしょく)(注11)を視ず、口に惡言を出さず。此の三者は、君子之を愼しむ。凡そ姦聲(かんせい)人を感じて、逆氣(ぎゃくき)之に應じ、逆氣象(しょう)を成して(注12)、亂生ず。正聲(せいせい)人を感じて、順氣(じゅんき)之に應じ、順氣象を成して、治生ず。唱和應(おう)有り、善惡相(あい)象(かたど)る。故に君子は其の去就する所を愼むなり。君子は鐘鼓(しょうこ)を以て志を導き、琴瑟(きんしつ)を以て心を樂ましめ、動かすに干戚(かんせき)を以てし、飾るに羽旄(うぼう)を以てし、從うに磬管(けいかん)を以てす。故に其の清明は天に象り、其の廣大(こうだい)は地に象り、其の俯仰(ふぎょう)・周旋は、四時に似たること有り。故に樂行われて志清く、禮脩まりて行成る。耳目は聰明(そうめい)に、血氣は和平にして、風を移し俗を易(か)えて、天下皆寧(やす)んじ、美善相樂む。故に曰く、樂(がく)なる者は樂(らく)なり、と。君子は其の道を得るを樂み、小人は其の欲を得るを樂む。道を以て欲を制すれば、則ち樂んで亂れず、欲を以て道を忘るれば、則ち惑いて樂まず。故に樂なる者は、樂(らく)を道(みちび)く所以にして、金・石・絲・竹なる者は、德を道(みちび)く所以なり、樂行われて民方(ほう)に鄉(むか)う。故に樂なる者は、人を治むるの盛んなる者なり、而(しか)るに墨子之を非とす。且つ樂なる者は、和の變ず可からざる者にして、禮なる者は、理の易(か)う可からざる者なり。樂は同を合せ、禮は異を別ち、禮樂の統は、人心を管(かん)す。本を窮め變を極むるは、樂の情にして、誠を著し僞(い)を去るは、禮の經なり。墨子之を非とするは、幾(ほと)んど刑に遇わん。明王已(すで)に沒して、之を正すもの莫く、愚者は之を學んで、其の身を危うくするなり。君子樂を明(あきら)かにするは、乃(すなわ)ち其の德なり。亂世は善を惡みて、此を聽かざるなり。於乎(ああ)哀しい哉(かな)。成を得ざるなり。弟子學を勉めて、營(まど)わさるること無かれ。


(注6)王制篇(5)では「詩商」に作る。増注の久保愛、集解の王先謙ともに「誅賞」を「詩商」に改めるべきと言う。「商」は章に通じ、詩章で詩文のこと。これに従う。
(注7)原文「其移風易俗」。そのままに読み下すならば「其れ風(ふう)を移し俗を易(か)う」となり、この語は下文で再度表れる。集解の王先謙は、ここの文は下文に拠ってみだりに改作されたものであり、本来は上文の「聲樂の人に入るや深く、其の人を化するや速なり」と対応する言葉であって、したがって「其感人深、其移風俗易」たるべし、と言う。これに従って改める。
(注8)「䩜」はかぶとの意。この字は議兵篇(2)にも表れ、CJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注9)増注は、「嬰は頸(くび)に繋(か)くるなり」と言う。かける。
(注10)増注は、「傷」は疑うはまさに「壮」に作るべし、と言う。これに従う。
(注11)増注は物茂卿(荻生徂徠)を引いて、「女はまさに姦に作るべし」と言う。ここではストレートに女色を批判しているのではなくて、むしろ上文の「姚冶の容」と同じ意味であるとみなすべきであり、よって「姦色」に作るべしという徂徠の指摘となる。
(注12)増注は荻生徂徠を引いて、「成象は歌舞に形(あら)わるを謂う」と言う。「象を成す」とは、音楽に合わせて歌と舞として表現すること。

荀子の音楽論は、こうして墨家批判の文として展開されるところが、礼記・史記と異なる特徴である。

ビデオは、周文王の子・武王の弟であり、武王の死後成王に代わって政治を行った周公の作と伝えられる曲である。周公については、儒效篇(1)、(6)を参照。

《大雅》伝・周公作

楽論篇第二十(3)

音楽の、象徴的意味について述べる。鼓(こ。たいこ)は、その大きな音でリズムを刻み、合奏の各パートをリードする役割を持つ。鐘(しょう。かね)は、その太く響く音で合奏の開始を告げて、音楽全体を支える役割を持つ。磬(けい。大小の石板を並べて音階をつけた打楽器)は、そのはっきりとした音を鳴らして合奏を断ち切る役割を持つ。竽(う。おおきなしょうのふえ)と笙(しょう。ちいさなしょうのふえ)は、その静かな音を粛然と唱和させるものである。筦籥(かんやく。竹製の縦笛)は、たけだけしい大音を発するものである。塤(けん。オカリナ型の土笛)と篪(ち。竹製の横笛)は、広々としてゆったりと深い音を出すものである。瑟(しつ。おおごと)は、温和な音を奏でるものである。琴(きん。こと)は、たおやかな音を奏でるものである。歌声は、清らかさを尽くすものである。舞の動作の意味は、天道の姿と一体となることである。さて、鼓とは音楽の君主というべきであろうか。ゆえに、鼓は天に似ている。鐘は、地に似ている。磬は、水に似ている。竽・笙と筦籥とは、星と太陽と月に似ている。鞉鼓(とうこ。柄が付いた鼓で、振ると脇に着けた玉が鼓面に当たって音を出す「ふりつづみ」。でんでん太鼓のような打楽器)・拊鞷(ふかく。なめし皮の中に糠を入れた単純な打楽器)・椌(こう。「柷」と同じで、下の注8参照)に楬(かつ。虎の形に作った木製の楽器で、背中に付けた刻みを木でこすってギロのように音を出す)は、万物に似ている。では舞の動作の意味が天道の姿と一体となることは、どうやって知ることができるだろうか?目でその形が見えるわけはないし、耳でその音が聞こえるわけでもない。だが体を伏せたり起こしたり、縮こまらせたり伸ばしたり、進んだり退いたり、ゆっくり動かしたり早く動かしたり、これらの舞の動作を音楽の決まりにことごとくきちんと合わせて、筋骨の力を尽くして鐘と鼓の鳴らすリズムに綺麗に合わせて、誰も調子を外すことをしない。舞の意味はこうして積み上げた鍛錬の中に表れてくるのであり、繰り返して教えて習得すればこそ天道と一体化した意味が示されるのである。
《原文・読み下し》
聲樂(せいがく)の象。鼓(こ)は大麗(たいれい)(注1)、鐘(しょう)は統實(とうじつ)(注2)、磬(けい)は廉制(注3)、竽笙(うしょう)は簫和(しゅくわ)(注4)、筦籥(かんやく)は發猛、塤篪(けんち)は翁博(おうはく)(注5)、瑟(しつ)は易良(いりょう)、琴(きん)は婦好(ふこう)、歌は清盡(せいじん)、舞の意は天道を兼ぬ。鼓は其れ樂の君なるか。故に鼓は天に似、鐘は地に似、磬は水に似、竽笙・[簫](注6)筦籥は星辰・日月に似、鞉柷(とうこ)(注7)・拊鞷(ふかく)(注8)・椌楬(こうかつ)は萬物に似たり。曷(なに)を以て舞の意を知るや。曰く、目は自ら見ず、耳は自ら聞かざるなり、然り而(しこう)して俯仰(ふぎょう)・詘信(くつしん)・進退・遲速(ちそく)を治むる、廉制せざること莫く、筋骨の力を盡(つ)くして、以て鐘鼓俯會(ふかい)(注9)の節を要して、悖逆(はいぎゃく)する者有ること靡(な)し。衆積の意にして謘謘乎(ちちこ)たればなり(注10)


(注1)宋本は「天麗」に作る。集解の王先謙は「大」に作る版本を是とする。これに従う。増注は荻生徂徠を引いて、「鼓は群音の附麗する所にして、万象の天に麗(つ)くがごとし」と言う。すなわち、太鼓の音は合奏が付き従う音であって万物をまとめてつなぐ天の力に似ている、という意味であろう。要は、太鼓の拍子に合わせて演奏が行われる様子を言っていると思われる。
(注2)集解の王先謙は、「鐘は楽の統象にして君となす」「実は成実なり」と言う。鐘はその厚く太い音で音楽を君主のように統べる、ということ。孟子萬章章句下、一には「金声なる者は条理を始むるなり」の語があって、金声すなわち鐘は当時の音楽において合奏を開始させる役割を持っていたようである。
(注3)集解の王先謙は、「制は裁断なり」と言う。廉制は、はっきりした音で音楽を断ち切る様子を言う。孟子萬章章句下、一には「これを石振するは条理を終うるなり」の語がある。
(注4)増注および集解の王引之は、「簫」はまさに「粛」に作るべしと言う。これに従う。ただし「簫(しょう)」も楽器を示す字であり、竹製の縦笛の一種を指す。楽器を列挙する前後の文に釣られて「簫」字に誤写してしまった、というのが通説の解釈である。
(注5)「翁」について増注は未詳と言い、集解の兪樾は、「滃(おう。雲や霧がわきおこる様子)」に作るべし、と言い、新釈は劉師培を引いて「泱」に通じて舒緩深遠の意、と言う。新釈を取る。
(注6)テキストによって字の異同がある。底本としている漢文大系は「竽笙簫(和)筦籥」に作る。「和」字は集解本にあって増注本にない。集解の王先謙は簫和は衍、増注は簫は衍、と言う。これらに従い削る。
(注7)集解の郝懿行は、「拊鞷」は礼論篇の「拊膈」と同じと言う。増注の久保愛は「鞷」は誤りでまさに「革」に作るべし、と言う。
(注8)「柷」は、上蓋のない木箱状の楽器を指す。槌で中を叩いて、雅楽の開始を告げるという。「鞉」は、柄の付いた「ふりつづみ」を指す。増注は、後に出てくる「椌」が「柷」を指しているので、ここの「鞉柷」はまさに「鞉鼓」に作るべし、と言う。これに従う。
(注9)増注は、「俯」は「附」なりと言う。
(注10)原文「衆積意謘謘乎」。「謘謘」を増注は諄諄(じゅんじゅん)なり、と注する。じっくりと説き伏せる様子。集解の郝懿行は、「此れ舞の意、衆音と繁く会して節に応じ、人の語を告ぐるの熟、謘謘然たるがごときを論ず」と注する。金谷治氏は「積み上げられた舞の精神が、よくねんごろに行き届いているからのことである。[ここに舞の精神が自然な天道に合致していることが分かるのである。]」と訳している。藤井専英氏は「これは聚積の意であって、よくねんごろに教え込まれたものであるから、大自然に則ることができるのである」と訳している。舞が音楽のリズムによく応じるまで鍛錬されて、舞者に人の教えがじっくりと説き伏せられた果てに、おのずから舞者の肉体が天道と一体化した舞の意味を表現する、というぐらいの意味であろうか。増注は「衆積意謘謘乎」について誤りがあると言い、解釈を留保している。

古楽に用いられた楽器の解説が置かれている。古代中国には管・弦・打の各楽器があり、歌舞があった。ヴァイオリンなどの弓で弾く擦弦楽器とオルガンなどの鍵盤楽器は西洋由来であり、古代中国ではまだ知られていなかった。ゆえに二胡や胡弓のような東アジアの擦弦楽器は、後世に西方から伝わった楽器の種類である。

ビデオは、伝説の聖王である帝堯の作と伝えられる曲である。

《神人暢》伝・帝堯作

楽論篇第二十(4)

私は郷飲酒の礼(注1)を見て、王道の政治が容易であることを知る。主人である郷大夫は、賓(ひん。最優秀の子弟)と介(かい。次席の子弟)を招待して、衆賓(しゅうひん。その他の客)が彼らに従って参上する。門の外に彼らが至ったならば、主人は賓と介に拝礼して入れ、衆賓はその後に入る。賓・介とその他の客の貴賤を区別する礼である。門内に入れば主人と賓は三度会釈の礼を行った後に、階段の下に赴く。それから三度辞譲の礼を行って、賓客とともに階段を昇る。堂上に昇ったら、主人は賓を上座に上せて拝礼する。互いに盃をすすめて返し、互いに譲り合うことを頻繁に行う。以上の礼を、介においては省略した形式で行う。衆賓においては、階段を昇って堂上に進み、主人から盃を受け、ひざまづいて盃を神に捧げる礼を行んでから立って飲み、返礼の盃をせずに階下に下る。それぞれの貴賤に応じて、礼を明確に区別するのである。工(こう。音楽隊)が入場して、堂上で升歌(しょうか。詩経小雅の鹿鳴・四牡・皇皇者華の三詩歌のこと)の三歌を歌い終えたら、主人は盃を献じる。次に笙(しょうのふえ)の演奏者が入ってきて、堂下で三曲(南陔・白華・華黍。いずれも詩経小雅・鹿鳴之什の末尾に題名だけ収録されて、詩歌の本文は伝わらない。別に小雅・魚藻之什に白華の題名の詩歌が現存するが、これとは違うということである)を演奏し終えたら、主人はこれにも盃を献じる。間歌(かんか。詩経の詩歌を歌と笙とで代わる代わるに演奏することとという)を三度応答し終えて、合歌(ごうか。詩経の詩歌を歌と笙を合わせて演奏することという)を三度終えたら、工は賓に音楽がすべて終わったことを告げて退席する。そこで主人は二人の者に命じて、觶(し。さかずき)を賓と介とに捧げて、司正(しせい。宴会の監視者)を決める。郷飲酒の礼が互いに楽しみながらも奔放に流れないことが、ここから分かる。賓は主人に献盃し、主人は介に献盃し、介は衆賓に献盃する。主人側と賓客側とが互いに年齢順に従って献盃し合って、沃洗者(よくせんしゃ。盃を洗う身分低い従者)まで飲んで終わる。飲むことがすべての年齢の者に至って残る者がいないことが、ここから分かる。この後全員が階を降りて屨(く。くつ)を脱ぎ、再び堂上に昇って座り、盃を交し合うことは数限りがない。しかし飲酒には節度があって、朝は朝(ちょう。朝の事務)を必ず行った後から始め、夕方は夕(せき。夕方の事務)を行うまでとしてこれを決して怠ることはない。郷飲酒の礼が終わって賓が退出するときには、主人は門外で拝礼する。これで礼の文飾はすべて終了するのである。郷飲酒の礼がよくくつろぎながらも乱れないことが、ここから分かる。貴賤を明らかにし、礼を区別し、和合して楽しみながら奔放に流れず、すべての年齢の者が参加して残る者がおらず、よくくつろぎながらも乱れない。これら五つの行いは、人が身を正して国を安んずるために十分なものである。国が安んずれば、天下もまた安んずるであろう。ゆえに、「私は郷飲酒の礼を見て、王道の政治が容易であることを知る」と言うのである。

乱世の徴候を述べる。服装は華美、容貌はなまめかしく、風俗は淫乱、心は利益ばかりを追い、行動は筋道がなくて乱雑、音楽は歪み、礼の文飾はよこしまで装飾過多、生者の生活には節度がなく、死者を葬るやり方は墨子の愚かで薄情な流儀であり、礼義を卑しんで勇気と力を貴び、貧しければ盗み、富んでいれば他人を傷つける。治世は、これらと反対の徴候を示す。


(注1)原文「鄉(郷)」。増注は「郷は郷飲酒礼を言い、その礼は今儀礼に存す」と言う。郷飲酒の礼とは、地方の学校を卒業した最優秀の子弟を君主に推挙して官に上せるときに、郷大夫が行う送別の礼と言う。科挙がまだ存在しない古代においては、このように郷里から優秀な子弟を中央に推薦して官に上せる、いわゆる「郷挙里選」の制度が行われていた。
《原文・読み下し》(注2)
吾鄉(きょう)を觀て、王道の易易(いい)たるを知るなり(注3)。主人親(みず)から賓び及介(かい)を速(まね)きて、衆賓皆之に從う。門外に至れば、主人賓及び介を拜(はい)して、衆賓皆入る。貴賤の義別るるなり。三揖(さんゆう)して階に至り、三讓(さんじょう)して賓を以(ひき)い升(のぼ)り、至るを拜し、獻酬・辭讓の節繁し。介に及んでは省く。衆賓に至りては、升りて受け、坐して祭り、立ちて飲み、酢(さく)せずして降る。隆殺の義辨(べん)ずるなり。工入りて、升歌(しょうか)三終(さんしゅう)して、主人之に獻ず。笙(しょう)入りて三終して、主人之に獻ず。間歌(かんか)三終し、合樂(ごうがく)三終して、工樂備わると告げて、遂に出ず。二人觶(し)を揚げて、乃ち司正を立つ。其の能く和樂(わらく)して流せざるを知るなり。賓は主人に酬し、主人は介に酬し、介は衆賓に酬し、少長は齒(し)を以てして、沃洗者(よくせんしゃ)に終る。其の能く弟長にして遺すこと無きを知るなり。降りて屨(く)を脱ぎ、升りて坐し、爵を脩むること數無きも、飲酒之れ節ありて、朝(あした)に朝(ちょう)を廢せず、暮に夕(せき)を廢せず。賓出でて、主人拜送し、節文終り遂ぐ。其の能く安燕して、亂れざるを知るなり。貴賤は明(あきら)かに、隆殺辨じ、和樂して流せず、弟長にして遺すこと無く、安燕にして亂れず。此の五行なる者は、以て身を正し國を安んずるに足る。彼れ國安くして天下安し。故に曰く、吾鄉を觀て、王道の易易たるを知るなり、と。
亂世の徵。其の服は組(注4)、其の容は婦、其の俗は淫、其の志は利、其の行は雜、其の聲樂(せいがく)は險、其の文章は匿(とく)(注5)にして采(さい)、其の生を養うは度無く、其の死を送るは瘠墨(せきぼく)(注6)、禮義を賤みて勇力を貴び、貧なれば則ち盜を爲し、富なれば則ち賊を爲す。治世は是に反するなり。


(注2)以下、末尾の「亂世の徵」に始まる文章を除き、すべて『礼記』郷飲酒義篇の一部と細部までほぼ一致している。
(注3)礼記ではこの文の前に「孔子曰」が付いて、孔子の言葉という体裁が取られている。
(注4)増注は「組は未詳」と言う。集解の王先謙は「組は文なり、服組は華侈を謂う」と注する。
(注5)集解の王先謙は、「匿は読んで慝と為す。邪なり」と注する。天論篇(3)注11と同じ。
(注6)「瘠墨」について集解の郝懿行は、礼論篇の「死を送りて忠厚ならず、敬文ならざる、之を瘠と謂う」((3))と「死を刻して生に附する、之を墨と謂う」((4))を挙げて、墨は墨子の教、と言う。新釈の藤井専英氏は、礼論篇(4)注6と同じく「墨」を単に暗愚の意と取って「極めて薄情」とだけ訳している。そこで論じたことと同じく、暗愚という意味を持たせながら墨子を暗示したダブルミーニングであろう。

楽論篇の終わりには、『礼記』郷飲酒義篇の一部と同じ文章が置かれている。礼論篇の一部や楽論篇の冒頭部分と同じく、荀子学派のテキストが各書で重複して収録されているのであろう。礼記と一致する文章は、礼と音楽とが調和した郷飲酒の礼が説明されている。礼と音楽の綜合が儒家の目ざす理想の統治政策であるので、この楽論篇にあえて入れられたと考えてもおかしくはない。末尾の言は、それに対するように、礼と音楽が乱れることが乱世のしるしである、と言い置いて楽論篇を終える。

ビデオは、孔子の作と伝えられる琴曲である。『春秋経』の最後にある哀公十四年の「麟(りん)を獲る」のエピソードに寄せて作られたという。

《獲麟》伝・孔子作

礼論篇第十九(1)

礼とは、どこから発生したのであろうか?それは、人間とは生まれながらにして欲望があり、欲求して得ることができなければ、それでも求め続けずにはいられない性質がある。もしその求めるところに程度と限界が置かれなければ、必ず争うことになる。争いが起こればカオスとなって、カオスとなれば困窮するだろう。わが文明の建設者である先王たちはそのようなカオスを嫌ったので、礼義を制定して人間に区分を授け、これを通じて人間の欲求をうまく充たしてやり、人間の求めるものを与えて、人間の欲望が財物を己のものに奪い尽くしてしまわないように仕向け、財物が人間の欲求を無限に高揚させてしまわないように仕向け、欲求と財物の両者がバランスを保ちながら成長するように仕向けたのであった。これが、礼の発生した由来である。ゆえに、礼とは人間の欲求をよく養うものである。家畜の肉に穀物、五味に香辛料は、口の欲求を養う財物である。椒(さんしょう)に蘭、香草のたぐいは、鼻の欲求を養う対象である。器物調度の模様や衣装礼服の文様は、目の欲求を養う財物である。大鐘(おおがね)に管(ふえ)に磬(けい。大小の石板を並べて音階をつけた打楽器)、琴瑟(こと)に笙竽(しょうのふえ)は、耳の欲求を養う財物である。風通しのよい部屋に奥深い宮室、越席(かつせき。蒲のむしろ)に牀笫(しょうし。寝台の上に敷くすのこ)に几(き。ひじかけ)に筵(むしろ)は、身体の欲求を養う財物である。(これら礼が取り扱う財物は、すべて人間の欲求をよく養うものである。ゆえに、)礼とは人間の欲求を養うものなのである。君子はこれらの人間の欲求を養う財物を獲得した後に、さらに進んでそれを区別するのである。区別とは何であろうか?それは、貴賤の等級であり、長幼の差別であり、富の貧富と身分の軽重が適切に分配されていることである。ゆえに天子が越席(かつせき)に座し大路(たいろ。天子の乗車)に乗るのは、身体の欲求を養うためである。横には睪(たく)と芷(し。いずれも香草)を置くのは、鼻の欲求を養うためである。前に錯衡(さくこう。乗車の手すりのことと思われる)があるのは、目の欲求を養うためである。和鸞(からん。車に付いた鈴)の音が鳴り、徐行するときは武象(ぶしょう。武も象も、古楽の曲名)の調子に合わせ、快走するときには韶護(しょうかく。韶も護も、古楽の曲名)の調子に合わせるのは、これらの音声で耳の欲求を養うためである(注1)。龍旗に九斿(きゅうりゅう。九枚の垂れ布)を付けるのは、臣民の信頼感を養うためである。車輪には寢兕(しんじ。伏せた水牛)に特虎(とくこ。一匹の虎)を描き、馬には蛟韅(こうけん。水龍を描いた馬の腹帯)を着け、絲幦(しべき。絹糸で織った布)で車を覆い、彌龍(びりゅう。車のくびきの端に着けた龍の金飾り)で飾るのは、天子の威厳を養うためである。そして大路(たいろ)を引く馬は必ず馴らして教化した後に牽引させるは、安楽な乗り心地を養うためなのである。さて一方臣民の側の礼を見るならば、死を覚悟してまで節義を守り通すのは、他人から信用を得て己の生命を養うためであるのを熟知しなければならない。社交のために費用を出すのは、社会的地位を上げて己の財貨を養うためであることを熟知しなければならない。うやうやしくつつしんで譲るのは、他人から傷つけられることを防いで己の安全を養うためであるのを熟知しなければならない。煩雑な礼義文飾を守るのは、欲求をうまく制御して己の情性を養うためであるのを熟知しなければならないのである。ゆえに、人は己の生命を守ることばかりを考えるならば、人から助けてもらえなくなって必ず死ぬことになるであろう。己の利益を得ることばかりを考えるならば、回りまわって必ず損害を受けることになるであろう。なまけてやりたい放題に暮らして居直っているならば、他人から侮蔑を買って必ず危害を受けることになるであろう。己の情性を喜ばせて楽しむばかりであるならば、必ず滅亡して楽しむどころではなくなってしまうであろう。よって、人は礼義をもって唯一の行動原理とするならば、礼義と情性の両者をともに得るであろう。だが情性をもって唯一の行動原理とするならば、礼義と情性の両者をともに失ってしまうであろう(注2)。ゆえに儒者は人に礼義と情性の両者を得させる者なのである。いっぽう墨家の者どもは人に礼義と情性の両者を失わせてしまう者なのである。これが、儒家と墨家の分かれ道である(注3)


(注1)天子の礼についてのここまでの説明は、正論篇(5)にも同一の内容が見られる。
(注2)荀子は「性」を人間の生物学的属性であり、利己的性質であると考える。「情」はその性が外部に表れた、利己的快楽を求める感情である。この「性」「情」は利己的で破壊的であり、「偽(い)」を後天的に身に付けて矯正善導することが人間の目標である。聖王と君子は制度化された「偽」である礼を制定して運用することによって人間の情性を制御し、欲望を充たす財物を身分と能力に応じて合理的に分配して社会を統治する。以上が荀子の性悪説と、そこから派生する礼による統治論である。ここで情性と礼義が両立する、ということは、礼義によって本能的情性を制御することに成功する、という意味である。「性」「情」の定義については、正名篇(1)を参照。情性は人間の属性であって取り除くことができずむしろ制御しなければならない、という主張については、性悪篇の全体あるいは正論篇後半の子宋子への批判を参照。
(注3)以上の文章は、『史記』礼書に若干の語句の差異をもってほぼ同文が表れる。『史記』礼書でこれに続く文は、議兵篇(5)の文とほぼ同文である。さらに『史記』礼書がその後に続ける文は、次の礼論篇(2)の文とほぼ一致する。すべてまとめると、『史記』礼書の後半部分はほぼ全文が『荀子』礼論篇・議兵篇の中に見ることができる。
《原文・読み下し》
禮は何に起るや。曰く、人生れて欲すること有り、欲して得ざれば、則ち求むること無き能わず。求めて度量・分界無ければ、則ち爭わざること能わず。爭えば則ち亂れ、亂るれば則ち窮す。先王は其の亂を惡(にく)む、故に禮義を制して以て之を分ち、以て人の欲を養い、人の求(もとめ)を給し、欲をして必ず物を窮めず、物必ず欲を屈(つく)せ(注4)ざらしめ、兩者相持して長ず、是れ禮の起る所なり。故に禮なる者は養なり。芻豢(すうけん)・稻梁(とうりょう)、五味・調香は、口を養う所以なり。椒蘭(しょうらん)・芬苾(ふんひつ)は、鼻を養う所以なり。雕琢・刻鏤(こくろう)、黼黻(ほふつ)・文章は、目を養う所以なり。鐘鼓(しょうこ)・管磬(かんけい)、琴瑟(きんしつ)・竽笙(うしょう)は、耳を養う所以なり。疏房(そぼう)・檖䫉(すいぼう)(注5)、越席(かつせき)・牀笫(しょうし)・几筵(きえん)は、體を養う所以なり。故に禮なる者は養なり。君子既に其の養を得、又其の別を好む。曷(なに)をか別と謂う。曰く、貴賤等有り、長幼差有り、貧富・輕重皆稱(しょう)(注6)有る者なり。故に天子は大路(たいろ)・越席なるは、體を養う所以なり。側に睪芷(たくし)を載(お)くは、鼻を養う所以なり。前に錯衡(さくこう)有るは、目を養う所以なり。和鸞(からん)の聲、步は武象(ぶしょう)に中(あた)り、趨(すう)は韶護(しょうかく)に中るは、耳を養う所以なり。龍旗・九斿(きゅうりゅう)は、信を養う所以なり。寢兕(しんじ)・持虎(とくこ)(注7)・蛟韅(こうけん)・絲末(しべき)(注8)・彌龍(びりゅう)は、威を養う所以なり。故に大路の馬は必ず倍(しん)(注9)至り敎順(したが)いて、然る後に之に乘るは、安を養う所以なり。夫の出死・要節の生を養う所以なるを孰知(じゅくち)し、夫の費用を出すの財を養う所以なるを孰知し、夫の恭敬・辭讓の安を養う所以なるを孰知し、夫の禮義・文理の情を養う所以なるを孰知す。故に人苟(いやし)くも生を之れ見ることを爲す若(ごと)き者は必ず死す。苟くも利を之れ見ることを爲す若き者は必ず害せらる。苟くも怠惰・偷懦(とうだ)を之れ安と爲す若き者は必ず危し。苟くも情說(じょうえつ)(注10)を之れ樂と爲す若き者は必ず滅す。故に人之を禮義に一にすれば、則ち之を兩得し、之を情性に一にすれば、則ち之を兩喪す。故に儒者は將(まさ)に人をして之を兩得せしむる者にして、墨者は將に人をして之を兩喪せしむる者なり、是れ儒・墨の分なり。


(注4)楊注は、「屈」は「竭」なり、と言う。つきる。
(注5)「疏房」について楊注は、通明の房なりと言う。風通しのよい部屋の意。「檖䫉」について、楊注は未詳、或説に「檖」は読んで「邃」となし、䫉(貌)は廟にして宮室尊厳の名なり、と言う。したがって奥深い宮室の意味となるだろう。この或説に従っておく。なお「䫉」字はCJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注6)楊注は、「稱(称)は各(おのおの)その宜しきに当たるを謂う」と注する。
(注7)集解の盧文弨は、「持」は「特」の誤り、と言う。漢代の礼制では、諸侯王の車の車輪には兕(じ。水牛の一種)と一匹の虎が描かれ、この虎の絵を特虎(とくこ)と呼んだということである。
(注8)楊注は、「末」は「幦(べき)」と同じ、と言う。糸幦(しべき)とは、絹糸で織った布のことと言う。
(注9)集解の盧文弨は、『史記』では「倍」が「信」に作られていることを言う。これに従う。
(注10)楊注は、「説」は読んで「悦」となす、と言う。

礼論篇は、礼の重要性を主張する長大な篇である。これまで見てきたように、荀子は礼の実践を君子の倫理として、なおかつ国家の政策として最も重視する。なので、この礼論篇が荀子の思想にとって要の篇の一つであることは、荀子と彼の学派が最もよく意識していたことであろう。

礼論篇のテキストの一部は『史記』礼論篇と『大戴礼記』礼三本篇、および『礼記(小戴礼記)』三年問篇のテキストとほぼ一致する記事となっている。上に訳した箇所は、『史記』礼書において若干の語句の差異をもってほぼ同文が表れる。また礼論篇のこの後に続く「礼に三本有り」以下の叙述は、やはり『史記』礼書にほぼそっくりそのまま表れる。この「礼に三本有り」以下の文は、『大戴礼記』礼三本篇ともほぼ同テキストである。『荀子』が劉向によって荀卿新書(孫卿新書)の名で編纂されたのは漢代末期であり(BC26年)、『史記』(漢武帝期)『大戴礼記』『礼記』(両者の正確な編纂時期は不明だがテキストは漢代初期に伝わっていた儒家のテキストに拠る)よりも後の時代である。『荀子』が編纂される以前に、荀子学派の礼関係のテキストは他書に収録されるまでに漢代の学者界隈で重視されていた。

礼論篇の冒頭では、礼の起源について、富国篇と同じ説が立てられる。すなわち、人間の無限の欲望は互いの欲望の衝突をもたらし、絶えざる争いと貧困の世界を招かずにはいられない。そのためにいにしえの先王は礼義を制定して身分秩序を作り、各人の能力に応じて身分の貴賤を定め、身分と能力に応じて欲望の実現できる程度を階層化した。これによって人間は争いと貧困の日常から脱却できたのであって、人間は自らの生存と繁栄のために君主の権力とその制定した礼義の作る身分秩序にあえて従うのである。それが荀子の社会契約説であり、したがって荀子にとって礼義とは人間の生存と繁栄のために必要不可欠な社会装置なのである。

上に訳した箇所の最後に、墨家が儒家と比較されて、墨家を批判する。荀子が墨家を批判する理由は、これもまた富国篇の叙述に詳しい。富国篇での批判の眼目は、墨家の非楽・節葬・節用が社会に秩序をもたらさず混乱を招くだけである、という墨家の推奨する政策の無効性についてであった。いっぽうこの礼論篇においては、墨家の主張の一である節葬に対抗するために、「三年の喪」を擁護する長大な文章が置かれている。「三年の喪」は、『論語』『孟子』にも表れる。それは、儒家が古代中国の正統的な喪礼であると主張し続けた儀式である。儒家を受け継ぐ荀子は、それゆえにこの礼論篇でその有益性を主張したのである。だが、「三年の喪」は、本当に中国文化のいにしえの時代において実施されていた古制であったのだろうか。それは節葬を主張する墨家に対抗するために、儒家があえて固執したグロテスクな復古思想であったのかもしれない。礼論篇の「三年の喪」を擁護するあたりの叙述は後半に表れるが、現代の読者にとっては退屈なものである。

礼論篇第十九(2)

礼には三つの根本がある。天と地は、万物が発生する根本である。先祖は、人間という種が発生する根本である。君師(くんし。人間を率いる師である君主のこと)は、人間社会が統治される根本である。天地がなければ万物は発生することができず、先祖がなければ人間は発生することができず、君師がいなければ人間社会は統治されることができない。この三者の一つでもなくなったら、人間は安泰でいられはしない。ゆえに礼では上には天に仕え、下には地に仕え、先祖を尊び、君師を貴ぶのである。これが、礼の三つの根本である。よって王者は太祖(王家の祖先)を天に並べて祀り、諸侯はその祖先の宗廟を壊すことをせず、大夫・士(上級と下級の家臣)は永世変わらず大宗(たいそう)(注1)に仕えるのである。これは始原を尊ぶことを特別に区別するのであり、始原を尊ぶことは徳の根本である。郊(こう。天を祭る儀式)は天子だけが行い、社(しゃ。地を祭る儀式)は天子のみならず諸侯から士・大夫まで行う(注2)。これは身分尊い者が尊い存在に仕え、身分低い者が低い存在に仕えることを区別するのであり、大きな者は大きくあり、小さな者は小さくあるべきなのである。ゆえに天下を保有する天子は七世前の祖先までを宗廟に祀って仕え、一国を保有する諸侯は五世前まで、五乗の地(注3)を保有する大夫は三世前まで、三乗の地を保つ士は二世前までを宗廟で祀って仕え、自分の手を働かせて食を得なければならない一般人民は祭廟を立てることはできない。これは国家への功績の厚さを区別するのであり、身分高い者は功績が厚いゆえにその恩沢は大きく広がるが、身分低い者は功績が薄いゆえにその恩沢は狭いのである。大饗(たいきょう)(注4)においては、玄尊(げんそん。尊は酒を入れる祭器。その尊に水を入れたもの)を上にのぼせて、生魚を俎(そ。つくえ)にのぼせて、大羹(たいこう。塩と梅で味付けしない肉スープ)をまずすすめる。これは、飲食の始原の姿をかたどったものである。饗(きょう)(注5)においては、玄尊を上にのぼせて、酒醴(しゅれい。あまざけ)を用い、黍(きび)と稷(もちきび)をまずすすめ、稲と梁(おおあわ)を供える。祭(さい)(注6)には、大羹を上にのぼせて、庶羞(しょしゅう。神に捧げる品物)を十分に揃える。これらは、飲食の根本を貴びながらも、実用に近づけたものである。根本を貴ぶことを文と言い、実用に近づけることを理と言う。文・理の両者が合わさって祖先の祭祀は文飾を作り、全体として一体(注7)となる。これを大隆(たいりゅう)と言う。ゆえに、尊に玄酒(げんしゅ。水)を入れた玄尊をのぼせることと、俎の上の生魚をのぼせることと、豆(とう。食器の一)に大羹を盛ってまずすすめることとは、飲食の始原の姿をかたどるという同一の意味をもっているのである。利(り。祭祀で飲食を輔佐する役の人)の献ずる爵(しゃく。さかずき)の中の酒を飲み干さないことと(注8)、成事(せいじ)(注9)においては俎の上の魚を食べないことと、三侑(さんゆう)(注10)がすすめる三飯の後は食しないこととは、祭礼の終わりを示すという同一の意味を持っているのである。天子の昏礼(こんれい。婚礼)において両者がまだ対席しない段階(注11)と、宗廟にまだ尸(かたしろ)を入れない段階と、死者が息を引き取ってからまだ小斂(しょうれん)(注12)をしない段階は、祭礼の始まりを示すという同一の意味を持っているのである。大路(たいろ。天子の車)に素幦幬(そべきちゅう。絹糸で織った白布)をかぶせることと、郊の祭で麻の冠を着けることと、喪服には麻の帯の先を散らして垂らすことは、素朴さを示すという同一の意味を持っているのである。三年の喪(注13)においては往って反らないように消え入る声で哭泣することと、宗廟の歌においては一人が歌って三人が追いかけて和することと、祭祀の音楽では鐘一つを懸け、拊膈(ふかく。なめし革に糠を入れた単純な楽器)を上にのぼせ、瑟(おおごと)には朱色の練糸で絃(げん)を張り越(かつ。瑟の裏に空ける穴)をうがって鈍い音色を出すことは、華美に走らない素朴な祭祀を行うという同一の意味を持っているのである。およそ礼とはまずひきしまった簡素さから始まり、やがて文飾を成し、最後に喜ばしく終わるのである。ゆえに最上の礼とは感情と文飾がともに完全に備わっていることであり、次に感情と文飾のどちらかが勝っていることであり、その下は感情に一本化されて文飾が消え去ってしまうことであるが、しかしそれこそが原初の姿であるともいえるだろう。天地はこの礼によって合し、太陽と月はこの礼によって輝き、四季はこの礼によって順序を整え、星々はこの礼によって巡り、長江と黄河はこの礼によって流れ、万物はこの礼によって繁盛し、人間の好悪は礼によって節度を持ち、人間の喜怒もまた礼によって適切となるのでである(注14)。礼に従えば、人の下に立てば従順となり、人の上に立てば明察となる。万物は変化するが乱れることがないのは、礼の秩序に従っているからである。だがひとたび礼から外れたならば、一切は亡んでしまうだろう。礼とは、なんと至上のものではないか。聖王は盛んなる礼義を立ててこれを最高の規準となし、天下はこれを減らすことも増やすこともできなかった。根本の感情と展開された文飾とが相従い、簡素な最初とよろこばしい最後とが相応じ、文飾の極地が身分の区別を作り、明察の極地の作品であるがゆえに礼の意義がその中でよく理解されるように作られているのである。天下で聖王の礼に従う者は治まるが、これに従わない者は乱れるだろう。聖王の礼に従う者は安泰であるが、これに従わない者は危険となるだろう。聖王の礼に従う者はその身を存続するが、これに従わない者は滅亡するであろう。このことは、思慮浅い小人には測りかねることなのだ。礼の道理とは、まことに深い。堅白同異(けんぱくどうい)(注15)の詭弁を唱える論者どもがここに入り込んでも、溺れ死ぬことであろう。礼の道理は、まことに大きい。勝手に法典や規則を作り出して偏った説を唱える論者ども(注16)がここに入り込んでも、滅亡することであろう。礼の道理は、まことに高い。粗暴傲慢、勝手気まま、風俗軽薄をもって高しとなす論者ども(注17)がここに入り込んでも、墜落して死ぬことであろう。ゆえに縄墨(すみなわ)が正しく並べられていたならば、直線と曲線を欺くことはできない。衡(はかり)が正しく掛けられていたならば、軽重を欺くことはできない。規(コンパス)と矩(ものさし)が正しくあてがわれていたならば、四角形と円形を欺くことはできない。そして君子が礼を詳しくすれば、いつわりの行為と正しい行為(注18)を欺くことはできない。よって縄とは直線の極地であり、衡とは均衡の極地であり、規矩とは四角形と円形の極地であり、礼とは人道の極地である。なのに礼に法らず礼を十分身に着けない者は、これを無方の民(注19)と言うべきである。いっぽう礼に法り礼を十分身に着ける者は、これを有方の士と言うべきである。万事が礼に当たっていてよく思索するならば、これをよく慮る者と言うべきであり、万事が礼に当たっていて決して変えることがないならば、これをよく堅固なる者と言うべきである。よく慮ってよく堅固であり、加えて礼を好む者は、聖人と言うべきである。ゆえに天は高さの極地であり、地は低さの極地であり、四つの方角は果ての無さの極地であり、聖人は正道の極地なのである。よって学ぶ者はもとより聖人となることを学ぶのだ。ただに無方の民となることを学ぶのではない。

礼とは、財物を用いて行うものであり、文飾によって貴賤を区別するのであり、分量の多い少ないによって格差を設けるのであり、厚く増したり薄く削ったりすることが運用の要点である。文飾がたくさんあって実用面が簡素であるのは、礼の厚く増した姿である。実用面がたくさんあって文飾が貧弱であるのは、礼の薄く削った姿である。文飾と実用との両者が内外表裏となって並び行われるのは、礼の中庸な姿である。ゆえに君子は上の厚い礼も下の薄い礼も尽くしながらその中間にとどまり、ゆっくり歩くときから全速力で駆けるときまでも、礼から外れないのである。これが、君子の守るべき境界(注20)である。人がこの境界を守れば士・君子(注21)であり、ここから外れたならば一般人民である。この境界の中をあまねく行き届き、その秩序を完全に会得している者は、聖人である。ゆえに、聖人の厚い徳はその礼の蓄積なのであり、聖人の偉大な徳はその礼の広大な広がりなのであり、聖人の高遠な徳はそれが礼を尊重することのあらわれなのであり、聖人の明察な知はそれが礼を極めたからなのである。『詩経』に、この言葉がある。:

礼儀、卒(ことごと)くに度あり
笑うも語るも、卒く礼儀のとおり
(小雅、楚茨より)

これが聖人であり、士・君子の目指すところなのである。


(注1)諸侯の公子で臣籍に下って大夫となる者を別子(べっし)というが、その別子の長子を宗と呼び、別子の末裔の一族は宗を大宗として仕える。
(注2)増注に従い、このように解釈した。下の注24参照。
(注3)楊注によると、古制では一成すなわち十里(約4km)四方につき革車一乗を出した。五乗の地とは、大夫の采地である。
(注4)楊注は、「大饗は先王を給祭す」と言う。祖先を合わせて祀る祭で、三年に一回行うという。
(注5)楊注は、「饗は享と同じ、四時廟を享くるなり」と言う。四季ごとの廟祭。
(注6)楊注は、「祭は月祭なり」と言う。毎月の祭。
(注7)原文「大一」。楊注は「大は読んで太となし、太一は太古の時を謂う」と注する。始原の根本が祭祀において表されている、というような意であろう。新釈は荻生徂徠『読荀子』を挙げて、合体された一、総括された一、の意で思弁的意義は含まない、と注する。新釈に寄せて訳す。
(注8)『儀礼』によると、利はまず尸(し。死者の霊を受ける役。かたしろ)に爵をすすめ、次に祝(しゅく。神に祈る役。かんぬし)に爵をすすめ、祝はこれを飲み干さずなめただけで戻す、と言う。
(注9)集解の王先謙は史記索隠を引いて、成事は卒哭(そつこく)の祭、と言う。卒哭とは喪礼の一で、人が死ぬと時間を決めずに哭(な)く一定の期間のこと。卒哭では、爵を受けるが俎の魚には手を付けない礼があるという。
(注10)三侑(三宥)とは、尸に飯をすすめる三人の手伝者。三人が尸に代わる代わる飯をすすめて、尸は三飯して飽きたことを告げ、それ以上は食さない礼と言う。
(注11)原文読み下し「未だ齊を發せざる」。増注に従えば、婚礼においてはまず二人の席および黍と稷と爵を設け、二人が相対した(これを齊と言う)後にこれらを並べると言う。
(注12)小斂とは、死んだ翌日に衣服で死体をくるむ儀式と言う。
(注13)親および君主に対する喪。礼論篇の後半で詳説される。
(注14)天論篇で見られるように、荀子は人間の行為と天地の自然現象は無相関であると考える。よって人間が礼を正しく行えば天地の自然が正しく運行する、といった効果を想定しているわけではない。そのように考えるのは、漢代以降の儒者である。ここの表現は、天地自然に秩序があることと同じく人間世界も礼の秩序によって統御されることが正しい、という意味として取るべきであろう。
(注15)名家、公孫龍の説。劉向校讎叙録の注9を参照。増注は、惠施(けいし)・鄧析(とうせき)の説と言う。非十二子篇(1)参照。
(注16)増注は、慎到(しんとう)・田駢(でんべん)の説と言う。非十二子篇(1)参照。
(注17)増注は、它囂(たごう)・魏牟(ぎぼう)の説と言う。非十二子篇(1)参照。
(注18)原文「詐偽」。新釈の藤井専英氏も言うように、ここでは「詐」と「偽」が対義語として用いられているはずだから、詐偽(さい)と読んで詐はいつわりの行為、偽は正しい行為とみなすしかないだろう。現代語の「詐偽」の意味とは違う意味で解釈しなければならない。「偽」の肯定的意味については、正名篇(1)の語の定義、および性悪篇を参照。
(注19)無方の民・有方の士について、集解の郝懿行は、「方はなお隅のごときなり。廉隅は稜角あり、士は砥厲を知る、故に徳隅有り。民は廉恥無し、故にその隅を喪うなり」と言う。礼によって徳を磨いているかそうでないか、ぐらいの意であろうか。楊注は「方はなお道のごときなり」と言う。これならば正道に従っているかそうでないか、の意となるだろう。
(注20)原文「壇宇・宮廷」。儒效篇(9)注11および15参照。
(注21)上の礼制の説明における士・大夫と、ここでの士・君子は意味が異なっている。礼制の説明においては具体的な身分秩序として士・大夫は上級・下級の宮廷人を指す言葉であったが、ここでの士・君子は聖人と対比される語であり、君主たる聖人の下に就く官僚を指す。聖人の対比概念としての士・君子については、脩身篇(4)注2ほかを参照。
《原文・読み下し》
禮に三本有り(注22)。天地なる者は生の本なり、先祖なる者は類の本なり、君師なる者は治の本なり。天地無くんば惡(いずく)んぞ生ぜん、先祖無くんば惡んぞ出でん、君師無くんば惡んぞ治まらん。三者偏亡すれば、安人無し。故に禮は、上は天に事(つか)え、下は地に事え、先祖を尊びて、君師を隆(とうと)ぶ。是れ禮の三本なり。故に王者は太祖を天とし、諸侯は敢て壞(こぼ)たず、大夫・士は常宗有り。始を貴ぶを別つ所以にして、始を貴ぶは得(とく)(注23)の本なり。郊(こう)は天子に止(とどま)り、社は諸侯に止(いた)り、道(つう)じて士・大夫に及ぶ(注24)。尊者は尊に事(つか)え、卑者は卑に事うるを別つ所以にして、宜(よろ)しく大なる者は巨なるべく、宜しく小なる者は小なるべし(注25)。故に天下を有する者は十世(しちせい)(注26)に事え、一國を有する者は五世に事え、五乘の地を有する者は三世に事え、三乘の地を有する者は二世に事え、手を持(たの)みて食する者は宗廟を立つることを得ず。積厚(せきこう)を別つ所以にして、積厚(あつ)き者は流澤廣く、積薄き者は流澤狹し(注27)。大饗(たいきょう)には玄尊(げんそん)を尚(かみ)にし、生魚を俎(そ)にし、大羹(たいこう)を先にするは、食飲の本を貴ぶなり。饗(きょう)には玄尊を尚にして酒醴(しゅれい)を用い、黍稷(ししょく)を先にして稻粱(とうりょう)を飯し、祭(さい)には大羹を齊(のぼ)して(注28)庶羞(しょしゅう)に飽かすは、本を貴びて用を親するなり。本を貴ぶを之れ文と謂い、用を親するを之れ理と謂い、兩者合して文を成し、以て大一(たいいつ)に歸す。夫れ是を之れ大隆(たいりゅう)と謂う。故に尊(そん)の玄酒(げんしゅ)を尚(かみ)にするや、俎の生魚を尚にするや、豆(とう)の大羹を先にするや、一なり。利爵(りしゃく)の醮(しょう)せざるや、成事の俎の嘗(しょう)せざるや、三臭(さんゆう)(注29)の食せざるや、一なり。大昏(たいこん)の未だ齊を發せざるや、太廟の未だ尸(し)を入れざるや、始卒(ししゅつ)の未だ小斂(しょうれん)せざるや、一なり。大路(たいろ)の素未集(そべきちゅう)(注30)や、郊の麻絻(まべん)するや、喪服(そうふく)の散麻(さんま)を先にするや、一なり。三年の喪、之を哭(こく)して文(かえ)らざるや(注31)、清廟(せいびょう)の歌に、一倡(いっしょう)して三歎するや、一鐘(いっしょう)を縣け、拊[之]膈(ふかく)(注32)を尚(かみ)にし、朱絃(しゅげん)にして通越(つうかつ)するや、一なり。凡そ禮は梲(せい)(注33)に始り、文に成り、悅校(えつこう)(注34)に終る。故に至備は情・文俱(とも)に盡し、其の次(つぎ)は情・文代(こもごも)勝ち、其の下は情に復して以て大一に歸するなり。天地は以て合し、日月は以て明(あきら)かに、四時は以て序し、星辰は以て行(めぐ)り、江河も以て流れ、萬物も以て昌(さかん)に、好惡(こうお)も以て節し、喜怒も以て當る。以て下と爲れば則ち順に、以て上と爲れば則ち明に(注35)、萬物變じて亂れず、之に貳(たが)えば則ち喪ぶなり(注36)。禮豈(あ)に至(し)ならざらんか。隆を立てて以て極と爲し、天下之を能く損益するもの莫きなり。本末相順(したが)い、終始相應(おう)じ、至文(しぶん)以(にして)(注37)別有り、至察(しさつ)以(にして)說有り、天下之に從う者は治り、從わざる者は亂れ、之に從う者は安く、從わざる者は危く、之に從う者は存し、從わざる者は亡ぶ。小人は測ること能わざるなり。禮の理は誠に深し、堅白同異(けんぱくどうい)の察、焉(ここ)に入るも而(しか)も溺(おぼ)る。其の理は誠に大なり、擅作(せんさく)・典制・辟陋(へきろう)の說、焉(ここ)に入るも而も喪ぶ。其の理は誠に高し、暴慢・恣睢(しき)・輕俗、以て高しと爲すの屬、焉(ここ)に入るも而も隊(お)つ(注38)。故に繩墨(じょうぼく)誠に陳(ちん)すれば、則ち欺くに曲直を以てす可からず。衡(こう)誠に縣(けん)すれば、則ち欺くに以て輕重を以てす可からず、規矩(きく)誠に設(もう)くれば、則ち欺くに方圓(ほうえん)を以てす可からず、君子は禮に審(つまびら)かなれば、則ち欺くに詐僞(さい)を以てす可からず。故に繩なる者は直の至(いたり)、衡なる者は平の至、規矩なる者は方圓の至、禮なる者は人道の極(きわみ)なり。然り而(しこう)して禮に法(のっと)らず、禮に足らざる、之を無方の民と謂う。禮に法り、禮に足る、之を有方の士と謂う。禮に之れ中(あた)りて能く思索する、之を能く慮ると謂い、禮に之れ中りて能く易(か)うること勿(な)き、之を能く固しと謂う。能く慮り能く固く、加うるに好む者は、斯れ聖人なり。故に天者(は)高の極なり。地者(は)下の極なり。無窮者(は)廣の極なり。聖人者(は)道の極なり。故に學なる者は、固(もと)より聖人と爲ることを學ぶなり。特(ただ)に無方の民を爲ることを學ぶに非ざるなり。
禮なる者は、財物を以て用と爲し、貴賤を以て文と爲し、多少を以て異と爲し、隆殺(りゅうさい)を以て要と爲す。文理繁く、情用省くは、是れ禮の隆なり。文理省き、情用繁きは、是れ禮の殺(さい)なり。文理・情用、內外・表裏を相爲し、並び行われて襍(まじ)わるは、是れ禮の中流なり。故に君子は上其の隆を致(きわ)め、下其の殺(さい)を盡(つく)し、而(しこう)して中其の中に處る。步驟(ほしゅう)・馳騁(ちてい)・厲鶩(れいぶ)も、是に外れず。是れ君子の壇宇(だんう)・宮廷なり。人是を有(たも)てば士・君子なり、是に外るるは民なり。是の其の中に於て、方皇(ほうこう)・周挾(しゅうしょう)し、曲(つぶさ)に其の次序を得るは、是れ聖人なり。故に厚なる者は禮の積なり、大なる者は禮の廣なり、高なる者は禮の隆なり、明なる者は禮の盡なり(注39)。詩に曰く、禮儀卒(ことごと)く度あり、笑語(しょうご)卒く獲(う)、とは、此を之れ謂うなり。


(注22)「禮に三本有り」の言は、史記にない。
(注23)楊注は、「得」はまさに「徳」となすべし、と言う。
(注24)原文「郊止乎天子、而社止於諸侯、道及士大夫」。真ん中の「止」字と最後の「道」字をいかに解釈するかで、注釈者の意見が分かれている。史記は「止」字を「至」字に作り、「道」字を「函」字に作る。新釈の藤井専英氏は、真ん中の「止」字を変えずに劉師培の「道は禫(たん)の古文」説を取る。すなわち「郊(こう)は天子に止り、社は諸侯に止り、は士・大夫に及ぶ」と読む。禫は、父母が死去して三年の喪(実質は二十五ヶ月)が明けて一ヶ月隔てた二十七ヶ月目に行う祭のこと。よって新釈はこの箇所を「地を祭る社祭は天子と諸侯のみが行ない、先祖を祭る禫祭は天子諸侯より士大夫にまで及ぶ」と訳している。いっぽう増注の久保愛は楊注の「道は通なり」を正しいと言い、根拠に礼記の「大夫以下、羣(ぐん)を成して社を立つ、置社と曰う」を引く。集解の郝懿行の説明によれば、「羣(群)」は衆であって、大夫以下庶人に至るまでは一家単独で社を立てず集団で一社を共立するならわしであった。よって、天子から士・大夫、さらには庶人に至るまで社を立てること自体は通じて行うので、「道」を「通」と読む解釈が成り立つ。この解釈を取る場合、真ん中の「止」字は変えなければ意味が通じない。増注本は史記にならって「至」字を採用している。藤井説でも読むことは可能であるが、通説の読み方である増注説を取っておく。
(注25)新釈の藤井専英氏は、「尊者は尊に事え、、」以下を上に示したように読み下している。漢文大系および金谷治氏は、「尊者は尊に事え、卑者は卑に事え、宜しく大なる者は巨なるべく、宜しく小なる者は小なるべきを別つ所以なり」のように読み下している。藤井氏は前の「始を貴ぶを別つ所以にして、、」に形式を合わせ、さらに後の「積厚を別つ所以にして、、」(下の注27参照)に形式を合わせるべきとしている。藤井説に従って読み下す。
(注26)増注・集解の王先謙ともに、大戴礼記・史記に合わせて「十」を「七」に作るべし、と言う。
(注27)原文「所以別積厚、積厚者流澤廣、積薄者流澤狹也」。集解の盧文弨・王念孫は、大戴礼記・史記が「積厚」を二回重ねないことを引いて、一方を削るべし、と言う。しかし新釈の藤井専英氏は上の注25の理由によりこれを削らずに読んでいる。藤井説に従い、「積厚」を削らない。
(注28)大戴礼記・史記は「齊」を「嚌」に作る。楊注はこれに従う。嚌とは、供え物の飲料を歯まで入れてなめるだけにとどめる儀礼。集解の兪樾はこれに対し、「齊」は「躋」となすべし、と言う。漢文大系・新釈ともに兪樾説を取る。躋はのぼるの意で、前にある「尚」字と同じ。
(注29)大戴礼記は「臭」を「侑」に作る。増注は、「臭は、今史記宥に作る。是なり。宥は侑に同じ」と注している。久保愛の参照した史記では「宥」に作られていたようである。現行本は「侑」字となっている。
(注30)集解の兪樾は、「未」はまさに「末」となすべし、と言う。すなわち礼論篇(1)注8の絲幦と同じであり、素幦(そべき)は絹糸で織った白布。「集」字について、猪飼補注は衍字と言い、集解の兪樾は読んで「幬(ちゅう)」となすべし、と言う。幬は帳(ちょう、とばり)の意。「集」字を衍字とみなさない兪樾説を取りたい。よって「素幦幬(そべきちゅう)」は、絹糸で織った白い覆い布の意。
(注31)集解の盧文弨は、大戴礼記・史記ともに「文」を「反」に作ることを引いて、字の誤と言う。これに従う。
(注32)集解の郝懿行は、楽論篇にある「拊鞷」がこれに当たると言う。王先謙は、大戴礼記・史記により「之」字は衍と言う。拊膈(ふかく)とは、韋(なめしがわ)で作り中に糠を入れた簡単な楽器という。
(注33)「梲」を史記は「脱」字に作る。集解の郝懿行は、「梲」はまさに「税」に作るべし、と言う。税(せい)は収斂の意で、ひきしめること。いっぽう増注はまさに「脱」に作るべし、と言う。粗略の意。郝懿行に従う。
(注34)集解の郝懿行は、「校」はまさに「恔」に作るべし、と言う。悅恔は、よろこびの意。
(注35)史記は、この文のここから後の「萬物變じて、、」が省略されて、つづく「禮豈に至ならざらんか」の文が「太史公曰く、至なるかな(太史公曰、至矣哉)」と変えられて、以下は司馬遷の礼についての賛辞として書かれている。だがこの賛辞の言葉は、この礼論篇にあるとおり司馬遷の言葉ではない。もしかしたら史記の礼書を実際に書いた史官が荀子学派の者で、荀子の礼論篇がその者の筆であった可能性もないわけではない。かの膨大な史記を、全て司馬遷一人が書いたわけはない。司馬遷は、スタッフとして配下に多数の史官を抱えていたはずである。
(注36)大戴礼記の礼三本篇と重なる文は、ここまでである。
(注37)集解の王念孫は、「以」はなお「而」のごときなり、と言う。後ろも同じ。
(注38)楊注は、「隊」は古の「墜」字なり、と言う。
(注39)史記はここまでで終わり、この後の詩経からの引用はない。

上の箇所はほぼ同文が『史記』礼書にあり、またその前半部分は『大戴礼記』の礼三本篇に重なっている。祖先の祭祀についての概略と、その意義が書かれている。天下を統一した秦始皇帝は、焚書坑儒を行ったことで後世に悪名が高い。しかし始皇帝の側近として仕えた博士には儒家の叔孫通(しゅくそんとう)がいたのであって、始皇帝は必ずしも全ての儒家を遠ざけたわけではなかった。統一された帝国の宮廷には礼制が必要であり、宮廷儀式に詳しい儒家の知識は、始皇帝といえどもそれなりに必要であったはずである。始皇帝が弾圧したのは儒家が礼とともに主張する統治者倫理の箇所であり、そこをもって始皇帝を批判する儒家を始皇帝は許すことはなかった。漢帝国は秦帝国の法律である秦律を大枠で受け継いで漢律を制定したが、礼制についてもそうであった。「(秦の滅亡後に漢の高祖に仕えた)叔孫通が増やしたり削ったりしたところがずいぶんあるが、それでも大方は秦の礼制を継承した」(『史記』礼書より)。儒家の礼制は秦漢帝国の宮廷儀式として採用され、後世に多少の変遷はあれど継承されていったはずである。