楽論篇第二十(2)

By | 2015年11月9日
そもそも音楽が人の心の中に入るのは深く、その人を教化することは速やかである。ゆえにわが文明の建設者である先王は謹んで音楽に文飾を行ったのであった。音楽が中庸で雅正であれば、人民は和合するも淫奔になることはない。音楽が厳粛で荘厳であれば、人民は斉一してカオスとならない。人民が和合して斉一となれば、兵は強くて城は固くなり、敵国はあえて干渉しようとはしなくなるだろう。このようになれば、人民はそれぞれの立場に安んじて暮らし、それぞれの郷里の生活を楽しみ、君主に必ず満足することであろう。しかる後に君主の名声はここにおいて明らかに表れ、その光と輝きはここにおいて大いになり、四海全ての人民がこの君主を師として従うことを願うことであろう。こうして音楽を整えることは、王者の始原の点なのである。だが音楽がなまめかしくて歪んでいるならば、人民は淫奔散漫となって賤しくなるであろう。淫奔散漫であればカオスとなり、賤しくなれば争う。人民がカオスとなって争えば、兵は弱くなって城は劫略され、敵国によって危機に陥るであろう。このようになれば、人民はそれぞれの立場に安んじて暮らせなくなり、郷里の生活を楽しめなくなり、君主に満足することができないだろう。ゆえに礼楽がすたれてよこしまな音楽が起こることは、国が危うくなり領地を削られ辱めを受ける根本的要因なのである。ゆえに先王は礼楽を貴んで、よこしまな音楽を賤しんだ。それで官制規則には、「法令を整え、詩歌の文を確定し、よこしまな音楽を禁止し、時に応じて音楽を習い修め、中華でない蛮夷の風俗とよこしまな音楽が雅正なる風俗と音楽を乱さないようにするのは、大師(たいし)の任務である」と定められているのである(注1)。墨子は、「音楽というものは、聖王が否定したものである。なのに儒家がこれを行うのはまちがいである」と言う。しかし君子ならば墨子は間違っている、と考えるだろう。音楽というものは、聖人が楽しんだものであるが、これによって人民の心を善に化すことができて、人の心を感動させること深く、風俗を改造することが容易なものである。ゆえに先王は礼楽によって人民を導き、人民は和合して親しみあったのであった。そもそも人民には好き・嫌いの感情があるのだが、その感情に正しく応じた喜びと怒りの表現がなければ、人民はカオスとなる。先王はそのカオスを憎んだ。ゆえに礼によってその行動を修正し、音楽を正しくして、天下はこれら先王の制度に従ったのであった。よって齊衰(しさい)の喪服と哭泣(こくきゅう)の声は人の心を悲しませ、よろいを着てかぶとを被り行列して軍歌を歌えば人の心を勇壮にさせる。なまめかしい容姿と鄭(てい)・衛(えい)の音楽(注2)は、人の心をみだらにさせる。一方紳(しん。大帯)・端(たん。周の朝服)・章甫(しょうほ。殷の礼冠)を身に付けて韶(しょう。舜の音楽)に合わせて舞い武(ぶ。武王の音楽)を歌えば、人の心は荘厳となる。ゆえに君子は耳にみだらな音楽を聞かず、目にみだらな光景を見ず、口に悪しき言葉を出さないのである。君子は、この三者を慎む。およそみだらな音楽を人が感じると、逆気(ぎゃくき)(注3)がこれに呼応して、逆気が歌と舞となってあらわれて、カオスが生じる。いっぽう正しい音楽を人が感じると、順気(じゅんき)(注3)がこれに呼応して、順気が歌と舞となってあらわれて、秩序が生じる。音楽が起これば人間が和して応えるのであり、善なる音楽と悪なる音楽にはそれぞれにふさわしい歌と舞が伴うのである。ゆえに君子は音楽を慎重に取捨選択するのである。君子は鐘と太鼓によって人の意志を導き、琴と瑟(おおごと)によって人の心を楽しませ、干(たて)と戚(おの)を取って舞わせ、羽(う。雉の羽飾り)と旄(ぼう。旗)によって飾らせ、磬(けい。石板を打つ楽器)と笛をそこに合奏させる。音楽の清く明るいことは天になぞらえたものであり、音楽の広くて大いなることは大地になぞらえたものであり、舞の伏し起きと旋回の動きは、四季の移り変わりに似ている。ゆえに正しい音楽が行われたならば人の意志は清くなり、正しい礼を修めたならば人の行動は完成する。人の観察眼は聡明となり、人の血気はおだやかで平静となり、風俗は矯正されて、天下はすべて安らかとなり、天下の者は美と善を楽しみ合うことであろう。ゆえに、「音楽というものは、楽しみである」と言うのである。君子は音楽によって人の正道を身に付けることを喜ぶが、小人は音楽によって己の欲望を高めることを喜ぶ。正道によって欲望を制御すれば、楽しんでもカオスとならない。だが欲望によって正道を忘れたならば、混乱するばかりで楽しむことすらできない。ゆえに音楽とは楽しみを導き出すものであり、金・石・糸・竹の各楽器は徳を導き出すものであり、よき音楽が行われたならば人民は正道に向かうのである。このように音楽とは人を統治するための大いなる手段なのであるが、墨子はこれを否定する。かつ音楽というものは決して変えられない調和の法則を持つものであって(注4)、礼というものは決して変えられない道理の法則を持つものである。音楽は各人を合わせて一つにさせるものであって、礼は身分を別けて区別するものであり、礼と音楽をあわせれば人心を管理するものとなる。根本法則を極めてあらゆる変化に応ずるのは、音楽の意義である。また誠を明らかにしてさかしらな「偽(い。人為)」から去るのは、礼の基本である(注5)。墨子が音楽を否定することは、王者から刑罰を食らうべき罪である。だが明察の王者はすでに死んで去り、よって墨子のあやまりを正す者もおらず、愚者は墨子の学を学んで、ついにその身を危うくするのである。君子が音楽のことを明らかに示すことは、人の徳の向上のためなのである。なのに乱世は善を憎んで、君子の言葉を聞かない。ああ、哀しいかな!音楽の正道は、いまだこの世で成就できない。弟子諸君よ、音楽の学習に励みなさい。墨子のような邪説に惑わされてはならない。


(注1)ここは、王制篇(5)における各官職の説明文から引用されている。王制篇においては、全訳は行わず概要を表にして整理した。
(注2)原文「鄭衛之音」。鄭声は、『論語』『孟子』においてもみだらな音楽として批判されている。『礼記』楽記篇には「鄭衛の音、乱世の音なり」の句がある。鄭国・衛国は春秋時代末期における中華の先進地域であって、当時のモダンな音楽があったのであろう。それが保守的な文化の擁護者である孔子の耳をいらだたせたことが想像される。しかしはるかに時代が下った戦国時代末期にあっても荀子がこうして批判しているのは、「鄭衛の音」が儒家の音楽規範から外れた俗楽一般を指す用語となっていたと思われる。
(注3)逆気・順気とは、人間に悪しき「気」とよろしき「気」を指す。「気」は宇宙と体内にあるエネルギーの源のような何かであり、人間にとって外部的存在である。孟子・荀子は、「気」を統御する方法について論述している。荀子の「気」論は、脩身篇を参照。孟子については、「浩然の気」の論議を参照。
(注4)原文「和の変ず可からざる者にして」。「和」を一般的な調和、和合の意に取るよりも、音階をはじめとした音楽の調和法則と取ったほうが、その不変性を強調する荀子の主張にリアリティが出るだろう。それと対比されて、礼にも不変の「理」(道理)があると主張されるのである。こちらについても荀子はもとより本気で主張しているが、音楽法則と違ってこちらについては現代的な視点には当然耐えられそうにない。
(注5)原文読み下し「誠を著し僞(い)を去るは、禮の經なり」。この言葉は、「僞(偽)」が礼であるという荀子の常の主張と正反対のものである。ゆえに、藤井専英氏はあるいは「去」は「大」の誤りであることを疑い、さらにあるいは「去」を離去の意味に取って「その都度の人為的努力から離れて、慣習乃至(ないし)規範という形で無意識に行えるようにあるよう、習慣づけておく事が礼本来の意義目的である」と詳細な訳を与えている。だが、藤井氏の説明はまことに迂遠である印象を受ける。私は、やはり荀子が「偽」の字をここでネガティブな意味でうっかり用いてしまったミスと考えたい。ここでの「偽」は性悪篇ほかでの「偽=人為=礼」というポジティブな意味から外れてしまって、通常の用法である「(悪しき)人為的努力=いつわり」という意味として使われている。「偽」をネガティブな意味で用いてしまったミスは、他に性悪篇(6)注18にも見られる。
《原文・読み下し》
夫れ聲樂(せいがく)の人に入るや深く、其の人を化するや速(すみやか)なり。故に先王謹んで之が文を爲す。樂(がく)中平なれば、則ち民和して流せず、樂肅莊なれば、則ち民齊して亂せず。民和齊なれば、則ち兵勁(つよ)く城固く、敵國敢て嬰(ふ)れざるなり。是の如くなれば、則ち百姓其の處(ところ)に安んじ、其の鄉(きょう)を樂んで、以て其の上に至足せざること莫し。然る後に名聲是に於て白(あらわ)れ、光輝是に於て大に、四海の民、得て以て師と爲すを願わざるは莫し。是れ王者の始なり。樂姚冶(ようや)にして以て險なれば、則ち民流僈(りゅうまん)・鄙賤(ひせん)なり、流僈なれば則ち亂れ、鄙賤なれば則ち爭う。亂れ爭えば則ち兵弱く城犯され、敵國之を危くす。是の如くなれば、則ち百姓其の處に安んぜず、其の鄉を樂まず、其の上に足らず。故に禮樂廢(すた)れて邪音(じゃいん)起る者は、危削・侮辱の本なり。故に先王禮樂を貴んで、邪音を賤む。其の序官に在るや、曰く、憲命を脩め、誅賞(ししょう)(注6)を審(つまびら)かにし、淫聲を禁じ、時を以て順脩して、夷俗・邪音をして敢て雅を亂さざらしむるは、太師の事なり、と。墨子曰く、樂なる者は、聖王の非とする所なり、而(しか)るに儒者之を爲すは過なり、と。君子以て然らずと爲す。樂なる者は、聖王の樂む所なり、而(しこう)して以て民心を善くす可く、其の人を感ぜしむるや深く、(王先謙に従い改める:)其の風俗を移すや易(やす)し(注7)。故に先王之を導くに禮樂を以てし、而して民和睦す。夫れ民に好惡(こうお)の情有りて、喜怒の應無ければ則ち亂る。先王其の亂を惡むなり、故に其の行を脩め、其の樂を正して、天下焉(これ)に順(したが)う。故に齊衰(しさい)の服、哭泣(こくきゅう)の聲は、人の心をして悲しましめ、甲(よろい)を帶び䩜(かぶと)(注8)を嬰(か)け(注9)、行伍(こうご)に歌えば、人の心をして傷(そう)ならしめ(注10)、姚冶の容、鄭衛(ていえい)の音は、人の心をして淫ならしめ、紳(しん)・端(たん)・章甫(しょうほ)し、韶(しょう)を舞い武(ぶ)を歌えば、人の心をして莊ならしむ。故に君子は耳に淫聲を聽かずして、目に女色(じょしょく)(注11)を視ず、口に惡言を出さず。此の三者は、君子之を愼しむ。凡そ姦聲(かんせい)人を感じて、逆氣(ぎゃくき)之に應じ、逆氣象(しょう)を成して(注12)、亂生ず。正聲(せいせい)人を感じて、順氣(じゅんき)之に應じ、順氣象を成して、治生ず。唱和應(おう)有り、善惡相(あい)象(かたど)る。故に君子は其の去就する所を愼むなり。君子は鐘鼓(しょうこ)を以て志を導き、琴瑟(きんしつ)を以て心を樂ましめ、動かすに干戚(かんせき)を以てし、飾るに羽旄(うぼう)を以てし、從うに磬管(けいかん)を以てす。故に其の清明は天に象り、其の廣大(こうだい)は地に象り、其の俯仰(ふぎょう)・周旋は、四時に似たること有り。故に樂行われて志清く、禮脩まりて行成る。耳目は聰明(そうめい)に、血氣は和平にして、風を移し俗を易(か)えて、天下皆寧(やす)んじ、美善相樂む。故に曰く、樂(がく)なる者は樂(らく)なり、と。君子は其の道を得るを樂み、小人は其の欲を得るを樂む。道を以て欲を制すれば、則ち樂んで亂れず、欲を以て道を忘るれば、則ち惑いて樂まず。故に樂なる者は、樂(らく)を道(みちび)く所以にして、金・石・絲・竹なる者は、德を道(みちび)く所以なり、樂行われて民方(ほう)に鄉(むか)う。故に樂なる者は、人を治むるの盛んなる者なり、而(しか)るに墨子之を非とす。且つ樂なる者は、和の變ず可からざる者にして、禮なる者は、理の易(か)う可からざる者なり。樂は同を合せ、禮は異を別ち、禮樂の統は、人心を管(かん)す。本を窮め變を極むるは、樂の情にして、誠を著し僞(い)を去るは、禮の經なり。墨子之を非とするは、幾(ほと)んど刑に遇わん。明王已(すで)に沒して、之を正すもの莫く、愚者は之を學んで、其の身を危うくするなり。君子樂を明(あきら)かにするは、乃(すなわ)ち其の德なり。亂世は善を惡みて、此を聽かざるなり。於乎(ああ)哀しい哉(かな)。成を得ざるなり。弟子學を勉めて、營(まど)わさるること無かれ。


(注6)王制篇(5)では「詩商」に作る。増注の久保愛、集解の王先謙ともに「誅賞」を「詩商」に改めるべきと言う。「商」は章に通じ、詩章で詩文のこと。これに従う。
(注7)原文「其移風易俗」。そのままに読み下すならば「其れ風(ふう)を移し俗を易(か)う」となり、この語は下文で再度表れる。集解の王先謙は、ここの文は下文に拠ってみだりに改作されたものであり、本来は上文の「聲樂の人に入るや深く、其の人を化するや速なり」と対応する言葉であって、したがって「其感人深、其移風俗易」たるべし、と言う。これに従って改める。
(注8)「䩜」はかぶとの意。この字は議兵篇(2)にも表れ、CJK統合漢字拡張Aにしかない。
(注9)増注は、「嬰は頸(くび)に繋(か)くるなり」と言う。かける。
(注10)増注は、「傷」は疑うはまさに「壮」に作るべし、と言う。これに従う。
(注11)増注は物茂卿(荻生徂徠)を引いて、「女はまさに姦に作るべし」と言う。ここではストレートに女色を批判しているのではなくて、むしろ上文の「姚冶の容」と同じ意味であるとみなすべきであり、よって「姦色」に作るべしという徂徠の指摘となる。
(注12)増注は荻生徂徠を引いて、「成象は歌舞に形(あら)わるを謂う」と言う。「象を成す」とは、音楽に合わせて歌と舞として表現すること。

荀子の音楽論は、こうして墨家批判の文として展開されるところが、礼記・史記と異なる特徴である。

ビデオは、周文王の子・武王の弟であり、武王の死後成王に代わって政治を行った周公の作と伝えられる曲である。周公については、儒效篇(1)、(6)を参照。

《大雅》伝・周公作

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