楽論篇第二十(4)

By | 2015年11月14日
私は郷飲酒の礼(注1)を見て、王道の政治が容易であることを知る。主人である郷大夫は、賓(ひん。最優秀の子弟)と介(かい。次席の子弟)を招待して、衆賓(しゅうひん。その他の客)が彼らに従って参上する。門の外に彼らが至ったならば、主人は賓と介に拝礼して入れ、衆賓はその後に入る。賓・介とその他の客の貴賤を区別する礼である。門内に入れば主人と賓は三度会釈の礼を行った後に、階段の下に赴く。それから三度辞譲の礼を行って、賓客とともに階段を昇る。堂上に昇ったら、主人は賓を上座に上せて拝礼する。互いに盃をすすめて返し、互いに譲り合うことを頻繁に行う。以上の礼を、介においては省略した形式で行う。衆賓においては、階段を昇って堂上に進み、主人から盃を受け、ひざまづいて盃を神に捧げる礼を行んでから立って飲み、返礼の盃をせずに階下に下る。それぞれの貴賤に応じて、礼を明確に区別するのである。工(こう。音楽隊)が入場して、堂上で升歌(しょうか。詩経小雅の鹿鳴・四牡・皇皇者華の三詩歌のこと)の三歌を歌い終えたら、主人は盃を献じる。次に笙(しょうのふえ)の演奏者が入ってきて、堂下で三曲(南陔・白華・華黍。いずれも詩経小雅・鹿鳴之什の末尾に題名だけ収録されて、詩歌の本文は伝わらない。別に小雅・魚藻之什に白華の題名の詩歌が現存するが、これとは違うということである)を演奏し終えたら、主人はこれにも盃を献じる。間歌(かんか。詩経の詩歌を歌と笙とで代わる代わるに演奏することとという)を三度応答し終えて、合歌(ごうか。詩経の詩歌を歌と笙を合わせて演奏することという)を三度終えたら、工は賓に音楽がすべて終わったことを告げて退席する。そこで主人は二人の者に命じて、觶(し。さかずき)を賓と介とに捧げて、司正(しせい。宴会の監視者)を決める。郷飲酒の礼が互いに楽しみながらも奔放に流れないことが、ここから分かる。賓は主人に献盃し、主人は介に献盃し、介は衆賓に献盃する。主人側と賓客側とが互いに年齢順に従って献盃し合って、沃洗者(よくせんしゃ。盃を洗う身分低い従者)まで飲んで終わる。飲むことがすべての年齢の者に至って残る者がいないことが、ここから分かる。この後全員が階を降りて屨(く。くつ)を脱ぎ、再び堂上に昇って座り、盃を交し合うことは数限りがない。しかし飲酒には節度があって、朝は朝(ちょう。朝の事務)を必ず行った後から始め、夕方は夕(せき。夕方の事務)を行うまでとしてこれを決して怠ることはない。郷飲酒の礼が終わって賓が退出するときには、主人は門外で拝礼する。これで礼の文飾はすべて終了するのである。郷飲酒の礼がよくくつろぎながらも乱れないことが、ここから分かる。貴賤を明らかにし、礼を区別し、和合して楽しみながら奔放に流れず、すべての年齢の者が参加して残る者がおらず、よくくつろぎながらも乱れない。これら五つの行いは、人が身を正して国を安んずるために十分なものである。国が安んずれば、天下もまた安んずるであろう。ゆえに、「私は郷飲酒の礼を見て、王道の政治が容易であることを知る」と言うのである。

乱世の徴候を述べる。服装は華美、容貌はなまめかしく、風俗は淫乱、心は利益ばかりを追い、行動は筋道がなくて乱雑、音楽は歪み、礼の文飾はよこしまで装飾過多、生者の生活には節度がなく、死者を葬るやり方は墨子の愚かで薄情な流儀であり、礼義を卑しんで勇気と力を貴び、貧しければ盗み、富んでいれば他人を傷つける。治世は、これらと反対の徴候を示す。


(注1)原文「鄉(郷)」。増注は「郷は郷飲酒礼を言い、その礼は今儀礼に存す」と言う。郷飲酒の礼とは、地方の学校を卒業した最優秀の子弟を君主に推挙して官に上せるときに、郷大夫が行う送別の礼と言う。科挙がまだ存在しない古代においては、このように郷里から優秀な子弟を中央に推薦して官に上せる、いわゆる「郷挙里選」の制度が行われていた。
《原文・読み下し》(注2)
吾鄉(きょう)を觀て、王道の易易(いい)たるを知るなり(注3)。主人親(みず)から賓び及介(かい)を速(まね)きて、衆賓皆之に從う。門外に至れば、主人賓及び介を拜(はい)して、衆賓皆入る。貴賤の義別るるなり。三揖(さんゆう)して階に至り、三讓(さんじょう)して賓を以(ひき)い升(のぼ)り、至るを拜し、獻酬・辭讓の節繁し。介に及んでは省く。衆賓に至りては、升りて受け、坐して祭り、立ちて飲み、酢(さく)せずして降る。隆殺の義辨(べん)ずるなり。工入りて、升歌(しょうか)三終(さんしゅう)して、主人之に獻ず。笙(しょう)入りて三終して、主人之に獻ず。間歌(かんか)三終し、合樂(ごうがく)三終して、工樂備わると告げて、遂に出ず。二人觶(し)を揚げて、乃ち司正を立つ。其の能く和樂(わらく)して流せざるを知るなり。賓は主人に酬し、主人は介に酬し、介は衆賓に酬し、少長は齒(し)を以てして、沃洗者(よくせんしゃ)に終る。其の能く弟長にして遺すこと無きを知るなり。降りて屨(く)を脱ぎ、升りて坐し、爵を脩むること數無きも、飲酒之れ節ありて、朝(あした)に朝(ちょう)を廢せず、暮に夕(せき)を廢せず。賓出でて、主人拜送し、節文終り遂ぐ。其の能く安燕して、亂れざるを知るなり。貴賤は明(あきら)かに、隆殺辨じ、和樂して流せず、弟長にして遺すこと無く、安燕にして亂れず。此の五行なる者は、以て身を正し國を安んずるに足る。彼れ國安くして天下安し。故に曰く、吾鄉を觀て、王道の易易たるを知るなり、と。
亂世の徵。其の服は組(注4)、其の容は婦、其の俗は淫、其の志は利、其の行は雜、其の聲樂(せいがく)は險、其の文章は匿(とく)(注5)にして采(さい)、其の生を養うは度無く、其の死を送るは瘠墨(せきぼく)(注6)、禮義を賤みて勇力を貴び、貧なれば則ち盜を爲し、富なれば則ち賊を爲す。治世は是に反するなり。


(注2)以下、末尾の「亂世の徵」に始まる文章を除き、すべて『礼記』郷飲酒義篇の一部と細部までほぼ一致している。
(注3)礼記ではこの文の前に「孔子曰」が付いて、孔子の言葉という体裁が取られている。
(注4)増注は「組は未詳」と言う。集解の王先謙は「組は文なり、服組は華侈を謂う」と注する。
(注5)集解の王先謙は、「匿は読んで慝と為す。邪なり」と注する。天論篇(3)注11と同じ。
(注6)「瘠墨」について集解の郝懿行は、礼論篇の「死を送りて忠厚ならず、敬文ならざる、之を瘠と謂う」((3))と「死を刻して生に附する、之を墨と謂う」((4))を挙げて、墨は墨子の教、と言う。新釈の藤井専英氏は、礼論篇(4)注6と同じく「墨」を単に暗愚の意と取って「極めて薄情」とだけ訳している。そこで論じたことと同じく、暗愚という意味を持たせながら墨子を暗示したダブルミーニングであろう。

楽論篇の終わりには、『礼記』郷飲酒義篇の一部と同じ文章が置かれている。礼論篇の一部や楽論篇の冒頭部分と同じく、荀子学派のテキストが各書で重複して収録されているのであろう。礼記と一致する文章は、礼と音楽とが調和した郷飲酒の礼が説明されている。礼と音楽の綜合が儒家の目ざす理想の統治政策であるので、この楽論篇にあえて入れられたと考えてもおかしくはない。末尾の言は、それに対するように、礼と音楽が乱れることが乱世のしるしである、と言い置いて楽論篇を終える。

ビデオは、孔子の作と伝えられる琴曲である。『春秋経』の最後にある哀公十四年の「麟(りん)を獲る」のエピソードに寄せて作られたという。

《獲麟》伝・孔子作

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