楽論篇第二十(1)

By | 2015年11月6日
そもそも音楽というものは楽しみであり、人間の情がそれを求めずにはいられないところである。ゆえに人は楽しまずにはいられず、楽しめば必ず歌声として出るのであり、動きとなって表れるのである。この音声と動作は人の本来的なあり方であって、生きている者の外に出した動きとは何か声を発したり何か動いたりすることだから、突き詰めれば結局音楽をすることなのである。人は楽しまずにはいられず、楽しめば外に表現せずにはいられず、だがその表現が正しく導かれなければ、乱れずにはいられない。わが文明の建設者である先王は、その乱れを憎んだ。ゆえに雅(が。宮廷の音楽)と頌(しょう。宗廟の音楽)(注1)の声音を制定して人の音楽心を導き、その声楽は十分に楽しめながら淫奔に流れることなく、その文飾は理解しやすいがよこしまに陥ることなく、声音を曲げたり真っ直ぐにしたり、急速にしたり淡白にしたり、細く鋭くしたり太くゆるやかにしたり、止めたり演奏させたりして、人の善心が十分感動できるようにして、よこしまで汚れた気が入り込まないようにさせたのである。これが、先王が音楽を制定した理由である。それなのに墨子が音楽を否定するのは、どういうことであろうか。ゆえに音楽は、宗廟の中にあっては君臣・上下が同じくこれを聴いて、和やかに敬むこと間違いがない。家庭の中にあっては、父子・兄弟が同じくこれを聴いて、和やかに親しみ合うこと間違いがない。郷里においては、年長者も年少者も同じくこれを聴いて、和やかに従順となること間違いがない。ゆえに音楽というものは音階の唯一の基本をはっきりとさせて(注2)、そこから音階の調和を定めるものであって、各楽器を演奏させて、適宜に区切りを付けて飾るものなのである。演奏と区切りとが合わさって文飾を成し、これによって唯一の正道に十分従わせることができて、ゆえにどのような多様な変化にも対応できるのである(注3)。これが、先王が音楽を制定した方法である。なのに墨子が音楽を否定するのは、どういうことであろうか。ゆえに雅・頌の声音を聴けば、心は伸びやかとなる。干(たて)と戚(おの)を手に取り、伏せたり仰いだり伸びたり縮んだりする舞を習うならば、おのずと容貌はいかめしくなる。舞者がその演域と外域とを進み、休止と演奏に合わせるならば、その行列は整って進退は一致する。ゆえに音楽というものは、打って出ては征誅するものであり、内に留まっては拝礼して譲るものであって、征誅することと拝礼して譲ることとは、和して恭順するという意義において一つである。音楽が打って出て征誅すればこれを聴き従わないものはなく、音楽が内に留まり拝礼して譲ればこれに素直に従わないものはない。ゆえに音楽というものは、天下を大いに斉一させるものであり、中和のための大綱であり、人間の情がそれを求めずにはいられないものである。これが、先王が音楽を音楽を制定した方法である。それなのに墨子が音楽を否定するのは、どういうことであろうか。かつ音楽というものは、先王の喜びを装飾したものである。いっぽう軍隊・鈇鉞(ふえつ。おのとまさかりのことで、君主の象徴的な軍権を示す)というものは、先王の怒りを装飾したものである。先王は、喜びも怒りもすべて斉一されていた。よって喜べばすなわち天下もこれに和し、怒ればすなわち暴乱の者もこれを畏れた。先王の正道において、礼と音楽はその最も大いなるものである。それなのに墨子はこれを否定する。ゆえに、こう言おう。墨子の正道を見るやり方は、瞽(こ。盲者)が白と黒の色に対したようなものであり、聾(ろう。聾者)が清音と濁音に対したようなものであり、南の楚国に行こうとして北の方角にこれを求めるようなものである、と。


(注1)『詩経』には大雅(たいが。朝廷の会合の音楽)・小雅(しょうが。宴席の音楽)・頌の各グループの詩が収められている。いにしえの朝廷では、これらの詩が歌として演奏されたということである。
(注2)原文読み下し「一を審(つまびら)かにして」。増注は、「一は律なり」と注する。猪飼補注は、古代中国の音階である五声(ドレミソラの東洋五音階)・十二律(西洋と同じ十二音)の中心音である宮(きゅう。ハ音)・黄鐘(こうしょう。ニ音)をはっきりとさせることによって和を定める、と言っている。つまり、基本音から絃や笛の長さを一定の比率で長くあるいは短くすればまず五声が生まれて、さらに続けたら十二律が生まれた後ほぼ元の音に戻る。こうして生まれた各音階を微調整して、完全な音階を作る。西洋の平均律などの調律法と、原理は同じである。
(注3)原文「萬變を治むるに足る」。音楽理論的に言えば、「和」(音階)を基礎にして、そこに様々な「節奏」(休止符と音符)を乗せることによって曲が作られる。「和」と「節奏」の法則に従う限りどのような状況にも応じた美しい音楽を作り出すことができて、聖人は以上のような音楽の法則もまた熟知しているので、あらゆる人の心を動かす曲を作曲できるだろう。「萬變を治むるに足る」とは、そのような意味であると思われる。古代の儒家思想は、音楽理論と礼の理論が類比されて語られるところに特徴がある。
《原文・読み下し》(注4)
(注5)夫れ樂(がく)なる者は、樂(らく)なり(注6)。人情の必ず免れざる所なり。故に人は樂(たのし)むこと無きこと能わず、樂めば則ち必ず聲音(せいおん)に發し、動靜に形(あらわ)る。而(しこう)して人の道は、聲音・動靜にして、性術の變は是に盡(つ)く。故に人は樂まざること能わず、樂めば則ち形るること無きこと能わず、形れて道(どう)(注7)を爲さざれば、則ち亂るること無きこと能わず。先王其の亂を惡(にく)む。故に雅頌(がしょう)の聲を制して、以て之を道(みちび)き、其の聲をして以て樂しむに足りて流(りゅう)せざらしめ、其の文をして以て辨ずるに足りて諰(よこしま)(注8)ならざらしめ、其の曲直・繁省、廉肉・節奏をして、以て人の善心を感動するに足らしめ、夫の邪汙(じゃお)の氣をして、接することを得るに由(よし)無からしむ。是れ先王樂を立つるの方なり、而(しか)るに墨子之を非とするは奈何(いかん)。故に樂は、宗廟の中に在りて、君臣・上下同じく之を聽けば、則ち和敬せざること莫く、閨門の內にて、父子・兄弟同じく之を聽けば、則ち和親せざること莫く、鄉里・族長(ぞくちょう)(注9)の中にて、長少同じく之を聽けば、則ち和順せざること莫し。故に樂なる者は、一を審(つまびら)かにして以て和を定むる者にして、物を比して(注10)以て節を飾る者にして、合奏して(注11)以て文を成す者なり。以て一道に率(したが)うに足り、以て萬變を治むるに足る。是れ先王樂を立つるの術なり、而るに墨子之を非とするは奈何。故に其の雅頌の聲を聽けば、志意廣(ひろ)きを得、其の干戚(かんせき)を執りて、其の俯仰(ふぎょう)・屈伸を習えば、容貌莊(そう)を得。其の綴兆(ていちょう)(注12)を行き、其の節奏を要(よう)すれば(注13)、行列正を得て、進退齊を得。故に樂なる者は、出でては征誅する所以にして、入りては揖讓(ゆうじょう)する所以なり、征誅と揖讓とは、其の義一なり。出でて征誅する所以なれば、則ち聽從せざること莫く、入りては揖讓すう所以なれば、則ち從服せざること莫し。故に樂なる者は、天下の大齊なり、中和の紀なり、人情の必ず免れざる所なり。是れ先王樂を立つるの術なり、而るに墨子之を非とするは奈何。且つ樂なる者は、先王の喜を飾る所以にして、軍旅・鈇鉞(ふえつ)なる者は、先王の怒を飾る所以なり。先王は喜怒皆其の齊を得。是の故に喜べば天下も之に和し、怒れば暴亂も之を畏る。先王の道、禮樂は正に其の盛んなる者なり、而るに墨子之を非とす。故に曰く、墨子の道に於けるや、猶お瞽(こ)の白黑に於けるがごとく、猶お聾(ろう)の清濁に於けるがごとく、猶お楚に之(ゆ)かんと欲して北に之を求むるがごときなり。


(注4)君道篇に続いて、以下の楽論篇にも全篇に渡って楊注がない。したがって日本江戸時代および中国清代の各注釈者の見解を基礎とせざるをえない。
(注5)以下の文章と大筋で一致する文章が、礼記楽記篇および史記楽書にも表れる。ただし、相互に文の出入りがある。下のコメント参照。
(注6)原文「夫樂者樂也」。中国語は同じ漢字が名詞になったり形容詞・動詞になったりする。「樂(楽)」字は音楽の意のときはガク、「たのしい」の意のときはラクと読む。現代中国語でもyuè/lèと別の発音をする。
(注7)増注は、「これを導かざれば、則ち姦声に感じ、姦声人を感ぜしめ、逆気之に応じて故に乱る」と注する。よって「道」は「導」の意である。
(注8)集解の盧文弨は、礼記・史記がいずれも「諰」を「息」に作ることを指摘して、ここの「諰」は「ごんべん+息」字(「息」の別字)の訛、と言う。郝懿行は「諰」は「息」の仮借、すなわち同音の字を借りたものと解する。しかし新釈の藤井専英氏は梁啓雄『荀子簡釈』を引いて、「諰」は「偲」であって佞すなわち邪(よこしま)の意、と言う。集解のとおりに解するならば「息(や)む」の意味であって、これに即した金谷治氏の訳は「その文飾が十分理解できてしかもそれだけには終わらないようにし(、、)」である。だが藤井説のほうが意味が明快となるので、こちらを取りたい。
(注9)「族長」について藤井専英氏は『簡釈』の「族長は郷里と同意」を引く。「族」「長」ともに古代にあった戸数の単位ということである。
(注10)増注は鄭玄を引いて、「物を比するは、金・革・土・匏の属を雑して以て文を成す」と言う。つまり「物」とは楽器のことで、金・石・糸・竹・匏(ほう。ひさご。ひょうたん)・土・革・木の八種類に分類される楽器(これを八音と呼ぶ)を指し、物を比するとはこれらの楽器を調和的に重ねて音楽を成すことである。
(注11)集解の盧文弨は、礼記・史記がともに「節奏合して以て文を成す」の表現に作られていることを指摘する。宋本もこの表現である。
(注12)礼記の注に従って、「綴」を舞者の行列の位置、「兆」をその外域とみなす。
(注13)増注は「要は会なり」と言う。あう。

楽論篇は、音楽の効能を述べた篇である。音楽は礼と合わせて「礼楽(れいがく)」と呼ばれ、礼楽は孔子が麗しい古制として最も重視した文化体系である。孟子は、礼については荀子のように体系的ではないが言及する。しかし、音楽についてはほとんど語ることがない。いっぽう荀子はこの楽論篇の一篇において、儒家の音楽論をまがりなりにも残した。楽論篇の上に訳した箇所は、『礼記』楽記篇および『史記』楽書の一部に大筋で一致している(史記楽書の中間部分は、ほぼ礼記楽記篇の全体と同一である)。ただし楽論篇では墨家批判の言葉が随所に挟まっているが、礼記・史記にはない。礼記・史記をこの楽論篇と比較すると、礼記・史記は楽論篇よりも礼と音楽の関係についての理論的叙述が詳しく書かれている。

楽論篇においても、礼論篇と同じく墨家は批判される。墨家は非楽を唱え、国家から音楽を追放するべきと主張した。

姑(しばら)く嘗(こころみ)に厚く万民に籍斂(せきれん)し、以て大鐘(たいしょう)・鳴鼓(めいこ)・琴瑟(きんしつ)・竽笙(うしょう)の声を為して、以て天下の利を興し、天下の害を除かんことを求むるも、補うこと無きなり。是の故に子墨子曰く、楽を為すは非なり、と。
(『墨子』非楽篇より)


すなわち君主が人民から重税を取って音楽を行ったとしても、その音楽で戦争が止み平和が訪れることはないし、天下の利益が増して害が除かれることはない。ゆえに音楽は実利がない無駄なぜいたくであり、廃絶するべきである。墨家思想は音楽に何の実利も認めず、人民の生活水準を向上させることのない娯楽であるとみなして、敵視した。だが荀子にとっては、支配者の礼と音楽は国家を統治するために必ず採用するべき、文化装置なのである。荀子は富国篇において社会契約説を展開して支配階級の必要性を説き、支配階級が多く富貴を持つことは社会秩序にとって必要であると擁護した。転じてこの楽論篇においては、音楽がただの娯楽なのではなくて、礼と同様に社会秩序の調和に貢献する文化装置であることを説くのである。

楽論篇の主旨は、冒頭の「楽(がく)なる者は楽(らく)なり」の語がすべてである。楽論篇の中には飲酒の礼について述べられている箇所もあって、むしろ礼論篇に入れられるべきと思われる叙述もある。この楽論篇で荀子は音楽の効能について、いろいろと述べる。そこで挙げられる古代楽器は後世に考証されているし、実物が春秋戦国時代の陵墓から出土することもあって、楽器については大方の復元は可能である。だが、それらを用いて演奏された古代の音楽そのものは、はっきりとは分からない。なので、いくら荀子の理論を読んでも、その実際の演奏は分からない。(おそらく実際に聞くことができたとしても、現代人の耳を感動させることができるかは疑問であるが、、、)

実演なくして音楽の論文を読んでも、その意義を理解することはほとんど不可能である。よって、この楽論篇はその内容について特に検討しないことにしたい。その代わりといってはなんであるが、古代楽器の一である古琴(こきん、クーチン)の演奏ビデオを紹介しておきたい(論語読書会同人、子敬子の演奏)。琴は、後漢の蔡邕(さいよう、132? – 190)がその著書『琴操』において言及している。古琴はすなわち少なくとも千八百年前には存在した琴(きん)、すなわち小型の琴(こと)である。ちなみに大型のものは瑟(しつ)という別の字で呼ばれる。琴はとりわけ古代以来中国文化において、士大夫たちに愛好されて連綿と奏でられてきた。現在古琴の演奏に用いられる最も古い楽譜は、明代初期(15世紀初)に編纂された。古琴のレパートリーには孔子の作と伝えられる曲があり、周の文王・武王・周公の作と伝えられる曲があり、果ては伝説の聖王である堯・舜の作品まで伝承されている。その真偽のほどは、諸子のご推察に任せることにしよう。だが少なくとも相当に古い時代の楽譜であることは、間違いないだろう。現代の解釈による演奏であるので、演奏の緩急や強弱については古い時代のままと思うべきではないと、私は思う。しかし音色については、そう遠く離れてはいないだろう。

古代の楽器による演奏によって、荀子の音楽論の空気の一片でも感じることに寄与できたならば、幸いである。

《文王操》伝・周文王作

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