大略篇第二十七(17)

By | 2016年1月28日
八十一
およそ、物事は原因となることがあって起こるものである。己の身から出たものは、己にいずれ戻ってくるのだ。君子は、怪しげな流言を絶たなければならない。そして、財貨や女色を遠ざけなければならない。わざわいが起こる原因は、ほんのささいなことにあるのだ。それゆえに、君子はわざわいのささいな原因すらすみやかに絶つのである。信頼できる言葉とは、知らないことや確信がまだ持てないことについて行ったり来たり思案するところから出てくるのである。よって君子は疑わしいことは言葉に出さず、質問されなければ言葉を発することはない。

漢文大系は、「凡そ物は乘ずること有りて來る」~「是れ其の反る者なり」、「流言は之を滅し」~「是の故に君子は蚤く之を絕つ」、「言の信なる者は」~「未だ問わざれば則ち立(い)わず」の三章に区切る。

八十二
知者は、万事に明察であって、万事の成り行きの道を見通している。なので、これに対して不誠実に付き合うことはできないのだ。古語に、「君子を喜ばせることは難しい。なぜならば、君子は正道をもって喜ばせようと努めなければ、決して喜ばないからである」とある。また、ことわざに「転がる玉は窪地に入れば止まり、流言は知者に至れば止まる」とある。このゆえに、勝手な家言を作り邪説を主張する諸子百家どもは、知者である儒者を憎むのである。正しいか正しくないかが疑わしければ、遠い聖賢や先王の事績と比較して考え、身近な事例と比較して検証し、公平な心をもって考察すればよい。このようにする知者の前ではついに流言も止まり、邪説も死に絶えるであろう。

古語として引用されている言葉は、論語子路篇の「子の曰わく、君子は事(つか)え易くして説(よろこ)ばしめ難し、之を説ばしむるに道を以てせざれば説ばざるなり」の句と同一である。論語において孔子の言葉とみなされているこの語を、荀子は古語とみなしている。宮崎市定氏が言うに、論語における孔子の言葉は古語を引用してそれに自らの見解・補足を付言したものが多い。子路篇の言葉は、上の部分が古語からの引用であって、そこに孔子の補足説明を加えたものなのかもしれない。

八十三
曾子は魚を得て、食べたが余りがあった。そこで門人に「これを煮ておけ」と言った。すると門人は、「煮ては、すぐに腐ってしまい、食べると人の害となります。燻製にする(または酒・塩に漬ける)のがよいでしょう」と言った。曾子はこれを聞いたとき、涙を流した。そして言った、「悪い気で、そう言ったわけではなかったのだ!」と。曾子は、このことを聞くのが遅かったことが、悲しかったのである。

楊注は、曾子が泣いた理由を、人の害となる処理法について知らなかった自らの過ちを悔いて門人に謝った、と解している。しかしながら、そのようなことで泣くのは不可解である。そこで集解の王先謙は、これは孝子で著名な曾子がかつて親に同じ処理法の魚を勧めたことを、親の死後になって初めてそれが誤りであると聞いたのだ、と解している。王説は憶測にすぎないが、解釈としては一理あると考える。
曾子の父の名は、曾晳(そうせき)である。曾晳は、論語先進篇の末章、あるいは孟子離婁章句盡心章句に表れる。これらに引用される曾晳のプロフィールはさして問題のある人物ではないが、孔子家語六本篇に引用されるエピソードでは、曾晳は子の曾子に暴力を振るう悪親として表れる。父から杖で気絶するほどに殴られる暴力を甘んじて受けた曾子に対して孔子は、逃げなかった曾子の行為は父に子殺しの不義を行わせるものでありかえって不孝である、と叱責している。

八十四
自分の苦手な短所によって、他人の得意とする長所と競うな。むしろ、自分の短所は覆い隠して出さないように控え、自分が得意とする分野にひたすら従事せよ。だがよく通ずる知がありながら法がない者や、明察な弁論をしながら正道から外れた理屈を操る者や、果断な勇気があるが礼義を行わない者は、たとえ己の長所には優れていても君子が憎悪するところなのである。

非十二子篇に「知にして法無く、勇にして憚ること無く、察辯にして操僻」の句があり、本章の句と類似する。

八十五
多言でありながらその言葉が正しい分類法に従っているのは、聖人である。少言であってもその数少ない言葉が礼法に従っているのは、君子である。多言であるが言葉に法がなくて口から出任せであれば、それが賢明ぶって弁論をしたところでしょせんは小人である。

非十二子篇にほぼ同一の句がある。
《読み下し》
凡そ物は乘ずること有りて來る、[乘](注1)其の出づる者は、是れ其の反(かえ)る者なり。流言は之を滅し、貨色は之を遠ざく。禍の由りて生ずる所は、纖纖(せんせん)自(よ)より生ずるなり。是の故に君子は蚤(はや)く之を絕つ。言の信なる者は、區蓋(くがい)(注2)の閒(かん)に在り。疑わしければ則ち言わず、未だ問わざれば則ち立(い)わず(注3)

知者は事に明(あきら)かにして、數に達す、不誠を以て事(つか)う可からざるなり。故(こ)に曰く、君子は說(よろこ)ばしめ難し、之を說ばしむるに道を以てせざれば說ばざるなり、と。語に曰く、流丸(りゅうがん)は甌臾(おうゆ)(注4)に止まり、流言は知者に止まる、と。此れ家言・邪學の儒者を惡(にく)む所以なり。是非疑わしければ、則ち之を度(はか)るに遠事を以てし、之を驗するに近物を以てし、之を參するに平心を以てすれば、流言は焉(ここ)に止まり、惡言も焉に死す。

曾子魚を食いて餘(あまり)有り。曰く、之を泔(かん)せよ(注5)、と。門人曰く、之を泔すれば人を傷(そこな)う、之を奧(いく)する(注6)に若(し)かず、と。曾子泣涕して曰く、異心有らんや、と、其の聞くことの晚(おそ)きを傷(いた)む。

吾の短なる所を用(もっ)て、人の長ぜる所に遇(あた)ること無かれ。故に塞いで短なる所を避け、移りて仕(し)する(注7)所に從え。疏知(そち)なるも法あらず、察辯(さつべん)なるも操僻(そうへき)し、勇果(か)なるも禮亡きは、君子の憎惡する所なり。

多言にして類なるは、聖人なり。少言にして法あるは、君子なり。多言法無くして流(りゅう)すれば、喆然(てつぜん)(注8)として辯(べん)ずと雖も小人なり。


(注1)集解の王念孫は、「下の乘字は衍」と言う。これに従い削る。
(注2)「區蓋」について集解の郝懿行は、漢書儒林伝に見える「丘蓋」の語の同音を借りたものであり、「丘」は斉国の俗語で知らないことを指し「蓋」は疑わしくていまだ定まらないことを指す、と考える。金谷治氏は、郝説に従うがやや不安である、と言っている。一応郝説に従っておく。
(注3)大略篇七十章の注13を参照。これと同じく、「立」を「言」と読む。
(注4)楊注は、「甌臾は地の坳坎にして甌臾の如くなる者を謂う」と言う。すなわち、甌臾(かめのような器)のように丸く窪んでいる地のこと。
(注5)「泔」字は、米のとぎ汁、あるいは煮ることを指す。集解の盧文弨および増注の久保愛は、ここの「泔」を米汁に漬すこととみなす。集解の王念孫はこれに対し、「泔」は「洎」となすべきと考える。「洎」とは多めの水で煮ること。いずれにしても、保存が効かない調理法を指すのであろう。何らかの方法で煮ること程度に考えておく。
(注6)「奧」について久保愛は、「燠」となすべしと言う。あぶること。集解の盧文弨は「鬱」の意であると言う。酒か塩で漬けること。つまり燻製にするか、酒・塩に漬けるかという解釈であり、どちらでも保存法としては通る。
(注7)楊注は、「移は就なり、仕は事と同じ」と言う。得意とする事に従事すること。
(注8)非十二子篇の句では、「喆然」を「湎然」に作る。楊注はこの大略篇も「湎然」に作るべしと言うが、増注は「喆は哲と同じ」と注してこれを改めない。増注に従う。喆然は、賢明ぶった様子。

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