大略篇第二十七(16)

By | 2016年1月26日
七十六
「己の行いはまだまだ不足だ」と自ら考えない者は、行いに比べて言葉が多すぎるのである。いにしえの賢人は、たとえ一庶民の賤しさにあり、一貧民の貧しさにあって、食べる粥ですら不足し、着る賤服すらまともに得られなくとも、礼に合わなければ仕官することはなく、義に合わなければ財貨を受け取ることをしなかった。いにしえの賢人のようであるならば、なんで言葉ばかりが先行するようなことがありえるだろうか?

漢文大系は、「古の賢人は」以下を分けて本章を二章とする。

七十七
子夏(しか)は貧しくて、衣服が破れ果てて短くなってしまったほどであった。ある人が彼に、「君はどうして仕官しないのか?」と聞いた。子夏は答えた、「私に対して驕る諸侯には、私は家臣とならない。私に対して驕る大夫には、私は二度と会見しない。かつて、柳下恵(りゅうかけい)は城門の閉門に遅れてしまった婦人を哀れんで、彼女を自分と一つの衣にくるんで一夜を過ごした。だが、彼はそうしたとしても婦人との不倫を疑われることはなかった。これは、彼の仁人としての名声が以前から著名であったためなのだ。私も柳下恵のように正道を積み上げることを志す者であって、いやしくもいま爪の先ほどの小さな利益を求めて争えば、いずれ掌(てのひら)すべてを失う災厄となるだろう」と。

集解の盧文弨は、「柳下惠は門に後るる者」以下は上の子夏の言葉と続けるべきでない、と言う。漢文大系は「柳下惠は門に後るる者」以下を分けて二章とする。上の訳は、すべて子夏の言葉とみなした。
子夏は孔子門下の秀才の一人で姓は卜、名は商。孔子の死後、新興の魏国に赴いて重用された。孔子の弟子の中でも、子思・孟子に続く学派を開いた曾子と並んで、戦国時代の儒家に及ぼした影響が大きかった。だが荀子は非十二子篇において、子夏学派を「賤儒」と切って捨てた。
柳下恵とは、展禽(てんきん)のこと。成相篇(1)注1参照。本章で言及されている柳下恵と一婦人とのエピソードについて、盧文弨は詩経小雅巷伯毛伝に、増注は孔子家語好生篇の記事に言及する。

七十八
君主は、家臣を採用するときに慎重でなければならない。庶民は、友人を選ぶときに慎重でなければならない。友人というものは栄辱を共有するものだからであって、もし行く道を異にすれば、どうして栄辱を共にできるだろうか?薪(たきぎ)を一律に並べて火をつけたら、乾いた側に燃え広がっていく。地面を一面の水平にしてみたら、水は湿った箇所に溜まっていく。およそ同類が相集まることは、火や水のように明らかなことなのだ。友人をもって人を見れば、その人となりは疑いもなく分かるものである。友人は、慎重に善人を選ばなければならない。これは、自らの徳を作る基本なのである。『詩経』に、この言葉がある。:

大車(たいしゃ)をば、ゆめ将(たす)くまじ
塵浴びて、目も開けられぬ
(小雅、無将大車より)

この言葉は、小人を大車にたとえて、これと共に従っては自らが汚れるのでしてはいけない、という戒めなのである。

勧学篇に「薪を施くこと一の若くなれば、火は燥に就く、地を平にすること一の若くなれば、水は溼に就く」の句があり、本章の句と同義である。

七十九
藍苴路作(らんしょろさく。意義未詳)なことは、知のようだが知ではない。惰弱ですぐに人の意見に負けることは、心優しくて仁のようだが決して仁ではない。凶暴頑迷で争いを好むことは、気が強くて勇のようだが決して勇ではない。

藍苴路作は各解釈者の説が乱立していて、定説があるとはいえない。楊注本説の言うとおり意義未詳としておく。下の注4参照。

八十
仁・義・礼・善の人におけるや、これをたとえるならば財貨や粟米の家におけることに等しい。両者ともに、これを多く持つ者は富み、これを少なく持つ者は貧しく、これが全くない者は困窮するだろう。ゆえに、仁・義・礼・善のうちで偉大な行いをなすことができず、それらの小さなことですらやろうとしないのは、国を滅ぼし身を滅ぼす道である。

《読み下し》
自ら其の行に嗛(けん)(注1)たらざる者は、言濫過(らんか)す。古(いにしえ)の賢人は、賤しきこと布衣(ふい)爲(た)り、貧しきこと匹夫爲り、食は則ち饘粥(せんしゅく)も足らず、衣は則ち豎褐(じゅかつ)(注2)も完からず。然し而(しこう)して禮に非ざれば進まず、義に非ざれば受けず。安(いずく)んぞ此に取らん。

子夏貧にして、衣縣鶉(けんじゅん)(注3)の如し。人曰く、子は何ぞ仕えざる、と。曰く、諸侯の我に驕る者には、吾臣と爲らず、大夫の我に驕る者は、吾復(ま)た見(まみ)えず。柳下惠は門に後るる者と衣を同じうして、而(しか)も疑わ見(れ)ざるは、一日の聞に非ざればなり。利を爭うこと蚤甲(そうこう)の如くにして、而も其の掌を喪う、と。

人に君たる者は以て臣を取ることを愼まざる可からず、匹夫は友を取ることを愼まざる可からず。友なる者は、相有する所以なり。道同じからざれば、何を以て相有せんや。薪(たきぎ)を均にして火を施(し)けば、火は燥に就く、地を平にして水を注げば、水は溼(しつ)に流る。夫れ類の相從うや、此の如きの著しきなり、友を以て人を觀ば、焉(いずく)んぞ疑う所ならん。友を取ること善人をすべし、愼まざる可からず、是れ德の基なり。詩に曰く、大車を將(たす)くること無し、維(こ)れ塵冥冥たり、とは、小人と處(お)ること無からんを言うなり。

藍苴路作(らんしょろさく)(注4)は、知に似て而(しか)も非なり。偄弱(だじゃく)(注5)奪い易きは、仁に似て而も非なり。悍戇(かんこう)(注6)鬭(とう)を好むは、勇に似て而も非なり。

仁・義・禮・善の人に於けるや、之を辟(たと)うるに貨財・粟米の家に於けるが如きなり、多く之を有する者は富み、少く之を有する者は貧しく、有ること無き者に至りては窮す。故に大なる者は能くせず、小なる者も爲さざるは、是れ國を弃(す)て身を捐(す)つるの道なり。


(注1)集解の郝懿行は、「嗛は足らざるなり」と言う。栄辱篇(3)注8および仲尼篇(2)注3における楊注の解釈を参照。だが大略篇のこの章における楊注は、「嗛は足りるなり」と注している。すなわち、ここに限っては「嗛(きょう)」と読んで反対の意味の解釈を取っている。楊注説を取らず、郝説を取る。
(注2)楊注は、「豎褐は僮竪の褐、亦は短褐なり」と言う。少年の下僕に着せるような、尺の短い粗末な服。
(注3)増注は、「鶉の尾は特に禿なりて、衣の短結なるがごとし。故に凡そ敝衣を懸鶉の若きと曰う」と注する。鶉(うずら)は尾が非常に短いので、破れて短くなってしまったぼろ服のことを懸鶉(けんじゅん)のごとし、と言うのである。
(注4)猪飼補注・藤原栗所・劉師培・于省吾のいずれも、異なる説を挙げている。漢文大系および金谷治氏は、藤原栗所の「濫狙露作」説に引き寄せて読む。金谷氏は「藍苴(濫漫)にして露(あらわ)に作(な)す」と読み下し、「放漫であけひろげた行為をする」と訳している。新釈漢文大系は于省吾の「監狙楽詐」説に引き寄せて読む。すなわち「監狙(かんしょ)詐(さ)を楽(この)む」と解して読み下し、「細かに様子を伺い調べて相手の意表をつくことに興味を持つ」と訳している。楊注本説は「其の義未詳」とする。上の訳においては、意義未詳としておく。
(注5)集解の盧文弨は、「偄」は「懦」と同じと言う。
(注6)楊注は、「悍は兇戻、戇は愚なり」と言う。

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