Author Archives: 河南殷人

非相篇第五(2)

人には三つの不祥がある。一つ、年少にして年長者に従おうとしないこと。二つ、身分低きにして身分高き者に従おうとしないこと。三つ、資質愚劣でありながら賢明な者に従おうとしないこと。これが、人の三つの不祥である。

人には三つの必窮がある。人の上に立ちながら下を愛することができず、人の下に立ちながら好んで上を批判しようとすることは、人の必窮のその一である。面と向かっているときは従わず、裏に回れば人を侮ってそしることは、人の必窮のその二である。知能も行為も浅薄であり、是非の判断も人並みよりずっと劣っているにも関わらず、仁人を推挙することができず、知能ある士を尊ぶこともできないことは、人の必窮のその三である。人にしてこの必窮三箇条を備えている者は、人の上に昇れば必ず危機に陥り、人の下に降りれば必ず滅びが待っているだろう。『詩経』に、この言葉がある。:

雪がいかほど降ろうとも
日の光あらば消ゆるもの
君は光となりもせず、愚者を斥くこともせず
雪は居残り降り積もり、屡(しばしば)驕るばかりなり
(小雅、角弓より)

このように、必ず窮してやがて滅ぶであろう。

《原文・読み下し》
人に三不祥有り。幼にして長に事(つか)うるを肯んぜず、賤にして貴に事うるを肯んぜず、不肖にして賢に事うるを肯んぜず、是れ人の三不祥なり。人に三必窮有り。上と爲りて則ち下を愛すること能わず、下と爲りて則ち好んで其の上を非とするは、是れ人の一必窮なり。鄉(むか)えば則ち若(したが)わず(注1)、偝(そむ)けば則ち之を謾(あなど)るは、是れ人の二必窮なり。知行淺薄にして、曲直有(また)以(すで)に縣(けん)す(注2)、然り而(しこう)して仁人をば推すこと能わず、知士をば明(めい)する(注3)こと能わざるは、是れ人の三必窮なり。人此の三數行(さんすうこう)(注4)有る者は、以て上と爲れば則ち必ず危く、下と爲れば則ち必ず滅ぶ。詩に曰く、雨雪瀌瀌(ひょうひょう)たるも、宴然(えんねん)(注5)なれば聿(ここ)に(注6)消ゆ、肯(あえ)て下隧(かすい)(注7)すること莫く、式(もって)居りて屢(しばしば)驕る、とは、此を之れ謂うなり。


(注1)集解の王先謙は、「若」は「順」なり、と言う。
(注2)元本は「相」字がない。
(注3)集解の王念孫は、「明」は尊ぶことの意と言う。
(注4)集解の王引之は「三」字は衍字と言う。しかし新釈の藤井専英氏は「数」は箇条、項目の意であり「三数行」で三箇条の行為と言う。藤井説に従い「三」字を削らない。
(注5)現行の標準『詩経』テキストである毛詩本は、「見晛(けんけん)」に作る。
(注6)毛詩本は、「聿」を「曰」に作る。意味は同じ。ここに。
(注7)毛詩本は、「隧」を「遺」に作る。

上に訳したくだりは、前後の叙述とつながっていない、単独の短い文章である。『詩経』の引用で締められる荀子の論述のいつものパターンに従っているので、本来は他篇のどこかに組み入れられるべき文章なのであろう。

非相篇第五(3)

人間の人間たるゆえんのものは、何であるか?それは、人間が区別する能力を持っているところにある。腹が減ったら食べることを欲し、寒かったら暖まることを欲し、疲れたら休むことを欲し、利益を好んで危害を嫌うのは、人間が生まれながらにして持っているところであり、人間が意図的に何かを行うことを待たずして自然にそうなるところのものであり、聖王の禹も悪王の桀も変わらないものである(注1)。ならば、人間の人間たるゆえんのものは、単に二足歩行して体に毛がないことではない。むしろ、区別する能力を持っているところにある。あの猩猩(しょうじょう)(注2)の姿形は、二足歩行して体に毛がある。しかし中華の君子はその肉を羹(あつもの。スープ)に入れて飲み、切り身にして食べる。ゆえに、人間の人間たるゆえんのものは、単に二足歩行して体に毛がないことではない。むしろ、区別する能力を持っているところにある。禽獣(ケダモノ)どもは、父と子はあっても父と子が親しみ合うことはない。雄と雌があっても、男女を分ける礼義はない。ゆえに人の道には区別が必ずあるのであって、その区別は規則に従った区分が最上であって、規則に従った区分は礼義が最上であって、礼義は聖王の制定した礼義が最上なのである。過去にあまたの聖王が現れたが、我々はそのどれに則るべきであろうか?礼の規則は、あまりに古いものであると散逸してしまって現代に行われない。音楽もまた、あまりに古いものであると伝承が絶えてしまって現代に伝わらない。現代の法律を守る役人たちは、礼を厳格に守りながら、かえってその精神を見失って礼の適用がうまくできなくなっている。こういった現状であるので、聖王の跡を見ようとするならば、今の世において燦然と輝いている手本に則るのが最もよい。それが、「後王」(注3)なのだ。「後王」という者は天下の君主であって、「後王」を捨て置いて古い時代のことを言うのは、たとえるならば自らの君主を捨てて他の君主に仕えるようなものであって、してはならないことである。ゆえに、千年前のことを見たいのであれば、まずは今現在のことを調べるべきであり、この世の億万の出来事を知りたいのであれば、まずは身近な一、二の出来事を明らかにするべきであり、はるか古代のことを知りたいのであれば、周王朝の制度を研究するべきであり、周王朝の制度を知りたいのであれば、諸君らの師が貴ぶ君子たちの業績を深く研究するべきである(注4)。古語に、「近きをもって遠きを知り、一をもって万を知り、微(かす)かな徴候をもって明らかな法則を知る」、とあるが、今言った原理のことを言うのである。


(注1)以上は、性悪篇で展開される人間の「性」が等しく悪である、という考えに基づいている。
(注2)想像上の動物。下の注6参照。しかし荀子の叙述を読むと、その肉と称するものが出回っていたことになる。
(注3)「後王」を私は他の篇では現代の君主、と訳すことにしているが、ここではあえて訳さず、下で考察したい。
(注4)原文読み下し「其の人の貴ぶ所の君子を審かにす」。集解の劉台拱は、其の人とは荀子の自称であり、貴ぶ君子とは孔子と子弓(非相篇(1)参照)である、と言う。増注の久保愛は、其の人とは孔子と子弓のごとき者である、と言う。劉台拱に従って訳す。
《原文・読み下し》
人の人爲(た)る所以の者は何ぞや。曰く、其の辨有るを以てなり。飢えて食を欲し、寒(こご)えて煖を欲し、勞して息(そく)を欲し、利を好んで害を惡(にく)むは、是れ人の生れながらにして有る所なり、是れ待つこと無くして然る者なり、是れ禹・桀の同じ所なり。然れば則ち人の人爲る所以の者は、特(ただ)に其の二足にして毛無きを以てするに非ざるなり、其の辨有るを以てなり。今夫(か)の狌狌(しょうじょう)の形笑(けいしょう)(注5)は亦二足にして毛あるものなり(注6)、然り而(しこう)して君子は其の羹(こう)を啜り、其の胾(し)を食す。故に人の人爲る所以の者は、特に其の二足にして毛無きを以てするに非ざるなり、其の辨有るを以てなり。夫の禽獸は父子有れども父子の親(しん)無く、牝牡(ひんぼ)有れども男女の別無し。故に人道は辨有らざること莫し。辨は分より大なるは莫く、分は禮より大なるは莫く、禮は聖王より大なるは莫し。聖王百有り、吾孰(たれ)にか法(のっと)らん。[故]曰く(注7)、文久しければ息(や)み、節族(せつそう)久しければ絕ゆ、と。法數を守るの有司、禮を極めて褫(ゆる)む。故(ゆえ)に曰く(注7)、聖王の跡を觀んと欲すれば、則ち其の粲然たる者に於てす、後王是れなり、と。彼の後王なる者は、天下の君なり。後王を舍(す)てて上古を道(い)うは、之を譬うるに是れ猶お己の君を舍てて、人の君に事(つか)うるがごときなり。故(ゆえ)に曰く(注7)、千歲を觀んと欲すれば、則ち今日を數え、億萬を知らんと欲すれば、則ち一二を審(つまびら)かにし、上世を知らんと欲すれば、則ち周道を審かにし、周道を知らんと欲すれば、則ち其の人の貴ぶ所の君子を審かにす、と。故(こ)に曰く(注7)、近きを以て遠きを知り、一を以て萬を知り、微を以て明を知る、とは、此を之れ謂うなり。


(注5)新釈は于省吾を引いて、「笑は肖に通じ、像の意」と言う。
(注6)原文「今夫狌狌形笑、亦二足而毛也」。増注、集解の兪樾と王先謙、ともに「毛」字の前に「無」字があるべきと言う。狌狌(しょうじょう。通常は「猩猩」と書く)は空想上の動物で、二足歩行して人間に似ているという。荀子は狌狌が人間に似ていて人間ではない、ということを強調しようとしているので、直前の文を受けて「無」があるべきだ、という推測である。しかし新釈の藤井専英氏は、ここで荀子は狌狌が二本足で歩くという点を強調したとみて、「無」字を加えない。後世の狌狌の想像図を見ると、毛があって二足歩行をする怪物である。なので王先謙は狌狌の顔面に毛が無いことを言っているのだ、と解釈している。原文のままを尊重する藤井説に、とりあえずは従っておく。
(注7)ここの文章には、「故曰」が四度表れている。このうちどれを「故(こ)に曰く」と読んで「故(ゆえ)に曰く」と読むべきであろうか。集解の王念孫は、最初の「故」字は衍字である、と言う。最後四つ目の「故曰」は引用であるので、「故(こ)に曰く」と読むしかない。真ん中二つの「故曰」は藤井専英氏、金谷治氏ともに「故(ゆえ)に曰く」と読んで、荀子の言葉とみなしている。最初の「故」字は王念孫に従い衍字と考え、以降は藤井・金谷両氏の読みに従っておく。

非相篇は、ここから「後王」についての叙述となる。「後王」のことを荀子が明確に定義してくれたらよかったのであるが、『荀子』各篇中に「後王」の語は散見されるにもかかわらず、その意味はついに厳密に明らかにされない。なので、「後王」がいったい何を指そうとしているのかについて、荀子研究者たちの間で意見が分かれている。二説に大別される。

  • 近時の王」説:楊倞、重澤俊郎氏、金谷治氏
  • 周王」説:劉台拱、王念孫、兪樾、久保愛、漢文大系(服部宇之吉)、新釈漢文大系(藤井専英氏)

「近時の王」説は楊倞が最初に注釈したものであるが、後世の劉台拱らの研究家は楊注を非となして、劉台拱は「後王」は周の文王・武王のことと解した。兪樾は、荀子は周末に生まれた者であるので文王・武王を「後王」とみなしたのであるが、もしこれが漢人であるならば漢の高祖を「後王」となし、唐人であるならば唐の太祖太宗を「後王」とみなすであろう、と言う。兪樾の言いたいことは、荀子は自らの生まれたのが周王朝の時代であったから当代の制度を尊重しているにすぎないのであって、文王・武王の制度を固定して尊重しているわけではない、というものである。

これに対して、楊倞の注を擁護するのは重澤俊郎氏である。

後王が先王に対する語として成立する所以は兪樾の言う如く後王が現代実際的に拘束力を有する法制の維持者であるという一点に在る。故に劉(台拱)王(念孫)の説も荀子時代の法制の草創者たる資格を文(王)武(王)に認める限りに於ては成立する訳であるが、然し彼等の説は恐らく先王思想との調和を求めんとす意図の所産に過ぎないであろう。荀子に依れば、社会制度は古来多く存するが其の古代に属するものは既に滅亡して内容を知り得ない。若し之を正しく知らんと欲すれば必ず現存するものの中に之を求むべきである。これ以外に道は無い。現存の社会制度から離れて観念的に過去の王者の制度を追及することは無意味である。即ち荀子の実際的立場が先王に対して後王を尊重せしめた一つの原因として考え得る。
(重澤『周漢思想研究』90-91ページ、大空社、1998年。原本は昭和18年の出版。引用のカッコは引用者の追加)


こうして、王制篇において「道は三代に過ぎず、法は後王に貮(たが)わず」と荀子が言うところについて重澤氏は、「これ先王の道に価値を認めると同時に其の具体的形態たる点に於て後王の法を尊重するが為に外ならない」と評する。

重澤氏の主張を言い換えるならば、荀子は人間社会を統治するための正道は人類史において不変であり、それが先王の道である。同時に、いにしえの時代においても現代においても人間社会を統治するための合理的な法律は不変の原理に従っているのであり、荀子の生きた戦国時代においても不完全ではあるがそれなりに合理的な法律は立てられている。正論篇で荀子は「いにしえの時代には厳格な体刑はなかった」という論者に反論して、厳格な体刑こそがいにしえの治世をもたらしたのだ、と主張した。このように荀子は国家の法については厳格であることを理想としていた。彊国篇で荀子が秦国の統治を一点を除いて絶賛したのは、秦国では法による統治がすみずみにまで行き渡っていたからであった。秦国によって足りない一点とは、儒家の統治術であった。正名篇で荀子は「後王」がなすべき政策として、殷・周の法律と文化的装飾の中からよいものを選択して、名称については現代の実情に合わせて適宜定義するべし、と言った。これは、過去の文化と現代の実情から穏当なものを取捨選択して合理的な礼法を整えよ、という荀子の主張を示している。

したがって、荀子の「後王」が指す対象は、やはり重澤氏が言うとおりのものであったと私は考えたい。荀子が「後王」の語を明確に定義しなかったのは、あるいは儒家の伝統である堯・舜・禹・湯・文・武・周公などの先王たちを賞賛して現代を批判する思想的立場に捉われて、現代の国家において施行されている法制度にも合理的な側面がありうる、という主張を明確に打ち出せなかったからであるかもしれない。よって「後王」の制度とは、荀子の時代において合理的であると認められる文化・礼義・法律の総体を指しているはずである、と私は考える。荀子は盲目的な過去の伝統崇拝者ではなく、人類の歴史は不変の正道に従っていて、過去の時代の制度文物を現代において尊重するべきなのは、そこに人類の合理的な正道が見出せるからにすぎない、という立場に立っていたと私は考える。非相篇のここから後に続く議論においては、人類の歴史を通じた不変性が論じられる。

だがそれならば、いま荀子の「後王」が指すところから文化礼義を取り去ったならば、商鞅(しょうおう)ら法家思想家たちの制定した法律だけが残ることになるだろう。荀子は法家思想を批判するが、彼らの制定した法律の合理性を否定することは、荀子にもできるはずがない。よって荀子の門人から李斯・韓非子の法家思想が続いたことは、やはり思想的系譜上の必然というべきであった。

非相篇第五(4)

かの妄言を吐く者は、「いにしえの時代と今の時代とでは事情が違っていて、両者の時代では治乱の原因が異なっている」などと言い、大衆の者はこの妄言に惑わされる。だがかの大衆の者は愚かにして、理論もなければ推論を働かせることもできないのである。ゆえに彼らは、目の前で見ているものですら欺かれる。ましてや一千世代も前のはるか昔の伝承については、正しく理解できるはずもない。そして妄言を吐く者は、ごく身近なことですら人を欺きだますことができる。ましてや一千世代も前のはるか昔のことについて人を欺きだますことなどは、わけもないことだ。しかし、聖人はどうして欺かれるだろうか。聖人なる者は、己の心中の正道を基準として推論する者である。ゆえに、人間の不変の原理を基準として、古今の人間を推論することができる。万物の「性」から発現する「情」の法則を基準として、古今の「情」を推論できる(注1)。個物を分類して命名する基本原理を基準として、古今の分類・命名法を推論することができる(注2)。人間の功績への評価は、明確な言説をもって行う。万物の観察は、不変の正道をもって極めるのである。つまり、聖人は古今のことを一つの基準によって推論評価するのである。個物を分類して命名する基本原理が古今で変わらなければ、時代がいくら遠く離れていようとも、同じ原理が貫かれているはずなのである。こうしてよこしまで曲がった主張に直面しても迷うことがなく、不純物が混じった雑多な諸物を観察しても惑わされないのである。それは、己の心中の正道によって推論するからである。いにしえの時代に五帝(ごてい)(注3)より前の時代の統治者は、伝えられない。だが、それより以前には賢人がいなかったのではない。単に時代が古すぎて、伝承が絶えただけのことなのだ。また五帝の時代についても、その政策について伝わっていない(注4)。だが、彼らが善政を行わなかったのではない。単に時代が古すぎて、伝承が絶えただけのことなのだ。禹と湯については、いちおう政策が伝わっている。しかし周代の政策の詳細さには、遠く及ばない。禹や湯が、周代のような細かな善政を行わなかったのではない。単に時代が古すぎて、伝承が絶えただけのことなのだ。時代が古ければ古いほど、その伝承はますます粗略になり、時代が近ければ近いほど、その伝承はますます精密となる。粗略な伝承では大まかな要点を挙げるにとどまり、精密な伝承では詳細な内容が挙げられる。愚者どもは、古い時代の粗略な要点は聞くがその詳細な内容にまで推測が至らないので、古い時代をむやみに称えるのである。逆に近い時代の詳細な内容だけ聞いてその上位にある大きな原理にまで推測が至らないので、近い時代の揚げ足ばかり取るのである。まことに、詳細な文化といえども長い時間が経てば滅んでしまうのであり、精緻な音楽いえども長い時間が経てば散逸してしまうのである。


(注1)原文の「情」は、君子が過去の出来事を推測するための基準として挙げている。なので、正名篇の定義により万物の「性」の発現した現象として「情」を考え、このように訳した。
(注2)原文の「類」字について、荀子は法律制度を論じるときには法が明示しない事項についての類推(類例)判断、という意味を付ける(たとえば勧学篇(1)の注1)。一方荀子が個物の命名基準を論じるときには、「類」字は個物の正しい分類法、という意味を付ける(たとえば解蔽篇(4)の注4)。ここでは分類法の意味と捉えて訳した。
(注3)五帝に数えられる中華最初期の君主は、各テキストによって異同がある。『史記』五帝本紀では、黄帝(こうてい)・顓頊(せんぎょく)・帝嚳(ていこく)・堯・舜を挙げている。ここでの荀子の書き方からいって、少なくとも禹に直接先行する君主である堯と舜を五帝に数えているのは確実であろう。その他三名として荀子が誰を想定していたのかは、わからない。
(注4)ここで荀子は、五帝について堯・舜以前の時代の政策が伝わっていない、と言いたいのであろうか、堯・舜も含んでその政策が伝わっていない、と言いたいのであろうか。もし堯・舜も含んで政策が伝わっていない、という意味なのであれば、荀子は孟子などが強調する堯・舜の政策の伝承について、これを史実として認めていなかったことになるだろう。
《原文・読み下し》
夫(か)の妄人(ぼうじん)曰く、古今情を異にし、其の以て治亂する者(注5)は道を異にす、と。而(しこう)して衆人焉(これ)に惑う。彼の衆人なる者は、愚にして說無く、陋(ろう)にして度(たく)(注6)無き者なり。其の見る所も、猶お欺かる可きなり、而(しか)るを況(いわ)んや千世の傳に於てをや。妄人なる者は、門庭の間(注7)も猶お誣欺(ぶぎ)す可きなり、而るを況んや千世の上に於てをや。聖人何を以て欺かれざるや。曰く、聖人なる者は、己を以て度(はか)る者なり。故に人を以て人を度り、情を以て情を度り、類を以て類を度り、說を以て功を度り、道を以て盡(じん)を觀る、古今度(ど)を一にすればなり(注8)。類悖(もと)らずんば、久しと雖も理を同じうす、故に邪曲に鄉(むか)いて迷わず、雜物を觀て惑わず、此を以て之を度ればなり。五帝の外傳人(でんじん)無し、賢人無きに非ざるなり、久しきが故なり。五帝の中傳政(でんせい)無し、善政無きに非ざるなり、久しきが故なり。禹・湯に傳政有るも周の察なるに若かざるなり、善政無きに非ざるなり、久しきが故なり。傳者(つたうること)久しければ則ち論(いよいよ)(注9)略にして、近ければ則ち論(いよいよ)(注9)詳なり。略なれば則ち大を舉げ、詳なれば則ち小を舉ぐ。愚者は其の略を聞きて其の詳を知らず、其の詳を聞きて其の大を知らざるなり。是を以て、文久しうして滅び、節族(せつそう)久しうして絕す。


(注5)原文「其以治乱者」。集解の王念孫は、韓詩外伝の引用においては「其所以治乱者」となっていることを指摘して、「所」が脱落していると言う。つまりここは、「其の治乱する所以(ゆえん)の者」のように解釈されるべきである。
(注6)「度」について楊注は、「測度」と言う。新釈の藤井専英氏は、忖度(そんたく)することと言う。
(注7)「門庭の間」とは、家の門や庭のようにすぐ近くのこと。
(注8)原文「古今一度也」。集解の王念孫は、「古今一也」に作るべし、と言う。「度」を残すならば、その意味は上の注6の忖度の意味ではなくて尺度(しゃくど)の意味となるだろう。忖度する行為ではなく、忖度するための尺度基準の意でなければならない。
(注9)集解の兪樾は、二つの「論」字は「兪」字の誤り、と言う。いよいよ。

上に訳したくだりは、荀子の歴史観を示している。荀子が妄言として斥けるものは、堕落史観を持つ者だけではない。堕落史観を持つ者は、今の時代がかつての時代よりも退廃堕落していると考える。荀子はそれに対して、過去が素晴らしく見えるのは時代が古くて伝承がほとんど抜け落ちているからであり、現代がみすぼらしく見えるのは時代が新しくて詳細な情報が得られるからである、と反論する。こうして荀子は堕落史観を斥けるのであるが、彼の批判は逆の進歩史観に対しても向けることができるであろう。すなわち進歩史観を持つ者は、かつての時代は暗黒時代であって時代が積み重なるとともに人間の社会は進歩しているのだ、と言うだろう。だが荀子の視点から言えば、それも妄言である。荀子が言うところでは、人類はそのよく伝わらない時代から正道は不変であって、その正道を理解して人間の社会を統治した賢人は、どの時代にも存在したはずだ。いつの時代にも共通なのは、正道を理解して礼法を制作運営する聖王と君子がいて、礼法により統治されてその恩恵を受けるべき小人がいるばかりなのだ。荀子は歴史が治世と乱世を交替に繰り返す、という運動法則を歴史に見ていたわけではないので、彼は循環史観の持ち主とはいえない。むしろ歴史を通じて不変の正道が常に存在していて、それを天下に普及させれば永遠の平和がやってくるまでのことだ、と考える、いわば歴史不変論者であるというべきであろう。荀子のような真剣なプラトニストは、このような考えを持つはずである。

荀子の「後王」の法を有効と考える考えもまた、彼の歴史不変的な視点に由来している。荀子にとっては、はるか古代と今の時代との間に、本質的な違いは認められないのである。単に荀子の生きた時代は、聖王と君子の正道がたまたま行われていない、不幸な時代であるに過ぎない。おそらく荀子は人類の過去の歴史において、そのような時代は何度もあったことであろう、と考えていたことであろう。このような時代に生きる智恵ある者は、歴史を通じて不変な人類の正道を叙述して、その普及に努めるだけであった。

非相篇のここから後はまた話題を代えて、君子の弁論術が論じられる。言いたいことは分かるのであるが、荀子は孟子と違って弁論で功績を立てた実績が記録に残されておらず、理論を本当に本人が実践できていたのかよく分からない。なので、私としては書かれている内容にあまり興味が持てない。ここ以降の非相篇の部分は、訳するだけに留めることにしたい。

非相篇第五(5)

およそ言葉において、先王の道に合わず礼義に従わないものは、それを姦言と言う。姦言はたとえ能弁であっても、君子の聞くところではない。だがたとえ先王に則り、礼義に従い、学ぶ者を説得する弁論ができたとしても、言葉を好むことなく、言葉を楽しむことができなければ、それは決して真の士ではない。ゆえに、君子は言葉を用いるに当たって、心中の志は言葉を好み、外に出た行動は言葉どおりに沿って安定し、言葉を発するときにはこれを楽しんで味わうようでなければならない。ゆえに、君子は必ず弁論をせずにはいられないのである。およそ人間は、己が善であると考えることを好んで言わずにはいられない。とりわけ君子は、それを好むのである。ゆえに君子は、他人に贈る言葉は黄金や珠玉よりも貴重であり、他人に示す言葉は華麗な刺繍よりも美しく、他人に聞かせる言葉は鐘(かね)・鼓(つづみ)・琴(こと)・瑟(おおごと)の楽器よりも聴いて楽しいのである。ゆえに君子の言葉は人を飽かせることがない。だが卑しい俗人はこれに反し、実利ばかりを好んで美麗な文化を知るところがない。ゆえに彼らは生涯低俗で凡庸なままなのである。『易経』に、この言葉がある。:

嚢(ふくろ)の口を括っておけば、咎(とが)もなければ誉(ほまれ)もない。
(「坤」卦、六四の爻)

これは、言うべきことを言う勇気のない腐れ儒者どものことを言うのである。諸君ら君子は、よき弁論をすることをはばかってはならない。

およそ説得の難しいところとは、聖王の最高の正道を最低の愚人どもに説明しなければならないところにあり、聖王の最高の治世を現在の最悪の乱世において説明しなければならないところにある。なので、正道をずばりと簡潔に説明しても、連中は分かるものではない。そこで遠い古代のことを例に挙げて論じると、連中はそんなに古い時代ならば間違えて言っているのだろう、と疑う。逆にごく最近のことを例に挙げて論じると、連中はそんな当たり前のことを聞いて何の得があるのか、とやはり疑う。よく弁舌をなす者はこのような中にあって、遠い古代を例示しても決して間違うことなく、近い時代のことを例示しても決して凡庸に陥らず、時代とともに論を変えて調節し、緩急を出し入れしながら、あたかも水路の流れを調節したり材木の曲がりを直したりする道具が己に備わっているかのごとくに相手の琴線に触れる説得を行うのである。こちらの言いたいことを詳しく説いて、しかも相手と衝突したりはしないのだ。己の心中を制御するためには墨縄(すみなわ)を用いて厳格に測り、他人に接するときには弓のしなりを矯正するようにしなやかに誘導していくのである。己を測るために墨縄を用いるので、天下の法則となることができる。他人に接するために弓のしなりを矯正するように行うので、寛容をもって対応することができて、これによって天下の大事を成すことを望むことがきる。ゆえに君子は賢明でありながらよく無能を容れ、知者でありながらよく愚者を容れ、博学でありながらよく浅薄者を容れ、純粋でありながらよく不定見な雑駁者を容れるのである。これを兼術(けんじゅつ)と言い、硬軟清濁自在の説得術なのである。『詩経』に、この言葉がある。:

徐(えびす)も既(つい)に、同じて化せる
これぞ天子の、功(いさおし)なるかな
(大雅、常武より)

兼術があれば、蛮族も愚者も全て容れて、最終的に同化させることができるだろう。

他人を説得して、己に従わせる術について言おう。慎重な姿勢で相手に臨み、誠実な姿勢で相手を扱い、堅固な姿勢で自説を保ち、理性を用いて相手を諭し、比喩を用いて明らかに説明し、喜ばしい和やかな空気を作って自説を相手に送り込み、自説がいかに宝のように貴重であるかを分からせ、自説を貴んで精密丁寧に説明するのである。このようにしたならば、自説は常に受け入れられることとなり、たとえこちらの主張が相手を喜ばせることはできなくとも、こちらの主張を相手は尊重せずにはいられなくなるであろう(注1)。これが、「他人の貴ぶところを貴ぶことを行う」ということなのである。言い伝えに、「ただ君子だけが、他人の貴ぶところを貴ぶことを行う」とあるのは、今言った術を通じて行うのである。

君子は、必ず弁論をせずにはいられない。およそ人間は、己が善であると考えることを好んで言わずにはいられない。とりわけ君子は、それを好むのである。それゆえ小人は弁論すれば凶悪なことを言い、君子は弁論すれば仁にあふれたことを言うのである。言葉を発してそれが仁に当たらないのであれば、何も言わないほうがましであり、不仁なむだ話を多くするよりは訥弁であるほうがましである。しかし言葉を発してそれが仁に当たるのであれば、逆にそのような言葉を好む者は人間として優れていて、言葉を好まない者は人間として劣っている。ゆえに、仁のあふれた言葉は偉大なのである。仁にあふれた言葉が上に立つ者から表れたならば、それは下にある者たちを導くための政令となるだろう。また仁にあふれた言葉が下にある者から表れたならば、それは上に立つ者を忠節から救おうとする諫言となるだろう。ゆえに君子が仁を行うときには、それを飽くことなく行うことができるのである。心中の志は仁を好み、外に出た行動は仁に基づいて安定し、そして仁にあふれた言葉を楽しんで言うであろう。ゆえに、君子は必ず弁論をせずにはいられないのである。細かなことを指し示す弁論は、それらの発端をずばりと示す弁論には及ばない。発端を示す弁論は、一切は正しい礼義の区分に基づいていることを示す弁論には及ばない。細かなことをきっちりと示す弁論があり、発端を明らかに示す弁論があり、礼義の区分に基づいていることを示す道理を示す弁論がある。これらの違いが、聖人の弁論と士・君子の弁論を分けるのである(注2)。小人の弁論があり、士・君子の弁論があり、聖人の弁論がある。事前に熟慮したわけでなく、早くから計画したわけでなく、その都度に発言しながら全てが的を得ていて、言葉は麗しい文飾をなして正しい分類法に従い、その弁論は自在に挙げて降ろして進んで移り、臨機応変で尽きることがない。これが、聖人のなす弁論である。事前に熟慮を行い、かつ早くから計画しているので、わずかの言葉でも聴くに値し、麗しい文飾をなす言葉でありながらも実のある内容であり、博学な言葉でありながらも正論である。これが、士・君子のなす弁論である。話す言葉を聴けば口数はやたらと多いのに一貫性がなく、身を用いて働かせれば嘘が多くて功績は挙がらず、上に仕えさせれば明察の王に従うことができず、下を束ねさせれば人民を調和して斉一させることもできず、そのくせに口舌は長い弁論だろうが短い応答だろうが妙に人を納得させるようにしゃべくって、これで何やら偉大な大人物と勘違いさせるに足りる。これこそは姦人の中の姦人というべきである。いざ聖王が立ったあかつきには、まっさきにこれに誅罰を加えるであろう。盗賊のたぐいへの誅罰は、その後回しにするぐらいである。なぜならば盗賊は教化すれば回心させることもできるが、姦人の中の姦人は教化することが不可能だからである。


(注1)増注の久保愛はここに注して、「孟子の斉宣梁恵に於けるは是なり」と言う。つまり、孟子が梁の恵王(けいおう)、斉の宣王に対して説得を試みたときには、孟子の自説が二人の王を喜ばすことはできなかったが二人の王は孟子の主張を尊重せざるをえなかった、と久保愛は評しているのである。孟子の両王への説得の詳細は、『孟子』梁恵王章句および公孫丑章句の全体を参照。
(注2)聖人・君子・士の三者は国家秩序の中で君主・上級官僚・下級官僚に当たる。ここでは君主である聖人と官僚である士・君子の二者に分類して論じている。解蔽篇(6) の注4参照。
《原文・読み下し》
凡そ言(げん)先王に合せず、禮義に順(したが)わざる、之を姦言と謂う。辯(べん)なりと雖も、君子は聽かず。先王に法(のっと)り、禮義に順い、學者に黨(さと)す(注3)、然り而(しこう)して言を好まず、言を樂しまざれば、則ち必ず誠の士に非ざるなり。故に君子の言に於けるや、志之を好み、行之に安んじ、之を言うことを樂しむ、故に君子は必ず辯す。凡そ人は其の善とする所を言うことを好まざること莫し、而して君子を甚しと爲す。故に人に贈るに言を以てするは、金石・珠玉より重く、人に觀(しめ)すに言を以てするは、黼黻(ほふつ)・文章より美しく、人に聽かしむるに言を以てするは、鐘鼓(しょうこ)・琴瑟(きんしつ)より樂し、故に君子の言に於けるや厭くこと無し。鄙夫(ひふ)は是に反し、其の實を好んで其の文を恤(かえりみ)ず、是を以て終身埤汙(ひお)・傭俗(ようぞく)を免れず。故に易に曰く、囊(ふくろ)を括る、咎(とが)も無く譽(ほまれ)も無し、とは、腐儒を之れ謂うなり。
凡そ說の難きは、至高を以て至卑に遇い、至治を以て至亂に接するなり。未だ直(ただ)ちに至る可からざるなり。遠く舉(きょ)すれば則ち繆(びゅう)を病(うれ)い、世を近うしては則ち傭(よう)を病う。善者の是の間に於けるや、亦必ず遠舉して繆ならず、近世にして傭ならず、時と遷徙(せんし)し、世と偃仰(えんこう)し、緩急嬴絀(えいちゅつ)、府然(ふぜん)として渠堰(きょえん)・檃栝(いんかつ)の己に於けるが若きなり。曲(つぶさ)に謂う所を得、然り而して折傷せず。故に君子の己を度(はか)るには則ち繩(じょう)を以てし、人に接するには則ち抴(せつ)(注4)を以てす。己を度るに繩を以てす、故に以て天下の法則と爲すに足る。人に接するに抴(せつ)(注4)を用う、故に能く寬容し、求に因りて以て天下の大事を成す。故に君子は賢にして能く罷(ひ)を容れ、知にして能く愚を容れ、博にして能く淺を容れ、粹にして能く雜を容る、夫れ是を之れ兼術と謂う。詩に曰く、徐方(じょほう)既に同す、天子の功、とは、此を之れ謂うなり。
談說(だんぜい)の術。矜莊(きょうそう)以て之に涖(のぞ)み、端誠(たんせい)以て之に處し、堅强以て之を持し、分別以て之を喩(さと)し、譬稱(ひしょう)以て之を明(あきら)かにし、欣驩(きんかん)・芬薌(ふんきょう)以て之を送り、之を寶(たから)とし、之を珍とし、之を貴び、之を神とす。是(かく)の如くなれば則ち說(せつ)常に受けられざること無く、人に說(よろこ)ばれずと雖も、人貴ばざること莫し。夫れ是を之れ能く其の貴ぶ所を貴ぶことを爲すと謂う。傳に曰く、唯(ただ)君子のみ能く其の貴ぶ所を貴ぶことを爲す、とは、此を之れ謂うなり。
君子は必ず辯ず。凡そ人は其の善とする所を言うことを好まざること莫し、而(しこう)して君子を甚しと爲す。是を以て小人辯ずれば險を言い、君子辯ずれば仁を言うなり。言うて仁に之れ中(あた)るに非ざれば、則ち其の言うは其の默するに若かざるなり、其の辯は其の吶(とつ)なるに若かざるなり。言うて仁に之れ中れば、則ち言を好む者は上なり、言を好まざる者は下なり。故に仁言大なり。上に起るは下を道(みち)びく所以にして、政令是れなり。下に起るは上に忠なる所以にして、謀救(かんきゅう)(注5)是れなり。故に君子の仁を行うや厭(あ)くこと無く、志之を好み、行之に安んじ、之を言うを樂しむ。故に言う、君子は必ず辯ず、と。小辯は端を見(あら)わすに如かず、端を見わすは分に本づくを見(あら)わすに如かず。小辯にして察、端を見(あら)わして明、分に本づきて理なり。聖人・士・君子の分具(そな)わる。小人の辯なる者有り、士・君子の辯なる者有り、聖人の辯なる者有り。先慮せず、早謀せず、之を發して當り、文を成して類し、居錯(きょそ)・遷徙(せんし)し、變に應じて窮まらざるは、是れ聖人の辯なる者なり。之を先慮し、之を早謀し、斯須(ししゅ)の言にして聽くに足り、文にして致實(しつじつ)(注6)、博にして黨正(とうせい)(注7)なるは、是れ士・君子の辯なる者なり。其の言を聽けば則ち辭辯(じべん)にして統無く、其の身を用うれば則ち多詐にして功無く、上は以て明王に順(した)がうに足らず、下は以て百姓を和齊(わさい)するに足らず、然り而して口舌は之れ噡唯(せんい)(注8)に均(おい)て則ち節あり(注9)、以て奇偉(きい)・偃卻(えんきゃく)の屬を爲すに足る、夫れ是を之れ姦人の雄と謂い、聖王起れば、先ず誅する所以なり。然る後に盜賊之に次ぐ。盜賊は變ずることを得るも、此は變ずることを得ざるなり。


(注3)楊注は「黨(党)」は親比なり、と言う。集解の郝懿行は「党」は曉了の意、と言う。楊注に従えば「したしむ」の意となり、郝懿行に従えば「さとす」の意となる。ここは論語雍也篇の言葉と同じく「知る」「好む」「楽しむ」の三段階を指していると解釈したい。したがって、郝懿行に従うことにする。
(注4)楊注或説は、「抴」は「枻」となすべしと言う。楊注或説は「枻(えい)」を「楫」すなわち楫(かじ)の意と言うが、集解の王念孫は「紲(せつ)」と「枻」は同じ、と言う。王念孫の意に従えば、「枻」は弓を矯正する道具のこと。
(注5)集解の王念孫は、「謀救」は「諌救」となすべし、と言う。これに従う。
(注6)集解の王念孫は「致」は「質」となす、と言う。これに従う。
(注7)楊注は「黨(党)」は「讜」に同じと言い、集解の郝懿行は「讜正」はすなわち昌言にして善言を言うなり、と言う。新釈の藤井専英氏は注3楊注の「黨(党)」は親比なり、と合わせる形で「党正」を「正に党(した)しむ」と読んでいる。楊注に従っておく。
(注8)集解の王先謙は、「詹(噡)」は多言なり、と言う。「唯」は短い応答のこと。よって「噡唯」は長い弁舌と短い応答のこと。
(注9)原文「然而口舌之均噡唯則節」。宋本は「均」字を「於」に作る。集解本に拠る漢文大系は「然り而して口舌は之(すなわち)均(きん)あり、噡唯(せんい)すれば則ち節あり」と読み下している。漢文大系は「均」は荻生徂徠説を引いて「韻」と古相通じて声音円諧流利の美を言うなり、「噡唯則節」は一たび口を開きて語り又は返事すれば自然に音節あるなり、と言う。しかし、宋本に拠る新釈の読み方のほうが素直である。新釈に従って「均」を「於」とみなす。

非相篇の最後には、君子の弁論の重要性を論じた文章が続けて置かれている。一括して訳した。荀子は、学ぶ弟子たちに剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)を勧める思想家ではなく、正しい言葉ならば積極的に弁じて他人を動かすべきであると勧める。荀子は、世界を正しく表現できる正しい言語があることを信じる者である。よってその正しい言語以外の言語は世を惑わす邪説であって、禁圧しなければならないと主張する者である。荀子の思想には、言論の自由という視点がもとから欠けている。詳細は正名篇に見られる。

以上で、非相篇は終わる。
荀子の思想については、この非相篇までの読書で、私としてはおおむね検討ができたと考える。

これから後は、荀子の他学説批判の篇である非十二子篇第六を読んだ後、現行『荀子』末尾に置かれた堯問篇第三十二の荀子賛を読みたい。『荀子』は堯問篇に続いて劉向の校讎叙録が収録されている。これは、漢文白文も起こして読み下すことにしたい。それ以降は、残された各篇を基本的にコメント抜きで訳していきたい。

【次は、「非十二子篇第六」を読みます。】

子道篇第二十九(1)

家の中では親に孝、家の外では年長者に悌(てい)というのは、人として小さな行いにすぎない。上には君主や親に従い、下には幼き者や人民を慈しむというのは、人としてまずは中ぐらいの行いである。正道に従って君主に従わず、正義に従って親に従わないのが、人として偉大な行いというべきものなのだ。志は礼義に依拠してこれに安んじ、言語は正しい分類に従ってこれを用いるならば、儒家の道はこれに尽きることになる。たとえ大孝者として名高い舜であったとしても、この原理に何一つ加えることなどできはしない。孝子が親の命令に従わない場合は、三つである。一つは、命令に従えば親が危険であり、命令に従わなければ親が安全である場合。この場合に子が親の命令に従わないのは、衷心から出た行為なので正しい。二つは、命令に従えば親が恥を受け、命令に従わなければ親が栄光を得る場合。この場合に子が親の命令に従わないのは、適切な考慮によった行為なので正しい。三つは、命令に従えば親が禽獣(ケダモノ)の行為に落ち、命令に従わなければ親が人間として立派に飾り立てられる場合。この場合に子が親の命令に従わないのは、親を敬うゆえの行為なので正しい。ゆえに、親に従うべき状況でありながらこれに従わないのは、子の道に外れている。しかしながら親に絶対従うべきでない状況でありながらこれに従うのは、衷心から親を敬っているとはいえない。従うべきか従うべきでないかの分かれ目における義を明らかにして、よく恭敬し忠信し正直であり、これらによってつつしんで行動するならば、これこそ大孝の者というべきであろう。言い伝えに、「正道に従って君主に従うべからず。正義に従って父に従うべからず」とあるが、それは今言った道理を指しているのである。ゆえに、苦労して疲れ果てたとしても恭敬の精神を失わず、災禍と患難に合ったとしても義の精神を失わず、やむなく親に従わなかったことによって不幸にして親から憎まれても親への愛を失わない、これは仁人でなければできないことである。『詩経』に、この言葉がある。:

孝子、匱(とぼ)しからず。
(大雅、既酔より)

まことに真の孝子とは、親への愛が乏しくないのである。(ゆえに、親に従わないこともある。)(注1)


(注1)これは、断章取義(だんしょうしゅぎ)である。すなわち原詩の文脈とは離れて引用し、意味を変えて解釈している。原詩におけるこの句の意味は、「孝行な子孫が少なからず生まれるだろう」というもの。
《原文・読み下し》
入りては孝出でては弟なるは、人の小行なり。上に順(したが)い下に篤きは、人の中行なり。道に從いて君に從わず、義に從いて父に從わざるは、人の大行なり。若(も)し夫(そ)れ志は禮を以て安んじ、言は類を以て使すれば、則ち儒道畢(お)わる。舜と雖も毫末を是に加うること能わず。孝子の命に從わざる所以のものは三有り。命に從えば則ち親危く、命に從わざれば則ち親安し、孝子の命に從わざるは乃ち衷なり。命に從えば則ち親辱められ、命に從わざれば則ち親榮ゆ、孝子命に從わざるは乃ち義(注2)なり。命に從えば則ち禽獸たり、命に從えば則ち脩飾す、孝子命に從わざるは乃ち敬なり。故に以て從う可くして從わざるは、是れ不子なり。未だ以て從う可からずして從うは、是れ不衷なり。從・不從の義を明(あきら)かにして、能く恭敬・忠信・端愨(たんかく)を致し、以て之を愼行すれば、則ち大孝と謂う可し。傳に曰く、道に從いて君に從わず、義に從いて父に從わず、とは、此を之れ謂うなり。故に勞苦・彫萃(ちょうすい)して、而(しか)も能く其の敬を失すること無く、災禍・患難にして、能く其の義を失すること無く、則(も)し(注3)不幸にして不順をもって惡(にく)ま見(る)るも、而(しか)も能く其の愛を失うこと無きは、仁人に非ざれば能く行うこと莫し。詩に曰く、孝子匱(とぼ)しからず、とは、此を之れ謂うなり。


(注2)新釈の藤井専英氏は、「義」は「宜」で、その場合において最も適切妥当な正道の意、と言う。いちおうこれに従って訳す。
(注3)集解の王念孫は、「則」は「即(もし)」と同じ、と言う。

【この篇は、「性悪篇二十三」の後に読んでいます。】

儒学の「孝」は、子の親への一方的な服従とみなされることが多い。孝子の伝記を集めた『二十四孝』は教訓書として大いにもてはやされたが、それに書かれたいびつな子の親への服従の倫理は、とうてい現代人をうなずかせるものではない。『論語』や『孟子』は、君主への服従については正しい君主であれば従うべきであり、正しくない君主からは立ち去るべきである、という条件を付ける。しかしながら、親への服従については、条件を付けることがない。『論語』や『孟子』を読めば、「孝」は絶対的無条件の服従の倫理と読み取られてしまう。

それに比べると、荀子がここで説明する「孝」は他の儒書を引き離して合理的である。荀子は、親への服従も君主への服従と同列に扱い、正道に従っている場合に限って従うべき、という条件を付けるのである。親の命令に背いて正義に従ったほうが、結局は親を辱めず禽獣の道に落とさせないことになる。よって、これは回り道をして親を敬っている行為なのだ、と荀子は言う。荀子は儒家思想を徹底させて、その原理を究極にまで推し進めた思想家であった。その姿勢は、「孝」の倫理に対しても貫かれている。惜しむらくは荀子の「孝」への思想が、後世の儒家たちにおいて影響を及ぼさなかったことである。子が荀子のように考えると親の命令よりも正義を尊重することになり、親に不従順になって親にとって都合が悪かったからであろう。だが、それでよかったのだろうか?

子道篇第二十九(2)

魯の哀公(注1)が、孔子に「子が父の命令に従うのが、父への孝であろうか?家臣が君主の命令に従うのが、君主への忠節であろうか?」と質問した。これを三度質問したが、孔子は答えなかった。孔子が公の下から駆け足で退出した後に、弟子の子貢(しこう)(注2)に言われた。
孔子「さきほど、公はこの丘(それがし)(注3)に『子が父の命令に従うのが、父への孝であろうか?家臣が君主の命令に従うのが、君主への忠節であろうか?』と質問された。しかし丘は、三度聞かれてもお答えしなかった。賜(し)よ、お前はどう思うか?」
子貢「子が父の命令に従うのは、父への孝です。家臣が君主の命令に従うのは、君主への忠節です。先生は、どうしてお答えしなかったのですか?」
孔子「賜よ、お前は小人であるなあ。お前は、知らないのだ。かつて万乗の国(戦車一万台を用意する大国、以下規模に応じて国の規模が縮小する)は、諌めて争う家臣が四人いたら、国境を削り取られなかったものだ。千乗の国は、諌めて争う家臣が三人いたら、社稷(しゃしょく)(注4)を危険にさらすことはなかった。百乗の国は、諌めて争う家臣が二人いたら、祖先を祀る宗廟が破壊されることはなかった。父には諌めて争う子がいたら、無礼の行為に走ることはなかった。士には諌めて争う友人がいたら、不義の行為に走ることはなかった。ゆえに、子が単に父に従うだけでは、それでなんで子の孝といえるだろうか?家臣が単に君主に従うだけでは、それでなんで家臣の忠節といえるだろうか?子と家臣が親と君主に従うべき理由を明確にすることこそが、孝というべきであり、また忠節というべきなのだ。」


孔子の弟子の子路(しろ)(注5)が、孔子に質問した。
子路「ここに人がいて、その人の親の養い方といえば、朝早くに起き夜遅くに寝て、田畑を耕し樹木を育て、手足が胼胝(たこ)だらけになるまで働くというものです。なのに、この人にはいっこうに孝行者の名声が挙がりません。これはどうしてでしょうか?」
孔子「たぶん、その身が不敬であるか、その言葉が不遜であるか、その表情に不従順の色が見えているのだろうな。むかしの人の言葉に、『着る物が不足か、身の世話が不足か、とにかく私(親)はお前(子)に頼ることができぬ』とある。その人は朝早くに起き夜遅くに寝て、田畑を耕し樹木を育て、手足が胼胝(たこ)だらけになるまで働くほどに親を養っていると言うのか。ならば、身が不敬であり言葉が不遜であり表情に不従順の色が見えるのでなければ、孝行者の名声が挙がらない道理がないだろう。」
つづけて、孔子が言われた。
孔子「由(ゆう)よ、大事なことを言うから、よく記録しておきなさい。国に名だたる力士であっても、自分で自分の体を持ち上げることができないのは、その者の力が足りないのではなくて、そもそも自分では自分を持ち上げられない状態にあるからだ。なので、家の内において己の行いを修めることができないならば、それは己の罪であるが、家の外において孝行者の名声が挙がらないのは、友人が悪いのである(注6)。ゆえに君子は、家の中では行いを固く慎み、家の外では賢明な友人を得るならば、孝行者の名声が挙がらないことはありえないのだ。」


(注1)哀公は、孔子晩年時代の魯の君主。孔子の死後に魯の国政を牛耳る三桓氏(さんかんし)を除こうと試みたが露見して敗れた。
(注2)端木賜子貢(たんぼくし・しこう)。姓は端木、名は賜、字(あざな)は子貢。『論語』では平の文では字の子貢で表記されて、孔子の呼びかけでは名の「賜」で呼ばれる。
(注3)原文「丘(きゅう)」。孔子すなわち孔丘仲尼(こうきゅう・ちゅうじ)の名。孔が姓、丘が名、字が仲尼。名は目上の者が呼びかけるか、あるいは自称するときに限って用いることが許された。それがし、と訳した。以下も同様。
(注4)富国篇(5)の注1参照。
(注5)仲由子路(ちゅうゆう・しろ)。姓は仲、名は由、字は子路。同様に『論語』では平の文では字の子路で表記されて、孔子の呼びかけでは名の「由」で呼ばれる。
(注6)下の注12に指摘した韓詩外伝での追加の句と合わせて見ると、友人が仁人でないから悪い、という意味になる。では友人がどうするべきなのか、と言えば、新釈の藤井専英氏は友人が忠告するべきだ、と解釈している。しかしこれを友人が宣伝して世間の不評価を批判するべきだ、と解してもよいのかもしれない。
《原文・読み下し》
(注7)魯の哀公(あいこう)孔子に問いて曰く、子の父の命に從うは、孝なるか。臣の君の命に從うは、貞なるか、と。三たび問うも孔子對(こた)えず。孔子趨り出で、以て子貢に語(つ)げて曰(のたま)わく、鄉者(さきには)君丘(きゅう)に問いて曰く、子の父の命に從うは、孝なるか。臣の君の命に從うは、貞なるか、と。三たび問うも丘對えず。賜以て何如と爲す、と。子貢曰く、子の父の命に從うは孝なり。臣の君の命に從うは貞なり。夫子有(また)奚(なん)ぞ焉(これ)に對へん、と。孔子の曰わく、小人なる哉(かな)賜や。識らざるなり、昔、萬乘の國は、爭臣四人有れば、則ち封疆削られず。千乘の國は、爭臣三人有れば、則ち社稷危うからず。百乘の家は、爭臣二人有れば、則ち宗廟毀(こぼ)たれず。父に爭子有れば、無禮を行わず。士に爭友有れば、不義を爲さず。故に子の父に從うは、奚ぞ子の孝ならん。臣の君に從うは、奚ぞ臣の貞ならん。其の之に從う所以を審(つまびら)かにする、之を孝と謂い、之を貞と謂う、と。

(注8)子路孔子に問いて曰く、此(ここ)に人有り。夙(つと)に興(お)き夜に寐(い)ね、耕耘(こううん)・樹藝、手足胼胝(へんてい)して、以て其の親を養う。然り而(しこう)して孝の名無きは、何ぞや、と。孔子の曰わく、意者(おもうに)身不敬なるか、辭不遜なるか、色不順なるか。古の人言えること有り、曰く、衣か繆(びゅう)(注9)か、女(なんじ)に聊(たよ)らず(注10)、と。今夙に興き夜寐ね、耕耘・樹藝、手足胼胝して、以て其の親を養いて、此の三者無ければ、則ち何[以]爲(なんす)れぞ(注11)孝の名無からんや、と(注12)。孔子の曰わく、由(ゆう)、之を志(しる)せ、吾汝(なんじ)に語(つ)げん。國士の力有りと雖も、自ら其の身を舉ぐること能わざるは、力無きに非ざるなり、勢不可なればなり。故に入りて行の脩まらざるは、身の罪なり。出でて名の章(あら)われざるは、友の過なり。故に君子入りては則ち行を篤くし、出でては則ち賢を友とすれば、何爲(なんす)れぞ孝の名無からんや、と。


(注7)同じ趣旨の文が孔子家語三恕篇にも見えるが、家語では冒頭の哀公と孔子のくだりがなくて、子貢と孔子との問答に作られている。
(注8)この文は、孔子家語困誓篇、韓詩外伝九にもやや違った文で見える。
(注9)楊注或説は、「繆」は「綢」なり、と言う。綢繆はまとわりついてもつれあう、と言う意味であるが、ここから親の身の世話を細かく焼く、という意味であろうか。
(注10)楊注は、「聊」は「頼」なり、と言う。
(注11)荻生徂徠は、「以」字を衍と言う。
(注12)集解の王念孫は、韓詩外伝においてこの後に「意者(おもうに)友とする所、仁人に非ざるか」の句が続いていることを指摘し、まさにこの句有るべきに似たり、と言う。

子道篇のここから後は、孔子の魯の哀公および弟子の子路・子貢との問答を収録した雑録が続く。これらの問答のいくつかは、『孔子家語』ほかのテキストでも大同小異のものが見られる。最初の二つの問答は、子道篇冒頭の言葉を受けて、「孝」に関する内容となっている。国家においても家庭においても、不正不義だと疑問に思うことは、黙っていてはいけない。あえて積極的に異論を述べて誤ちではないかどうか論じることが、結局は国家と家庭を安泰に保つのである。ここまで明確に国家と家庭の中でも正義を堂々と述べるべし、と説くことは、『荀子』ならではの歯切れの良さである。

「孝」に関する問答はここまでで、これから後の問答には、定まったテーマがないようである。なので、後は訳を置くだけにとどめたい。

子道篇第二十九(3)

子路が孔子に質問した。
子路「魯の大夫が練(ねりぎぬ)の喪服の期間にもう牀(しょう。寝台)を用いていますが、これは礼にかなっているのでしょうか?(注1)
孔子「私は知らない。」
子路が退出して、子貢に対して言った。
子路「私は先生は知らないことなどない、とこれまで思っていた。しかし、先生にも知らないことがあったのだなあ。」
子貢「あなたは、何を質問したのか?」
子路「由(それがし)は、『魯の大夫が練(ねりぎぬ)の喪服の期間にもう牀(しょう。寝台)を用いていますが、これは礼にかなっているのでしょうか?』とご質問したのだ。先生は、『私は知らない』と答えられたのだ。」
子貢「では、あなたのためにひとつ私がその質問を先生にもう一度お聞きしようではないか?」
子貢が孔子に質問した。
子貢「練(ねりぎぬ)の喪服の期間に牀(しょう。寝台)を用いるのは、礼にかなっているのでしょうか?」
孔子「礼にかなっていない。」
子貢は退出して、子路に言った。
「あなたは、先生にも知らないところがある、などと言ったね?先生には、知らないことなどないのだ。あなたの質問の仕方が、悪かった。礼によれば、『その国にいるときは、その国の大夫を批判してはいけない』とあるではないか?」


子路が立派な服装をして、孔子の面前に出た。孔子が言われた、「由よ、お前のその大層な服装はなんだ?長江は、岷山(びんざん。四川省)を源流として流れ始めたときには、わずかに杯を浮かべる程度の細流にすぎない。しかし下流に至って渡し場のあるところに至ると、舟を使ってなおかつ風の日を避けなければ、とうてい渡りおおせないほどに広大となる。下流になると、水量が多くなるからではないか。いま、お前の服装は大層に立派であり、しかもお前の顔色は満ち足りている。それでは、天下の誰もお前に忠告できなくなるだろう。由よ、それでよいのか?」と。
子路は孔子のもとから駆け足で退出し(注2)、服装を改めて再度孔子の下にまかり出た。しかし、その姿は平然としていた。孔子は言われた、「大事なことを言うから、よく記録しておきなさい。言葉を慎む者は多弁でなく、行動を慎む者は誇示することはない。しかし顔色が『俺は知者だぞ、有能だぞ』と見せびらかしてるのは、小人である。ゆえに君子は、知っていることについて知っていると言い、知らないことについて知らないことと言うのだ。これが、言葉を用いる要点である。また君子は、行うことができることについて行うことができると言い、行うことができないことについて行うことができないと言うのだ。これが、最上の行動である。言葉の要点をわきまえれば知者であり、最上の行動を取ることができれば仁者である。知者であり仁者であれば、もうこれで何も不足はなくなるだろう。」


子路が入室した。孔子が言われた、
孔子「由よ、知者と仁者はいかなるものであるか?」
子路「知者は、他人に己を分からせるものであり、仁者は、他人に己を愛させるものです。」
孔子「それは、士と言うべきであるな。」
次に、子貢が入室した。孔子が言われた、
孔子「賜よ、知者と仁者はいかなるものであるか?」
子貢「知者は他人を知り、仁者は他人を愛するものです。」
孔子「それは、君子である士(注3)と言うべきであるな。」
次に、顔淵(注4)が入室した。孔子が言われた、
孔子「回よ、知者と仁者はいかなるものであるか?」
顔淵「知者は己を知るものであり、仁者は己を愛するものです(注5)。」
孔子「それは、明察の君子と言うべきであるな。」


子路が孔子に質問した。
子路「君子もまた、憂うことがありますか?」
孔子「君子は、いまだ地位を得ないときには、己の心中の志を楽しむものだ。そしてすでに地位を得たときには、その手腕で治世をもたらすことを楽しむものだ。こうして終生楽しみがあって、一日とて憂うことはない。しかし小人は、いまだ地位を得ないときには、それを憂いとする。そしてすでに地位を得たときには、その地位を失うことを恐れる。こうして終生憂いばかりであって、一日とて楽しむことはないものだよ。」


(注1)練(ねりぎぬ)の喪服は、没後十三ヶ月に行う小祥の祭の際に着用する。礼の規則によれば、没後三年の喪が終わるまでは牀(しょう)で寝てはならず、むしろを敷いて土塊の枕を用いる粗末な寝具で寝なければならないと言う。なので子路は非礼ではないか、と質問した。しかし『孟子』で滕(とう)国の家臣が孟子を批判した言葉に見られるように、三年の喪が孔子の時代ですら一般に行われていたとはとても思えない。孔子一門の儒家たちは、すでに当時行われていない葬礼をここで無理に復古させようとしているのである。
(注2)原文「趨而出」。目上の者のもとから退出するのは駆け足で行うのが、礼である。ここでは子路が畏れ入って急いで退出したようであるが、戻ってきたら結局心から反省していなかった、というユーモラスな姿を風刺している意味もあるのであろう。
(注3)原文「士君子」。荀子の通常の用法では、士は下級の官僚、君子は上級の官僚という意味である。しかしこの問答の内部で、荀子の用法が用いられているかどうかは、わからない。むしろ、「徳のある士」という程度の意味かもしれない。そのつもりで訳した。
(注4)顔回子淵(がんかい・しえん)。姓は顔、名は回、字は子淵。『論語』では平の文は姓と字の略称を合わせた「顔淵」で表れ、孔子の呼びかけでは名の「回」で呼ばれる。
(注5)君子は己の価値を大切にするべきことは、孔子や孟子が繰り返し述べるところである。なので、顔淵のこの返答が子路や子貢の返答よりも評価すべきとこの問答で見なされていることは、おかしなことではない。
《原文・読み下し》
子路孔子に問いて曰く、魯の大夫の練(れん)して牀(しょう)するは禮か、と。孔子の曰(のたま)わく、吾知らざるなり、と。子路出で、子貢に謂って曰く、吾夫子を以て知らざる所無しと爲せり、夫子徒(ひと)り知らざる所有り、と。子貢曰く、汝何を問うか、と。子路曰く、由問う、魯の大夫の練して床するは禮か、と。夫子の曰わく、吾知らざるなり、と。子貢曰く、吾將(まさ)に汝が爲に之を問わんとす、と。子貢問いて曰く、練して床するは禮か、と。孔子の曰わく、禮に非ざるなり、と。子貢出で、子路に謂って曰く、汝夫子を謂って知らざる所有りと爲すか、夫子は徒り知らざる所無し、汝の問い非なればなり。禮に、是の邑に居れば、其の大夫を非(そし)らず、と。

(注6)子路盛服して孔子に見(まみ)ゆ,孔子の曰わく、由、是の裾裾(きょきょ)たるは何ぞや、昔者(むかし)江の岷山(びんざん)に出で、其の始めて出ずるや、其の源は以て觴(しょう)を濫(らん)す可し。其の江の津に至るに及んでや、舟に放(よ)らず(注7)、風を避けざれば、則ち涉る可からざるなり。維だ下流の水多きに非ずや。今汝の服既に盛にして、顏色は充盈(じゅうえい)す、天下且(まさ)に孰(たれ)か肯(あえ)て汝を諫めん、由や、と。子路趨(はし)りて出で、服を改めて入る、蓋し猶若(ゆうじゃく)たり。孔子の曰わく、之を志(しる)せ、吾汝に語(つ)げん。言に奮(つつし)む者は華せず、行に奮(つつし)む者は伐(ほこ)らず(注8)、色知にして能を有とする者は、小人なり。故に君子は之を知るを之を知ると曰い、知らざるを知らずと曰うは、言の要なり。之を能くするを之を能くすと曰い、能くせざるを能くせざると曰うは、行の至なり。言要あれば則ち知なり、行至れば則ち仁なり。既に知にして且つ仁なれば、夫れ惡(いずく)んぞ足らざること有らんや、と。

子路入る。子の曰わく、由や、知者は若何(いかん)、仁者は若何、と。子路對えて曰く、知者は人をして己を知らしめ、仁者は人をして己を愛せしむ、と。子の曰わく、士と謂う可し、と。子貢入る。子の曰わく、賜や、知者は若何、仁者は若何、と。子貢對えて曰く、知者は人を知り、仁者は人を愛す、と。子の曰わく、士君子と謂う可し、と。顏淵入る。子の曰わく、回や、知者は若何、仁者は若何、と。顏淵對えて曰く、知者は自ら知り、仁者は自ら愛す、と。子の曰わく、明君子と謂う可し、と。

(注9)子路孔子に問いて曰く、君子も亦(また)憂うこと有るか、と。孔子の曰わく、君子は其の未だ得ざるや、則ち其の意を樂しみ、既に已に之を得れば、又其の治を樂しむ。是を以て終生の樂しみ有りて、一日の憂い無し。小人者(は)其の未だ得ざるや、則ち得ざるを憂い、既に已に之を得れば、又之を失わんことを恐る。是を以て終身の憂い有りて、一日の樂しみ無し、と。


(注6)この孔子と子路の問答は、孔子家語三恕篇、説苑雑言篇、韓詩外伝に大同小異の文が見える。
(注7)楊注の引く韋昭の説は、「放」は「並」であると言う。放舟で、いかだのこと。新釈の藤井専英氏は、「放」を「依」と解す。論語里仁篇「利に放(よ)りて行えば、怨み多し」。藤井説に従う。
(注8)原文「奮於言者華、奮於行者伐」。このまま読み下せば、「言に奮(ふる)う者は華に、行に奮う者は伐(ほこ)る」となるだろう。集解の兪樾は、韓詩外伝において「愼於言者不譁、愼於行者不伐」とあり、「奮」は「愼」の旧字と誤って用いたものであり、「奮」と合わせるために二つの「不」字を削ったのであろう、と言う。もっともと思われるので、「奮」を「愼」に読み、二つの「不」字があるように読み下す。
(注9)この孔子と子路の問答も、孔子家語在厄篇、説苑雑言篇に大同小異の文が見える。

子道篇の残る四つの問答は、孔子と子路・子貢・顔淵(顔回)との問答である。最初の問答は詳細な礼義の議論であり、『論語』ではこのような礼義の詳論に関する問答はあえて弾かれている。『論語』は、儒家の初学者が暗誦すべき語録集であったからである。続く三つの問答は、『論語』にも通じる君子論である。二つ目の子路の問答はレトリックが複雑華麗であって、後世の創作の匂いがする。後の二つはわりと簡潔な問答であり、『論語』に収録されていたとしてもさほど違和感がないだろう。

子道篇から後の各篇も上の問答と同様の雑録であり、詳しく検討する必要はないと思われる。ここで前に読み進むのはいったん終えて、荀子の思想の中でまだ検討を加えていなかった後王思想を最後に取り上げたい。後王思想は『荀子』各篇に散在して見ることができるが、その中で荀子の歴史観を最も明確に見ることができるのは、非相篇第五の中間部である。非相篇の冒頭部は天論篇と同じ迷信批判であり、末尾部分は勧学篇以下各篇と同様の君子論が展開される。『荀子』各篇のレビューを兼ねて、非相篇に戻って、通して読むことにしたい。

【次は、「非相篇第五」を読みます。】

性悪篇第二十三(1)

人間の「性」(注1)は悪であり、その善なるものは「偽(い)」(注1)である。人の「性」は、生まれた状態で利を好む性質を持っている。この性質のままに従えば、争奪が起こって謙譲の精神は滅んでしまう。また人の「性」は、生まれた状態で嫉み・憎悪を行う性質を持っている。この性質のままに従えば、他者への攻撃が起こって忠信の精神は滅んでしまう。人の「性」は、生まれた状態で耳目の欲を持ち、美しい音や映像を好む性質を持っている。この性質のままに従えば、淫乱放縦が起こって礼義は滅び、秩序は滅んでしまう。ならば人は「性」のままに従い「情」(注1)のままに従えば、必ず争奪を行うこととなり、分限を犯して秩序を乱し、暴力が世界にはびこることとなるであろう。ゆえに教導してこれを教化し、礼義がこれを導くことによって、はじめて人は謙譲を行い、秩序に自らを合わせて、治世が到来するのである。以上のことを見れば、人の「性」は悪であることは明らかであり、その善なるものは「偽」なのである。

曲がった木は、必ず器具で矯正したり熱を当てたりする作業を行うことによって、はじめて真っ直ぐとなる。なまくらな刀剣は、必ず砥石で研磨する作業を行うことによって、はじめて鋭利となる。人の悪である「性」もまた、教導を待ってはじめて正しくなり、礼義を身につけてはじめて治まるのである。教導がなければ、人間の行動は偏ってしまい正しくならない。礼義がなければ、人間の行動は叛き乱れて治まらない。いにしえの時代にわが文明を築いた聖王たちは、人間の「性」が悪であり、偏って正しくなく、叛き乱れて治まらないことを直視した。それがために彼らは礼義を起こし、法度を制定して、これらによって人間の「情」・「性」を矯正し装飾してこれを正し、人間の「情」・「性」を飼い馴らしてこれを導き、すべてがよく治まり正道に合致するようにしたのであった。現在において、教導によって教化され、文章と学問に励み、礼義に依拠する者は、君子と呼ばれている。いっぽう「性」・「情」をほしいままにし、勝手な行動をするところに開き直り、礼義から外れる者は、小人と呼ばれている。以上のことを見ても、やはり人の「性」は悪であることは明らかであり、その善なるものは「偽」なのである。


(注1)「性」・「偽」・「情」については、正名篇(1)の定義を参照。「偽」は、人為のことである。
《原文・読み下し》
人の性は惡、其の善なる者は僞(い)なり。今人の性、生れて利を好むこと有り、是に順う、故に爭奪生じて辭讓亡ぶ。生れて疾惡(しつお)すること有り、是に順う、故に殘賊生じて忠信亡ぶ。生れて耳目の欲有りて、聲色を好むこと有り(注2)、是に順う、故に淫亂生じて禮義・文理亡ぶ。然れば則ち人の性に從い、人の情に順えば、必ず爭奪に出(い)で、犯分・亂理に合して、暴に歸す。故に必ず將(まさ)に師法の化、禮義の道有りて、然る後に辭讓に出で、文理に合して、治に歸せんとす。此を用って之を觀れば、然れば則ち人の性惡なること明(あきら)かなりて、其の善なる者は偽なり。故に枸木(こうぼく)は必ず將に檃栝(いんかつ)・烝矯(じょうきょう)を待ちて、然る後に直ならんとす。鈍金は必ず將に礱厲(ろうれい)を待ちて、然る後に利ならんとす。今人の性の惡なるも、必ず將に師法を待ちて然る後に正しく、禮義を得て然る後に治まらんとす。今人師法無ければ、則ち偏險にして正しからず、禮義無ければ、則ち悖亂(はいらん)にして治まらず。古者(いにしえは)聖王人の性惡なるを以て、以て偏險にして正しからず、悖亂にして治まらずと爲す。是を以て之が爲めに禮義を起し、法度を制して、以て人の情性を矯飾して之を正し、以て人の情性を擾化(じょうか)して之を導き、皆治に出で、道に合せしむるなり。今の人師法に化し、文學を積み、禮義に道(よ)る(注3)者を君子と爲し、性情を縱(ほしいまま)にし、恣睢(しき)に安んじて、禮義に違う者を小人と爲す。此を用って之を觀れば、然れば則ち人の性の惡なること明かなり、其の善なる者は僞なり。


(注2)原文「有好聲色」。増注はこの四字は注の文が正文に誤入するに似たり、と言う。漢文大系は増注に従ってこの四字を読まない。王先謙は「有」字を衍と言い、猪飼補注は「有」は「而」に作るべしと言う。
(注3)増注は「道」はなお「由」のごとし、と言う。

【この篇は、「正名篇第二十二」の後に読んでいます。】

底本の漢文大系は続く孟子への批判のくだりも合わせて一章としているのであるが、最初に冒頭だけを訳した。学校の教科書などでも、上の部分だけ抜き出して掲載していることが多いようである。しかしながら、この部分だけを読んで荀子の性悪説を理解してはならない。これまでにも読んだように、荀子の性悪説は背後にある統治思想と不可分の関係にあるのであり、なおかつ前の正名篇において行われた「性」「情」「偽」その他の単語への厳密な定義を前提として、この性悪篇の議論が行われているのである。これを『論語』や『孟子』などのような、ふわっとした印象で読ませる、語の意味があいまいな漢文と同一の読み方で読んではいけない。むしろ西洋のphilosophyのように論理を追って読まなければならないのである。

先回りして性悪篇の荀子の主張を整理すると、荀子は性悪説において二つのテーゼを掲げる。すなわち、

  1. 人間の「性」すなわち生物学的な本能は、悪すなわち利己的動機しかない。人間が善になるためには、「偽(い)」すなわち人為的な矯正を選択して身につけなければならない。
  2. 「偽」は(現実的には)聖人しか作成することができず、君子しか身に付けることができない。

以上である。この二つのテーゼは、富国篇で展開された社会契約説と表裏一体の関係にある。

まず、正名篇の定義を再録しよう。

人間が生得的に持っているものは、これを「性」と名付けよ。その人間が生得的に持っているものから何らの人為も加えずに自然発生する、陰陽の調和による身体の形成・外物と絶妙に対応する五官の形成・身体が外物の刺激に反応する感覚の形成、これらもまた「性」と名付けよ。

この人間の「性」から好き・嫌い・うれしい・腹が立つ・哀しい・楽しいといった衝動が沸き起こる。これを、「情」と名付けよ。この「情」が沸き起こった後で、心がこれを取捨選択する。この理性の作用を、「慮」と名付けよ。心が「慮」して、その結果人間の能力が発動して何ごとかを行う。これを、「偽(い)」と名付けよ。「慮」を積み重ね、人間の能力を用いて習得を行い、その結果成し遂げるもの。これもまた、「偽」と名付けよ。

性悪篇の議論は、上の定義に則っているのである。これを前提として読めば、荀子の上の主張は人間の生物学的本能には秩序を作る能力が存在せず、人間の理性判断だけが秩序を作る能力がある、ということを論じていることが分かる。

この視点は、富国篇に表れた荀子の社会契約説と整合性がある。なぜならば、荀子の社会契約説によれば、人間は動物的本能に任せた自然状態では万人の万人に対する戦争があるだけであり、人間がその生存と富を確保するためには、理性による国家秩序の建設が不可欠なのである。その理性による国家を創設するのが王者であり、その理性による国家を正道に従って運営する運営者が君子なのである。ゆえに人間は自己の生存と富を確保するために、自発的に王者と君子の国家が定める秩序に従うことを選ぶのである。

このように、人間は生物学的本能としての「性」には一切秩序を作る能力がなく、必ず「偽」の制度によって制御されなければ秩序を作ることができない。これが、荀子の統治論の根本テーゼである。それに加えて、「偽」を制定して運営することは聖人と君子だけしかできない、というテーゼを加えたならば、聖人と君子が国家において必要不可欠なエリートである、という儒家の主張を理論的に裏付けることとなるだろう。その理由は、後の(5)で行われることになるだろう。

だから荀子を批判するためには、人間は自然状態で秩序を作る能力が本当に存在しないのか、という点を問わなければならないだろう。荀子の定義で言い換えるならば、人間の「性」には秩序を作る本能があるのかないのか?という問いである。荀子への私の批判としては、人間の生得的な秩序形成原理として互酬(reciprocity)があり、それが具体化した交換活動が国家なしでも人間社会の秩序を形成する力を持っているのではないか。国家とは、人間の始原的秩序の後から覆いかぶさって、合法的に略取―再分配を行うシステムなのではないか、という点をもってしたい。以下、荀子の孟子への批判を読みながら、検討していきたい。

性悪篇第二十三(2)

孟子は、「人間が学ぶことができるのは、その『性』が善だからである」と言う。これに答えよう、「そうではない。この説は人間の『性』を理解できておらず、人間の『性』と『偽(い)』の区分を洞察していないのである」と。およそ「性」というものは、天が与えて作ったものである。これを学ぶことも、成し遂げることもできない。いっぽう礼義というものは聖人が作ったものであり、人が学んで身に付けることができて、成し遂げることができるものである。学ぶことも成し遂げることもできないが人が属性として持っているもの、これを「性」と言うのである。学んで身に付けることができて成し遂げることができるもので、人が属性として持っているもの、これを「偽」と言うのである。これが、「性」「偽」の区分である。いま人の「性」について見ると、目は対象を見ることができて耳は対象を聴くことができる。目の視覚能力は目と離して取り出すことはできず、耳の聴覚能力は耳と離して取り出すことはできない。目は生得的に視覚能力を持ち、耳は生得的に聴覚能力を持つ。これらが学んで得るようなものではないことは、明らかである。孟子は、「本来人間の『性』は善なのであるが、人々はその『性』を喪失してしまうのだ」と言う(注1)。これに答えよう、「そう考えるのであれば、それは誤りである。人間の『性』は、生まれた時点の素朴な身体の素材から時とともに離れていって、成り行きのままでいけば必ず生まれた直後の無欲な状態を喪失するものである。これを見るならば、人間の『性』が悪であることは明白である」と。いわゆる「性善説」とは、人間がその素朴な状態から離れずにいることを美しいと考え、素材のままの状態から離れずにいることを有益と考える主張である。つまり、目の視覚能力が目と離して取り出すことができず、耳の聴覚能力が耳と離して取り出すことができず、したがって目は生得的に視覚能力を持ち、耳は生得的に聴覚能力を持つのであるが、人間の善もまたこれら視覚と聴覚のように天与の属性であると考えるのが、「性善説」なのである。しかし人間の「性」は、空腹ならば飢えを感じ、腹いっぱい食べたいと欲するものであり、寒ければ暖かくなりたいと欲するものであり、疲れたならば休むことを欲するものである。しかしいま人が飢えを感じていても、年長者がいたならばこれに譲ってあえて先に食べようとはしない。これはどうしてかといえば、謙譲の意志を持つからである。また疲れているのに年長者がいたならばあえて休もうとしないのは、目下が仕事を代わらなければならないという意志を持つからである。子が父に譲り、弟が兄に譲り、子が父の代わりに汗を流し、弟が兄の代わりに汗を流す。これらの行為は、すべて「性」に反して「情」にさからう行為ではないか。だがここにこそ孝子の道があり、礼義の規則があるのだ。ゆえに、「情」「性」に従えば、人間は謙譲をしない。逆に謙譲をするのは、「情」「性」にさからっている。これを見れば、人間の「性」が悪であることは明確であり、人間の善は「偽」の結果なのである。


(注1)人間が本来の性善を欲心によって失う、というテーマは『孟子』告子章句上篇で繰り返し表される。たとえば孟子告子章句上八、九、十五など。
《原文・読み下し》
孟子曰く、人の學ぶ者は其の性善なればなり、と。曰く、是れ然らず、是れ人の性を知るに及ばずして、人の性・僞(い)の分を察せざる者なり。凡そ性なる者は、天の就せるなり、學ぶ可からず、事とす可からず。禮義なる者は、聖人の生ずる所なり、人の學んで能くする所、事として成る所の者なり。學ぶ可らず、事とす可からずして、而(しか)も人に在る者は、之を性と謂う。學んで能くす可く、事として成る可きの人に在る者は、之を僞と謂う。是れ性・僞の分なり。今人の性、目は以て見る可く、耳は以て聽く可し。夫の以て見る可きの明は目と離れず、以て聽く可きの聰は耳と離れずして、目は明にして耳は聰なり。學ぶ可からざること明(あきら)かなり。孟子曰く、今人の性は善なり、將(は)た皆其の性を失喪するが故なり、と。曰く、是(かく)の若くんば則ち過(あやま)てり。今人の性、生れて其の朴を離れ、其の資を離れ、必ず失いて之を喪す。此を用(もっ)て之を觀る、然れば則ち人の性の惡なること明かなり。所謂性善とは、其の朴を離れずして之を美とし、其の資を離れずして之を利とするなり。夫の資朴の美に於ける、心意の善に於けるをして、夫の以て見る可きの明は目を離れず、以て聽く可きの聰は耳を離れず、故に目は明にして耳は聰なりと曰うが若くならしむるなり。今人の性は、飢えて飽かんことを欲し、寒くして煖ならんと欲し、勞して休まんことを欲するは、此れ人の情性なり。今人飢うるも長を見れば敢て先ず食せざる者は、將(まさ)に讓る所有らんとすればなり。勞して敢て息(そく)を求めざる者は、將に代る所有らんとすればなり。夫れ子の父に讓り、弟の兄に讓り、子の父に代り、弟の兄に代る、此の二行なる者は、皆性に反して情に悖(もと)るなり。然り而(しこう)して孝子の道、禮義の文理なり。故に情性に順(したが)えば則ち辭讓せず、辭讓すれば則ち情性に悖る。此を用って之を觀る、然れば則ち人の性惡なること明かなり、其の善なる者は僞なり。

性悪説の宣言が行われた後に、孟子の性善説への批判が続く。『孟子』テキストの中で「性善」の議論が集中的に表れるのは、告子章句上篇である。告子章句上篇は荀子の叙述のように段階を追った論理的なものではなく、個別の問答を連ねた印象批評的である。その中でも一番組織立った叙述としては、同篇の六を挙げてよいであろう。


弟子の公都子が言った、
公都子「告子(こくし。注)は、『性』には善も不善もないと言います。またある人は、『性』は善をなすこともできれば不善をなすこともできると言います。だから周代において、文王・武王が立てば人民は善を好むようになり、幽王・厲王が立てば人民はデタラメを好むようになったと言うのです。また別のある人は、『性』が善の人もあれば『性』が不善の人もあると言います。だから堯舜が統治する時代においてすら象(しょう)のような輩が現れ、瞽瞍(こそう)のような者が父親でありながら舜が現れた。また殷の紂王が甥であって君主でありながら、微子啓(びしけい)や王子比干(おうじひかん)が現れたと言うのです。今、先生は『性善説』を唱えています。ならば、彼らの言うことはことごとく誤りだということなのでしょうか?」

(注)告子は『孟子』書中で表れる論述家。『孟子』の記録によれば、人間の「性」は善でも不善でもないと主張したと言う。


孟子「だいたい、人間の『性』『情』というものは、本来善をなすことができるものなのだ。このことを、いわゆる『善』と定義しているのだ。もし不善をなす者がいたとしても、それは人間本来の資質の罪ではない。惻隠・羞悪・恭敬・是非の心は、人が皆持っている。惻隠の心は仁に、羞悪の心は義に、恭敬の心は礼に、是非の心は智につながる。だから仁・義・礼・智は、外から我に鍍金(めっき)したものではなくて、我固有のものなのだ。(不善なのは、)ただただそれらを思うまでに至らないだけのことなのだ。だから求めれば得られるし、捨てれば失う。そうやって善と不善が何倍にも隔たって比較もできない差ができるのは、自らの資質を尽さないからなのだ。詩経にこうある、

天は、もろもろの民を生ぜしめた
万物には、必ず法則がある
それゆえ民が正常なるときには
この至高の徳を好むだろう
(大雅『蒸民』より)


と。孔子は『この詩を作った者は、道をよく知る者だ』と言った。だから万物には必ず法則があって、人民が正常であるならば、仁・義・礼・智の至高の徳を好むはずなのだ。」


上の引用でアンダーラインをしたところは、孟子公孫丑章句上、六で現れるいわゆる「四端説」である。孟子は、人間が普遍的に生得している心中の善なる衝動として、惻隠・羞悪・恭敬(公孫丑章句上六では「辞譲」)・是非の四つの端(たん。はじまり)があると言う。その「端」は可能性としての善であり、それを現実的な善である仁・義・礼・智の徳に発展させるのは、各人の努力次第である。孟子は「堯・舜は之を性のままにす」(盡心章句上、三十)と言う。堯・舜が聖人として天下の王者となったのは、彼らは「性」である四端をそのまま保持して伸ばしたからであり、そのところに聖人の偉大さがあったのだ、と主張する。よって孟子は「人はだれでも堯・舜になれる」(告子章句下、二)と主張したのである。以上が、孟子の性善説の組み立てであった。

孟子の性善説を正名篇(1)の荀子の定義に沿って整理するならば、おそらく孟子は「四端」が人間の「情」レベルの衝動であって、荀子の定義で言う「慮」の判断を待たずに行われるものであり、ゆえに生得的な「性」に属するものである、と考えているはずである。「四端」の一つである「惻隠」について言えば、公孫丑章句、六の以下の叙述がそれを説明している。

人間が誰でも他の人間に対して放っておけない心があるという理由は、こういうことだ。
今、ちっちゃい子供が井戸に落ちかけていたとする。これを見たらどう行動するか?誰でもこれはいかん!とあせってかわいそうだ!と思って助けるだろう。その瞬間、これをネタに子供の父親母親に取り入ってやろう、などとと考えないだろう。地元の英雄になって友達から賞賛されたい、などと考えないだろう。見殺しにした薄情者めと悪名を受けるのはいやだ、などと考えないだろう。こうやって考えれば、惻隠の心(かわいそうだ、と思う心)がないのは、人間でない。


孟子が「惻隠」を「慮」の判断を待たずに行われるものである、と考えているだろうことは、上の説明によって理解できるだろう。しかし他の三つ「羞悪」「恭敬(辞譲)」「是非」について、孟子は説明を省略している。

類推するならば、「羞悪」は「惻隠」と同様の説明を加えることが可能であろう。「是非」は正名篇(1)の荀子の定義に沿えば、「知」を指していると考えることができる。「知」はすなわち人間の認知能力であり、心中の「慮」を発動させる生得的能力であろう。荀子はこの「慮」を人間の「情」を制御する機能と位置づけて、「偽(い)」の範疇に入れている。孟子は「是非」を「性」に属するものである、と主張するのであるが、これを荀子の定義に沿って言うならば「是非」は「情」の衝動のレベルにおいて起こらなければならないことになるだろう。孟子は人間には生得的な「良知」「良能」があると言う(盡心章句上、十五)。荀子は「知」・「能」が人間の生得的な認知能力および行為能力であることを定義するが、これらを「性」のそのままの発露である「情」から区別して「偽」を成立させる要因とみなすのである。

さらに困難なのは、孟子の「恭敬(辞譲)」である。これも「四端」の一である以上、「慮」のはたらきを得ずして行われる「情」レベルの衝動でなければならない。しかしこれは、直観的にいってもありえそうにない。目上の人間を謹んで敬い、辞して譲る精神は中国や日本の文化ならば確かにあるが、いざ西洋諸国のような異文化の中に入るならば、ほとんど消えてしまう。よって「恭敬(辞譲)」は人間の生得的な感情ではありえず、単なる東アジア世界固有の文化的な作為であるはずだ。これに対して孟子は、人間は幼児の頃に両親を慕うが、成長すると親のことを構うことがなくなる、といったことを言及する(萬章章句上、一)。だから「赤子の心を失わない」(離婁章句下、十二)ならば「恭敬(辞譲)」の「性」を成長しても保ち続けることができる、と孟子ならば言うであろう。しかし幼児の時期に両親を慕うのは、両親への「恭敬(辞譲)」であろうか?もっと言えば、「恭敬(辞譲)」は両親に対してだけでなく、家族の年長者やコミュニティーの年長者にまで発露すべき善なのであるが、幼児が親からのしつけもなしに自発的にこれらを慕って譲ることなどは、幼児を実際に観察してみればあるはずがない。幼児が両親を慕うのは、単に最も近しい保護者であるから依存するのであり、自己保存の欲求のレベルであると考えたほうがよい。その依存する親からの命令であるから、幼児ですら次第にルールをしつけられていくのである。よって、「恭敬(辞譲)」に関しては、孟子の性善説は全く正当化できないと私は考える。そして荀子が彼の性悪説において「偽(い)」の範疇として最重視するのが、この「恭敬(辞譲)」を明文化した社会的ルール、すなわち「礼法」なのである。こと「恭敬(辞譲)」に関しては、荀子の主張が完く正しい。

孟子と荀子の「性」の相違点をまとめると、下の表となるだろうか。孟子と荀子は、「性」に含める内容が異なっている。なので、潜在的「性」と顕在的「性」に分類してみた。両者の性善説・性悪説の差は、このうち顕在的「性」に対する見解の相違となっているはずである。

生得的に持つ潜在的能力
(潜在的「性」)
生得的に行う顕在的行為
(顕在的「性」)
後天的に獲得すべき高次の能力
孟 子 四端(惻隠・羞悪・恭敬[辞譲]・是非)(※) 四端から表れる衝動的な善行為=性善説(※) 仁・義・礼・智
荀 子 情・知・能 (慮を働かせず知・能を発現させない利己的行為)=性悪説 (慮を働かせて情を選択し、知・能を積み重ねて得られる成果)
(※)ただし、孟子は耳目の欲、すなわち荀子の定義で言えば「情」もまた、定義上は人間の「性」のうちに入っていると考えているはずである。告子章句上、十五「耳や目の感覚器官は何も意思を持たないから、外物からの刺激になすがままに覆われる。感覚器官が外物と交流すれば、引き付けられざるをえないのだ。しかし心の器官は、意思を持っている。だから、意思をすれば正しい心を得られるし、意思しなければ正しい心を得られないのだ。人の体は、天が我々に与えたものだ。しかしまずその大事な箇所(原文、「大者」)をしっかりと働かせれば、つまらない箇所(原文、「小者」)がそれをだめにすることもできなくなるのだ。」ここにおいて孟子は人間の身体には「小者」と「大者」があり、「大者」を働かせれば善の行為をなす大人となって「小者」に任せれば欲に負けた小人となる、と言うのである。したがって孟子の性善説は人間の生得的能力が全て「善」であると言っているわけではなくて、人間の生得的能力には「善」が含まれているという主張なのであり、荀子は孟子の言うその「善」は後天的学習であって生得的ではない、と対立するのである。


上の表において、右端の列については孟子も荀子もほとんど変わるところがない。最大の相違点は中央の列であって、人間には生得的に善を行う衝動があるか否か、という点で孟子と荀子は別れている。江戸時代中期に活動して日本儒学に画期的業績を残した伊藤仁斎(寛永四年、1627 – 宝永二年、1705)は、朱子学から距離を置いて『論語』『孟子』の二書の古義を学ぶべしと提唱して古義学派の開祖となった。その仁斎は初学者用の入門書である『童子問』(元禄四年、1691に第一稿本完成)において、孟子の性善説を推奨した。その理由は、上表でいえば中央の列にある人間の生得的な善への能力を指摘することが、学ぶ者に教育的効果をもたらすことを期待するからである。

孟子が、性は本来善であるという説を主張するのも、ただその理由を明らかにしようとするばかりではなく、人びとにその性は本来善であることを知らせ、その性を拡大充実させようと望んだからである、、、性は本来善であるという説は、仁義の心が自己に固有のものであることを明らかにしようとする説であるが、その実は、自暴自棄の者(自からの性を害しすてさろうとする者)のために考えだされたものである。
(伊藤仁斎『童子問』第十五章より、貝塚茂樹現代語訳)


仁斎は、学ぶ個人の教育的効果ゆえに孟子の性善説を取る。だが荀子は、人間は利己的な行動を行うのが本来であって国家がこれに礼法を適用して制御するのであるという社会契約説に立つために、性悪説を取るのである。仁斎の後に続いた荻生徂徠(寛文六年、1666 – 享保十三年、1728)は、仁斎と孟子を批判して、荀子をむしろより高く評価した。徂徠は、仁斎とは学問の主眼点を違うところに置いていた。仁斎の学は個人の倫理を学ぶ道であり、徂徠の学は国家の政治経済を学ぶ道であった。徂徠が荀子を評価したのは、彼の学問と荀子とが方向を一にしていたからであった(ただし、徂徠は荀子を全面的に賞賛したわけではない)。

孟子と荀子の説を、ここまでに整理した。上の表における中央の列の荀子の主張について、それが妥当であるか否かをさらに読み進んでいきたい。人間の「性」には、他者と良好な関係を結ぶ能力が本当にないのであろうか?

性悪篇第二十三(3)

「人の『性』が悪ならば、礼義はどこから生じるのか?」と質問する者がいるならば、これに答えて言おう、「およそ礼義というものは、聖人の『偽(い)』から生じるものであり、人間の『性』から生じるものではないのだ」と。陶器職人は、土を成型して陶器を作る。ならば、できた陶器は陶器職人の「偽」によって生じたのであって、もとより人の「性」から生じるものではないであろう?木工職人は、木を削って木器を作る。ならば、できた木器は木工職人の「偽」によって生じたのであって、もとより人の「性」から生じるものではないであろう?そして聖人は思慮を積んで、制度の制作を繰り返して、そうした結果として礼義が生じて法度が起こる。ならば、できた礼義や法度は聖人の「偽」によって生じたのであって、もとより人の「性」から生じるものではないではないか。そもそも人間の目は美しい映像を好むものであり、人間の耳は美しい音を好むものであり、人間の口は美味を好むものであり、人間の心は利益を好むものであり、そして身体は快楽と安楽を好むものなのである。これらは、すべて人間の「情」・「性」から生ずる衝動である。感覚が起こって自然に生ずるものであり、意志をもった行為の結果として生ずるものではない。逆に、感覚が起こってもその自然のままに任せることなく、必ず意志をもった行為の結果として生ずるものを、「偽」から生じたものと言うのである。これが、「性」と「偽」のそれぞれから生じたものの異なる点を分ける徴候なのである。聖人は己の「性」を馴化して「偽」を起こし、「偽」が起こって礼義が起こり、礼義が起こって法度が起こったのである。ならば、礼義・法度というものは、聖人が生じたものではないか。ゆえに、聖人が大衆と共有していて、大衆より優れているわけではない属性は、人間の共通の「性」なのである。だが聖人が大衆より優れている属性は、聖人の「偽」が作ったものなのである。そもそも人間が利益を好んで利得を欲するのは、人間の「情」・「性」である。たとえ話で言うならば、人間が財産を分け取りするときに、いま「情」・「性」に従って利益を好んで利得を欲するがままに行動するならば、兄と弟ですら互いに激高して奪い合いの争いをするであろう。だがいま礼義の決まりに人間が順化されるならば、この財産を赤の他人に譲ることすらするであろう。このように「情」・「性」のままに従えば兄弟ですら争うであろうし、礼義に順化されるならば、赤の他人にすら譲ることとなる。およそ人間が善をなさんと欲するのは、「性」が悪だからである。自らが少ない者は多くなることを願い、自らが醜い者は美しくなることを願い、自らが狭い者は広くなることを願い、自らが貧しい者は豊かになることを願い、自らが賤しい者は高貴となることを願うものである。自らの中によきものがない者は、必ずこれを外に求めるものである。ゆえに、すでに富んでいる者は、もはや財産をそれほど望まなくなり、すでに高貴である者は、もはや権勢をそれほど望まなくなり、このように自らの中によきものがある者は、必ずもはや外に求めなくなるのである。このことを見るならば、人間が善を為さんとするのは、その元来の「性」が悪だからなのである。いま、人間の「性」は、そのままでは礼義を備えていないのだ。だから必死に礼義を学んで、これを身に付けることを求めるのである。人間の「性」は、礼義について生得的な「知」(注1)を持っていない。だから思考して「慮」(注1)を行って、礼義への「知」(注1)を積み上げようと求めるのである。したがって、人間は「性」のままであれば、人間は礼義はなく、礼義についての「知」(注1)もない。人間は礼義がなければその行動はカオスとなり、礼義についての「知」(注1)がなければその行動は正道から外れる。つまり、「性」だけでは、己から発してカオスとなり正道から外れるのである。このことを見るならば、人間の「性」が悪であることは明らかである。その善なのは「偽」によってなのである。


(注1)このあたりの文については正名篇(1)の定義と比較させるために、「知」・「慮」の二字をあえて動詞ではなくて名詞のように訳した。
《原文・読み下し》
問う者曰く、人の性惡ならば、則ち禮義惡(いず)くんか生ず、と。之に應じて曰く、凡そ禮義なる者は、是れ聖人の僞(い)に生ず、故(もと)より人の性より生ずるに非ざるなり。故に陶人は埴(しょく)を埏(う)ちて器を爲す、然れば則ち器は工人の僞に生ず、故より人の性に生ずるに非ざるなり。故に工人木を斲(き)りて器を爲す、然れば則ち器は工人の僞に生ず、故より人の性に非ざるなり。聖人は思慮を積み、僞故(いこ)を習い、以て禮義を生じて法度を起こす、然れば則ち禮義・法度なる者は、是れ聖人の僞に生ず、故より人の性に生ずるに非ざるなり。夫(か)の目は色を好み、耳は聽を好み、口は味を好み、心は利を好み、骨體・膚理は愉佚(ゆいつ)を好むが若きは、是れ皆人の情性に生ずる者なり。感じて自から然り、事とするを待ちて而(しか)る後に之を生ずる者にあらざるなり。夫れ感じて而も然ること能わず、必ず且つ事とするを待ちて而る後に然る者、之を僞に生ずと謂う。是れ性・僞の生ずる所、其の同じからざるの徵なり。故に聖人性を化して僞を起し、僞起りて禮義を生じ、禮義生じて法度を制す。然れば則ち禮義・法度なる者は、是れ聖人の生ずる所なり。故に聖人の衆に同じくして、[其]異(す)ぎざる(注2)所以の者は、性なり。異にして衆に過ぐる所以の者は、僞なり。夫れ利を好みて得を欲する者は、此れ人の情性なり。之を假(たと)うるに、(注3)[弟兄](注4)財を資して分つ者有らんに、且(まさ)に情性に順い、利を好んで得を欲せんとするか、是(かく)の若くなれば則ち兄弟相拂奪(ふつだつ)す。且に禮義の文理に化せんとするか、是の若くなれば則ち國人に讓る。故に情性に順えば則ち弟兄爭い、禮義に化せば則ち國人に讓る。凡そ人の善を爲さんと欲する者は、性の惡なるが爲めなり。夫れ薄は厚を願い、惡は美を願い、狹は廣を願い、貧は富を願い、賤は貴を願う。苟(いやしく)も中(うち)に無き者は(注5)、必ず外に求む。故に富めば財を願わず、貴ければ埶(せい)を願わず、苟も中に有る者は(注5)、必ず外に及(もと)めず(注6)。此を用(もっ)て之を觀れば、人の善を爲さんと欲する者は、性の惡なるが爲めなり。今人の性は、固より禮義無し。故に强學して之れ有らんことを求むるなり。性禮義を知らず、故に思慮して之を知らんことを求むるなり。然れば則ち生(せい)(注7)のみなれば、則ち人は禮義無く、禮義を知らず。人禮義無ければ則ち亂れ、禮義を知らざれば則ち悖(もと)る。然れば則ち生(せい)(注7)のみならば、則ち悖亂(はいらん)は己に在り。此を用て之を觀れば、人の性の惡なること明かなり。其の善なる者は僞なり。


(注2)原文「其不異」。猪飼補注は、「其」は「而」に作り「異」は「過」に作るべしと言う。これに従い、「其」字を読み下さない。
(注3)増注本では「人」字を削っている。注4により「弟兄」を削るので、これを戻す。
(注4)集解の王先謙は、「弟兄」は衍文であり、後人の追加であると言う。ここは王先謙に従っておく。
(注5)二箇所の原文は、「苟無之中者」および「苟有之中者」。増注は荻生徂徠を引いて、これらの「之」はなお「於」のごときなり、と言う。
(注6)増注の久保愛は、「及」は「求」に作るべし、音の誤なり、と言う。これに従う。
(注7)二箇所の「生」は元刻では「性」となっている。上の訳は「性」の意味で訳す。

続いて、荀子は礼義が「偽(い)」すなわち人間の「性」に属せず後天的に学習によって獲得する人為的文化であることを言う。その指摘そのものは、前の(2)で孟子と比較して検討したように、一応は妥当なものであると私は考えたい。

しかしながら、荀子は礼義といった「偽」が個人で制作できるものではなくて聖人しか制作できるものではない、とここで言うのである。陶工との喩えがあるように礼義は素人が制作できず、聖人というプロフェッショナルだけが制作可能である。聖人の後を追う人間はこれを模倣し、これに習うことしかできない。そして習わない者は利己的な「性」のままであり、利益を巡って他者と調和することなく争奪の戦争を行うばかりである、と言うのである。すなわち、荀子性悪説の第二のテーゼである「偽」は(現実的には)聖人しか作成することができず、君子しか身に付けることができない、が表明される。この理由は、後の(5)で詳細に説明されることとなる。前にも述べたとおり、この礼義聖人制作説が、富国篇における荀子の社会契約説を別の言葉で述べていることは明らかであろう。だが、人間の秩序は聖人、すなわち国家の制度の制作者たちの側からしか由来しないのであろうか?

文化人類学・経済人類学の言う互酬(reciprocity)の原理について、ここで検討しておこう。文化人類学・経済人類学において互酬とは、「血縁および友人間の共同体における義務としての贈与関係」(栗本慎一郎『経済人類学』、東洋経済新報社より)であり、もっと簡単に定義すれば「贈与―お返し」(柄谷行人『世界史の構造』、岩波書店より)である。

人類学者マルセル・モースは、未開社会において、食物、財産、女性、土地、奉仕、労働、儀礼等、さまざまのものが贈与され、返礼される互報的システムに、社会構成体を形成する原理を見出した。これは未開社会に限定されるものではなく、一般にさまざまなタイプの共同体に存在している。、、、互報は、世帯やバンドがその外の世帯やバンドとの間に恒常的に友好的な関係を形成するときにおこなわれるものだ。すなわち、互酬を通じて、世帯を越えた上位の集団が形成されるのである。したがって、互酬は共同体の原理というよりもむしろ、より大きな共同体を成層的に形成する原理である。
(『世界史の構造』9-10ページより)


現代の文化人類学・経済人類学の常識的な見解として、人間社会が単純な家族世帯を越えて大きな社会秩序を形成するときに始原的に働く自発的な原理として、この互酬の原理があることが指摘されている。あえて平易な言葉で互酬の原理の説明を試みるならば、人間は見知った家族を越えた他の家族と関係を結ぶためには、まず相手に何らかの財やサーヴィスを贈与しようとする。それは、贈与された相手の心理に負債感を与えて、これを拘束しようとする意志のあらわれである。それは貴重品の贈与でもよいし、嫁や婿の贈与でもよいし、相手のために労苦してあげるサーヴィスの贈与でもよい。いっぽう贈与された側は、その負債感を払拭するために、何らかのアクションを家族の外に起こさずにはいられない。それが贈られた相手への返礼となることもあり、第三の家族への贈与の順送りとなる場合もある。こうして贈与の環が友好的に閉じられたならば、家族を越えた上位の共同体は安定することになるだろう。互酬関係は、小さな家族共同体を越えて大きな共同体集団を形成するときに人間が発動する、始原的戦略というべきものである。

もっとも、互酬による関係は平和的であるとは限らない。互酬は、他の家族や共同体の優位に立って相手に負債の感情を植え付けることが動機である。それは己の財産を相手の目の前で大規模に破壊して、相手に模倣不可能な気前のよさを誇示する行為ともなる。これは文化人類学において「ポトラッチ」と呼ばれ、互いの共同体を破滅に追いやる行為であるが、その動機は相互の贈与の応酬であり、したがって互酬の原理である。また相手の共同体が自らの共同体の構成員を殺傷したときには、相手の側にも応分の血を流させる戦争に出る「血讐」の応答ともなるであろう。柄谷が引用するサーリンズの図式に従うならば、中核の家族世帯に近いほど安定した互酬の連帯性が絆を作り、中核から離れて部族間の関係に至るならば非社交的な血讐が恒常的となって、「否定的互酬」が支配的となるであろう(柄谷、55ページ)。

柄谷行人氏は、古代中国のような専制国家は互酬原理により運営される氏族社会の延長として出てきたのではなく、互いが対等に贈答する権利と交戦する権利を持つ氏族社会の伝統を断ち切って、君主の制定する「法の支配」の下に入ることによって成立した、と言う。氏族社会の人々は従属的な農民となることを嫌い、王の下僕である官僚となることを嫌い、戦士=農民にとどまろうとする。よって広域国家が成立するときには氏族社会の互酬の原理は国家に当てはまらない、ということが国家の内部で実行されていなければならない。「官僚制は、王と臣下の間に互酬的な独立性が全面的に失われたときに生まれたのである」(同、119ページ)。「中国では(引用者注:秦帝国のような)帝国の形成とともに、戦国時代において開かれた(引用者注:氏族社会の慣習や宗教が無効となった社会を新たに統治するための様々な思想的試みの)可能性は閉じられた。つまり、アジア的専制国家がそれ以降、存続したのである」(同、112ページ)。

互酬の原理は、人間にとって国家以前の段階で発動する他人との交流の様式である。それは安定した互酬の環を作る可能性もあれば、ポトラッチや血讐のような相互破壊的な行為をもたらす可能性もある。互酬が安定にも破壊にもなりえる、ということ自体が、人間の自由な他人との交流であることを示唆しているはずである。専制国家は、その互酬の原理の伝統を上から断ち切ることによって成立した。

しかし柄谷氏は、国家の枠組みの下では彼が名付ける「交換様式D」あるいは「X」の交換様式が必然的に浮上してくる、と言う。これは、国家の下においても存続する人間の互酬の原理が、かつての国家以前の段階そのままの形の回帰ではなくて、伝統的な共同体を越えて水平的かつ自発的な横のつながりを模索するものであると言う。それは古代国家においては世界宗教として現れ、近代においては社会主義運動などの形をとって現れた。どのような形で今後現れるかは予測できず、しかし人間として常に存在する互酬の原理の現れであるので、柄谷氏は「X」と名付けるのである。いっぽう、現代においてよりはっきり見える形で国家に互酬の原理が回収される道も存在する。それは国家に「想像の共同体」を投影して国民の連帯と平等を要求する運動、すなわちナショナリズムである。「交換様式D」「X」の形をとるにせよ、ナショナリズムの形を取るにせよ、人間にとっての互酬の原理は、人間に横のつながりを行わせる原動力であるはずだ。それは、上から支配する国家が提供しないものである。互酬の原理はあるいはナショナリズムのように国家を裏側から補強することもあれば、世界宗教や社会主義運動のように国家の統制に従わない横の連帯を形成することもありえる。国家は、これらを制御できる枠内に常に押さえ込もうと望むのである。しかしこれらを国家が制御しようと頭を悩ませるところに、互酬の原理が国家に由来しない秩序を作る可能性を常に秘めていて、いつの時代にも人間の社会に置いて決して消えない人間の始原的かつ本質的な活動であることを、表しているはずなのである。


荀子に戻るならば、荀子は聖人だけが「偽」を作る能力があり、国家のない人間は互いに争うことしかできない、と断ずる。確かに国家がもたらす「法の支配」は、互酬の原理に基づく血讐の原理を否定して支配地域内に安定的な平和をもたらした側面があった。しかしながら、人間が国家に従属することを前提とみなす荀子のような論者は、人間の互酬の原理が持つ自由な他人との交流活動の意義を見逃してしまっているのではないだろうか。言い換えるならば、国家の法は聖人すなわち制度の制定者たちの作であろうが、人間が国家以前に自発的に制作する他人との互酬の原理の力を見逃すべきではない、と私は考える。たとえ互酬の原理が必ずしも秩序創設的であるとは限らず、ポトラッチや血讐のように戦争状態をもたらす側面を持っていたとしても、それが人間の自発的な他人との交流の様式であることは重要である。

この互酬の原理は、確実に善なる秩序を作る原理ではない。しかしながらそれは人間が他者との交流を求める原理であり、意外と孟子の「四端」説とも共通性があると私は考える。続いて、孟子の「四端」説を他者との交流を求める原理として読み替えて、荀子の性悪説にはない孟子の主張の可能性を考えてみたいと思う。