子道篇第二十九(3)

By | 2015年6月10日
子路が孔子に質問した。
子路「魯の大夫が練(ねりぎぬ)の喪服の期間にもう牀(しょう。寝台)を用いていますが、これは礼にかなっているのでしょうか?(注1)
孔子「私は知らない。」
子路が退出して、子貢に対して言った。
子路「私は先生は知らないことなどない、とこれまで思っていた。しかし、先生にも知らないことがあったのだなあ。」
子貢「あなたは、何を質問したのか?」
子路「由(それがし)は、『魯の大夫が練(ねりぎぬ)の喪服の期間にもう牀(しょう。寝台)を用いていますが、これは礼にかなっているのでしょうか?』とご質問したのだ。先生は、『私は知らない』と答えられたのだ。」
子貢「では、あなたのためにひとつ私がその質問を先生にもう一度お聞きしようではないか?」
子貢が孔子に質問した。
子貢「練(ねりぎぬ)の喪服の期間に牀(しょう。寝台)を用いるのは、礼にかなっているのでしょうか?」
孔子「礼にかなっていない。」
子貢は退出して、子路に言った。
「あなたは、先生にも知らないところがある、などと言ったね?先生には、知らないことなどないのだ。あなたの質問の仕方が、悪かった。礼によれば、『その国にいるときは、その国の大夫を批判してはいけない』とあるではないか?」


子路が立派な服装をして、孔子の面前に出た。孔子が言われた、「由よ、お前のその大層な服装はなんだ?長江は、岷山(びんざん。四川省)を源流として流れ始めたときには、わずかに杯を浮かべる程度の細流にすぎない。しかし下流に至って渡し場のあるところに至ると、舟を使ってなおかつ風の日を避けなければ、とうてい渡りおおせないほどに広大となる。下流になると、水量が多くなるからではないか。いま、お前の服装は大層に立派であり、しかもお前の顔色は満ち足りている。それでは、天下の誰もお前に忠告できなくなるだろう。由よ、それでよいのか?」と。
子路は孔子のもとから駆け足で退出し(注2)、服装を改めて再度孔子の下にまかり出た。しかし、その姿は平然としていた。孔子は言われた、「大事なことを言うから、よく記録しておきなさい。言葉を慎む者は多弁でなく、行動を慎む者は誇示することはない。しかし顔色が『俺は知者だぞ、有能だぞ』と見せびらかしてるのは、小人である。ゆえに君子は、知っていることについて知っていると言い、知らないことについて知らないことと言うのだ。これが、言葉を用いる要点である。また君子は、行うことができることについて行うことができると言い、行うことができないことについて行うことができないと言うのだ。これが、最上の行動である。言葉の要点をわきまえれば知者であり、最上の行動を取ることができれば仁者である。知者であり仁者であれば、もうこれで何も不足はなくなるだろう。」


子路が入室した。孔子が言われた、
孔子「由よ、知者と仁者はいかなるものであるか?」
子路「知者は、他人に己を分からせるものであり、仁者は、他人に己を愛させるものです。」
孔子「それは、士と言うべきであるな。」
次に、子貢が入室した。孔子が言われた、
孔子「賜よ、知者と仁者はいかなるものであるか?」
子貢「知者は他人を知り、仁者は他人を愛するものです。」
孔子「それは、君子である士(注3)と言うべきであるな。」
次に、顔淵(注4)が入室した。孔子が言われた、
孔子「回よ、知者と仁者はいかなるものであるか?」
顔淵「知者は己を知るものであり、仁者は己を愛するものです(注5)。」
孔子「それは、明察の君子と言うべきであるな。」


子路が孔子に質問した。
子路「君子もまた、憂うことがありますか?」
孔子「君子は、いまだ地位を得ないときには、己の心中の志を楽しむものだ。そしてすでに地位を得たときには、その手腕で治世をもたらすことを楽しむものだ。こうして終生楽しみがあって、一日とて憂うことはない。しかし小人は、いまだ地位を得ないときには、それを憂いとする。そしてすでに地位を得たときには、その地位を失うことを恐れる。こうして終生憂いばかりであって、一日とて楽しむことはないものだよ。」


(注1)練(ねりぎぬ)の喪服は、没後十三ヶ月に行う小祥の祭の際に着用する。礼の規則によれば、没後三年の喪が終わるまでは牀(しょう)で寝てはならず、むしろを敷いて土塊の枕を用いる粗末な寝具で寝なければならないと言う。なので子路は非礼ではないか、と質問した。しかし『孟子』で滕(とう)国の家臣が孟子を批判した言葉に見られるように、三年の喪が孔子の時代ですら一般に行われていたとはとても思えない。孔子一門の儒家たちは、すでに当時行われていない葬礼をここで無理に復古させようとしているのである。
(注2)原文「趨而出」。目上の者のもとから退出するのは駆け足で行うのが、礼である。ここでは子路が畏れ入って急いで退出したようであるが、戻ってきたら結局心から反省していなかった、というユーモラスな姿を風刺している意味もあるのであろう。
(注3)原文「士君子」。荀子の通常の用法では、士は下級の官僚、君子は上級の官僚という意味である。しかしこの問答の内部で、荀子の用法が用いられているかどうかは、わからない。むしろ、「徳のある士」という程度の意味かもしれない。そのつもりで訳した。
(注4)顔回子淵(がんかい・しえん)。姓は顔、名は回、字は子淵。『論語』では平の文は姓と字の略称を合わせた「顔淵」で表れ、孔子の呼びかけでは名の「回」で呼ばれる。
(注5)君子は己の価値を大切にするべきことは、孔子や孟子が繰り返し述べるところである。なので、顔淵のこの返答が子路や子貢の返答よりも評価すべきとこの問答で見なされていることは、おかしなことではない。
《原文・読み下し》
子路孔子に問いて曰く、魯の大夫の練(れん)して牀(しょう)するは禮か、と。孔子の曰(のたま)わく、吾知らざるなり、と。子路出で、子貢に謂って曰く、吾夫子を以て知らざる所無しと爲せり、夫子徒(ひと)り知らざる所有り、と。子貢曰く、汝何を問うか、と。子路曰く、由問う、魯の大夫の練して床するは禮か、と。夫子の曰わく、吾知らざるなり、と。子貢曰く、吾將(まさ)に汝が爲に之を問わんとす、と。子貢問いて曰く、練して床するは禮か、と。孔子の曰わく、禮に非ざるなり、と。子貢出で、子路に謂って曰く、汝夫子を謂って知らざる所有りと爲すか、夫子は徒り知らざる所無し、汝の問い非なればなり。禮に、是の邑に居れば、其の大夫を非(そし)らず、と。

(注6)子路盛服して孔子に見(まみ)ゆ,孔子の曰わく、由、是の裾裾(きょきょ)たるは何ぞや、昔者(むかし)江の岷山(びんざん)に出で、其の始めて出ずるや、其の源は以て觴(しょう)を濫(らん)す可し。其の江の津に至るに及んでや、舟に放(よ)らず(注7)、風を避けざれば、則ち涉る可からざるなり。維だ下流の水多きに非ずや。今汝の服既に盛にして、顏色は充盈(じゅうえい)す、天下且(まさ)に孰(たれ)か肯(あえ)て汝を諫めん、由や、と。子路趨(はし)りて出で、服を改めて入る、蓋し猶若(ゆうじゃく)たり。孔子の曰わく、之を志(しる)せ、吾汝に語(つ)げん。言に奮(つつし)む者は華せず、行に奮(つつし)む者は伐(ほこ)らず(注8)、色知にして能を有とする者は、小人なり。故に君子は之を知るを之を知ると曰い、知らざるを知らずと曰うは、言の要なり。之を能くするを之を能くすと曰い、能くせざるを能くせざると曰うは、行の至なり。言要あれば則ち知なり、行至れば則ち仁なり。既に知にして且つ仁なれば、夫れ惡(いずく)んぞ足らざること有らんや、と。

子路入る。子の曰わく、由や、知者は若何(いかん)、仁者は若何、と。子路對えて曰く、知者は人をして己を知らしめ、仁者は人をして己を愛せしむ、と。子の曰わく、士と謂う可し、と。子貢入る。子の曰わく、賜や、知者は若何、仁者は若何、と。子貢對えて曰く、知者は人を知り、仁者は人を愛す、と。子の曰わく、士君子と謂う可し、と。顏淵入る。子の曰わく、回や、知者は若何、仁者は若何、と。顏淵對えて曰く、知者は自ら知り、仁者は自ら愛す、と。子の曰わく、明君子と謂う可し、と。

(注9)子路孔子に問いて曰く、君子も亦(また)憂うこと有るか、と。孔子の曰わく、君子は其の未だ得ざるや、則ち其の意を樂しみ、既に已に之を得れば、又其の治を樂しむ。是を以て終生の樂しみ有りて、一日の憂い無し。小人者(は)其の未だ得ざるや、則ち得ざるを憂い、既に已に之を得れば、又之を失わんことを恐る。是を以て終身の憂い有りて、一日の樂しみ無し、と。


(注6)この孔子と子路の問答は、孔子家語三恕篇、説苑雑言篇、韓詩外伝に大同小異の文が見える。
(注7)楊注の引く韋昭の説は、「放」は「並」であると言う。放舟で、いかだのこと。新釈の藤井専英氏は、「放」を「依」と解す。論語里仁篇「利に放(よ)りて行えば、怨み多し」。藤井説に従う。
(注8)原文「奮於言者華、奮於行者伐」。このまま読み下せば、「言に奮(ふる)う者は華に、行に奮う者は伐(ほこ)る」となるだろう。集解の兪樾は、韓詩外伝において「愼於言者不譁、愼於行者不伐」とあり、「奮」は「愼」の旧字と誤って用いたものであり、「奮」と合わせるために二つの「不」字を削ったのであろう、と言う。もっともと思われるので、「奮」を「愼」に読み、二つの「不」字があるように読み下す。
(注9)この孔子と子路の問答も、孔子家語在厄篇、説苑雑言篇に大同小異の文が見える。

子道篇の残る四つの問答は、孔子と子路・子貢・顔淵(顔回)との問答である。最初の問答は詳細な礼義の議論であり、『論語』ではこのような礼義の詳論に関する問答はあえて弾かれている。『論語』は、儒家の初学者が暗誦すべき語録集であったからである。続く三つの問答は、『論語』にも通じる君子論である。二つ目の子路の問答はレトリックが複雑華麗であって、後世の創作の匂いがする。後の二つはわりと簡潔な問答であり、『論語』に収録されていたとしてもさほど違和感がないだろう。

子道篇から後の各篇も上の問答と同様の雑録であり、詳しく検討する必要はないと思われる。ここで前に読み進むのはいったん終えて、荀子の思想の中でまだ検討を加えていなかった後王思想を最後に取り上げたい。後王思想は『荀子』各篇に散在して見ることができるが、その中で荀子の歴史観を最も明確に見ることができるのは、非相篇第五の中間部である。非相篇の冒頭部は天論篇と同じ迷信批判であり、末尾部分は勧学篇以下各篇と同様の君子論が展開される。『荀子』各篇のレビューを兼ねて、非相篇に戻って、通して読むことにしたい。

【次は、「非相篇第五」を読みます。】

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