子道篇第二十九(2)

By | 2015年6月9日
魯の哀公(注1)が、孔子に「子が父の命令に従うのが、父への孝であろうか?家臣が君主の命令に従うのが、君主への忠節であろうか?」と質問した。これを三度質問したが、孔子は答えなかった。孔子が公の下から駆け足で退出した後に、弟子の子貢(しこう)(注2)に言われた。
孔子「さきほど、公はこの丘(それがし)(注3)に『子が父の命令に従うのが、父への孝であろうか?家臣が君主の命令に従うのが、君主への忠節であろうか?』と質問された。しかし丘は、三度聞かれてもお答えしなかった。賜(し)よ、お前はどう思うか?」
子貢「子が父の命令に従うのは、父への孝です。家臣が君主の命令に従うのは、君主への忠節です。先生は、どうしてお答えしなかったのですか?」
孔子「賜よ、お前は小人であるなあ。お前は、知らないのだ。かつて万乗の国(戦車一万台を用意する大国、以下規模に応じて国の規模が縮小する)は、諌めて争う家臣が四人いたら、国境を削り取られなかったものだ。千乗の国は、諌めて争う家臣が三人いたら、社稷(しゃしょく)(注4)を危険にさらすことはなかった。百乗の国は、諌めて争う家臣が二人いたら、祖先を祀る宗廟が破壊されることはなかった。父には諌めて争う子がいたら、無礼の行為に走ることはなかった。士には諌めて争う友人がいたら、不義の行為に走ることはなかった。ゆえに、子が単に父に従うだけでは、それでなんで子の孝といえるだろうか?家臣が単に君主に従うだけでは、それでなんで家臣の忠節といえるだろうか?子と家臣が親と君主に従うべき理由を明確にすることこそが、孝というべきであり、また忠節というべきなのだ。」


孔子の弟子の子路(しろ)(注5)が、孔子に質問した。
子路「ここに人がいて、その人の親の養い方といえば、朝早くに起き夜遅くに寝て、田畑を耕し樹木を育て、手足が胼胝(たこ)だらけになるまで働くというものです。なのに、この人にはいっこうに孝行者の名声が挙がりません。これはどうしてでしょうか?」
孔子「たぶん、その身が不敬であるか、その言葉が不遜であるか、その表情に不従順の色が見えているのだろうな。むかしの人の言葉に、『着る物が不足か、身の世話が不足か、とにかく私(親)はお前(子)に頼ることができぬ』とある。その人は朝早くに起き夜遅くに寝て、田畑を耕し樹木を育て、手足が胼胝(たこ)だらけになるまで働くほどに親を養っていると言うのか。ならば、身が不敬であり言葉が不遜であり表情に不従順の色が見えるのでなければ、孝行者の名声が挙がらない道理がないだろう。」
つづけて、孔子が言われた。
孔子「由(ゆう)よ、大事なことを言うから、よく記録しておきなさい。国に名だたる力士であっても、自分で自分の体を持ち上げることができないのは、その者の力が足りないのではなくて、そもそも自分では自分を持ち上げられない状態にあるからだ。なので、家の内において己の行いを修めることができないならば、それは己の罪であるが、家の外において孝行者の名声が挙がらないのは、友人が悪いのである(注6)。ゆえに君子は、家の中では行いを固く慎み、家の外では賢明な友人を得るならば、孝行者の名声が挙がらないことはありえないのだ。」


(注1)哀公は、孔子晩年時代の魯の君主。孔子の死後に魯の国政を牛耳る三桓氏(さんかんし)を除こうと試みたが露見して敗れた。
(注2)端木賜子貢(たんぼくし・しこう)。姓は端木、名は賜、字(あざな)は子貢。『論語』では平の文では字の子貢で表記されて、孔子の呼びかけでは名の「賜」で呼ばれる。
(注3)原文「丘(きゅう)」。孔子すなわち孔丘仲尼(こうきゅう・ちゅうじ)の名。孔が姓、丘が名、字が仲尼。名は目上の者が呼びかけるか、あるいは自称するときに限って用いることが許された。それがし、と訳した。以下も同様。
(注4)富国篇(5)の注1参照。
(注5)仲由子路(ちゅうゆう・しろ)。姓は仲、名は由、字は子路。同様に『論語』では平の文では字の子路で表記されて、孔子の呼びかけでは名の「由」で呼ばれる。
(注6)下の注12に指摘した韓詩外伝での追加の句と合わせて見ると、友人が仁人でないから悪い、という意味になる。では友人がどうするべきなのか、と言えば、新釈の藤井専英氏は友人が忠告するべきだ、と解釈している。しかしこれを友人が宣伝して世間の不評価を批判するべきだ、と解してもよいのかもしれない。
《原文・読み下し》
(注7)魯の哀公(あいこう)孔子に問いて曰く、子の父の命に從うは、孝なるか。臣の君の命に從うは、貞なるか、と。三たび問うも孔子對(こた)えず。孔子趨り出で、以て子貢に語(つ)げて曰(のたま)わく、鄉者(さきには)君丘(きゅう)に問いて曰く、子の父の命に從うは、孝なるか。臣の君の命に從うは、貞なるか、と。三たび問うも丘對えず。賜以て何如と爲す、と。子貢曰く、子の父の命に從うは孝なり。臣の君の命に從うは貞なり。夫子有(また)奚(なん)ぞ焉(これ)に對へん、と。孔子の曰わく、小人なる哉(かな)賜や。識らざるなり、昔、萬乘の國は、爭臣四人有れば、則ち封疆削られず。千乘の國は、爭臣三人有れば、則ち社稷危うからず。百乘の家は、爭臣二人有れば、則ち宗廟毀(こぼ)たれず。父に爭子有れば、無禮を行わず。士に爭友有れば、不義を爲さず。故に子の父に從うは、奚ぞ子の孝ならん。臣の君に從うは、奚ぞ臣の貞ならん。其の之に從う所以を審(つまびら)かにする、之を孝と謂い、之を貞と謂う、と。

(注8)子路孔子に問いて曰く、此(ここ)に人有り。夙(つと)に興(お)き夜に寐(い)ね、耕耘(こううん)・樹藝、手足胼胝(へんてい)して、以て其の親を養う。然り而(しこう)して孝の名無きは、何ぞや、と。孔子の曰わく、意者(おもうに)身不敬なるか、辭不遜なるか、色不順なるか。古の人言えること有り、曰く、衣か繆(びゅう)(注9)か、女(なんじ)に聊(たよ)らず(注10)、と。今夙に興き夜寐ね、耕耘・樹藝、手足胼胝して、以て其の親を養いて、此の三者無ければ、則ち何[以]爲(なんす)れぞ(注11)孝の名無からんや、と(注12)。孔子の曰わく、由(ゆう)、之を志(しる)せ、吾汝(なんじ)に語(つ)げん。國士の力有りと雖も、自ら其の身を舉ぐること能わざるは、力無きに非ざるなり、勢不可なればなり。故に入りて行の脩まらざるは、身の罪なり。出でて名の章(あら)われざるは、友の過なり。故に君子入りては則ち行を篤くし、出でては則ち賢を友とすれば、何爲(なんす)れぞ孝の名無からんや、と。


(注7)同じ趣旨の文が孔子家語三恕篇にも見えるが、家語では冒頭の哀公と孔子のくだりがなくて、子貢と孔子との問答に作られている。
(注8)この文は、孔子家語困誓篇、韓詩外伝九にもやや違った文で見える。
(注9)楊注或説は、「繆」は「綢」なり、と言う。綢繆はまとわりついてもつれあう、と言う意味であるが、ここから親の身の世話を細かく焼く、という意味であろうか。
(注10)楊注は、「聊」は「頼」なり、と言う。
(注11)荻生徂徠は、「以」字を衍と言う。
(注12)集解の王念孫は、韓詩外伝においてこの後に「意者(おもうに)友とする所、仁人に非ざるか」の句が続いていることを指摘し、まさにこの句有るべきに似たり、と言う。

子道篇のここから後は、孔子の魯の哀公および弟子の子路・子貢との問答を収録した雑録が続く。これらの問答のいくつかは、『孔子家語』ほかのテキストでも大同小異のものが見られる。最初の二つの問答は、子道篇冒頭の言葉を受けて、「孝」に関する内容となっている。国家においても家庭においても、不正不義だと疑問に思うことは、黙っていてはいけない。あえて積極的に異論を述べて誤ちではないかどうか論じることが、結局は国家と家庭を安泰に保つのである。ここまで明確に国家と家庭の中でも正義を堂々と述べるべし、と説くことは、『荀子』ならではの歯切れの良さである。

「孝」に関する問答はここまでで、これから後の問答には、定まったテーマがないようである。なので、後は訳を置くだけにとどめたい。

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