子道篇第二十九(1)

By | 2015年6月8日
家の中では親に孝、家の外では年長者に悌(てい)というのは、人として小さな行いにすぎない。上には君主や親に従い、下には幼き者や人民を慈しむというのは、人としてまずは中ぐらいの行いである。正道に従って君主に従わず、正義に従って親に従わないのが、人として偉大な行いというべきものなのだ。志は礼義に依拠してこれに安んじ、言語は正しい分類に従ってこれを用いるならば、儒家の道はこれに尽きることになる。たとえ大孝者として名高い舜であったとしても、この原理に何一つ加えることなどできはしない。孝子が親の命令に従わない場合は、三つである。一つは、命令に従えば親が危険であり、命令に従わなければ親が安全である場合。この場合に子が親の命令に従わないのは、衷心から出た行為なので正しい。二つは、命令に従えば親が恥を受け、命令に従わなければ親が栄光を得る場合。この場合に子が親の命令に従わないのは、適切な考慮によった行為なので正しい。三つは、命令に従えば親が禽獣(ケダモノ)の行為に落ち、命令に従わなければ親が人間として立派に飾り立てられる場合。この場合に子が親の命令に従わないのは、親を敬うゆえの行為なので正しい。ゆえに、親に従うべき状況でありながらこれに従わないのは、子の道に外れている。しかしながら親に絶対従うべきでない状況でありながらこれに従うのは、衷心から親を敬っているとはいえない。従うべきか従うべきでないかの分かれ目における義を明らかにして、よく恭敬し忠信し正直であり、これらによってつつしんで行動するならば、これこそ大孝の者というべきであろう。言い伝えに、「正道に従って君主に従うべからず。正義に従って父に従うべからず」とあるが、それは今言った道理を指しているのである。ゆえに、苦労して疲れ果てたとしても恭敬の精神を失わず、災禍と患難に合ったとしても義の精神を失わず、やむなく親に従わなかったことによって不幸にして親から憎まれても親への愛を失わない、これは仁人でなければできないことである。『詩経』に、この言葉がある。:

孝子、匱(とぼ)しからず。
(大雅、既酔より)

まことに真の孝子とは、親への愛が乏しくないのである。(ゆえに、親に従わないこともある。)(注1)


(注1)これは、断章取義(だんしょうしゅぎ)である。すなわち原詩の文脈とは離れて引用し、意味を変えて解釈している。原詩におけるこの句の意味は、「孝行な子孫が少なからず生まれるだろう」というもの。
《原文・読み下し》
入りては孝出でては弟なるは、人の小行なり。上に順(したが)い下に篤きは、人の中行なり。道に從いて君に從わず、義に從いて父に從わざるは、人の大行なり。若(も)し夫(そ)れ志は禮を以て安んじ、言は類を以て使すれば、則ち儒道畢(お)わる。舜と雖も毫末を是に加うること能わず。孝子の命に從わざる所以のものは三有り。命に從えば則ち親危く、命に從わざれば則ち親安し、孝子の命に從わざるは乃ち衷なり。命に從えば則ち親辱められ、命に從わざれば則ち親榮ゆ、孝子命に從わざるは乃ち義(注2)なり。命に從えば則ち禽獸たり、命に從えば則ち脩飾す、孝子命に從わざるは乃ち敬なり。故に以て從う可くして從わざるは、是れ不子なり。未だ以て從う可からずして從うは、是れ不衷なり。從・不從の義を明(あきら)かにして、能く恭敬・忠信・端愨(たんかく)を致し、以て之を愼行すれば、則ち大孝と謂う可し。傳に曰く、道に從いて君に從わず、義に從いて父に從わず、とは、此を之れ謂うなり。故に勞苦・彫萃(ちょうすい)して、而(しか)も能く其の敬を失すること無く、災禍・患難にして、能く其の義を失すること無く、則(も)し(注3)不幸にして不順をもって惡(にく)ま見(る)るも、而(しか)も能く其の愛を失うこと無きは、仁人に非ざれば能く行うこと莫し。詩に曰く、孝子匱(とぼ)しからず、とは、此を之れ謂うなり。


(注2)新釈の藤井専英氏は、「義」は「宜」で、その場合において最も適切妥当な正道の意、と言う。いちおうこれに従って訳す。
(注3)集解の王念孫は、「則」は「即(もし)」と同じ、と言う。

【この篇は、「性悪篇二十三」の後に読んでいます。】

儒学の「孝」は、子の親への一方的な服従とみなされることが多い。孝子の伝記を集めた『二十四孝』は教訓書として大いにもてはやされたが、それに書かれたいびつな子の親への服従の倫理は、とうてい現代人をうなずかせるものではない。『論語』や『孟子』は、君主への服従については正しい君主であれば従うべきであり、正しくない君主からは立ち去るべきである、という条件を付ける。しかしながら、親への服従については、条件を付けることがない。『論語』や『孟子』を読めば、「孝」は絶対的無条件の服従の倫理と読み取られてしまう。

それに比べると、荀子がここで説明する「孝」は他の儒書を引き離して合理的である。荀子は、親への服従も君主への服従と同列に扱い、正道に従っている場合に限って従うべき、という条件を付けるのである。親の命令に背いて正義に従ったほうが、結局は親を辱めず禽獣の道に落とさせないことになる。よって、これは回り道をして親を敬っている行為なのだ、と荀子は言う。荀子は儒家思想を徹底させて、その原理を究極にまで推し進めた思想家であった。その姿勢は、「孝」の倫理に対しても貫かれている。惜しむらくは荀子の「孝」への思想が、後世の儒家たちにおいて影響を及ぼさなかったことである。子が荀子のように考えると親の命令よりも正義を尊重することになり、親に不従順になって親にとって都合が悪かったからであろう。だが、それでよかったのだろうか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です