性悪篇第二十三(3)

By | 2015年6月3日
「人の『性』が悪ならば、礼義はどこから生じるのか?」と質問する者がいるならば、これに答えて言おう、「およそ礼義というものは、聖人の『偽(い)』から生じるものであり、人間の『性』から生じるものではないのだ」と。陶器職人は、土を成型して陶器を作る。ならば、できた陶器は陶器職人の「偽」によって生じたのであって、もとより人の「性」から生じるものではないであろう?木工職人は、木を削って木器を作る。ならば、できた木器は木工職人の「偽」によって生じたのであって、もとより人の「性」から生じるものではないであろう?そして聖人は思慮を積んで、制度の制作を繰り返して、そうした結果として礼義が生じて法度が起こる。ならば、できた礼義や法度は聖人の「偽」によって生じたのであって、もとより人の「性」から生じるものではないではないか。そもそも人間の目は美しい映像を好むものであり、人間の耳は美しい音を好むものであり、人間の口は美味を好むものであり、人間の心は利益を好むものであり、そして身体は快楽と安楽を好むものなのである。これらは、すべて人間の「情」・「性」から生ずる衝動である。感覚が起こって自然に生ずるものであり、意志をもった行為の結果として生ずるものではない。逆に、感覚が起こってもその自然のままに任せることなく、必ず意志をもった行為の結果として生ずるものを、「偽」から生じたものと言うのである。これが、「性」と「偽」のそれぞれから生じたものの異なる点を分ける徴候なのである。聖人は己の「性」を馴化して「偽」を起こし、「偽」が起こって礼義が起こり、礼義が起こって法度が起こったのである。ならば、礼義・法度というものは、聖人が生じたものではないか。ゆえに、聖人が大衆と共有していて、大衆より優れているわけではない属性は、人間の共通の「性」なのである。だが聖人が大衆より優れている属性は、聖人の「偽」が作ったものなのである。そもそも人間が利益を好んで利得を欲するのは、人間の「情」・「性」である。たとえ話で言うならば、人間が財産を分け取りするときに、いま「情」・「性」に従って利益を好んで利得を欲するがままに行動するならば、兄と弟ですら互いに激高して奪い合いの争いをするであろう。だがいま礼義の決まりに人間が順化されるならば、この財産を赤の他人に譲ることすらするであろう。このように「情」・「性」のままに従えば兄弟ですら争うであろうし、礼義に順化されるならば、赤の他人にすら譲ることとなる。およそ人間が善をなさんと欲するのは、「性」が悪だからである。自らが少ない者は多くなることを願い、自らが醜い者は美しくなることを願い、自らが狭い者は広くなることを願い、自らが貧しい者は豊かになることを願い、自らが賤しい者は高貴となることを願うものである。自らの中によきものがない者は、必ずこれを外に求めるものである。ゆえに、すでに富んでいる者は、もはや財産をそれほど望まなくなり、すでに高貴である者は、もはや権勢をそれほど望まなくなり、このように自らの中によきものがある者は、必ずもはや外に求めなくなるのである。このことを見るならば、人間が善を為さんとするのは、その元来の「性」が悪だからなのである。いま、人間の「性」は、そのままでは礼義を備えていないのだ。だから必死に礼義を学んで、これを身に付けることを求めるのである。人間の「性」は、礼義について生得的な「知」(注1)を持っていない。だから思考して「慮」(注1)を行って、礼義への「知」(注1)を積み上げようと求めるのである。したがって、人間は「性」のままであれば、人間は礼義はなく、礼義についての「知」(注1)もない。人間は礼義がなければその行動はカオスとなり、礼義についての「知」(注1)がなければその行動は正道から外れる。つまり、「性」だけでは、己から発してカオスとなり正道から外れるのである。このことを見るならば、人間の「性」が悪であることは明らかである。その善なのは「偽」によってなのである。


(注1)このあたりの文については正名篇(1)の定義と比較させるために、「知」・「慮」の二字をあえて動詞ではなくて名詞のように訳した。
《原文・読み下し》
問う者曰く、人の性惡ならば、則ち禮義惡(いず)くんか生ず、と。之に應じて曰く、凡そ禮義なる者は、是れ聖人の僞(い)に生ず、故(もと)より人の性より生ずるに非ざるなり。故に陶人は埴(しょく)を埏(う)ちて器を爲す、然れば則ち器は工人の僞に生ず、故より人の性に生ずるに非ざるなり。故に工人木を斲(き)りて器を爲す、然れば則ち器は工人の僞に生ず、故より人の性に非ざるなり。聖人は思慮を積み、僞故(いこ)を習い、以て禮義を生じて法度を起こす、然れば則ち禮義・法度なる者は、是れ聖人の僞に生ず、故より人の性に生ずるに非ざるなり。夫(か)の目は色を好み、耳は聽を好み、口は味を好み、心は利を好み、骨體・膚理は愉佚(ゆいつ)を好むが若きは、是れ皆人の情性に生ずる者なり。感じて自から然り、事とするを待ちて而(しか)る後に之を生ずる者にあらざるなり。夫れ感じて而も然ること能わず、必ず且つ事とするを待ちて而る後に然る者、之を僞に生ずと謂う。是れ性・僞の生ずる所、其の同じからざるの徵なり。故に聖人性を化して僞を起し、僞起りて禮義を生じ、禮義生じて法度を制す。然れば則ち禮義・法度なる者は、是れ聖人の生ずる所なり。故に聖人の衆に同じくして、[其]異(す)ぎざる(注2)所以の者は、性なり。異にして衆に過ぐる所以の者は、僞なり。夫れ利を好みて得を欲する者は、此れ人の情性なり。之を假(たと)うるに、(注3)[弟兄](注4)財を資して分つ者有らんに、且(まさ)に情性に順い、利を好んで得を欲せんとするか、是(かく)の若くなれば則ち兄弟相拂奪(ふつだつ)す。且に禮義の文理に化せんとするか、是の若くなれば則ち國人に讓る。故に情性に順えば則ち弟兄爭い、禮義に化せば則ち國人に讓る。凡そ人の善を爲さんと欲する者は、性の惡なるが爲めなり。夫れ薄は厚を願い、惡は美を願い、狹は廣を願い、貧は富を願い、賤は貴を願う。苟(いやしく)も中(うち)に無き者は(注5)、必ず外に求む。故に富めば財を願わず、貴ければ埶(せい)を願わず、苟も中に有る者は(注5)、必ず外に及(もと)めず(注6)。此を用(もっ)て之を觀れば、人の善を爲さんと欲する者は、性の惡なるが爲めなり。今人の性は、固より禮義無し。故に强學して之れ有らんことを求むるなり。性禮義を知らず、故に思慮して之を知らんことを求むるなり。然れば則ち生(せい)(注7)のみなれば、則ち人は禮義無く、禮義を知らず。人禮義無ければ則ち亂れ、禮義を知らざれば則ち悖(もと)る。然れば則ち生(せい)(注7)のみならば、則ち悖亂(はいらん)は己に在り。此を用て之を觀れば、人の性の惡なること明かなり。其の善なる者は僞なり。


(注2)原文「其不異」。猪飼補注は、「其」は「而」に作り「異」は「過」に作るべしと言う。これに従い、「其」字を読み下さない。
(注3)増注本では「人」字を削っている。注4により「弟兄」を削るので、これを戻す。
(注4)集解の王先謙は、「弟兄」は衍文であり、後人の追加であると言う。ここは王先謙に従っておく。
(注5)二箇所の原文は、「苟無之中者」および「苟有之中者」。増注は荻生徂徠を引いて、これらの「之」はなお「於」のごときなり、と言う。
(注6)増注の久保愛は、「及」は「求」に作るべし、音の誤なり、と言う。これに従う。
(注7)二箇所の「生」は元刻では「性」となっている。上の訳は「性」の意味で訳す。

続いて、荀子は礼義が「偽(い)」すなわち人間の「性」に属せず後天的に学習によって獲得する人為的文化であることを言う。その指摘そのものは、前の(2)で孟子と比較して検討したように、一応は妥当なものであると私は考えたい。

しかしながら、荀子は礼義といった「偽」が個人で制作できるものではなくて聖人しか制作できるものではない、とここで言うのである。陶工との喩えがあるように礼義は素人が制作できず、聖人というプロフェッショナルだけが制作可能である。聖人の後を追う人間はこれを模倣し、これに習うことしかできない。そして習わない者は利己的な「性」のままであり、利益を巡って他者と調和することなく争奪の戦争を行うばかりである、と言うのである。すなわち、荀子性悪説の第二のテーゼである「偽」は(現実的には)聖人しか作成することができず、君子しか身に付けることができない、が表明される。この理由は、後の(5)で詳細に説明されることとなる。前にも述べたとおり、この礼義聖人制作説が、富国篇における荀子の社会契約説を別の言葉で述べていることは明らかであろう。だが、人間の秩序は聖人、すなわち国家の制度の制作者たちの側からしか由来しないのであろうか?

文化人類学・経済人類学の言う互酬(reciprocity)の原理について、ここで検討しておこう。文化人類学・経済人類学において互酬とは、「血縁および友人間の共同体における義務としての贈与関係」(栗本慎一郎『経済人類学』、東洋経済新報社より)であり、もっと簡単に定義すれば「贈与―お返し」(柄谷行人『世界史の構造』、岩波書店より)である。

人類学者マルセル・モースは、未開社会において、食物、財産、女性、土地、奉仕、労働、儀礼等、さまざまのものが贈与され、返礼される互報的システムに、社会構成体を形成する原理を見出した。これは未開社会に限定されるものではなく、一般にさまざまなタイプの共同体に存在している。、、、互報は、世帯やバンドがその外の世帯やバンドとの間に恒常的に友好的な関係を形成するときにおこなわれるものだ。すなわち、互酬を通じて、世帯を越えた上位の集団が形成されるのである。したがって、互酬は共同体の原理というよりもむしろ、より大きな共同体を成層的に形成する原理である。
(『世界史の構造』9-10ページより)


現代の文化人類学・経済人類学の常識的な見解として、人間社会が単純な家族世帯を越えて大きな社会秩序を形成するときに始原的に働く自発的な原理として、この互酬の原理があることが指摘されている。あえて平易な言葉で互酬の原理の説明を試みるならば、人間は見知った家族を越えた他の家族と関係を結ぶためには、まず相手に何らかの財やサーヴィスを贈与しようとする。それは、贈与された相手の心理に負債感を与えて、これを拘束しようとする意志のあらわれである。それは貴重品の贈与でもよいし、嫁や婿の贈与でもよいし、相手のために労苦してあげるサーヴィスの贈与でもよい。いっぽう贈与された側は、その負債感を払拭するために、何らかのアクションを家族の外に起こさずにはいられない。それが贈られた相手への返礼となることもあり、第三の家族への贈与の順送りとなる場合もある。こうして贈与の環が友好的に閉じられたならば、家族を越えた上位の共同体は安定することになるだろう。互酬関係は、小さな家族共同体を越えて大きな共同体集団を形成するときに人間が発動する、始原的戦略というべきものである。

もっとも、互酬による関係は平和的であるとは限らない。互酬は、他の家族や共同体の優位に立って相手に負債の感情を植え付けることが動機である。それは己の財産を相手の目の前で大規模に破壊して、相手に模倣不可能な気前のよさを誇示する行為ともなる。これは文化人類学において「ポトラッチ」と呼ばれ、互いの共同体を破滅に追いやる行為であるが、その動機は相互の贈与の応酬であり、したがって互酬の原理である。また相手の共同体が自らの共同体の構成員を殺傷したときには、相手の側にも応分の血を流させる戦争に出る「血讐」の応答ともなるであろう。柄谷が引用するサーリンズの図式に従うならば、中核の家族世帯に近いほど安定した互酬の連帯性が絆を作り、中核から離れて部族間の関係に至るならば非社交的な血讐が恒常的となって、「否定的互酬」が支配的となるであろう(柄谷、55ページ)。

柄谷行人氏は、古代中国のような専制国家は互酬原理により運営される氏族社会の延長として出てきたのではなく、互いが対等に贈答する権利と交戦する権利を持つ氏族社会の伝統を断ち切って、君主の制定する「法の支配」の下に入ることによって成立した、と言う。氏族社会の人々は従属的な農民となることを嫌い、王の下僕である官僚となることを嫌い、戦士=農民にとどまろうとする。よって広域国家が成立するときには氏族社会の互酬の原理は国家に当てはまらない、ということが国家の内部で実行されていなければならない。「官僚制は、王と臣下の間に互酬的な独立性が全面的に失われたときに生まれたのである」(同、119ページ)。「中国では(引用者注:秦帝国のような)帝国の形成とともに、戦国時代において開かれた(引用者注:氏族社会の慣習や宗教が無効となった社会を新たに統治するための様々な思想的試みの)可能性は閉じられた。つまり、アジア的専制国家がそれ以降、存続したのである」(同、112ページ)。

互酬の原理は、人間にとって国家以前の段階で発動する他人との交流の様式である。それは安定した互酬の環を作る可能性もあれば、ポトラッチや血讐のような相互破壊的な行為をもたらす可能性もある。互酬が安定にも破壊にもなりえる、ということ自体が、人間の自由な他人との交流であることを示唆しているはずである。専制国家は、その互酬の原理の伝統を上から断ち切ることによって成立した。

しかし柄谷氏は、国家の枠組みの下では彼が名付ける「交換様式D」あるいは「X」の交換様式が必然的に浮上してくる、と言う。これは、国家の下においても存続する人間の互酬の原理が、かつての国家以前の段階そのままの形の回帰ではなくて、伝統的な共同体を越えて水平的かつ自発的な横のつながりを模索するものであると言う。それは古代国家においては世界宗教として現れ、近代においては社会主義運動などの形をとって現れた。どのような形で今後現れるかは予測できず、しかし人間として常に存在する互酬の原理の現れであるので、柄谷氏は「X」と名付けるのである。いっぽう、現代においてよりはっきり見える形で国家に互酬の原理が回収される道も存在する。それは国家に「想像の共同体」を投影して国民の連帯と平等を要求する運動、すなわちナショナリズムである。「交換様式D」「X」の形をとるにせよ、ナショナリズムの形を取るにせよ、人間にとっての互酬の原理は、人間に横のつながりを行わせる原動力であるはずだ。それは、上から支配する国家が提供しないものである。互酬の原理はあるいはナショナリズムのように国家を裏側から補強することもあれば、世界宗教や社会主義運動のように国家の統制に従わない横の連帯を形成することもありえる。国家は、これらを制御できる枠内に常に押さえ込もうと望むのである。しかしこれらを国家が制御しようと頭を悩ませるところに、互酬の原理が国家に由来しない秩序を作る可能性を常に秘めていて、いつの時代にも人間の社会に置いて決して消えない人間の始原的かつ本質的な活動であることを、表しているはずなのである。


荀子に戻るならば、荀子は聖人だけが「偽」を作る能力があり、国家のない人間は互いに争うことしかできない、と断ずる。確かに国家がもたらす「法の支配」は、互酬の原理に基づく血讐の原理を否定して支配地域内に安定的な平和をもたらした側面があった。しかしながら、人間が国家に従属することを前提とみなす荀子のような論者は、人間の互酬の原理が持つ自由な他人との交流活動の意義を見逃してしまっているのではないだろうか。言い換えるならば、国家の法は聖人すなわち制度の制定者たちの作であろうが、人間が国家以前に自発的に制作する他人との互酬の原理の力を見逃すべきではない、と私は考える。たとえ互酬の原理が必ずしも秩序創設的であるとは限らず、ポトラッチや血讐のように戦争状態をもたらす側面を持っていたとしても、それが人間の自発的な他人との交流の様式であることは重要である。

この互酬の原理は、確実に善なる秩序を作る原理ではない。しかしながらそれは人間が他者との交流を求める原理であり、意外と孟子の「四端」説とも共通性があると私は考える。続いて、孟子の「四端」説を他者との交流を求める原理として読み替えて、荀子の性悪説にはない孟子の主張の可能性を考えてみたいと思う。

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