Author Archives: 河南殷人

勧学篇第一(2)

こんな言葉がある、「私はかつて一日中頭の中で思索してみたものだが、それはわずかな時間学校で学んだことにすら及ばなかった。私はかつてつま先を立てて眺めてみたものだが、それは高い山に登って広く見回したことにすら及ばなかった」(前半は『論語』衛霊公篇の言葉「我嘗て終日食らわず終夜寝ず以て思う。益無し。学ぶに如かざるなり」を想起させる)。
山の上に登って手招きすれば、自分のひじが長くなったわけでないのに、遠くから見てもらえる。追い風に乗せて呼べば、声の速さが加わったわけでないのに、はっきりと聞こえる。馬車を使えば、自分の足が強くなったわけでないのに、千里(400km)を走ることもできる。舟を使えば、自分の体が水に浮くわけでないのに、黄河や長江を渡ることすらできる。君たちもまた、同じなのだ。生まれたときはしょせん同じ人間であり、優劣などさほどありはしない。ただ学習によって力を借りた者だけが、優れた人間となれるのである。

南方に、蒙鳩(みそさざい)という鳥がいる。羽を集めて、これを毛で編みこんで巣を作り、葦の穂にその巣をひっかける。ところが強風が吹いて葦が折れてしまうと、巣の中の卵は割れて子は死んでしまう。これは、巣の作り方がまずかったからではない。ひっかけた葦が悪かったからである。また西方に、射干(ひおうぎ)という草花がある。茎の長さはわずか四寸(9cm)しかないが、高山の上に咲いてしかも百仞(157.5m)の崖の上にある。この花が高くに仰ぐことができるのは、茎が長く生長したからではない。立っている所が高いからである。蓬(よもぎ)は本来地を這う草であるが、丈高い麻の間に生えたときには起こさずして真っ直ぐに立つものだ。蘭槐(らんかい)の根は、芷(し)という香草である。しかしこれを汚水にひたすと、君子はもはや近づけるところとはならず、庶民ですらこうなってはもはや有り難がらない。芷そのものが汚いからでは、決してない。ひたした水が汚いからである。わかったかな、だから君たちは必ずよい環境の土地に住むこと。そして必ず立派な士と交友すること。こうするのは、悪の道に落ちるのを防ぎ、中正の美徳に近づくためなのだ。


《原文・読み下し》
(注1)吾嘗て終日にして思うも、須臾(しゅゆ)の學ぶ所に如かざるなり。吾嘗て跂(つまさきだ)ちて望むも、高きに登るの博く見ゆるに如かざるなり。高きに登りて招けば、臂(ひじ)の長を加うるに非ざるなり、而(しか)るに見ゆる者遠し。風に順(したが)いて呼べば、聲の疾を加うるに非ざるなり、而るに聞こゆる者彰(あきら)かなり。輿馬(よば)を假(か)る者は、足を利するに非ざるなり、而るに千里を致す。舟楫(しゅうゆう)を假る者は、水に能(た)うるに非ざるなり、而るに江河を絕す。君子は生異なるに非ざるなり、善く物に假るなり。
南方に鳥有り、名を蒙鳩(もうきゅう)と曰う。羽を以て巢と爲し、而(しこう)して之を編むに髮を以てし、之を葦苕(いちょう)に繫(つな)ぐ。風至りて苕(ちょう)折れ、卵破れて子死す。巢完(まった)からざるに非ざるなり。繫(か)かる所の者然ればなり。西方に木有り、名を射干(やかん)と曰う。莖(くき)の長さ四寸なれど、高山の上に生じ、百仞(ひゃくじん)の淵に臨む。木莖(もっけい)能く長きに非ざるなり。立つ所の者然ればり。蓬(ほう)も麻中に生ずれば、扶(たす)けずして直(なお)し(注2)。蘭槐(らんかい)の根、是を芷(し)と爲す。其れ之を滫(しゅう)に漸(ひた)せば、君子は近づけず、庶人は服せず。其の質美ならざるに非ざるなり、漸す所の者然ればなり。故に君子は居必らず鄕(きょう)を擇び、遊ぶに必ず士に就く。邪辟(じゃへき)を防いで中正(ちゅうせい)に近づく所以(ゆえん)なり。


(注1)『大戴礼記』勧学篇は「孔子曰く」で始まる。『論語』衛霊公篇の言葉とほぼ同一であることを意識しているのであろう。
(注2)『集解』の王念孫は、『大戴礼記』曾子制言上篇ではこの後に「白き沙(すな)も涅(どろ)の中に在れば、之と倶(とも)に黑なり」と続いているが、同勧学篇にはない。おそらく『荀子』勧学篇は後世の者が削ったのであろう、と言う。

立派な人間となるにはどうすればよいのかを、荀子は懇切丁寧に説得する。
学ぶことなしに考えるのが無益であることは、孔子も指摘するところである。儒家の中には、孟子の「大人はその赤子の心を失わざる者なり」とか、「人の学ばずして能くする所の者は、その良能なり。慮(おもんぱか)らずして知る所の者は、その良知なり」とかの格言を重視して学問を軽視し、心中の至誠さえあれば立派な人間なのだ、などと唱える者もあるようである。しかし荀子は、そのような安易を認めない。孟子もまた認めないと思うのであるが。荀子は、人間が立派なのは後天的に学んで知力を身につけるからであると考える。人間は放置教育しておいても自然とよい子になる、とは荀子は考えない。必ず周囲の環境を整え、立派な先生の教えを受け、悪者と付き合わせない配慮があって、よき人間は形成されるというのである。

後半は、人間が環境に影響を受けるという指摘である。荀子は、外界からのインプット次第で人間が変化するという、機械論的な人間観を持っているようである。後に見るように荀子が「礼」を身につけることを最も重視することと、彼の教育観は整合している。

私は、荀子の教育観はもっともだと思うが、ただどのような環境が教育に最適であるのかは、一概には決められないと考える。中世の日本で学問を行う場所といえば仏教寺院であって、比叡山や高野山は人里離れた山中にあって外界と隔離された道場であった。いっぽう江戸時代の儒学や蘭学の塾は都会の真ん中にあって、市井の空気と共にある学問所であった。西洋の人は、日本の大学の前にパチンコ屋があることに驚愕するという。学問を侮っているのか、といぶかるのであろう。しかし市井の中に学問所があるのは、日本の江戸時代からの伝統であるとも言えるだろう。もっとも私の住居の近くにある京都大学の周辺は今やコンビニとチェーン店の飲食店ばかりであり、これらが学問の肥やしになるようには思えないが。

ともかく、荀子の言葉は志ある者への呼びかけである。立派な人になることを志すのであれば、スマホからだけ情報を得るのはやめにして固い本を読書する試みにチャレンジするのがよいだろう。

勧学篇第一(3)

ものごとが起こるときには必ずその原因があり、また人が栄光あるいは恥辱をこうむるときには、必ずその人の持てる徳に応報するものなのだ。肉が腐れば、虫が沸く。魚がしなびても、やはり虫が沸く。そして人が怠慢して己のことを忘れると、わざわいがやってくるのだ。固い木は斬られて、柱に使われる。柔らかい木は刈り取られて、束ねて綱にされる。そしてよこしまなことが己にあれば、怨みを買って木のように叩き斬られるのがオチだ。薪(たきぎ)を一律に並べて火をつけたら、乾いた側に燃え広がっていく。地面を一面の水平にしてみたら、水は湿った箇所に溜まっていく。草木は群がって繁茂し、動物は群れをなして行動する。このように、物はそれぞれが持てる性質に応じて動くのである。性質に応じた因果関係があるために、的が立てられたら弓矢が飛んでくるのであり、林木が茂ったら木こりがやってくるのであり、樹木が陰をなせば鳥たちが休むのであり、貯蔵肉が酸敗したら蚋(ぶよ)が集まるのである。言葉が悪かったら、どうなるか?禍を招く結果がありえるのである。行いが悪かったら、どうなるか?恥をかく結果がありえるのである。君たちは、己の立つ状況をよく理解して、言行を慎まなければならない。

土が積もって山になれば、自然と風雨を呼ぶという。水が溜まって淵となれば、自然と龍が住み着くという。そして善が積み重なって大きな徳となれば、いつのまにか高度な理性の人(注1)となり、最高な心の持ち主(注1)となるであろう。一歩一歩を積み重ねなければ、千里の先に届くことは決してない。小さな川の流れを積み重ねなけれな、大河や大海を作ることはない。駿馬であっても一躍だけでは十歩(13.5m)も跳ぶことはできないが、駄馬であっても十日馬車を引っ張り続けることができる。成果は、継続にあるのだ。鑿を入れても途中でやめたら、朽木を折ることもできない。しかし鑿を辛抱強く入れ続けたら、金属や石にも彫り込むことができる。地下の蚯螾(みみず)を、見たまえ。奴らは爪も牙もなく、強い筋骨も持っていない。それでも地面近くで土を食らい、地下深くで水を飲んで、地中に自在に穴を掘り進める。これは、奴らが心を専一にして頑張っているからなのだ。それに比べて蟹は足が八本ハサミが二丁あるのに、ヘビあたりが作った穴を借りなければ、自分で穴を掘って隠れることすらできない。これは、奴らが心せっかちで集中できないからなのだ。だから、心ひそかに志を継続する者でなければ、名声が高らかに広がることはない。陰ながら努力を継続する者でなければ、赫々たる功名を挙げることはないのだ。交差点で迷っている者は、目的地に着くことはない。二人の君主に同時に仕官する者は、どちらの君主にも受け入れられない。人間の目は二つの方向を同時に見ることはできないが、見る力は完全だ。人間の耳は二つの音を同時に聞き取ることはできないが、聞く力は完全だ。竜は、足がなくても雲に乗って自由に飛ぶことができる。だがムササビは、飛んだり穴を掘ったり走ったりと器用に見えるが、簡単に追い詰められてしまう。『詩経』には、この言葉がある。:

筒鳥(つつどり)が、桑木(くわき)にありて
雛鳥(ひいなどり)、七羽育てぬ
親鳥は、君子のごとく
育て方、迷わず一つ
迷わずに、一つであるは
固き心の、現れなりき
(曹風、鳲鳩より)

そうだ、君たち君子は、迷わず一つのことに集中する固き心を持たなければならないのだ。

むかし、瓠巴(こは)という楽人が瑟(しつ。おおごと)を奏したら、泳ぐ魚が飛び出して聴いたという。また伯牙(はくが)という楽人が琴を奏したら、馬が首を伸ばして聴きながら秣(まぐさ)を食ったという。(このように魚や馬ですら、音楽を聴く耳を持っているという。ならば人間の耳目はなおさらであり、)どんなに小さな声でも聞こえないことはなく、どんなに隠れた行為であっても露見しないことはないのだ。玉(ぎょく)が埋もれている山は、草木が艶めく。珠(たま)が沈んでいる淵は、岸辺が乾かない。(玉や珠が見えなくても、周囲に影響を及ぼして分かってしまうのだ。)どうして善をなしながら、それを積み上げずにあきらめるのか?この世の中、善が聞こえずに終わることなど、どうしてありえようか?


(注1)原文は「神明」および「聖心」であるが、荀子は超越的な神を理論に想定しない。なので、あくまでも人間の精神の高度な段階を意味するように訳した。
《原文・読み下し》
物類の起る、必ず始まる所有り、榮辱の來る、必ず其の德に象(かた)どる。肉腐れば蟲(むし)を生し、魚枯るれば蠹(と)を生じ、怠慢身を忘るれば、禍災乃ち作(お)こる。强は自ら柱を取り、柔は自ら束を取り、邪穢(じゃあい)身に在るは、怨の構うる所なり。薪(たきぎ)を施(し)くこと一の若くなれば、火は燥に就く、地を平にすること一の若くなれば、水は溼(しつ)に就く。草木は疇生(そうせい)し、禽獸は羣(ぐん)す。物は各(おのおの)其の類に從う。是の故に質的張りて弓矢至り、林木茂りて斧斤至る、樹蔭を成して衆鳥息(いこ)い、醯(けい)酸にして蚋(ぜい)聚(あつ)まる。故に言は禍を招くこと有り、行は辱を招くこと有り。君子は其の立つ所を愼まんかな。
積土山を成せば、風雨興り、積水淵を成せば、蛟龍(こうりゅう)生じ、積善德を成せば、神明自得し、聖心備わる。故に蹞步(きほ)を積まざれば、以て千里に至ること無し、小流を積まざれば、以て江海を成すこと無し。騏驥(きき)も一躍して、十步なること能わざれども、駑馬(どば)も十駕すれば、功は舍(お)かざるに在り。鍥(けつ)して之を舍けば、朽木も折れず、鍥して舍かざれば、金石も鏤(ちりば)む可し。蚯螾(きゅういん)は爪牙の利、筋骨の强無きも、上埃土(あいど)を食い、下黃泉(おうせん)を飮む。心を用いること一なればなり。蟹は六跪(注2)して二螯(にごう)なるも、蛇蟺(だせん)の穴に非ざれば、寄託する所無きは、心を用いること躁なればなり。是の故に冥冥の志無き者は、昭昭の明(注3)無く、惛惛(こんこん)の事無き者は、赫赫(かくかく)の功無し。衢道(くどう)を行く者は至らず、兩君に事(つか)うる者は容れられず。目は兩視すること能わずして明に、耳は兩聽すること能わずして聰なり(注4)。螣蛇(とうだ)は足無くして飛び、梧鼠(ごそ)は五技にして窮す。詩に曰く、尸鳩(しきゅう)桑に在り、其の子七つ、淑(よ)き人君子は、其の儀一なり、其の儀一なれば、心結ぶが如し、と。故に君子は一に結ぼる。
昔者(むかし)瓠巴(こは)瑟(しつ)を鼓して、流魚出でて聽き、伯牙琴を鼓して、六馬仰ぎて秣(まぐさ)う。故に聲は小として聞こえざること無く、行いは隱として形(あらわ)れざること無し。玉山に在りて草木潤い、淵珠を生じて崖枯れず。善を爲して積まざるか、安(いずく)んぞ聞こえざる者有るや(注5)


(注2)集解は、「六」は「八」の誤写であると言う。
(注3)増注は荻生徂徠の説を引き、「明」の字は「名」の誤りかと言う。
(注4)宋本には「能」字が二回あり、元刻にはない。ここは宋本に合わせる。
(注5)大戴礼記勧学篇と一致する文は、ここまでである。大戴礼記はこの後に若干の孔子の言葉が置かれて結句となる。その一つは、宥坐篇(3)の最初にある孔子が水を称えた言葉とほぼ一致する。

善行を積む努力を続ける者には、幸福がやって来る。荀子は必ずそうだと説く。
耳に心地よい激励ではあるが、『論語』や『孟子』をこれまで読んできた私の目には、荀子の楽観には陰影がなさすぎるように見える。
孔子や孟子は、善人が必ずしも幸福を得られない可能性があることを、想定している。だから孔子は富貴などは君子の楽しみにはないのだ、と言うのであり、貧窮に生きてしかも愚痴を言わない高弟の顔回を、こよなく愛したのである。孟子は、「殀寿貮わず、身を脩めて以て之を俟つ、命を立つる所以なり(寿命の長い短いなど気にするな。ひたすら自分自身を修めて命尽きるのを待て。それが、天命を損なわずにまっとうするということなのだ。)」と言うのであり、現世での幸福などは度外視して、ひたすら己を研鑽して命を燃やせ、と勧めるのである。彼らの人生観に比べて、荀子の人生観は軽いと言わずにはいられない。荀子には、善人が報われないというテーマを正面から論じた聖書の『ヨブ記』は、遠くに離れた世界であろう。

善行が必ず報われる、ということを根拠付けるために、儒家の宿敵である墨家は「鬼神」の人間への介入を想定した。墨家は、この世の存在を超えた超存在である「鬼神」が善人を助けてくれるはずだ、と期待したのである。こうでも考えなければ、命を賭して縁もゆかりもない小国の防衛を引き受けて、その行為に何の見返りも得られない墨家集団たちは、日々を生きていくことができなかったのであろう。

だが儒家である荀子は、「鬼神」の介入など想定できない。だから同じ儒家の孟子は、命を粗末にせず無駄死にはするな、と勧めるのである。なるたけ災厄は避ける、という賢い生き方で生き延びるのが、不遇に会った時の知恵というわけである。
しかし荀子は、善人が必ず報われる、と言う。
それを可能とするためには、善人が報われる社会を作り上げなければならない、ということとなるであろう。
後の諸篇で見るように、荀子は政治を行う有能者が高い地位と富を受け取ることは自然な秩序であり、この秩序が国家の礼なのである、と主張する。荀子は戦国時代にありながら、すでに後世の中華帝国を見ているのである。科挙の試験は、よくも悪くも有能者が相応に報いを得る制度として、極めて洗練されている。中華帝国では、地位と名誉と富を得る道が、科挙の試験に及第すること一点に絞られて、きわめて分かりやすくなった。荀子の理想を現実の社会で実現させようとすれば、結局試験で有能者を選んで高い地位に就ける、という制度が最終的な結論だったのであろう。もとよりその弊害として、人間の価値が科挙に及第することだけに絞られて狭くなってしまった。試験のために論語や孟子を丸暗記したからといって、その人が本当に善人だといえるかどうか。

もちろん私は、善人が報われる社会であってほしい、と荀子と同じく思っている。しかし現実は、必ずしもそうではない。科挙の試験があったとしても、完全ではない。
私は、善人が必ず大きな成功を得ることができなくても、社会の中で何がしかの居場所を見つけることができてそれなりに納得できる人生を送ることができたならば、そのような社会こそが最上であると考える。懐の深い社会だけが、できることであろう。日本の社会は、まだ辛うじてそれが可能であると私は思っている。近年は競争原理ばかりが強調されるが、勝者には報いを与え、かつ敗者にもそれなりの居場所を与えることができる社会が、強い社会であると私は考える。

勧学篇第一(4)

では、学ぶことはどこから始めてどこで終わるべきであるか?
それはこうである。まず入門のカリキュラムは、美しい格言を繰り返し唱えて、体で人の道を覚えこむ。そこから進んで応用のカリキュラムは、人間社会のルールである礼を熟読して、よき社会人となるのである。学ぶことの目的には、まずいっぱしの士(宮廷人として最低ランクの存在)となるところから始めて、最後には聖人(最高段階の人間、あるいは国家の統治者)を目指すのである。真に学問を積み、努力すること久しければ、必ず聖人にまで至るはずだ。学ぶことは、死んではじめて終わるものだ。学ぶカリキュラムには、終わりがある。しかし学ぶ目標については、いかなるときも一瞬たりとも捨て置いてはならないのである。これを行う者が、人間というものだ。これを捨て置く者は、しょせん禽獣(きんじゅう。ケダモノ)の域を出ない。『書経』(古代王朝の法令集)はわが国の政治の軌跡である、学ばなければならない。『詩経』はわが国の均整ある歌の文化の極地である、学ばなければならない。礼すなわち礼儀規則は、わが社会の法の大筋であり、法判断(注1)のガイドラインなのである、これも学ばなければならない。ゆえに、学ぶことは礼を最終目標としなければならない。これがわが国の道徳の本源なのだからだ。礼を学べば、恭敬の精神と文化故実の詳細が身に付く。音楽を学べば、ハーモニーの美が身に付く。『詩経』と『書経』を学べば、知識豊富となる。『春秋』を学べば、微言大義(びげんたいぎ。簡潔な記録の中に豊富な意味を込める叙述法)の読解力が身に付くのである。これら学問の体系を学ぶことを通じて、天地の間にある知識は全てカバーできるのである。

君たちが学ぶときには、耳から入って心に留め、身体に行き渡って、立ち居振る舞いにまで好影響を及ぼし、ちょっとした言葉の端にも、ちょっとした動作の中にも、ただ一つの礼の規則に則るようでなくてはならない。だが小人が学ぶときには、耳から入ってすぐに口に出す。口と耳の間は四寸(9cm)しかないのだから、そんなことでは七尺(157.5cm)の身体を美にするには足りない。こんな言葉があるだろう、「古(いにしえ)の学ぶ者は己の為にし、今の学ぶ者は人の為にする」(論語、憲問篇の言葉と同じ)と。これが、今どきの風潮だ。君たちが学ぶときには古の学ぶ者のようでなくてはならず、己の身を美にすることを目標としなければならない。だが小人が学ぶときには、禽犢(きんとく、ケダモノ)が作られるばかりなのだ。だから連中は、問われないのにべらべらとしゃべる。耳障りである。一つの質問に対して、余計なことを付け加えて返答する。しゃべりすぎである。耳障りでしゃべりすぎでは、いけない。君たちは、打てば美しく響くように簡潔に答えなければならない。(正道をよく理解し、己を美しくする学び方をするべきである。知識を持っているだけで正道が理解できないような学び方は、ものの役に立つ人間を作らない。)

「学は其の人に近づくより便なるはなし」(学ぶためには、しかるべき師にお近づきになって学ぶ以上に、効果的なことはない)。なぜならば、礼と音楽はテキストの中に法則が記されているだけであって、それだけでは解説が分からない。詩経と書経のテキストはあまりに古い文献であるので、そのままでは現代に役立てる術が分からない。春秋はあまりに簡潔な歴史書なので、なかなか理解できない。なので、しかるべき師に従って、君子の正統な学説を学ぶことによって、尊重される存在となって周囲に名声が聞こえるようになるのである。ゆえに、「学は其の人に近づくより便なるはなし」だ。学ぶ道は、信頼できる師に好んでついて行くよりも速習できることはない。その次に効果的な学び方は、礼を尊んで体化することを心がけることだ。もし師を好むことができず、また礼を尊ぶこともできず、単に雑駁な知識を学ぶばかりで、それで詩経や書経を手に取ったらどうなるか?一生が経った後でさえ、知識不足の三流教師(注2)で終わるのが関の山だ。わが国の文明を作り出した建設者である先王たちの業績を慕い、仁義の道に基づこうと志すならば、礼はまさしく学ぶ正道なのである。挈裘(きゅうれい。毛皮のコート)を手でぶら下げたならば、毛は綺麗に一方向に向かう。礼もそれと同じで、全てが正道に綺麗に向かっているのである。礼に従わず、礼から派生する国法を理解せず、詩経や書経の知識だけで立派な人間となろうとするのは、たとえるならば指で川幅を測ること、戈(ほこ)で黍(きび)を搗(つ)くこと、錐で壷の中から食べることであり、ものになりはしないのである。ゆえに、礼を尊べば、まだ理解が不十分であっても国法の守護者ということができる。だが礼を尊ばないならば、たとえ聡明で能弁であっても世の役に立たない無能教師(注2)である。


(注1)原文「類」。『荀子』にはこの語がしばしば出てくる。法の明文がない事項について統治者が判断すべき基準のことを指す。あるいは礼義の正義の原理に基づく類推判断を指し、またあるいは類似の判例を参照した判断を指すと考えられる。ここでは法判断と訳しておいた。
(注2)原文は「陋儒」および「散儒」である。「儒」とは周王朝に滅ぼされた殷の遺民の村で、祭祀と教育を担った存在であったという。『荘子』の中には、徒党を組んで墓の盗掘を生業としていたいかがわしい「儒」が書かれている。その中から知識人集団として上昇したのが孔子の言う「君子儒」であり、相変わらず村で祭祀と教育を担う身分の低い「小人儒」も並列して存在していた。なので、「儒」を教師と訳した。(参考文献:重澤俊郎『周末の社会及び文化の特質』)
《原文・読み下し》
學は惡(いず)くにか始り、惡くにか終る。曰く、其の數は則ち誦經(しょうきょう)に始まり、讀禮(どくれい)に終わる。其の義は則ち士爲(た)るに始まり、聖人爲るに終わる。眞に積み力(つと)むること久しければ則ち入る。學は沒するに至りて而(しこう)して後に止む。故に數を學ぶは終り有るも、其の義の若きは則ち須臾(しゅゆ)も舍(す)つ可からず。之を爲せば人なり、之を舍つれば禽獸(きんじゅう)なり。故に書なる者は政事の紀なり、詩なる者は中聲の止まる所なり、禮なる者は法の大分なり、類(るい)(注3)の綱紀なり。故に學は禮に至りて止む。夫れ是を之れ道德の極と謂う。禮の敬文や、樂の中和や、詩書の博や、春秋の微や、天地の閒に在る者畢(つく)せり。
君子の學や、耳に入りて、心に著(つ)き、四體(したい)に布(つ)き、動靜に形(あら)わる。端(ぜん)にして言い、蝡(ぜん)にして動くも、一に以て法則と爲す可し。小人の學や、耳に入りて、口に出づ。口耳の閒(かん)は則ち四寸のみ、曷(いずく)んぞ以て七尺(しちせき)の軀(く)を美にするに足らんや。古の學ぶ者は己が爲にし、今の學ぶ者は人の爲にす。君子の學や、以て其の身を美にし、小人の學や、以て禽犢(きんとく)と爲る。故に問わずして告ぐ、之を傲(ごう)と謂い、一を問いて二を告ぐ、之を囋(さつ)と謂う。傲は非なり、囋も非なり。君子は嚮(ひびき)の如し。
學は其の人に近づくより便なるは莫し。禮樂は法にして說かず、詩書は故にして切ならず、春秋は約にして速ならず。其の人に方(なら)いて君子の說を習わば、則ち尊にして以て遍なりて、世に周す(注4)。故に曰く、學は其の人に近づくより便なるは莫しと。學の經は、其の人を好むより速きは莫く、禮を隆(とうと)ぶこと之に次ぐ。上其の人を好む能わず、下禮を隆ぶこと能わず、安(すなわ)ち(注5)特(ただ)に將(まさ)に雜[識]志を學び(注6)、詩書に順(したが)わんとするのみ。則ち末世窮年まで、陋儒(ろうじゅ)爲ることを免れざるのみ。將に先王に原(もと)づき、仁義に本づかんとすれば、則ち禮は正に其の經緯(けいい)・蹊徑(けいけい)なり。挈(きゅう)の裘(えり)を領(ひっさぐ)るが若し、五指を詘(かが)めて之を頓(ひ)けば、順(したが)う者は勝(あ)げて數う可からざるなり。禮憲に道(よ)らずして、詩書を以て之を爲すは、之を譬(たと)うるに猶(なお)指を以て河を測り、戈(か)を以て黍(しょ)を舂(つ)き、錐を以て壷に飡(そん)するがごとし、以て之を得る可からず。故に禮を隆べば、未だ明ならずと雖も法士なり。禮を隆ばざれば、察辯(さつべん)と雖も散儒なり。


(注3)宋本は「羣(群)類」であり元刻は「類」である。集解は王念孫の説を引用して、ここでいう「類」の意味は法の対立語であるので、「羣」字は除くべきと言う。
(注4)原文「則尊以遍矣、周於世矣」について、増注は最初の「矣」字は衍字(よけいな文字)であると言う。ならば「則ち尊にして以て世に遍周す」と読み下すべきである。猪飼補注は、「周於世矣」が後人が追加した贅文であると言う。
(注5)「安」は語助。「案」とともに『荀子』テキストで多用される。「則」の同義。
(注6)増注は荻生徂徠の説を引いて「志」を衍字と言い、集解は王引之の説を引いて「識」の字が誤入であると言う。集解に従う。

学ぶときには、正しいカリキュラムを学び、体に染み付くように学び、そして立派な先生からマンツーマンの指導を受けなければならない。最後のことは、学問や芸事は子弟間の心の伝承であることを言っているのだ。教科書に書かれている内容は無味乾燥であり、人間の心が入っていない。教わることは、先生の立派な面だけでなくて、困ったところや足りないところまで先生の人間としての生き様全てを受け取るのが最上であるはずだ。このことは、私は昔は分からなかったが、今になるとそうであるに違いないと考え直すようになった。私は人生の師を慕って付いて行く経験がなかったので、学問が中途半端なのである。現在の私にとって、記憶に残る先生は高校三年時代(1986年)の担任であったM先生ぐらいしかいない。しかしM先生は日本史が担当であり、私は世界史を選択していたので、ついぞ授業を受けることができなかった。戦前の国士北一輝の熱烈な信奉者であり、当時の私はポストモダンで左傾という当時の高二病患者であったので、リベラルなM先生にしてこの趣味はいかがなものか、と理解に苦しんだものであった。しかし今となって思えば、日本を憂う心が穏やかな語りの奥に烈々とあられたのであろう。師に教わることとは、良い面も困った面も合わせて懐かしみ、人の生き様という総合的知識を教わるものである。この教育は、インターネットではなかなか達成できないであろう。

荀子はこうして師を選ぶように語るとき、最上の師は自分であると自負していたはずである。荀子は、孟子亡き後の儒家界で最大の知識人であった。漢代にまとめられた礼のテキスト集の一つである『大戴礼記(だたいらいき)』には、荀子の叙述と重複する点が多い。これは、荀子が主に編集したテキストが儒家の礼関係文献では重視されていた痕跡であると思う。また『孟子』では『論語』からの引用は前半十篇からが比較的多い。それに比べて荀子の引用はここのくだりのように後半十篇から目立つ。わが国の伊藤仁斎は、『論語』の前半十篇と後半十篇では性質が異なっていると見抜いた。これを武内義雄氏は『論語の研究』において前半を魯学派の伝承を中心としたものであり、後半を主に斉学派の伝承を中心としたものであろう、と考証した。魯学派は孔子の死後に彼の生国である魯国で起こった派閥であり、孟子はこちらに含まれる。いっぽう斉学派は孔子の弟子、子貢(しこう)から始まり斉国で起こった派閥である。荀子の生国は儒家不毛の地であった趙国であり、そこから斉の儒家界にデビューした。斉で荀子は個人倫理を重視する魯学派よりも、政策論に重点を置く斉学派に近い立場を取っていたと想定してみたい。荀子は、孟子やその師である子思(しし。孔子の孫)を誤った儒家の先行者たちとして辛辣に批判するのである。

さて荀子はここで儒家として推奨するカリキュラムを詳説する。礼儀規則を学び、音楽を学び、『書経』『詩経』『春秋』を師について詳しく学ぶべきであると言う。中華文明の歴史・国語・音楽・道徳修身の学習である。そう考えると、内容は変わっているが現在の教育と教科はそんなに変わらない。この他に、士が学ぶ六芸(りくげい)には計算術があり(数)、弓術があり(射)、馬車の運転術があり(御)、書道があった(書)。なので初等数学と武芸もあったのである。もっとも、古代ギリシャのように体育教育を最重視することはなかった。西洋の英雄は裸体となっても美しいことに憧れるが、中華世界の君子は上半身ですら裸になることは非礼の極みであった。

しかし、荀子は古典を尊重するとはいえ、古典がそのままでは現代の役に立たないことを認めている。古典の現代的意義を師から解説されず、ただ独学で詩経や書経を学んで知識人ぶる者を、荀子は三流教師と蔑み、志ある君たちはそうなってはならないと説くのである。そして礼儀規則を学ぶことを通じて、現代の世界の法の精神を読み取り、為政者の勘を育め、と言うのである。これは、荀子が中華世界の伝統の中に現代の社会の運営にも通じる共通の精神、言い換えれば「国の基本的かたち」がずっと続いているという考えを持っているからであろう。儒家は、こういう伝統重視の考え方をするのである。現代の思想用語では、保守主義という。荀子は儒家として保守主義を取るが、古い伝統を無批判に現代に適用するのではなくて、伝統を現代の状況に当てはめる形に応用して用いよ、と言うのである。これは、自らの文化に対する強い自信があってこそ可能なことである。近年日本は保守化していると言われるが、日本を否定することが精神のバネとなっていた戦後時代の活力がようやく尽きて、かつ日本を否定するために理想とするべきモデルも今やなくなってしまい、自分の伝統に回帰することが国民の人情となっていることが、背景にあるのであろう。日本は、立派な文化を持った国である。だがそれに安住するだけではいけない。荀子が説くように、よき伝統を好んでかつそれを現代に生かす知的な努力を続けなければならない。

荀子は、現代の社会の運営のためには伝統である礼の精神を現代的文脈で理解して、これを生きた術として活用せよと説く。当時のエリートは、現代日本の国家一種官僚と弁護士と大学教授を合わせたような、知識人兼法律家兼政策立案者である。教養を持って尊敬される存在であると同時に、政策も立てる能力がなければならない。荀子は何が何でも古い伝統を守るのではなく、現代の法や政治にも古い時代の制度と共通した精神があることを認め、より現代に即した統治に応用するべきことを説く。荀子のこの考えは、「後王思想」などと呼ばれる。「後王思想」は、『荀子』の特定の篇に固まって論じられているわけではなくて、諸篇に散らばって時折言及される。荀子は中華世界の伝統を保守するスクールである儒家に属していたが、現実の国家を統治する問題を考察するときには、はるか昔の中華文明の建設者たちの伝説にばかり拘泥するわけにはいかなかった。なので、現代の統治の中にも見られる合理的で理性的な側面は、先王たちの理念を継承しているはずだと考えて、それらを手本とすることを認めるものであった。このような荀子の視点の延長線上に、彼の弟子の李斯と韓非子がいたはずである。李斯と韓非子は、統治者が任意に制定する新しい法を社会に適用し、これによって社会を操作することを有効とみなす法家思想を信奉した。彼らの考えは、確かに荀子の「後王思想」の発展上にある。荀子自体はおおむね保守的な儒家の範囲内に留まったが、彼の思想の中には法家思想に繋がる面があったのは確かなことであると、私は考える。

勧学篇第一(5)

いい加減な質問をする輩には、答えてやるな。いい加減な応対をする輩には、質問するな。いい加減な説明をする輩の話は、聞いてやるな。けんか腰でねじ伏せてやろうといきり立つ輩とは、議論するな。応対に値するのは、必ず礼の道に則って近づいた者だけであり、そうであってはじめてこの相手と接するのだ。礼の道に則らない無礼者は、避けて通れ。ゆえに礼に沿って恭しい者であって、はじめて正義正道の大筋を論ずるに値する。言葉がおだやかであって、はじめて正義正道のロジックを論ずるに値する。そして雰囲気が温和であって、はじめて正義正道の行き先を論ずるに値するのだ。ゆえに、「まだ語るべき段階でないのに言葉を発するのは、傲(ごう。言いすぎ)というものである。だが語るべき段階であるのに言葉を発しないのは、隠(いん。言い足らず)というものである。相手の雰囲気を読まずに自己中心的に言葉を発するのは、瞽(こ。「開きめくら」)というものである」という格言があるのだ(論語季氏篇の「言未だ之に及ばずして而(しか)も言う、之を躁と謂う。言之に及んで而も言わざる、之を隠と謂う。未だ顔色を見ずして而も言う、これを瞽と謂う」とほぼ同じ)。君たちは、これら傲・隠・瞽になることを避け、己の身を慎んで正道により人と接するのだ。『詩経』に、この言葉がある。:

乱れるなかれ、気を抜くなかれ
みかどの御下賜を、たまわらん
(小雅、采菽より)

この言葉を、よく心したまえ。

百発弓矢を射て一発でも的を外したら、それは完璧な弓とはいえない。千里の道を馬車で走って最後の一歩届かなかったら、それは完璧な運転とはいえない。そしていくら礼法の条文を学んだところで、礼法の精神がわかっていなくて的を得た法の解釈(注1)ができず、仁義の正道に沿った法解釈ができなければ、それは完璧な学習とはいえないのだ。学ぶ人というものは、もとより学ぶことによって自らの原理を一つにまとめ上げることができる人なのだ。だが部分的に正しいこともあるが部分的に正しくないこともあり、要は頭の中で統一されていないのが、その辺の凡人なのだ。もっとひどく善が少なくて不善が多くなれば、桀(けつ)・紂(ちゅう)・盜跖(とうせき)なのだ(注2)。完全になるまで学び、そうした後にこそ、学ぶ人というべき資格がある。

君たち!これで不完全な学び方をすることが、美とはいえないとこが分かったであろう。だから、まずは美しい格言を何回も唱えて、体で人の道を覚えこむのだ。それから、自分の頭で思索して、礼法に内在する原理を掴むのだ。そして完全な人間となるべく、己を律するのだ。そして間違った考えや悪い人間を斥けて、自らを保ち養うのだ。目は、正道でなければ見ようと思うな。耳は、正道でなければ聞こうと思うな。口は、正道でなければ言おうと思うな。心は、正道でなければ考えようと思うな。正道を好むことが至れば、目の快楽よりも正道を愛すようになるだろう。耳の快楽よりも正道を愛するようになるだろう。味の快楽よりも正道を好むようになるだろう。そして心は、天下の支配者となる快楽よりも正道を好むようになるだろう。この境地に至れば、権力でも利益でも心は動かされず、周囲の大衆が指弾しても心は転向せず、ましてや全世界が反対したとしても心はもうゆらぐことはない。生きるも正道により、死ぬも正道による。これを徳操というのである。心の徳が動かぬ節操を持つことによって、しかる後に心はよく定まるだろう。心がよく定まることによって、しかる後に自在の応対ができるであろう。こんな人をこそ、「成人(現代語の意味ではなく、完成された人)」と呼んでよい。天の偉大なことは、光あるからである。地の偉大なことは、広さがあるからである。そして君たちが目指す君子が偉大なことは、完全となることに憧れるからである。


(注1)原文「倫類」。礼法にないものを倫(となり)の類から適用する。「法の解釈」と訳した。
(注2)桀は夏(か)王朝を滅ぼした悪王。紂は殷(いん)王朝を滅ぼした悪王。盜跖は伝説の犯罪者で、賢人柳下恵(りゅうかけい)の弟だったとか、『荘子』で孔子と対決してこれを論破したとか、奇怪なエピソードが多い。
《原文・読み下し》
問うこと楛(こ)なる者には、告ぐること勿(な)かれ、告ぐること楛なる者には、問うこと勿かれ。說くこと楛なる者には、聽く勿かれ、爭氣有る者は、與(とも)に辯(べん)ずること勿かれ。故に必ず其の道に由りて至り、然る後之に接し、其の道に非ざれば則ち之を避く。故に禮恭(うやうやし)くして、而(しこう)して後與に道の方を言う可く、辭(じ)順にして、而して後與に道の理を言う可く、色從いて、而して後與に道の致を言う可し。故に未だ與に言う可らずして言う、之を傲と謂う。與に言う可くして言わず、之を隱と謂う。顔色(がんしょく)を觀ずして言う、之を瞽(こ)と謂う。故に君子は傲ならず隱ならず瞽ならず、其の身に謹んで順(したが)う(注3)。詩に曰く、匪交(あなどら)ず、匪紓(おこたら)ざるは(注4)、天子の予(あた)うる所、とは、此を之れ謂うなり。
百發して一失するは、善射と謂うに足らず。千里蹞步(きほ)して至らざるは、善御と謂うに足らず。倫類通ぜず、仁義一ならざるは、善學と謂うに足らず。學なる者は、固(もと)より學びて之を一にするなり。一出し一入するは、塗巷(とこう)の人なり。其の善なる者少なく、不善なる者多きは、桀(けつ)・紂(ちゅう)・盜跖(とうせき)なり。之を全くし之を盡(つ)くし、然る後に學者なり。
君子は、夫(か)の不全不粹の以て美と爲すに足らざるを知る。故に誦數(しょうすう)以て之を貫き、思索以て之を通じ、其の人と爲り以て之に處(お)り、其の害なる者を除きて以て之を持養し、目をして是に非ざれば見ることを欲すること無からしめ、耳をして是に非ざれば聞くことを欲すること無からしめ、口をして是に非ざれば言うことを欲すること無からしめ、心をして是に非ざれば慮(おもんぱか)ることを欲することを無からしむ。其の是を致好(ちこう)するに至るに及んで、目は之を五色よりも好み、耳は之を五聲よりも好み、口は之を五味よりも好み、心は之を天下を有(たも)つよりも利とす。是の故に權利も傾くること能わず、羣衆も移すこと能わず、天下も蕩(うご)かすこと能わざるなり。生も是に由り、死も是に是由る、夫れ是を之れ德操と謂う。德操にして然る後に能く定まり、能く定りて然る後に能く應ず。能く定まり能く應ず、夫れ是を之れ成人と謂う。天は其の明を見(あら)わし、地は其の光(注5)を見わし、君子は其の全を貴ぶなり。


(注3)宋本は「謹愼」、元本は「謹順」である。
(注4)荀子テキストは「匪交匪舒(紓)」であるが、『詩経』テキストは「彼交匪舒(紓)」である。『詩経』の原意は宮廷での他人との交際の礼儀を舒(ゆる)めない、というもの。しかし集解の王引之は「匪交匪舒(紓)」はさきの「不傲不隱不瞽」と対応しているのであって、「匪交匪舒(紓)」が正しいと言う。この場合「交」字は「姣(こう。みだらである)」が本字であるべきである。
(注5)集解の劉台拱は、「光」字は「廣(広)」字に通じると言う。

こうして「勧学篇」の大論文は終わる。論旨は明快で筋道が立ち、かつ冷静な説得の調子を堅持しており、古文の名文である。孟子の文章は迫力に満ちて、読む者に催眠術をかける筆力がある。しかし論理は弱く、説明は不足がちである。荀子の冷静で緻密な学者であった人となりが、この文章からうかがうことができるというものだ。荀子は、李斯や韓非子を育て、彼らは戦国時代を終わらせた統一秦帝国を理論的あるいは実践的に作った。秦を受けついた後に漢が継続的な統一帝国を運営したが、漢代の儒者たちは多くが荀子の弟子筋であった。漢代にまとめられた儒教の聖典である『詩経』『書経』『礼経』の研究者たちは、荀子の後を継いでいる。荀子は、多くの優秀な弟子を育てた名教育者であった。いっぽう孟子は自分がカリスマであったが、弟子は萬章・公孫丑・楽正克・公都子などと大勢いるが、『孟子』の編集に携わった以外には歴史で活躍することはなかった。荀子は冷静な理性の人であり、孟子は議論の人であった。両者の対照的な生き様は、その遺した文章にも歴然と現れていると、私は読んで印象する。

「道理が分からない愚者とは議論するな」ということは、孟子も同じく説いているところである。相手がこちらを屈服させようとしか望んでいないならば、対話による弁証法的な議論の発展は期待できない。論題が宗教やナショナリズムに関わると、往々にしてこのような議論不能の状態に陥る。哀しいことである。理性的な対話とは、相手の立場を理解して、譲るところは譲り、だが言うべきところは言うところに成立するはずだ。だがこのような対話は、文化を共有する者の間にしか成立しないのかもしれない。孟子ですら、同じ中華世界で対決した墨家ほかの諸子百家の論客との論争で、相互に建設的な発展を分かち合った対話ができていたようには見えない。孟子や荀子は、自らが中華文明の本流であると固く信じていたので、是はこちらにあり非は相手にあるという姿勢を崩さなかった。荀子は諸子百家の中で最も理性的な論客の一人であっただろうが、それでも中華世界の住民全てを説得することはできなかった。中華を最終的に統一したのは、理性による平和的な国家建設ではなかった。始皇帝の武力による、暴力的統一であった。その始皇帝の統一事業が征服された側の人々の憎悪を買い、始皇帝の死後すぐに爆発して大反乱となった。とりわけ秦とは習俗が最も異なっていた楚国の遺民の復讐心はすさまじく、楚から現れた項羽は秦軍を皆殺しにして都を破壊し、始皇帝の栄光の全てを絶滅させた。その後、統一された中華を受け継いだのは、同じ楚から現れた劉邦であった。中華世界は始皇帝が暴力によって統一し、滅ぼされた楚の民である劉邦が国を乗っ取って、ついに征服者と被征服者が混合して安定した統一漢帝国となったといえる。その対立が終わった後の漢帝国で、儒家の教えは広められて、中華文明にとって穏当な思想としてすんなり定着することとなった。すでに対立するべき相違がなくなった後の世界だから、理性ある者が勝つ素地もできたというべきであろう。

締めくくりの文章において、荀子の君子への戒めの言葉は、ずいぶんと孟子の言葉に近づいている。志を立てて修練を積んだ君子は、生理的な欲望を越えなければならず、むしろ越える境地に至るであろうと。既に述べたように、この勧学篇においては荀子は孟子と同じ立場に立っている。もし最初から性悪説であれば、そもそも人間が欲望を越えることはできないはずだ。もし目先の欲望を我慢できるのであれば、それは自己を修練することによって将来もっと大きな利益を得る見通しが得られるからのはずだ。しかし荀子が期待する君子像は、利得を越えた存在である。後の性悪篇などで、荀子は性悪説と君子の行動との整合性を取ろうと説明を試みる。だが、私ははっきり言って説明に成功しているとは評価できない。対象としてる視点が、勧学篇と他の諸篇とでは違うからだ。その両者を整合的に説明しようと荀子は試みるのであるが、当然というか綻びが出てしまった。その矛盾が、後世の荀子批判者たちにとって攻撃の的とされてしまった。残念なことである。

人間の本性は善を目指すのか、欲得を目指すのか、という議論は、西洋でももちろん議論されてきた。特異な思想を持つキリスト教思想は、今は置いておきたい。プラトンは、人間の魂には欲望的部分もあれば気概的部分もあり、欲望的部分が勝った人間は庶民として治められ、気概的部分が勝った人間は武士として名誉のために国を守って死ねる、と考えた。プラトンの議論は、性善説と性悪説とはそれぞれの人間にとって程度の差である、と考えて、孟子と荀子の間を取っているのである。

カントは『世界公民的見地における一般史の構想』において、人間の非社交性に注目する。人間には、一切を他人と協調せず我が物にしようとする、非社交性がある。この非社交性は我欲の源泉であると同時に、人間にとって個別的創造の源泉でもある。公民的社会は、非社交性を持つ人間たちが血みどろの競争を続けた結果、互いを破壊しないようなルールをいつか制定するところに作られる秩序であるはずだ、とカントは言う。

人間が欲望によって動かされることを認める点では、カントは荀子と一見似ている。しかしカントは公民的秩序を上からの権力による創設とは見ていない。そう見るのは、彼の後継者であるヘーゲルである。ここで詳しくカントのビジョンを述べることはできないが(柄谷行人『世界史の構造』第4部第2章、岩波書店を参照)、カントの平和構想と荀子の平和構想とは、平和をもたらす担い手が違っている。荀子はカントよりもホッブス、ヘーゲルの側に立っている。上からの秩序である。そこは、後の富国篇において述べられる彼の社会契約論を検討したい。

さて、これで第一篇である勧学篇を読み終えた。これから先も荀子はこの調子で慎重に議論を積み重ねて、自らのヴィジョンを展開していく。しかし議論が長大でわずかづつしか進まないので、私としては先にとりわけ『荀子』の中で注目したい篇を読んで、その後で全篇を通して読むことにしたい。最初に、「富国篇」に移る。これは荀子の社会思想の根幹を示しているからである。

【次は、「富国篇第十」を読みます。】

論語についてのノート(1)

以下のレジメは、サイト管理者が論語読書会(京都)で2011年8月に発表したものです。

西京元西陣小学校で開催されている論語読書会に出席している私が、論語を読むに当たって、武内義雄先生の論考と『孟子』『史記』『漢書』、及び当時の中国史についての私の知っていることを土台にして、発想の赴いたところをノートにしたものです。
論語読書会の上田塾長から、論語学而篇の配列には一定の意味が存在しているという示唆を受けて、私なりに考えてみたところです。

以下は、論語勉強会に出席する私の、全くの独断によるノートにすぎません。
学術的に合っているかといえば、合っていないと思います。
だが、論語は、二千年の古典です。
すでにありとあらゆる読み方が無数の人の手によって試みられて来たのであり、これからも試みられるだろうし、そしてそのような試みによって論語の評価が大きく変わるほど新奇で儚い書物ではない。むしろ、今は新たに読む試みを付け加えることが、古典が錆付いて生命を失っていくことを防ぐであろうことを、私は強く信じています。古典にとってもっとも辛いことは、後の時代の読者から批判されることでは断じてなく、読者を得られず、無視されることではないでしょうか。

二〇一一年八月


一、三つの論語とその折衷の歴史について

『論語』という書物は、いつ編集されたのか。

別稿でも書いたが、時代を遡ってみれば、『論語』は儒家の最重要のテキストではなかった。
『孟子』にも『荀子』にも、『論語』というテキストの名前は出て来ない。ましてや孔子と門人の言行録である『論語』が、孔子一門の最大の業績であるなどとは、どこにも書かれていない。もちろん、上記の諸文献には、孔子と弟子たちの言葉がふんだんに引用されている。その中には『論語』と一致するものもあれば、『礼記』に準ずるものもあり、さらには他の文献に見られない独自の言葉もかなり引用されている。

しかし、『孟子』や『荀子』には、「書」(書経)「詩」(詩経)「易」(易経)「春秋」といったいわゆる十三経の中に含まれるテキストの書名については明言されているものの、孔子の言葉は孔子の言葉として、書名もなしに引用されているばかりである。彼らは現代の『論語』の元となったであろう孔子の言行録を手元に持っていたのはおそらく間違いないだろうが、それが『論語』であるとは言及しない。ただ、儒家の教祖である孔子とその直弟子たちの言行録として、スクールの内部では尊重されていたことであろう。

歴史書の中で、『論語』がはっきりと現れるのは、漢代である。

則(すなわ)ち弟子の籍を論言するに、孔氏より出ずる古文が近し。余は以て弟子の名姓・文字は悉(ことごと)く論語の弟子問を取り并せ次ぎて篇を為し、疑わしきは闕(か)く。
(司馬遷『史記』仲尼弟子列伝)

(現代語訳)そういうわけで、孔子の弟子の名簿を論ずるには、孔氏の邸宅から出土した古文が真相に近い。私はそういうわけで、弟子の姓名と言葉をすべて『論語』の弟子の問答から取ってつなぎ合わせてこの篇を作ったが、疑わしいものは削った。


このように、司馬遷は『史記』で言っている。
司馬遷(? – BC85)は前漢武帝(在位BC141-87)時代の人で、この時代にようやく『論語』という書物がはっきり認識されていたことがわかる。司馬遷の上の文は、孔子の弟子たちのエピソードを並べた列伝であるが、文中に出てくる「孔氏の邸宅から出土した古文」については、以下で述べるものである。

『史記』は前漢時代に書かれた歴史書であるが、『史記』を継いで後漢時代初期に班固が著したのが、『漢書』である。

その『漢書』の一篇である「芸文志」の報告によれば、前漢時代には、「魯論語」「斉論語」「古論語」の三通りの『論語』テキストが存在した。このうち「古論語」は、前漢景帝(在位BC157-141)の末年に孔子宅の旧壁から発掘されたという。これは、古代文字によって書かれたテキストすなわち古文であった。いっぽうあと二つの「魯論語」と「斉論語」については当時の現代文字で書かれたテキストすなわち今文で伝わっていたが、それらがいつから存在したのか、残された記録からは判然としない。

後漢王朝は紀元220年をもって終わり、三国演義で著名な曹操の嫡子である曹丕(在位AD220-226)が、新たに魏王朝を創始する。
魏の何晏(? – AD249)はいろいろと面白いエピソードの多い人物であったが、学問的な功績も高い学者であった。彼は、漢代の訓詁学の成果を集大成して、『論語集解』を著した。その『論語集解』の叙に、以下の内容がある。

劉向言く、魯論語は二十篇、、、斉論語は二十二篇、其の二十篇中の章句、頗る魯論より多し、、、魯の共王の時、嘗て孔子の宅を以て宮と為さむと欲し壊てるとき、古文論語を得たり、斉論には問王・知道ありて魯論より多きこと二篇、古論にも亦此二篇なく、堯曰下の章子張問を分って以て一篇となし両の子張ありて凡て二十一篇、篇の次斉魯論と同じからず。

(現代語訳)前漢の劉向が言うには、魯論語は二十篇であった。斉論語は二十二篇であり、そのうちの(魯論語と重なる)二十篇は、すこぶる魯論語より章句が多かった。魯の共王の時世に、宮殿を造営するために孔子の邸宅を壊したとき、古文で書かれた論語(古論語)を得た。斉論語には「問王」「知道」の二篇が、魯論語より余計にあった。この二篇は、古論語にもなかった。古論語は、堯曰篇の第二章「子張問、、、」が抜き出されて独立した一篇となっており、全部で二十一篇であった。しかし、古論語の各篇の順次は、斉論語とも魯論語とも異なっていた。


このように、三つの論語の関係が、劉向の言葉として引用されている。さらに、

安昌候張禹本魯論を受け兼て斉説を論じ、善きものは之に従ひ、号けて張候論といひ、世の貴ぶところとなる。

(現代語訳)前漢の安昌候張禹(? – BC5)は、もともと魯論語を伝授されて、さらに斉論語も学び、それぞれのよい部分に従って校訂し、この論語は「張候論」と名づけられて、世の尊重するところとなった。


とある。この「張候論」は、一部斉論語を参照したものの、篇章は魯論語に依った。こうして前漢末以降、張禹が校訂した一部斉論語を折衷した魯論語が、『論語』の主流となった時期があった。さらに、

漢の末、大司農鄭玄魯論の篇章につき、之を斉古に考えて、これが注を為る。

(現代語訳)後漢末、大司農鄭玄(じょうげん、AD127 – 200)が、魯論語の篇章に対して、これを斉論語と古論語と比較して、注を打った。


とある。上の何晏の言葉から見ると鄭玄は魯論語を基礎にして他二種の論語を折衷したように見える。しかしながら鄭玄はそもそも後漢に盛んになった古文学の大家であり、前漢代に孔子旧宅から出土したという古文のテキストを重視する立場の学者であった。果たして、ポール・ぺリオ(Paul Pelliot, 1878-1945)によって失われていた鄭玄注論語が敦煌から発掘されたとき(1908)、その注は古論語に従って論語を校訂する立場であった。

こうして、前漢から後漢にかけて、まず張禹によって魯・斉の両論語が折衷され、さらに鄭玄によって古論語が折衷されたという、『論語』校訂の歴史が明らかとなった。現在の『論語』は、漢代に魯・斉・古三種の論語が折衷された、その後の姿である。

しかし元となったそれぞれの三つの論語については、現在ではその内容を漢代以降の注釈者の文章から、断片的に読み取ることができるにとどまる。そこで、武内義雄先生は、魯論語と斉論語の内容について、推定を試みられた。

『漢書』芸文志ほかの各文献を総合すると、魯論語・斉論語の学者は、ともに前漢武帝~昭帝・宣帝の時代を、遡ることができない。判明している中で最も古い学者は魯論語の魯扶卿と斉論語の王卿であり、いずれも武帝期の学者である。このうち魯扶卿は、王充『論衡』によると、孔安国から論語を伝授された。また宣帝時代ごろに斉論語を論じた学者である庸生は、これもまた孔安国の孫弟子である。

資料は乏しいものの、以上の点から、武内先生は推理される。

  1. 孔安国とは、そもそも魯の共王の時代(前漢景帝の末年)に、孔子の旧宅の壁から古文のテキストを発掘したとき、それの解読に当たった張本人である。彼は、この古文テキストを基礎にして古文学を創始した。その中には、もちろん古論語も入っている。魯論語の魯扶卿、斉論語の庸生は、その孔安国の弟子または孫弟子である。
  2. 魯論語・斉論語ともに、学者が発生した時期は、景帝の次の皇帝である武帝時代を遡ることができない。
  3. これより、古論語の前には魯論語も斉論語も存在せず、両者は古論語を今文に転写したときの異同・あるいは師から弟子に伝授される間に関係ない文章が混入されたことによって、武帝期以降に魯と斉で異なるテキストとして発展したにすぎないのではないか。

かくして、武内先生は、漢代にあった魯・斉・古三つの論語の起源は、全て同じ古論語であり、それを今文に転写したときの異同・あるいは師から弟子に伝授される間に関係ない文章が混入されたことによって、三つのテキストに分かれたにすぎないのではないか、と考証される。

だがもしそうだとすれば、景帝末期の古論語発掘以前に、『論語』はなかったのであろうかと言えば、そんなはずはあるまい。『孟子』『荀子』などの先秦時代のテキストには、現行の『論語』と一致する孔子らの言葉が、収録されているのである。ならば、古論語以前の『論語』がどのような内容であったかの考証が、さらに必要となってくる。

[(2)へつづく]

論語についてのノート(2)

二、武内義雄先生による論語各篇の分類

武内義雄先生は、『論語之研究』(岩波書店、昭和14年)において、王充『論衡』正説篇の記述を整理訂正した上で、(一)漢景帝末の時代に孔子宅の壁中から古論語二十一篇が現れ、昭帝宣帝の代に至ってようやく広く読まれるようになったこと(二)魯扶卿が伝えた魯論語は孔安国から受けた本で、古論語を隷書体に改写した本であること(三)古論語発掘以前に「斉魯二篇本」と「河間七篇本」とが存在し(後世散逸し)たこと、が記事中に書かれていることを考証されている。

このうち(一)と(二)は、前の章で考証したとおりである。
そこで(三)について、『論衡』に表れているが正体が分からない「斉魯二篇本」と「河間七篇本」について、その正体を考証しなければならない。これらは当然、景帝末期以前に普及していた孔子語録である。
武内先生は漢初の高堂生と伏生が持っていた『今文尚書』の内容が後に孔子旧宅から出土した『古文尚書』の中に含まれていた、という古記録を源に類推して、古論語以前の「斉魯二篇本」と「河間七篇本」もまた古論語とは独立したテキストというよりは古論語と重なっているテキストだったに違いない、と類推された。その類推が正しければ、「斉魯二篇本」と「河間七篇本」は、多少のテキストの異同はあったとしても、古論語つまり現行の『論語』のもとになったテキストと、内容を共有していたと考えることができるだろう。

さきの何晏の『論語集解』には、さらに梁の皇侃が『論語義疏』を注の注として追加している。
その『義疏』によると、古論語は現在の堯曰篇のうちから「子張問」の章が独立して一章として追加されていて、さらに各篇の配列が「学而・郷党・雍也・為政・八佾・里仁・公冶長・述而・泰伯・子罕、、、」という順序であったと報告されている。
武内先生は、内容的に連続しているべき雍也篇と公冶長篇が分かれていることは、皇侃の報告の中でにわかに信じがたいとしながらも、学而篇と郷党篇が冒頭に連続している点には「興味ある問題」(pp89)だと注意される。今もし「学而・郷党」を第一種、「為政から子罕」を第二種、そして伊藤仁斎が下論として上論十篇と内容において区別した「先進から堯曰」までを第三種として仮に区別すれば、「同種の中には一度も重複した章が出なくなる」(pp90)。
さらに、もし「学而・郷党」をまとまった種とみなすならば、武内先生の報告によれば、両者には往々斉の方言が見えるという。武内先生は、これはこの二篇が魯において完全した論語でなく、斉を通ったものを暗示するものである、と示唆される。そのうえで、この「学而・郷党」両篇はやはりまとまりのある章であり、『論衡』に言う「斉魯二篇本」に当たる内容ではなかろうか、と類推されるところである。

また先生は、「為政から子罕」までのいわゆる上論各篇について、「子罕」および「泰伯」の末尾二章をその内容から後世の追加であろうと類推し、残る七篇についてこれが『論衡』の「河間七篇本」に該当するのではないか、と推理を進められる。その内容を見ると、まず曾子の言からの引用が多く、しかも礼記の曾子篇・子思篇(『大学』・『中庸』を含む)及び『孟子』と類似する章節が多く、これは曾子後学の伝えた論語であることに疑いない、と断じられる。曾子は孔門のうち魯に残ったスクールの源流であり、後学に子思・孟子を輩出したところである。

さらに武内先生は、残るいわゆる下論十篇についても、論考される。
下論とは伊藤仁斎のいう先進篇から堯曰篇のことであるが、このうち季氏・陽貨・微子および堯曰篇の子張問章については、その内容が雑駁であって、後世の附加であろうと類推される。遺された先進・顔淵・子路・憲問・衛霊公・子張・堯曰(除子張問章)について先生は一定のまとまりを認め、「斉魯二篇本」「河間七篇本」とは違う系統であるが、古い時代のテキストであろう、と類推される。
武内先生は、これら先進以下の七篇について、「河間七篇本」に該当すべき章が礼を重視する内容であるのに対比して、(一)より政策・経済を重視している傾向があること、さらに(二)子貢をとりわけ顕彰して、逆に曾子を貶めている記事が見られること、にその特徴を見出される。

  • 先進篇において、「参は魯」(曾子は馬鹿者である)とあり、その後の章で子貢を絶賛すること。
  • 同じく先進篇において、顔淵以下のいわゆる孔門十哲を列挙しながら、そこに子貢を入れて曾子を入れないこと。
  • 孔子と問答して孔子が「一を以て之を貫く」ことを聴いた高弟の役割が、上論の里仁篇では曾子であり、下論の衛霊公篇では子貢であること。
  • 春秋時代の斉の宰相であった管仲への評価において、上論の八佾篇では孔子が礼を知らなかった点で「器が小さい」と低く評価しているが、下論の憲問篇では三章に渡って管仲が輔佐した斉桓公と共に高く評価していること。

以上のような特徴が、「河間七篇本」に該当すべき章と先進以下七篇とを対比した時に見出される。
これらの点から武内先生は、下論のうち七篇は、子貢を源流とした儒家の斉スクールで伝承されたテキストが基礎となっているのであろう、と類推されている。漢書儒林伝に「子貢は斉に終る」とあり、斉スクールは斉で没した子貢に、その源流を持つ。

ちなみに先進篇の章で列挙される「顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓、宰我、子貢、冉有、季路、子游、子夏」のいわゆる孔門十哲であるが、このうち仲弓・冉有・季路を除いた七名は、『孟子』公孫丑上篇第二章において孟子の弟子で斉人である公孫丑が「聖人の一体あり」などと評して列挙する弟子たちと、完全に重なっている。
(以下は、筆者ウェブサイトに置いた『孟子』の拙訳に、手を加えたものです。)

公孫丑「孔子の弟子の宰我・子貢は、弁論に優れていました。また冉牛・閔子・顏淵は徳行に優れていました。そして孔子は弁論・徳行いずれも優れていましたが、自らは『余は討論は得意でない』と言いました。

公孫丑「では、わたくし昔にこのようなことを密かに聞きました。子夏・子游・子張は、みなそれぞれ聖人の一徳を持っていた。冉牛・閔子・顏淵は、聖人の資質はあったが人間が小さかったと。あえて質問します。先生はこれらの人たちと比べて、どのへんにおられるのでしょうか?」

最も年少の弟子の一人であった子張を除いて、公孫丑がここで列挙した人物たちは、先進篇で列挙された十人の弟子と完全に重なっているのである。
公孫丑は斉人であり、儒家の斉スクールに属して学んだに違いない。いっぽう孟子は魯の属邦である鄒(すう)の人であり、儒家の魯スクールで学んだルーツを持つ。その孟子が公孫丑章句の同じ章で、上の孔門十哲を顕彰しようとする公孫丑を叱責して、逆に曾子を顕彰している。

孔子の弟子で言うならば、孟施舎は曾子に似ているだろうか。そして北宮黝は子夏に似ているだろうか。この二人の勇敢は、どちらが雌雄ともつけがたい。だが孟施舎の特徴として、よく要点を守ったことを挙げるべきだ。


公孫丑章句上篇二章での孟子と公孫丑との相違は、斉スクールと魯スクールの意見の相違が見えると解釈することもできるだろう。
また、一つ前の公孫丑章句上篇第一章で、弟子の公孫丑が管仲を称賛した言葉に対して、孟子は曾子の子孫の言葉を引用して管仲に最低の評価を与えて反論した。

公孫丑「先生がこの斉で政治を取られれば、あの管仲・晏嬰にも匹敵する功績をなされるということですか?」
孟子「君はマッタク斉の人間だのう。管仲・晏嬰しか知らないのか。昔、ある人が曾西(そうせい。曾子の子あるいは孫)に質問した際のやりとりだ。
ある人「あなたと子路(しろ。孔子の早くからの弟子で『論語』にも頻出)とでは、どちらが勝っているでしょうかね?」
曾西は、恐縮して言った。「わたしなどを先進のお方と比べようとは、なんと畏れ多い、、、」
ある人「では、あなたと管仲とでは、どちらが勝っているでしょうかね?」
曾西は、顔色を変えムカっとして言った、「おまえ、なんで余を管仲ごときと比べるのだ!管仲などはな、君主からあれほどまで深く信任を受けて、国政をあれほどまで長い間専断していながら、やった業績は下劣極まるものだ。おまえはなんで余をあんな奴と比べるかっ!」
わかったか、管仲については曾西ですら言いたくもなかったのだ。なのに君は余に何か言ってほしいのか?」
公孫丑「しかし、管仲は主君の桓公を覇者となし、晏嬰は主君の景公を助けて名声を天下に鳴らさせました。そんな管仲・晏嬰でも一顧だにする価値なしということなのですか?、、、」


これもまた、両者の意見の相違が垣間見られて興味深い。公孫丑は管仲の政治手腕を現実的に評価し、孟子は管仲が王道を主君に取らせなかったことを理想論から批判するのである。

最後に、季氏・陽貨・微子・および堯曰篇の子張問章について、武内先生はその内容が雑駁であって、後世の附加であろうと類推される。武内先生は微子篇について老荘思想の影響が明らかで、かつ雑多な文の寄せ集めであると評される。
しかしながら、私が微子篇を通読するに、少なくとも各章の配列については意図的な順序が見て取れる、と解釈できそうな予感がする。それで、私個人としてはこの微子篇は斉や魯とは別個の儒家の一スクールの伝承でなかったろうか、と想像してみたい。しかしこの点は、今後の課題としたい。

[(3)へつづく]

論語についてのノート(3)

三、論語各篇の分類と学而篇

以上、武内先生の論語各篇の分類を概観すると、以下のとおりとなる。

斉魯二篇本に該当する篇 学而・郷党
河間七篇本に該当する篇 為政・八佾・里仁・公冶長・雍也・述而・泰伯
河間七篇本に後人が追加せる部分 泰伯末尾二章・子罕
斉論語七篇 先進・顔淵・子路・憲問・衛霊公・子張・堯曰
後世の附加 季氏・陽貨・微子・堯曰子張問章

そして、それらを成立時期順に並べれば、先生は以下のとおり考証されている。

1河間七篇本 魯人曾子を中心とした論語で、曾子・孟子の学派の伝えた孔子語録、恐らく論語の最も古い形であろう。
2斉論語七篇 子貢を中心とした論語で、恐らく斉人の伝えた孔子語録であろう。
3斉魯二篇本 その内容及び用語から推して斉魯の儒学即ち子貢派と曾子派とを折衷した学派の集成に出たものらしく、恐らくは孟子が斉に遊んだ後に作られたものであろう。
4季氏・陽貨・微子・堯曰子張問章 後人が種々な材料より孔子の語を拾いあつめて孔子語録の補遺にあてたもので、その内容は雑駁であり、その年代も部分によって異なるが、尤も新しい部分は戦国末にまで下るであろう。

さらに、武内先生の類推に従うならば、論語は歴史的に以下の順序のように増補されて来たと、整理できる。

漢代景帝末~武帝以前 斉魯二篇本(学而・郷党)
河間七篇本(為政・八佾・里仁・公冶長・雍也・述而・泰伯)
漢代儒家による伝承
漢代景帝末~武帝以降 斉論語七篇(先進・顔淵・子路・憲問・衛霊公・子張・堯曰)
季氏・陽貨・微子・堯曰子張問章
泰伯末尾二章・子罕
景帝末の古論語発掘により増補

くだんの学而篇について、武内先生はそれが魯において成立したものというよりは斉を通じて成立したものであり、その成立年度はおそらく孟子が斉に現れて以降のことであろう、と類推されている。なぜならば、孟子は曾子を源流とする魯スクールの出身でありながら斉都に入って斉王の庇護を受け、彼の時代に魯と斉の両スクールの合流が成り、両者の折衷が行われたに違いない、と先生は類推されるのである。
それを暗示する点として、学而篇には、魯スクールの源流である曾子と斉スクールの源流である子貢の両名の言葉が、同時に収録されている。武内先生は、学而篇の孔子の各言は、論語の他章にも散見される古い時代の伝承からやや時代が下った時期に、再度練り直されたものだろう、と推測される。つまり、学而篇は論語二十章の中でもわりかし新しい編集になる篇であり、しかも魯スクールと斉スクールとの和解総合がなされた結果としての記念的編集物であるということになるだろう。
だが、和解総合とは言っても、『孟子』内で孟子が弟子の公孫丑をやり込めたように、きっと孟子の魯スクールが斉スクールに対して思想的に勝利したことであろう、と私は推測する。武内先生の類推が正しいとすると、孟子の時代から下って漢代初期の時点で儒家に伝承されていたテキストは「河間七篇本」と「斉魯二篇本」の両者である。これらは、魯スクールの伝承と斉魯の和解総合後の文書に限られている。残る篇、すなわち下論に当たる「斉論語七篇」などは、漢景帝末の時代になって発見された古論語のテキスト出現以降に、発掘追加された部分なのである。古論語が孔子の旧宅から出土した、という主張がもし正しいとするならば、それは戦国時代に魯スクールの内部で保管されていた、二次的な参考資料であったのだろうか。
これを考えると、斉スクールのテキストは、漢代初期においては少なくとも儒家の正当的な伝承から抜け落ちていたらしいことが、推測されるのである。

また、学而篇には、子夏の言葉もまた一章を割かれている。
卜商子夏(ぼくしょうしか)は、さきの漢書儒林伝の報告によれば西河すなわち魏に居住して、「田子方・段干木・呉起・禽滑氂の属、皆業を子夏の倫に受けて」彼ら子夏の弟子は「王者の師」となった。ここでいう王者とは魏の文侯のことであり、史記魏世家ではこの君主は「子夏に経学六芸を学」んだとある。呉起は著名な兵法家・経世家であり、史記孫子呉起列伝には初め魯で曾子に学んだ後で魏の文侯のもとに移ったとある。また段干木・田子方も魏の文侯により重んじられた者であり、段干木が文侯の面会を拒んで逃げたことが孟子滕文公章句下第七章において孟子により言及されている。論語だけを読むと看過されがちであるが、子夏の魏における後世への影響は、殊の外に大きいのである。

さらに学而篇に独特の特徴として、有若の言葉が三章も収録されていることがある。
しかも、有若は「有子」と尊称され、問答でなく単独の発言が三章も捧げられている。
だが学而篇は論語全編の開巻の篇でありながら、この有若への優遇は、読む者に奇怪な感すら与えるであろう。有若は、孔子による弟子たちの評価を列挙した公冶長・雍也両篇において登場もせず、またもっぱら弟子たちの言行を収めた子張篇においても、取り上げられていない。論語他篇を通読するとき、有若はまるで孔門の伝承の中で、意図的に彼への言及は避けられているかのように、沈黙されている。(顔淵篇で、魯哀公との問答が一章収められているが。)
この事実は、学而篇での優遇と、なおさら対比が鋭い。

[(4)へつづく]

論語についてのノート(4)

四、孟子の遊説の意義について

孟子一生の業績については、司馬遷の孟子荀卿列伝や趙岐の孟子題字などもあるが、なによりも『孟子』本文に数多く書かれた記事が、最終的に最も参考となるはずだ。

『孟子』の内容によると、孟子は少なくとも以下の諸国に遊説を行った業績がある。(カッコ内は、遊説した諸侯の名)

  1. 魏(恵王→襄王)
  2. 斉(宣王)
  3. 宋(文中からは不明であるが、おそらく最後の王である偃王)
  4. 滕(文公)
  5. 魯(平公)

上は、小林勝人先生の整理によるの遊説の順序のとおりに並べたところである。

これまで武内先生の考証に従ったところ、孔子死後には曾子を源流とする魯スクールがあり、他方斉には子貢を源流とする斉スクールがあり、孟子の斉遊説の結果として両者の和解総合が為され、その記念的成果が孟子以降に論語学而篇となったというのである。

その孟子は、斉に赴く前に、魏で遊説を試みている。
魏は、戦国時代初期に出た文候が西門豹・呉起・李悝などを活用して富み栄え、初期戦国で最強を自称した国であった。その二代後に立った恵王はいちはやく自国を正当化する歴史書を編纂し、独自の暦を制定し、王を名乗った。魏が自家編纂した歴史書は後世の晋代に発見されて、現在『竹書紀年』と名づけられている。(以上の叙述は、平勢隆郎氏の戦国時代史に負う所が大きい。尾形勇・平勢隆郎『世界の歴史 中華文明の誕生』中央公論社、第1章)
孟子は、当時の強国に期待をかけて、遊説に赴いたのであろうか。
『孟子』の叙述を読む限り、孟子が魏に遊説した理由は、それに尽きる。孟子は、晩年の魏(『孟子』の中では国名を「梁」と表記されている)の恵王に会見した。恵王は、彼の推進した過剰な拡張政策が災いして、孟子との会見以前に隣の諸国との戦争に連敗し、失意となっていた。孟子は、その恵王に対して、朗々と儒家の王道政治を展開するのである。両者の会見の内容は、梁恵王章句上篇に詳しい。

だが、魏という国は、儒家にとって全く疎遠な国だったのだろうか。
さきの漢書儒林伝や魏世家の記事には、孔子の弟子の卜商子夏が魏に赴き、魏文候の師となったことが書かれていた。魏の文候は一方で礼節を重要視して子夏やその追随者たちを師として厚遇し、他方で法家の源流の一とされる李悝を登用して富国強兵に務めた。経済政策と道徳政策を硬軟織り交ぜながら推進していった後世の戦国君主たちの先駆けたる姿を、魏の文候に見ることができる。子夏の一派は、魏を強大となした文候の下で、道徳政策の柱として重きを成した。

『史記』孫武呉起列伝の記事によれば、呉起は衛の出身で魯に赴いて孔子の弟子である曾参に学んだが、破門された。その後魏に行って将軍となり、大いに盛名を挙げたという。さきの『漢書』儒林伝では、子夏が呉起を教えたと報告されている。ならば、稀代の英才である呉起は、魯から魏へとはるばる儒家スクールを尋ねて行ったことになるだろう。外交官でもなく、人質でもなく、戦争捕虜でもない一私人が、はるかに遠国である斉魯文化圏から三晋(春秋時代の晋国を分け取った魏・韓・趙三国のこと)文化圏にまで学を求めて渡り歩くことなど、中国でそれまでの時代にあったであろうか?-私は、各地に散じて行った孔子学派の弟子たちは、華北平原が広がる範囲までは一つの倫理的原理が通用するはずであり、そして一つの「天下」として平定されるべきである、という戦国時代の知識人の通念を作り出す基盤を作った、いわば思想的インフラの創設世代ではなかったか、と思う。

子夏は、貧しくて衣服はぼろぼろであった。ある人が、「あなたはどうして仕官しないのですか?」と聞いた。子夏は答えた、「諸侯であろうが、私に驕り高ぶる者には、私は家臣とならない。大夫であろうが、私に驕り高ぶる者には、私は二度と会わない。魯の柳下恵は、城の門限に遅れるようなだらしない人間のような衣装をしていたが、疑われなかった。それは、彼の風聞が一日で成ったものではなかったからだ。ノミの甲羅のような小さな利益を争うと、いずれ自分の掌まで失ってしまう災厄となるのだ。」
(『荀子』大略篇)


『荀子』に引用されている、子夏のエピソードである。後世の子思や孟子の原型とも言える、自分の価値についての強烈な自意識と自負心である。彼は、中華史上で始めて現れた、知識で身を立てやがて世界を革命しようという孔子学校の一員として、当時の国境を越えた天下への気概に燃えていたに違いない。果たして彼は魯を飛び出して遠い魏に赴き、大国の君主の師となるまでに、影響力を持った。今の日本人がアメリカに飛び出して成功するよりも、大きな困難を乗り越えた生涯であったろう。

孟子の時代、魏における儒家の勢力が子夏の後にどれぐらい残存していたかは、分からない。おそらく魯や斉にくらべると他学派に圧倒されていたであろうし、たとえ残っていたとしても、その思想内容は時と地域を隔てて魯や斉のものと大きく変化していたことであろう。『孟子』で孟子が魏の臣と対話した記事は、周霄と白圭のそれである。(それぞれ滕文公章句下篇第三章、告子章句下篇第十章)しかし両名とも、その言葉を見るに、儒家の徒であるようには見えない。

しかし、孟子は魏に赴いた。
魏は、少なくとも子夏が植え付けた孔門の末裔がまだ幾分かは残っていたからこそ、孟子は赴く地盤があったのではないだろうか?あるいはたとえ門人としてはすでに絶えていたとしても、偉大なる文候の記憶はいまだに孟子の時代に強く残っていたはずであり、文候が子夏を師としたように当時の王もまた孟子という儒家のリーダーを迎え入れることを、国勢回復の手段として喜んだはずではなかろうか(注)。

私は、学而篇に子夏の章が一つ入れられている事実を、あえて重視したい。
武内先生が学而篇を魯スクールと斉スクールとの和解総合の記念であり、ゆえに曾子と子貢の言葉が乗せられていると考えられるならば、また子夏の言葉は彼を源流とする魏の孔門の名残りまでも孟子が遊説に赴いてこれを儒家の本流に一本化させた、その記念であったと考えるのは、うがち過ぎであろうか?
さきほどの公孫丑章句上第二章で、孟子は子夏と曾子の両名の勇を取り上げて、「いずれが賢(まさ)れるかを知ら」ないが、曾子を「守るに約たり」と評して、両名をともに讃えながらも曾子が一枚上であると評価して、子夏を巧みに顕彰しながらも魯スクールの優位を主張しているなどは、発言の背景を詮索したい気になって来る。
時代は諸子百家の時代であり、儒家は墨・道・農・法・縦横ほかの各家と激しい争いを繰り広げていた。時代は、儒家にとって思想的危機であった。もと儒家の徒であった者が脱落して他家に鞍替えすることが相継いでいたであろうことは、『孟子』滕文公章句において儒家から農家に鞍替えして孟子に批判された陳相たちの記事などを見れば、推測が付く。陳相などの例は、当時氷山の一角であっただろう。
その危機的時代において、孟子は各国に分裂していた儒家スクールを回って遊説して、その一本化に務める使命を別に持っていたのではないだろうか。今は分裂している時期ではなく、生き残るためには、思想の統一を急がなければならなかった。孟子の遊説の表看板は諸侯に王道政治を説くことであったが、それに付随した教団政策上の意図があって、各国の儒家を一本化して教団を再び活性化させるところにあったのでは、なかっただろうか?

またひょっとしたら、斉の後に孟子が赴いた宋にも、歴史にははっきり現れていないが儒家の別流のスクールがあったのかもしれないと、私は想像を伸ばしてみたい。
漢書儒林伝では「子張は陳」、「澹台子羽は楚」に赴いたと書かれているところである。両者ともに、論語に登場する。とりわけ子張は若年の弟子ながら頻繁に登場し、論語子張篇の記述を見れば、曾子や子夏らに反感を持たせるほどに一門が勢力を持ったようである。
彼らのスクールは、やがて陳・楚といった南方に教線を張っていったに違いない。陳は戦国時代初期に楚に併合されて、戦国時代には楚一国が残る。『孟子』滕文公章句上篇四章には楚人陳良が孟子の前の時代に儒家として出色であったことが、言及されている。孟子は陳良の弟子でありながら儒家を棄てて許行の創始した農家に転向した陳相たちを、変節者として痛烈に批判するのである。陳良の出自がもとの陳であったのかは分からないが、少なくとも孟子のすぐ前の時代にも、楚に一定の儒家の影響力は残っていたことは確かに違いないだろう。

宋も南方の国家であり、道家の代表的理論家である荘子の故国である。
道家は楚に始まり、宋や韓など南方の隣接諸国で大いに流行した。孟子は、そのような楚文化圏に親近性があった宋にも赴き政策を提言したことが、『孟子』の各章で明らかに言及されている。
宋は、殷王朝の遺臣微子を国の始祖としていた。論語微子篇が、微子ら殷の遺臣たちを讃える章から始まっているのは、この篇が元来宋に由来するテキストであった可能性を示唆してはいないだろうか。その微子篇を編んだ者は、誰だったのであろうか?そして、微子篇は儒家によってどのような経緯で、取り込まれたのであろうか?


(注)だが、秦末漢初においても魏地方で儒学が一定の影響力を持ち続けていたであろうことは、この時代に現れた人物たちの経歴から、推測できる。陳豫は楚漢抗争時代の群雄の一であるが、彼は大梁の人で儒学を好んだという(史記張耳・陳豫列伝)。大梁はすなわち魏の都である。また漢建国者である高祖劉邦の幕僚の一であった酈食其(れきいき、酈生とも言う)は明確に儒者を自称していたが、彼は陳留県高陽の人で、その土地に住んでいたが高陽を攻略した劉邦と会見して、幕下にはせ参じた(史記酈生・陸賈列伝)。陳留県高陽は、地理的に大梁に近い。

[(5)へつづく]

論語についてのノート(5)

五、論語学而篇はどのように編集されたのであろうか?

武内先生の説を(仮に)採用して、学而篇を論語二十篇の中で比較的遅くに成立した章であり、斉スクールと魯スクールとの和解総合の結果、記念的著作として整理された篇と考えてみよう。
加えて、私はここに孟子の魏遊説の成果として、子夏を源流とする魏スクールとの和解総合も学而篇で意図されていた、と想像してみたい。
学而篇は、ランダムな語録の寄せ集めであるのか、それとも編集者の意図があるのだろうか。

朱子は、簡単に言う。

此れ書の首篇爲り。故に記する所、本を務むるの意多し。乃ち道に入るの門、德を積むの基にして、學者の先務なり。


また武内義雄先生は、『論語之研究』でこう言われる。

学而篇は凡そ十六章から成って居て、その第一章と末章が前後相照応し、毎章の順序にも脈絡相貫通して一定の意図のもとに編集されたもののように見える。(pp232)


私は、朱子や武内先生とは少し違って、まずは学而篇の形式的な構成に注目したい。
すなわち、「子曰」で始まる孔子の言葉に挟まれて、弟子たちの言葉があることが分かる。

子曰
有子曰
子曰
曾子曰
子曰
子曰
子夏曰
子曰
曾子曰
子禽問於子貢曰
子曰
有子曰
有子曰
子曰
子貢曰
子曰


里仁篇のように孔子のモノローグの連続ではなく、顔淵篇のように孔子と他者との問答がひた押しに続くがごとき、固定した形式ではない。学而篇は、孔子の言葉と弟子の言葉が交互に飛び交う、生き生きとしたリズムが保たれている。
曾子・子夏・子貢は、孔子死後に三つの国で一家を成した、独立した論者である。彼らの言葉が独立した格言として置かれるべき価値は、孟子の時代のようなはるかな後世から見れば、十分にある。そして、そのようなやがて大家を為した弟子たちのさらなる師の孔子は、ますます偉大な師なのである。

中間の第十章「子禽問於子貢曰」の章が、リズム的に特異である。
思うに、この章は子貢が第三者と語った、間接的な孔子の賛歌であろうか。
斉スクールの源流として最も尊重された子貢が、孔子のことを「温・良・恭・倹」の徳を以って仰ぐばかりであり、その真意を知るには至らない。
中間にこの章を挟むことによって、末尾直前の孔子による子貢への称賛の言葉が、より味わいを帯びて来るだろう。子貢は、やはり孔門の賢者であり、孔子のよき弟子であった。
この学而篇が編纂された現場は孔子や弟子たちの生きた時代より、はるかな後世である。そしてその時期には、孔子死後に各国で分裂した各スクールの確執が、時代の果てにようやく乗り越えられた後のことであっただろう。ようやくこの学而篇において、かつての派閥間のわだかまりを超えて、子貢を孔子の高弟として正当に称賛できるようになった。

この「子禽問於子貢曰」の章の後に、孔子の言葉で「三年父の道を改むることなきを、孝と謂うべし」の章が置かれている。
この言葉は、孔門としておそらくありふれた格言に過ぎなかったであろう。早くから両親と死別して親の顔を知らずに大人となった、孔子である。彼がこんな言葉を言ったところで、そこにはいっさいのリアリティがない。この言葉を重視して後世に伝えたのは、実際に親子二代で孔子の弟子となり、目上の者に対する愛憎を感じながら大人となっていった、曾子のしわざであっただろう。いっぱんに、『論語』においてこの章のような誰が言っても成立するような具体的背景を欠いた格言は、孔子の創作した言葉であるはずがなくて、当時のごくありふれた格言を孔子に仮託したものであると考えたほうがよい。

だが、この言葉を学而篇で子貢の言葉の後に置いたことには、もう一つの隠された意図がなかっただろうか。
孟子の報告によると、子貢は孔子の死後、三年の喪を行い、他の弟子たちが去って行った後にまだ足りずに自発的にさらに三年の喪に服したという(滕文公章句上篇第四章)。
もとより、子貢は孔子の子ではない。
なのに、子貢は師の偉大さを追慕して、義務などに御構いなしに六年の喪に服した。これこそ、儒家の言う「孝」の真髄ではないか。孝は、形式が本質ではない。追慕する心情を形とすることであり、それに尽きるはずではなかったろうか?
後世、三年の喪が形式的な儀式に堕落し、形式的だから省略したほうがよいという主張が現れた。すでに孔子時代に宰我が主張し、儒家から分かれた墨家は、さらにラディカルに薄葬を主張して、死者のために生者の富を浪費するな、死者を葬る労働を省いて生きた人間を救え、と唱えた。このような後世の時代において、子貢が孔子に捧げた精神の意義を、もう一度問い直そうではないか。
私は、二つの章の配列には、後世の儒家の思想再確認の意図があったのではなかったか、と想像する。加えて、斉スクールの源流であった子貢に対して、魯スクールが強調する「孝」の高度な実践者としての側面を再確認して、魯スクールにとっても受け入れられる子貢の姿を取り戻した、とも言えるのではないだろうか。こうして、斉スクールの源流の子貢を魯スクールに取り込む形で、両派の総合は成り立った。付け加えるならば、学而篇で子貢は独白をしない。第十章で第三者と対話して孔子の計り知れぬ偉大さを示唆し、そして末尾一つ前の章で孔子と問答して共に学問を讃える。あくまでも孔門全体を慮った孔子の高弟・子貢であり、派閥の源流として自己主張する儒家思想の後継者・子貢ではない。

次に、曾子の第一の言と、子夏の言は、両者を源流として奉ずるスクールから、取っておきのエッセンスとして提出されたものかもしれない。
そして、それぞれに続く孔子の言もまた、それぞれのスクールの末裔が撰じた格言なのかもしれぬ。

子夏の言と、続く孔子の言は、子張篇に見られる子夏の言葉とその趣意がよく一致しているように思われる。孔子の言は、おそらく複数の格言の集合であろう。

また、曾子の第二の言である第九章は、もしかしたらその言が暗喩する対象は、孔子なのかもしれない。
遠くに去った孔子を追慕すれば、天下の民をいずれ治める理想の世がやって来るだろう。おそらく、学而篇の編集をリードしたのは、孟子以降の魯スクールであっただろう。編者は、彼らの源流である曾子の言をここにおいて、自分たちの道がきっと正しいことを、確かめる言葉としたのかもしれぬ。

しかしながら、有若の三つの言葉は、私にとっていまだに説き難い。
有若の三つの言葉はいずれも儒家のセオレティカルな議論であるが、ここで断片的に採用されても正直言って説得力が薄いように見える。
有若は、魯スクールの源流の一人である。
ゆえに、この学而篇でのみ「有子」と尊称されているのであろう。それは分かる。
この篇は、編集が成った後で各地の儒家スクールに持ち帰り、暗誦に用いられたことであろう。初学者から上達者に至るまで、儒家のエッセンスが込められるべく言葉が磨かれたに違いない。
今は、魯スクールの有力者であった有若の言をもって儒家の理論的骨子を与え、入門の言葉とした、と私は仮に解しておきたい。初学者は別に理解できなくとも、後で上達して理解できればよく、最初は言葉だけ覚えておけばよい。そのため、わざと高度な理論を断片的に置いたと考えるのも、よいかもしれぬ。内容を理解できなくとも般若心経を音だけで覚えるのを仏教の入門とする勉強方法と、同様なものか。この点は、いずれ真意を考えてみたい。

有若の言葉に続く孔子の言葉のうち最初の言葉「巧言令色云々」は、確かに言語だけで君子の道を理解しようとする傾向への戒めとして置かれたのかもしれない。この言葉もまた、孔門ではありふれた格言であったろう。

後半の有若の二言に続く孔子の言葉もまた、言に慎み、ひたむきに努力することが君子の道であると説き、机上の学問に終始することを戒めた言葉となっている。有若の言がいずれもセオレティカルな議論の断片であることと、鋭い対比を為している。私は何も有若への当てこすりとして孔子の言が置かれたというよりは、理論も重要でありかつ理論だけが重要ではない、という儒家の教育の真髄がまた、有若と孔子の言葉を続けて挙げていることの意味であろうか、と仮に想像してみる。

ともあれ、学而篇においてついに有若の言が採用されたことは、魯スクールによって彼が復権されたことを記念していたのかもしれない、と私は仮に想像してみよう。
『孟子』や史記仲尼弟子列伝の記事によると、有若は孔子の死後に弟子たちによって一旦後継者に祭り上げられて、後に失脚したそうである(注)。
しかし魯スクールに学んだ孟子がその公孫丑章句上篇第一章と第二章において、斉スクールで学んだであろう弟子の公孫丑の主張を一々斥けたことは、すでに述べた。その孟子は、くだんの章において自らの長大な発言の末尾において、有若の言葉による孔子賛歌を取り上げている。その孔子賛歌はあまりに誇大に過ぎる感が読後に否めないが、ともかくも孟子はここでそれまで儒家によって沈黙されていた有若を、宰我・子貢と並んで「智は以て聖人を知るに足る」と評した。
この宰我・子貢は、論語先進篇において言及される、言語に秀でる孔門十哲の二人である。そして武内先生の類推によれば、この先進篇は斉論語七篇の一であり、斉スクールの伝承する語録であったという。
孟子は、斉スクールで学んだ弟子の公孫丑の前で、彼らが最も評価する宰我と子貢に、魯スクールの有若を対等的に並列させたのである。これは、魯スクールが主導権を取って斉スクールと和解総合すべき方針を、宣言したものであると言えなくもないであろうか?

さて、学而篇の冒頭を飾る、古今に著名な格言について考えたい。
私は、この格言が必ずしも孔子自身の言葉であったかどうかは、分からないと思う。
この格言の最後の文はともあれ、一つ目と二つ目の文は、論語の他の箇所に類似した言葉が、どうも見当たらない。「温故知新」(為政篇)「徳孤ならず」(里仁篇)「これを知る者はこれを好むものに如かず」(雍也篇)などは近いが、しかし学問と友を得ることの喜びを謳歌したこの学而篇冒頭の二文は印象的であり、かつ論語全体で孤立しているように見られる。
私はむしろ、学而篇第一章は孔子自身の言葉であったかどうかは問題でなく、むしろ孔門に集まった同学たちにとって、常に明記すべき座右の銘であったと言った方が、適切ではなかったろうか、と思いたい。毎日の同学たちの合言葉であって、孔子の言葉としては意識されていなかったので、論語の他の伝承には見当たらない。それを今学而篇を編むに当たって、孔門が伝承すべき言葉の筆頭に、孔子の言葉として置いたのではないだろうか、と考えてみたいのである。
それほどにこの冒頭の言は完成されており、暗誦に容易で、洗練されている。時間をかけて磨き上げられた、孔門の合言葉的な格言であったであろう、と想像してみたい。学而篇はこの言葉から初め、自分たちが学を志す同志であることを確かめた。その調子は自信に満ち、学を志す者に明るい展望を開き、励ましているようだ。

冒頭の言葉の後、有子、曾子、子夏、再び曾子、子貢、有子の言葉が続き、それぞれの言葉の間に孔子の言葉が挟まる。これは各々一家を成した弟子たちと、彼らのさらに源に立つ孔子との間との間で交わされた、仮想的な議論の姿を再現したようではないか。これが里仁篇のように孔子の言葉だけで埋め尽くされていたならば、印象はどうであったろうか。顔淵篇のように孔子がもっぱら至らぬ弟子や諸侯を教え諭す老婆的教師像に終始していたならば、どれほどの印象を与えたであろうか。学而篇が生き生きとして読者に映るのは、すでに一家を成した弟子たちの自信に満ちた格言と、彼らの師である孔子の高次の対決とが緊張感を持って続けられる、そんなところにあると私は勝手な一読者として、感想を持つのである。

末尾一つ前の章は、子貢と孔子との問答である。おそらくこれは子貢を信奉する徒にとって、子貢を讃えた、取っておきの問答であっただろう。
これまで(子貢と子禽との問答を除いて)各弟子の独言が続いた最後に、師と弟子との問答が置かれる。これは、学而篇の中で各人が入れ違いに登場しては議論を進めて来た軌跡の、総合である。この章で初めて、師と弟子が一章の中で対話する。その結論は、周知のとおり「切磋琢磨」すべきということであり、孔子が子貢の聡明を褒めた言挙げである。

学而篇末尾一つ前の章は、その冒頭の章と見事に対を成している。
孔門に入り、共に学を目指すことの喜びの姿が、冒頭に続いて再びリフレインされているのである。
最後に登場する弟子が、学而篇のこれまでの章のごとく独言ではなくて、孔子との対話を行っていることは、きっと偶然ではない。弟子たちと孔子の独言が続いて緊張した果てに、弟子と孔子との問答が置かれる。その結果は論語の他篇を埋め尽くすような訓戒ではなく、学の上達への称賛である。緊張の果てにカタルシスとして子貢と孔子のとっておきの対話を置いた編者の文学的手腕は、絶妙である。しかしこれもまた、魯スクールと斉スクールとが和解総合された結果として、子貢を派閥の歪みなく評価できる道が開けたゆえに収録することができたと、言えはしないだろうか?

孔子と子貢との明るい問答が終わった後に、全ての弟子たちの師である孔子の最後の言葉が置かれる。この学而篇最終章もまた、冒頭の章の第三文「人知らずして云々」と対になっていることは、私が読むに明らかに見える。これまで大家を為した弟子たちとの仮想の問答をくぐり抜けて、彼らの成長を確かめた後に、孔子が静かに一場の塾を閉じる言葉を告げているかのようはないか。

-二三子、よくぞ各々が各国で大家を為した。しかし、吾が門の理想への探求の道は、まだまだ遠いぞ。さらに切磋琢磨して、吾が身を省み、食飽かんことを求めず、己が人を知らざるを患えよ。

この学而篇を諳んじる後世の儒家たちへの、教訓をもって一篇がここに終わる。諳んじる者は、さらに繰り返して、冒頭の章に向かうだろう。そして再び、学ぶことの説(よろこ)びと学友を得ることの楽しみを、孔子と高弟たちの言葉から追体験するであろう。


(注)
原文:
孔子既沒,弟子思慕,有若狀似孔子,弟子相與共立為師,師之如夫子時也。他日,弟子進問曰:“昔夫子當行,使弟子持雨具,已而果雨。弟子問曰:‘夫子何以知之?’夫子曰:‘《詩》不云乎?“月離于畢,俾滂沱矣。”昨暮月不宿畢乎?’他日,月宿畢,竟不雨。商瞿年長無子,其母為取室。孔子使之齊,瞿母請之。孔子曰:‘無憂,瞿年四十后當有五丈夫子。’已而果然。問夫子何以知此?”有若默然無以應。弟子起曰:“有子避之,此非子之座也!”

試訳:
孔子の没後、弟子たちが彼を思慕して、有若の状(すがた)が孔子に似ていたため、弟子たちは相共に彼を立てて師事した。師事するに、孔子先生に仕えたように行った。後日、弟子(の一人)が進み出て有若に質問した。
「昔、先生は外出しようとなされたとき、弟子に雨具を持参させました。結果、本当に雨が降りました。弟子が問いました。『先生、どうして雨が降ることが分かったのですか?』と。先生は答えました。『詩経に、「月畢(ひつ)に離(かか)り、滂沱ならしむ」とある。昨晩は、月の位置が畢になかったか?』と。しかし、別の日に月が畢にあった日には、ついに雨が降りませんでした。また、商瞿氏はすでに中年なのに子がなく、その母親は彼のために嫁を世話しようと考えていました。しかし孔子は商瞿氏を斉に使者に派遣しました。商瞿氏の母が、孔子に思いとどまるように頼みました。しかし孔子は答えました。『心配なさるな。瞿は、四十以降に男子五人を得るでしょうよ』と。結果、本当にそうなりました。有子先生にお尋ねしますが、孔子先生はどうしてこれが分かったのですか?」
有若は、黙然として答えなかった。
弟子は、立ち上がって言った。
「有子よ、そこから降りたまえ。そこは、あなたの座る席ではない!」
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有若は、上の弟子の質問に対して、こう答えたかったかもしれない。
「それは、諸君が孔子の的中した予言だけを取り出して記憶に残しているだけではないか。孔子だって、外れた予言がきっと沢山あったであろう。周囲の者たちは、孔子のそんな外した予言について都合よく忘れているか、あるいは別の解釈を施して当たったことにしているのだ。人間の信奉する対象への記憶とは、そのように歪みがかかるものなのだ、、、」
しかし、有若はそのような言葉を言うことはできない。
神聖なる孔子に対する、誹謗中傷の言となるからだ。
多くの弟子たちの信念の中には、孔子は予知能力者であり、中国の将来まで予言することができた神がかった天才であるという信仰が、抜き難いものとしてあったであろう。
だが理性派の有若には、そんな予言をできはしないし、おそらく彼は信じてもいなかったであろう。孔子の偉大な点は、そんな予知能力にあったのではない。もっと大きな文化人としての、教育者としての巨人であった点こそが、評価すべき点なのに、、、
だが、有若は自分の考えを弟子たちに説得することが、ついにできなかった。彼は理性人であったが、文化人、教育者としての器量は、孔子にとても及ばなかった。だから、彼は沈黙するより他はなかった。かくして、有若には孔子の才能なし、と断言すべき証拠を、この弟子に与えてしまった。
この弟子は、有若に対して、答えることができない質問を投げかけて、失脚させようと巧妙な罠を張ったのであろう。果たして有若は孔子に及ばないことが暴露されて、後継者の座から失脚した。しかし失脚させた弟子の名前を、仲尼弟子列伝は伝えていない。誰であろうか?