勧学篇第一(5)

By | 2015年4月1日
いい加減な質問をする輩には、答えてやるな。いい加減な応対をする輩には、質問するな。いい加減な説明をする輩の話は、聞いてやるな。けんか腰でねじ伏せてやろうといきり立つ輩とは、議論するな。応対に値するのは、必ず礼の道に則って近づいた者だけであり、そうであってはじめてこの相手と接するのだ。礼の道に則らない無礼者は、避けて通れ。ゆえに礼に沿って恭しい者であって、はじめて正義正道の大筋を論ずるに値する。言葉がおだやかであって、はじめて正義正道のロジックを論ずるに値する。そして雰囲気が温和であって、はじめて正義正道の行き先を論ずるに値するのだ。ゆえに、「まだ語るべき段階でないのに言葉を発するのは、傲(ごう。言いすぎ)というものである。だが語るべき段階であるのに言葉を発しないのは、隠(いん。言い足らず)というものである。相手の雰囲気を読まずに自己中心的に言葉を発するのは、瞽(こ。「開きめくら」)というものである」という格言があるのだ(論語季氏篇の「言未だ之に及ばずして而(しか)も言う、之を躁と謂う。言之に及んで而も言わざる、之を隠と謂う。未だ顔色を見ずして而も言う、これを瞽と謂う」とほぼ同じ)。君たちは、これら傲・隠・瞽になることを避け、己の身を慎んで正道により人と接するのだ。『詩経』に、この言葉がある。:

乱れるなかれ、気を抜くなかれ
みかどの御下賜を、たまわらん
(小雅、采菽より)

この言葉を、よく心したまえ。

百発弓矢を射て一発でも的を外したら、それは完璧な弓とはいえない。千里の道を馬車で走って最後の一歩届かなかったら、それは完璧な運転とはいえない。そしていくら礼法の条文を学んだところで、礼法の精神がわかっていなくて的を得た法の解釈(注1)ができず、仁義の正道に沿った法解釈ができなければ、それは完璧な学習とはいえないのだ。学ぶ人というものは、もとより学ぶことによって自らの原理を一つにまとめ上げることができる人なのだ。だが部分的に正しいこともあるが部分的に正しくないこともあり、要は頭の中で統一されていないのが、その辺の凡人なのだ。もっとひどく善が少なくて不善が多くなれば、桀(けつ)・紂(ちゅう)・盜跖(とうせき)なのだ(注2)。完全になるまで学び、そうした後にこそ、学ぶ人というべき資格がある。

君たち!これで不完全な学び方をすることが、美とはいえないとこが分かったであろう。だから、まずは美しい格言を何回も唱えて、体で人の道を覚えこむのだ。それから、自分の頭で思索して、礼法に内在する原理を掴むのだ。そして完全な人間となるべく、己を律するのだ。そして間違った考えや悪い人間を斥けて、自らを保ち養うのだ。目は、正道でなければ見ようと思うな。耳は、正道でなければ聞こうと思うな。口は、正道でなければ言おうと思うな。心は、正道でなければ考えようと思うな。正道を好むことが至れば、目の快楽よりも正道を愛すようになるだろう。耳の快楽よりも正道を愛するようになるだろう。味の快楽よりも正道を好むようになるだろう。そして心は、天下の支配者となる快楽よりも正道を好むようになるだろう。この境地に至れば、権力でも利益でも心は動かされず、周囲の大衆が指弾しても心は転向せず、ましてや全世界が反対したとしても心はもうゆらぐことはない。生きるも正道により、死ぬも正道による。これを徳操というのである。心の徳が動かぬ節操を持つことによって、しかる後に心はよく定まるだろう。心がよく定まることによって、しかる後に自在の応対ができるであろう。こんな人をこそ、「成人(現代語の意味ではなく、完成された人)」と呼んでよい。天の偉大なことは、光あるからである。地の偉大なことは、広さがあるからである。そして君たちが目指す君子が偉大なことは、完全となることに憧れるからである。


(注1)原文「倫類」。礼法にないものを倫(となり)の類から適用する。「法の解釈」と訳した。
(注2)桀は夏(か)王朝を滅ぼした悪王。紂は殷(いん)王朝を滅ぼした悪王。盜跖は伝説の犯罪者で、賢人柳下恵(りゅうかけい)の弟だったとか、『荘子』で孔子と対決してこれを論破したとか、奇怪なエピソードが多い。
《原文・読み下し》
問うこと楛(こ)なる者には、告ぐること勿(な)かれ、告ぐること楛なる者には、問うこと勿かれ。說くこと楛なる者には、聽く勿かれ、爭氣有る者は、與(とも)に辯(べん)ずること勿かれ。故に必ず其の道に由りて至り、然る後之に接し、其の道に非ざれば則ち之を避く。故に禮恭(うやうやし)くして、而(しこう)して後與に道の方を言う可く、辭(じ)順にして、而して後與に道の理を言う可く、色從いて、而して後與に道の致を言う可し。故に未だ與に言う可らずして言う、之を傲と謂う。與に言う可くして言わず、之を隱と謂う。顔色(がんしょく)を觀ずして言う、之を瞽(こ)と謂う。故に君子は傲ならず隱ならず瞽ならず、其の身に謹んで順(したが)う(注3)。詩に曰く、匪交(あなどら)ず、匪紓(おこたら)ざるは(注4)、天子の予(あた)うる所、とは、此を之れ謂うなり。
百發して一失するは、善射と謂うに足らず。千里蹞步(きほ)して至らざるは、善御と謂うに足らず。倫類通ぜず、仁義一ならざるは、善學と謂うに足らず。學なる者は、固(もと)より學びて之を一にするなり。一出し一入するは、塗巷(とこう)の人なり。其の善なる者少なく、不善なる者多きは、桀(けつ)・紂(ちゅう)・盜跖(とうせき)なり。之を全くし之を盡(つ)くし、然る後に學者なり。
君子は、夫(か)の不全不粹の以て美と爲すに足らざるを知る。故に誦數(しょうすう)以て之を貫き、思索以て之を通じ、其の人と爲り以て之に處(お)り、其の害なる者を除きて以て之を持養し、目をして是に非ざれば見ることを欲すること無からしめ、耳をして是に非ざれば聞くことを欲すること無からしめ、口をして是に非ざれば言うことを欲すること無からしめ、心をして是に非ざれば慮(おもんぱか)ることを欲することを無からしむ。其の是を致好(ちこう)するに至るに及んで、目は之を五色よりも好み、耳は之を五聲よりも好み、口は之を五味よりも好み、心は之を天下を有(たも)つよりも利とす。是の故に權利も傾くること能わず、羣衆も移すこと能わず、天下も蕩(うご)かすこと能わざるなり。生も是に由り、死も是に是由る、夫れ是を之れ德操と謂う。德操にして然る後に能く定まり、能く定りて然る後に能く應ず。能く定まり能く應ず、夫れ是を之れ成人と謂う。天は其の明を見(あら)わし、地は其の光(注5)を見わし、君子は其の全を貴ぶなり。


(注3)宋本は「謹愼」、元本は「謹順」である。
(注4)荀子テキストは「匪交匪舒(紓)」であるが、『詩経』テキストは「彼交匪舒(紓)」である。『詩経』の原意は宮廷での他人との交際の礼儀を舒(ゆる)めない、というもの。しかし集解の王引之は「匪交匪舒(紓)」はさきの「不傲不隱不瞽」と対応しているのであって、「匪交匪舒(紓)」が正しいと言う。この場合「交」字は「姣(こう。みだらである)」が本字であるべきである。
(注5)集解の劉台拱は、「光」字は「廣(広)」字に通じると言う。

こうして「勧学篇」の大論文は終わる。論旨は明快で筋道が立ち、かつ冷静な説得の調子を堅持しており、古文の名文である。孟子の文章は迫力に満ちて、読む者に催眠術をかける筆力がある。しかし論理は弱く、説明は不足がちである。荀子の冷静で緻密な学者であった人となりが、この文章からうかがうことができるというものだ。荀子は、李斯や韓非子を育て、彼らは戦国時代を終わらせた統一秦帝国を理論的あるいは実践的に作った。秦を受けついた後に漢が継続的な統一帝国を運営したが、漢代の儒者たちは多くが荀子の弟子筋であった。漢代にまとめられた儒教の聖典である『詩経』『書経』『礼経』の研究者たちは、荀子の後を継いでいる。荀子は、多くの優秀な弟子を育てた名教育者であった。いっぽう孟子は自分がカリスマであったが、弟子は萬章・公孫丑・楽正克・公都子などと大勢いるが、『孟子』の編集に携わった以外には歴史で活躍することはなかった。荀子は冷静な理性の人であり、孟子は議論の人であった。両者の対照的な生き様は、その遺した文章にも歴然と現れていると、私は読んで印象する。

「道理が分からない愚者とは議論するな」ということは、孟子も同じく説いているところである。相手がこちらを屈服させようとしか望んでいないならば、対話による弁証法的な議論の発展は期待できない。論題が宗教やナショナリズムに関わると、往々にしてこのような議論不能の状態に陥る。哀しいことである。理性的な対話とは、相手の立場を理解して、譲るところは譲り、だが言うべきところは言うところに成立するはずだ。だがこのような対話は、文化を共有する者の間にしか成立しないのかもしれない。孟子ですら、同じ中華世界で対決した墨家ほかの諸子百家の論客との論争で、相互に建設的な発展を分かち合った対話ができていたようには見えない。孟子や荀子は、自らが中華文明の本流であると固く信じていたので、是はこちらにあり非は相手にあるという姿勢を崩さなかった。荀子は諸子百家の中で最も理性的な論客の一人であっただろうが、それでも中華世界の住民全てを説得することはできなかった。中華を最終的に統一したのは、理性による平和的な国家建設ではなかった。始皇帝の武力による、暴力的統一であった。その始皇帝の統一事業が征服された側の人々の憎悪を買い、始皇帝の死後すぐに爆発して大反乱となった。とりわけ秦とは習俗が最も異なっていた楚国の遺民の復讐心はすさまじく、楚から現れた項羽は秦軍を皆殺しにして都を破壊し、始皇帝の栄光の全てを絶滅させた。その後、統一された中華を受け継いだのは、同じ楚から現れた劉邦であった。中華世界は始皇帝が暴力によって統一し、滅ぼされた楚の民である劉邦が国を乗っ取って、ついに征服者と被征服者が混合して安定した統一漢帝国となったといえる。その対立が終わった後の漢帝国で、儒家の教えは広められて、中華文明にとって穏当な思想としてすんなり定着することとなった。すでに対立するべき相違がなくなった後の世界だから、理性ある者が勝つ素地もできたというべきであろう。

締めくくりの文章において、荀子の君子への戒めの言葉は、ずいぶんと孟子の言葉に近づいている。志を立てて修練を積んだ君子は、生理的な欲望を越えなければならず、むしろ越える境地に至るであろうと。既に述べたように、この勧学篇においては荀子は孟子と同じ立場に立っている。もし最初から性悪説であれば、そもそも人間が欲望を越えることはできないはずだ。もし目先の欲望を我慢できるのであれば、それは自己を修練することによって将来もっと大きな利益を得る見通しが得られるからのはずだ。しかし荀子が期待する君子像は、利得を越えた存在である。後の性悪篇などで、荀子は性悪説と君子の行動との整合性を取ろうと説明を試みる。だが、私ははっきり言って説明に成功しているとは評価できない。対象としてる視点が、勧学篇と他の諸篇とでは違うからだ。その両者を整合的に説明しようと荀子は試みるのであるが、当然というか綻びが出てしまった。その矛盾が、後世の荀子批判者たちにとって攻撃の的とされてしまった。残念なことである。

人間の本性は善を目指すのか、欲得を目指すのか、という議論は、西洋でももちろん議論されてきた。特異な思想を持つキリスト教思想は、今は置いておきたい。プラトンは、人間の魂には欲望的部分もあれば気概的部分もあり、欲望的部分が勝った人間は庶民として治められ、気概的部分が勝った人間は武士として名誉のために国を守って死ねる、と考えた。プラトンの議論は、性善説と性悪説とはそれぞれの人間にとって程度の差である、と考えて、孟子と荀子の間を取っているのである。

カントは『世界公民的見地における一般史の構想』において、人間の非社交性に注目する。人間には、一切を他人と協調せず我が物にしようとする、非社交性がある。この非社交性は我欲の源泉であると同時に、人間にとって個別的創造の源泉でもある。公民的社会は、非社交性を持つ人間たちが血みどろの競争を続けた結果、互いを破壊しないようなルールをいつか制定するところに作られる秩序であるはずだ、とカントは言う。

人間が欲望によって動かされることを認める点では、カントは荀子と一見似ている。しかしカントは公民的秩序を上からの権力による創設とは見ていない。そう見るのは、彼の後継者であるヘーゲルである。ここで詳しくカントのビジョンを述べることはできないが(柄谷行人『世界史の構造』第4部第2章、岩波書店を参照)、カントの平和構想と荀子の平和構想とは、平和をもたらす担い手が違っている。荀子はカントよりもホッブス、ヘーゲルの側に立っている。上からの秩序である。そこは、後の富国篇において述べられる彼の社会契約論を検討したい。

さて、これで第一篇である勧学篇を読み終えた。これから先も荀子はこの調子で慎重に議論を積み重ねて、自らのヴィジョンを展開していく。しかし議論が長大でわずかづつしか進まないので、私としては先にとりわけ『荀子』の中で注目したい篇を読んで、その後で全篇を通して読むことにしたい。最初に、「富国篇」に移る。これは荀子の社会思想の根幹を示しているからである。

【次は、「富国篇第十」を読みます。】

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です