論語についてのノート(3)

By | 2015年4月6日

三、論語各篇の分類と学而篇

以上、武内先生の論語各篇の分類を概観すると、以下のとおりとなる。

斉魯二篇本に該当する篇 学而・郷党
河間七篇本に該当する篇 為政・八佾・里仁・公冶長・雍也・述而・泰伯
河間七篇本に後人が追加せる部分 泰伯末尾二章・子罕
斉論語七篇 先進・顔淵・子路・憲問・衛霊公・子張・堯曰
後世の附加 季氏・陽貨・微子・堯曰子張問章

そして、それらを成立時期順に並べれば、先生は以下のとおり考証されている。

1河間七篇本 魯人曾子を中心とした論語で、曾子・孟子の学派の伝えた孔子語録、恐らく論語の最も古い形であろう。
2斉論語七篇 子貢を中心とした論語で、恐らく斉人の伝えた孔子語録であろう。
3斉魯二篇本 その内容及び用語から推して斉魯の儒学即ち子貢派と曾子派とを折衷した学派の集成に出たものらしく、恐らくは孟子が斉に遊んだ後に作られたものであろう。
4季氏・陽貨・微子・堯曰子張問章 後人が種々な材料より孔子の語を拾いあつめて孔子語録の補遺にあてたもので、その内容は雑駁であり、その年代も部分によって異なるが、尤も新しい部分は戦国末にまで下るであろう。

さらに、武内先生の類推に従うならば、論語は歴史的に以下の順序のように増補されて来たと、整理できる。

漢代景帝末~武帝以前 斉魯二篇本(学而・郷党)
河間七篇本(為政・八佾・里仁・公冶長・雍也・述而・泰伯)
漢代儒家による伝承
漢代景帝末~武帝以降 斉論語七篇(先進・顔淵・子路・憲問・衛霊公・子張・堯曰)
季氏・陽貨・微子・堯曰子張問章
泰伯末尾二章・子罕
景帝末の古論語発掘により増補

くだんの学而篇について、武内先生はそれが魯において成立したものというよりは斉を通じて成立したものであり、その成立年度はおそらく孟子が斉に現れて以降のことであろう、と類推されている。なぜならば、孟子は曾子を源流とする魯スクールの出身でありながら斉都に入って斉王の庇護を受け、彼の時代に魯と斉の両スクールの合流が成り、両者の折衷が行われたに違いない、と先生は類推されるのである。
それを暗示する点として、学而篇には、魯スクールの源流である曾子と斉スクールの源流である子貢の両名の言葉が、同時に収録されている。武内先生は、学而篇の孔子の各言は、論語の他章にも散見される古い時代の伝承からやや時代が下った時期に、再度練り直されたものだろう、と推測される。つまり、学而篇は論語二十章の中でもわりかし新しい編集になる篇であり、しかも魯スクールと斉スクールとの和解総合がなされた結果としての記念的編集物であるということになるだろう。
だが、和解総合とは言っても、『孟子』内で孟子が弟子の公孫丑をやり込めたように、きっと孟子の魯スクールが斉スクールに対して思想的に勝利したことであろう、と私は推測する。武内先生の類推が正しいとすると、孟子の時代から下って漢代初期の時点で儒家に伝承されていたテキストは「河間七篇本」と「斉魯二篇本」の両者である。これらは、魯スクールの伝承と斉魯の和解総合後の文書に限られている。残る篇、すなわち下論に当たる「斉論語七篇」などは、漢景帝末の時代になって発見された古論語のテキスト出現以降に、発掘追加された部分なのである。古論語が孔子の旧宅から出土した、という主張がもし正しいとするならば、それは戦国時代に魯スクールの内部で保管されていた、二次的な参考資料であったのだろうか。
これを考えると、斉スクールのテキストは、漢代初期においては少なくとも儒家の正当的な伝承から抜け落ちていたらしいことが、推測されるのである。

また、学而篇には、子夏の言葉もまた一章を割かれている。
卜商子夏(ぼくしょうしか)は、さきの漢書儒林伝の報告によれば西河すなわち魏に居住して、「田子方・段干木・呉起・禽滑氂の属、皆業を子夏の倫に受けて」彼ら子夏の弟子は「王者の師」となった。ここでいう王者とは魏の文侯のことであり、史記魏世家ではこの君主は「子夏に経学六芸を学」んだとある。呉起は著名な兵法家・経世家であり、史記孫子呉起列伝には初め魯で曾子に学んだ後で魏の文侯のもとに移ったとある。また段干木・田子方も魏の文侯により重んじられた者であり、段干木が文侯の面会を拒んで逃げたことが孟子滕文公章句下第七章において孟子により言及されている。論語だけを読むと看過されがちであるが、子夏の魏における後世への影響は、殊の外に大きいのである。

さらに学而篇に独特の特徴として、有若の言葉が三章も収録されていることがある。
しかも、有若は「有子」と尊称され、問答でなく単独の発言が三章も捧げられている。
だが学而篇は論語全編の開巻の篇でありながら、この有若への優遇は、読む者に奇怪な感すら与えるであろう。有若は、孔子による弟子たちの評価を列挙した公冶長・雍也両篇において登場もせず、またもっぱら弟子たちの言行を収めた子張篇においても、取り上げられていない。論語他篇を通読するとき、有若はまるで孔門の伝承の中で、意図的に彼への言及は避けられているかのように、沈黙されている。(顔淵篇で、魯哀公との問答が一章収められているが。)
この事実は、学而篇での優遇と、なおさら対比が鋭い。

[(4)へつづく]

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