二、武内義雄先生による論語各篇の分類
武内義雄先生は、『論語之研究』(岩波書店、昭和14年)において、王充『論衡』正説篇の記述を整理訂正した上で、(一)漢景帝末の時代に孔子宅の壁中から古論語二十一篇が現れ、昭帝宣帝の代に至ってようやく広く読まれるようになったこと(二)魯扶卿が伝えた魯論語は孔安国から受けた本で、古論語を隷書体に改写した本であること(三)古論語発掘以前に「斉魯二篇本」と「河間七篇本」とが存在し(後世散逸し)たこと、が記事中に書かれていることを考証されている。
このうち(一)と(二)は、前の章で考証したとおりである。
そこで(三)について、『論衡』に表れているが正体が分からない「斉魯二篇本」と「河間七篇本」について、その正体を考証しなければならない。これらは当然、景帝末期以前に普及していた孔子語録である。
武内先生は漢初の高堂生と伏生が持っていた『今文尚書』の内容が後に孔子旧宅から出土した『古文尚書』の中に含まれていた、という古記録を源に類推して、古論語以前の「斉魯二篇本」と「河間七篇本」もまた古論語とは独立したテキストというよりは古論語と重なっているテキストだったに違いない、と類推された。その類推が正しければ、「斉魯二篇本」と「河間七篇本」は、多少のテキストの異同はあったとしても、古論語つまり現行の『論語』のもとになったテキストと、内容を共有していたと考えることができるだろう。
さきの何晏の『論語集解』には、さらに梁の皇侃が『論語義疏』を注の注として追加している。
その『義疏』によると、古論語は現在の堯曰篇のうちから「子張問」の章が独立して一章として追加されていて、さらに各篇の配列が「学而・郷党・雍也・為政・八佾・里仁・公冶長・述而・泰伯・子罕、、、」という順序であったと報告されている。
武内先生は、内容的に連続しているべき雍也篇と公冶長篇が分かれていることは、皇侃の報告の中でにわかに信じがたいとしながらも、学而篇と郷党篇が冒頭に連続している点には「興味ある問題」(pp89)だと注意される。今もし「学而・郷党」を第一種、「為政から子罕」を第二種、そして伊藤仁斎が下論として上論十篇と内容において区別した「先進から堯曰」までを第三種として仮に区別すれば、「同種の中には一度も重複した章が出なくなる」(pp90)。
さらに、もし「学而・郷党」をまとまった種とみなすならば、武内先生の報告によれば、両者には往々斉の方言が見えるという。武内先生は、これはこの二篇が魯において完全した論語でなく、斉を通ったものを暗示するものである、と示唆される。そのうえで、この「学而・郷党」両篇はやはりまとまりのある章であり、『論衡』に言う「斉魯二篇本」に当たる内容ではなかろうか、と類推されるところである。
また先生は、「為政から子罕」までのいわゆる上論各篇について、「子罕」および「泰伯」の末尾二章をその内容から後世の追加であろうと類推し、残る七篇についてこれが『論衡』の「河間七篇本」に該当するのではないか、と推理を進められる。その内容を見ると、まず曾子の言からの引用が多く、しかも礼記の曾子篇・子思篇(『大学』・『中庸』を含む)及び『孟子』と類似する章節が多く、これは曾子後学の伝えた論語であることに疑いない、と断じられる。曾子は孔門のうち魯に残ったスクールの源流であり、後学に子思・孟子を輩出したところである。
さらに武内先生は、残るいわゆる下論十篇についても、論考される。
下論とは伊藤仁斎のいう先進篇から堯曰篇のことであるが、このうち季氏・陽貨・微子および堯曰篇の子張問章については、その内容が雑駁であって、後世の附加であろうと類推される。遺された先進・顔淵・子路・憲問・衛霊公・子張・堯曰(除子張問章)について先生は一定のまとまりを認め、「斉魯二篇本」「河間七篇本」とは違う系統であるが、古い時代のテキストであろう、と類推される。
武内先生は、これら先進以下の七篇について、「河間七篇本」に該当すべき章が礼を重視する内容であるのに対比して、(一)より政策・経済を重視している傾向があること、さらに(二)子貢をとりわけ顕彰して、逆に曾子を貶めている記事が見られること、にその特徴を見出される。
- 先進篇において、「参は魯」(曾子は馬鹿者である)とあり、その後の章で子貢を絶賛すること。
- 同じく先進篇において、顔淵以下のいわゆる孔門十哲を列挙しながら、そこに子貢を入れて曾子を入れないこと。
- 孔子と問答して孔子が「一を以て之を貫く」ことを聴いた高弟の役割が、上論の里仁篇では曾子であり、下論の衛霊公篇では子貢であること。
- 春秋時代の斉の宰相であった管仲への評価において、上論の八佾篇では孔子が礼を知らなかった点で「器が小さい」と低く評価しているが、下論の憲問篇では三章に渡って管仲が輔佐した斉桓公と共に高く評価していること。
以上のような特徴が、「河間七篇本」に該当すべき章と先進以下七篇とを対比した時に見出される。
これらの点から武内先生は、下論のうち七篇は、子貢を源流とした儒家の斉スクールで伝承されたテキストが基礎となっているのであろう、と類推されている。漢書儒林伝に「子貢は斉に終る」とあり、斉スクールは斉で没した子貢に、その源流を持つ。
ちなみに先進篇の章で列挙される「顏淵、閔子騫、冉伯牛、仲弓、宰我、子貢、冉有、季路、子游、子夏」のいわゆる孔門十哲であるが、このうち仲弓・冉有・季路を除いた七名は、『孟子』公孫丑上篇第二章において孟子の弟子で斉人である公孫丑が「聖人の一体あり」などと評して列挙する弟子たちと、完全に重なっている。
(以下は、筆者ウェブサイトに置いた『孟子』の拙訳に、手を加えたものです。)
公孫丑「では、わたくし昔にこのようなことを密かに聞きました。子夏・子游・子張は、みなそれぞれ聖人の一徳を持っていた。冉牛・閔子・顏淵は、聖人の資質はあったが人間が小さかったと。あえて質問します。先生はこれらの人たちと比べて、どのへんにおられるのでしょうか?」
最も年少の弟子の一人であった子張を除いて、公孫丑がここで列挙した人物たちは、先進篇で列挙された十人の弟子と完全に重なっているのである。
公孫丑は斉人であり、儒家の斉スクールに属して学んだに違いない。いっぽう孟子は魯の属邦である鄒(すう)の人であり、儒家の魯スクールで学んだルーツを持つ。その孟子が公孫丑章句の同じ章で、上の孔門十哲を顕彰しようとする公孫丑を叱責して、逆に曾子を顕彰している。
公孫丑章句上篇二章での孟子と公孫丑との相違は、斉スクールと魯スクールの意見の相違が見えると解釈することもできるだろう。
また、一つ前の公孫丑章句上篇第一章で、弟子の公孫丑が管仲を称賛した言葉に対して、孟子は曾子の子孫の言葉を引用して管仲に最低の評価を与えて反論した。
孟子「君はマッタク斉の人間だのう。管仲・晏嬰しか知らないのか。昔、ある人が曾西(そうせい。曾子の子あるいは孫)に質問した際のやりとりだ。
ある人「あなたと子路(しろ。孔子の早くからの弟子で『論語』にも頻出)とでは、どちらが勝っているでしょうかね?」
曾西は、恐縮して言った。「わたしなどを先進のお方と比べようとは、なんと畏れ多い、、、」
ある人「では、あなたと管仲とでは、どちらが勝っているでしょうかね?」
曾西は、顔色を変えムカっとして言った、「おまえ、なんで余を管仲ごときと比べるのだ!管仲などはな、君主からあれほどまで深く信任を受けて、国政をあれほどまで長い間専断していながら、やった業績は下劣極まるものだ。おまえはなんで余をあんな奴と比べるかっ!」
わかったか、管仲については曾西ですら言いたくもなかったのだ。なのに君は余に何か言ってほしいのか?」
公孫丑「しかし、管仲は主君の桓公を覇者となし、晏嬰は主君の景公を助けて名声を天下に鳴らさせました。そんな管仲・晏嬰でも一顧だにする価値なしということなのですか?、、、」
これもまた、両者の意見の相違が垣間見られて興味深い。公孫丑は管仲の政治手腕を現実的に評価し、孟子は管仲が王道を主君に取らせなかったことを理想論から批判するのである。
最後に、季氏・陽貨・微子・および堯曰篇の子張問章について、武内先生はその内容が雑駁であって、後世の附加であろうと類推される。武内先生は微子篇について老荘思想の影響が明らかで、かつ雑多な文の寄せ集めであると評される。
しかしながら、私が微子篇を通読するに、少なくとも各章の配列については意図的な順序が見て取れる、と解釈できそうな予感がする。それで、私個人としてはこの微子篇は斉や魯とは別個の儒家の一スクールの伝承でなかったろうか、と想像してみたい。しかしこの点は、今後の課題としたい。
[(3)へつづく]