王者となるためには諸条件があり、それが備わったときに王者となる道が開ける。覇者となるためには諸条件があり、それが備わったときに覇者となる道が開ける。国家が辛うじて存続するためにも諸条件があり、それが備わっているときにようやく国家は存続できる。国家が滅亡するためにも諸条件があり、それが備わっているときに国家は必然的に滅亡してしまうものである。 大国(注1)の君主は、大国の力を使えることが、威強の立つ原因であり、名声の立つ原因であり、かつ敵の屈服する原因である。(注2)だがそもそも国が安全か危険か、上向くか没落するかは、すべて君主の意志次第であって、(究極的には)状況に依存するものではない。そして王者たるか覇者たるか、安全に存続するか危機に落ちて滅亡するかもまた、すべて君主の意志次第であって、(究極的には)状況に依存するものではないのである。 大国のような威強がまだ足らず、隣り合う敵を脅威とさせるにまだ足らず、名声はまだ天下を轟かせるほどに広がらない時期にいるとしよう。ならばこの国は、残念ながらまだ独立することができない。天下の慰み者となって苦しめられることを、免れない。だが暴虐な国に脅迫されて、その配下に組み敷かれて本心では望まない悪事を行うならば、この君主は日々桀(伝説の悪王)とともに悪事を行うことになる。この君主は実は堯(伝説の聖王)の善事を行っても、差し支えはない。しかし実際にこのような悪の配下にいては、功名は立てられず、存亡・安危の法則に従うこともできはしないのである。功名を立てて、存亡・安危の法則に従うためには、(注3)(訳A)必ず心が安らかで、とらわれることなくのびのびとしていなければならない。(注4)(訳B)必ず国が安泰で、心がとらわれることなくのびのびとできる段階にいなければならない。(小国の仁なる君主は、たとえ困難でも独立を維持し、暴虐国の配下となってはならない。)まことに、自らの国を王者のいる国として励むならば、いずれ王者となるのである。しかし自らの国を危険・滅亡が待っている道に追い込むならば、いずれそうなるであろう。国力が増した時期において、中立した独立を保ち、片方の勢力に偏ることなく、巧妙な外交で国を保ち(注5)、どっしりと構えて兵を保持しながら動かず、暴虐な国どうしが食い合って相打ちとなるのを傍観するのである。そして国内では政教を平らかにし、礼をよく実行し、人民を督励する。この努力をしたあかつきには、その兵力は抜きん出て天下の強国となっているであろう。そこでさらに仁義を修め、礼を尊び、法規を正し、賢良を選抜して、人民を養う。この努力をしたあかつきには、その名声は抜きん出て天下最大の賞賛を受けるであろう。もはや権勢は重く、兵は強く、名声は高い。堯と舜は天下を統一した君主であったが、彼らですらここまできたら、もはや助言修正することもなくなるであろう。 権謀して国を傾ける姦物が去れば、賢良で智恵ある士がおのずから集まるであろう。刑政を公平にし、人民を調和させ、国俗に礼があれば、兵は強く城は固くなるであろう。敵国は、おのずから屈するのである。農事に励み、財物を積み、気がゆるんで浪費することなく、群臣・人民にみな礼制法制どおり行動させたならば、財物は積み上がり、国家はおのずから富むであろう。以上のことを国君が体にしみて実施するならば、天下とて服すであろう。暴虐な国の君主は、自国の兵を使うことがもはやできなくなる。なぜならば、彼は共に国を守る者がいなくなるからである。本来彼のところには、自国の人民が集まってくるはずだ。だが彼の人民は、もはやこちらの国の君主に親しみ喜ぶことが父母のようであり、こちらの国の君主を好むことが芝蘭(しらん)の香りのようである。いっぽう自国の君主をかえりみれば、焼きごて・入れ墨の刑罰を受けるかのように、仇讎(かたき)であるかのように忌み嫌い、もはやこの国の人民の人情としては、たとえ桀・盗跖(とうせき)クラスの極悪人であったとしても、憎い自国の君主のために大好きなあちらの国の君主と戦うことなど、もうありえない。つまり、暴虐の君主は、もはや戦力を奪われてしまったのである。 ゆえにいにしえの人には一国から始めて天下を取った者はいたが、それはこちらから他国を攻め取りに行ったのではなくて、人々がその君主の下に入ることを願わずにはいられない政治を行ったまでのことであった。こうすることによって暴虐者を誅し、凶悪者を禁圧したのであった。ゆえに、周公は南に征伐したときには北国が怨み、「どうしてこちらに攻めてくれないのですか!」と言った。また東に征伐したときには西国が怨み、「どうしてこちらを後回しにするのですか!」と言った(注6)。このような仁義の軍と、だれがよく戦うことができようか?ゆえに、自国をここまでに高めることを為す者は、王者なのである。(王者) 次に、国力が増しているときに、兵を使わずに休ませ、民を休息させ、人民を慈愛し、田野を開き、国庫を満たし、武器を改良し、兵員の徴募を慎重に行い、それから褒賞を与えて督励し、刑罰を厳にして粛正し、事務に通じた士を抜擢して統率させる。こうして国庫には財貨が積み上がり、きちんと整理されて、物品の供給は十分となる。このとき敵国は兵士と防具と機械を日々戦場にさらして破壊し、わが国はこれらを国庫にて整理し手入れして格納するのである。敵国は財貨と糧秣を日々戦場にて無駄に浪費し、わが国はこれらを集めて蓄積するのである。敵国は才覚ある者と忠誠ある者と健康な者と精鋭の者を日々仇敵のために負傷させ消耗させ、わが国はこれらの者を朝廷に招聘して分属して訓練するのである。このようにして敵国は日々疲弊し、わが国は日々充実する。敵国は日々貧窮し、わが国は日々富強となる。敵国は日々労苦を重ね、わが国は日々楽になっていく。君臣・上下の関係は、敵国は疑心暗鬼となって日々に相離反し、わが国は従順で日々に相親愛するのである。こうして、敵国の疲弊を待つ作戦を取る。自国をこのように誘導できる者は、覇者なのである。(覇者) 次に、立ち居振る舞いは凡庸な風俗に従い、事業は凡庸な過去の慣例に従い、昇進させる者は凡庸な士であり、下の人民と接するときにはまずまず寛大な恩恵を振舞う。自国をこのように誘導する者は、国をなんとか安泰に存続させる。(安存) 次に、立ち居振る舞いは軽率劣悪で、事業は嫌ってやらず、昇進させる者は口先上手で子ずるい小人であり、下の人民と接するときには好んで収奪する。自国をこのように誘導する者は、国を危うくする。(危殆) 最後に、立ち居振る舞いはおごって強暴で、事業は国を危うくさせることを行い、昇進させる者は陰険で詐欺を行う悪人であり、下の人民と接するときには死ぬまで働けと言いながらその褒賞を怠慢し、臨時の税まで搾り取りながら農事への配慮を忘れる。自国をこのように誘導する者は、滅亡する。(滅亡) 以上の五つの者は、よく選ばなければならない。王者・覇者・安存・危殆・滅亡の条件は、これをよく選ぶ者は人を制し、よく選ばない者は他人に制せられる。これをよく選ぶ者は王者となり、よく選ばない者は滅亡する。王者と滅亡者、人を制する者と人に制せられる者、これら両者の隔たりは大きい。 (注1)原文「萬乘之國」。原意は戦車一万台を動員できる国、という意味。戦国時代の慣用句で、戦国七雄クラスの大国を言う。(注2)金谷治氏も藤井専英氏も、ここから後の文につなげて訳している。しかしながら、私はここで文を切って訳す。荀子は王者となる前提条件(=仁義)と実現させる力(=実力、威)をここで分けて考えていると私は考えるからである。大国は王者となれる力を持っているが、王者となる条件を持つかどうかは君主の心がけ次第である。逆に潜在的に王者となりうる仁の人であっても、いまだ小国で条件が整っていない時期においては忍従する期間を経なければならない。私は荀子の王者の段階論を、そのように考える。(注3)原文「愉殷赤心之所」を荻生徂徠は「功名の成る所、存亡安危の随い来る所の者は、中心愉安する所の善不善に在る」と言う。これに従うと、このような訳となるか。徂徠にしては珍しく、精神論的な解釈である。(注4)同じところを集解の王先謙は「孟子のいわゆる国家閒暇(国家にゆとりがあるとき)」と言う。こちらに沿うと、このような訳となるか。(注5)原文「縦横之事」。増注、猪飼補注、金谷治氏、藤井専英氏、いずれも自国を縦横に経営すること、と読んでいる。私は諸氏に組せず、巧妙な外交作戦を行うこととみなす。小国が独立するためには一国の努力では不可能で、周辺国からの攻撃をそらす外交策も必要である。孔子の弟子の子貢が魯を救うために諸国を操った外交を、見るがよい。子貢もまた儒家であり、現実的な荀子ならば子貢の策もやむをえなかったと考えたと思う。(注6)孟子滕文公章句下に、ほとんど同じフレーズが殷の湯王の征伐話として現れる。このフレーズは歴史ではなく、王者の理想を語っただけのことである。実際の聖王たちの戦争は血なまぐさいものであった可能性が高いが、孟子は武王の戦争の記録を信じることを拒絶して、「ことごとく書を信ずれば、則ち書なきに如かず」などと言った。
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《原文・読み下し》 具具(そな)わりて王たり、具具わりて霸たり、具具わりて存し、具具わりて亡ぶ。萬乘(ばんじょう)の國を用うる者は、威强の立つ所以なり、名聲の美なる所以なり、敵人の屈する所以なり。國の安危・臧否(ぞうひ)する所以は、制與(みな)此に在りて、人に亡し。王霸・安存・危殆・滅亡は、制與(みな)我に在りて、人に亡し。夫(か)の威强、未だ以て鄰敵(りんてき)を殆くするに足らず。名聲、未だ以て天下に縣(けん)するに足らざればなり。則ち是の國未だ獨立すること能わず、豈渠(あに)夫(か)の天下に累せらるるを免るることを得るんや。暴國に脅かされて、黨(とう)(注7)して吾が欲せざる所を是に爲す者は、日に桀と事を同じくし行を同じくするも、堯爲(た)るに害無きも、是れ功名の就(な)る所に非ざるなり、存亡・安危の墮(したが)(注8)う所に非ざるなり。功名の就る所、存亡・安危の墮(したが)(注8)う所は、必ず將(まさ)に愉殷(ゆいん)・赤心の所に於てせんとす。誠に其の國を以て王者の所と爲せば亦王たり、其の國を以て危殆滅亡の所と爲せば亦危殆滅亡す。殷(さかん)なる日、案(すなわ)ち以て中立し、偏する所有ること無くして、縱橫の事を爲し、偃然(えんぜん)として兵を案じて動くこと無く、以て夫の暴國の相卒(う)つを觀るなり。案ち政教を平(たいらか)にし、節奏を審(つまびらか)にし、百姓を砥礪(しれい)す。是を爲すの日にして、兵天下の勁(けい)を剸(もっぱら)にす。案ち仁義を脩め、隆高を伉(あ)げ、法則を正し、賢良を選び、百姓を養う。是を爲すの日にして、名聲天下の美を剸にす。權者は是を重くし、兵者は之を勁(つよ)くし、名聲は之を美にす。夫の堯舜なる者は天下を一にするものなるも、毫末(ごうまつ)を是に加うること能わず。 權謀・傾覆の人退けば、則ち賢良・知聖の士、案(すなわ)ち自ら進む。刑政平に、百姓和し、國俗節すれば、則ち兵勁く城固く、敵國案ち自ら詘(くつ)す。本事を務め、財物を積みて、棲遲(せいち)・薛越(せつえつ)を忘るること勿く、是に羣臣(ぐんしん)・百姓をして皆制度を以て行わしむれば、則ち財物積み、國家案ち自ら富む。三者を此(ここ)に體(たい)して、天下服す。暴國の君は案ち自ら其の兵を用うること能わず、何となれば則ち彼與(とも)に至るもの無ければなり。彼其の與に至る所の者は、必ず其の民ならん。其の民の我を親しむや、歡父母の若(ごと)く、我を好むや芳芝蘭(しらん)の如くなるべきに、其の上を反顧すれば則ち灼黥(しゃくげい)せらるるが若く、仇讎(きゅうし)の若くんば、彼の人の情性や、桀・跖と雖も、豈に其の惡む所の爲めに、其の好む所の者を賊するを肯(がえ)んずる有らんや。彼以(すで)(注9)に奪わる。 故に古の人、一國を以て天下を取る者有り、往(ゆ)いて之を行うに非ざるなり、政を其の願わざること莫き所に脩むるのみ。是(かく)の如くにして、以て暴を誅し悍を禁す可し。故に周公南征して北國怨みて曰く、何ぞ獨り來らざるや、と。東征して西國怨みて曰く、何ぞ獨り我を後にするや、と。孰(た)れか能く是と鬭(たたか)う者有らんや。安(すなわ)ち其の國を以て是を爲す者は王たり。殷(さかん)なる日、安ち以て兵を靜め民を息(やす)め、百姓を慈愛し、田野を辟(ひら)き、倉廩を實(みた)し、備用を便にし、安ち募選を謹み材伎の士を閱(えら)び、然る後に賞慶に漸(ひた)して以て之を先にし、刑罰を嚴にして以て之を防ぎ、士の事を知る者を擇びて、相率貫(そつかん)せしむるなり。是を以て厭然(えんぜん)として畜積・修飾して、物用之れ足るなり。兵革・器械をば、彼將(は)た日日之を中原(ちゅうげん)に暴露・毀折し、我は今將た府庫に之を脩飾し之を拊循(ふじゅん)し之を掩蓋(えんがい)す。貨財・粟米をば、彼將た日日之を中野(ちゅうや)に棲遲(せいち)・薛越(せつえつ)し、我今將た之を倉廩に畜積(ちくし)・并聚(へいしゅう)す。材伎・股肱・健勇・爪牙の士をば、彼將た日日仇敵に之を挫頓(ざとん)・竭(けつ)し、我今將た朝廷に之を來致し之を并閱(へいえつ)し之を砥礪(しれい)す。是の如くなれば、則ち彼日に敝(へい)を積み、我日に完を積む。彼日に貧を積み、我日に富を積む。彼日に勞を積み、我日に佚(いつ)を積む。君臣上下の間は、彼將た厲厲焉(れいれいえん)として日日相離疾(りしつ)し、我は今將た頓頓焉(とんとんえん)として日日相親愛するなり。是を以て其の弊を待つ。安ち其の國を以て是を爲す者は霸たり。立身は則ち傭俗に從い、事行は則ち傭故に遵(したが)い、貴賤を進退するは則ち傭士を舉げ、之(そ)の下の人百姓に接する所以の者は則ち寬惠(かんけい)を庸(もち)う、是の如き者は則ち安存す。立身は則ち輕楛(けいこ)、事行は則ち蠲疑(けんぎ)(注10)、貴賤を進退するは則ち佞侻(ねいえい)を舉げ、之(そ)の下の人百姓に接する所以の者は則ち好取侵奪す、是の如き者は危殆なり。立身は則ち憍暴(きょうぼう)、事行は則ち傾覆、貴賤を進退するは則ち幽險(ゆうけん)・詐故(さこ)を舉げ、(注11)之(そ)の下の人百姓に接する所以の者は、則ち好んで其の死力を用いて、其の功勞を慢(あなど)り、好んで其の籍斂(せきれん)(注12)を用いて、其の本務を忘る、是の如き者は滅亡す。此の五等の者は、善(よ)く擇(えら)ばざる可からざるなり。王・霸・安存・危殆・滅亡の具なり。善く擇ぶ者は人を制し、善く擇ばざる者は人之を制す。善く之を擇ぶ者は王たり、善く之を擇ばざる者は亡ぶ。夫の王者と亡者と、人を制すると人之を制すると、是れ其の相縣(けん)するを爲すや亦遠し。 (注7)集解の王先謙は「黨(党)」字を楚の方言と考え「知」の意味であると言う。(注8)集解の兪樾、増注の荻生徂徠、いずれも「墮」を「随」と読むべきと言う。(注9)猪飼補注は「以」は「已」であると言う。已(すで)に。(注10)「蠲」を集解の郝懿行は「明」の意と言い、「蠲疑」を明察を喜んで狐疑を好むと言う。増注は蠲を嫌と読むべしと言う。増注に従う。(注11)原本「之所以接下之人百姓者、、、」。増注は、宋本では「之」字の前に「人」字があるが元本ほかにはなく、後者に拠って除いたと言う。底本の漢文大系もまた、「人」字を省略している。なお、王覇篇(1)注9も参照。
(注12)「籍」を猪飼補注は正税にあらずして民より取ること、と言う。これに従う。 |
王制篇のこの末尾部分は、楊倞の注がない。そして、難解なところがある。私は、ここで荀子が王者の段階論を述べているのだ、と解釈したい。「仁・義・威の三つを備えた者は、王者になろうと思えばなれるし、覇者になろうと思えばなれるし、強者になろうと思えばなれるのである。」(王制篇(3))と荀子が言っていることの説明が、この末尾であると思う。すなわち、
仁義 | 王者の前提条件。王者は状況に関わりなく、保持している。(歴史上の)覇者は不十分に持ち、(偽の)強者は持たない。 |
威 | 前提条件を実現させる力。王者は段階的に獲得していく。覇者・(偽の)強者は保持し、小国は保持できない。 |
よって、小国に生まれた王者はまず(真の)強者から始まって独立を保ち、国力と名声が上がればおもむろに覇者に移り、ついには王者となって天下を統一するであろう。これは王者の「威」が拡大していく過程である。王者といえども、小国からではすぐに天下を統一はできない。時間をかけて名声を広め、それが王者の「威」を増して天下統一に近づいていく、というストーリーではないか、と私は考える。なので、王者といえども必ず覇者の段階を経て、そこから王者となって天下を統一するはずである。現実に現れた斉の桓公などの覇者は、仁義を身につければ覇者の段階を越えて天下を統一する王者となることができた。しかしながら桓公はそれをしなかったので、覇者の段階を越えられなかった。現実の歴史は置いておいて、荀子はそのように覇者を位置づけていたのではないか、と私は考える。
よって大国の王であったほうが、王者となるには近い。孟子は大国である斉国の王が心がけ次第で天下の王者となるのは、小国より始った周の文王よりもたやすいはずだ、と言った(公孫丑章句上、一)。しかしそれでも孟子は「文王を手本とすれば、大国は五年で必ず天下に政治を行えるようになり、小国でも七年で必ずそうなるであろう。」と空想的な展望を述べる。荀子もまたこんな短期間での天下取りが可能であったと考えていたとは思いたくないが、荀子もまた仁義の人ならば小国から始めても必ず覇者となり、そこから進んで王者となって天下を取ることが必然であると考えていたはずである。(後記:儒效篇において「大儒を用うれば、則ち百里の地も久しく、而(しか)も後三年にして、天下一と爲り、諸侯臣と爲る。」とある。儒效篇で言う「大儒」とは周公や孔子のような聖人のことであるが、そのような聖人が国政を行えば百里四方の小国でも三年で天下を統一できる、と言う。荀子もまた孟子と同様の空想的な構想を述べているのであって、三年とか五年とかで天下が統一できる、という言葉は、儒家に共通の大言壮語的な決まり文句であると言うよりほかはない。)
王者が戦わずして勝つくだりは、いつもながらどうしようもなく甘い。荀子の時代には、すでに中華世界の文化がおおかた平均化されて、天下統一の意識が見えていた。だから、このようなストーリーも描くことができたのである。現実的に王者に最も近い同時代の国として、荀子は秦国に期待していたことは、私は疑いないと考える。すでに「威」では天下を支配するまで強大となった秦国が「仁義」まで備えたとき、荀子の王者が実現するだろう。荀子はそう考えて、秦国を訪問したに違いない。
現実の歴史では、秦を倒した漢、それ以降に続いた中華帝国が、荀子のプランの実現者であった。こうして、荀子の理想は実現された。現代の者は、荀子の理想であった「王者の国」すなわち法治官僚が支配する専制帝国が現代にとって理想ではありえない、ならば世界全体を納得させる王者の道とはありえるのか、ありえるとしたらどんなものであるべきなのか、それよりもそんなものはあるべきなのか?というところを問わなければならない。それはもう自らのプランを出し終わった荀子の作業ではなくて、現代の我々の作業である。
これで、王制篇は終わった。荀子の王者・覇者・強者論は、王覇篇第十一で再説される。内容は王制論と同工異曲なので、後回しとしたい。続く君道篇第十二、臣道篇第十三、致士篇第十四は論語や孟子の君臣の倫理を長大な論文としたような内容であり、いささか退屈である。よって、戦国時代史、および荀子学派の議論として歴史的な興味が持てる議兵篇第十五、彊国篇第十六、それから荀子の合理論として名高い天論篇第十七、荀子の禅譲放伐に関する見解を示した正論篇第十八に進みたいと思う。