伊藤仁斎:大学は孔氏の遺書に非ざるの弁(4)

投稿者: | 2017年8月27日
出典:岩波書店『日本思想大系33』昭和46年から漢文原文を取り、同書を参考にしながら読み下しを作成した。『日本思想大系』は、底本を宝永二年刊本『語孟字義』に拠っている。参考とした前書の漢文原文が新字体に変えられているので、下の読み下しもまた新字体で行う。
《現代語訳》
また『大学』には、「大学の道は、明徳を明(あきら)かにするに在り」とある((注1)。思うに、「明徳」という言葉は、『書経』の夏・殷・周三代の各篇にしばしば表れる。しかしながら、これら三代の各篇は、もともといにしえの聖人たちの行いを記録したがゆえに、あるいは聖人の徳を称える目的をもって、「明徳」とか「峻徳」とか「昭徳」とかの語を用いたのであった。「明徳」も「峻徳」も「昭徳」も、意味は同じである。ゆえに典(てん)・謨(ぼ)・誓(せい)・誥(こう)(注2)にこれらの語はしばしば見えるが、それらは聖人を指す言葉であって学ぶ者を指すものではない。なので孔孟においては、常に「仁」と言い、「義」と言い、「礼」と言ったのであって、一度として「明徳」などという言葉に言及したことはなかった。『大学』の作者は、どうして孔孟が「明徳」の語を用いなかったのかの意図がわからず、『詩経』や『書経』に「明徳」の語が多く見えることを見て、むやみにこの語を使っただけだ。これこそ、孔孟の意図を理解していなかったということではないだろうか?

また『大学』には、「人の君となるは、仁に止まる」とある(伝三章)。だが、孔孟の学は、仁を最も重要なものとみなすものだ。およそ学ぶ者は、仁に従わないなどということはありえない。それなのに『大学』はここで仁をただ君主ひとりに属させて、学ぶ者のために仁を言うことがない。これもまた、孔孟の趣意と異なる。

また『大学』には、「其の心を正しゅうせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす」とある()。「意」字の意味は、一つである。『論語』は、「(意)なし」と説く(注3)。『大学』は、「(意を)誠にす」と説く。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているはずである。ところで『中庸』には「身を誠にす」(第二十章)とあるが、「意を誠にす」とは言わない。すなわち、「誠」の字は身に施すべきものであって、意に施すべきものではないことは、明らかである(注4)

また『大学』には、「楚書に曰く、楚国は以て宝とすること無し」とある(伝十章)。だがそもそも楚国とは、孟子の言う「南蛮鴃舌(なんばんげきぜつ)」(注5)の風俗であり、中国では同類扱いしなかった蛮族の国であった。しかしその楚国の出身であった陳良(ちんりょう)は、自国で学ぶことをしないで北に赴き、周公・仲尼(ちゅうじ。孔子のあざな)の道を中国で学んだのだ(注6)。それなのに『大学』は文王・武王・周公の教訓を引用せず、わざわざ遠い楚人の言葉を用いる。最も不可解である。

また『大学』には、「財を生ずるに大道有り」とある(伝十章)。そもそも財貨とは、民衆がそれを元手にして生活するところのものである。なので財政を確保するために禁令を設けて、「入るを量って出(い)だすことを為」し(注7)、あらかじめ財政収支の道筋を論じる必要は、確かにある。しかしながら、「民衆が平等であれば貧困者はいなくなり、上下が和合していれば民衆の数が少ないことは問題ではなく、国が安定していれば傾くことはない」のである(『論語』季氏篇にある言葉)。君子が、どうして財政を豊かにするための大道を求めなければならないのであろうか?いわんや『大学』は礼・義・信の三つを大道と言わないのに、財政を豊かにするためには大道があると言うのは、どういうことであろうか?それが孔子の言葉ではない、ということが分かるというものだ。

また『大学』には、「此を国は利を以て利とせず、義を以て利とすと謂うなり」とある(伝十章)。この言葉もまた、利心をもって言うものである。孟子は、「王何ぞ必ずしも利と曰わん。また仁義有るのみ」と言う(梁恵王章句上で、孟子が梁の恵王に言った言葉)。孟子の言うとおり、そもそも君子がその道を行うときには、ただ義だけを貴ぶのであって、たとえ有利であったとしても有利であるから行うなどという考えを斥けるのである。いやしくも義を行うことが有利であるなどという心があるときは、その果てには義を捨てて利を取る結末に必ず陥るであろう。思うに中国の戦国時代は人々がひどい状況に落ちていたために、人々がみな利だけを喜ぶまでに心が荒んでいた。そうして上は王公や貴人から下は庶民に至るまで、ただ利だけを聞こうとした。そんな時代であったので、真摯に学ぶ儒者といえども、己の策が普及しないことを憂いて、必ず自説に利を含ませて人々に与えなければならなかったのであろう。「財を生ずるに大道有り」とか「義を以て利とす」とかの主張は、きっとこの時代に利を含ませた方便として用いられたのであろう。だから『大学』が孔子の遺書でないことは、全く明らかなことである。


(注1)以下の『大学』の引用は、すべて『日本思想大系』の読み下しに従う。
(注2)いずれも、『書経』の各篇の篇名に用いられる。
(注3)論語子罕篇「子四を絶つ、意毋(な)し、必毋し、固毋し、我毋し」を指す。「先生(孔子)は、四つのことを絶たれた、私意を持たず、絶対やるということにこだわらず、固執することなく、我を通さなかった」という意味。よって「意毋し」とは私意を持たない、ということ。
(注4)『語孟字義』「意」の章でやはり『大学』の「意を誠にす」が批判されている。
(注5)孟子滕文公章句上にある言葉。南方の奇怪な言葉をしゃべる蛮族ども、という意味。古代の楚国は長江流域を支配していた国であって、華北の中原地方とは文化風俗が全く異なっていた。
(注6)陳良のことは、上注の滕文公章句に出て来る。
(注7)礼記王制篇の言葉。財政収入の額を先に見積もってその範囲内で財政支出する、という財政の原則。伝十章のくだんの箇所で朱子注がこの言葉を引用している。
《読み下し》
大学に曰く、大学の道は、明徳を明(あきら)かにするに在り。按ずるに明徳の名、屡(しばしば)三代の書に見えたり。然れども三代の書、本(もと)聖人の行う所を記し、或は此を以て聖人の徳を美して、或は明徳と曰い、或は峻徳と曰い、或は昭徳と曰う。其の意一なり。故に数々(さくさく)典(てん)・謨(ぼ)・誓(せい)・誥(こう)の間に見ると雖(いえど)も、然れども学者の能く当る所に非ず。故に孔孟に至っては、毎(つね)に仁と曰い、義と曰い、礼と曰いて、未だ嘗て一言も明徳に及ぶ者有らず。大学を作る者、其の意の在ることを知らず、詩・書多く明徳の言有るを見て、漫(みだ)りに之を述ぶるのみ。豈に孔孟の意を識らざるに非ずや。
又曰く、人の君となるは、仁に止まる。夫れ孔孟の学は、仁を以て宗として、凡そ学者事(こと)に此に従わずということ莫し。今大学独り之を人君に属して、学者の為に之を道(い)う者無し。是れ亦孔孟の旨と異なり。
又曰く、其の心を正しゅうせんと欲する者は、先ず其の意を誠にす。夫れ意は一なり。論語に毋(なか)れと説く。大学誠にすと説く。一正一反、必ず是非無くんばある可からず。而(しこう)して中庸に身を誠にすと曰うて、意を誠にすと曰わざるときは、則ち誠の字当(まさ)に之を身に施すべくして、之を意に施す可からざること明かなり。
又曰く、楚書に曰く、楚国は以て宝とすること無し。夫れ楚は南蛮鴃舌(なんばんげきぜつ)の俗、中国の歯(し)せざる所、而して陳良(ちんりょう)は楚の産、乃(すなわ)ち其の国に学ばず、北のかた周公・仲尼の道を中国に学ぶ。今大学、文・武・周公の訓を引かずして、遠く楚人(そひと)の言を用ゆ。最も解す可からず。
又曰く、財を生ずるに大道有り。夫れ財とは、生民の資(よっ)て以て生ずる所の者、固(まこと)に之が為に禁を立て厲(れい)を設け、入るを量って出(い)だすことを為し、預(あらかじ)め度支(たくし)の方を講ぜずんばある可らず。然れども均しきときは貧しきこと無く、和らぐときは寡なきこと無く、安きときは傾くこと無し。君子詎(なん)ぞ財を生ずるの道を求めんや。況(いわ)んや礼・義・信の三つの者は、猶(な)お之を大道と謂わず、其の財を生ずるに於て大道有るは、何ぞや。孔氏の徒の言に非ざること知んぬ可し。
又曰く、此を国は利を以て利とせず、義を以て利とすと謂うなり。是れ亦利心を以之を言う者なり。孟子の曰く、王何ぞ必ずしも利と曰わん。亦仁義有るのみ。夫れ君子の道を行うや、惟(た)だ義是れ尚(とうと)ぶ。而して利の利たることを知らざるなり。苟(いやし)くも義を以て利とするの心有るときは、則ち其の卒(おわ)りや、義を捨てて利を取らざること莫し。蓋(けだ)し戦国の間、陥溺の久しき、人皆利を悦ぶ。而して王公・大人より、以て庶人に至るまで、惟だ利のみ之れ聞かんと欲す。故に被服の儒者と雖も、毎(つね)に其の術の售(う)れざるを憂い、必ず利を以て人に啗(くら)わしむ。所謂(いわゆる)財を生ずるに大道有り、又曰く義を以て利とす、蓋し此の術を用うるなり。大学、孔氏の遺書に非ざること、彰々然として明かなり。
《原文(新字体)》
大学曰。大学之道。在明明徳。按明徳之名。屡見於三代之書。然三代之書。本記聖人之所行。或以此美聖人之徳。或曰明徳。或曰峻徳。或曰昭徳。其意一也。故雖数々見於典・謨・誓・誥之間。然非学者之所能当。故至於孔孟。毎曰仁。曰義。曰礼。而未嘗有一言及於明徳者矣。作大学者。不知其意在。見詩・書多有明徳之言。而漫述之耳。豈非不識孔孟之意乎。又曰。為人君。止於仁。夫孔孟之学。以仁為宗。而凡学者莫不従事於此。今大学独属之於人君。而無為学者道之者。是亦与孔孟之旨異矣。又曰。欲正其心者。先誠其意。夫意一也。論語説毋。大学説誠。一正一反。必不可無是非。而中庸曰誠身。而不曰誠意。則誠字当施之於身。而不可施之於意明矣。又曰。楚書曰。楚国無以為宝。夫楚南蛮鴃舌之俗。中国之所不歯。而陳良楚之産。乃不学於其国。而北学周公・仲尼之道於中国。今大学不引文・武・周公之訓。而遠用楚人之言。最不可解焉。又曰。生財有大道。夫財者。生民之所資以生者。固不可不為之立禁設厲。量入為出。預講度支之方。然均無貧。和無寡。安無傾。君子詎求生財之道乎。況礼・義・信三者。猶不謂之大道。其於生財有大道。何哉。非孔氏之徒之言可知矣。又曰。此謂国不以利為利。以義為利也。是亦以利心言之者也。孟子曰。王何必曰利。亦有仁義而已矣。夫君子之行道也。惟義是尚。而不知利之為利也。苟有以義為利之心焉。則其卒也。莫不捨義而取利也。蓋戦国之間。陥溺之久。人皆悦利。而自王公・大人。以至於庶人。惟利之欲聞。故雖被服儒者。毎憂其術之不售。必以利啗人。所謂生財有大道。又曰以義為利。蓋用此術也。大学非孔氏之遺書。彰々然明矣。

仁斎は、さらに『大学』において自らが違和感を持つ箇所を列挙して批判する。すべて「大学は孔子の遺書ではない」ということを論証するために行っているのであって、これを後世の書であるということを認めたら、『大学』もまたより新しい時代の儒家の論文として一定の価値を与えることができるだろう。戦国時代末期の儒家であった荀子は、その著書で経済政策論を大いに行っているところである。仁斎は、孔孟の学を純粋な倫理学として理解しようとする。かれに続く時代に論陣を張った荻生徂徠は、それとは正反対に孔子の学を全く統治のためのテクニックを開陳した体系として理解しようとする(ゆえに徂徠は個人の心の論議に偏重する孟子を批判し、より社会の統治の論議を重視する荀子を孟子より上に置いた)。だが古代の儒家思想が仁斎的・徂徠的のどちらにも読める、ということは、儒家思想(むしろ、すべての古代中国思想)は必ず人の矯正と社会の安定との両方の側面を主張しなければならなかった、ということを指し示しているのである。

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