大学章句:伝十章(四)・結語

投稿者: | 2017年8月1日
大きな太字は、『礼記』大学篇の原文を示す。
細字は、『礼記』大学篇に朱子が付け加えた書き下ろし文を示す。
小さな茶字は、朱子が書き下ろした注解を示す。
《読み下し》
財を生ずるに大道(たいどう)有り。之を生ずる者衆(おお)く、之を食(くら)う者寡(すくな)く、之を爲(つく)る者疾(はや)く、之を用うる者舒(ゆるや)かなれば、則ち財恒(つね)に足る。
恒は、胡登(ことう)の反。
呂氏(りょし)曰(いわ)く、國に遊民(ゆうみん)無ければ、則ち生ずる者衆し。朝(ちょう)に幸位(こうい)無ければ、則ち食う者寡し。農時を奪わざれば、則ち之を爲(つく)ること疾し。入るを量りて出づるを爲せば、則ち之を用うること舒かなり、と。愚(それがし)按ずるに、此は、土(ど)有り財有るに因って言い、以て國を足すの道は、本(もと)を務めて用を節するに在りて、必ず本を外にして末(すえ)を內にして而(しか)る後財聚(あつ)む可(べ)きに非ざるを明(あきら)かにするなり。此より以て篇を終うるに至るまで、皆一意なり。

仁者は財を以て身を發(おこ)し、不仁者は身を以て財を發す。
發は、猶(な)お起こすのごときなり。仁者は財を散じて以て民を得、不仁者は身を亡ぼして以て貨を殖(ふや)す。
未(いま)だ上(かみ)仁を好みて、下(しも)義を好まざる者有らざるなり。未だ義を好みて、其の事終(おわ)らざる者有らざるなり。未だ府庫(ふこ)の財其の財に非(あら)ざる者有らざるなり。
上、仁を好みて以て其の下を愛すれば、則ち下、義を好みて以て其の上に忠なるは、事必ず終(おわり)有りて、府庫の財に悖出(はいしゅつ)の患(うれい)無き所以(ゆえん)なり。
孟獻子(もうけんし)曰く、馬乘(ばじょう)を畜(か)うものは、雞豚(けいとん)を察せず。伐冰(ばつひょう)の家は、牛羊(ぎゅうよう)を畜わず。百乘(ひゃくじょう)の家は、聚斂(しゅうれん)の臣を畜(やしな)わず。其の聚斂の臣有らんよりは、寧(むし)ろ盜臣(とうしん)有れ、と。此は國は利を以て利と爲(な)さず、義を以て利と爲すを謂うなり。
畜(きく)は、許六(きょりく)の反。乘(じょう)・斂(れん)は、並びに去聲(きょせい)。
孟獻子は、魯(ろ)の賢大夫(けんだいふ)、仲孫蔑(ちゅうそんべつ)なり。馬乘を畜うとは、士初めて試(もち)いられて大夫(たいふ)と爲(な)れる者なり。伐冰の家は、卿大夫(けいだいふ)以上にして、喪祭(そうさい)に冰(こおり)を用うる者なり。百乘の家は、采地(さいち)有る者なり。君子は寧ろ己の財を亡(うしな)うも、民の力を傷つくるに忍びず。故(ゆえ)に寧ろ盜臣有らんも、聚斂の臣を畜わず。「此謂」以下は、獻子の言を釋(と)くなり。

國家(こっか)に長として財用(ざいよう)を務むる者は、必ず小人に自(よ)る。彼を之を善(よ)しと爲して、小人を之れ使いて國家を爲(おさ)むれば、菑害(しがい)並びに至り、善者有りと雖も、亦之を如何(いかん)ともする無し。此は國は利を以て利と爲さず、義を以て利と爲すを謂うなり。
長は、上聲。「彼爲善之」、此の句の上下に、疑うらくは闕文(けつぶん)・誤字有らん。
自(じ)は、由(よ)るなり。小人之を導くに由るを言うなり。此の一節は、深く利を以て利と爲すの害を明(あきら)かにし、重ね言い以て之を結ぶ。其の丁寧の意切(せつ)なり。

右は傳(でん)の十章。國を治めて天下を平(たいら)かにするを釋(と)く。
此の章の義は、務(つとめ)は民と好惡(こうお)を同じくして、其の利を專(もっぱら)にせざるに在りとし、皆絜矩(けっく)の意を推し廣(ひろ)むるなり。能(よ)く是(かく)の如くなれば、則ち賢に親しみ利を樂(たの)しみ、各(おのおの)其の所を得て、天下平かなり。



凡(およ)そ傳は十章にして、前の四章は、綱領の指趣(ししゅ)を統論(とうろん)し、後の六章は、條目(じょうもく)の功夫(こうふ)を細論(さいろん)す。其の第五章は、乃(すなわ)ち善に明かなるの要、第六章は、乃ち身に誠(まこと)なるの本(もと)にして、初學(しょがく)に在りて、尤(もっと)も當(まさ)に務むべきの急と爲す。讀者(どくしゃ)其の近きを以て之を忽(ゆるがせ)にす可からざるなり。


《用語解説・本文》
之を生ずる者衆く、之を食う者寡く、之を爲る者疾く、之を用うる者舒かなれば、則ち財恒に足る「之」は一般的な意味で言えば有用な生産物を指している。『大学』は古代の書であって、農業生産が富の根本であった経済を想定して述べているので「之」は農産物を指す。朱子の時代においては、もう少し広く農工業品を想定していると思われる。
國は利を以て利と爲さず、義を以て利と爲す荀子栄辱篇に「義を先にして利を後にする者は栄え、利を先にして義を後にする者は辱(はずか)しめらる」とある。
孟獻子春秋時代魯国の大夫(たいふ)、仲孫蔑(ちゅうそんべつ)のこと。魯国の実力者で賢者として名声高かった。孟子萬章章句で言及されている。
馬乘を畜うものは雞豚を察せず、、この孟獻子の言葉は、荀子大略篇にある言葉を想起させる。「五十三」を参照。『韓詩外伝』にも近い言葉が見える。
百乘の家百乗とは、戦車百台のこと。古制で戦車百台を供出する義務がある領地を持った上級貴族のこと。
彼を之を善しと爲して原文「彼爲善之」。朱子は「此の句の上下に、疑うらくは闕文・誤字有らん」と言う。程子は「不」字をはさんで「彼爲不善之(彼は之を善からずと爲して)」となすべきことを示唆する。この場合「彼」は国君であり「之」は「義を以て利となす」政治を指すことになるだろう。朱子は、上下に何か闕文・誤字があったかもしれないと疑っている。しかし新釈は「彼」は小人、「之」は「財用を務む」こととみなして上の読み下しのように解釈し、闕文・誤字を考える必要性はないと説く。新釈に従いたい。
功夫『漢文体系』所収の大学章句は、四書集註大全本に拠って「工夫」とする。功夫・工夫ともに、手間をかけて努力すること。

《用語解説・朱子注》
恒は、胡登の反反は反切のこと。以下も同じ。伝三章(後)の用語解説を参照。
呂氏呂大臨(りょ・たいりん)。北宋の儒者。程頤(二程子のうち、弟のほう)に学んだ。
入るを量りて出づるを爲す『礼記』王制篇にある、古典的な財政規律を指す言葉。財政は収入見積りを先に量って、その範囲内でだけ支出せよというルール。ただし21世紀経済のような資本過多で投資機会不足の経済においては、このようなルールにこだわることはかえって景気を悪化させて財政収入を減らすことにもなりかねない。
自分を謙遜した語。「それがし」。つまり、この注を書いた朱子のこと。
去聲・上聲中国語の四声(四つの声調、抑揚の調子)の一。経(4)用語解説参照。
士・卿大夫士は古代における最下級の宮廷人。卿・大夫は古代における高位の身分。卿は大臣級で、大夫はそれに次ぐ。

《現代語訳》
財政を豊かにするにも、人を統治することと同じく大道(たいどう)というものがある。「これ」(有用な生産物。『大学』の時代では農作物を想定している)を作る民を増やして、これを食いつぶす無用の民を抑え、これの作り手はせっせと働き、これを取り立てて用いる国家は急がずゆるやかに行うことだ。こうするならば、財政は常に満ちるであろう。
「恒」は、「胡」「登」の反切。
呂氏(呂大臨)が言った、「国に遊民がいなければ、生産者は多くなる。朝廷に実力ではなく幸運で高位を得た者がいなくなれば、徒食する者は少なくなる。農作業の時期を邪魔しなければ、農民はせっせと働く。財政は収入の額を先に見積もってその範囲内で支出するならば、これを用いることもゆるやかになる」と。愚(それがし)が考えるに、本文のこの言葉はさきの「土有れば此に財有り」(本章(二))の言葉に応じて言われたものであり、国家を満ち足らせる道とは、その本(もと)である民衆の心を得ることに努力して、財政の使用はなるたけ無駄をしないところにあるのであって、本を遠ざけて末を大事にして、ただただ財貨を集めればよいということでは決してない、ということを明らかにしたものである。ここから大学篇の終わりまでは、すべて同じ意味を言っている。

仁者は、その財貨をよく用いることによってその身を高く起こす。だが不仁者は、その身を持ち崩して財貨を高く積み上げる。
「發」は、起こすという意味である。仁者は、財をよく散じることによって民衆を得る。しかし不仁者は、その身を滅ぼしながら財貨を殖やすのだ。
上の者が仁を好んで、下の者が義を好まないことはない。民衆が義を好んで、国家のことが成し遂げられないことなどない。そうすれば国庫に集まった財貨が、国が思ったように使えないということもない(民衆の信を得ているので、財貨が思惑に逆らって出ていってしまうようなことはない)。
上の者が仁を好んで下の者を愛するならば、下の者は義を好んで上の者に忠勤するだろう。そうであるから国家のことは必ず成し遂げれられて、国庫の財貨が思惑に逆らって出ていく心配はないのだ。
孟献子(もうけんし)が言った、「軍事用の馬を飼うような高位の者は、あくせくと自分で鶏や豚の世話までしないのだ。伐冰(ばつひょう。喪祭で冬に氷を切り出す儀式。卿大夫以上の身分が行うという)を行うような高位の者は、意地汚く自分で牛や羊まで飼ったりしないのだ。戦車百乗(ひゃくじょう)を出す高位の者は、過酷に税を取り立てる家臣を雇ったりしないのだ。過酷に税を取り立てる家臣がいるよりは、主人から財貨を盗む家臣がいたほうがまだましというものだ」と。これは、国家は我が手に財貨を集めるような利益を真の利益とせず、義を守ることをこそ真の利益とする、ということを言っている。
「畜」は、「許」「六」の反切。「乘」・「斂」は、いずれも去聲。
孟献子は、魯の賢大夫の仲孫蔑である。「馬乘を畜う」者とは、士が初めて試しに大夫に昇任させられた者である。「伐冰の家」とは、卿大夫以上の者であり、喪祭において氷を用いる者である。「百乘の家」は、領地がある者である。君子はむしろ己の財貨を失っても、民衆の力を傷つけるに忍びないものだ。ゆえにむしろ主人から財貨を盗む家臣がいたとしても、過酷に税を取り立てる家臣は雇わないのである。「此は國は、、謂うなり」は、孟献子の言葉を解説したものである。

しかしながら、国家の長として財源とその用途について熱心に務める者は、いつも小人を頼りにして登用する。君主は、その小人が財政に詳しいと思って登用するのであるが、こういう小人を用いて国家を治めたならば、わざわいが次々に起こり、たとい君主のもとに善者がいたとしても、もはやどうすることもできない。だから「国家は我が手に財貨を集めるような利益を真の利益とせず、義を守ることをこそ真の利益とする」と言わなければならないのだ。
長は、上聲。「彼爲善之」の句の上か下に、闕文(欠落した文)または誤字があることを疑う。
「自」は、頼りにすることである。財源とその用途を運営するときに、小人を頼りにすることを言う。この一節は、我が手に財貨を集めるような利益を真の利益とすることの害を深く明らかにして、言葉を再度重ねて結びとしたのである。丁寧であり、意図は切実である。

以上は、伝の十章である。国ををよく治めて、天下を平和に治めることを説く。
この章の意味は、君子のなすべき務めはその好むことと嫌うことを民衆と同じくして、上の利益だけを追求してはならないということである。これもすべて、「絜矩(けっく)の道」の意味するところから推し広げられたものである。このようにすることができたならば、賢人に親しんでなおかつ利益も享受することができるようになり、上から下まで各々の地位の者がしかるべき場所を得ることができて、天下は平和に治まるであろう。



全部で、伝十章。最初の四章は、三綱領の趣旨を総論し、後の六章は、八条目において努力すべきことがらを詳論している。伝五章(格物致知)は、まさしく善を明らかに解明するための緊要である。伝六章(誠意)は、まさしくわが身について誠になるための根本である。これら二章は、初学の者がまっさきに真剣に努力すべきことである。この書を読む人は、これら二章のことが自分の手近でできることだからといって、これを粗略に行ってはならないのだ。

《原文》
生財有大道。生之者衆、食之者寡、爲之者疾、用之者舒、則財恒足矣。
恒、胡登反。
呂氏曰、國無遊民、則生者衆矣。朝無幸位。則食者寡矣。不奪農時、則為之疾矣。量入爲出、則用之舒矣。愚按、此、因有土有財而言、以明足國之道、在乎務本而節用、非必外本內末而後財可聚也。自此以至終篇、皆一意也。

仁者以財發身、不仁者以身發財。
發、猶起也。仁者散財以得民、不仁者亡身以殖貨。
未有上好仁、而下不好義者也。未有好義、其事不終者也。未有府庫財非其財者也。
上、好仁以愛其下、則下、好義以忠其上、所以事必有終、而府庫之財無悖出之患也。
孟獻子曰、畜馬乘、不察於雞豚。伐冰之家、不畜牛羊。百乘之家、不畜聚斂之臣。與其有聚斂之臣、寧有盜臣。此謂國不以利爲利、以義爲利也。
畜、許六反。乘・斂、並去聲。
孟獻子、魯之賢大夫、仲孫蔑也。畜馬乘、士初試爲大夫者也。伐冰之家、卿大夫以上、喪祭用冰者也。百乘之家、有采地者也。君子寧亡己之財、而不忍傷民之力。故寧有盜臣、而不畜聚斂之臣。此謂以下、釋獻子之言也。

長國家而務財用者、必自小人矣。彼爲善之、小人之使爲國家、菑害並至。雖有善者、亦無如之何矣。此謂國不以利爲利、以義爲利也。
長、上聲。彼爲善之、此句上下、疑有闕文・誤字。
自、由也。言由小人導之也。此一節、深明以利爲利之害、而重言以結之。其丁寧之意切矣。

右傳之十章。釋治國平天下。
此章之義、務在與民同好惡、而不專其利、皆推廣絜矩之意也。能如是、則親賢樂利、各得其所、而天下平矣。



凡傳十章、前四章、統論綱領指趣、後六章、細論條目功夫。其第五章、乃明善之要、第六章、乃誠身之本、在初學、尤爲當務之急。讀者不可以其近而忽之也。

伝十章の最後は、経済政策論に終始する。国家にとって、財政は土木・軍事の財源であって、国家を存続させるためには必須のものである。よって国家の運営者は財源を確保するために厳しく素早く徴税を行わなければならない、と考えるようになる。それは、地位から来る責任感のなせるわざであり、上に立つ人間の情というものであろう。だが、ここで彼らは一歩踏みとどまって反省しなければならない。国家を存続させるのは民のためであり、義が先にあって利はその後を追わさせなければならない。法の執行ばかりに熱心な小役人のことを、「法匪」と呼ぶ。伝十章が最後に力説することは、大道を忘れて法匪となるな、ということであろう。それは、これから国家を運営する道に入ろうとする君子たちにとって戒めとすべきことである。まさに『大学』と名付けられた文章の最後にふさわしい。

この『大学』の書は、これから高位に昇って政治を行おうとする君子たちに向けて、きわめて実用的な目的をもって書かれた一種のマニュアル本でなかったかという印象すら受ける。総論(朱子のいう「経」)は修身と統治をリンケージさせた理念を説き、各論(同じく「伝」)においては修身から始めて天下国家の統治術までを、扇を拡げるように展開していく。儒家思想が修身と統治の要点を簡潔に書き記すことに成功した古典だからこそ、朱子学は衰えても『大学』は現代的価値を今でも保ち続けることができるだろう、と私は結論したい。

以上で、朱子注を含んだ大学章句の全訳は完了である。

今後は、『大学』を読んだわが国江戸時代の儒者たちの見解を読んでみたいと思う。彼らの見解を追うことによって、わが国でこの書がいかに受け止められていったかを追い、それを通じてわが国の儒者の政治思想の移り変わりを追うことができるかもしれない、と思うところである。

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