中庸或問跋・第一章中段一 ~道也者から慎独までの解釈~

投稿者: | 2023年4月17日

『中庸或問』跋・第一章中段一~道也者から慎独までの解釈~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
或(あるひと)問う、旣に曰く、道は、須臾も離る可からず、離る可きは道に非ず、是の故に君子は其の睹ざる所に戒愼し、其の聞かざる所に恐懼す、而(しこう)して又隱るるより見(あらわ)るは莫く微より顯わなるは莫し、故に君子は其の獨を愼むと曰うは何ぞや。
曰、此れ性に率うの道を論ずるに因りて、以て敎に由りて、入る者、其の始の當に此の如くなるべきことを明す、蓋し兩事なり、其の先ず道は離る可からずと言いて、而して君子必ず其の睹ざる聞かざる所に戒愼恐懼す者は、道の在らずという所無く時として然らずということ無きことを言う所以なり、學者當に須臾毫忽の謹まずということ無くして周く之を防ぎて、以て其の本然の體を全うすべし、又隱るるより見るは莫く微より顯わなるは莫し、而して君子は必ず其の獨を愼むと言う者は、隱微の間、人の見ざる所にして、己れ獨り之を知るときは、則ち其の事の纖悉(せんしつ)(注1)顯著ならずということ無くして、又他人の知るより甚だしき者有ることを言う所以なり、學者尤も當に其の念の方に萌すに随いて察を致して、其の善惡の幾(き)(注2)を謹むべし、蓋し所謂道は、性に率うのみ、性は有らずということ無し、故に道在らずということ無し、大にして父子君臣、小にして動靜食息、人力の爲(わざ)を假らずして、各當然不易の理有らずということ莫し、所謂道なり、是れ乃ち天下人物の共に由る所天地に充塞し古今に貫徹す、而して諸至近に取るときは、則ち常に吾が一心に外ならず、之に循うときは則ち治なり、之を失うときは則ち亂る、蓋し須臾の項(あいだ)も得て暫く離る可きこと無し、若し其れ以て暫く合い暫く離る可くして事に於て損益する所無きときは、則ち是れ人力私智の爲する所の者にして、性に率うの謂に非ず、聖人の修めて以て敎を爲る所の者は、其の離る可からざる者に因りて之を品節するなり、君子の由りて以て學を爲る所の者は、其の離る可からざる者に因りて之を守するなり、是を以て日用の間、須臾の項、持守の工夫、一も至らざること有るは、則ち所謂離る可からずという者、未だ嘗て我に在らずんばあらずと雖も、而も人欲之を間(へだ)つるときは、則ち亦判然として二物にして相管せず、是れ則ち人の形有りと雖も、而も其の禽獸に違(ことな)ること何ぞ遠からんや、是を以て君子は其の目の見るに及ばざる所に戒愼し、其の耳の聞くに及ばざる所に恐懼して、心目の間に瞭然として、常に其の離る可からざる者を見るが若きにして、敢て須臾の間も以て人欲の私に流れて禽獸の域に陷ること有らず、書の怨を防ぐことを言いて見(あら)われざるを是れ圖ると曰い(注3)、禮の親に事うることを言いて聲無き聽き形無きに視ると曰うが若き(注4)、蓋し其の色に徴(あらわ)れ聲に發することを待たずして、然して以て其の力を用いること有り、夫れ旣已(すで)に此の如きときは、則ち又以て謂う道固(まこと)に在らずという所無し、而して幽隱の間は、乃ち他人の見ざる所にして己(おのれ)獨り見る所、道固に時として然らずということ無し、而して細微の事は、乃ち他人の聞かざる所にして己獨り聞く所、是れ皆常情の忽(ゆるがせ)にして以て以て天を欺き人を罔(なみ)す可きと爲して必ずしも謹まざる所の者なり、而して知らず吾が心の靈、皎として日月の如くなることを、旣已に之を知れば、則ち其の毫髪の間潜遁する所無きこと、又他人の知るより甚だしきこと有り、又況や旣に是の心有りて藏伏すること久しきは、則ち其の聲音容貌の間に見われ、行事施爲の實に發する、必ず暴著して揜(おお)う可からざる者有り、又念慮の差(たが)いのみに止まらず、是を以て君子は旣に耳目の及ばざる所に戒懼するときは、則ち此の心常に明にして物の爲に蔽われず、而して此に於て尤も敢て其の謹を致さずんばあらず、必ず其の幾微の際をして一毫人欲の萌し無くして義理の發に純ならしむるときは、則ち下學の功善を盡し美を全うして、須臾の間(ひま)無し、二の者相須(もち)い皆躬に反し、己が爲にし人欲を遏(とど)め天理を存するの實事、蓋し道に體するの功、此より先なる者有ること莫く、亦此より切なる者有ること莫し、故に子思此に於て首に以て言を爲して以て君子の學は必ず此れ由(よ)りして入ることを見す。
曰、諸家の説、皆睹ざるに戒愼し、聞かざるに恐懼するを以て、即ち獨を謹むの意を爲す、子は乃ち之を分けて以て兩事と爲す、無乃(むしろ)(注5)破碎支離の甚だしきか。
曰、旣に道は離る可からずと言うときは、則ち是れ適くとして在らずということ無し、而して又隱より見るは莫く微より顯わなるは莫しと言うときは、則ち是れ要切の處、尤も隱微に在り、旣に睹ざるを戒謹し、聞かざるを恐懼すと言うときは、則ち是れ處るとして謹まずということ無し、又獨を謹むと言うときは、則ち是れ其の謹む所の者、尤も獨に在り、是れ固に異ならざることを容(ゆる)さず(注6)、若し其れ同じく一事と爲すときは、則ち其の言を爲すこと又何ぞ必ずしも是の若くの重複せんや、且つ此の書卒(おわ)りの章潜(ひそ)みて伏せりと雖も、屋漏にも愧じず(注7)、亦兩(ふた)つところに之言う、正に此れと相首尾す、但だ諸家皆之を察せず、獨り程子嘗て屋漏にも愧じざると、獨を謹む與(と)は、是れ持養の氣象というの言(こと)有り、其の二の者の間に於て、特に與(と)の字を加う、是れ固に已に分けて兩事と爲す、而して當時聴く者未だ察せざること有るのみ。
曰、子又安んぞ睹ざる聞かざるが獨爲らざることを知らんや。
曰、其の睹ざる聞かざる所の者は、己が睹ざる聞かざる所なり、故に上に道は離る可からずと言いて、下に君子は其の平常の處自(よ)り、其の戒懼を用いずという所無きことを言いて、極めて之を言いて以て此に至る、獨は人の睹ざる聞かざる所なり、故に上に隱より見わる莫く微より顯なるは莫しと言いて、下に君子の謹む所の者は、尤も此の幽隱の地に在ることを言う、是れ其の語勢自ら相唱和し、各血脈有りて理甚だ分明なり、是の兩條は、皆獨を謹むの意と爲すと曰うときは、則ち是れ持守の功、平常の處に施す所無くして專ら幽隱の間に在り、且つ破碎の譏を免ると雖も、而も其の繁複偏滯して當る所無きこと亦甚し。


(注1)纖悉は、こまごまとくわしいこと。
(注2)四書大全の注に平聲。きざし。
(注3)偽古文尚書、五子之歌篇「一人三たび失せば、怨豈に明のみに在らんや。見われざるをも是れ圖る」より。偽篇である。
(注4)礼記曲礼篇「凡そ人の子爲る者は、居るときは奥に主たらず、坐るときに席に中せざる、、聲無きに聽き形無きに視る」より。
(注5)無乃は、カエッテ・・デハアルマイカの反語。出典はムシロと訓じている。
(注6)出典に併記される読み下し、「異ならずんばある容(べ)からず」。
(注7)中庸章句、第三十三章本文「潜みて伏すると雖も、亦孔(はなは)だ昭なり」「爾の室に在るを見るに、尚(ねが)わくは屋漏に愧じざれ」。
《要約》

  • 「道は、須臾も離る可からず、離る可きは道に非ず、是の故に君子は其の睹ざる所に戒愼し、其の聞かざる所に恐懼す」「隱るるより見(あらわ)るは莫く微より顯わなるは莫し、故に君子は其の獨を愼む」の二語についての朱子の解釈。前者は、道とはすなわち性に率(したが)うことであり、人力私智でこれから離れることは一瞬たりともできないことを説くのである。ゆえに聖人はこれを教えたのであり、学ぶ者は人欲の私に流れて禽獣の域に陥らないように、見るに及ばざる所聞くに及ばざる所を常に戒まなければならない、ということである。後者は、以上のことが人が見ておらず独り知るときにもっとも顕著になるということである。感覚に表面化してくる前の幽隠細微の地点において謹めば、我が心の霊は日月のように輝く。そうなれば実際に感情行動となって表面化したとき、心常に明にして物のために蔽われなくなるであろう。(いわば前者は、性道教の原理。後者は、性道教の実践方法。)
  • さきの二言は意味を連続させて読むのが通説であるが、朱子は二つに分解した。その理由を問われて朱子は、「両者は異なることを言っている。同じ意味であれば、ここまで重ねて言うであろうか。中庸末章(章句三十三章)に両語に相当する二つの詩句が併置されていること、また程子が残した言葉の真意、これらは両者が別であることの証拠となるだろう」と答えた。

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