中庸或問跋・第一章後段二 ~朱子の論の矛盾、なぜ聖賢がいても天災戦乱が起るのか~

投稿者: | 2023年4月21日

『中庸或問』跋・第一章後段一~朱子の論の矛盾、なぜ聖賢がいても天災戦乱が起るのか~

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『四書集注大全』(明胡廣等奉敕撰、鵜飼信之點、附江村宗□撰、秋田屋平左衞門刊、萬治二年)より作成。
〇各ページの副題は、内容に応じてサイト作成者が追加した。
〇読み下しの句読点は、各問答の中途は読点、末尾は句点で統一した。
〇送り仮名は、原文から現代日本語に合わせて一部を変更し、かつ新かなづかいに変えた。
《読み下し》
曰、天地位し、萬物育す、諸家皆其の理を以て言う、子獨り其の事を以て論ず、然らば則ち古(いにしえ)自(よ)り衰亂の世、所以の中和に病める者多し、天地の位、萬物の育、豈に是を以て其の常を失わんや。
曰、三辰(さんしん)(注1)行を失い、山崩れ川竭(つ)くれば、則ち必ずしも天翻えり地覆りて然して後に位あらずと爲せず、兵亂凶荒、胎殰卵殈(たいとくらんけき)(注2)すれば、則ち必ずしも人消え物盡きて、然して後に育せずと爲せず、凡そ此の若き者、豈に不中不和の致す所に非ずや、而して又安んぞ誣(し)う可けんや、今事を以て言う者、固に以爲(おも)えらく是の理有りて而して後是の事有り、彼の理を以て言う者も、亦以て是の事無くして徒に是の理有りと爲るに非ず、但だ其の言の備わらざる、以て後學の疑を啓くこと有り、直に事を以て言いて理其の中に在るが盡(ことごと)しと爲(す)るに若かざるのみ。
曰、然らば則ち其の不位不育の時に當りて、豈に聖賢其の世に生くること無しや、而して其の夫の中和を致す所以の者、乃ち以て其の一二を救う有ること能わざるは、何ぞや。
曰、善惡感通の理、亦其の力の至る所に及びて止むのみ、彼の達して上に在る者、旣に以て之を病めること有り(注3)と曰うときは、則ち夫の災異の變、又豈に窮まりて下に在る者能く救う所ならんや、但だ能く中和を一身に致せば、則ち天下亂ると雖も而も吾が身の天地萬物安泰なりと爲すことを害せず(注4)、其の能くせざる者は、天下治まると雖も、而も吾が身の天地萬物乖錯すと爲ることを害せず(注5)、其の間一家一國皆然らずということ莫し、此れ又知らずんばある可からざるのみ。
曰、二の者の實事爲(た)ること可なり、而して中と和とを分かちて以て屬せば、將に又破碎の甚だしと爲ざるや。
曰、世固に未だ能く中を致して和に足らざる者有らず、亦未だ能く和を致して中に本づかざる者有らず、未だ天地已に位して萬物育せざる者有らず、未だ天地位せずして萬物自ら育する者有らず、特に其の效に據りて其の然る所以を推し本づければ、則ち各從いて來る所有りて紊(みだ)る可からざるのみ。


(注1)三辰は、日・月・星のこと。
(注2)礼記楽記篇「胎生の者殰(やぶ)れず、卵生の者殈(か)けず」より。原文は礼楽の効能を述べた箇所で、礼楽は天地欣合、陰陽相得て万物を育て、胎生の生物は子宮が殰(やぶ)れることがなく、卵生の生物は卵が殈(か)けることがない。その逆が起こること。
(注3)論語雍也篇「子貢が曰く、如(も)し能く博く民に施して能く衆を濟(すく)わば、如何。仁と謂うべきか。子の曰わく、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯舜も其れ猶お諸を病めり」の句を想定しているのであろう。
(注4)四書大全に、「春秋戰國の時の孔孟是なり」と注す。
(注5)四書大全に、「唐虞の四凶、有周の管蔡是なり」と注す。四凶とは堯帝の時代の四人の悪人、共工・讙兜・三苗・鯀。管蔡とは周公の弟管叔・蔡叔のことで、周王室に対して反乱を起こした。
《要約》

  • 「天地位し、萬物育す」について他の論者はこれは理について言っていると解しているのに、朱子は事(事象、事実)を述べていると解している。いにしえ以来の衰乱の時代には、さぞかし中和に問題があった人が多かったのであろう。だからといってそのことによって天地の位、萬物の育が果たして常態を失ったであろうか。そう問われて朱子は、「天体の運行が乱れ、山河が崩れ、兵乱が起こり凶作が起こり、動物が子を産まなくなる(という不祥事はよく起こることであり、これらは人心の不中不和とおそらく相関があるであろうが、さりとて)不中不和の結果として天地がひっくり返ったり人跡絶えて万物消滅したりしたわけではない。そんな破滅が起こらなかったから中和の説は誤りだ、と言うことはできないだろう。この言葉は、理があるゆえに事が起こるという一般原則を言っているのである。理であると解する人々もまた、理と事は無関係であると言っているのではない。すべての事に理が備わっているのであると言うのは、後学の疑いを解く目的で言うのである」と答えた。
  • 不位不育の時代にあっても聖賢はいたはずである。彼らが中和をなすことを通じて、惨禍のひとつふたつでも和らげることはできなかったのか。そう問われて朱子は、「善悪感通の理には、届く限度がある。(堯舜のごとく)達して上位にある者ですら病むことがあった、というときには、もはや災異の変が激しすぎて下の者を十分に救うことができなかったのだ。しかし天下争乱のときにあっても、我が身の中に備わる天地万物は安泰とすることはできる(例:孔子・孟子)。また天下治世のときにあっても、我が身の中に備わる天地万物から離れ乱れる者はいるのである(例:堯帝時代の四凶、周公時代の管叔蔡叔)。一国一家の中でも治まったり乱れたりする例外は、必ずいるのである」と答えた。(以上、朱子学はその世界観により天人相関説を擁護せざるをえない。荀子の「天人の分」説は取られない。朱子は、人間世界の治乱が各時代の聖賢の存在と相関していないという歴史的事実について、なんとか釈明をする必要があったことであろう。その弁明の結果が、マクロコスモスの世界は戦乱にあり不位不育であっても、ミクロコスモスの個人の心身は乱されず中和できる、その逆もしかり、ということであった。朱子学の物我一理の原理を用いて説明したといえる。だがこの説明では、どうして世界が治世の時代から頽落して戦乱の時代に向かうのか、どうして各時代の聖賢によって治世が継続されないのか、という問いに対して返答できていない。)

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