大学章句:経(2)-三綱領-

投稿者: | 2016年10月19日
太字は、『礼記』大学篇の原文を示す。
細字は、『礼記』大学篇に朱子が付け加えた書き下ろし文を示す。
小さな茶字は、朱子が書き下ろした注解を示す。
《読み下し》
大學(だいがく)の道は、明德(めいとく)を明(あきら)かにするに在り、民を親(あらた)にするに在り、至善(しぜん)に止まるに在り。

程子曰く、親は當(まさ)に新に作るべし、と。
〇大學とは、大人の學なり。明は之を明かにするなり。明德とは、人の天より得る所にして、虛靈(きょれい)不昧(ふまい)、以て衆理を具(そな)えて、萬事に應(おう)ずる者なり。但(ただ)、氣稟(きひん)の拘(こう)する所、人欲の蔽(おお)う所と爲(な)らば、則ち時有りて昏(くら)し。然れども其の本體(ほんたい)の明は、則ち未(いま)だ嘗(かつ)て息(や)まざる者有り。故に學者(がくしゃ)當(まさ)に其の發する所に因りて、遂に之を明かにし、以て其の初に復(かえ)るべきなり。新とは其の舊(ふる)きを革(あらた)むるの謂(いい)なり。言うは既に自ら其の明德を明かにすれば、又當(まさ)に推して以て人に及ぼし、之をして亦(また)有以て其の舊染(きゅうせん)の汚(お)を去らしむべし、となり。止とは必ず是(ここ)に至りて遷(うつ)らざるの意。至善は則ち事理の當然(とうぜん)の極なり。言うは明德を明かにすると民を新(あらた)にするとは、皆當(まさ)に至善の地に止まりて遷らざるべし、蓋し必ず其の以て夫(か)の天理の極を盡(つ)くす有りて、一毫(いちごう)も人欲の私無し、となり。此の三者は大學の綱領なり。

《用語》
大學朱子は、いにしえの時代にあった大学校のことと解する。朱子の解釈と古い解釈との差は、経(1)参照。
民を親(あらた)にする原文「親民」。朱子は、子程子(二程子。ここでは弟の程伊川の主張)が「親」を「新」と読むべきという主張に賛同する。王陽明は程・朱に反対し、原文から字を改めない。この場合「民に親(したし)む」と読み下す。下コメント参照。
大人(たいじん)『孟子』では「大人(たいじん」はほぼ聖人と同義の言葉として表れる。だがここでは小学を卒業した成人した子弟のことを指していると思われる。
氣稟「気質の稟」のこと。序(1)参照。
明德・事理の當然の極・天理いずれも、朱子学の用語。朱子学は、すべての物と人間には理が内在していると考えて、その理に沿うことがすべての存在の本来のあり方であると考える。人間の中にある理が明徳であり、また(本然の)「性」である。序(1)の用語「仁・義・礼・智の善なる性」を参照。西洋思想における「自然法」の概念と類比させることができるだろうか。
《現代語訳》
「大学」が教える道は、三つの綱領から成る。まず第一に、人が天から与えられた輝かしい徳を、磨いて明らかにすることを目指す。第二に、天下の人々を目覚めさせて新たにすることを目指す。第三に、至善すなわち一度至ればもはやそこから移る必要がない、万物と人間の真理に到達することを目指す。

子程子が言った、「『親』字は『新』字に読み替えるべきだ」と。
〇「大学(だいがく)」とは、大人(たいじん。成人)のための学問である。「明」とは、明らかにすることである。「明徳(めいとく)」とは、人が天から得るところの、虚霊不昧(きょれいふまい。霊妙であってなんの陰りもないこと)な、あらゆる理を備えて、万事に応ずることができる、万人が本来持てる完全無欠の輝かしい徳のことである。だが、人はそれぞれが持つ気質の稟(ひん)にとらわれて、私欲が心をおおってしまうならば、時に心は暗闇に陥ってしまう。だがしかし、そんな時でも人の本体である明徳は、決してなくなったりはしていないのである。だから志して学ぶ者は、己の持てる明徳を発揮させることによって、ついにこれを磨いて明らかにして、己の本初の完全なる姿に復帰しなければならないのだ。(子程子は「親」字を「新」字と読み、私はそれに賛同する。その)「新」とは、古きものを改めることを言うのである。言いたいことは、すでにいま己が明徳を明らかにしたならばそこで留まってはならず、それをさらに推し広げて他人にも及ぼして、彼らが古い悪習から去るように促さなければならない、ということである。「止」とは、必ずここに至ってもはや移らない、という意味である。「至善(しぜん)」とは、世界に当然存在している究極の事理(じり。ものごとの道理)のことである。以上において言いたいことは、「明徳を明らかにする」ということと「民を新にする」ということの両者は、いずれも「至善」の地点に止まってそこから移ることなどできないということであり、必ず天理(天から与えられた道理。明徳と同じ)の究極を尽してほんのわずかも私欲をはさまないとうことである。これら「明徳(めいとく)を明(あきら)かにする」「民を新(あらた)にする」「至善(しぜん)に止まる」の三者が、大学の綱領である。
《原文》
大學之道、在明明德、在親民、在止於至善。

程子曰、親當作新。
〇大學者、大人之學也。明明之也。明德者、人之所得乎天、而虛靈不昧、以具衆理、而應萬事者也。但爲氣稟所拘、人欲所蔽、則有時而昏。然其本體之明、則有未嘗息者。故學者當因其所發、而遂明之、以復其初也。新者、革其舊之謂也。言既自明其明德、又當推以及人、使之亦有以去其舊染之汚也。止者、必至於是而不遷之意。至善則事理當然之極也。言明明德新民、皆當止於至善之地而不遷、蓋必其有以盡夫天理之極、而無一毫人欲之私也。此三者大學之綱領也。

まず、いわゆる「三綱領」への朱子の注釈から始まる。
本サイトは、あまり朱子学の詳細に分け入って説明したくないし、私もまたそこまで朱子学を究めた人間でないので能力がない。なので、一般的に論議されている点を取り上げ、加えて私の意見を交えてコメントしたいと思う。

上の現代語訳は、朱子注に従って行った。朱子は「親」字を二程子の主張に賛同して「新」字に読み替える。そうして、自らの自然論・人間論に従って三綱領を解釈する。朱子はこの大自然の中に理が内在していると考える者であり、また自然の中のミクロコスモスである人間にも理が内在していると考える。それが明徳とよばれるものであり、(本然の)「性」とよばれるものである。人間は内在している理=明徳を磨いて明らかにし、その地点に止まってぶれることがない、「至善」の地に至ることを目指さなければならない。その「至善」においては、自分が充足するところでとどまってはおられず、必ずや周囲の民を教化して新(あらた)にするであろう。この三綱領の解釈の中に、朱子は仏教や老荘思想と儒学を分ける点をすでに置いている。儒学は、個人の修養と社会の改善を同時に目指すものである。だが(儒者が批判するところでは、であるが)仏教・老荘思想は己の修養しか目指すところがなく、社会への倫理的責任を持つところがない。なので、理想の社会像も持つところがなく、よりよき社会を作るための政治を目指す者の指針とはなりえない。

ここでの朱子注を読むと、私は荀子の議論と目指すところが似通っているように感じる。荀子と朱子の共通点は、この世界には唯一の正解というべきものが客観的に存在していて、人間と社会の倫理にも正解が客観的に存在していると信じるところにある。言い換えれば、両者はプラトニストである。朱子のプラトニズムは、後に出てくる格物致知(かくぶつちち)の論議で展開される。格物致知の論議は、荀子の解蔽篇の議論と大いに対比させるべき点があると私は考える。だが、朱子は唐代の韓愈から始まった儒学の伝統的見解にとらわれて、荀子を異端として顧みようとしなかった。荀子の精密で合理的な社会思想は朱子学以降の儒学思想において批判的に検討されることすらなく、わが国の荻生徂徠という例外を除けば後世の儒家思想に何の影響も及ぼさなかった。そのことを、私は残念に思う。

「親」字について。朱子は程伊川の主張に従って、これを「新」字と読み替える。なぜならば後出の伝二章の文が「新」字を展開した内容となっていて、そこに「新民を作(おこ)す」の言葉が見える。伝は経の言葉の解説であるはずなので、経の「親」字の真意は「新」字であるにちがいない、という主張である。他の箇所もそうであるが、二程子および朱子はこの『大学』のテキストを「経」=孔子の言葉、「伝」=孔子の言葉への逐語的注釈、という見立てを取って読もうとする。『大学章句』は、「経」と「伝」が逐語的に対応しているテキストとして読もうとするために、この「親」字のように語の解釈を変えたり、あるいは文の前後を入れ替え、さらには欠落があると考えた箇所に朱子が加筆を試みたのである。それは強引な解釈であって、それゆえ朱子の作業は後世に批判を招いた。

王守仁(おうしゅじん。字は伯安。1471-1528)は、明代の儒者で朱子学を批判して、心の善を信頼して実践行動の中で己を磨くべきことを説いた。「心即理」「知行合一」「事上磨練」といったスローガンが後世に著名である。一般的には号を取って王陽明(おうようめい)として知られ、彼の学は陽明学(ようめいがく)と呼ばれる。王陽明もまた『大学』に傾倒してこれを大いに称揚した者であるが、その読み方は朱子『大学章句』とは全く違ったものであった。
『伝習録』は、王陽明の言葉を弟子が編纂した書物である。『伝習録』には、王陽明の『大学章句』への批判と自らの『大学』テキストへの見解が多く収められている。以下は、弟子の徐愛(じょあい)が記録した言葉である。

(『大学』テキストにおいて後出の)「国を治む」や(伝九章)「「天下を平(たいら)かにす」(伝十章)のくだりでは、「新」字に変えたところで何も合点がいくものがない。また「君子は其の賢を賢として其の親を親とし、小人は其の楽(らく)を楽として其の利を利とす」(伝三章)や「赤子を保(やす)んずるが如し」(伝九章)や「民の好む所は之を好み、民の悪(にく)む所は之を悪む、此を之れ民の父母と謂う」(伝十章)のようなくだりは、すべて「親(したし)む」字の意である。「民に親(したし)む」ということは、まさしく孟子の「親(しん)を親しみ、民を仁す」(孟子、盡心章句上)の言葉のようなものだ、、、孔子の「己を修めて以て百姓を安んず」(論語、憲問篇)というような言葉もまた、明徳を明らかにするということだ。すなわち、それは「民に親(したし)む」ということだ。「民に親(したし)む」と説けば、それは民を教化して生活を養うという意味となるだろう。だが「民を新(あらた)にす」と説けば、それは単に民の教化の面だけに偏ってしまうのではないか。
(伝習録巻上より)


現在の学者の主流的意見もほぼ王陽明のものと同様であって、『大学』全体の主張から見れば原文の「親」字をわざわざ変える必要はなく、「民に親(したし)む」の解釈でよい、というものである(たとえば岩波文庫版、新釈漢文大系版)。私は、朱子の読み方は強引であると思うが、「民を新(あらた)にす」の解釈であっても、志して世を正そうとする人への勧めとしては的外れとは決して言えないだろう、と言いたい。

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